◆四幕『いたずら合戦』

 ジジイの話をする。父方の祖父だ。

 うちのジジイは色々と胡散臭い人間だ。闇米を売り捌いて生きてきたとか、ロシア人とカニ漁の利権をかけて争ったとか、不法滞在するイラン人に混じってテレフォンカードを偽造していたとか…。悪さ自慢は、枚挙にいとまがない。

 テレフォンカードってなんだ? 電話をするのに何故カードが必要なんだ?

 それでいてぼくが突っ込んだ話や矛盾点の指摘をすると、決まって『そんなものは知らん』と突っぱねた。しつこく追及すると拗ねて自室に引きこもった。妄想が最強たる所以である。都合の悪いことを『そんなものは知らん』に置き換えれば、話の裏付けは不要だ。

 確かに戦後の混乱を生き抜いた世代の人なので、実際やばいことになんぼか首を突っ込んでいても不思議でないが、真実は藪の中である…。

 ジジイの四方山話に付き合うのは、ぼくの役目だった。小さなころは彼の偉業をたたえ、反抗期にはうるせえ死ねと悪たれをつき、それが抜ける頃には話半分に聞く大人の対応を身につけた。時にはデリケートな部分に触れてしまい拗ねたジジイに「もっと話を聞かせておくれよ」と甘食とほうじ茶を持って訪れる。そういう小技を駆使してご機嫌をとった。

 では今だったら、ぼくはジジイにどんな対応をするだろうか。

 大学生になって、勝手に休学して、わけも分からず壁にぶつかっているぼくに、あの人は普段通り悪さ自慢をする。初めてジジイの与太話をありがたいと思うかもしれないなあ。今だから分かる。真偽のほどは定かではないが、ぼくは好きだったのだ。

 ジジイの話も、ジジイのことも。

 そういえば水炊さんは、あの人が死んだことを知っているのだろうか。


『殺し合いをしてもらいます』というのが、誇張表現であるのは、説明するまでもないが、血で血を洗う抗争は想像に難くなく、果たして勝利を収めたのは、芋太郎さんだった。

「たまには高みの見物と洒落込もうと思ってな」と本人は言うが、うまい汁を啜るために決まっている。

「邪魔だけはしないでください。ぼくは真剣なんです」

「蛍はよお、甘い水の方に寄って行くんだ」

「……」そのギラギラ光るハゲ頭は、生殖活動の一環だったのか。要するに芋太郎さんは《二号館》より上等な賄賂を用意しろと言っているのだ。「…考えておきます」

「おう。早いもの順だぜえ」

 くたばれ。

 おそらくこの競技において前例や一般常識はあまり意味を成さない。審判権限で幾らでも変えられる。だから重要なのは、より大きな声を出して、弱みに付け込み、暴力で黙らせて、隙あらば懐柔。…ヤクザな勝負だ。そういう意味では適役である。本職だからなあ。

「甘い汁ねえ…」甘い汁についてぼくは考えを巡らせた。


 同時に幼稚な妨害工作が、正面切って繰り広げられた。

 その日は、うだるように暑い日だった。にも関わらず昼食はカレーライスで、これがまた文句のつけようがないくらい絶品である。これは困った。食べれば食べるほど顔から汗が迸る。だがスプーンは止まらない。むしろ加速度的に喉に流し込んだ。

 カレーのジレンマである。

 あわや熱中症というところで、負の連鎖を断ち切るべく、登場したのは空調設備だ。驚くなかれ唯一食堂には、エアコンが存在したのである。一たびつければ、たちどころに埃とカビの臭いが充満するが、涼しさには抗えない。「ピ」おー、という歓声が上がる。エアコンは、大きな溜息を一つ吐くと、やれやれといった感じで動き始めた。これでどうにか一安心。おかわりしちゃうぜえという気風が辺りに漂い、ぼくもその波に乗るべく残ったカレーを口に運び始めるが、異変に気付くのにそう時間はかからなかった。

「……」カレーが不味い。というかいつにも増して、部屋が臭い。臭すぎる。発生源はもちろんエアコンである。

『…涼しくならない?』『暖房になっているんじゃないか?』『馬鹿野郎。そんなハイテクなものか』『冷房機だぞ、これ』

 部屋が涼しいからこそ耐えられる臭気は、湿度と温度を一度味方に付けると、負の相乗効果により手に負えなくなる。加えて男暖房。熱源には事欠かない。

「もうだみだ」と言って一人が窓から飛び出した。賢明な判断だ。しかし間もなくして戻って来る。そして「おいこれ見てみろ!」と皆を集めた。

 室外機の羽が、取り外されていたのだ。

 近所のタチの悪い小学生の悪戯? いや《二号館》の仕業である。なるほど、妨害というのは、タチの悪い小学生の悪戯と大差ないわけだ。呆れを通り越して不思議な怒りがムラムラと沸いてくる。争いは同じレベルでしか起こらないと言うが、一方的にやられることを良しとしてはならない。

「正義は我らに有り!」

 報復と室外機の羽を奪還すべく、住民の心が一つになった瞬間である。


 ルールが無いと散々言われてきた《花一匁》だが、この悪戯合戦について暗黙の了解が二つある。一つは、悪戯に対して同じ悪戯で返さない。遊び心を重んじる彼ららしい考え方だ。もう一つは専守防衛である。どちらから始まったか分からない不毛な争いは、あくまでやり返すことを前提にしており、闇雲に状況が苛烈することを防いでいる。室外機の一件は、前回の悪戯『コーラの中身をめんつゆに入れ替える』の報復だそうだ。いずれにせよ試合の勝敗に直接関係ない。関係ないからこそ、くだらない悪戯にのめり込めるのか。つまり勝負に関係する妨害を行ったら、飛躍的に白星へ近づけるのではないか?

