第4話

 出部はげっそりと悲壮的な顔をした。

「マチちゃん……。僕、死んじゃうかも」

 はじめて運動教室の翌日、意気揚々とジムに訪れた出部。今は私が組んだトレーニングメニューをこなしている真っ最中だ。

 脚を鍛える『レッグプレス』に座り、背もたれに寄りかかっていた。

「足の力を抜かない。大丈夫、ちゃんと死ぬ手前ぎりぎりでやっていくから」

 レッグプレスは大腿四頭筋ふとももを主に鍛えるマシン。体の中で最も大きな筋肉。痩せるためにはカロリーの消費が不可欠だが、筋肉をつけることで基礎代謝があがる。同じ運動をしても消費するカロリーが多ければ効率も良くなる。だからダイエットには筋力トレーニングも必要なのだ。

「ゆっくりやるのきついよぉ……」

 フォームの確認のため、四秒かけて持ち上げて、四秒かけてゆっくり下げる。実は一気に持ち上げるよりはるかにきつい。

「はいインターバル終了。もうワンセットいくよ」

「ふえ~」

 出部が苦悶の表情を浮かべながら足でボードを押し込む。ワイヤーで吊るされた重りがゆっくりと規則正く上下を繰り返す。太い脚が子鹿みたいに震えるが、目標回数をこなすまで止めさせるほど私は優しくない。

 出部はほとんど半泣き状態になるが、むしろここからが本番。

「はいお疲れ。レッグプレスは終了」

 息を切らしながら顎を上げる。弱音も出ないくらい追い込んだ。苦しいかもしれないが結果的には良いトレーニングをしたことになる。

「マチちゃん……これで終わり?」

「うん、終わり」

「やったー」

「筋トレは」

「へ?」

 万歳した両手が挙がったまま硬直した。にわかに信じ難いという表情。

「次は有酸素運動。むしろここからが本番。最大の目的はカロリー消費だから」

「ふえ~」

「じゃあランニング三〇分ね」

 出部はしばらく立ち上がれず、搬送を嫌がる家畜みたいに離れようとしなかった。腕を引っ張るがさしもの私でも持ち上がらない。

 能天気な出部でもこれから起こる苦しみを十分に理解していた。


「それじゃあ時速と傾斜を設定したから。スタートボタンを押して」

 出部がランニングマシンのスタートボタンを押すと、ゆっくりとコンベアが動き出す。始めは歩いていた出部だが、徐々に加速し設定した速度になると、腕を振って駆け足になった。

