第2話 夢現 -4-

 三人が勉強を進めている間に私は席を立ちお茶を飲んでいた。後で三人の分も出してやるつもりで盆と人数分のコップも用意している。氷を入れ、冷蔵庫の中の麦茶を入れてやれば、後は持っていくだけだ。私はそこまでは準備しておいて、どうにもすぐに戻る気分にはなれず、じゃあどうしてここまで親切に準備しているのか、自分でも理解できず呆れていた。

 琥太は頭が良い。私が喋れないことを踏まえ、一年生の頃から曽祖父に教えを請い手話を覚えていた。

 私はどうせ皆手話を理解できないだろうからと父に子供用の軽い筆談器を準備してもらっていた訳だが、琥太は筆談器がいらないことを出会ったその日に手話で伝えてきた。これ以上ない程のドヤ顔で。

 琥太は頭が良い。そして要領が悪い。私の中で不愉快な気持ちが湧き上がり、筆談器で頭をかち割ったことは言うまでもない。琥太は泣かなかった。でも、涙目だった。私が泣いた。泣くまで怒られた。

 その年、私と父が指点字で話しているのを見た琥太が今度はそれを覚える! と息巻いた。私と話をするのならもう今の状態で、というか、そもそも私が筆談器を使えば手話すら必要ないのだから何ら問題はないのに、何をそこまでと私も母も曽祖父も琥太を引き止めた記憶がある。しかし琥太は折れなかった。結局、父が熱心なのは良いことだとかなんとか言って、教えることになった。

 指点字を教えられるのは私と父の二人だけで、これは流石の曽祖父もマスターはしていなかった。

 参考書もあまり豊富にある訳ではなく、しかも子供向けとなるとなおのことだ。頭が良いと言われることの多い琥太もこれは時間がかかったが、三年生の時にマスターしたよ。という連絡があり、その年の出会いの時にはいきなり手を取られ、

『これでいっぱいナイショでお話できるね』

 とか言われた。ドン引きだ。思い切り股間を蹴り上げたのだが、うまく足を閉じられてしまった。

「あぶない……。あぶなかった……」

 私は、冷や汗に濡れた琥太の額のテカリと汗臭さを今でも忘れていない。

 更に来年。琥太や私が小四になった時。この年はこの年で、何を言われるんだろうかと私ももう半ば慣れっこになってしまったきらいがあり、

「琥太君は柚眞のことをとても好いてくれていますからね〜」

「いやいや。でも僕より強くならないことには娘はあげられないかなー」

 といった具合に茶化す両親のことも随分と冷めた目で見るようになっていた。

『久しぶりにまた会えてこた、とってもうれしい』

 があいつの言葉だった。あいつの一人称は、ずっと、『こた』。自分の名前だった。

『柚眞もそうだよね!』

 私は待ち合わせ場所に着いてからただの一度も笑っていない。ニヤリともくすりともしていないというのに、何故にこうも自信満々なのかと私は呆れ、

『これで喜んでるように感じられるお気楽な脳細胞がいっそ逆に羨ましいわ』

 と一蹴し、更に父親が全盲であることを良いことにその指をつねりまくったりもした。

『えー。でもこたは嬉しいからいいの』

 とニヤニヤ笑いながら打ってくる文字にイラついた私は手を振り払い、筆談器に殴り書いた。

『指点字の為に仕方なく手を繋いでやってるの。少しでも嬉しそうな顔しないで』

 これにはちょっとだけがっくり来ている様子だった。更に小一になった貫太が、

「あ、それ俺も少し思った」

 と気の利いた助け船を出したおかげで、今回はあまり怒られなかった。

 琥太は琥太で、

「こた、単純だからってよく言われるんだよね……。えへへ。気をつける」

 そう言って今回ばかりは反省している様子だった。

 そんなやり取りがいつまで続くのかともう本気で飽き飽きしていた頃、曽祖父が息を引き取った。

 また、あいつと顔を合わせないといけないのか。という落胆というか、嫌な気持ちがドッと溢れてくるのを感じて、ひいおじいちゃんが死んだ、という現実よりも、そのことの方が何故か重たかったことを覚えている。

 それってどうなんだろうと自分でも思うのだけれども、曽祖父は最期まで自分自身のことよりもそれ以外の残される皆の将来の方を気にかけていた人だと聞く。だから、まぁ良いか、なんて思ったりもする。

 結構な覚悟を決めて曽祖父の葬儀に参列した私だったが、琥太は予想していた以上に私に絡んでは来なかった。私に気づいていないなんていうことはなく、何度も目が合い私に微笑みかけてきたりはしたけれど、あいつは話しかけて来なかった。

 曽祖父が骨になるというその時に、

––泣くもんか。……泣くもんか––

 震える唇がそう動いていて、既に私や周囲の空気にほだされた貫太が泣いたりしているのに、琥太は最後まで泣かなかった。骨になった、元々百九十八センチもあった曽祖父の、一抱えになってしまった姿を見ても、そのグロテスクを目の当たりにしてもなお、琥太は泣くことはなかった。

 私は、その時の琥太の顔を、目を。早く忘れたい。

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