「そんな感じのアイディアを求む。何かないか?」

 ぼくは住人らに問うた。彼らはてんで勝手なことをしており、誰一人まともに聞いてはいない。「家賃半額…」その瞬間彼らの目つきが明らかに変わった。紳士的な態度、活発な意見交換、ウィットに富んだユーモア、これだけのポテンシャルを秘めていながら、何故昼行灯を気取っていたのだ。もちろんぼくに家賃を減らす権限はない。

 やがて『睡眠妨害』と、意見があがった。

「睡眠妨害…」

 睡眠は人類の欲の根底にあり、これが満たされない限りパフォーマンスは格段に落ちる。普段から睡眠時間を削っているビジネスマンならまだしも《めぞんアビタシオン》及び《二号館》の住人は、自由気ままな貧乏暮らしだ。睡眠がなによりの娯楽であり、それを奪われる苦しみは想像を絶する。

「よし方向性はそれでいこう!」

 専守防衛は暗黙のルールでも、過剰防衛はルール違反ではない。

 しかし「んな生ぬるいことはやめようぜ」と言ったのは芋太郎さんだ。

 この人は《二号館》で甘い汁にあやかっておきながら、こちらの悪戯合戦にも参加するつもりらしい。盗人猛々しい。堂々たる二重スパイぶりだが、とやかく言ってへそを曲げられても困る。まだ『甘い汁』について、見当もつかない状況である。

「何か良いアイディアでも?」「これを焚こう」「なんですかこれ?」「お香」

 それを嗅いだものは、身体中が浮遊感に包まれて、目の前がビビットカラーに染まり、幻聴、幻覚、なんでもござれ、気分が高揚して向こう一週間は日常生活に支障をきたす…。

「シャブ漬けにしてやろうぜえ」国家警察が恐くないのか、この人は。

「却下です」

「では私は手料理を披露するわ」そう言って読子さんは《二号館》へ赴いた。下剤入りのフルコースでも食わせてやるのかと期待していたが、数日後、連中のすさんだ食生活を改善し良好な健康状態に戻してきたという…。「料理人の血が騒いでしまったわ」「…料理人、だったんですか?」「でも血液はしこたま頂いて来たから!」

 それが目的か。健康にしてから血を抜いたら、プラマイゼロじゃねえか。

 そしてマヨ子は深夜の廊下にぼーっと立ち、ぼくを心胆寒からしめた。

 …どうやら状況は劣勢のようである。

 その他の住人もイマイチぱっとしない。気付かないレベルのものや、悪戯になっているのかすら怪しいものばかりである。

「サラダ油を全てキャノーラ油に変えてやりましたぜ」って馬鹿か!「トランス脂肪酸の摂りすぎは心臓病のリスクを引き起こすんですよ」じゃねえぞドア野郎が! 窓もぶち抜いてやる! あと栄養学は日々変化するのでネットの知識を鵜呑みにするのはどうかと!

 肥溜めに漬けたあと高圧電流を流すような過激なことを誰かやってくれないのかね。


 やがて目に見えてこちらの状況が悪くなってくる。というかぼくをピンポイントに狙った攻撃が増えてくる。靴の中敷が、健康中敷に変わっていたり、歯ブラシがワイヤーブラシに変わっていたり、シャンプーの中身がリンスに、リンスの中身がシャンプーに変わっていたり…。おかげでしばらくごわごわの頭で過ごしていた。

 いうまでもなくテングタケが主犯、もしくは計画犯であり、ぼくのプライベートな情報を漏らしているのは芋太郎さんだ。…遅かったか。

「もしかして苦戦してらっしゃいます?」

 ふと。声をかけられた。場所は食堂。一人で呆然としている所だったので、結構驚いた。

 その人物に見覚えはない。パッと見、男だか女だかも分からない。中性的な印象で年のほどは、ぼくよりもやや下か。童顔で背もあまり高くない。そしてユニセックスな格好をしていた。ぼくはたずねる。

「きみも住人か?」「違いますよ。よく遊びには来ますけど。僕のセンパイが住んでいるんです」「初めましてだよね?」「初めましてです。でも一方的に面識はあるのです」「ふむ」「強いて言うなら、ファンです」「扇風機?」「ええ。僕は白秋さんの扇風機なのです」「と言われても…心当たりが無いにもほどがある」「《野良大学生事件》」

