◆八幕『たい焼き大福と親分』

 ジジイの夢を見た。

 夢の中のジジイは、ぼくの記憶の中のジジイだった。そしてジジイの記憶は数多くあれど、これはぼくがすっかり忘れたジジイである。忘れていても支障がなかった。

「ソフー」と妙な抑揚をつけて呼ぶのは、まだ園児のぼくだ。

「おー、トウちゃんかあ」じじいは答える。

「トウちゃんじゃ、父ちゃんみたいだよ」

「わしだってソフーじゃ外人みたいじゃ」

 笑いながらぼくは、濡れ縁に腰をかけたジジイに抱きついた。骨の髄まで染み込んだ煙草の臭いが鼻をつく。神視点なのに臭いを感じるのは夢補正である。

 ぼくたちは他愛も無い会話する。外は夕暮れ、庭は一面橙色、ひぐらしが鳴いている。日中の暑さが嘘のように肌を撫でる風が心地よい。

 ぼくはいつの間にかカキ氷を食べていた。ジジイは年代ものの手回し式カキ氷機を手際よく回す。元カキ氷屋のノウハウが、孫のお守りの役に立つ。蝉の声とジジイの氷を削る音は夏の原風景だ。

「トウちゃんは好きな子が居るのか?」

「居ないよ」

 ジジイの他愛もない質問に、子供らしからぬ抑揚のない返答をする。居ないと答えるのは、少年のステータスだ。それを知ってか、ジジイはにやっと笑った。

 居た、と思う。今思うと友人の延長でしかなかったが、当時の認識では好きな人だった。

 幼き日のぼくは、動揺を見透かされまいと、しゃりしゃり氷を食んだ。

「ワシの孫だからなあ、女の子には注意せえよ」「ちゅーいって? じいちゃんのお仕事?」「中尉な。それにわしはもっと偉くなったぞ」「ふーん」「ふーんて。例えば、嘘つかれたりとか、いじわるされたりとか」「誰もしないよ」「それは良かった」「だってね、うそもいじわるも、ダメなんだよ!」「それは、そうなんじゃがのお。これから必要な時も来るんじゃ」「ふーん、なんで?」「なんでかのお。必要なものは必要だからのお」「ふーん」しゃりしゃり。

 てな具合で。今の状況を予見していたかのようなじじいの言葉だ。しかしぼくは女性に振り回される方で、じじいは振り回す方である。同じ男女の問題でも、正逆だ。

「じいちゃんのなあ、古い友人が、校長先生をやっていてなあ」「ふーん」「そこに行けば、女の子にイジメられなくなるかのお」「ぼく女の子にいじめられてないよ!」「本当か? トーちゃんは優しすぎるからなあ」

 別に女の子に虐められていたわけではない。しかしこの頃は既に、女子人気No. 1のテングタケと、ことあるごとに対立しており、要らぬ反感を買うことが多かった。

「でも悪い大学ではない。しばらく先のことじゃが、じいちゃん一押しじゃ」

「……」

 そうか、忘れていた。だからぼくはこの大学を選んだのか。

 しかし未だに女の子に虐められてばかりである。ジジイの学校選び、センスねえなあ。

「あと避妊はしろよー」

 ちっこいぼくはその意味が分からずへーいと答える。見下ろすぼくは呆れる。

 あどけない桃吉と、在りし日の祖父が次第に小さくなる。

 十秒以内に目を覚ます。


 目を覚ますと時計の針は天辺を指していた。早くも一日の半分が終わっている。この感覚は知っているぞ。ずるずると生活リズムが崩れていく前兆である。あと二、三日で、人間の体内時計が二十五時間周期であることに、理不尽さを感じ始めるぞ。

「いや《花一匁》の頃から、既に狂っていたか…」

 昨日はあれから読子さんにスダチを任せて寝た。あのまま柱に縛り付けておくわけにもいかない。かと言って自由にするわけにもいかないので、何かしら良い感じにしておいてくれただろう。マヨ子に任せなかったのは、言わずもがなである。

 そして《あかべこ倶楽部》の面々と(見事に全て男)芋太郎さんと(猿轡)テングタケは、縛り上げて適当にタコ部屋に突っ込んでおいた。季節は夏真っ盛りなので、死ぬようなことはない。唯イツムは本当に帰って行った。本当にここの住人ではないのである。

「おはようございます」しかし奴は朝食を食らっていた。お早いご出勤である。「もう昼ですよ? そして昼食です」左右の頬に絆創膏をつけている。「食べ辛いったらありゃしない!」いきなり殴りつけるのは、確かに悪かったと思うが間違ってはいない。「大間違いです。やり方ってもんがあるでしょう。発情期ですか?」

「すまん」

「え! いや、その…ぼくも、不用意な発言でした。ごめんなさい」

 おー謝った。小さな感動を胸に抱きながら、ぼくは食堂を見渡す。ただでさえ大所帯なのに、今日は一段と人が多い。昼飯時ということもあるが、《あかべこ倶楽部》の連中が普通に飯を食ってる。せわしなく配膳作業をこなす読子さんの前に、長蛇の列が出来ていた。フードコートじゃねえぞ、ここは。

 そしてそれは窓際の席である。無機質な長机とパイプ椅子が…紫檀だ。差し込む光がふわりと彼女を包み込む。しゃんと背筋を伸ばし、繊細微妙な箸づかいで焼き魚をバラす。白米を口に運ぶ。味噌汁をすする。それだけの食事風景だが、所作の一つ一つが洗練され過ぎて、芸術作品のようだ。逆に言えば、どこか人間味に欠けていた。全身から育ちの良さを漂わせながら、しかし厳しい教育を受けた幼年期を思い描くと、やるせない気持ちになった。なんにせよ、あまりの可憐さにポロポロと箸を落とす連中が続出する。その度に「コラッ!」と怒号が飛ぶ。箸の数にも限りがあり、洗うのは読子さんなのだ。

