第9話

 大胸筋を追い込んだ後は、胸を張りたくなる。いつもより胸が大きくなった気分になるからだ。パンプアップしているから実際に少し張りは増しているのだが。

 心なしか誇らしくジム内を一周する。休憩あがりの挨拶回りだ。

 少し前にスタジオレッスンが始まったせいで、先ほどよりも人は少ない。黙々とトレーニングする人が多かった。

 土曜日は営業時間が短く、すでにクールダウンで有酸素マシンが混み合う。トレッドミルのファンの音がやたらと響いていた。

「ベンチでーす」

 カウンターの方から声が聞こえる。誰かがベンチプレスを始めたので見てくれという合図だ。

「オッケでーす」

 ちょうどフリーウエイトゾーンを通りかかったため、私が監視役を務める。もちろんいの一番に目が行くのは重さだ。

 危険度を測るためだが、負けず嫌いの私はもっと別な感情を抱く。私より重いか軽いか。

 特に同じくらいの体型の人には負けたくないという感情が人一倍強くなる。

 今バーベルを持ち上げてるのは男性。この時点で負けず嫌いは少し薄れる。寝そべっているせいでしっかりと顔は見えないが、靴はかなり大きい。

 だぼだぼなジャーズとTシャツ。フリーウエイトゾーンにのさばる猛者のそれとは明らかに違う。

 決定的なのが重量。ベンチプレス台に置いてあるバーは二〇キロ。そこにリング状の重りをはめていく。

 今付けられている重りは、ゼロだ。

 私のウォーミングアップの重りすら満たしていない。片手でも持ち上げられる。

 誰だ、そんなヘタレなことしてる奴は。監視などいらないじゃないか。と、インストラクター失格なことを思いながらも業務に遵守する。

 だが私が思った以上に安易にやり過ごし良い場面でもなかった。持ち上げるたびにバーは不安定に揺れて、見ているこっちが焦る。なってない。初心者なのが見て取れる。やり終わった瞬間に激しく指導してやろうか。

 自己ベストを更新したせいか、やたらと盛る。指導者心をくすぐる駄目さ加減。思わず興味深々で鏡越しに顔を覗き込んだ。すると、

「あ……」

 私は目の前の光景に思わず釘付けとなった。

 ベンチに寝そべって、バーベルを持ち上げていたのはガリさんだった。一切重りをつけていないただのバー。 胸の張りも足りない。素人丸出し。

 しかしテンポだけはゆっくり、一回一回を確かめるように持ち上げる。だからこそバーも震える。安定もしない。

 息を殺し、必死に存在感を消している。キリの良い一〇回を終えると、申し訳なさそうにゆっくりとバーをラックへかけた。

 ガリさんが起き上がり、大きく息を吐く。その瞬間、目の前で安全確認をしていた私と目が合う。

 集中していたのか、ガリさんはぎょっと目を開いた。今にも逃げ出しそう。

「あ、ガリさん。勝手にやっちゃ駄目じゃないですかーっ」

 私が近づこうとした瞬間、コトカがガリさんへ慌てて駆け寄った。私とガリさんの視線が隔てられる。

「いくら軽いからって危ないですよ。そもそもフォームの確認なんですから一人でやらないでくださいよー」

 コトカは人懐っこく眉尻を下げて、威厳のないお叱りをいれる。ガリさんは黙って頷くだけだが、素直なのは見てとれた。

 背中を丸めて従順な視線だから舎弟にも見える。

「なんか癪だ」

 本当なら私が請け負うと思っていたのに、いつの間にかコトカが世話を焼いている。私の労力など無かったみたいにガリさんの心の敷居を簡単に跨いでみせた。インストラクターとして負けた気分。

「くそう」

 しかし湧き上がってくる感情は高揚。自己ベストを更新した時よりも私の胸が激しく脈打った。

 ガリさんは変わる。

 そんな期待感が溢れて仕方なかった。

 一年間働いて培った経験則。下手くそとか不器用とか効率の良さに大きく関わるが、最後に結果を出す人間は取り組む姿勢が違う。

 ガリさんは残念ながらセンスがない部類に属する。しかしあまりの場違いから注目されそうなフリーウエイトゾーンに自ら足を踏み入れた。

 何がガリさんをそこまで突き動かすのかは分からない。

 コトカがつきっきりで見張り、今度は指示を受けながらベンチプレスの二セット目をこなす。

 疲労が溜まっているのか、軽い負荷でも力んだ吐息がもれる。ゆっくりと確実にこなすと、コトカが満足そうに「良いよー」と煽った。指導者気取りめ。指導者なんだけど。

 悔しさと高揚感が入り混じりながら、私はもう必要のない監視を少しばかり続けた。


 スタジオレッスンが終わり、音楽と人がジム内へ溢れ出る。爽快な表情の会員さんが熱気から解放されて、ジム内のひんやりした空気を味わった。冷水機の前に列をなし、そわそわしている。ガリさんのベンチプレス初挑戦は喧騒に飲み込まれ、ジム内の日常と化した。

「うわ~。疲れた~。すごい汗かいたよ~」

「出部いたの?」

「ひどいよ~。僕だってちゃんと通ってるんだよ~?」

「ガリさんは週五で通ってるけどね」

 出部は「確かに……」と少しショックを受けたらしく、なよっちく唇を尖らせた。私がシャワーを浴びている最中に来館したらしく、その足でエアロビ系のエクササイズに参加した。なんだかんだ出部も週に三回ほど通っているから十分にアクティブ会員と言える。従順なせいかストイックさに欠けるが出部はゆっくりマイペースなくらいが長い目で見るとちょうど良いのかもしれない。実際私のスパルタは畑さんによって止められた。

 今も呑気に両手でペットボトルの水をがぶ飲み干して「ぷは~」と満足げに喉を鳴らしている。

「あれ、ガリさんは何やってるの? あそこってマッチョな人しか入れない場所だよね」

 出部もガリさんの存在に気がつく。

 恐ろしい偏見だがあながち間違いではない。そしてさりげなくガリさんには場違いだとディスっている。

「良いな~。僕も重たいもの持ち上げられるようになりたいな~。そしたらマチちゃんのことお姫さま抱っこできるのに」

「出部にフリーウエイトなんて百年早いし。むしろ私が重いって言いたいの?」

 出部のお腹を摘むと「あうぅ」と情けない声を出して体をくの字に曲げた。エアロビクスのスタジオレッスンを終えたばかりのシャツはぐしょぐしょに濡れており、不快な汗が指にまとわりつく。

 一応出部にお姫さま抱っこをされた想像をしてみる。抱きかかえられたまま視線が合う。出部の顔がシリアスになる。そのまま……。

 頑張って妄想を膨らませてみるが、全くときめかなかった。

「体を締めてから出直してこい。そんなたるんだ腹じゃ乙女の憧れが台無しだ」

 私は出部の腹を小突くと「スタジオレッスンの後は水分補給を~」と啓蒙しながら歩き回った。

 これを機にトレッドミルでランニング中の会員さんにも声がけをする。

 出部はまだ羨ましそうにフリーウエイトゾーンのガリさんを見つめていた。私が「さっさとストレッチしな」と焦らせると「はーい」と後腐れなくストレッチゾーンへと歩いて行く。欲がないと言うか、出部は良くも悪くも私の言いなりだった。

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