◆三幕『天敵とジジイの天敵』

■第三幕

 ひとたび時は大学の入学式まで遡る。

 大学の入学式にて、ぼくは未曾有の絶望に打ち拉がれていた。憧れのキャンバスライフ、初めての一人暮らし、見知らぬ土地、ギリギリの均衡を保っていた不安と期待は、それでも僅かに期待の方が大きかった。だから逃げ出さずに立っていられた。

 しかし開始十分でその形勢は逆転した。

「…テングタケ」

 一本足りない男、通称テングタケが、ステージ上で出来過ぎた文章を読み上げていた。

「ーーこれを持ちまして新入生の言葉とさせて頂きます。新入生代表、天貝武(あまがい たけし)」

 天敵との再会。率直に言って泣き出しそうだった。


 ――テングタケ。

 ハラタケ目テングタケ科テングタケ属のきのこである。テングタケ属は、殆どが毒キノコであるが、その毒は一種のうまみ成分であり、一口食べれば天にも昇る気分とはまさにこのこと。美食家として一旗揚げたい者は、是非食べて欲しい。味も命も保障はしないが。

 と書いた所で『奴』とは関係無い。香りはマツタケで、味はシメジだ。それで十分だ。

 テングタケ(HN)本名、天貝武は、ぼくの幼馴染で、皮肉も自嘲も抜きに腐れ縁だ。お互いのことを疎ましく思い、毛嫌いしながらも、離れたくても離れられない。

 初めて出会ったのは保育園の頃だ。忘れもしない。子供心に「こいつとは一生仲良くなれん」と思った。それでも健気なぼくは、己の直感を厳しく戒めた。「人類皆兄弟。仲良く出来ないはずがない」こんこんと湧き出る愛情は、誰に対しても等しく注がれるべきだと信じていた。嗚呼、救いようの無い阿呆である。無益どころかテングタケは害悪なのだ。ぼくが「よろしく」と言って差し伸べた右手に、奴は鉄製のスコップを「……」無言で突き立てたのである! わけがわからず発情期の猫みたいな悲鳴をあげた。駆け寄って来た先生も同じようなに悲鳴をあげたので、絶叫の二重奏が園内に響き渡る。そしてどういうわけか先生は、ぼくの頭をポカリと殴った! テングタケが何か吹き込んだのである。耐えがたいほどの理不尽。だがそれを訴える方法を、ぼくは泣く以外知らなかった。手のひらで、真っ二つになったぼくの運命線。奴が未来を変えたのである。

 おそらくテングタケも同じような感情を抱いていたのだろう。その後も全てにおいてぼくと対立を選び、正反対の意見を唱え、徹底的に貶めた。子供らしからぬ穢れきった畜生にも劣る卑劣な行為の数々に、ぼくの体は日に日に痩せ細り、精神はすり減り、体の内側に黒いヘドロのようなものが溜まっていく。こんこんと湧き出る愛は、早々に枯れた。手のひらからただくだくと流れて、あっという間に枯渇した。人間は分かり合えない。口惜しくも奴から学ばされた真理である。

 殊更ぼくらは、いがみ合う星のもと生を受けたのだ。

 奴の徹底した嫌がらせは高校卒業まで続く。そしてそういう奴に限って、勉強も運動も一番で、心優しき弱者は落ちこぼれる。この世の常である。やがて奴は現役で大学進学を果たし、ぼくは浪人生になった。考えればあの頃は、唯一開放されたときだった。かと言って浪人時代が極楽だったとは言い難い。

 二十年近く放置した脳みそは完全に錆びきって役に立たない。事あるごとに引っこ抜こうとするが、無論現実逃避である。機械の体とか暗記パンに思いを馳せてしまうのは、浪人生の性だ。

 それでもどうにか、辛うじてギリギリ、大学入学を果たした矢先である。

 だんご結びになった運命の黒い糸が、何が何でも我々を導いたのだ。

 それとも、これは考えたくはないが、嫌がらのためだけに、奴は大学に入り直したのか? いずれにせよぼくは、面と向かって争うことに辟易していた。テングタケもそれを知ってか知らずか、声をかけてくることはない。もちろんぼくから話しかけることもない。

『あのニュース』を耳にするまでは…。


 そして現在に戻る。

 次の日。食堂の方がいやに騒々しくて、目がさめた。昨日はあれから這うようにして部屋に戻り、倒れるように意識を失った。

「朝から宴会か…?」じんじんと痛む顎を摩りながら、騒乱の方へ足を向ける。

《めぞんアビタシオン》に住む人間は、社会にうまく馴染めない連中ばかりだ。だから宴会のように時と空間を共有することは、本来ならありえない。耐えられないはずだが。

「しかし貧乏は、時として彼らに団結力を齎すのだ」

 酒は飲める時に飲むし、飯は食えるときに食う。野良犬と同じ発想である。

 食堂に近づくにつれてどんちゃん騒ぎは増す。正直近づきたくない雰囲気である。昨日金を巻き上げられた相手を、すんなり受け入れてくれるとは思えない。

「…いや、これも《花一匁》で確実に勝利を収めるためだ」

 秘策、定石、ルールの穴、その他にも準備するものや、必勝テクニックを経験者から聞いておきたい。テングタケにスダチを奪われる。それだけは阻止せねばならない。

 めちゃくちゃな絶叫とカントリーミュージックの渦中へ、ぼくは飛び込んだ。

「これは一体何事か!?」「決起集会!」と答えたのは誰だろう。

 食堂が見渡す限り珍妙な住人で埋め尽くされていた。仮装集団もかくやといった有様だ。

 いや、本当に仮装集団なのか?