 昨夜の痛々しい姿が嘘のようである。ぼくは、意を決してスダチに声をかけた。

「何をしているの…?」

「ご飯を食べているのよ」

「……」

「ご飯を食べているのよ!」

 見れば分かる、とは言い返せなかった。昨夜の縄やそれに準ずる拘束具は、特につけていない。同時に逃げる意思もないようである。

「逃げられないのよ」スダチは言った。彼女の周囲には、数人の精鋭部隊?のような連中が、直立不動で警護にあたっていた。「『この子たち』が許さない」

 とは言うものの、本人からその意思が感じられない。彼らのせいというよりも、どこか諦観している様子である。そうでなければ、のうのうと食事をして、ふりかけの大瓶と睨めっこなどしない。おそらく用途が分かっていないのだ。さすがお嬢である。

 と、彼女の正面にどかっと腰を下ろした。

「マヨ子…?」

 この時間に起きているのは珍しい。ぼく以上に宵っ張りの朝寝坊である彼女は、普段ならこの時間熟睡しているはずだ。その証拠に目の下には、びっぐべあーが、そのせいか半眼の癖に普段より目力がある。マヨ子は言う。

「…万能調味料」「……」「…味噌汁に入れる」「知っているわ!」

 で、どばーと。

「…なんか喉に張り付くんだけど」「しょっぱくない?」「これが庶民の味でしょう?」「カクカクシカジカ」

 で。

「ブス」

 これほどまでに清々しく直球的な悪口を久しぶりに聞いた。マヨ子が一方的に悪いのだが、美女の悪口は極めて鋭利である。取り扱い注意だ。

「……」

 ブスは、想像以上に傷ついたらしく、わなわなと震えた後わーと走って行ってしまう。 なんだか、ブスらしくないなあ。基本的に他人に干渉しないので、衝突することもない。しかも初対面の相手に牙を剥くとは、水炊恋華誘拐について、ブスなりの報復だろうか。

「こらブスとか言わないの」

「あ、読子さん。ご飯」

「疲れたから自分でやって。あと私はご飯じゃない!」

 長蛇の列は依然として伸びている。仕方がないのでぼくはマヨ子の残した食べさしに手をつけた。もったいない精神である。

「しかし便利ねえ彼ら。《あかべこ倶楽部》だったかしら?」見れば連中が、先ほどまで読子さんがこなしていた配膳作業を、代わりに分担してテキパキと行っている。「素直だし物覚えも良いわ」

「二、三日動けないのでは?」

「愛の力かしらねえ」

 その言葉で片付けられると、弱い。もしくは、読子さんが採血の量を調節したか。

「当たり前です。私のファンクラブですから」スダチは言う。「一宿一飯の恩義ですから。恩が済んだら返して貰います」

「いやーん。軟禁状態の分際で、なまいきー」

「ごちそうさま。出汁が薄かったので、美味しく『なりました』」

「…飲み干している」

 空のお椀を乗せた盆を持ってスダチは立ち上がった。ぼくらを一瞥もせずに去っていく。

 読子さんの愚痴タイム。

「やあね。あの子。普段からあんなにトゲトゲしているの?」

「どうですかね。学校だと無口で通っていますから…」

「トーキチくん、女を見る目がねえわね」

「仮に見る目が無いのだとすれば『ぼくが』ではなく『男が』です。現状」

 スダチが横を通り抜ける度に、至る所で箸がポロポロと落ちる。

 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。今は百合だ。

「めくら!」

 三十路、姫の座を奪われて癇癪を起こす。「痛いっ!」

「まあまあ、若い子のやることですから」それはぼくの正面、先ほどまでスダチが座っていた席から聞こえた。「争いは同じレベルでしか起こらないと言いますよ?」そして何食わぬ顔で我々の談笑に介入し「寛大な御心で許してやってください。器の大きさが大人の女性の魅力でしょう」テングタケは、当たり前のように食事を始める。

「許せるかおたんちん!」ぼくは言う。「てめえと相席なんて、飯が不味くなる!」

「そうかい? おれはこの味、好きだけどなあ、健康的で」

「まずいじゃねえ。まずくなるっつってんだ!」

「ほら一人暮らしだと、味の濃いものを食べがちでしょう? 家庭的でほっとします」

 あまりにも露骨な点数稼ぎである。

「いやーん。血以外も抜いたげる」

 結果、華麗にスリーポイントシュートを決めた。チョロすぎだろ…。

「おいテングタケ、口説くな」

「本心を言ったまでだよ。しかし本心を言うことによって一人のレディが眠れない日々を過ごすというのなら責任は取る」

「読子さん騙されちゃいけません。あなたが聡明な淑女であるなら、これは罠だと分かるはずだ!」

「いやーん。今夜は眠れないー」

「一生起きてろ!」

 万が一読子さんを《二号館》に連れて行かれてしまったら、うちの食糧事情は暗黒時代に突入する。文字通り暗黒色の闇鍋を、陰鬱な顔で黙々と食べる日々…。男連中ははっきり言って無能である。水炊さんは冷や飯を握るか、大味の汁物ぐらいしか作れない。マヨ子の得意料理はカロリーメイトだ。

「あ、マヨ子だ」

「……」

 スダチが消えるのを見計らって戻って来たのだろうか。次いで読子さんの袖を無理矢理引っ張って「あ、え、ちょと!」またどこかへ消えてしまった。何を考えているか分からない。その点に関しては相変わらずであった。

 そして、えらく不本意な最低の昼食となってしまった。成り行きとは言え、テングタケと向かい合って飯を食うなんて何年ぶりだろう。途端に味を失う。

「あ! 文字通りアジを失った!」

「マヨ子ちゃんだっけ? 咥えて行ったよ」

「アイツは野良猫か…」

 今日日野良猫だってもう少し行儀が良い。

 …まあ良いや。小さなターンテーブルに乗っているふりかの大瓶に、スダチ同様手を伸ばした。無論庶民代表は用途を間違えない。子どもの頃から、おかずだけ先に平らげて、ご飯を単体で食べていたので、ふりかけには全幅の信頼を置いている。「……」読子さんを《二号館》に取られても『のりたま』『すきやき』『そばめしふりかけ』などで案外どうにかなるかもしれない。

