第5話

「戻りまーす」

 今日一番の発声。一秒でも早くあいつのところへたどり着きたかった。

「今頃ヒーヒー言ってるかも」

 ヒーヒー言ってるのは私の方。わずか数十メートルだというのに呼吸が乱れる。

 ジム内にはこれから始まるエクササイズため、Jポップをテクノにアレンジした曲が流れていた。

 コトカが「まもなく脂肪燃焼に効果的なエクササイズを開始しまーす」とスタジオ前で声を張り上げる。スタジオレッスン前の独特な騒がしさ。

 スタジオに流れていく人波を早足ですり抜けて、一番奥にあるランニングゾーンへと向かった。

 今頃ペースを保てず、リタイアしているかもしれない。罪悪感と焦燥感が胸を締め付ける。

 しかしようやく辿りついたランニングゾーンの光景は、私が思っていたものとは少し違っていた。

「まだやってる……」

 私なんかよりもずっと荒い呼吸で、それでもペースを乱さずに走り続ける出部の姿があった。

 眉根を寄せ、苦しさに耐えるように目を瞑っている。よろけて躓きそうになる。本来であれば襟元につけた安全ピンが外れるとマシンは自動的に止まるのだが、出部は決して遅れをとらない。

 早く速度を下げないと、さすがにもう限界。畑さんにも言われた。無理な運動は怪我に繋がる。そもそも筋トレの時点ですでにオーバーワーク。

「出部っ」

 横から回りこもうとした際に、タイマー表示が視界に端に映る。表示は残り五分を切っていた。

 出部はすぐ横にいる私へ一瞥もくれずに走り続ける。口が半開きになり、顎も上がっている。

 端から見ても限界なのは明らか。しかし私はこのまま無理を承知でやらせてやりたい。そう思った。指導者として失格な発想だが、この集中を切らすのがもったいなかった。

 これに耐えれば理想的な体格に大きく近づく。などというよこしまな考えは浮かんでこない。ただ純粋に「頑張れ出部」と応援したくなる。

 と、思った矢先だった。

 足がもつれて転倒しかける。あんなに継続させたかったマシンの電源ボタンを反射的に押してしまった。

「はぁはぁ……」

 出部はかろうじて転倒はせず、サイドバーを掴んで、どうにか自分の足で立っていた。止まった瞬間に先ほどよりも呼吸が荒くなる。

 ゆっくりで良いから歩く。

 吸って吐いて。

 ちょっとで良いから水分とって。

 指導者として本来かけるはずの言葉が出てこない。

 コンベアーの上で膝に手をつく出部を見守るので精一杯。

「……出部」

「あ、マチちゃん……。あと三分だったのに。駄目だったよ」

 出部は苦痛に表情を浮かべながらも、目尻にしわを寄せてはにかんだ。胸のあたりがちくりと痛む。

「出部のくせに頑張りすぎ」

「マチちゃんに相応しい彼氏になりたいからさ……。嫌でしょ。デブの彼氏なんて格好悪くて」

「そんなこと」

 嫌。デブの彼氏なんて。それは変わらない。

「このメニューをちゃんとこなせば三ヶ月で痩せられる。だってマチちゃんが作ってくれたメニューだもん」

 出部がハーフパンツのポケットからしわくちゃな紙切れを一枚取り出す。私が組んだメニューを箇条書きしたものだ。

 汗で印字がにじみ、すでに使いものにならなくなっている。私からすれば何千といる会員のひとり。もう何百枚書いたか分からない。出部にとってはたかだか紙切れ一枚でも、ここで何をすべきかの指針となる。

 私が示してあげるべく指針。

「出部」

「なに? あ」

 私はしわくちゃになったメニュー表を握りつぶした。

「焦らなくて良いから。もう一回、私に作り直させて」

「でも……」

「良いから」

 理不尽に睨み付けると、出部はまた人懐っこい笑みを浮かべた。ようやく膝についた手を離して体を起こすと、よろけてコンベアを踏み外す。

 もうほとんど脳に血が回っていなかったのだろう。立ちくらみの症状。私はドリンクフォルダーからペットボトルを取り、出部へ渡した。

 出部は「ありがとう」と言いながらキャップを外そうとするが、力が入らないらしく上手く開けられない。

 したかなしに私が開けると「マチちゃんは頼りになるな~」と気の抜けた声を出した。一貫した出部節でべぶし

 妙な敗北感にさいなまれる。

「今日はもう終わり。ストレッチ手伝ってあげるから上だけ着替えおいで」

「あ、ごめん。シャツの替えないや」

 川に落ちたみたいなぐしょぐしょのシャツの袖を掴むと、皮膚にくっついてぴちりと音を立てた。

 さすがにこのまま補助をするのは周りの目が気になる。

「じゃあ風邪ひかないようお風呂にゆっくり入っておいで。更衣室の奥に大浴場あるから」

 出部は「はーい」と返事をし、ゆっくりだがしっかりとした足取りで出口へ向かった。後ろからでも分かる脂肪を蓄えた丸い背中は、やっぱりデブとしか言いようがない。

 しかし今太っていることは悪いわけではない。これから太り続けることの方がよほど問題。

「だからってこれは良くないか」

 握りしめたしわくちゃのメニュー表を見つめる。

 このメニューは私のために作られた。そんなものは出部にはいらない。

 コトカの「脂肪燃焼ボクササイズはじめまーす!」という最後のアナウンスが終わり、スタジオが締め切られる。

 大音量のテクノ音楽は重低音だけがスタジオから漏れ、また静かなジム内の雰囲気が戻ってきた。

「もっとしっかり仕事しないと」

 大きく息を吐き、周りを見渡す。まずはどんな人がどんなトレーニングをしているか。正しいフォームなのか。常連さんなのか、入りたての人なのか。私にとっては身を引き締める良い機会。と思った矢先、

 ガシャン。と、平穏なジム内に鉄同士を打ち付ける物騒な物音が響き渡る。トレーニングに集中していた会員さんも一斉に音の方へ目を向けるが、音は鳴り止まない。

「誰だ。乱暴にマシンを扱ってる人は」

 雑な使い方は使用者本人の怪我にもつながる。何より他の会員さんが気が散って集中できない。ここは私が注意する。

 と、勇み足で音の鳴る方へ向かうと、出部と同じ時期に入会した細身の男性。ガリさんが力任せににチェストプレスを繰り返していた。

 私の指導など無かったかのような雑なフォーム。また私の仕事をひとつ否定する人物が現れた。

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