 学ラン姿の男が一升瓶を煽っている。高校生の分際で生意気なと思うが、目を凝らせば皺くちゃの老人だった。「俺は静かに酒が飲みてえんだよ」と毒づきながら、不気味なステップを踏んでいる。リズム感は皆無に等しいが、強靭な足腰は目を見張るものがあった。その傍らでは、身長二メートルオーバーの黒人が、マンドリンを奏でている。なるほど、このカントリーミュージックはホンマもんのようだ。しかしそのせいで、音楽と踊りがまったく融和しない。学ランジジイの方は、おそらく盆踊りか何かであろう。

 と「告白ターイム!」前触れなく下世話な声が響き渡った。見れば部屋の隅で白衣姿の美女が、何人もの男に跪かれていた。美女はぷりんぷりんと体をクネらせて、困るーと言わんばかりである。正直掃き溜めに鶴の嬉しい現実にやや心躍ったが、よく観察してみると、何やら穏やかでない。美女の隣りには、どういうわけか手押し式の空気入れが置いてあり、その管は幾重にも分かれ男たちの二の腕に、点滴針のようなものでぶっすりと刺さっていた。「…点滴針?」じゃねえ、注射針だ!「いやーん皆大好きよー」美女はやおら、空気入れを引いたのである。採血。管の中を鮮血が迸る。反して大の男が青い顔をしてバタバタと倒れていく。…エリザベート・バートリーか。男達は恍惚の表情を浮かべていた。

「……」その光景をじっと見つめる目があった。でかい綿ぼこりかと思った。部屋の隅、灰色のスウェット、髪もボサボサ、全体的に不衛生な印象を受ける。膝を抱えて焼酎を舐めては苦い顔、また苦い顔を繰り返している。おそらくあれが彼女の酔い方なのだろう。彼女。年のほどはぼくよりも下か、小柄で一応女の子のようである。貧乏神の座敷童、といった雰囲気である。こういう空間でも馴染めない輩は一定数居るんだなあと、少しおセンチになっちまう。「ジーンペイ!」しかしどうやら座敷童にも友達は居たようで、駆け寄るものが、一匹。「…鹿やん」件の巨大なヘラジカだった。《ジーンペイ》とは名前なのだろうか。しかし飼い主というわけではなさそうだ。奴は相変わらず無愛想に鼻を鳴らすだけで、むしろ彼女の方が懐いている様子である。丸太のような首に抱きついて、頰ずりをした瞬間。「食われた!?」頭の先が鹿の口腔内へすっぽりと収まった! まさかの肉食。いや雑食か。しかし周囲の人間は気にも留めず、食われた方も涎にまみれながら「ゲレレ、ゲレレ」と、この世のものとは思えない、これは笑い声か? 無事そうだが、関わりたくない。というか関わりたくない人間ばかりだ。

「み、水炊さんはどこへ…?」

 水炊恋華を心のオアシスにする日が来ようとは。驚天動地である。入り口付近でオロオロとするぼくは間抜けの極致だった。だからその姿を連中が見逃すはすがない。

『おいアイツ』『昨日の奴だ』『…全身が痒い』『ドア返せ!』

「ドア…?」何か寒いものが背筋を伝った。言うまでもなく彼の方が、昨夜寒い思いをしたに違い無い。視線を感じる。もちろんそれは好意的なものではなく、敵愾心剥き出しまくりのやつだ。時としてお酒は、人間の大切なタガを緩め、非合法の薬物より危険な効果をもたらす。ぼく自身、身をもって知っている。酔いの勢いに任せて辱められる…!

 彼らは徒党を組み、妙にゆっくりと、焦らしながら近づいて来る。

 一方こちらは単身丸腰、いっそこのまま捕まって、道化を演じた方が賢いかもしれない。まさか殺されやしないだろう。しないよな? 

 連中は見せつけるようにビールを瓶で飲んでいる。外人の真似っこだ。

「グ、グラスで飲んだ方が苦味が…」

「縛り首だあああ!」

「きやあ!」ぼくの悲鳴である。

 クリント・イーストウッドの世界だ! 冤罪で縛り上げられる序盤の噛ませになっちまう。唯一の頼みの綱、昨日あれだけ心を通わせた鹿に目配せをするが、役に立たねえ! 依然として汚い座敷童を、チューインガム感覚でモゴモゴと転がしてやがる!

 もうダメだ。

 その時である!