「きみは大航海時代か?」「ビタミン欠乏による壊血病を発病すると言いたいのか。分かりづらいツッコミをするな。ぼくの心を読むな」「あと『そばめしふりかけ』はもう売ってないよ」「…おい、嘘だろ、おい、いつものイジワルだよな?」「いやまじまじ」

 もう手に入らないのか、そばばばーん。

「さて、トーちゃん」「…傷心中なんだから未来永劫話しかけるな」「未来永劫傷だらけってのは、きみらしい」「ほっとけ」「これからどうするか、聞いておこうと思ってね」「……」「出て行ってどうするのか」「…付いてくるつもりか?」「おいおい冗談はよしこさん。おれたちの関係は、腐れ縁以上でも以下でもない。そうだろう?」「知らん」「それに出て行くと言ったって、一両日中というわけにはいくまい?」「それはそうだけど…」「一番の問題は恋華さんだ」「ぼくが今回一連の騒動、スダチの家出計画に巻き込まれたのは『別の目的』」「ふられた理由を確かめる、だろう?」「…そうだ。そのためにあえて巻き込まれた。しかしこれ以上スダチに付き纏った所で、ぼくにことの真相を喋るとは思えない。第一水炊さんを助けることが、目的達成に繋がるとは思えない。冷たいことを言うようだけど、はっきり言って勝手にして欲しい」「一つ屋根の下というのは、きみも望んでいた状況だ。それでも無謀なのか?」「ああ、強情だ」

 今朝ので合計三回。《吐写真事件》以降スダチと邂逅する機会があった。だが追いかければ追いかけるほど、むしろその口は固く結ばれる。ぼくはさらに続ける。

「これはあまり言いたくはないが…、もし『一つ屋根の下』を続けることで、スダチが口を滑らせる可能性が、極僅かでも上がるというのなら、彼女が奪われるリスクを冒してまで、水炊さんを救出するべきではないだろう」

「それが恋華さんの狙いだったのかもしれないね」

 自分を犠牲にして、か…。ありそうだから嫌だ。そしてぼく自身、ならば水炊さんの気遣いを尊重すべきででは、と考えているから嫌だ。

「聞き捨てならないわね」

「スダチ…」もっとも聞かれたくない相手が、仁王のように背後に立っていた。「部屋に戻ったんじゃないの?」「戻る部屋がないわ」「…そりゃそうか」「それでトーキチ、あなた今言った言葉は本心かしら?」「隠し立てしても無駄だから言うけど、本心だ」「酷い」「…ごめん」「天貝くん、あなたもなの?」

 突如として矛先を向けられて柄にもなく動揺をみせる。

「おれ? おれは、ええと…」

「母を助けてください。お願いします」

「はい喜んで」

「庄やか」

 安請け合いとは決断力のことだとづくづく思う。

「トーキチ、あなたの本心がどうであれ、私には関係ない」「それはそうだけど」「私としましては、是非トーキチにもご助力願いたい所です」「……」「そうでないと、私、天貝くんと親密な関係になってしまいそう」「それは駄目だ!」

 駄目だけど…ぼくはたずねる。

「スダチはさ、水炊さんを奪い返す方向性で間違っていないの?」「一晩考えた結果、間違っていない」「例えば《あかべこ倶楽部》の連中、彼らを振り切って帰るという方法もある。その場合テングタケのような助兵衛は、変わらずあなたに協力を惜しまないだろう。ぼくとしても、手っ取り早く事態を収束させるなら、それが一番だと思う」「母を一人であそこに置いておくわけにはいかないわ」「じゃあその後は? ぼくは居なくなるとして、一生ここで《丑鍋組》の目を盗みながら生きていくのか?」

 スダチは己を鼓舞するように胸を張る。昨晩の落胆ぶりは綺麗さっぱり失せていた。一晩考えると人間はこうも変わるものなのか。傲慢な姿がよく似合う。

「どんな手を使っても、母と暮らしたいと思うのは、そんなに不自然なことかしら?」

 スダチは続ける。

「強いて言うなら答えはイエスよ、トーキチ。もちろんその状況に甘んずるつもりも無いけれど。現状打開策も無いけれど!」

「…じゃあ交換条件だ。もし水炊さんを助け出すことが出来たら、ぼくがふられた理由、教えてよ。きちんと、一から十まで、懇切丁寧に、慇懃に、サルでも分かるように噛み砕いて、あなたの口から、あなたの言葉で。それならスダチ、あなたの手となり足となろう」

「分かったわ」拍子抜けするぐらいあっさりと、スダチは条件を飲んだ。「じゃあ私からも交換条件ね」

 ん? あれ? 今サラッと等価交換ではなくなった…? 

「トーキチと天貝くん、あなたたち二人、速やかに手を組んで頂戴」

「「は?」」

 喜んでのテングタケすら躊躇ったのが分かった。

 ここに歴史的一ページが刻まれる。握手というにはあまりにも力強く、お互い万力を込めて、相手の手のひらを握りつぶさんとする。左手も同様に握り込み、隙あらば頬骨を打ち砕く算段である。こめかみに浮き出た青筋から、鮮血が迸る五秒前…。

 一時的とはいえ、休戦協定が結ばれた初めての瞬間である。


「ババアの面影を見たぞ、俺は」

「あら、もう良いんですか?」

 振り返ると芋太郎さんである。青い顔をして足取りは覚束ない。机を伝って歩く姿は、年相応の印象を受ける。

「良いってのは、どういう意味だ? 腹を切らなくて良いのか、それとも俺の体調が良いのか」「両方です」「体調は見ての通りだ。血が足りん」「腹いせ、だろうなあ…」「切腹については…やめた。まだ取り返しがつかねえってわけじゃねえ。ちいとばかし感情的になりすぎた。先輩、サンキュ」「寒イボ、やべえんすけど…っ!」

 追い打ちにウィンク。とどめと言わんばかりに投げキッス。いちいちチョイスが昭和である。最後に至っては軽蔑もんだ。

 そして芋太郎さんは、血が足りんと言って山盛りのレバーを齧り始めた。それも生で。老い先短いので今更嗜好品についてあれこれ言うつもりは無いが、せめて箸を使えば良い。

「よく噛めば大丈夫。生食の鉄則だ」

「さいですか」

 これで元気になるなら、こちらとしては何でも構わない。

「それで? 箱入り娘はどこへいった?」

「姫はお昼寝の時間だそうです。配下の者どもが連れて行きました」

 テングタケは、スダチからと勅令が下り、びっこを引きずりながら韋駄天のごとく《二号館》へ向かったアイツの体は、どういう構造してんだ? 