 一瞬言葉に詰まった。それが駄目だった。

「人違い、じゃないか?」「またまたあ、ご謙遜を」「もし仮にその白秋くん? が何か活躍したとして、しかし彼のしたことは、あまり褒められるものではないから、そんな風に言うのはよした方が良いよ」「僕はね、白秋さん。あなたに感謝しているんです」「だから人違いと言うとろうが」「あなたの一掃した連中の中に、僕にとって『目の上のたんこぶ』が含まれていたのです。それをあなたは無力化といかないまでも、限りなく弱体化させた。これから大学の勢力図がひっくり返りますよ!」

 フェミさんは、鼻息荒く興奮している。これ以上人違いと訴えた所で、信じて貰えそうにない。それに事実嘘なのだ。ぼくは白秋桃吉であり『ご活躍』に関して、心当たりバリバリである。《野良大学生事件》丑鍋スダチと二人で巻き起こしたものだ。

 しかし「…勝手にやってくれ」休学中のぼくには、関心のないことだった。

「もしかして白秋さん、あなた悪いことをしたと思っているんですか?」

「……」

「不正を正し悪を糾弾したのですよ? 誇りこそすれ、恥ずべきことは一つもない!」

《野良大学生事件》

 しかるべき時が今だとは思わないし、気分も乗らないが、一応簡単に説明する。ぼくとスダチは、大学に蔓延る悪習や不正行為の数々を白日の元へ晒したのである。結果、過去最多数に上る停学、留年、退学者を生み出した。

 何故野良大学生事件と呼ばれるか。処分を下された生徒や元生徒が、捨てられた子猫のように、大学の周囲を行くあてもなくウロウロと彷徨っていたからである。

「……」正直な所、悪いことをした、とは思っていない。

 しかしぼくの独善的で盲目な行為によって、人生を狂わされた連中が居るのは事実だ。勧善懲悪が現実において正しいわけではない。現実において倒された悪人は、爆発四散することなく、また別の人生を歩み続けなければならない。それに彼らはいうほど悪人であったのか。ひとときの気の迷いで道を踏み外しただけではないのか。若者である以上、前途有望なのは明らかだ。年を重ねるにつれて自らの行いを恥じ、償い、やがて心を入れ替えて社会的に有為な人材となる。

 その可能性をぼくは摘み取ったのである。

 無論人生はやり直せる。若ければ尚更だ。逆に利用する賢しい連中も居ただろう。しかし汚点は残る。汚点としたのは、このぼくだ。その行為にどれほどの価値があったのか。

 ぼくは言う。

「ぼくは別に悪を許せないわけでも被害者でもない。むしろぬるま湯にどっぷりと浸かり、無為な学生生活を謳歌していた。許せなかったのはスダチの方だ。だからぼくは『初めての共同作業』という甘美な言葉に惹かれただけであって、覚悟も目的も無く、彼女と二人なら何だって良かったんだ。そんな奴が正義面してたらーーお茶吹くだろ?」

「振られなければ、また違ったかもしれないですね」

「……」

「ですが、振られたからこそ気づけたというのは、僕は財産だと思いますよ、白秋さん」

「ふん。ひとの気も知らんで、知ったような口をきくな」

「面目無い」全然面目無さそうで無い。さらに言うなら、こいつがぼくに感謝しているのは、悪を糾弾したからではなく、自分の利益になったからであり、そんな相手にあれこれと持ち上げられた所で、素直に喜べない。

「…いやな奴に目をつけられた」

 男だか女だか分からない性別不明の怪人である。このまま攫われてしまうかもしれないし、豹変して襲いかかって来るかもしれない。

「まさか。感謝してるって言ったじゃないですか」「どうだか」「で白秋さん」「はい」「ああ、認めてしまうんですね」「拙者白秋桃吉と申す」「じゃあ本人確認も取れた所で、本題に入りたいんですけどね」「…本題」「今回の《花一匁》です。あなた今随分苦戦していますね」「きみは、ぼくが振られたことといい、どこまで知っているんだ?」「ファンですから。色々です」「…扇風機」「白秋さん、あのね、無理に自軍の審判を懐柔する必要は無いんですよ?」「どういうことだ」「むしろ邪道ですよ。だって賄賂は味方に送るものじゃないでしょう?」「…確かに」「もしあなたが自軍の審判を抱き込んだとしても、それは負けない方法であって勝利への一歩ではない」「じゃあどうすれば良いんだ」「ヒントをあげましょう」「解答をくれよ…」「明け方の《丘の湯》に通いつめてください」「…何時だ?」「五時ぐらいですかね」「毎日か?」「毎日です」

 健康的な生活リズムを取り戻しつつあるとは言え、早い。早過ぎる。さらに言うなら通いつめるには、その分の入浴料が発生するわけであり、金銭的余裕と衛生観念の折り合いがつくのは、ぼくの場合五日に一回である。その五倍か…。

