◆二幕『アパートと巨大バンビ』

 水炊恋華は、ぼくの初恋相手である。原体験と言っても過言ではない。幼少期の性的嗜好を決定づける時期に彼女は現れた。初めて見る親兄弟以外の異性である。ましてやそれが歳の離れた妙齢の美人ならば、自然と恋心を抱いてしまうのは無理からぬ話だ。

 ようするに仕方の無いことだった。

 誰が現れても惚れていた。タイミングの問題だ。ぼくの場合それが彼女だったというだけで、水炊さんでなければ駄目というわけではない。だから断じて未だに惚れている、もしくは偶然の再会に心が大きく揺れ動いた、と誤解されているとしたら心外である。

 水炊さんはぼくが四歳のころ突然祖父の元へ現れた。そしてジジイは「よし分かった」と何が分かっているのか分からない納得をし「ならここに住めば良いべ」と彼女を家へ引き込んだ。当然ぼくと両親は面識がない。祖母もない。未だに真相は定かではない。

 しばらくは、親戚のお姉さんか何かだと思っていたが、物心つくころに赤の他人だということを知る。だからと言って邪険にするようなことはなく、最早家族の一員という認識だった。強いて言うなら姉のようなものだが、姉にしては歳が離れすぎていたように思う。それに初恋の相手が姉というのも危険である。

 水炊恋華は、水炊恋華という位置で我が家に居座っていた。よく遊んでもらったし授業参観にも来てもらった。何度となく泣かされたし、何度となく慰められた。彼女にまつわるエピソードをつまびらかにすると、幼きトーキチのマル秘赤面エピソードが必ず付いて回るので、あまり触れない方が賢明というものだろう。

 生きてるだけで、恥さらしだ。

 それからぼくが小学校を卒業するまで一緒に住んでいたが、ある日何の前触れもなく彼女は家を出ると言い出した。もちろん誰もが引き止めた。最初は快く思っていなかった両親だが、男勝りのサバサバした性格に、いつの間にか惹かれていたのだろう。好きとか嫌いではなく家族として、家族だから引き止めたのだ。

 しかし水炊さんの一度言い出したら頑として譲らない性格は、家族全員承知している。小学生のぼくだって「行かないで」とは言ったものの、心のどこかで無駄だと諦めていた。ジジイは何も言わなかった。

 そして水炊さんは「分かった」と言ってぼくの頭の撫でると、次の日の早朝、晴れていく朝靄と一緒に消えた。後に聞いた話では、思春期に片足突っ込んだぼくのセクシャリティが歪曲することを危惧したらしいが、あまり効果的とは思えない。むしろ悪化したような気さえする。

 それから十年。会うこともなく、連絡をとることもなく、再会は厳しそうだと悟り、やがて記憶も薄らいで、薄らぐように努力して、高校生になって大学生になって、人生で初めての彼女を作ってふられて、そんな矢先、再開した。子供を通り越し、しかし大人になりきれず、むしろおっさんに片足突っ込んだ状態で、水炊さんはぼくを一発で見抜いた。彼女の姿形は、十年前最後に見たときと何ら変わっていなかった。

「お前だって全然変わってねえよ」


《めぞんアビタシオン》

 それが水炊さんの管理するアパートの名前だ。あとで辞書を引いてみたらどちらもフランス語である。あら、おフランスざんすと思いきや、直訳すると『建物・部屋』ということになる。語感の格好良さと汎用性を考慮した、実に馬鹿丸出しの名前である。

 外観は由緒正しき骨董アパートといった趣きだ。所々ガタはきているものの、手入れが行き届いており、まだまだ住める。数々の前途有望な若者を生み出していくだろう。

 ーー三十年ぐらい前ならば。

 トタン? そんなものは遥か昔に剥がれ落ち、腐りかけた木の建材がむき出しである。そこにツル科の植物が何重にも絡まり合い、近親勾配を繰り返しまくった結果、壁そのものになっている。一見お洒落マンションに…いや見えない。夏場は虫が凄そうだ。それは建物の内部にまで侵入しており、春先は廊下で草むしりという結構貴重な体験が出来るという。×印に板を打ち込まれた壁が漫画的ボロさを演出している。軒先に出ているビニール製のひさしは、骨組みしか残っておらず、容赦なく照りつける直射日光は、室内の畳をこんがりとローストして、ダニ殺しに一躍買っている。割れたガラスは、新聞紙によって応急処置されていたが、それも破れて今では万物の出入り口と化している。あと底の抜けたバケツは捨てろ。

