第8話
「今日は追い込む」
私は無闇に荒れていた。
ガリさんとコトカが会話しているのを見て、体が疼いて仕方ない。
一時間の休憩にも関わらず私はノースリーブシャツに着替えてフリーウエイトゾーンのマッチョさんたちに混ざった。
ふたつ設置されたベンチプレス台は両方とも埋まっていたが、幸いにも顔見知りの会員さんが快く受け入れてくれた。
職権乱用かもしれないがこういう時にインストラクターは都合が良い。混んでいる時でも輪に入りやすい。
今日のメインは五二、五キロを八回。肩慣らしに三〇キロ、四〇キロをこなす。
アドレナリンが出ているせいか、今日は調子が良い。ウォームアップの時点で上がるかどうかは何となく分かってしまう。
鏡に映る自分を見ると、獲物を狩るみたいに眼が爛々としている。
ごつごつしたダンベルやら太いバーやらが並ぶ場所で女子が呼吸を乱しているのも異様な光景だ。
本来は姿勢やフォームを確認するために設置されているが、マッチョな方々はさりげなく鏡に映る自分の筋肉を見ている。
しかし今はあまり気にならない。休憩中のため時間は少ない。
メインの重量をバーに通し、ベンチに寝そべった。胸を過剰に張って、背中を反らす。えびぞりみたいな状態で足で思い切り地面を踏みしめた。
いち、に……。
バーベルを持ち上げるたびに腹筋が強烈にしまる。ほとんど肩しかシートについていないような姿勢は初めて見る人は異様な体勢に見えるだろう。
浅い呼吸を繰り返し、リズムを一定に保つ。三、四……。
中盤にさしかかり、徐々にテンポが遅くなり、全身の力が抜けていく。
六回目を終える頃には顔を歪め、ものすごいブサイクになっているだろう。七……。
あと一回。いける。この時点で直感が働く。予想通り限界が訪れるタイミングが遅い。ベンチプレスはやる前から何回上がるか大体分かる。
今日は八回。自己記録プラス一回だ。
食いしばった歯の隙間から息がもれる。バーは持ち上げた瞬間、一度静止し、そして再び上へ向かって押し挙げられた。ラックへ雑に下ろし、すぐに起き上がる。
「よし!」
思わず声を荒げる。もう一ヶ月くらいは一回たりと伸びなかった回数がようやく動きだした。
周りのマッチョさんたちも「おお~」と唸っている。ハイタッチを求められ、私が力強く応えた。太く分厚い手が私の手を握りしめる。勤務中にも関わらずどや顔をみせた。
葉花さんの姿もあり、紳士的な佇まいで拍手を贈られる。思わず男らしくガッツポーズをしてしまった。
次の目標は五五、〇キロを六回。十数分前と打って変わって晴れやかな表情の自分が鏡に映った。
その奥に、
「ガリさん?」
鏡越しにこちらへ視線を向ける長細い体躯が見えた。反射的に振り向くと、ガリさんは小動物みたいに視線を反らす。そしてまたそそくさとジム内の奥の方へ行ってしまった。
その光景を眺めると、ジム内の喧騒がやたらと遠くに感じた。
休憩時間は半分を過ぎている。私は一緒にトレーニングをさせてくれたマッチョさんたちへお辞儀をし、控え室へ戻った。
シャンプーで頭を洗う腕が重い。腕にはほとんど力が入らず、小鹿みたいに震えながら髪を撫でた。
シャワーヘッドから降りしきるぬる湯が気持ち良く、体を滴るのを眺めると何となく気持ちが落ち着いた。
「今日は調子良かったなぁ……」
思い返すと暖かいはずのシャワールームで身震いする。手に残る鉄の感触が興奮を呼びお越した。
フリーウエイトの醍醐味のひとつに数字がある。分かりやすく結果を突きつけられるせいか、トレーニングをしていないと落ち着かないほどだ。
「ガリさんはジムに通って何が欲しいんだろう」
行き着くのはそこ。お金を払ってるんだ。何かしらの対価を得たいのは当然。痩せたい。モテたい。強くなりたい。様々だ。私だってそう。
筋繊維がぶちぶちと切れて、力の入らない今を越えると、より全身がキレてるのが実感できる。
私は私に夢中だった。
「あー、だから振られたのか」
シャワーが額から頬へ止めどなく伝う。
蛇口を捻ってお湯を止めると、後ろにかけてあるバスタオルで乱雑に髪の毛を拭く。こんな時に短めの髪は扱いやすい。
まだ全身にトレーニングの熱が帯びており、すでに汗がじわりと滲む。
「させと、後半も気合入れて仕事しよう」
まだ湿り気の多い髪へドライヤーの熱を当てる。ファンデくらいは塗りたかったが、トレーニングを優先した結果が、すっぴんの今を物語る。
もう時間はない。
私はかろうじて髪の毛だけは完全に乾かし、ユニフォームに袖を通した。
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