「それで勝てるのか」「今より勝機は近づきます」「確実に勝ちたいんだ」「では妨害の方も僕に任せて貰えませんか?」「何か良いアイディアが?」「心当たりが少々」

 万策も尽きていることだし、この怪人に任せてみるのも悪くない。悪くないと思わせる風格があった。

「この時期、学生は暇なんですよ」人受けの良さそうな笑みを浮かべた。浮かべるまでもなく常に笑い顔だが。

「名前を聞いて良いか?」

「申し遅れました。唯一無(ゆい いつむ)と申します」

「ゆい…どっちが名前だ?」

「ピチピチの四回生です」

「……」

 先輩じゃねえか。


《めぞんアビタシオン》は、長期休暇ともなると、近隣の学生が幽霊アパートと間違えて肝試しにおとずれる。普通は土足であがりこまれたら、文句の一つでも言ってやりたくなるが、彼らは逆に歓迎し、全力で少年少女を恐怖のどん底に叩き落す。

 唯イツムの作戦はそのノウハウを利用したものだった。仕掛けるのではなく迎え撃つ。片っ端から、疑わしきは罰する。問題は、住人たちに纏まりがないことだ。果報は寝て待てと言った所でじっとしていられない。面白そうな方へ吸い寄せられてしまう。

 結局、遊び好きな彼らがじっとしていられないのは、面白くなるか分からないからだ。面白くなければ、自ら面白くしようとする。その精神は素晴らしいが、一つの統制のもとでは、往々にして邪魔になる。

 唯イツムは、それを訪れる人の数でカバーした。ぼくと違って、大学に正規の、そして独自の繋がりを持つイツムは、その両方に働きかけた。『この時期学生は暇』夏休み直前、テストは終わったが大きなイベントは少し先で、彼らは暇を持て余していた。突発的イベントは大歓迎なのである。殊更、肝試はうってつけだった。

 ひっきりなしに訪れる老若男女を、住人は嬉々として脅しに脅しまくった。下手をすれば陽の高い内から、深夜は長蛇の列になることもある。ちゃっかり入場料を巻き上げていたのは誰だ。そこら中から悲鳴があがり、二階から飛び降りて足をぐねった、骨折した、という噂も聞いたが、そこは自己責任である。

 肝試しとはそういうものだ。

 おそらくその中に《二号館》の連中が紛れていたのだが、最早よく分からない。それも含めて唯イツムの策なのだろう。《二号館》の住人を撃退すると同時に、彼らの些細な悪戯気にさせない。ざるにも等しい受け皿は、幽霊アパートにぴったりのスタンスだった。

 マヨ子は立っているだけで万人を恐怖のどん底に叩き落した。

 ただし問題が一つ。睡眠妨害を食らったのは、《二号館》でなく我々だった…。

 加えてぼくは、もう一つのミッションがある。毎日銭湯のオヤジのご尊顔を拝まねばならない。早朝から銭湯は営業しているのか。あのオヤジが朝風呂を炊いているのか。一抹の不安、もとい期待を胸に、扉を開いたら視界が銀世界に染まった。

 やっているらしい。

「…はあ」ぼくは一つため息をつくと、例のごとくオヤジに一円玉を投げつけた。

 そんなことを一週間、二週間か、頭が朦朧としていてよく思い出せないが、ぼくは続けた。諦めかけていた頃だった。疲れがピークに達しており、粗塩だろうが岩塩だろうがヒマラヤのピンクソルトだろうが、構っている余裕がなかった。ぼくは一円玉を番台に積み上げ(せめてもの抵抗)浴場へ向かう。相変わらず無人であり、状況に変化はない。

 湯船に浸かる。湯船はいつだって最強だ。超強い。

「…ヒントにしたって難問すぎやしないか」

 もしかして既にチャンスを逃しているのではないか。そんな風に考えると、自然と眉間に皺が寄る。むつかしい顔で風呂に浸かっていると、のぼせやすいとは本当か。

 ガラッと脱衣所の扉が開いた。前もあったぞ、こんなこと。でじゃびゅー。

 しかし銭湯のオヤジでもテングタケでもない。ともすればもっと恐ろしい何かだった。

「…銭湯に憑くあやかしか?」

 大きさは一メートルに満たない。全身黒づくめで正面がどこかも分からず、裾と思しき部分から生えた足が、ひょこひょこと動いている。全体的な印象は、風呂屋で奉公するアニメのアレだ。しかしよくよく見れば「…毛羽立っている?」黒づくめは伸びすぎた剛毛である。幾重にも絡まり合い完全に肌を覆っていた。大衆浴場のルール『裸』は守らられているが、まず人間かどうか分からない。加えて本当に守られていると判断して良いのか。

 抜け毛や垢が集まって妖怪変化したに違いない。不心得者の番頭に鉄槌を下すべく、排水溝から現れたのだ。そう考えるしかないほど、平成生まれには未知との遭遇である。

「髭を剃っても良いか?」髭…? やがてそれは湯船の前まで辿り着くと、おそらくぼくに向かって喋った。喋った! ぎゃあという叫びを無理に嚥下して答える。

「あ、はい」

「このまま湯に入るわけにもいかなくてな。安心したまえ、掃除は私の得意分野だ」

 言うや否や、クトゥルフ神話体系にでも現れそうな『形容し難い束子のようなもの』は、洗い場の一角を陣取り、鉈のような刃物で、体毛を刈り取る。髭剃りというか、散髪の域だ。だからこそぼくに了解を取ったのだろうけど、妙に律儀な束子だなあ。次いで剃り落した体毛をゴミ袋へ入れ、取りきれない分は水で流し、排水溝部分に溜まったそれも綺麗に片付けた。なるほど男湯が常に清潔なのは、あの人物のおかげか。