「…しかし無駄に広いなあ」

 外に出て見れば分かるがアパート尻の方が、うっそうと生い茂る林の中に入り込んでいて、先の方が杳として知れない。廊下に立ってもそれは同様である。一筋の光さえ余さず飲み込んで果てが見ない。奥は昼夜問わず完全な闇である。部屋一つ一つの広さは六畳程度だが部屋数が多いのだ。下手すれば、生まれもっての方向音痴と後天的運動不足により、遭難するのではないか。廊下にパンくずを落としていくか? いやこれは迷子者のお約束であり、鳥を肥やすだけだ。こと生き物の出入りに関して大らかな設計である。

 で。

「はあ。…店賃の回収?」

 翌日。アパートにて。水炊さんの部屋。いわゆる管理人室にぼくは呼び出された。

「そ。見ざる聞かざる働かざるってね」「なんですかそれ」「黙ってぶん取って来いってこと」「金額は?」「搾れるだけ搾り取って来い」「期限は?」「私の酒代が切れるまで」「……」ヤクザじゃねえか。

 勿論ぼくだってタダ飯食らいで居るつもりはない。仕事があれば可能な限り力になろう。だが取り立ての真似事は、可能な限りの範疇なのか。いや、出来るか出来ないじゃねえ。やる。暴力に訴えないよう心がけよう。負けるのはぼくだ。

「あ、そうそう忘れてた」 

 水炊さんはご愛用のボールチェアから妙に艶めかしく足を延ばすと、部屋中のガラクタが積み上げられている山に、やおら突っ込んだ。横着者。グリグリとまさぐった後、引っこ抜かれたのは、大きめのナップザックである。

「なんですかこれ?」「サバイバルキット」「…何が入ってるんです?」「地図と食料」

 地図と食料が必要なのかよ…。

「何が住んでるか分からないんだよねーここ」

「……」管理、してねえ。

 そして『誰が』ではなく『何が』ときた。これは艱難辛苦を強いられそうだ。

 もしかしてただの茶坊主として連れて来られたのではあるまいか。

「分かりました。やりますよ。やりゃ良いんでしょ」「うれぴい!」「でも住人の顔と名前と部屋番号ぐらい把握しておいてください」「だって勝手に住み着くんだもん」「管理しないからだろ!」「いや私が来た時からこの状態だったよ」「……」「来るもの拒まず。昔からこういうアパートなんだよ」

 それはうちのジジイの生き方だ。その方針が現在まで受け継がれていることは、孫としてまあ嫌なわけでは無かった。

「ちなみにその地図は、あんたの爺さんに渡されたものだから」「形見ってことですか…」「今は役に立たない、かも」「改築したんですか?」「改築と増築」「…かもって何です?」「住人が勝手に作り変えるんだよ。私が何も言わないから」

 つまりこのアパートは、根をはり、枝を拡げ、さながら巨木のように成長を続けているということだ。馬鹿な! 恐くないのか地盤沈下! 色々な法律違反で捕まれ!

「払うもんさえ払ってくれりゃ後はご自由にって感じだし」「……」「骨ぐらいは拾ってやっから」「…骨は残るんですか?」「えへっ! じゃ。よろ!」

 水炊さんはぼくを廊下へ蹴り出した。『管理人室』と書き殴られた扉が、金切り声を上げながら閉まる。幾つあったら足りるのだろう、命。残機は一だ。


 パッと見て分かるが、地図と現物との差は歴然だった。形見か便所紙程度の役割しか果たさなそうである。そして保存食。種類が増え、味も格段に向上した現代において、何故だろう一種類しかない。パサパサに乾いた円形のウェハース。食用というか、乾燥剤のようである。しかし量はすごい。というか地図除いたら、ザックの中に保存食以外入っていない。サバイバルキッドって、サバイバル舐めすぎだろ。

 ぼくは改めて辺りを見回す。玄関を入ってすぐの所に階段があった。一方は上へ、もう一方は下へ伸びている。さてどちらから行ったものかと考えるが、いずれにせよ不吉な気配がむんむんと漏れ出ており、登るも地獄、降るも地獄、かと言って一階が安全という保障はない。