 芋太郎さんは言う。

「ったく、ババアの血の濃さに呆れ返るぜ」「どういうことですか?」「男を使うことに関してはババアの右に出る者はいない。がっつりそれを受け継いでるだろお姫様は。隔世遺伝だ」「でも本人は失敗ばかりだって言ってましたよ」「結果は自ずと付いてくる。経験則の差は、即ち時間の問題だ」「つまり芋太郎さんも、スダチのおばあさんに、良いように使われていたってことですか?」「…ああ、忌まわしいぜ。だが勘違いしないでくれよ先輩。俺だけじゃねえ。ババアを取り巻く男は、総じて奴にメロメロだった」「メロメロて…」「一人の例外を除いてな」「……」「てめえのジジイ、白秋の野郎だ」

 昔話である。

 ぼくからすれば、荒唐無稽で事実無根の御伽噺だ。しかしそれだけあって、聞かせるものがあった。

「登場人物は、白秋の野郎、俺、ババア、『先生』だ」

《めぞんアビタシオン》から全ては始まった。

 戦後、彼らはここで闇市を取り仕切ったり、警察と手を組んで第三国人と戦ったり、その他金になることは何でもして戦後の動乱を生き抜いてきた。その内勝手に住み着く連中も現れて、だったらアパートにしちまおうというのが《めぞんアビタシオン》の発端である。そして人が集まる所には金が生まれ、大小問わず争いが増えた。小さな争いは《花一匁》で、大きなものは自警団で片付ける。自警団が現在のヤクザもんの母体であることは決して珍しくない。スダチのおばあさんを筆頭とした後の《丑鍋一家》である。

「《めぞんアビタシオン》は《丑鍋組》にとって、言わば血を分けた兄弟、いや親みてえなもんだ」「…なるほど。だから無理矢理ここに押し入るなんて以ての外と。むしろここを守っていたんですね」「若い連中には知ったこっちゃねえけどな」「少しだけ『聖域』っていうのも、分かった気がします」「特に執着していたのはババアだ」「……」「嗚呼、あの頃のババアは格好良かったぜ。男共が幅を利かせる時代に、男共の頂点に立って、男共を薙ぎ払う。あの姿は今でも燦然と焼き付いている」「しかしうちのジジイには通用しなかった」「アイツの面の皮が人一倍分厚かったってのもあるが、今考えるとババアが白秋の野郎だけには、強く出られなかった」「…恋的な?」「さてな。俺には分からん」

 やがて組織も大きくなりこれからというタイミングで、白秋桃乃輔が唐突に姿を消す。

理由は誰にも分からない。これを好機とした芋太郎さんの高校とぼくの大学の理事長でもある『先生』も抜ける。「妙な所で潔癖」とは芋太郎の人物評である。人を育てることに使命を見出した『先生』は、きっぱり足を洗って堅気の仕事で大成する。一方うちのジジイは、ずるずると悪事を働き続けた。

「取れる所から巻き上げて、逆らう者は捩じ伏せる。あの時代それが必要とされた。だがあいつらは、ヤクザの正義がまかり通らない時代が来ることを、予見していたのかもしれねえな」「うちのジジイを、探さなかったんですか?」「探した。そして見つけた。結果無意味だってことが分かった。あの野郎の頑固さは、テコでも動かねえ」「ですね」「いや元々俺もババアも分かっていた。だから俺は探さなかった。ババアは、探さないと納得出来なかった」「……」「先輩、白秋の嫁ってのは一体どんな傑物なんだ?」「普通の人、だと思いますけど」つまり祖母である。至って普通のおばあちゃんだ。

 残された二人、芋太郎さんとメリーさんは、粉骨砕身して今まで《丑鍋組》を存続させる。二人は、ただの一度も夫婦でも恋人でもなかった。幼馴染でありビジネスパートナーであり…本人は言わないが、ただの片恋だった。それどころか今尚、芋太郎さんは、メリーさんにご執心のようである。だから彼女の他界を契機として組を抜た。

 うちのジジイを怨むのも無理からぬ話だ。

 いや勝手な憶測でものを語るのは、良くない。

「つまり《丑鍋組》を作ったのは、うちのクソジジイだったってことですよね?」「その内の一人ってのが正しいがな」「…どれだけ世間様に迷惑をかければ気が済むのだ」「ガハハ、ちげえねえ」「でも芋太郎さんも相当偉い立場だったのでは?」「今はただの高校生だ」「それでも昔取った杵柄です。水炊さんのこと…芋太郎さんの口添えで、どうにかならないんですか?」「無理だ」「はっきり言いますね…」「あの野郎、《丑鍋組》の社長は、家族ごっこがしたくて、嫁と娘を血眼になって捜しているわけじゃねえ。《丑鍋組》は今、過渡期だ。ババアが死んだことによって、水面下で権力争いが激化、かつ複雑化している。大きく分けて二つ。《現組長派》か《故・会長派》だ。前者は良いが、問題は後者だ。平たく言うとババアが死んで、ババア派の人間が、よそもんが組のトップに立っているのが気にくわねえって話だ。さらに《故・会長派》の中でも《水炊恋華派》《丑鍋スダチ派》そして最大勢力である《桜肉芋太郎派》に分かれて一筋縄ではいかない」「つまりスダチと水炊さんは…?」「権力争いの道具として利用されたってわけだ」

