◆九幕『インドの電車と小火』
◯
インドの電車をご存知だろうか。夕方のニュースでたまに見かける。最大積載量を大幅にオーバーして人を乗せているアレだ。テレビ用だろ? と疑いたくなる。心から日常風景でないことを願う。
「デスパレートだ…」
その非日常が、厄災のごとく我々に降りかかっていた。もっとも、厄災と捉えているのはぼくだけであり、下手をすれば非日常と捉えているのもぼくだけである。
おそらく元はワーゲンバスだ。それが度重なるチューンナップ及びディチューンによって、今では電車のようなバスのような山車のような有様である。では豪奢なのかと問われれば、そのようなことはない。まったくない。継ぎ接ぎだらけで、走る《モザイク電車》といった様相である。窓やドアは失われて久しい。数メートルごとに車体が大きく上下する。お尻が痛い。安全面や乗り心地、外観にこだわりはない。ただ一つ『いっぱい乗せること』それだけに絞って、改造が繰り返されていた。ぼくは隅の方で丸くなって震える。万が一、いや千が一、いや十が一ぐらいの確率で転倒した場合、どこに居れば生存率が上がるのだろう。まあ選択肢があるほど、スペースは無いのだが…。
ハンドルを握るのは、何を隠そう裏々読子である。
「死ね!」
通行人に向けて暴言を吐く。ここまでストレートな暴言を聞いたのは、ゲームに白熱した小学生以来である。それぐらいの気軽さで、今この人は罪の無い通行人を轢き殺そうとした。適性検査で落とされるレベルで、ハンドルを握らせては駄目な人である。
「ああ! 道に謎のネジ類がポロポロと…!」
「大丈夫! ニトロは積んでるから!」
「逮捕されちゃうぞ!」
何故こんなことになっているのか。
ーーひとたび昨夜に遡る。
暗くなってから《めぞんアビタシオン》に戻ったぼくは、自称管理人代行である読子さんに起こった出来事を語った。
「かくしかです」「ふーんなるほどね。そんなことより」「そんなことって…」「マヨ子はどうしたの?」「さ、さあ?」「泣いていたわ。号泣よ」「ホルモンバランスの崩れが」「それは女性が使う言葉でしょう? きみが使う言葉じゃない!」「…差別だ」「大方想像はつくわ」「…大方想像通りかと。『デリカシー』で片付けられる類いです」「今は時間を置くしかない、か」「です」「後で私が、何かをどうにかしておくから」「助かります」「助かりますじゃないわよ。その後で何かをどうにか出来るのは、トーキチくんあなたしか居ないんだから。責任取りなさい!」「…へい」
ぼくに自由意志は無いらしい。望む望まないに関わらず、こういう状況は嬉しいものだと考えていたが、実際かなり面倒である。面倒というか、今は余裕がないと言い換えるべきか。敵をぽこぽこ生みかねない。読子さんなら即ミイラにされかねない。
ぼくは、口答えはぐっと飲み込んだ。おそらくこれから彼らに協力を仰ぐことになる。
「で、《丑鍋組》の組長さんだっけ?」
「ザラメが来たのか?」
「あ、芋太郎さん」芋太郎さんは帰宅すると即冷蔵庫を開けて何かをもぐもぐやる。軽いノスタルジー。ぼくも高校生までは心当たりがあるが、一人暮らしを始めてからは習慣は失われた。常に空気を冷やしていたからなあ。「かくしかです」
「…やられたな」
ぼくの話を聞くと、苦虫を噛み潰したような顔をする。ぼくはきく。
「どういうことですか?」
「《花一匁》は基本的に《はないちもんめ》と変わらねえ、ってのは知ってるな?」
「はい」
「トーキチくん《はないちもんめ》ってどうやって終わるか知っている?」読子さんは言う。「みそっかすが一人残るまで、終わらないゲームでしょ?」