 断じてヒーローなどではない。ピンチの時に駆けつけたからといって、正義の味方であるとは限らない。敵がまた別の敵に駆逐されただけである。

 バッタバッタと三下が、お手玉感覚で宙を舞う。わあ、鼻の穴に指突っ込んで一本背負って初めて見た! 一分とかからずに、十数人の男が積み上がった。その天辺で連中を睥睨する。「喧嘩はご法度。それが宴席の鉄則だ。ど三品」高下駄にボンタンに達磨マント、潰れた学帽を頭に乗せ、まさに弊衣破帽といった様相で、学ランジジイが立っていた。タコ踊りはもうやめたのか。

「よお。お前か白秋の孫ってのは」

「…ジジイのことをご存知で?」

「俺は桜肉芋太郎(さくらにく いもたろう)ってんだ。おぼえとけ」

 真ん中に爛々と輝く無闇にでかいあれは眼球か。おおよそ人間のものと思えないその眼力の強さに息を呑む。何を食ったらそこまで眉と目が近くなるのか。日本人らしさはどこへやった。少年ジャンプ黄金時代か。


 白秋の孫、ぼくのことを芋太郎さんはそう呼んだ。ここにきてまたジジイの関係者との遭遇である。元々ここは、ジジイの所有物なので、不思議ではないが…。

 ぼくと芋太郎さんは何故かテーブルに向かい合って酒を酌み交わしていた。

「俺が白秋の孫に会うとはねえ…」そして完全に出来上がっている。「畜生、嗚呼、胸糞悪りぃなあ」そしてジジイと竹馬の友というわけでは無さそうである。どちらかと言えばこの雰囲気、ぼくには心当たりがあった。

「…天敵」

「少なく見積もっても七十年選手だぜ」

 年季が違う。ぼくだってテングタケに対する反吐の出ぶりで負けるつもりはないが、時間の差はいかんともしがたい。なるほど他人を呪って生きるとこんな風になっちまうのか。早々に奴をとっちめ、有意義に生きる必要がある。

「ならばあなたは何故ぼくを助けたのです?」

「暴れてえからに決まってんだろ」

 暴れたいから暴れる。公然の理由としてそれがまかり通るのは、マイクパフォーマンスぐらいだ。力道山か、あんたは。

 依然として危機は去っていない。白秋の孫というだけで核弾頭を抱えたも同然である。

「聞きたいことがたくさんあります」「俺もだ」「ジジイとの関係はまず脇に置いておきます」「犬猿の仲だ」「そのコスプレも今は突っ込まない」「現役高校生だ」「《花一匁》で勝つ方法を教えてください」「…んな肩肘張ってやることじゃねえぜ」天然もののスキンヘッドを撫で回しながら言う。「よお、白秋の孫」「桃吉と申します」「じゃあ先輩だな」「…先輩?」「てめえは高校出てんだろ? なら俺の先輩だ」「そうなると、現代人の大半は、先輩ということになってしまいます」「まあ人生そんなもんだ」

 そう言ってガハハと笑った。含蓄があるのか、無いのか。

「で、先輩。てめえは水炊恋華と昔馴染みだ」「はい」「で、丑鍋の孫娘とデキてやがった」「…はい」「てめえはどこまで知ってんだ?」「…どこまでとは?」「例えば、水炊恋華と丑鍋スダチの関係」「関係?」「ありゃあ実の親子だ」「…え?」

 口に含んだ焼酎の水割りがダバダバと零れ落ちた。ジーンズの股間部分に盛大に広がりいかがわしいシミになる。実際衝撃で尿道の括約筋が緩み、いかがわしいことになっていたかもしれない。

「…そ、そんな話聞いてない」

「言ってねえんだろ。言ったらお前が逃げるから」

 その通りだ。今となってはそういうわけにもいかないが、確かにあのコンビニの前で告白されたら、ぼくは脱兎のごとく逃げ出していた。そうか、だから水炊さんは、スダチを今回の《花一匁》の景品にすることが出来るのか。

 つまりぼくは親子二世代に渡って、惚れちまったことになる…。そんな偶然あるのか? いや、違う。親子だからこそ、同じ遺伝子を持っているからこそ、惚れちまったのだ。初恋の憧憬を無意識に求めていたのかもしれない。

「ああくそ、だからあの野郎」水炊さんのことだ。「わざわざ教えやがったのか!」ぼくが白秋桃之輔(もものすけ)の孫であることを。「全部俺に説明させるつもりか!」説明。何を。そして何故水炊さんが説明しないのか。「お前はあそこの孫娘の家出騒動に巻き込まれたんだ」

「い、家出騒動…?」

「俺が世話になっていた《組》が近くにある」

「……」妥当な線は土建屋。ちょっと穿って屋号。大穴狙いでひまわり組。「…堅気じゃねえだろうなあとは思っていました」こんな強面の保母さんは嫌すぎる。

「《丑鍋組》っていえば、ここらでは名の知れた俠客だ」

 今度こそ、驚愕のあまり粗相は免れない。

「し、知っていましたよ! だってモトカレですよぼく!」「強がるなよ」「温室育ちで、世間知らずで、どこかのご令嬢という噂は耳にしていました…」「手前みたいな三下がヤー公の娘に、分かっていながら手を出せるはずがねえ」「…未遂です」「まあ無愛想なガキだ。ミジンコみてえな頃から知っている俺でさえ、何を考えているか見当もつかない」「スダチが家出をするんですか?」「軟禁状態だったからな、鬱憤も溜まっていたんだろ」