 それは、そんな所、誰だって居たいとは思わない。スダチが言った『苦肉の策』『あんな所』の意味が少し分かった。しかしそれでも尚、ぼくと絶縁を望んだのである。

「言うまでもねえが、俺だってこんな状況望んじゃいねえ。『奴ら』には散々言ったんだ。『俺じゃない。組について行け』ってな。しかしそれが完全に裏目に出た。俺が組を追放されることで、逆にあいつらの骨に火を入れちまったんだ」

 そりゃそうだ。その実、言った本人が、メリーさんのために自分の人生を捧げたのである。説得力は皆無に等しい。

「正直こんなこと言いたくありませんが…」しかしぼくは言う。「水炊さんやスダチの代わりに、あなたが組に戻って状況を丸く収めるという手段もある」「ヤー公ってんは、大学のサークルじゃねえんだぞ。同窓会感覚で顔を出すわけにはいかねえだんよ」「子供の喧嘩のように、絶交した相手と翌日肩を組んで歩く柔軟さを、大人はどこで忘れてしまうのでしょう」「…なに言ってんだ?」「じゃあ芋太郎さんは、あなたを慕っている人々を、捨て置くというのですか?」「痛い所を突いて、探られたくない腹を探る天才かよ、先輩は」バツの悪そうなこの人の顔を初めて見た。「そっちは…どうにかする。だがいずれにせよ、てめえの出る幕じゃねえ」「…じゃあ芋太郎さんは何が言いたいのですか?」「つまりだな、一人の女に拘ると、八十過ぎてから高校に通う羽目になるという、人生の先輩からの有難い御宣託だぜ。先輩」

 芋太郎さんは、諦めて忘れちまえと言った。御宣託は有難いが、ぼくはまだスダチの心積もりを見定めていない。胸中のもやもやを晴らしてからでないと、誰かを愛する余裕が生まれない。それともそれが拘ることになるのだろうか。

「個人的には高校生になった理由の方が気になります」

「動物園で煙草吸ってたら『暇ならうちの生徒になれ』って言われた。アイツに」

 アイツというのは芋太郎さんの高校の理事長だ。

「あいつがちょっと細工してくれりゃ俺は進級出来たのになあ」

「はあ」

「このままじゃ、高校一年で寿命迎えるぞ」

 体育の授業など、クラスメイトはひやひやものだろう。気の毒に。


 その後芋太郎さんは「進級があ!」と声を上げながら食堂を飛び出して行った。この時間から行って何をするのか。今年も留年の線が濃厚である。一方で体調はかなり回復したようで、生レバーの効果は絶大だ。

「で? 今度はまたお前かマヨ子」

 マヨ子再来。こうも入れ替わり立ち替わりで人が来るのも珍しい。まあ、いつまでも食堂でダラダラしている、ぼくもぼくなのだが。

「……」

 やはりマヨ子の様子がおかしい。しかも何となくおかしかった様子が、今では五感で捉えられるほど、異常性を発露していた。…ほのかに漂う石鹸のかほり。

「さてはお前風呂に入ったな!」「そっちじゃないでしょ! スカポンタン」「ドロンジョさまだ…」「良く見て! 何か変わった所はないかしら?」「ハイカラになっています」

 どこからか聞こえる天の声は、台所に隠れた読子さんだが、マヨ子はお洒落をしていた。と言っても、灰色のスウェットを常に着ているので、お洒落基準はかなり低い。スウェット以外は大体お洒落だ。しかしそれを差し引いても、今のマヨ子はかなりのお洒落さんと言える。あ、こいつ化粧してやがる。

「…あのねえトーキチくん、ものには言い方ってもんがあるでしょう? こういう些細な積み重ねが原因で、最愛の人に愛想尽かされたんじゃないの?」「…耳が痛いです」「気の利いたこと言いなさい」「可愛いよ?とか? あ、逃げた」「追いかけなさい!」「腹ごなしには激し過ぎます」「いいから早く!」

 バシーンと、背後に立っていた読子さんに背中を引っ叩かれた。いつの間に。忍か。

「あの子と遊んで来なさい」

「えー…難易度急上昇なんですけど」

「これ軍資金!」無理矢理一万円札を握らされた。

「へー諭吉ってホクロがついてたんだ」

「頭の悪いこと言ってないで、行ってらっしゃい!」

 水炊恋華を彷彿とさせる荒っぽさで、ぼくを安寧の地から追い出した。

 遊ぶったって…虫取りでもすれば良いのか?

 で。

 玄関を出た所で、裸足で突っ立っていた。引きこもりらしく自室に籠城されたら、かなり厄介だったが、部屋は袋小路と理解したのだろう。しかしいざ一人で外に出た瞬間、恐怖が襲ってきて立ち竦む。そこにぼくがやって来た。マヨ子の歩いているのか止まっているのか分からない鈍足は、例え走ったとしても追いつくのは容易い。

 だからまた逃げる。が恐くなって立ち止まる。またぼくが追いつく。逃げる、止まる。追いつく。逃げる、止まる。追いつく。ーー何度か繰り返したのち、観念したのか膝を抱えてへたり込んだ。アパートから離れて数百メートル、驚くべきことに裸足だった。

「おい、怪我はないか?」「…痛い」「見せてみろ」

 マヨ子の足の裏は、汚れているものの無傷だったので、靴を履かせた。「ーーうっ」普段ならスウェットで気にしないが、アングルがまずい。本人も頓着しないから質が悪い。

 これが万が一スダチだったら、興奮してげぇが出ちゃう。

「裏々読子め…。変なトラップ仕掛けやがって」

 馬子にも衣装か…。確かに動揺を誘う程度には、一人の女性として認識出来る。

「歩けるか?」「…歩けない」「立てるか?」「…立てない」

 ただでさえ丸顔なのに、むくれているせいで首から上が真球に近い。

 …もしかしてこれは「怒ってる?」「怒ってない」「悪かったよ。マヨ子だって女の子なんだから、風呂にも入るし化粧もするし可愛いおべべだって着る」「……」「そもそも、ぼくに気の利いたセリフを期待することが間違っているんだ。こっちだって言い慣れてないんだから、あんまり無理難題を押し付けられて、格好良い男の理想像にはめられても…困る。つまり恥ずいっちゅうこと!」「…でも、言った」「ああ?」

 その三白眼で睨みつけた。

「ブスって言った!」「言ってねえよ」思ったけど。それに心から思ったわけではなく、言葉の綾というか、勢いというか、不可抗力である。「少なくとも今はブスじゃないから、安心シロナガスクジラ」「安心できない」「ならば女を磨け」「私ブスだもん!」「うるせえなあ! 磨いたことも無い奴がブスを語るな!」

 …ぼくはトップモデルにでもなったつもりなのだろうか。

 しかし本心だし、間違ったことは言っていない。

「ほら来いよ」「……」「きょとんとするな。歩けないんだろ? おんぶだ、おんぶ」

 こういう所は素直なので助かる。マヨ子を背負う。軽い。成長期なんだからもっと食べないと駄目だ。…成長期なのか? 

「あ、そうだ」

 そういえば、豆大福でも買ってやろうと、一人誓ったのを思い出した。

 大福一個買っても残り九千八百八十円である。まさか返せなどと、せこいことは言うまい。ぼくの方がせこいというのは、言いっこなしである。

 しかしいざ買うとなると、大福ってのはどこに売っているんだろう。

「まあ良いや。適当に歩こう」

 それも含めて『遊んで来なさい』の一部だろう。


「……」

「……」

 基本的にマヨ子と会話はしない。会話にならないというのが適当な表現かもしれないが、会話にならなくても無理に気を使わないというのは、お喋りが苦手なぼくにとって、とてもありがたかった。ぼくは、マヨ子を背負って、河原の土手を歩く。理由は一つ、街中では恥ずかしいからである。もちろんこんな所で大福は売っていない。とんびに掻っ攫われるのが関の山である。

「…トーキチあれ」

「…あったよ」

『大福』と書かれた屋台が、土手っぺりの空き地で商い中である。商売っ気の無さそうなおっさんが一人、暇そうにスポーツ新聞を読んでいる。むしろ商魂逞しいのか? いずれにせよ赤字覚悟である。

「大福…鯛焼き?」加えてそれは、単なる大福では無かった。《大福鯛焼き》と暖簾にデカデカと書き殴られている。屋台で大福とは、奇特な人も居るのだと考えたが、鯛焼きなら納得である。…鯛焼きならば!「ベンチャー精神に感服だな」

 で。

「白い鯛焼き…?」二つ、真っ白い鯛焼きを渡された。数年前に流行った気がする。であれば味は保証されているが、果たして。「…おおこれは!」味もそっけもない説明をすると、大福を鯛焼きの型で焼いている。だが表面を多めの油で焼いているので、どちらかといえば揚げてあり、軽やかな食感だ。そして米粉と片栗粉由来の生地が、パリッと割れた後伸びる。続いて中からほっくりとした餡の甘みが口いっぱいに広がる。三種類の食感が渾然一体となって、餡子を包み込んでいる。油に放り込んだだけでは、こうはいかない。それじゃあただの揚げおかきだ。職人の熟練の技術が必要とされる絶品である。

「だが問題は…」

「カロリー爆弾…」

 マヨ子は痩せっぽっちなので、高カロリーなものを摂取すべきである。しかし裏々読子を代表とする女性陣に、お土産として買って行こうものなら、要らぬ葛藤を生んでしまい、場合によっては反感を買う。実際男でも健康志向の奴らは食指が伸び辛い。

「そして鯛焼きの必要性皆無だ…」金型が余っていたのかな?「まあ、鯛焼きなんてそんなもんか」何にせよ、旨いことには変わりなく、甘いものはご機嫌取りに打ってつけである。特に女性には。

「……」

「……」

 ぼくとマヨ子は缶茶を飲む。予定していた額の約四倍もの出費だが、旨かったし機嫌もなおったようなので良しとしよう。

 川風が吹き抜ける。冬場は地獄だが、この時期はありがたい。心地良いだけでなくヤブ蚊も吹き飛ばす。水面では鴨がゆるゆると泳いでいる。岸では野良猫が歩いている。どうやら野良猫は、鴨を狙っているらしい。ぼくらも一羽と一匹を追いかける。燃え上がらない徒競争の開催だ。

 マヨ子は最初の脱落者だ。脱落者ってなんだ? 

 気づかないで歩いていると、不意に、遥か後方で立ち止まって俯いて、言った。

「…トーキチは、アパートから出て行ってしまうの?」

 淀みなくぼくは答えた。

「おそらく」

「出て行って、何をするの?」

 テングタケにも同じことを聞かれた。聞くまでもないだろう、そんなこと、大学生に戻るだけだ。唯一の心の拠り所を失い、上辺だけの友達すら失った。戻れるだろうか。戻るしかない。誰しもそうやって折り合いつけて生きている。水炊さんの奪還が成功すれば、スダチは《吐写真事件》の真相を教えてくれる。妙なことで悩まないで済む。

「…万が一失敗に終わっても?」

 水炊さん奪還に失敗し、スダチも失う。そうなったら、もう元には戻れない。そのためにスダチをストーキングしていたのだから。そして水炊さんを失うというのが、想像以上にでかい。つい数か月前までは、過去の人だったのに、今では大きな部分を占めている。それは、ぼくだけに関わらず《めぞんアビタシオン》の住人全般に言えることだ。独裁者みたいな人だが、居なくなったとなれば、その影響は計り知れない。だからもし失敗すれば、責任を取るなんて格好良いものではなく、単純に居た堪れないのである。

「…出て行くよ。その後のことは分からないけど」「そう。じゃあ、私も出ていく。付いていく」「は?」「大倹取る」「おい」「《ジーンペイ》を食わせるのは、主人たる私の務め」「…ぼくにヒモになれと?」

 モテ男の特権である。自分がヒモになるなんて、考えたことも無かった。

 だが「生憎だけど、そのつもりはない」

 精神的に辛いときく。あとコイツは、なにで収入を得ているんだ? 蓄えはあるのか? ぼく以上に社会生が欠如しているので、非常に頼りない。

「でもそうしないと、ひとりぼっちなんでしょう?」

「……」

 図星を衝かれて、カチンときたのかもしれない。

 苛立つ。苛立っていた。

 テングタケと手を組んだのは良いが何をすべきか分からなかった。

 スダチは奴に命令したが、ぼくには何も言わなかった。

 もどかしい。まだ寒さの厳しいあの頃が懐かしい。迷いなく衝動と命令に突き動かされていた。スダチが正義であり、疑いの余地はない。

 その位置をテングタケに奪われた、気がした。ように見えた。感じた。なにが《花一匁》だ。勝っても負けても結果は変わらない。むしろ事態は悪化の一途を辿っている。勝って嬉しいとか負けて悔しいとか、そんな当たり前のことすらまかり通らない。

 だから八つ当たりだ。マヨ子なら傷つかないだろうと、無感動に受け流すだろうと、たかをくくっていた。甘えたのだ。

「別にぼくは、寂しくて、お前を迎えに来たわけじゃない」

 それを言ってしまえば、ぼくが鯛焼き屋と自販機に費やした、四百八十円は意味を失くす。価値を失う。分かっている。

「読子さんに遊んで来いと言われた。だから来ただけだ」

「……」

「勘違いするな」

 言ってしまう辺りデリカシーよりもモラリティーの問題なのかもしれない。

 カーンと缶だけに、半分以上残ったグリーンティが額にクリーンヒットする。くるくると頭上で回転した後、体操選手顔負けのバランス感覚でつむじに着地した、逆さに。ドクドクと流れる香ばしい水が上半身を濡らす。寒い。

 視界を覆う濡れた前髪を掻き上げると、マヨ子の姿は遥か彼方だった。

「走れんじゃん…」


「あーあ、悪いんだあ。女の子泣かしちゃって」

「誰だてめえ」

 初対面の人間に突然話しかけられたからと言って、普段からこんな態度を取っているわけではない。タイミングが悪かった。今日は、とりわけ今は、くさくさした気持ちを、抑えられなかった。それに話しかけるというのはある種の暴力である。他人の都合などお構い無しに、自分の都合を押し付けるのだから、予期しない態度や発言で応えられても文句は言えない。もちろんぼくだって、誰に対してもこんな雑な対応するわけでもない。子ども相手にはしゃがんで、目の位置を合わせて、落ち着いて笑顔で、優しく話しかける。逆に猛禽類にそんな態度を取れば、顔を覗き込んだ瞬間、頭からガブリだ。…例が極端すぎた。とにかく適切な対応が自己防衛手段であり、今回はやや間違えたが、それは仕方のないことで、むしろこの人物は言っても許される雰囲気があり、むしろ言わなければいけない雰囲気だった。

 鯛焼き屋の親父だった。

「小僧くん、浮気か?」「痴話喧嘩か何かと勘違いしています?」「だってウチの娘と交際してんしょ?」「は?」「その関係を清算する前に、次の女性に手え出すのは、浮気だと思うなあ、ボク」「……」「きっちりかっちり、型にはめてもらわないと困るよ」

 …全然許されちゃいなかった。なんだよ許される雰囲気って。白秋桃吉の慧眼は、曇りに曇りまくっている。

 ぼくの人生においてかつて、男女交際の真似事をさせて頂いた相手は、一人しかない。つまり男女交際はゼロである。

「スダチ…じゃなくて丑鍋さんの、お父しゃま?」

「イエス!」チャラい!「あ、社長自らこんな仕事するのかって顔だ。しゃあねえべ。財政難だし。四の五の言っている余裕なんかねえし。って、うそうそ、パフォーマンスだよ。そういういじらしい姿にときめいちゃう部下が居るのな。ってうそうそ。小僧くんに会いに来たの。これマジ。ガチで」

「…ぼくはちっちゃい象さんではないです。…ガチで」

「またまたあ。ちっちゃいでしょう、ぞうさん」くわえて下ネタ親父だ。「めんご、自己紹介が遅れた。ボクは丑鍋ザラメと言う」「…ザラメ、さん?」「そう。牛鍋には、上白糖よりザラメ糖の方が合うべ? 小僧くんは、すき焼きは関東風? 関西風?」「…最終的には関東風になります」「そういう考え方ボクは嫌いだなあ」「はあ。どうもすいません」「分かれば宜しい」なんのこっちゃ!「あ、小僧くんのことは、知ってるから大丈夫」

 一方的に大丈ばれても、ぼくは依然置いてけぼりだ。というかこの状況、冷静に考えたら噴火警報ものの警戒レベルである。つまり速やかに避難しなければならない。

 しかしぼくは、現実を否定すべく、必死に抵抗を試みる。

「証拠は、あるんですか? あなたが《丑鍋組》の組長だっていう」

 正直な所、こんなに軽薄でチャラチャラした人間が、スダチの父親で水炊さんの元旦那であり、二人の生活を脅かす張本人だと、にわかには信じがたい。巌のような厳格な父親象が、ぼくの中の《丑鍋組組長》であり、これではノリの良い大学生だ。ザラメ氏はうーんと言って腕を組み、やがて「幼少期の愛娘?」と言って懐から一枚の古ぼけた写真を取り出した。

「国宝じゃねえか!」一目で分かる。この愛らしさは、紛うことなくスダチである。こんな珍品を持っている人間が、肉親でないはずがない!