「逆に言えば、数が多い方が勝率はぐっと上がる。原始的な話だ」と芋太郎さん。
「しかし数の多さでは、我々も負けていないのでは?」
「かもな。だが横のつながりに関しては、アウトロー集団の十八番だ。むしろ横のつながりで生きてるようなもんだぜ」
稼がせて貰うとザラメ氏は言った。その稼がせて貰う相手を全て抱き込む算段であるならば…。状況は予断を許さない。
「普段の《花一匁》は、どうなんですか? 何か参考にならないんですか?」一縷の望みをかけて、経験者に助けを求める「勝負方法を創意工夫すれば、あるいは…」
「小細工だろ、所詮」
「トーキチくん、あなた策を弄すれば失敗するタイプでしょう?」
「…身も蓋もないこと言わないでください」なれば、アイディアの提出を求む。スダチの一件に関しては無関係かもしれないが、水炊さんが関わっているとなれば、彼らとて他人事では済むまい。「そもそもゲームを受けるかどうか、正直ぼくは決めかねています」
「こらトーキチ、何を日和っているのかしら?」
レッドカーペット。どこから持って来たのだろう、食堂の入り口からぼくらの足元まで伸びて、両サイドを《あかべこ倶楽部》の面々が隙間なく固める。
「スダチ…」
しかし当の本人は、決まっているとは言い難く、髪の乱れ具合から判断するに、完全に寝起きである。目を擦りながら大欠伸だ。
「受けるに決まっているじゃない」
その癖、言っていることばかり威勢が良く、傲岸不遜で、頼もしくなっちまう。
「丑鍋さん、連れて来ました」
そこに参りたるは、かの忌まわしきテングタケである。
奴の後ろには、スダチのご用命通り、ずらりと《二号館》の連中が整列していた。数日前に会ったばかりだというのに、えらく久しぶりな気がする。床が抜けそうだ。
どっと食堂が騒がしくなる。夕飯どきということもあり、騒ぎを聞きつけた《めぞんアビタシオン》の住人までぞろぞろと集まってくる。『ああ?』と《二号館》の住人を見つけた彼らが、お互いに睨み合う。
お昼の比ではない量の人口密度に、空気が薄くなる、錯覚をおぼえる。
芋太郎さんは言う。
「先輩、勝負方法の問題じゃねえ」「……」「小細工はなしだ。真っ向から受けようや」
背後を振り返ると、読子さんが忙しなく動いている。気付いた時には、テーブルの上に、所狭しと手料理が並べられていた。酒瓶の数も尋常でなく、風呂桶二杯分はあるだろう。いつの間にやら庭まで開放されており、肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。「あ、ドアさん」ドア氏が、こちらに愛嬌を振りまいているが、その手には鉈が握られていた。そして手首まで鮮血で染まっている…。どうやら大物が取れたらしい。
「宴だ」
◯
宴は明る朝まで続いた。で、そのまま拉致られた。驚異的体力の持ち主は誰だ。一晩中食って飲んで騒ぎ倒した後、赤青様々な顔色をした酔っ払いを、ゴミ収集車感覚でバスに放り込んだのは誰だ。グロッキー状態の住人を連れて来る必要はあったのか。芋太郎さんは白目を剥きながら、深緑色の煙を吐き出している。この人の吸っているものは本当に煙草なのだろうか。正直昼過ぎまで寝ていたかった。つまるところ、どこに向かっているのか分からないのである。ガンガンと揺れる度に、道々でネジ類と吐瀉物を撒き散らしながらオンボロバスは進む。