 軟禁。かぼちゃのことではない。

「なあ先輩。逃亡の基本って何だか分かるか?」「絶対に見つからないことですか?」「そりゃあそうだが…てめえはバラエティ番組に向いてねえタイプだな」「…自分でもそう思います」「それにそいつは、テクニックと覚悟が必要だ。『逃亡』っつう普遍的権利に、テクも覚悟も身につけるにゃあ、時間がかかりすぎる」「はあ」「一番手っ取り早い方法は、手を出せない場所に逃げ込むこと」「駆け込み寺…?」「詳しい説明は省くが《めぞんアビタシオン》に丑鍋の連中は手が出せない」「だから水炊さんは、スダチをここに匿おうとしていると?」「そういうこった」

 パンナコッタ。

 話を整理しよう。スダチは自分の実家である《丑鍋組》から家出をしたい。丑鍋組とは、ここいらでちょいと名の通ったヤーさんの家である。ここで水炊さんの登場だ。水炊さんはスダチと実は親子でどういうわけか、一緒には住んでいないっぽい。(なんせウチに居候していたぐらいだ)だから水炊さんは《めぞんアビタシオン》と《花一匁》この二つを利用してスダチを家出させる。離れ離れだった親子は、感動の再会を遂げる。ふむ一応筋は通っている。

「しかし、何故今なんです」

「ババアが死んだからだ。丑鍋組、創設の一人で、あそこじゃ絶対的権力を行使していた老獪だ。そして水炊恋華の母親で、丑鍋スダチの祖母にあたる」

 要するにスダチを軟禁していた張本人ってことだ。その人物が死んだことによりスダチに対する監視の目が弱くなって、逃げ出すチャンスは今しかない、と…。これも筋は通っているが、なんだか引っかかる。もし《めぞんアビタシオン》が《丑鍋組》にとって絶対不可侵領域であるなら、いつだって逃げ込むことは出来たのではないか…?

「スダチは今回の《花一匁》の景品なんです」「聞いているぜ」「…何故スダチは景品になったのでしょう」「なっちゃいねえよ。これからする。ただまあ、なるだろうな」「何故」「それが入居条件だからだ」「《花一匁》に参加することですか?」「賭けの対象であったとしても、参加したことには変わりない」「しかし賭けの対象で無くとも、参加することは出来るのではないですか? さらに言うならそんなザル法は、管理人の気分次第でどうにでもなる」「お前らにとっちゃ取るに足らない規則だがよお《めぞんアビタシオン》と《花一匁》《丑鍋組》の人間にとっちゃ、遵守しなければならない不文律だ」「義理とか筋とかそういう話ですか。相手が本職であればあるほど、確かに重要視されるんでしょうね」「直接試合に参加させなかった理由は、そうさなあ、一人娘に怪我させねえためじゃねえか?」「怪我…するんですねやっぱり」「かすり傷だ」

 かすり傷という言葉がここまで信憑性を失うのも珍しい。かすり傷側からしたら、とんだ風評被害である。何だかすり傷側って…。

「何故水炊さんは、ぼくをここへ招き入れたのでしょう」

「どういうことだ?」

「スダチはぼくに会いたく無い。ぼくを避けているんです」

 浮浪者時代に、未練がましく連絡を取ろうとしたことがあった。しかし番号ごと変えられてしまい完全な音信不通で成す術がなかった。そりゃそうか。アノ時の雰囲気は、取りつく島もないといった感じで、だからぼくは吐くほど現実に打ちのめされたのだ。

「スダチはぼくがここに居ることを知らない」「ほう」「知れば来ようとは思わないはずだ」「ああ」「そしてスダチにとって景品になることは、入居条件でしかないが、水炊さんには思惑がある」

 一つは、ぼくとテングタケの因縁の対決である。

 もう一つは、ぼくとスダチの間を取り持つつもりなのだ。

「…ちげえよ、ひよっ子!」

 芋太郎さんは間髪入れずに一喝した。

「てめえは本当に白秋の孫か? 水炊恋華がどういう人間か考えてみろ」「……」「あいつは手前がこっぴどく振られる所を見て」「……」「自分の娘が男を振り回す様を見て」「……」「笑いたいだけだ」「……」「そういう女だろ」

「そういう女です。しかしぼくから言わせて貰ったら、完全に正しいとは言えない。水炊さんは、ぼくがスダチと復縁しても奪われても、再びこっぴどくフラれようとも、どれだって構わないんです。笑えるんです。そういう女でしょう?」

「…ちげえねえ」


 宴もたけなわ。芋太郎さんとの話も一区切りつき、向こうは船を漕ぎ始め、ぼくも無言でグラスを傾けていると「あなたが白秋桃吉くんね」「え、エリザベート…」「管理人さんから話は聞いています」現代の吸血鬼が、ぼくの生き血を求めて近づいて来た。