「小僧くんの気持ちは、分からないでもない。舐められるとか舐められないとか、よく言うべ? あの人たち。あれは見栄で言ってるわけじゃなくて、舐められたら危険なのな。お互い怪我人を出さずに、対等な関係で取り引きをするための手段なのな。だが一つ問題があって、警戒心は強くなる。これは商売の世界では、あってはならないことで、企業は血眼になってポップでキャッチーなイメージを植え付ける。サービス業だってそうだべ? 笑顔は心理的ハードルを下げる。笑顔は金を生む。こっちだって商売だから、競合相手と同じことをするのは非効率だ。ボクから言わせて貰えば、ヤクザは舐められてなんぼやで」

「しかし今は財政難…?」

「お義母さんが死ななきゃなあ」

 死ななければ、その威光で反対派の人間を黙らせることが出来たと。

「でさ、本題なんだけど、うちの娘返してくんない?」

「はい、って言わなかったらどうなるんですか?」

「鯛焼きの鉄板あるべ? あれで挟んでじゅーって、美味しくなる」

 美味しくなってたまるか!

 脱兎のごとく逃げ出したぼくは、突如、茂みの中から飛び出してきた黒服によって、拿捕される。捕獲された宇宙人のようである。ぼくをザラメ氏の前にうやうやしく置くと、強面のグラサンは、そそくさと消える。

「逃げるともっと美味しくなるよ」

 どういうわけかザラメ氏は、成り行きで正座したぼくの大腿筋の上に立った。スネに砂利が食い込む。「あでででででで」顔面に触れる、布越しの柔らかいものが!

「あんっ。やめろよ、ちょっとドキドキすんべ?」

 この野郎。ぼくをアダルトグッズとして利用しやがった。だが軽率である。あそこが弱点だな!(当たり前だ!)

「なあ小僧くん」「はい」「お義母さんが決めたルールって、知らねえんだわ。ボクらには」「……」「関係ねいの。だーら、その気になれば、あばら家一つ荼毘に伏すぐらいわけねいの」「…死者を火葬するって意味だから誤用ででででで」「いうほど伝統あるルールでもねいしさ」「そうなんですか?」「お義母さんが明文化したのは、恋華が家を出たあとだから、二十年も経ってねいな」「何故今更?」「自分の娘を守るためっしょ?」

 水炊さんは『追放』と言った。しかしザラメ氏の言うことが事実なら、親子間で食い違いがあるのかもしれない。

「ザラメさん、残念ですが、決定権はぼくに無いんです。本人が臨戦態勢なもんで」「じゃあ協力してよ。小僧くんは、あの子を一歩外に連れ出せば良いから」「えー…」「ボクらってほら、ともだちんこじゃん?」「…茶魔語」「もちろん謝礼は弾むぜえ。パツキンロシアのムチムチバインが股間の北方領土を占領しちゃうぜえ。領有権は認めないぜえ」

 本当になんだコイツは! 清々しいほどの馬鹿だ! そして股間の〇〇で何でも下ネタ風になってしまうのは、妙に悔しい。

「残念ですが、ぼくの股間の択捉島は日本固有の領土です」

「ああしくった! コイツ、アンミラだった!」

「……」

 あんにゃろう。世間話に花を咲かせやがったな。

「ザラメさん、それにあなたの脅迫は脅迫足りえない」「……」「《めぞんアビタシオン》に手を出したと知れたら《会長派》の人たちは黙ってないでしょう?」「男爵から話は聞いてる、か」「…男爵」男爵芋か。「どちらかといえば、ぼくは里芋みたいなイメージでした」「脅迫ね。脅迫したつもりはねーんだけど」「嘘つけ」「ホント、ホント。ガチで。今時、家焼くぞーってナンセンスの極致だべ?」「…じゃあ爪でも剥ぎますか?」「こえー若人猟奇的だわー」「…恥ずかしくなってきました」「それに、自分が傷つく分には大丈夫って奴、思いの外多いぜ?」「そうなんですか?」「基本は一族郎等をー、だけどそれでも黙ってねえだろうなあ」

 前提として彼らは『反・丑鍋ザラメ』なのだ。住人でなくとも住人の関係者に手を出せば、難癖つけられかねない。ただでさえどこからが住人なのか判然としないのだ。

 ぼくは追い打ちをかける。

「それに、先ほどスダチの意思と言いましたが、本当は彼女の取り巻きが、帰ることを許さないのです」「ああ、あのアンデッド集団な」「《あかべこ倶楽部》っていうそうですよ」「かっけー」「…まあ、ご尊父がお気に入りであれば、構わないですけど」「うん。あかだま倶楽部は厄介だ」「打ち止めか!」「でも小僧くんたちが、うちの嫁はんを誘拐することもできねえべ?」「…はい」

 バレている、か。当たり前か。守ることに関して優秀でも、攻めることに関しては方法が無い。事態は完全にこう着状態である。お互い譲るつもりが無い以上、話し合いをしても無駄なのである。だから、おそらく、ザラメ氏は、あわよくばぼくが怖気付いてスダチを返してくれたらなあ、ぐらいに考えており、しかし本当の目的は、てっとり早い解決方法を提示しに来たのである。

「小僧くん度胸あるね」

「クソ度胸ですけどね…」

 一ヶ月間のホームレス生活で身についた。こんな所で役に立つとは。

「『げぇむ』をしよおぜえ」

「…ゲーム?」

「きみたちにとって『げぇむ』ったら、一つしかねえべ?」

「…《花一匁》」

 スダチと水炊さんを賭けて、げえむ。《花一匁》。

「試合方法は何ですか?」「お、乗り気だね」「返事はもう少し待って欲しいですけど」「賢明だ。ーー任せるよ。こっちが決めるとフェアじゃないって、怒るべ?」「どうですかね」「代わりに日時と場所は、こちらが指定する」「…何か思惑があるんですか?」「言うと思うかい?」「思いません」「稼がせて貰おうと思ってね」「あ、言うんだ」「言ってもボックンの勝利は揺るがねえから。ーー人を集めようと思う。人が集まる場所には、自然と金が落ちる」「どういうことです?」「イベント興業」「あながたのお得意な、お仕事だ」「そ。金になることは何でもしなきゃな。娘の奪還も派手にやる」「……」「《丑鍋組》の鉄則だ」

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