「二回吸って二回吐く。リズミカルな呼吸を意識して」

 無言で頷く。もう会話をする余裕はないようだ。

 ラニングマシン。通称トレッドミル。脈拍や血圧が計測でき、一台ずつにテレビモニターも完備。

 イヤホンも貸し出しており、室内でも飽きない工夫が施されている。

 テレビ番組のゴールデンタイムの時間帯ともなれば、二〇台あるトレッドミルがフル稼働する。

 今はテレビは付いていない。出部は私に言われた通り呼吸にだけ意識を集中する。

 ランニングが終わったらちょうどコトカのスタジオエクササイズがある。それに参加させたら次は腹筋系の集団エクササイズだ。

 我ながらか完璧な流れだとほくそ笑む。

「ねえマチー。畑マネージャーが呼んでたよ。手が空いたら事務室に来てって」

「あ、うん。分かった」

 出部にほぼ付きっ切りで指導していると、スタジオレッスン前のコトカが私のところへ寄ってきた。

 七部丈のスパッツとタンクトップというかなり露出の激しい衣装。インカムマイクを装着し、早くも準備は整っている。

「これが終わったらコトカにみっちりしごいてもらうから。しっかり燃焼するように」

 サボらないよう釘を刺すと、出部は大きく首を縦に振った。早くも顎が上がり、呼吸もかなり荒い。

 二日目にしては結構な運動量だ。出部もヘタレな声を漏らしまくりだが、苦痛に顔を歪めながらも走り続ける。

 一般会員の人でもここまで追い込むのは珍しい。自分でも手応えのあるコーチング。

 私はトレッドミルの脇から降りると、出部の様子を伺いながらジムを後にした。


「失礼しまーす」

 事務室の扉を開けると、筋骨隆々の上司が手招きをした。

「畑さん、何か用ですか?」

 フィットネスジム「ヨミカキ」には三つの部門がある。私が所属するフィットネス。次いでプール、レセプション。

 畑《はたけ』さんはフィットネス部門のトップ。肩書きに相応しく、フィットネス部の中では最も体格が良い。シャツはXLとかのはずなのに、胸元あたりがぴっちりしている。ほとんどボディビルダーと遜色ない。

 しかし今はマネージャーのため、現場に出ることは少ない。事務作業をしている時は眼鏡もかけており、ゴリマッチョなのに知的な雰囲気を醸し出す。短髪をきっちり中央に寄せたソフトモヒカンは清潔感もある。

「おいマチ、彼は初心者じゃないのか?」

「彼? ああ、出部さんですか?」

「そうだ」

 藪からぼうに畑さんから厳しい視線を向けられる。唐突すぎて展開が読めないが、明らかに楽しい世間話の雰囲気ではない。

 直感的に背筋が伸びて、眠そうと言われる目に力が入る。

「なぜあんなトレーニングをさせている?」

「え、なぜって。彼の入会目的はダイエットなので筋力トレーニングの後に有酸素運動をメニューに取り組んでいるからです」

「なぜあんな運動強度のメニューを組んだのか聞いているんだ」

 一見した正論はあっさりと看破される。自分でも言い訳がましいのは分かっているのに、つい口をついた言葉は仕事場に小慣れてきた悪しき怠慢だった。

 マネージャーを誤魔化せるほど私の経験値は高くない。

「フォームの確認で回数をこなしたいなら休憩をこまめに挟めば良い。ランニングじゃなくウォーキングでも十分にカロリー消費できるだろ。違うか?」

 ぐうの音も出なかった。

 冷静に考えなくても運動初心者がこなす量と強度ではない。

「知り合いか?」

「え……、あ、はい」

 畑さんは勘が鋭い。いくら業務的に接していても言動の端に出てくるのだろう。

「確かに身内が相手だと色々と教えたくなる気持ちは分かる。ましてや指導する立場だ。力を誇示したくもなる。だが親しき中にも礼儀ありだ。いきなり無茶させたら怪我するぞ。その責任は誰が取る?」

 最後の質問は答えなど求めていない。反省を促すもの。ただ黙って自分の行動を戒める他ない。

「マチは知り合いが会員になるのは初めてか?」

「はい」

 畑さんはゆっくりと背もたれに体を預けると、黒縁の眼鏡を外して深くため息をついた。

 きっと私に対する評価を改めているのだろう。これまで誠意を持って仕事をしてきただけに正直悔しい。私情で仕事の質を下げた自分が今になって許せない。

「しっかり彼に合ったメニューを組んでやれ。知り合いなら踏み込んだ細かいケアができるだろ」

「はい」

 畑さんはまた私へ視線を向けて、目力で何かを訴える。

 私が頭を下げると、畑さんは「戻ってよし」と茶化した雰囲気を出した。他の事務スタッフから「畑さんは優しいですね~」と反対に茶化されて顔を赤くする。

 私は和やかになった空気を壊さないよう申し訳程度に「失礼いたしました」と小声で退室した。

 まだ二年目の私にはない信頼関係みたいなものが垣間見える。

 しかし心中は穏やかではいられない。

「くそ……」

 この仕事は楽しいし誇りを持っている。だからこそ私的な感情で動いた自分が腹ただしい。自分がこんなにも弱っちい人間だと分からされた瞬間だった。

「相手が誰であろうと関係ない。私はその人へ最高のサポートをする」

 自分の胸を叩いて気合を入れると、私は足早にジムへと戻った。

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