 所要時間十分程度で一連の作業を終えた。

 しかし依然顔は髭に覆われて、堀が深いのか浅いのか判然としない。かろうじて見える肌色と夥しい剛毛のせめぎ合い。手足は筋骨隆々だが、一方下腹はパンパンでぶよぶよの肉饅頭だ。中央のボタンは…ヘソか? ヘソが飛び出すとは奇病の類いか?

 新種のゴリラみたいだ。大事な所はモザイク要らずで、全裸でも猥褻物陳列罪を華麗に回避する。体毛が薄いぼくに、ちょっとぐらいわけて欲しい。

 そして一通り洗い終えると、よっこらせと湯船に浸かった。

 正直、自身の逞しき妄想力が、いよいよ私生活に影響を及ぼし始めたと危惧せずにはいられなかった。正気を確かめるべく、ぼくはたずねずる。

「あなたは、銭湯の付喪神か?」つぶらなどんぐり眼を見開く。次の瞬間、てカカカカと小刻みに震えだした。笑っているのだと見定めるためには精進が足りない。「そうであったらもう少し真っ当な番頭の風呂を選ぶさ」「なるほど」「確かに私は人とは違う風体をしているが、れっきとした人類である」「…触っても良いですか?」「む。趣味か?」「…実体があるのかどうか、確かめておきたくて。あとノーマルです」「きみは、酷く疲れてはいないか?」「そうかもしれません。だからこそ確かめる必要があるのです」「そうか。なら協力は惜しむまい。ーーさあ!」両腕を広げて受け入れ態勢万全である。

 人気の無い大衆浴場で、男が男を撫で回す。一方はひょろひょろで、一方はムキムキの小男である。傍目から見たら恐怖映像だが、二人きりなので構わない。それがまずいのか。ひとまず幻覚ではないらしい。

「その、すいませんでした」「銭湯の神と言われたのは初めてだ」「色々と不躾な物言いでした」「謝ることはない。心ない言葉は言われ慣れている」「……」「だがきみは言葉を選んだ。そこに心があったからだ」「…どういうことです?」「つまりね、銭湯の神になるのも悪く無いということなんだな」

 朝風呂を堪能しながら満足そうに湯船を揺らした。

「ぼくは桃吉、白秋桃吉といいます」「私は土和(どわ)という。よろしく」「率直に言って、ドアさんは何者なんですか?」「農夫だ」「お百姓さま?」「一昔前はミゼットレスラーだった」「…平成生まれには縁遠い言葉です」「世知辛い時代だ」「そう、なんですかね」「だが農夫も悪くはない。四季折々の草は食えるし、肉が食いたければ山へ行って獣を狩る」「最早またぎだ」「さすがに熊はいないがね」

 こういう人種は、人里と無縁かと思いきや、そういうわけでは無いらしい。むしろ人は好きだという。好きだからこそ作物を育て獣を狩り人々に振る舞う。それが生きがいとドアさんは言った。好きだからこそ遠ざかる、そういう考え方もあるのだなとぼくは思った。

「私の話はいいんだ。きみの話をしよう」「ぼくのですか?」「きみ、白秋くんは、ここによく来るのか?」「ここ二週間は毎日ですね」「この時間にかね?」「ヤサに風呂が無いものでして」「朝風呂が好きなのか?」「好きの部類です」「含みを持たせるなあ」「のっぴきならない事情がございまして」「きいても良いのかね」「話すと長くなります」「長風呂は日課だ」「聞くも涙、語るも涙の物語です」「年をとると涙もろくなるから、聞き手としては優秀だよ私は」「脱水症状になっちゃいます」「ご馳走しよう。コーヒー牛乳とフルーツ牛乳、どっちが好きだい?」「……」「私はどっちも大好物」

 普通これだけ時間を稼がれたら、相手を慮るものではなかろうか。ぼくとて、出会って間も無い人間に、己の醜態は晒したくない。しかし、うっかり口を滑らせた。ドアさんの人柄か、湯が心のタガを緩めたのか、徹夜明けで正常な判断が出来なかったのか。

 おそらく、乳製品の魔力に負けたのだ。

「ぼくは、先日おつき合いしていた女の子にふられてしまったのです」

「みなまで言うな」その言葉は、枕でいきなり遮られた。「…それはさぞ、辛かろう」

「待ってください。みなまで言わないと、ぼくが傷ついた恋心を湯船で癒していることになる。あたしゃ丸の内のOLかっ!」「だがきみ湯浴みは万病に効く。恋煩いとて例外ではないさ」「……」「ふられたから湯に浸かる。結構なことじゃないか」「…それは経験談というやつですか?」「経験談とは少し違うな。私はまだ思いを伝えていないのだから」「ひゅう」「まったく、いい年の中年が。恥を知れ」「言わないんですか?」「言えるものか。きみ、人間年を取れば取るだけ色恋に疎くなるんだよ」「でも言える距離には居るってことですよね?」「……」「それはとても、幸いなことです」「…然り」