「おい」ぼくは隣のフェミさんに尋ねた。「これはどこへ向かっているんだ?」「……」「むくれんなよ」「のけ者にしたくせに!」「だから悪かったて。でもお前は部外者だろ?」「限りなく関係者に近いです」「むしろ何故お前が乗っている」「僕もチームアビタシオンのメンバーだからでしょう!」「地方の弱小サッカーチームみたいな名前だな」「今回の功労者であり、あなたの参謀ですよ?」「それに関しては感謝している」「だったら行為で示してください!」「だって、ぼく、お前の連絡先知らないし」「……」「……」「…酒臭いです。近寄らないでください」「あとで大福でも買うてやるから」「ご自分の目でお確かめになったらどうですか?」「あ?」「着いたみたいです」
バスが悲鳴をあげながら停止した。
「…ここは?」
「…辛うじて現世だ」答えて芋太郎さんは、げえと胃酸を吐き出した。
どうやら地獄の一等地ではないらしい。車から降りて現在位置を確認する。見渡す限り田んぼである。この辺りでは珍しく無いが、町から少し離れているようだ。そして田園風景の中央、ぽつんと、立派な日本家屋が鎮座ましましていた。
「あれは…?」「実家よ」
答える声は天空から降り注ぐ。スダチはバスの屋上に立って遠くを見つめていた。
…あれが《丑鍋組》
「例のものを」「御意」御意とな…。御意と宣った《あかべこ倶楽部》総長が取り出したるは、一張の大弓と一本の矢である。そして一通の文が結びつけられていた。「矢文…?」慣れた手つきで、それを構えて、天高く放った。ぴゃあと甲高い音が、辺り一帯に響き渡る。「…鏑矢?」矢文であり、鏑矢である。
「えっと、討ち入り…?」二日酔いの状態で何が出来るのか。胃の内容物を吐きかけるぐらいしか抵抗手段を持たない。アルパカの威嚇である。あるいは皆でアルパカに興じて、誰彼構わず胃の内容物を吐きかければ、嫌がらせとしては、絶大な効力を発揮するが…。
「宣戦布告には違いないけれど」スダチは言う。「返事をすると約束したのは、トーキチあなたでしょう」
その通りであるが、誰にも相談なしに独断で決めてしまって良かったのか。良かったのだろう。でなければこんな所まで、デスピクニックに来ない。
しばらくして双眼鏡で観察していた《あかべこ倶楽部》総帥(先ほどの人物とは別人)が手を挙げた。「来ました。返答です」
彼が言うには以下の通りである。
誰かが屋根に登ってくる。いつもの着流しを風にはためかせ水炊恋華だ。変わらず元気である。少しほっとする。彼女は両手に拡声器を持ち、どっしりと仁王立ち、真っ直ぐこちらを向いて、不敵に破顔一笑する。そして拡声器に拡声器を重ねて、ハウろうとも一切構わずに喋り散らす。
我々が直接聞いたのは、以下の通りである。
「遅おおおおおおおい!」開口一番文句だった。「ってね。やあやあ、私だ。恋華ちゃんだぞ。まずこのような辺境の地にある、田舎ヤクザの総本山にやって来たことについて、御足労であった。感謝し礼儀を尽くそう。オラ尽くせ三下」
『ありがとー!』と、野太い感謝が示される。あれが芋太郎さんの言う《会長派・水炊恋華派》の人々だろうか。同情を禁じえない。
「田舎道とは言え、あの悪路はコイツらが地均しをサボったせいだ。《めぞんアビタシオン》のもんは、一様に疲労困憊だぞ。教育の行き届いてないド三品が! どんな客でも出迎えるのが極道の筋であろう」
『ごめんなさーい』と野太い謝罪の意が示される。我々の顔色が悪いのは、二日酔いのせだが、わざわざ否定することもないだろう。