「私は裏々読子(うらら よみこ)。アビタシオンの住人であり食堂のお姉さん」「お姉さん?」「なにか?」「お、姉さんです、はい」「うふふのふ」

 妙齢の女性である。童顔だがぼくよりも十は上だろう。栗色の巻き毛にタートルネックとタイトスカート、その上から白衣を纏い、手にはお玉を持っている。無闇に悩ましい表情とボディラインと服飾である。男性陣がぐずぐずに相好を崩すのも分かる。同時に剥き出しの殺意を向けるのをやめて欲しい。ぼくはおめおめと血を抜かれるつもりはないので、抜かれたければ、あなたたちが存分に抜かれるが良い。

「トーキチくん」「はい」「ムースの乗り心地はいかがでした?」「卵白とクリームで出来たフランスの甘味、ではないですね。ムースって言うんですか? あの鹿」「そうよ。可愛いでしょう?」「可愛いかどうかは個人差があり、乗り心地に関しては、絶叫マシン好きでもげえを吐くレベルです。ーーでも大いに役立ちました」「なら良かった」「読子さんは、飼い主なんですか?」「そんな所よ」「勝手に連れ出して…まずかったですか?」「ううん。大いに役立てて頂戴。良いデータが取れるから」「データ…」ただならぬ気配は感じ取っていたが、ヤツは実験動物か何かなのだろうか。「あの採血もそのために?」「そんな所よ」

 詳しく説明された所で理解も及ばないが、打っているのか、飲ませているのか。雑食性のヘラジカという線が、より濃くなった。狩人垂涎もののこのサイズは、草食だけで成長した、という方が無茶なような気がしてくる。

「一つお尋ね」「なんなりと」「噛まないです?」「死なない、やも」噛むんだ。そしておそらく死ぬ。「ねえトーキチくん」「はい」「あなた、次の《花一匁》を私物化するらしいじゃない?」「間違ってはいませんが、成り行きであり不本意であり乗り気ではありません」「あらあら。複雑な事情がお有り?」「話すと長くなります」「恋の鞘当てと聞いているわ」「知ってんじゃねえか」「もし桃吉くんの不利益な結果になったら、あの子を使って全て蹴散らしなさい」「…物騒なことを仰る」

 まあ、既にやったけど。水炊さんにも言われたが、ぼくはかなり『やらかすタイプの人間』なので、万が一テングタケの卑劣な罠に陥った場合、本当にやらかすかもしれない。

 しかしそれよりも優先すべきことがある。

「読子さん《花一匁》で勝つ方法を教えてください」

「うーん」と読子さんは、あざといポーズで頭を捻らせると、しばらくして「『審判』と『妨害』かしら?」と言った。

「わー、キナくせえ」「というより普段は、正直勝負は二の次なのよ」「…どういうことです?」「まず審判ね。審判はお互いのアパートから一人ずつ選ばれるの。でもルールらしいルールが無いせいで、審判のさじ加減でルールばかりか勝敗まで決まるわ」「試合う意味ねえ…」「だから審判は、うまい汁が吸えるし、勝つためには相手方の審判を抱き込んでおく必要がある」「…堂々とした袖の下だ」

「次に妨害。これは文字通り妨害ね」「例えば?」「春は洗濯物に蟷螂の卵をつける。夏は軒先にドライアイスをばら撒く。秋ならば秋刀魚の煙で燻り出すし、冬は白菜を1ダース送りつける」「…最後のは嫌がらせですか?」「犬を放つ、靴を隠す、蛇口の螺子を外す、ラブレター偽造。etcetc」「…一度学級会で問題にした方が良いのでは?」「この年になると堂々と悪さなんて出来ないからねん」「要するに悪戯合戦ですか?」「要するに悪戯合戦ねん」「リスとアヒルみたいに?」「そ。リスとアヒルみたいに」

 あいつらも意味もなく喧嘩を売ってたなあ。子どもの頃は笑えていたが、今見ると理不尽すぎて純粋に楽しめない。汚れちまったのか、子どもが残酷なのか。

「どうして読子さんたちは、これに真剣になるんですか?」「そんなに真剣な自覚は無いのだけれど」「なっていますよ。現に参加するわけですし」「どういうわけか、遊び好きな人が多いのよ」「……」「それに生活がかかっているから」「生活?」「勝ち取った住人によって、美味しいご飯が出てきたり、用心棒だったり、一つ屋根の下という状況を純粋に求めたり」「なるほど」「絶対に手に入らない特権にあやかれることもあるわ。これでも私『あの子が欲しい』の筆頭よ!」言って胸を反らした。乳が…。

 おそらくぼくみたいな無能は、ギガント不人気だろう。大いに結構だが!

「質問は以上?」

「そうですねえ…正直まだ実感が湧かないです」

「そう。ではあなたにお供をつけましょう」

「おとも?」

 ピーと、高らかに指笛を鳴らすと、黒い影が宙を舞った。ムースである。水鳥を思わせる華麗な身のこなしで、一トンはあろう巨体が、音も無く読子さんの元へ着地する。そんな繊細な部分も持ち合わせているのか、お前は。そして口からぶら下がっていたものを床へ吐き捨てた。「あへらあへら。いへいへ」件の灰色の座敷童子だった。

「あちゃあ、完全にラリってるわね」

 白目を剥いて小刻みに体を震わせながら、言葉にならない言葉を発している。一応無傷で安心するが、上半身はバケツの水を被ったようで、これが全て唾液だと思うと心の底から唾棄したい。おまけにちょっと臭い。獣臭さと、男子高生のバッシュのようなかほりだ。