 偉そうなことを言っている。だがぼくの方が失恋の先輩であり、恋より失恋の方が偉いのだ。偉くなきゃいけない。

 ドアさんは言う。

「チャンスが訪れるのだ」「チャンス?」「毎月一度顔をあわせる機会がある」

 ドアさんは、とあるアパートに住んでいる。そこには奇妙な風習があり、月に一度住人を賭けてまた別のアパートと勝負をするそうだ。勝った方は勝った方の住人を獲得出来、その別のアパートという方に意中の人が住んでいる。勝って擬似的とはいえ、ひとつ屋根の下を満喫したい。

「不思議な御仁でな」「でしょうね」「他人の血を欲しがるのだ」「…え?」「自転車の空気入れのような手製の機械でね、ちゅーっといっきに吸い上げる」「危険な人ですね…」「なあに、会ってみれば分かる」会ってみて分かる。危険だ。あのふわっとした雰囲気で、当たり前のように男たちを従える。一方彼らは喜んでそれを受け入れて、一度取り込まれてしまえば脱する術はない。「殊更今回は僥倖である」「……」「行司を任されたのだ」「…へえ」「私の采配一つで有利なように物事を進められる!」毛むくじゃらの拳を硬くして声高に告げる。顔の真ん中で輝いているあれは、おそらく瞳だ。しばらくして照れくさそうに湯船に体を沈めた。「多少良心は痛むがね」

 ここまで聞いて彼が何について話しているのか分からないはずがない。

 読子さんか、そうか。

 唯イツムは言った。『賄賂は味方に送るものではない』と。送るべき相手は敵であり、そして権力を持つ者である。つまりドアさんの恋心を利用する。いや利用するという言い方は適切でなく、この場合ギブアンドテイクの関係だ。では如何なる方法で『ギブ』を提供するのか。今回の《花一匁》は、景品が決まっているので、勝敗によって読子さんを《二号館》へ引きづり込むというわけにはいかないし、いくら審判と言えど強硬策は悪手である。だってそんな奴、気持ちわりぃし。

 ドアさんが欲しいのは彼女の『はあと』である。

 正直ぼくが用意出来るギブは限りなく無いに等しい。だからこそ何だってやってやる。道化でも恋のキューピットでもコウノトリでも何なりと申し付けるが良い。労働力だ。

 一番の問題は良心の呵責。愛する《二号館》の住人を裏切れるかどうか。ぼくは言う。

「やはり語る必要があったようです」「…どうした?」「いかにしてぼくがふられ、そして丘の湯にいるのか。丑鍋スダチ、ぼくを袖した可憐な少女と、人間廃棄物テングタケについて」「…今なんと?」

 驚きを通り越して、気味の悪いものを見る目だ。

「協力します。裏々読子を一緒に射止めましょう。ドアさん」

 ドアさんの辛うじて見える皮膚部分が紅潮した。湯に浸かりながらなお、人間は赤くなれるのだあと思った。風呂の温度が少し上昇した。

「ぼくは《めぞんアビタシオン》の白秋桃吉です。後生ですから、勝たせてください」


 手附金、というか約束の証明として「夕食をご馳走しますので六時ごろいらしてください」とぼくが言うと「そのような不誠実なことは出来ん」と一喝された。しかし「裏々読子の手料理」というとビクリと反応する。「では」と言ってぼくはそそくさと退散した。分が悪い賭けだが、意固地になられても困る。それに賭けである以上ある程度不利なのは承知の上である。実際ドアさんは、誰かに相談したことなどなかったのではないか。今回だって赤の他人でなければ、口を滑らせなかった。協力者の心強さを思い知れ。

 次にぼくが出来ることは読子さんに相談することだ。「客人が来ます」と告げると「あらそれならお酒を用意しなくちゃ」と二つ返事でパタパタと準備を始めた。「でも来ないかも」とぼくが言うと「来るわよ」と言うので、半信半疑で玄関に座り込んで居ると、夕方薄闇に紛れて黒っぽい影が、こちらの様子をうかがっている。「わっつあっぷ」とたずねたら「ふぁいん」と返って来る。何やら大荷物のようでぼくの前にどかっと塊が置かれた。「もみじだ」「もみじ?」鹿の死骸だった。「狩った」どろっとした黒目と目が合う。「お裾分けだ」「…お裾、分けすぎです。半ズボンになってしまう」「では」と言って帰ろうとするので「帰ってしまうんですか?」呼び止めた。「このためだけに来たからな」「でも貰いっ放しではこちらも気が済まない」「気遣いは無用だ」「そうだ。そろそろ夕餉の時刻ですし、ご一緒にいかがですか?」「そういうわけにはいかない」「しかしですね、これがか弱い女性の手に負えるでしょうか」「……」「流石にコレは手に余るなあ」「……」「よく言ってます。『お肉を切るのって、とっても大変だわあ』って」「……」「『ものの数秒で肉を切り分けられる男性ってとってもワイルド』って」