「さて、お待ちかねの近況報告タイーム。捕えられた小鳥ちゃんこと私だが『元』旦那との再開は、微塵も嬉しくなかった。あのウスラトンカチ全然変わってねえし。時間を置いたら愛せるかも、ってんなわけねえだろ! 冷え切った夫婦関係に、追い炊き機能は付いてねえんだよ! しかし同じ変わらないでも、この景色は良い。十数年ぶりに見ても色褪せない。むしろ以前よりも艶やかだ。律儀に訓戒を守り通しているのか、それとも更地にした所で持て余すだけなのか。いずれにせよ、そこだけは評価する。もうさ、米は食放題なんだから、儲からねえヤクザなんか辞めて、さっさと農家になっちまえってんだ! ーーあ、それとタコ入道。仕置きな。てめえのせいで捕まったんだぞ。切腹でもしようもんなら、死してなお辱めるかんな」
死してなお辱められずに済んだのは、ぼくとリリカルバットのおかげである。おい、隣でげえげえすんな、感謝しげえ。貰いゲロ。
「私がここを追放されたとき、何しやがんだクソババアと思った。殺してやると思った。その気持ちは今でも変わらねえし、あのくたばり損ないが、くたばらなけりゃ、今頃トドメを刺している所だった。しかしな、ババアの傲慢もミジンコ程度の価値はあったと今はそう考える。私の生き方と手前らの存在価値に、疑問を抱く糸口になった。認めるよ、若かったよ、私も。家督を継ぐのが自分の存在価値だと信じて疑わなかった」
水炊さんは、あたかもぼくたちと一緒に《モザイク号》に乗って《丑鍋組》へ宣戦布告するようだった
「『あんた』は、多少商売のセンスがあるみてえだけど、ババアが死んでから、どうだ? 己の器の大きさは、懐の深さは、ヤクザの品格とやらは、どうだ? 思い知ったか? 向いてねえんだよ。センスがねえんだよ。嫁に逃げられて娘にも逃げられて自分の組だあ?マッハダセエぜ!」
《マッハダサいあんた》おそらくザラメ氏に向けた言葉である。それを敵地のど真ん中で水炊恋華は、言い放つ。
「嫁と娘すら見放したてめえを、誰が尊んで心酔し崇めると思ってんだ!一生独り相撲でも取ってろ! と過去の私は啖呵をきったし、今も根底には同じ感情が根付いている。だが何かを得ようとすれば対価は払うし、心から望むものなら体を切り売りする覚悟だ。だから最悪てめえに利用されるのも、表面上は吝かでねえって言ってる。私は!」
よくよく考えてみれば、昨日ザラメ氏の提示した条件には、水炊さんの意志が含まれていなかった。聞くまでもないが、本人から聞けて良かった。
「賭けるぜ私は私を! 娘も賭けた自分自身を! ああ返事だっけ? 受けてたとうじゃねえか! 私はここだ! 連れ戻せ!奪い返せ!勝て! 私は全力で負ける!」
確かに全力で負けて貰わないと困る。よもやこの状況、こちらの味方が敵陣の本丸に居て、かつ安全も保証されている。考えようによっては、チャンスかもしれない。
「さて季節は夏真っ盛りだ。夏といえば《七夕祭り》だ。祭りといえば、テキ屋のシノギだ。ここの連中も多大に貢献、もとい稼がせて貰っている。勝負の場所はそこ! 時刻はおやつ! おい《花一匁》しようぜ。以上!」
水炊恋華の本領発揮と言わんばかりに、その叱責は自身の身を切るようで、見ているこちらが痛々しくなるが、妙な活力が漲ってくる。アンパンマンかこの人は。
「……」
やがて屋根に、肉眼で分かるほど、わらわらと人が集まってくる。水炊さんを引きづり降ろすべく駆けつけた者共が、かといって乱暴に扱うことも出来ず、まごついていた。
やっとのことで十数人がかりで取り押さえられると、丁重に小脇に抱えられ、えっちらおっちら建物内に飲み込まれていく。最後の抵抗とばかりにデタラメな歌を、彼らの耳元で、ダブル拡声器で、なぜかラップ調で、歌い上げる。
…だから予習、復讐、アリゾナ州って、なんだ?
「あれがスダチのお母さんです」
「…お恥ずかしい限りです」
◯
《七夕祭り》について。
取り立てて書き記すことはない。全国津々浦々、夏祭りの代名詞である。この町においても際立った特徴はない。せいぜい大通り沿いに竹が居並び、小学生が自作した装飾や短冊が吊るされる程度だ。それどころか、七月七日を大きく過ぎる。織姫と彦星の元に願いが殺到する繁盛期を避けて、当選確率を上げる小細工、というわけではない。なんのこっちゃない、学校の長期休暇に合わせただけである。商魂逞しい。
特徴のないことが特徴である。
しかしそんな風に構えていられたのも過去のこと、ここ数年で来場者数が激減し、打開策とばかりに、一昔前にブレイクした芸人や、地上に首だけ出した地下アイドルを呼んでみたが、結果は振るわず、焼け石に水である。
早急に打開策が求められる。
的屋の元締めはヤクザの仕事だ。祭りと言えばヤクザのしのぎだ。《丑鍋組》の、ひいてはザラメ氏の魂胆は、おそらく《花一匁》を祭りの名物にするつもりだ。
と、全て芋太郎さんの受け売りである。
「しかし、どうやって…?」
決戦の日まで、一週間もない。
◯
行くも地獄、戻るも地獄。言うまでもないが、復路もデスロードである。なまじ速度が出ない分、苦しむ時間は長く、車体は安定しない。それでもどうにか《めぞんアビタシオン》に到着した。
這々の体の我々の鼻をついたのは、香ばしい香りである。昨晩のバーベキューの残り香かと疑うが、庭どころか食堂までどんちゃん騒ぎが嘘のように、綺麗に片付けられていた。おそらくドア氏が済ませてくれたのだろう。このマメさ、一家に一台欲しくなる。
「どうですか読子さん」「…どうですかと言われてもねえ」「多少抜け毛は気になりますが、スペース的には通常の半分です」「そういう問題かしら?」
うーむ、難しい。
「まあ良いや。寝よう」で、自室のドアを開くと、ぼーぼー燃えていた。「はあ?」目の前が真っ赤に染まり、頭の中が真っ白になる。「あっちい!」だが温度は、意識を強制的に引き戻す。「火事だ! 火事だああああ!」
そこから記憶は殆どない。シャカリキでシャニムニで、ぼくはいつの間にか手に持っていたリリカルバット(便利)で、火元をガンガン叩いていたという。幸いなことに小火で済んだが、一面煤で真っ黒けで、人が住める環境ではない。前からか。
気になったのは、駆けつけた住人の手際が妙に良かったことと、消化剤の豊富さである。江戸の大火事ではないが、見るからに燃えやすいここは、一度火が点いたらひとたまりもないのだろう。だから彼らがノウハウを身につけていても何ら不思議ではないが…?
「慣れっこなのは事実だけど、不審火ではない」読子さんは、消化器を片付けながら言った。「最近は大人しくなったと思ったんだけどなあ」放火魔と同居しているかのようなセリフだ。「言ったでしょう。マヨ子を怒らせると悪鬼羅刹のごとくって」
「…マヨ子が火を放ったんですか?」
「間違いないでしょう。あの子、ここに残っていたんだもの」
「…癇癪を起こした、という認識で良いのですか?」
「ちょっと違うわ。マヨ子はね、自分の気に入った相手の家に火を放つのよ」
唐土マヨ子は放火少女だ。彼女は愛ゆえに火を放つ。
愛することと火を放つこと、一見相容れない印象を受けるがわけを聞けば単純明快だ。
住む場所が無くなれば彼女を頼って彼女の傍に来る。
無論、そうは問屋が卸さない。家を失った彼らが、都合良くアパートを訪れるはずがない。何かしらマヨ子と『縁』があるが、必ずしも彼女を頼るわけではない。当たり前だが、友人なり家族なり恋人なり、他に関係を持ち、そしてそちらの方が往々にして深い。
一方マヨ子にとって『縁』とは、極限られた環境にたった一つだけ存在する。