「じゃあよろしく」「え。もしかしてお供って、このチンチクリンすか?」「何かの役に立ててあげて」「『何かの役に立つ』じゃねえのかよ!」「今はこんなだけど、普段はもっと会話にならないわ」「お供っていうか、枷ですよ…」「おい男」「…うわ、喋った」

 枷、喋る。正気に戻った、かは分からないが、じっと見つめられると眼力がある。迫力のある三白眼。芋太郎さんは脅迫だが、こちらは吸い込まれそうな深い闇だ。

「ジーンペイが供物を寄越せと言っている」

「…ジーンペイ?」

 さっきも言っていた名前とおぼしき、アレだ。ムースのニックネームか。

「ちょっと違うかも」と読子さん。「彼女は気に入ったもの全てを『ジーンペイ化』してしまうから」「ますます混迷を極めます」「昔から言うでしょう?『あなたもサザエさん、私もサザエさん』って」「…笑う顔まで同じですか?」「そ。だからトーキチくんもお供ってより、ジーンペイ」「げえ」

 貧乏神と目が合う。腐った海藻みたいな頭髪を顔面に貼り付けながら言った。

「私の軍門に下るか」「下らん」「厳しいぞ」「破門で結構」「意志薄弱」「黙れ」

 ダンボールに詰めてテングタケの所へ送ろう。うんそれが良い。それ以外役に立てる方法が見つからないし、これから見つかる自信も無い。

「読子さん、このままでは敗色濃厚です」「って言われてもねえ。普段特に準備も練習もしないし」「よみこしゃああん」「はいはい分かりました。だから泣かないで頂戴」「心の汗です」「そのかわり、この子をお風呂に連れて行って。放っておくと多分そのままだから」「えーめんどくせえ!」

 意を唱えるぼくを読子さんはピッと右手で制した。有無を言わせぬ力がある。獣が唯々諾々と従うのも分かる。

「ではこの場で『審判』を決めてしまいましょう」

 その瞬間、騒々しかった宴会が水を打ったように静まり返った。皆が一斉に彼女の方を向く。性的な目など無い。五感を研ぎ澄まし読子さんの言葉を聞き逃すまいとしていた。

「管理人代行の権限を持って命じます」

 管理人代行なのか。そういえば水炊さんの姿は依然見つからない。

 ぼくは緊迫した空気に耐えられなくなり、無意識に座敷童子の手を引いていた。超ヌメる。だが離せない。一歩また一歩と後ずさり、ぶち抜かれた壁から二人廊下へ出た。それを見届けた読子さんは、一度小さく頷く。そして高らかに、奏でるように、言った。

「ーーこれから、殺し合いをしてもらいます!」

 弾けた。住民たちは、思い思いの武器(椅子や酒瓶)を手に取ると、一心不乱に振り回し、戦い始める。その光景は合戦。敵味方関係なく、最後の一人まで争う宿命。蠱毒。

 赤ら顔で船を漕いでいた芋太郎さんも飛び起きると、その手に握られていたのは…。

「最強の調理器具、中華鍋!」

 読子さんも手に持ったお玉で、ポカポカと暴漢を薙ぎ払っていく。

「さあはやく行きなさいトーキチくん! マヨ子を連れて! 湯へ!」


『ジーン・ペイ』とは、オッドアイで三つ叉の尾を持つ猫型悪魔精霊である。猫なのか悪魔なのか精霊なのか。高度なコミュニケーションは無理だが人語を解する。普段は手のひらサイズの温厚なやつだが、ひとたび怒らせると、あらゆるものより大きくなり、海を割り山を燃やし、生きとし生けるものに災いをもたらすという妄想の産物だ。もちろんそんなものは居ないし、鹿にもぼくにもそのような力は無い。

「みそっかす」

「…昭和の悪口」

 そしてぼくを味噌のカス呼ばわりする座敷童子は、名前を唐土マヨ子(もろこし まよこ)というらしい。変な名前。回る寿司ネタみたい。

 ぼくとマヨ子は今アパートを出て銭湯に向かっていた。言うまでもないが、ここには風呂がない。住人たちは個々人の衛生観念に従って、銭湯に行くらしい。

《丘の湯》

《めぞんアビタシオン》から歩いて十分程度の場所にあり、値段も設備も一般的な取り立てて特徴のない銭湯である。…番台の親父を除けば。水炊さん曰く「すけべえの筆頭株主」だそうで、女の裸見たさに脱サラして、潰れる寸前の銭湯を買い取ったほどだという。女が来ると鼻の下を伸ばし。男が来ると塩を撒くらしい。本当か…?