 実際困る。マヨ子が泣く。

 葛藤。ドアさんは、そしてようやっと、日が暮れた頃に「うむ」と頷いた。それからは早い。三十分もしない内に、鹿は高級焼肉店もかくやという有様になった。

 そして今、場所は庭、鹿肉のバーベキュー大会である。

 ドアさんは、ご満悦で読子さんの手料理にありついて、あまつさえお酌までしてもらっている。最初こそ理性の箍が外れ切れず「いや」とか「ちょっと」など抗っていた。それでもよく耐えた。意中の女性が隣に居る、それだけで男は舞い上がるのだから。

 ドア氏、陥落は時間の問題だった。

 ドアさんは言う。「白秋少年、勝負方法は、知っているか?」「あの野郎、連絡をよこすと言って、いつまで経っても音沙汰が無い」「おそらく当日まで教えないつもりなのだろう」「何とたまげた姑息な手段! テングタケはそういう奴なんです」「私の前では好青年だがね」「そういう奴なんです!」「勝負方法はキャッチボールだそうだ」「キャッチボール? キャッチボールって競技足り得るのですか?」「私も詳細は分からない」「…本当ですか?」「本当だ。信じて欲しい」「……」「白秋くん、一つ断っておくが、私はやはり《二号館》の仲間を、裏切ることは出来ない。だからきみが、即刻この場から立ち去れと言うのであれば、唯々諾々と従おう。しかし虫の良いことを言わせて貰えるならば、白秋くん『公平な勝負と判定の約束』では駄目か?」「…駄目、といわれましても」「それともきみは、真っ向勝負では、ライバルに勝てないのかね?」「奴に負ける道理は無い!」「話が早くて助かった!」

 思えば奴と同じ土俵に立ったことなど、ただの一度もなかった。だからドアさんの申し出は悪い話ではないが、一つ気がかりなことがある。

「…初めからそのつもりだったんじゃないですか?」

「…ならばなんだというのだ」

「交渉の必要はなかったかなって」

「私、超非道だし。隙あらばマッハ贔屓するし」

「そういうことにしておきましょうか」胸をなでおろす姿を、ぼくは見ないことにした。

 さて、宴もたけなわ。ぼくを代表とする後片付けチームは、後片付けを始めた。チーム編成は桃吉、マヨ子、以上である。残りの連中は庭で寝ていた。そしてマヨ子は皿割り人形なので、実働部隊はぼく一人である。ええい割れた皿に触れるな!

 気付けばドアさんは、食堂の床で高いびきをかいていた。一見愛らしい小熊だが、その実毛むくじゃらのおっさんだ。

 読子さんはタオルケットを掛けながら「良い人よね」と不吉の代名詞を口にする。

「野菜とか肉とかもらえるじゃないですか」

 ぼくの上げているのか下げているのか分からないヨイショが炸裂する。

「好みでないのよね」「読子さんのタイプってどんな人なんですか?」「血の気の多そうな人」「相性は悪く無さそうなんだけどなあ」「注射針とか刺さらなそうじゃない?」

 …相性最悪だ。確かにあの筋肉は、注射針を飴細工のように捻じ曲げる。

「しかしそれは異性の好みでは無いでしょう?」

「そ。だから今は不明でござる」

「…夜も更けてまいりました」

 そして戦いの時はやってくる。


《花一匁》前日。

 キャッチボールについて考える。野球でもドッジボールでもなくキャッチボール。ギクシャクした親子関係の橋渡し的存在。もしくは恒久的暇つぶしである。そこに切った張ったの要素はない。住人にあれこれ尋ねるも、結局有力な情報は得られなかった。芋太郎さんすら『知らん』ということは、戦前より続く勝敗のない永久機関である。第一キャッチボールの目的は『それ以外』であることが多い。主題に置いて競わせようと言うのだから、道理を無理で捻じ曲げるようなものだ。

 ぼくらは《屋根上げ》などのキャッチボールの類似品から逆算して想像力を働かせて、とりあえず捕れないことには勝ちようがない、と結論に至っだ。

「だったら善は急げだ」と勇んでいるのは芋太郎さんだ。

「わっと!」電気エネルギーではない。

「修行をつけてやるよ」

 ぼくの方へボロボロのグラブを投げて寄越した。かなり年季が入っているが、手入れが行き届いており、はめてみれば長年連れ添った相方のようである。

 むしろこいつ無しに今までどうやって生きてきたのかっ! …少し言いすぎた。

「…裏切ったんじゃないんですか?」「裏切っちゃいねえよ。ただ甘い汁は吸う」「いけしゃあしゃあと…」悪いのは粗忽者の方、それが《花一匁》の鉄則だ」

 まあ海千山千の老人を、二十歳そこそこのガキが、諌めようという方が無茶な話である。こちらとしても十数年ぶりのキャッチボールは、キャッチもスローも不安でいっぱいであり、申し出は決して無駄ではない。

