第1話 私達の今 -1-
九分刈りの猫毛。立派で整った太い眉。既に小学生とは思えない程に大きくなった体格。そしてそれに似つかわしい大きな瞳を潤ませ、泣くもんか、泣くもんか。そんな言葉が溢れ出る唇はやっぱり大きくて、そしてその震えの刻みは細かく、微か。
曾祖父の棺を握りしめていたあいつは。タッチの差で初曾孫になったあいつは、どうだっただろう。曾祖父と近い場所にいて、一番言葉も、直接の触れ合いも多かったあいつには、後悔はなかったのだろうか。
別段親しい訳でも、多く言葉を交わす訳でもない遠い親戚なのに。そんなことを考えながら、私はピアノを弾いている。その音色は、いかにも退屈そうで、私によく似ている。この曲聴いていたら、あんたみたいに退屈な奴になりそうだからやめてくれない。クラスの連中にそんな風に言われたことをふと、そう。それこそ通り雨のなごりみたいな滴が軒先から滴り落ちたものが油断した頭に直撃したみたいに大したことのない衝撃として過って行く。退屈な旋律。窮屈な律動。呆れる程に答えの出ない思い出話。早く終われ。終わってしまえ。楽しさも遊びもない。いや、必要を感じない逼迫した、と自分が感じる程のピアノ独奏による交響曲フィナーレを弾き終わる頃に、また私はピアノに意識が傾いていく。譜面を見る必要も最早無く。容易く、容易く弾き終える。
パチパチパチ。母が、拍手する。黒髪で、いつも落ち着くから、とか言って着物を着ているような、少し浮いた人。童顔、幼児体型。
「いっつもお母さんは若く見られるんですから!」
と無い胸を張る、色々と残念な母親。
「…………」
ピアノの蓋を閉めて、私は母に向き直す。赤みがかった
「柚眞の髪はいつも綺麗ですね。お義母さんの髪と似ていて、お母さんいつも羨ましいなって思います。ピアノも上手だし……」
ピアノの置いてある部屋の隅には、母の着物が収められている箪笥がある。その整理をしながら、母は私にそんなことを言う。お互いに青い芝生でも見ているんだろうか。そんな風には思えない。何故なら幼い頃の私が、
『お母さんみたいな黒髪が良い! 私の髪を黒く染めてよ』
と駄々をこねて泣き、両親を困らせたその日から、母は決まって私が母の髪を見た時に今のセリフを言うのだから。
もう私も高校生、染めたければ自分で染められる。実に馬鹿馬鹿しいものだと思う。
ピアノについてもそうだ。
『じゃあなんで、私はコンクールで賞が取れなくなったのかしら?』
口は開けても音は出さない。手と、指を使って私はそう母に聞いた。母の顔に、愛想笑いの皺が見える。嘘がヘタクソで、私は本当にこの顔が嫌いだ。
「それは、周りの皆が上手だから……」
『じゃあさ、中学の時まで私が取ってた賞は何? ライバルは結構同じ顔なんだけど』
「そういうのは……きっと時の運だし……」
『もうさ。言ったらいいじゃん。柚眞は下手になったってさ』
手と手がぶつかり合う時の音は意図しなくとも激しくなる。
「お、お母さんピアノのコンクールのことはもう難しくてわからないから……」
『あーでたでた。そうやっていっつも逃げるんだ。もうさ。いい加減にしてくれないかな。そうやってピアノのことをわからないくせに褒めちぎったり、髪のこといっつまでも言ってくるの。何。自慢なの? ねえ!』
「ごめんなさい。やっぱりこの前のことも気にして……」
『うるさい!』
という言葉を言葉に表す事もできないまま、ピアノの蓋を小突く。小突いたつもりで、結構な音がする。それだけで母は体を震わせ、娘の私にびくびくしてしまう。
背丈の小さな母だ。小学生の時に追い越してしまった。今や二十センチ近く私の方が大きくなってしまったのだ。力に訴えられればすぐに黙るしか無い母を見て、私は何故か落胆してしまう。
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