「トーキチ」「何だ」「ちょっと臭い」「悪かったな」

 そういえば、ぼくもしばらく風呂に入っていない。少なくとも最後の入浴がいつだったか思い出せない。正直マヨ子のことを汚物だの頭陀袋だのと言えたものでない。

「…二人で《二号館》に乗り込んだら、この上ない嫌がらせになるなあ」「トーキチ」「何だ」「これ」「…入浴料?」「私の分、と、トーキチの分」「お前が出してくれるのか?」「ドクターから預かった」「…ドクター」

 おそらく読子さんだが、何も全て一円玉でなくとも…。マヨ子はぼくのケロリンの中に、メダルゲームよろしくジャラジャラと流し込んだ。「千円」「…一キロか」お札って便利だなあ。世にも稀な一キロオーバーのケロリンを持って、やがて腕がだるくなる頃に銭湯へ辿り着いた。

 戸を開けた瞬間、視界がホワイトアウトした。

「帰れ」

 なるほど、幕内力士さながらの堂々たる塩まきだ。しかも粗塩。超痛てえ。見ればマヨ子も荒巻鮭のようになっている。粘性があるせいで、塩分濃度はぼくよりも上だ。

「…お前女として認められてないんだな」「トーキチ」「何だ」「今だわ」「…だわ?」

 マヨ子はぼくのケロリンにやおら手を突っ込んだ。そして節分を思わせる潔さで、一円玉を親父めがけて投擲したのである。散弾銃のごとく四散し、顔中の穴という穴を塞ぐ。オヤジが声にならない呻き声を上げている隙に、ぼくらは番台を通過する。

「一時間後に!」

 マヨ子は無言で頷くと女湯へ行った。これ見よがしに、肩で風を切って歩いている。

「……」

 閑散とした脱衣所で、ぼくは服を脱ぎながら考える。先ほどのマヨ子は、怨念めいていたというか、ほんの一瞬だが鬼気迫るものがあった。

「あんなのでも、女として扱われないことに腹を立てたりするのかなあ…」

 で。

「わーお。ぶるじょあじぃ」浴場へ突入したぼくは、思わず感嘆の声をあげた。

 独占だ。銭湯の経営が厳しい時代に、赤字上等の方針をとっているだけある。腐っても銭湯だ。そして腐っているのは親父の性根と帳簿であり、広い湯船に罪はない。

 まことに清々しいことこの上無い。あまりの清々しさに逆に不気味になり、終始うろつきながら体を洗った。いうまでもなく迷惑行為だが、番頭のくそオヤジは男湯に入ったことすらないので、掃除をするのは我々だそうだ。ならば構うまい。

 一通り広大な洗い場を満喫した後、ぼくは湯船に浸かる。

「フフ、フーンフーンフーン」

 気分が良いので歌を歌います。吉田拓郎だ。爺さんが女の子みたいという妙ちくりんな歌詞だが、これがクセになる。気分が高揚してくる。次第に寂しさは薄れ、これから盛り上がるというときに、ガラララと、扉の開く音がした。どうせオヤジが腹いせに塩でも擦り込みに来たのだろう。どんと来いソルティサウナ。老廃物を排出し、内側から綺麗になってやる! と目を開けると、違った。だが、見覚えのある顔だ。

 世間的にはハンサムと言われる顔だが、その鼻持ちならない仮面の下で、ヘドロのような内面性を潜ませているのが分かる。一番の特徴は歩き方が気持ち悪く、左膝の関節がうまく曲がらないらしい。コンパスで少しずつ円を描くように歩く。ざまあクソびっこと思うが、どういうわけか運動神経に恵まれており、何かの競技でそこそこの結果を出していた。最も理解に苦しむのは、その姿が女性には「健気」とか「懸命」に映るという…。

 世の中狂ってやがる!

 ぼくの天敵テングタケ奴は『品性を疑う代物』をブルンブルンと嘶かせる。慎ましさに欠けたケダモノの象徴だ。歩く公然猥褻罪め。

「……」正直な話、ほんの数秒、うろたえたことは認めるほかない。しかしその数秒で奴に対する心構えと戦術を編み出せたのは、ひとえに普段からの鍛錬の賜物だ。

 無視。

 かと言って変に意識していると思われるのも癪なので、でんと湯船の真ん中であぐらをかいた。顔を背けず目を逸らさず、正面を睨みつけて、迎撃体制。鼻歌だって歌ってやる。

「フフ、フーンフーンフーン」「うるさい」「……」

 一喝に黙ったわけではない。銭湯で鼻歌は、確かにマナー違反だと気付いたからだ。意見とタイミングの一致は偶然である。むしろこの程度の社会性は人間として持っていて当たり前で、テングタケの脅威は、その社会性に潜ませた陰険な狡猾さである。そのうち化けの皮を剥いで、湯船で洗濯し始めるぞ。

「…なんてマナーのない奴だ!」ぼくは一人でぷりぷり怒った。

 しばらくしてテングタケは湯船に浸かる。同じ湯船、同じ汁、虫唾が走るほどの耐えがたい状況だが、今退席するのは具合がよろしくない。いかにも奴の闖入に怯え。そそくさと逃げ帰るようではないか。

