第7話
ガリさんはもういなかった。
代わりに大学の講義を終えた出部が出っ張った腹を曲げながらストレッチをしている。こちらに気がつくと「あ、マチちゃ~ん」と気兼ねなく手を振ってくるが、業務中の身からするといささか反応に困る。
素っ気なく手を持ち上げて応える。よくよく考えると出部への反応は元からこんなものかもしれない。
ストレッチを終えた出部はウォーキングで体を温めてから筋トレを開始する。入会して二週間が経った今でも椅子や重りの設定を丁寧に確認する。
動作もゆっくりで軽い負荷ならフォームもだいぶ安定してきた。手応えがないほどとにかく素直。時たま従順な犬にすら見える。
いつも楽しそうにトレーニングをする姿は純粋にジムに馴染んでいた。良い傾向だ。
午後七時からは館内も混み合い、順番を待つことも多い。
出部に付きっきりになることはできないが、常に目を光らせる。さぼってはいないか。
「ベンチ補助入りまーす」
バーベルやダンベルを扱うフリーウエイトゾーンも盛況。時には複数人で一緒に利用することもある。今はちょうど
トレーニング経験者と聞いていたが、かなりの本格派。混み合っていると引け目を感じ、利用を諦める人もいる中で、堂々としていた。
むしろフリーウエイトの
有酸素運動系のマシンもフル稼働で、コンベアが回転する音がいくつも重なる。かなり声を張らなければ会話も難しい。
ふたつのスタジオも常に何かしらのエクササイズをしている。午後二三時まで営業しているヨミカキで最も忙しい時間に私は入ることが多かった。
本来であればじっくりと指導したいが、なかなかそうもいかない。ましてや出部は人を押しのけられるほど尖っていない。
思い通りにトレーニングを進められないこともあった。
こういう時は畑さんのざっくりした指導が羨ましい。回転率を重視するのも必要なスキルだ。
いつしかガリさんの指導方針への思考も薄れ、目の前の忙しさに没入する。
翌日、出勤時間より少し早めに着くと、総合受け付け前のショップにガリさんがいた。
「こんにちは、今日も精が出ますね」
何気なく話しかけると、ガリさんは目を泳がせた後、軽く会釈をしてそそくさと離れていった。しまった。
私が話しかけると逃げるのを思い出す。
「うーむ、幸先が良くない」
昨日はフォーム修正に息巻いていたが、こんなことではジム内でも逃げられるだろう。
私はガリさんが立っていたウエアの棚とは反対通路のプロテイン(プレーン味)を取ると、受け付けに持っていき、社員価格で購入した。
「マチ、今日は受付からね」
せっかく購入したプロテイン(植物性)を摂取してからジムに入ったのに、私はカウンターの前に立っていた。
ジムに入ってくる人や帰る人へ挨拶をするのが主な仕事。後はスタジオレッスンやスカッシュの予約。
スカッシュはオリンピックの正式種目に落選したものの、候補として注目を浴びた。メディアに取り上げられるようになってからやり始める人が急増。
正式種目になっていたらもっと人気になっただろう。そしてショップ売り上げも倍増。私の給料もうなぎ上り。
なんてことになれば良いなと当時は妄想を膨らませた。
土曜日ということもあり、昼間からジム内は混んでいる。今日はコトカとシフトが被っており、なんとなく気分が上がる。
「じゃあ行ってくるね」
コトカはハーフパンツから覗く健康的な太ももを前へ運び、軽やかに歩き出した。ひとつに結いだロングヘアが歩くたびに揺れる。元気という言葉がコトカには当てはまった。
ジム内に飛び出すや否や「水分補給はこまめに行ってくださーいっ」と張りのある声を響かせる。
私にはない能力だ。どこにいるかすぐに分かる。さっそく常連の会員さんとトレーニングそっちのけで会話を楽しんでいた。
ジム内を歩き回るコトカに視線を傾けると、フリーウエイトゾーンを見つめるガリさんが視界に映る。
距離があるからこちらには気づいていない。なで肩でぼんやりと立ちつく姿はショーウィンドウのマネキンモデルを見つめる女子。
がっつりトレーニングに興味があるのだろうか。
聞いてみたい。
しかし話しかけたらきっとまた逃げられるのが落ち。にっちもさっちもいかない。良いアイディアが浮かばず唸っていると、コトカがガリさんへ近寄っていくのが見えた。
「コトカもまだまだリサーチ不足だな。ガリさんの行動パターンが分かっていない」
ガリさんは人に指示されたり指摘されるのを嫌うタイプ。ましてや気さくに話しかけると壁作る。
会員さんの特性を知るのも仕事の一環である身として、情報量の多い少ないは優越感を味あわせる。
などと勝ち誇っていたら、ガリさんは意外にもコトカの話しかけに応じていた。相変わらず笑ったりはしないものの、照れたように顔を背けたり、苦笑するなどの反応を見せる。
「なぜだ……」
意味もなく勝ち誇っていた優越感が音を立てて崩れる。浮気現場を目撃した気分だ。
ガリさん。早く逃げろ。君は人見知りのシャイボーイなんだ。コミュ力の高い女に騙されてはいけない。
胸中で同期をけなすも、会話は続いていた。何を話しているのか無性に気になる。
「すみません。バディコンバットの予約したいんですけど」
受け付け業務そっちのけで二人の動向を伺っていた思考が中断される。慌てて台帳を取り出して、ペンを差し出す。
他にもスカッシュの予約を入れたい方などで受け付けが賑わってきたが、私は手際よく場を回しつつ、視線は相変わらずコトカとガリさんへ向けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます