◆五幕『第一回《花一匁》』

 戦いの日。時刻は正午。

 我々は《二号館》へ向かっていた。その人数や、優に百は超えており、移動というよりちょっとした行軍である。よくよく見れば唯イツムが「どうも」と手を振っているし、部外者がコロコロクリーナー式に、くっ付いていてもおかしくない。

 初陣がアウェイということで、一抹の不安をおぼえるが、逆境こそ盤石な勝利が約束される。スダチを迎え入れた後も、近い内にまた同様の危機が訪れるのだから…。

「しかしどうも…」なんと言うべきか、皆の雰囲気が浮ついている。ピクニック気分であり、読子さんなんかご馳走の詰まったバスケットをぶら下げている。思い思いに歌って、楽器を奏でて、酒を煽っている。ちんどん屋か。

 どうせ戦うのはぼく一人だ。悲壮感を漂わされるよりはマシだ。

「…お前は昆虫採集でもするつもりか?」マヨ子は首から虫カゴをぶら下げていた。しかしどういうわけか網を持っていなかった。

「……」からくり人形みたいにこっくりと頷く。

 節足動物を素手で追い回したいタイプなのだろう。

 空は今にも泣き出しそうな曇天だ。これが炎天下ならば、背中の太陽と熱々のコンクリートで、両面をこんがりと焼かれて体力を大幅に奪われていただろう。僥倖である。予報では一日中曇りだが、ぼくは雨具の用意を忘れなかった。普段なら雨具は持ち歩かず、当たれば吉、外れれば気象予報士に責任転嫁する。だが今日はそういうわけにはいかなかった。《めぞんアビタシオン》に入居するスダチが、濡れてしまうかもしれないのだ。

 奇妙なキャラバンは三十分も歩く内に《二号館》に着く。

 ご丁寧にずらっとアパートの前に並んでいた。向こうは向こうで不敵な笑みを浮かべて臨戦態勢といった所である。しかしちらほらと見受けられるのは、松葉杖やギブスや包帯をこれ見よがしに巻いている。もしかして肝試しの被害者か? 唯イツムの策は効果覿面のようだが、妙な気迫は逆に火をつけてやいないか?

 その先頭に立つ男が一人。テングタケである。ぼくは言う。

「試合内容を教えないつもりだったのか」「だったら?」「陰険な奴だ」「お互い様だよ」

 にやりと笑う。忌々しいそのハンサム顔は、どんな顔をしても割と様になる。ぼくが同じ顔をしても一過性チック症を疑われるだけだ。何が何でも、涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしてやらなければ気が済まない。ハンケチーフで拭ってやるふりをして顔面に擦り付けてやる。鼻水でカピカピに固まって、二度と他の表情が出来なくなれ。

「強いて言うなら、俺が伝える必要がなかった」「どういうことだ?」「手間を省いた」

 ようするに情報が漏れるのは、想定の内ということだ。結果論ではないか。

「じゃあ、早速始めようぜ」テングタケが言うと二人の小男が現れた。「審判は前へ」

 芋太郎さんとドアさんは、力強く握手をすると、みるみる間に力比べになり上腕二頭筋がムクムクと膨れ上がる。だが直後連れて行かれてしまった。ドアさんを連れて行ったのは読子さんである。優しく手を取って瞬く間に骨抜きにする。そしてもう一人、向こうの刺客は、芋太郎さんに七色の煙が出る煙管を咥えさせると、これもまた別の意味で骨抜きにした。勉強が出来ない原因は、これじゃねえか?

 テングタケは、同じ速度で展開する前哨戦に、動揺を禁じえない様子だ。

「ふむ。誰の入れ知恵だい?」「うるさい」「きみの所、バランスブレイカーが居るね」「黙れ」「部外者を入れるのは、さすがにルール違反じゃないか?」「どうでも良いだろんなこと」「……」最強の三段論法で迎え撃つ。奴の呆れ顔など知ったことか。

「まあいいや」そう言うとテングタケは指を鳴らす。後ろの住人が左右へ均一に割れた。「《二号館》へようこそ。歓迎するよ」

「暇かっ!」

 ぞろぞろと乗り込んでいく我々は《めぞんアビタシオン》と書かれ所定の位置に座りこんで早速宴会を始めた。

 テングタケとぼくは、十メートルほどの距離を取って向かい合う。

 奴の言う『キャッチボール』は、単細胞らしく実にシンプルで、お互い球を三球ずつ投げ多く取った方の勝ちというものだった。キャッチボールというよりサッカーのペナルティキックのような試合である。

「おい。取れない球を投げるつもりじゃないだろうな」「無論そのつもりだ」「それじゃあ勝負にならないぞ」「その辺りはお互いの誠意と審判の裁量に任せよう」

 鼻の下の伸びきった野人と、前後不覚に陥る老害を見る。さて、どちらも威勢の良いことを言っていたが、いざとなるとまったく頼りにならない。あやふやな判定で、スダチの将来を左右するわけにはいかない。

ぼくはお互いの中間地点にぐりぐりと踵で線を一本引いた。「ここを必ず超えること。いいな」「へいへい」とテングタケは聞いているのかいないのか、生返事をする。聞く気がないのは確かである。誠意が無いのも確かである。お互い。テングタケは言う。

「ではとっとと始めよう」「ちょっと待て。大事なことを忘れるな」「大事なこと?」「スダチはどこだ」

 その御姿を確認しないことには、試合所ではない。

「それに関しちゃ私が責任を持つよ!」

「水炊さん…」降り注ぐ声にぼくは《二号館》の屋根を見上げた。「なんかご無沙汰です」

「だな! そこのハラタケ目もな!」

「どうも」

 水炊さんは腕を組んで胸を反らし傲岸不遜な態度で宣う。

「私の愛娘、丑鍋スダチはアパートのどこかへ隠した! 勝った方に部屋番号を教えてやる。確認なんて無粋だぜ! 敗者はただ消え行け! 勝者は迎えに行け! 以上!」

 ロマンティックな提案だが、水炊さんの言うことなので、それ以前に信用出来ない。テングタケも同意見のようで(反吐が出る)憐憫の視線を向けている。

「うるせえ! とっととボンバイエ!」

 殺せと言いたいらしい。まあどっかの似非ハンサムよりは信用出来るので、良しとするか。テングタケも同意見のようで(虫唾が走る)所定の位置へ歩いて行った。

 結果から言うとこれは恋の鞘当でも何でも無かった。ただの消化試合だ。

 で。

 どういう経緯かぼくから投げることになった。

 無策。

 考え無しというわけでなく、ぼくは策を弄すれば失敗するタイプだ。それに厳密な判定基準がない状況で、下手に小細工を打っても活路は見い出せない。とにかく全力で投げてみて、最悪ドアさんを使って審議まで持ち越す。

「ふんっ!」

 弾丸めいた白球が真っ直ぐに飛んでいく。コントロールも球威も抜群で、ドラフト一位指名も夢ではなく、この場にスカウトマンが居ないことが悔やまれる。

「ナイスピッチ」しかし思いのほかそういった球は取りやすいもので、甲高い良い音を立ててテングタケのグラブに収まった。「これで俺に一点」

「……」前述の通り様子見だ。焦るような時間ではない。ボールを取れば振り出しに戻る。

 奴はまるでマウンドに立つピッチャーのように手元を隠す。相手に球種を明かさないための常套手段だが、所詮グーでもチョキでもパーでも素人相手に意味を成さない。恐らく雰囲気作りの小細工であり、その証拠に奴が放ったボールは、ふんわりとロブショット。手元が狂ったのか、スローボールの一種か、いずれにせよ素人にとってボールは遅ければ遅いほど取りやすい。

 策に溺れたな、菌糸類!

 気になることをあげるとすれば、その球は白球ではなく赤かった。今は天高く舞い上がり米粒大の大きさだが、おそらくソフトボールぐらいのサイズである。だが色もサイズもさして問題ではなく、目くらましの太陽もぶ厚い雲に覆われているし、風が吹く気配もない。ぼくの構えたグラブめがけて一直線に飛び込んできた。

 直前、その球は腐ったトマトのように、ぶよぶよに見えた。

 ジャストミートのはずが手ごたえはなく、バシャッという水音が耳に届き、グラブから溢れた水で頭から靴の先まで、濡れ鼠になった。

「…おいおいありかよ」

 力なく地面に落ちたのは、潰れた水風船である。

手元を隠していたのは、なんのこっちゃない。投げる前に文句を言われないようにするためだ。山形に投げたのは自分の手元で万が一破裂しないようにするためだ。

「あー、残念。取れなかったなあ。まあ水じゃあ取りようがない」

「こんなこと許されるか!」とぼくは語気を荒げる。ずぶ濡れの頭が一瞬で沸騰し、つむじの上で積乱雲を発生させた。「審議だ審議!」審判ズに判定を求めるが、完全に腑抜けて試合を見てもいなかった。

「俺は野球ボールを投げ合うなんて一言も言ってないよ」悪気などこれっぽっちもなく、してやったりといった表情である。「審判がアレな以上勝負方法の決定権は、俺だ」

「この兵六玉!」真っ当にボール投げする輩でないのは分かっていた。分かっていながら勝手に白球だと思い込んでいた。忌々しくも、これはぼくの過失である。「違う。試合はこれからだ…。まだ終わってはいない」

 だが、準備が無い。ぼくの心情はころころと変わる。慢心から憤慨へ、そして今は放心だ。気持ちばかりが焦り、その実頭は働いていない。こちらから仕掛けなければ負ける。

「トーキチこれ…」ちょいちょいと引っ張られた。マヨ子が俯いたぼくを覗き込む。「…ジーンペイ」またその妄想生物かとうんざりする。「…違う!」妙に力強い物言いに気圧された。「…くはない」どっちだ。そして持って来た虫かごをぐいぐい押し付けてくる。

「開けろということか?」果たして、その中には…。「こいつもジーン・ペイなのか?」「…これを使う」「お前が捕まえたのか?」「わ、わたしは捕まえてない!」「…何を恥ずかしがってんだ?」「がってない!」「……」「ジーン・ペイは、とても丈夫だから、多少乱暴にしても平気」「そうか。ありがとう」

 さて、ようやっと冒頭部へ戻って参りました!

 出してやろう、おいで、とぼくは虫かごを開ける。のっそりと姿を現しグローブの上へちょこんと乗った。でかい。これほどの大きさになると人語を解するのか。正直一瞬うろたえるが、むしろうろたえる程度で済んだのは、いつもの連中から溢れ出る禍々しさを感じられなかったからだ。度重なる脱皮で脱ぎ捨ててしまったのか。長たる風格と愛らしさすら備えている。ぼくを心の清らかさを見抜き安心しきっている。

 しかし時として人間は感情と相反する行動をするものだ。

 ジーンペイの先輩として、人間の非情さを教えてやらねばならない。

 先輩、なのか?

「どこへなりともいっちまえ!」

 ぼくはグローブを思いっきり振りかぶる。さすがに素手では抵抗があった。

 ジーンペイは一直線にテングタケの方へ飛んでいく。潜在的に人間は、飛来物に恐怖をおぼえるという。さらに重低音の羽音だ。こうなると愛らしさは消し飛んで、恐怖の大王ハイブリットゴキブリである。さあ悪魔の生まれ変わりに、逃げ惑いやがれ!

 勝利を確信した刹那、テングタケはこともなげに掴んだ。それも「素手…」キーと虫の断末魔が聞こえた気がする。

「確かに俺はシティボーイだった」「…同郷だろ」「しかし、ここでの生活は、センセーショナルでショッキングなことばかりだ。殊更、多様な昆虫との共存は、価値観を根底から覆した。抗いようのない恐怖と寝食を共にした時、人間はどうなると思う? やがて尊重するようになるのだ」「…尊重する相手を握りつぶすなよ」「潰しちゃいないさ」

 テングタケが拳を開くと無傷のマダゴキが居た。そっと地面に放つと、名残惜しそうに触覚を絡ませてくる。「お行き」のそのそと森に消えていく。

「…スタジオジブリのヒロインか」

 これがやがて日本の生態系をひっくり返すのは、また別の話である。

 得点は2ー0。完全に追い詰められた。次を捕らなければ、敗北は免れない。背水の陣。

「あらよっ!」

 奴が次に打ち上げた球は、今度こそ正真正銘白球だった。

 そう『打ち上げた』打ち上げ花火のように、天高く舞い、白く長い尾を伴っている。

「ありゃあ何の小細工だ…」

 山なりの白球は、重力に従ってぼくのグラブへ飛び込んで来る、直前、目測がずれた。

「ボールが、動いた!」

 物理法則を無視して、何の魔法か科学技術か、グラブをひょいと避けたのである。

 違う。よくよく見れば、白い尾はピンと限界まで張り詰めたゴム紐だ。

「そら、追いかけな」勝利を確信していた。

 ゴム紐付き白球は、物理法則に従い元に戻ろうとして、ぼくとの距離を広げる。反射的に追いかけるが、追いつけるかどうか。本来ならぼくの身体能力では到底間に合うはずがない。『本来ならば』それは自分でも驚くべき誤算と熱量だった。

「がんばれ」

 抑揚の無い薄い声援が天空から降り注いだ。瞬間この身は羽のように軽くなる。後先考えない捨て身のヘッドスライディング。ザーッと地面との摩擦で腹の肉が擦り下ろされる。

 奇跡の熱量をもたらす声援の主は、丑鍋スダチその人だった。

 ぼくは向こう十年の筋肉痛を前借りして、神がかった反射神経を発揮する。白球をゴムごと引きちぎった。勝因の一つとして『点』である球よりも『線』である紐の方が掴みやすかった。まあ、ちぎれたゴムが顔面直撃するのは、ゴムパッチンのお約束だが。

「取っひゃ」鼻が痛い。存外威力が強く、生暖かいものが伝う。

 この流れを逃してはならない。怨念を込めてぼくはライン際ギリギリで即返球を試みる。最後の一球だからと言って、大事にしていては負ける。そして大事にするほど策はない。

 理由をつけるなら、テングタケは声の方を向いたのである。目を逸らした。動揺したのである。一方ぼくは確かめるまでもない。その声を聞き間違える道理があろうか。

「受け取れ血染めの絶好球!」

 スダチの声を聞いたぼくの剛速球は、全盛期の大魔神に匹敵する。加えてこの近距離と抜群のタイミングだ。殺気を察したのだろう。忌まわしきハンサム面が、よそ見から正面を捉えた瞬間、直撃した。何かが砕ける音がした。スプリンクラーのように、真っ赤な鼻血を撒き散らしながら、倒れた。

 ようやくスダチの御尊顔をなむなむした。数ヶ月ぶりだが相変わらず美人でむしろ美貌は増していた。おそらく仕掛けたのは水炊恋華だ。危険な賭けである。テングタケ同様に、動揺していた可能性もあり、確率的にはその方が高い。ぼく自身予想外の胆力だった。

 テングタケは仰向けに寝転んでピクリとも動かない。一生そこでくたばれと思う。そのままぼくの勝利になれと思う。認めたくはないが、奴は完璧に策を練ってきた。自分が試合内容を決められる利点を、最大限に生かしてきた。水炊恋華の気まぐれが無ければ、この段階で勝敗が決していた。だから次に出て来るのはまず間違いなく奥の手である。

「……」ぼくの願いは虚しく、奴はわりかし早く起き上がった。ボールの縫い目状の痣が出来て、鼻腔からとめどなく鮮血が流れている。ざまあみろ。流すだけ流して草木を育め。先に卑劣な手段を用いたのは手前だ。毅然と立ち向かうべくぼくは臍を固める。奴は流れるように次の球を構えた。

「……」

 その目は据わっていた。鬼気迫る雰囲気に言いようの無い恐怖を感じる。日頃の余裕は無く「…お、おい」思わずぼくが心配してしまうほどだった。

「これで終わり」と言って振り被りはしない。奴は常にアンダースローである。最後まで正々堂々、陋劣なる手段を用いて、勝利を掴みとる。その気持ちに迷いはない。

 曇り空でなお鈍く、球は輝いていた。予想通り何か仕込んでいる。妖しい光だ。見極めるべくじっと目を凝らすが、果たしてその正体は、意外にもあっさりと分かった。

「砲丸だ!」

 脳みそが命の危険を訴える。陸上競技用の鉄球を、あろうことか奴は放り投げた。仇敵といえど、同じ人類であり、下手をすれば病院沙汰か、最悪の場合医師すら匙を投げる。

 血も涙もない。お前はミニユンボか!

 他二球とは質の違う恐怖を感じる。他二球が『取れない』ことを重視しているのに対し、この一球は『取ったら危険』である。毛色が違う。試合という観点から見れば前者の方が効果的だが、後者は人生を通してぼくをぶっ壊しにかかってくる。万物を打ち砕く悪魔の雨は、誰であろうと避ける他選択肢は無い。

「…本当か?」

 ぼくは落下予想地点から身を捻るが、どういうわけかグラブをはめた左手だけは残った。動かない。一瞬パーキンソン病を疑うが、そうじゃない。こちらがぼくの真意だ。

 左手一本でスダチの安息が得られるのならお安いもんである。何より、取る気になれば取れるものを見逃すとは、中々どうして理屈に合わない。既にこの身は満身創痍であり、終わったら病院に直行は疑いの余地が無く、あと一つ治療箇所が増えた所でそうは変わるまい、治療費。この後に及んで、金の心配か白秋桃吉。つい顔がにやつく。これを取ってもまだ同点で、勝利が約束されたわけではない。にも関わらず、意中の人と一つ屋根の下、寝食を共にする姿を思い描いている自分が、滑稽過ぎた。一度ふられているにも関わらず、心のどこかでもう一度やり直せるのでは無いかと夢見ている。

 目的がずれている。

 スダチをテングタケから守ること。そしてぼくを袖にした理由をたずねること。それが今回の目的だ。だが勝負の後は、ことを起こすには絶好の機会である。

 大丈夫。グラブのいわゆる『ウェブ』の部分に落とし込めば、手の平が割れるようなことはない。頭は冴えていてイメージは明瞭だ。体全体のバネを駆使して勢いを殺す。最悪格好悪くても地面に体から転がってしまえばいい。あとは握力の問題だ。

 ぼくは眼前の砲丸を、グラブでふんわりと包み込む。

「――ィギッ!」

 その威力は想像を遥かに超えていた。弾丸はグラブにすっぽりと収まるが、膝のクッションを使うよりも先に、体から地面に転がるのも間に合わず、慣性を殺しきれずぼくの肩があらぬ方向に曲がる。予想以上の重力は、重くて速い。やけに左腕だけ長く見える。

「トーキチ…」マヨ子が紫色の顔をしているが、ぼくだって何が起こっているかぐらい分かる。るろ剣でいたぞ、こんな奴。それよりも問題は鉄球を放していないということだ!

「おいテングタケ! 同点の場合はどうなるんだ?」不思議と痛みは無い。キャッチボールハイである。

 奴は、ハッと我に返る。そして「終わらせ方を決める」と言った。ぼくもそれには同意見である。こうなったらじゃんけんぽんでも、ちっけったでも、おっちゃっちでも、勝敗を決めるべきだ。お互い怪我を負いすぎており、引き延ばすのは得策ではない。

 話し合いをすべくぼくらは顔を付き合わせた。その時である。

 失念していた。というか頼りにしていなかった。というか役に立たなくしたのは、ぼくらであり、本来はこういう時のために彼らが居るのだ。千鳥足だが、鶴の一声である。

「最後のは、五百億点入るにきまってんらろー」

 芋太郎さんは、呂律の回らない口で宣言し仰向けに倒れた。手には一升瓶とキセルを握り、体中の穴から七色の蒸気を吹き出している。焦点の合わない目がばらばらに動き、気を違えているのは明らかだが、幸いなことに何を言っているのか辛うじて聞き取れた。

「五百億一対、二…?」

 もちろんテングタケは異を唱える。自陣の審判に判定を仰ぐが、既に読子さんが先手を打っていた。ドア氏は骨抜きにされた後、血を抜かれており、何かむにゃむにゃと唱えているが、誰も聞き取ることは適わず、やがて意識を失う。ご丁寧に三倍の太さの針が、お尻から突き出ていた。氏の名誉のために付け加えておくが、恍惚の表情である。

「……」

 テングタケは信じられないものを見る目でぼくを振り返る。膝から地面に崩れ落ち、心なしか迸る鼻血の量が増えた。奴の怪我はせいぜい鼻骨骨折だが、ぼくは全身の打撲、擦過傷、脱臼、そして鼻血、おまけに全身濡れ鼠だ。圧倒的にこちらの方が被害が大きい。しかし得たものも大きい。

 ぼくは近づいて脱臼した方の手で二・三発ビンタをかます。腕が動か無いのでビンタというよりエルボーやラリアットに近かった。ぼくも痛い奴も痛い。とりわけ肩に鋭い痛み走り、ゲラゲラ笑いながら地面を転げ回った。それでも痛み分けにはまだ足らない。奴の心の痛みは、想像しただけで四肢が千切れるに等しい。

 滂沱の涙を流しているテングタケの頬を掴んで、せめてもの手向けとして言葉を残す。

「ざまあみろ」

完全なる逆転さよならホームランだ。


 上半身びしょぬれの脱臼男がアパートの中をうろついている、という通報があっても言い返す手段はない。勢いだけで乗り込んで来たぼくは完全に不審者だ。スダチの部屋が分からず、殺人鬼のように一つ一つノックして回る。水炊さんが仕事を怠ったせいで手間が増えた。まあ勢いだけで乗り込んできたせいなのだが…。やがて「どうぞ」と聞き覚えのある返事がした。心拍数が上昇する。血圧が一気に上がったせいか、目の前が真っ白になった。「鍵は開いています」

 何と言ったものか。テングタケの毒牙から守ること、それがぼくの目的であり面と向かって伝えることは無い。いや嘘だ。水炊さんから言われたではないか。『ふられた理由を確かめる』一方的に三行半を叩きつけられて、わけも分からずモヤモヤしたまま前に進むに進めない。そんな状況を打破するために今日ぼくはここに来た。いやいや、正確にはそれも嘘だ。ぼくは未練の塊であり、縋り付いて駄々をこねて復縁を迫る。ストーカーの烙印を押されようとも執念深く未練たらしく執拗に付き纏って一生もののトラウマを植え付ける。嫌なら一生一緒に居てくれや。それがぼくの目的であり本心だ。無論、本心をありのままぶつけることが正義だとは言わない。だからオブラートで二重三重にくるんで遠回りして歪曲して、それでいて核心を突く発言をすべきである。

 さて第一声はなんと言ったものか。

 入室を拒まれない、ということは、歓迎と言わないまでも面会謝絶ではない。無用心さを憂う反面、その事実に心が震えた。気持ちが先走り手元が覚束ず、ドアノブがうまく回せない。…こちらは脱臼している手だ。右腕を使えという天啓に従うと難なく回った。

「お久しぶりトーキチ」

 数ヶ月ぶりのスダチは、申し分なく美人だった。

 数ヶ月の東奔西走が走馬灯のように駆け巡る。一片たりとも迷いなく、一瞬たりとも顧みず、ひたすら前進を続けたわけではない。いったいぼくは何をしているのか、こんなことをして意味があるのか。中学生のような悩みが、布団を被るたび足先から湧き上がる。自分の意思と反する抗議の声が腹の底から湧き上がり上がり、その度にスダチのためと言い聞かせた。時にはお酒に頼り、時には夜のシャッター街を当て所なく馳け廻る。

 しかし彼女の一言でソレが全て清算された。

 意味はこの丘の上にあった。

 ぼくは密かに感動に打ち震える。

「何か飲まれます?」スダチは彼女の流儀に則ってぼくを労ってくれる。「と言っても水しかありませんけど」

 残念ながら水も無かった。グラスもまともに無かった。仕方ないのでぼくは廊下に出る。共同洗面台にかかっていたコップを一つ取り、それを自分の分、グラスを彼女の分とした。今更だがテングタケとの死闘後なので喉がカラカラである。労働の後は煮湯もミネラルウォーターになる。「……」ようやっと一息つけた。

 さて何と言って連れ出したものか。ぼくが恋の豪傑ならば、背中で愛を語ることもやぶさかではなが、今のベニヤ板のような背中では、本意とはあべこべな言葉をべらべらと喋り出しかねない。

「スダチはさ」「うん」「家を出たいの?」「どちらでも構わないわ」「……」「でも出るつもりではいるのよ」「きみは今回の《花一匁》の景品らしい」「先ほど聞かされたわ」「つまりぼくらと一緒に《めぞんアビタシオン》へ住むことになる」「私としましては、トーキチよりも天貝くんに勝って欲しかったの」「…何故」「天貝くんのことは、主にあなたが原因で、大嫌いだけれど、家出をするリスクとして許容範囲だわ」「……」「でもトーキチ、あなたはまっぴらごめん」「……」「反吐が迸る」

 奴はリスクでぼくは反吐か。それも迸るほどに。甲乙つけがたいほど、どちらも世の嫌われ者である。しかしリスクはリターンがあるし、時としてチャンスに生まれ変わる。一方反吐は、反吐以外の何物でもない。

「スダチはぼくが、嫌いになってしまったんですか?」「いいえ違います」「何故ぼくはふられたんですか?」「復讐」「…復讐?」

 突如申し合わせたように、バンという音が三つ、そして三つのことが同時に起こった。

 一つ目は押入れが開いたのである。開いたというより襖が外れた。何事かと目を向けると、果たして水炊恋華が転がっていた。それも両手足を縛られて、ご丁寧に猿轡まで咬まされている。高圧的な彼女が、力技で捩じ伏せられている。いやに扇情的であった。

 二つ目は勢いよく扉が開いた。どかどかと集団が土足で無遠慮に乗り込んで来る。その数十。閑散とした六畳一間が人で埋め尽くされる。皆一様に、しかし多様な面を付けており、アンパンマンから般若からパピヨンマスクまでいた。ここはマスカレードか。

 三つ目はぼくが床に転がったのである。

「面倒くさそうだから一服盛らせて貰ったわ」

 空になったコップが畳に落ちている。体を起こしていることが出来ず、寝転がったまま目だけ動かしてスダチを見上げた。

「…待て。水を汲んできたのはぼくだ。薬を入れる隙などなかったはずだ…!」「あらかじめグラスの縁に塗ってあったのよ」「しかしグラスを選んだのはぼくだ! 薬の塗っていない方を選んでしまえば、このトリックは成立しない!」「両方塗っておけば良いじゃない」「まさかきみは! 水に口をつけていない…?」「知らなかった? 私クリスタルガイザー派なの」「……」「それにトーキチの性格なら、私に綺麗な方を渡す。分かりきっているわ」「古典的トリック…」

 仮面の一人が無言でミネラルウォーターを差し出す。スダチはそれを一息で飲み干すと、ぷっと空のボトルをぼくに向かって吐き捨てた。ご褒美。

「それではごきげんよう。もう二度と会うこともないでしょうけど」

「…神輿?」スダチが神輿で担がれていく…? 

 よく分からない。彼女はえらく豪奢な椅子に腰をかけた。その足に柱が四本括り付けられており、仮面の集団がわっせろーいと担ぎ上げる。そしてそそくさと退室して行った。非現実的な光景である。遠のく意識の中で見た幻かもしれない。

 ぼくは四肢に鞭打って必死に抵抗を試みるが、はたから見たらただのナマケモノである。遠のく意識を必死に手繰り寄せるも、握った手のひらからするすると逃げていく。やがて、真っ白い世界へと、落ちて…行っ…。

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