 それに一つ、確かめなければならないことがある。

 最も可能性が高く、不幸なこと…。

 ぼくは日本男児らしく正々堂々テングタケと戦うつもりで居住まいを正す。しかし卑怯の満漢全席たる奴は精神攻撃に切り替えてきた。

「よお、最近調子はどうだい?」

「無論絶好調だ」

 それがぼくとテングタケが十数年ぶりに交わした言葉だった。

 奴はにやけ面で言った。「大学を休学したと風の噂で聞いたよ」「ふん。おしゃべりな風だ」「聞いていると思うが、おれは二号館で働いている」「うむ聞いている」「で、恋華さんの手引きで《花一匁》に参加させられる」「ああ知っている」「そこでお前と戦うらしい」「上等だ」「丑鍋さんを賭けて」「…スダチを賭けて」「早速事務的な話で悪いが、今月の《花一匁》は《二号館》が勝負を決める。近い内に勝負内容を知らせる」「おい」「なんだい?」「お前がスダチに惚れていると風の噂で聞いた」「やれやれ、お喋りな風だ」「…ぼくがスダチに振られたのは知っているな」「いたわしい話だ」「うるさい」「へへっ」

 ぼくとテングタケのおよそ二十年に渡る闘争劇において、勝敗が決したことは一度もない。第一戦が未だ継続中であり、奴と勝負が終わる時、それはぼくが勝利を収めた時である。勝ち逃げ上等。御意見無用。

 ただその途中、余興にも満たない小競り合いにおいて、奴の謀りが成功していたのは認めざるを得ない。一方ぼくの策は悉く水泡に帰した。そればかりかテングタケは、ぼくの策を逆手に取って、嬉々として陰惨な手段で徹底的に貶めた。

 あれ? その構図は、今回のスダチとの一件に、酷く似通っていないか?

 つまりあの写真は、彼女と写っていた男は…。確信はない。テングタケだったか、確かめる以前に、食べてしまったのだから。だがいかにも奴のやりそうな方法だ。そして嫌がらせのために、ことに及んだのだとすれば、スダチがあまりにも不幸である。単刀直入に切り出した。

「…お前が裏で糸を引いているのか?」「……」「お前が、一枚噛んでいるのか?」「だったらどうする」「もう一本へし折る」「足を? 猟奇的だねえ、きみは、相変わらず」「ひとの手にスコップを突き立てるのは、慈善活動とでも言いたげだな」「毒虫が居たんだよ。それもとびっきりの巨大な奴が」「眼科に行け」「若気の至りだ」

 一生もんの傷だ。聞こえの良い言葉で誤魔化されると思うな。テングタケは、勿体つけるようにタオルで顔を拭う。たっぷりと間を空けてから「勘違いするな」と言った。

「多少おれも傷ついているんだ。…そういうことをする人には、見えなかったからな」

『そういうこと』水炊さんはテングタケに写真のことを伝えたのか。それともぼくが休学している間に、周知の事実になっていたのか。いずれにせよこいつは、無関係らしい。

「トゥーキチくん、誰かから奪って叶える恋は、虚しいだけだぜ」

「うそつけ」

「だが、彼女が望むなら、そういうフェティシズムもおれは受け入れるよ」

「…くだばれ」

 無駄に恋愛経験を積んでいるやつは、妙な性癖を持っているから困る。奴の一挙手一投足、その全てはまぐわうことに根差しているのだ。テングタケの薄っぺらな親切や、ありふれた口説き文句は、総じて釣り針であり、引っかかった婦女子諸君は、可哀想であるが同情はしない。これに懲りたら『優しい』とか『マメ』といった、没個性の世迷い事を口にするのはやめたまへ。顔が良ければ何をしても許される世の中である。

「おいテングタケ」「なんだい」「スダチに何かしてみろ。お前のびっこにもう一つ関節増やしてやる」「ふむ。曲がりやすくなるな」「無限に増えてやがてロールケーキみたいになれ」「しかしね、きみにもうあれこれ言う権利はないだろう?」「お前の謀りを食い止めるのに権利はいらない」「女性に乱暴するのは、許せない性質なんだ」「ふん。当然のことを胸を張って言うな」「では二人合意の上ならば?」「……」「きみも難癖つけられまい」「…てめえ」何もかも気に食わない。さっさと出て行け。

 というぼくの願いが届いたのか、テングタケは立ち上がった。一瞬、風呂掃除が頭をよぎるが、二人並んでデッキブラシを持つ姿を想像し、寒イボが…。断られても腹が立つし、言ったらぼくも風呂掃除をしなければいけなくなる。今日はもう掃除の気分じゃなかった。

「一つ言い忘れていたが」テングタケは扉に手をかけた所で、立ち止まり振り返った。「丑鍋さんのことについて、俺も本気だよ」

「…みーつー」

 ムニムニのケツをぷりぷりさせながら曇りガラスの奥へ姿を消した。

「そうか…」

 しかし奴は一つ勘違いしている。ことテングタケにおいて、ぼくは如何なる状況でも難癖をつける。いちゃもんでも逆恨みでも徹底的に根に持つし理不尽な理屈を並べまくる。確かにスダチに関しては無関係だが、相手がテングタケなら話は別だ。奴が幸福になるのだけは、許してはいけない。

「…分かったぜテングタケ。正々堂々勝負しよう」

 尊厳や品位や体面は、野良犬に食わせた。

 しかし今日は湯船に浸かりすぎた。のぼせ気味の頭をふらふらとさせながら、奴が消え去った頃合を見計らって脱衣所へ出る。…ぼくの鯨幕のトランクスが、無い。

 もう勝負は始まっているのだ。

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