「で、どちらの手につければ良いんですか?」

 ーー芋太郎さんの特訓は、案の定スパルタだった。

 その強肩から生み出される豪速球は、アパートの壁やガラスを、散弾の如く蜂の巣にした。幽霊屋敷の称号をほしいままにする我が家だが戦争遺跡になりつつある。傷痍軍人の霊の噂が流布する日も近い。被害は近隣の住居まで及び、破壊の限りを尽くした。もちろん白球を追いかけるのは、ぼくの役目である。結果、雷親父に怒られるという、昭和の三流コメディ顔負けのベタベタな経験まで積んた。芋太郎さんは自信満々に精神鍛錬とのたまったが、ここまで迂遠な鍛錬はベスト・キッドでもしない。言うまでもなくただの暴投である。加えてぼくは高校球児でも犬コロでもないので、白球を追いかけることに無性の喜びを見出せない。運動不足の大学生崩れだ。贅沢を言うつもりはない。せめてキャッチボールの練習がしたかった。よって終わる頃には身も心もボロボロ、しかしグローブはピカピカという按配である。

 河原の土手で大の字に寝転びながらぼくはたずねた。

「…高校生っていうのは、どういう設定なんですか?」

 芋太郎さんは学校指定のジャージとやらを着込んでいる。今は夏休みだそうだ。

「ああ? 言葉通りの意味よ」寝転ぶぼくにパスケースを見せる。

「…学生証」どうやらまじもんらしい。「老後の暇つぶしですか?」「否定はしねえが俺の高校生活が暇つぶしなら、先輩あんたの学生生活も暇つぶしになる」「…右に同じく否定は出来ない」「強いて言うなら、まともに学校を出てねえからかな」「…第二の青春ってことですか?」「おいおい先輩、人生常に青春だぜ」「(ならば尚更高校に行く必要はない…とは言えない)」「しかし情けねえ話だが、おつむの方がからっきしでな。今日も先輩のためにわざわざ時間を作ったんだぜ? だからあんまり被害者面してっと、コーラかけて木から吊るすぞ」「用事があったんですか?」「補習だ」

 齢八十オーバーの老人が、言うに事欠いて、補習と。しれっと拷問紛いの脅迫を一般人にしておいて、その実悩みのレベルが高校生と一緒である。実際高校生なのか。しかし必死に年号を暗記している姿を想像したら、妙に滑稽であり、愛嬌があった。

「芋太郎さん…甘い汁についてですが」

「んだよ、まだそんなこと言ってたのか。俺はもう忘れたぜ。スピード勝負、それが賄賂の鉄則だ。それに勝負は明日だ。妙な小細工するぐらいなら、考えずに寝ろ。最近殆ど寝てねえって心配してたぜ、マヨ子が」

 あの朴念仁にも他人を思いやる心があったのか。ちょっと感動。同時にアイツですら分かる疲労の濃さとは…。大丈夫まだやれる。

「芋太郎さん、例えば『ぼくがあなたの勉強をみる』というのはどうでしょうか」並の甘い汁が通用する相手ではない。半端な酒池肉林では意味をなさないし、本物がお望みなら、自分でどうにかするだろう。しかしこの手合いは案外、並の並レベルの甘い汁を望んでいることが、往々にして、ある、やも。「それがぼくが提案できる精一杯の賄賂…です?」

 芋太郎さんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。豆みたいな頭している癖に、驚いてんじゃねえ。が、間も無くしてゲラゲラと笑い出した。

「そりゃあいい! 学士様に勉強を見て貰えるなら俺の二回生進級も安泰ってもんだ!」

「恐悦至極です…」お気に召したようで安心する。

 そしてシェイクハンドで、引っ張り起こされる。ぼくはグラブを返そうとするが「やる。本番も必要だろう」と芋太郎さんは受け取らなかった。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで、正直持っていたくないのだが…。「おい、それは白秋の野郎のもんだ」予想外の一言に、そうも言っていられなくなる。

「うちのジジイとキャッチボールしたんですか?」

「あいつはいつも悪送球で、走らされるのは俺ばかりだ」

「ぼくが持っていて良いんですか?」

「ごみを処分する手間が省けた」

 ごみであることには同意だが、こちらの手間はお構いなしか。それに本当にゴミなのか。下手をすれば一世紀以上前の代物だ。定期的に油を塗りこんでやらねば、黴るし腐るし崩れる。それを半世紀以上も欠かさずに行うのは、極度のゴミマニアか、相当な思い入れがある人だ。前者でも後者でも、捨てるには忍びない。

 まあ芋太郎さんの思い入れは、怨念の類いだが…。

「一つお尋ねしたいのですが…今日のこれって本当に特訓だったんですか?」

 ひょっとしたら芋太郎さんにとって、これは本当にゴミだったのかも知れない。

 思い入れのあるゴミほど処分に困るものはないからなあ。

「復讐だ」いい迷惑だ。

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