◆六幕『冷や飯と豚汁』

 目を開けたら真っ白い天井、ということはなく見慣れたシミだらけの天井だった。サナトリウム文学には程遠い。

 丸一日眠りこけていたという。肩の痛みは嘘のように消えていた。脱臼とは関節から骨が外れるだけだと思っていたが、その症状は多岐に渡り、神経を傷つければ二度と動かないこともある。ぼくの場合『亜脱臼』という言うなれば脱臼の成り損ないだった。どうせ芋太郎さんに担がれた拍子に、レゴブロックでも嵌めるようにパチンと元に戻ったのだろう。底の浅い白秋桃吉らしい怪我で、治し方だ。

「…ぼくの部屋」

 つまり《めぞんアビタシオン》だ。まだ数ヶ月だけど、ぼくの匂いが満ちている、気がする。実際自分の匂いを自分で嗅ぐことは、中々どうして困難なものだ。以前の下宿先も「桃吉の匂いがする」と言われるまで意識したことはなかった。言ったのは、スダチだ。

「……」試しに肩をぐりぐり回してみる。

 まったく支障はなさそうだ。

だが日常生活をおくれるとは思わなかった。

胸に去来する疼痛は誠の現実だ。

ぼくの哀哭は館内に轟いた。

二十歳を過ぎた男が声をあげて泣いた。

「うるせえ!」

 非道を生業とした根っからの悪党が怒鳴り込んでくるが構いやしない。ちゃちな恫喝に怖気づくほど、この悲しみはペラくない。ヤクザ高校生のがなり声など気にも留めず、ぼくは泣きじゃくり、喚き倒し、胸を掻き毟った。

 ほどなくして芋太郎さんは徒労と悟ったのか、どかっと腰を下ろすと腕を組んで口を結んだ。ぼくが泣きやむまで梃子でも動かないつもりらしい。だったらこちらだって意地でも泣き止んでやるものかと気合いをいれるが、そうなると人間中々上手く出来ない。

「泣き止んだか?」

「…涙と声が枯れただけです」

 涙と声が枯れたからといって泣き止んでいると思ったら大間違いのコンコンチキだ。

「じゃあ食え」

「…じゃあ?」

 ジャー三杯分はあろうかという山盛りのおにぎりが置かれていた。この人が持って来てくれたのだろうか。芋太郎、はじめての配膳作業か。

「…食べたくないです」

「男同士で傷を舐め合う。それが失恋の鉄則だ」

「舐めたくないです」

「ああそうかい」言って、ぼくの一日ぶりの食事に手を伸ばした。山盛りのおむすびが、つるつると飲み込まれていく。いったいこの人は何をしに来たのだ。傷心中の人間に健康アピールとは無神経にもほどがある。血の巡りの悪い脳筋トンマに、おセンチな若者の繊細で精緻な恋心は共感出来まい。次第に腹が立てきた。立った分減った。ぼくも負けじと冷えた握り飯に手を伸ばす。

「おいマヨ子!」

 芋太郎さんが呼ぶと、扉の影から現れて、よろよろと寸胴を運んで来た。

「…たんとお食べ」

「…豚汁」

 マヨ子はぼくらにお椀を渡すと、熱々の琥珀色の液体をなみなみと注いだ。

「冷えた握り飯には、熱い汁物が合う。『あの女』男の仕組みを弁えてんな」

「同感です」

 飲み干す度に豚汁は注がれ、一口飲むと塩むすびが止まらなくなる。既に腹ははち切れそうだが、八十過ぎた老人より食が細くては、若者として情けない。男二人でおむすびの山と寸胴鍋を空にするのは、正味十分もかからない。

「…おそまつさま」マヨ子は空になった寸胴を持ってまたふらふらと消えた。

「いやあ結構なお手前だぜ」一方芋太郎さんはパンパンの腹をさすりながら、まだ居座るつもりらしい。「腹がきつくて動けねえ」

「動いてください。なんであれば水饅頭みたいな腹で転がって行ってください」

「しかしたぶらかしの孫が、女に振られるとはなあ!」

 たぶらかしとはうちのジジイだ。目の前のヤクザと負けず劣らず悪徳ジジイだったので、女性も数多く泣かせてきたに違いない。せめてぼくにその才覚の一角があれば、人類の恒久的幸福に尽力を尽くしたというのに…。テングタケは菌類だから木に植わってろ。

「いやあ、心からいい気味だなあ!」

本当に、こいつは何をしに来たんだ。


 芋太郎さんの言う『あの女』の正体が分かった。

 重たくなった胃袋をさすりながら階段を降りた先に、縁起の悪い影を見た。料理=裏々読子の印象が強くて失念していたが、冷や飯を食わすという発想は料理人らしくない。あの人らしい発想で、あるいは物ぐさと言うべきか。

「よ」水炊恋華は、おぞましい格好をして言った。「じゃぱにーずじゃんくふーどは、旨かったけ?」胸元の大きく開いたタンクトップに、尻がはみ出すほど短いホットパンツ、足に履いたローラースケートで高速移動する。

「フーターズかよ…」

「とーたんが元気いっぱいになるようにね!」

「全部戻しそうです」

「チッ、サクランボーイはアンミラだったか」

 違うとも言い切れない。

「…タイショウ、ミテヨ、コレ」

「てめえマヨ子余分なことすんじゃねえ!」

 マヨ子が空の寸胴を水炊さんに見せつけた。余分なことをするな。

「膨れた下腹を見りゃわかるよ」

 水炊さんは見事なローラースケートさばきで、銀トレンチに湯呑みを乗せて持って来た。水炊恋華はじめてのお茶汲みである。驚愕である。せっかくなので一口貰ってぼくは言う。

「…色々と聞きたいことがあります」「私もだ」「何故縛られていたんです?」「知ってんだろ。私は運動神経にゃ自信があるが、膂力には欠ける」「運動神経に自信があるなら捕まらないでください」「だから逃亡は成功した」「あと質問の意図が微妙にずれているので訂正します。何故水炊さんが縛られなければならなかったんですか?」「知らん」「あの連中は誰なんです?」「こっちが聞きたいわ」「……」「いやーしっかし、貴重な体験したわあ。実の娘のマジギレ」「…スダチが怒ったんですか?」「てめえの姿を見た途端、癇癪起こしてさ、手に負えなかったね。それでもどうにかなだめ賺したんだけど、あんたが勝った瞬間に《あの連中》が現れて、私を縛り上げて娘を攫っちまった」

 あの仮面の集団だ。しかしあれは攫ったというより、顎で使っていたという感じである。

「次は私の番ね」「…どうぞ」「それで? てめえは、ふられた理由とやらを確かめたんか?」「はい…一応」「で?」「…復讐だそうです」「予習復習アリゾナ州か」「なんですかそれ」「××の××を使わせろとか言ったんだろ?」「言うわけないでしょ。フロントの方もまだなんですから」「アンミラボーズだったな」「…うるせー」「心当たりはないと」「正直、折れました。バッキリ真っ二つに」「あわよくばまた告っちゃうぜえとか思ってたんだろ?」「…ハーフアンドハーフ」「ピザ野郎の考えそうなこった」「…復讐って、んな大それた言葉が出てくるのに、ぼくはまったくの無自覚ですよ?」「誰か傷つけたことなんて、知覚するのは並大抵じゃねえ」「万が一スダチの気が変わって『復讐』について説明されても、ぼくには理解出来る自信がない」「……」「ダメ、ですか?」「うん、一理ある。…なんだよ。『意外!』みたいな顔すんなよ」「いつもみたいにねじ伏せられると思っていたから」「まあとりあえず、な。ほれ、次はてめえのターンだ」

 ぼくが質問する番。なんだか今日はいやに殊勝な水炊さん。

「…いや、スダチのお母さん」「いやん、お義母さんって呼んで。もしくはマム」「冗談キツイっす。あともう呼べません」「じゃあ娘と呼んであげて、スダチを。お父さん」「安いアダルトビデオみたいな設定…」もし水炊さんが居候を続けていたら、そんな未来もあったかもしれない。「…どうして黙っていたんですか?」「喋ったらお前来ないじゃん。ここに」「…ぼくはスダチの家出騒動に巻き込まれたと聞きました。水炊さんは《めぞんアビタシオン》で彼女と一緒に暮らすつもりだったんでしょう? にも関わらずぼくを入居させたのは何故なんですか? 結果として第一目標であるスダチにも逃げられていますし、あなたお得意の『気まぐれ』では言い逃れ出来ないほどの失策です」「私は娘の家出を一番の目標にしたおぼえはねえぜ」「……」「てめえも欲しい。娘も欲しい。それだけだ」「しかしそれでも、スダチがぼくを倦厭するのは目に見えていたはずだ。一つ屋根の下で仲良く暮らすことは…不可能です。そんなこと水炊さんも分かっていたでしょう?」「てめえがうちの娘との関係をきっちり清算出来ていないように、あの子もこのままじゃ妙なもの背負い込んで前に進めねえんだ」「スダチもあの一件を悩んでいるんですか…?」「荒療治かもしれないが、お互いのことが気になって仕方ねえのに、居場所も分からない、知ろうともしない。んなモジモジしてたらしゃあねえだろ。大学も行ってねえっつう話だ。まあ、あそこまでの拒否反応は想定外だったけど」

 ぼくの経験上、女性に袖にされること自体は、立ち直れないほど辛いわけではない。それよりも辛いのは、自分がこんなに悩んでいる状況で、相手はとっくに忘れて、平気の平左でテレビを見ているかもしれない。その温度差が辛い。変温動物かしら。だからスダチがぼく同様に《吐写真事件》を、気にしているのは、安心感のようなものを抱く。

「しかし、ならば尚更スダチの意図が分からない」

 まるで自ら傷つきに行っているようではないか。

「案外そうかもね」水炊さんは言う。「マゾヒストっぽいし」「…えー屈折した愛情表現」「確かにあの子の歪んだ精神性は理解に苦しむ」「水炊さんも?」「でもさ私は理解しようとする行為をやめるつもりはない。親子だから、ってのもあるけど、まだあの子を理解出来ないって、理解出来たわけじゃねえからさ」「……」「てめえは白秋桃吉は、丑鍋スダチについて、理解出来ないことを理解出来たのか? だとしたら教えて欲しいね。家賃タダにしてやっから」「…家賃ってタダじゃないんですか?」「だあほ。体で払え」

 考えてみれば、スダチの一挙手一投足を、ぼくが理解出来たことなど、ただの一度もなかった。そしてこれからも理解出来るとは思えない。我々の間には距離が開きすぎた。

 彼女を理解出来ないと、理解できる基準は何か。そんなものはない。恋とか愛とか聞こえの良い言葉でお茶を濁すことは出来ても、ぼくがどこで諦めるか。その一点のみである。

 一方理解し続けようとすることは簡単だ。答えが出るまで我武者羅に突っ走れば良い。例え答えが出そうになくとも、死ぬまでひた走れば良い。つまり努力なんていうのは、何かしら成果が出るまで耐え忍ぶことである。問題は金銭面や健康ややる気を含めた様々な《環境》を一秒でも長く維持し続けられるかどうかだ。水炊恋華はそれが出来る。本能的に、鼻歌交じりに、目的に向かって歩みを進められる。果たしてぼくにそれが可能だろうか。執念深さには自信がある。しかしそれはことテングタケにおいてであり、奴に関しても早々に袂を分かちたいと願っている。腐れ縁という超常現象が無ければ、無益な小競り合いはさっさとしまいにしたいのだ。だからこれはある種の正当防衛であり、言いたかないがぼくは普通の男である。

 テングタケだけに、固執出来る理由は何だろう。奴に一泡吹かせたい。その純粋な負のエネルギーがぼくを無性に掻立てる。ではスダチに付き纏うのも、負の感情を熱量とすれば、あるいは…。いやそう都合良くいくはずがない。

 器用でないのは、ぼくが一番知っている。

「考えれば考えるほど、スダチに拘る理由がありません」「手前の中で気持ちに整理がついたか。それだけ考えろ」「ついてないですよ」「じゃあそういうことだ」「でも納得出来なくて、一生引きずるなんて、世の中ごまんとあります」「バカほど小賢しい理由にこだわるんだよなあ」「それを一々清算しないと前に進めない、というのは合理的すぎて、逆に非生産的だ!」「じゃあ人参でもぶら下げるか?」「…βカロチン?」「コイツは愛娘の懐からガメてきたもんだが」「完全な窃盗ですよ」「…見るか?」「だから何ですか」「見れば分かる、いや見ずとも分かる」

 水炊さんが懐中から取り出したのは、葉書サイズのペラ紙…。なるほど、表を見るまでもない。圧倒的不快感。直感的な気色悪さに、背筋が震え上がる。思わず豚汁を戻しそうになるが、こらえた。「写真…」スダチのあられもない姿が映りこんでいるあの。

「確かにこれは見るに耐えんね」「…安心しました。ぼくの見間違いってわけじゃないですね」「だが違和感がある」「…違和感?」「その程度と言えばその程度だが、私にゃ看過出来ない」

 脊髄反射で食べてしまったので、ぼくは詳細を記憶していない。何だ。ぼくがふられた直接的原因が、転写されているのだろうか。

「…つまり水炊さんは、見せる代わりにスダチを救い出せと言いたいんですね」「愛娘のあられもない姿だぞ。相応の理由が無ければ、見せびらかすには抵抗がある。ヤンキー母ちゃんと言えどな」「…自覚はあったんですね」「だが私はお前に見せるつもりでいる」「……」「見た上でどうするかは、お前が決めろ」「ひとを変態に仕立て上げるつもりですか?」「変態なのは今に始まったことじゃねえ」「男の性です」「私から言えることは、少なくともあの子に今、男の影はない」「…ぼくにまだチャンスがあると?」「さあな。人生は常にチャンスだ」「…執念深さは全てに勝る」

 水炊さんは裏返した写真を突き出してきた。

「で、見るのか?」「見ます」「即答かよ」「変態ですから」

 と勢い勇んで言ってみたものの、直視に能わず。ぼくは薄目で焦点をずらしながら、見た。「これは…」それでも分かるほどの、違和感。「しかしこの御時世、これは万人に可能な技術ですよ。特にオシャレ女子には必須と聞きますし、うーん…冷静に考えると違和感でも何でもないかも」

「オシャレの切り込み隊長だらかなあ。うちの娘」

「何ですかそれ。しかし水炊さん、スダチを救い出すなら『違和感』よりも『この男』の方が、何か手がかりになるのでは?」

「心当たり、ねえのかよ」

「いやぼくがききたいぐらいです…」聞いて一発ぶん殴りたい。

 そして『心当たり』と言ってもスダチのもてっぷりは、目を見張るものがあり、一方で極端に仲睦まじい男の存在も聞いたことがない。顔を確認しようにも、写真の男はスダチの背中に隠れてまったく見えな、オロロロロ…。

「瘴気に当てられたか」「…丁重にお返ししますので、さっさと焼却処分してください」「焼却はしないが、手がかりはこれ以上無さそうだな」「暗礁に乗り上げたって感じですかね」「写真の男と仮面の連中、いったいあの子の周りに、何が付き纏っているんだ?」

 ぼくと水炊さんが頭を抱えた瞬間、豪快な音を立てて食堂の扉が開いた。

「お困りのようですね!」

「お、お前は…!」

 次回へ続く!


 ここまでのあらすじ。

 因縁の対決の翌々日、意識を取り戻した白秋少年だが、意気消沈でやる気がない! 水炊恋華がハッパをかけるも効果は薄く、スダチの行方は見当もつかない。仮面の集団は何者だ。写真の男は誰だ。そして丑鍋スダチの目的はなんだ。手がかりは役に立たず、事態は混迷を極める。そんな八方塞りの我々の前に現れた人物とは!

「なんだ、部外者かよ」

「フェミさん」

「唯イツムです」唯イツムだった。「先日はどうもです。中々楽しい見世物でしたよ」

 水炊さんが顔を顰めたのが分かった。あまりこの二人、相性が良く無さそうである。しかしフェミさんはそんなものお構いなしだ。

「話は全て聞かせてもらいました」

「おいデバガメだぞコイツ」

「すいません水炊さん。ここはぼくに任せて、そこらでタバコでも吸って来てください。あとフーターズは十分堪能させて貰ったので楽な格好でどうぞ」

「あ? 邪険にする気か? 浮気か?」言って水炊さんはぼくの顔面をフェイスハガー。

「違いま、あでででで」浮気とはこの場合適当な言葉なのだろうか。

「管理人さん、僕は心に決めた人が居るので心配には及びません!」と唯イツム。

「居ようが居まいが関係ねえだろ手前は。そういう顔をしている」

「やだなあ人は見かけによらないっていうでしょう? まあ僕は見かけ通りなんですけど」

「…てめえ」

 一触即発。一人ハラハラするぼくを無視して、フェミさんは煽るし、水炊さんはボルテージを高める。戦争でもおっぱじめられると厄介だ。ぼくはフェイスハガーを逆手にとって、彼女を捕まえるとじりじり移動して廊下へ放り出した。「すんまへん」

「おぼえとけよ! 私を爪弾きにしたツケはでかいぞ!」

 水炊恋華、人生初の捨て台詞である。

「まずいことになっちゃいましたね」食堂の丸椅子に腰掛けてニコニコしていた。「まああとで賄賂でも送っておきますから、多分大丈夫です」「…で? 水炊さんとギスギスするために来たわけじゃないだろう?」「はい。さっそく本題に入ります。僕の推測が正しければ、事態は急を要します」「ふむ」「丑鍋スダチさんを連れ去った連中、あれは《八年生会》です」「…なんと不名誉なネーミング」「もちろん落伍者集団です」「…落ち研?」「大学構内にあまねく落ちこぼれたちの吹き溜まりです。そして公認・非公認団体を裏で牛耳る大元締めです。さらに数々の不正行為を取り仕切る悪の総本山です」「まさか…」「そうです。《野良大学生事件》の被害者たちです」「……」「と言ってもあなたの邪知暴虐によって」「…すげえこと言うな」「《八年生会》は壊滅状態です。だから彼らは《元・八年生会》と言った方が正しいですね」

《野良大学生事件》によって数々の団体が、解散もしくは無期限活動停止に追いやられた。過去最多の留年者数とは、些か大げさすぎやしないかと思っていたが、悪の総本山を打倒したとなれば、流言といえど信憑性は低くない。フェミさんは続ける。

「前述の通り《八年生会》とは、大学構内に蔓延る不正行為を取り仕切っています。それだけなら可愛らしいんですが」「可愛らしいのか?」「無関係のまま大学生活をおくることも出来ますから」「そんなもんか」「しかし彼らは人攫いのプロなんです」「…穏やかじゃねえな」「落ちこぼれ、みそっかす、嫌われ者を言葉巧みに騙くらかして、堕落の道へと誘い込むのです。皮肉な話ですね。大学デビューしたイケイケGOGOを裏で操るのが、その雰囲気に馴染めない負の集団だったなんて」「…スダチは、人攫いのプロを使って」「自分を攫わせた。あなたから逃げるためにね」「待ってくれ。しかし腑に落ちない。フェミさんの言う」「イツムです」「《八年生会》は、仲間を求めて誘拐を繰り返しているのだろう? だったら《野良大学生事件》の首謀者である丑鍋スダチを、自分たちの居場所を奪った張本人を、仲間に勧誘するか?」「違うんです。逆なんです」「…逆?」「仲間に勧誘したのは、丑鍋スダチさんなんです。《野良大学生》に救いの手を伸ばしたのは、事件の首謀者なんです」「つまり《八年生会》を解体したのは、失策ではなく…」「はかりごとの一つです」「……」「それに実行犯はあなたですよ? だからもしかしたら、丑鍋スダチさんは、そもそも罪に問われていないかもしれません」

 スダチの気紛れ、の方がよっぽど良かった。彼女の描いた絵図は《野良大学生事件》の時から、既に始まっていたのである。ぼくはキラキラと目を輝かせながら、自分がふられる計画に加担していたのだ。

「そこまでスダチが望んだ状況なら、ぼくはもう手出しが出来ねえじゃねえか」「しかし白秋さん。形はどうあれ、彼女は、丑鍋スダチさんは《八年生会》の手によって誘拐されたのです。拉致られたのです。失うものが何もない彼らが、いつ暴挙に走るとも限らない。身の安全は保障しかねます」「…だが」「それにですね!」「……」「要塞めぞんアビタシオンから逃げ出したのは、完全に失策です」「…あ」「そう。『ここに手出しの出来ない連中』は《八年生会》なら襲い放題ってことです」「…スダチは《丑鍋組》に連れ戻される」「人攫いのプロは、所詮セミプロだったってことですね。だから管理人さんは焦っているんです。一度あそこに戻ってしまえば、早々逃げ出すことは適わない。加えて監視の目はより強くなる。次に家出が出来る機会はいつになるか、いや果たしてそんな機会訪れるのか…ってね」

 スダチが家出に成功したのは《丑鍋組》で最大権力を握っていた祖母が死んだからだ。それほどまでに大きな事件が起こらないと、スダチは籠の中の鳥である。

「さてそれを聞いて白秋さん、どうします? 丑鍋スダチさんを助けに行きますか? 行くのであれば、ぼくは《八年生会》の根城を知っている。それをお教えしましょう」「ずいぶん杜撰な管理だな」「基本落ちこぼれですから。それに彼らは誘拐のプロであって潜伏のプロではないのです」「二つで一つだと思うがなあ…」「さらに言うなら、ぼくはバランスブレイカーですから。とても優秀です」

 バランスブレイカー。物語には直接関わらないが、ここぞというときの便利屋だ。

「一つきいて良いか?」「何なりと」「お前は、あの写真についてどう思う?」「あくまで仮説ですが」「ああ」「写真の男は仲の良い相手ではなく、むしろ敵です」「どういうことだ?」「例えばこんなお涙頂戴ストーリーはどうでしょう」「…浪花節か?」「丑鍋さんに取り込まれた《八年生会》だったが、彼らは復興計画を虎視眈々と目論んでいた。手始めに自分たちをこんな目に合わせた男、白秋桃吉をフクロにしてやろうぜ。それを耳にした丑鍋さんは、あなたを救うため、仕方なく、その身を…。とかね?」「ダウトだ。だとしたらその写真をぼくに見せる必要はない」「ですね。だから間違いです、多分」「いやに素直に認めるな」「僕自身これは妄想の域を出ないな、って思いますから」「……」「でも《八年生会》や《二号館》から出てきた《元・八年生会》の連中は、この目で見た真実です。それ以外も確固たる情報に基づいた推理です。妄想とは質が違う」

 唯イツムは、どういうわけかぼくの手助けを買って出てくれる。その行動が不利益をもたらさないことは、先日の《花一匁》で証明された。直接の勝因になったかどうかは微妙だが、誤情報は無かった。

「……」

「……」

「分かった。行くよ。助けに行く。まだぼくはスダチとの関係に決着を着けちゃいない」

「よし。良く言った!」直後、食堂の扉が再度勢いよく開かれて、入って来たのは水炊さんだった。「今度は共闘だ」むちゅうと唇を奪われた。最初のキスはタバコのフレイバーがした。

「この人たちスケベしてる!」と言って唯イツムは、赤面しなが走って行っていく。純情な所もあるらしい。

「おいトーキチ。私は良いことを考えたんだ」

「不吉な予感しかしません」

「お前が負の感情を動力源にしているなら、写真の男を一発殴るって目標はどうだ?」

「ーー悪くないです。それならちょっとは、頑張れそう、かも」

「決まりだな」

 手始めに、鬼ごっこだ。唯イツムを捕まえる。


「おい大将」芋太郎さんである。

 唯イツムを拿捕した我々を呼び止めた。腐った床板を踏み抜いて動けなくなっていたので存外簡単だった。

「何だつるっ禿げ」

「今直情的に飛び出して行くのは、軽率じゃねえか?」

「……」

「丑鍋の連中の思う壺だぞ」

「…どういうことです?」

 ぼくは、バツが悪そうに黙り込んだ水炊さんにたずねた。答えたのは芋太郎さんだった。

「メリー・丑鍋。丑鍋の絶対権力者であるババアが死んだのは言ったよな?」「だからスダチは家出が成功したんですよね?」「ああ。同時に、大将が自由でいられたのもクソババアのおかげだった」「……」「しかしそれが死んだ今、丑鍋の親分、本人は社長っつってるが、丑鍋スダチの親父、そしてコイツの旦那は、コイツを連れ戻そうと画策している」

 水炊恋華との再会。深夜のコンビニで一人酒盛り。この人ならばやりかねないと思っていたが、そういう理由があったのか。あの時間、人目を忍ばないと自由になれない。

「元・旦那だ」水炊さんはきっぱりと言い放つ。「それにババアの悪行を聞こえの良い言葉で片付けるんじゃねえよ。ありゃあ追放だ」

 おぼえている。ある日突然訪ねて来た水炊恋華は、自由などと華々しいものを振りかざしちゃいなかった。全てを取り上げられ、呆然として軽過ぎる体に戸惑っていた。絶望していた。今のように、放埓に生き始めたのは、しばらく経ってからである。

「そういうことにしておいてやる」芋太郎さんは言う。

「ふん」

 思いの外、その生き方は、水炊恋華の性に合ったのだろう。結果オーライと言えばそうだが、要するに幼いスダチを取り上げられたのである。苦しみは、想像を絶する。

「つまり芋太郎さんは、お目付役ですか?」「んな格好良いもんじゃねえ。だが俺と《めぞんアビタシオン》がある限り《丑鍋組》の連中は、そうそう大将に手は出せねえ。今際の際にババアが送り込んだ最後の懐刀ってとこだ」「なるほど。そこまで言うなら、スダチの救出にご助力頂きたい」「そうしてえのは山々だがよお」「…え?」「力を貸すのは吝かではない。連中を黙らせるのは造作もねえ。チャカでもヤッパでも持ってこい。だがな相手は本職だぞ? 連中の目的が『争い』ならまだしも『誘拐』である以上桜肉芋太郎は気休めにしかならない」「……」「大将がアビタシオンから出るのを、虎視眈々と狙ってやがんだよ」「しかしこのままでは、スダチは《丑鍋組》に逆戻りです」「大将は戦地に赴かない。それが合戦の鉄則だ」

「このタコ入道。私を愛娘救出に行かせねえつもりだな」水炊さんは忌々しそうに吐き捨てた。「指を咥えて待ってろって言いてえのか?」

「話が早くて助かるぜ」

「あの子は私が連れ戻す。その大任を誰に譲れようか」

「俺だ」

「第一、丑鍋の連中が動きだすとは限らないじゃねえか」

「娘の家出以降、連中は躍起になっている。嫁にも娘にも逃げられたとなれば面目丸潰れだからな」芋太郎さんは全く譲らない。「大将、あんたが丑鍋に戻ると決めたのなら俺は異論ない。それがババアの遺言だ。だがな、無理矢理連れ戻されたとなれば、切腹ものの失態だぜ。高校卒業するまで、腹は切れねえんだよ」

「…おいトーキチ。てめえはどっちの味方だ」水炊さんがぼくの方を向く。その視線はどこか縋るようだった。

「…敵味方で言えば、水炊さんの味方です。だからこそ、ぼくは芋太郎さんに賛成です」

「……」

「こんなのはどうでしょう。いっその事二人一緒に連れ戻される。そうすれば誰憚ることなく公然と親子愛を深められます。しかしそのような形での再会は、スダチにとっても水炊さんにとっても、望む所ではないはずだ。だからスダチは家出を試みたのだし、水炊さんだって帰ろうとは思わなかった。目的を間違えるな、と言ったのはあなたでしょう?」

「…言ったか?」

「言った、はずです。多分」

 我々の目的は、スダチの奪還である。それ以上でも以下でもなく、必ずしも水炊さんが赴く必要はない。

「スダチの救出は、ぼくと芋太郎さんで行きます」

「あほーっ!」水炊恋華の罵倒が館内にこだました。半泣きで駆けて行った。こんな風に彼女を立て続けに拒絶するのは、初めての経験である。罪悪感がムクムクと湧き上がるが、同時にどこか心地よくもあった。

「可愛い所あるじゃないですか」

「お前…いたのか」

「どうも唯イツムです。早く助けてください」

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