それが《ジーンペイ》である。《ジーンペイ》は裏切らない。そして彼女とのみ『縁』を持つ。猫でも悪魔でも精霊でもないのだ。一つの落とし所なのである。
「……」正直心が痛い。
他人と繋がりを持たず、場末のおんぼろアパートに篭っている。んなもんはコイツの自由であり他人が不用意に踏み込んで、とやかく言うことじゃねえ。
ぼくがやるせなくなるのは『自分と同じ思いを他人が抱いている』当たり前に、起こりえない奇跡を、マヨ子が盲信していることだ。根拠なき願いである。だが願わずにはいられない。上辺だけの言葉や、思わせぶりな態度を、信じて、願って、祈る。
奇しくも、ぼくがスダチに抱いていた幻想と一緒である。
なるほど。ぼくは《ジーンペイ》だったのだ。
「でも今回はぼくの部屋だった…」「そうね」「万が
マヨ子の習性はよく分からないが、読子さんの言う『理由なんてなんだって良い』は少し分かった。枕に顔を押し付けてわけもなく叫ぶのと一緒だ。ちょっと過激なだけである。
「何にせよトーキチくん、きみは部屋を失ったわ」「はい」「ここで大事なのは、別の部屋を使わざるを得ないってこと」「管理人代行さん。よろしくお願いします」「違う! 来いってことよ」「濃い?」「センスねー誤字変換ね。高血圧で死ね」「はいはい、恋が良かったんでしょう」「いやーん乙女ちゃん」「つまりマヨ子の部屋に来いってことですか?」「モチ」「何故」「夜這いよ」「……」
欲求不満の専業主婦め。考えることが恋愛至上主義でかつ肉欲的なのだ。レディコミばっかり読んでるせいだ。ディズニー映画からやり直せ!
「…でも行きますけど」
そしてぼくはマヨ子の部屋の前へ行った。
扉は固く閉ざされている。この時間寝ている可能性が高いが、扉越しにぼくは伝える。
「マヨ子聞いてくれ。ぼくの意思は変わらない。ぼくは、スダチと水炊さんのために《めぞんアビタシオン》を出て行くつもりだ。言うまでもなく《二号館》に行く選択肢も無い。テングタケが居る。今は手を組んでいるとは言え、天敵に変わりはない。二人に《二号館》に住んでもらうのも論外だ。ここから追い出すってことだぜ? それもぼくのために。そこまで横柄な人間にはなれないし、第一テングタケの元にスダチを置いてたまるか。《花一匁》で勝ち取った、これはぼくの権利である。お前がぼくに付いて来るのも現実的とは言い難い。どんな事情があるか知らないが、突発的に火を放つ人間は、社会的に受け入れられない。更生施設へゴーだ。加えて空想癖があり、生活能力もない、愛想もない、コミュニケーションも満足に取れない。《人間つうちんぼ》があったらオール1だぞ? 落第確定だぞ? …すまん言いすぎた。だがお前が一番分かっているはずだろう? 一人で満足に散歩も出来ない奴を野に放つのは、赤ん坊をアマゾンにを置き去りにするようなものだ」「私がアマゾン…」「そうそうプライム会員になるほどヘビーユーザーだからね、ってバカ。正直妥協案が見つからない。…でも優先順位はすごく低いけど、正直出て行きたくない気持ちもある。そして水炊さんは、少なくともマヨ子が不幸になる選択肢は選ばない。だからあの人が戻るまで待ってほしい。水炊さんを取り戻せば、スダチとの約束が履行される。何かしら状況が変わるはずだ。スダチの感情も、それを取り巻く環境も、ぼく自身も変わる。具体的には、何一つ説明出来ないけど…。だから手を貸して欲しい」
返事も聞かず、ぼくはマヨ子の部屋の前から立ち去った。
もしマヨ子がアマゾンだったら、置き去りにされた赤ん坊をどうするか、ちょっとだけ考えた。
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