「しかし現在生きている事実は、気休め程度になる」

 一階を中心に回ろう。

「たのもう。店賃の回収に参りました!」

 ベニヤをノック。手頃な部屋に狙いを定めた。ぼくは泣く子も黙る管理人代行である。家賃を払い渋る連中に対して圧倒的優位な立場に居り、いざとなったら強制退去だ。万一サイコパスが飛び出して来ても良いように、脱出経路だけは確保しておこう。肝心な所で靴紐がほどける、なんてヘマはしない。マジックテープだ。

「……」しかしいつまで経っても返事がない。試しにドアノブを握ると固い感触がする。なるほどこれだけ地球に帰化しながら、一丁前に鍵なんぞかかっているわけか。

「留守?」ならば仕方ない。ぼくは次の標的に狙いを定めた。


「…違うぞ」何軒か巡る内に嫌な予感が脳裏をよぎる。時刻は平日の日中、学校や仕事などで部屋にいる確率は低い。しかしどこまでも続く廊下で、人っ子一人見かけないとは些か不自然ではなかろうか。「これは…居留守だ」

 居留守。宗教の勧誘や国営放送の集金など、招かれざる客を撃退する常套手段であり最善手だ。ぼくも数々の招かれざる客を、この方法で撃退してきた。おそらく彼らは何らかの方法によってぼくの到来を知り、払うまいと抵抗しているのだろう。貧乏人の横の繋がりは堅固である。横の繋がりが強いから貧乏なのかもしれない。

 一度出直すか…? いや水炊さんのご所望は『本日の酒代』であり、今日でなければ意味が無い。例えばマスターキーを貰って部屋に乗り込む。お布団が安全神話でしかないことを証明すれば、彼らも大人しく金を差し出すだろう。

「…しかしマスターキーが役に立たない可能性もある」

 鍵を変えられていれば成す術はない。そして水炊さんがきちんと保管しているとは思えなかった。第一取り立てるモノがあるのか? 無い袖は振れないと言われてしまえば、男は蟹工船、女は吉原、だがいずれもぼくの軟弱な良心が、軟弱なりに邪魔をする。現実問題、金が無ければ取り立てる手段は無い。

 となると結論は一つ。

 少額を取れる所から持ってくる。そして少額の取り立てに応じられるような部屋は、おそらく鍵がかかっていない。つまり数打ちゃ当たる。最初から方法は何一つ変わらないが、居留守が当たり前と分かっていれば、精神衛生上なんぼかマシだった。

「そして気分が変わると結果も如実に現れる、と…」回った。ようやくドアノブに抵抗がない部屋に行き当たる。相変わらず返答は無いが。「あのお…、店賃の回収にですね…」そろりそろりと躊躇いがちに扉を開いた。刮目する。


 そこには巨大な鹿が横たわっていた。


「水炊さああああん! 鹿です! 鹿が居ます!」

 管理人室は遥か彼方だが叫ばずにはいられなかった。

 鹿だ。トナカイを蹂躙するレベルの巨大鹿だ。とてつもなく立派な角と蹄を持っている。ヘラジカというのだろうか。それにしたって規格外だ。如何なる方法で六畳に押し込んだのか、畳の上で器用に巨躯を丸めている。檻などない。大人しく目を閉じ、身動き一つ取らない。現実的なラインは剥製だが、生きているとなるとツチノコレベルだ。

 しかし当の本人(本鹿)は、ぼくのことなど歯牙にも掛けない。煩わしそうに鼻息を吹く。獣臭い風が前髪を吹き上げる。その存在感に慄く。奈良公園で鹿せんべいをモゴモゴしている連中とは遺伝子から違う。同じ『檻に囲われていない獣』にも関わらず、こうも不安を煽るものか。何を食べたらこんなことになるんだ。後ろ足で蹴り上げられたら『体を強く打ち付けて』は免れない。

「でも優しい目をしている」

 じゃねえ。優しい目の獣ほど恐いものはない!

「そもそも日本に居て良いんですか! あなた!」考えられることとしては、水炊さんのペットである。マイクタイソンが虎を飼うように、水炊恋華は鹿を飼う。…なんだそりゃ。「こいつから何を搾り取れっていうんだ? 鹿せんべい! 鹿せんべい?!」

 鹿せんべい。その言葉がヤツの琴線に触れるのは、考えてみれば当たり前である。だって鹿だもの。結果として奈良公園の連中と同じ遺伝子を持っていたのだ。

「……」

「え、なに?」

 スッと《彼》は徐ろに首をもたげた。長い睫毛が直立している。アボガドの種みたいな眼球が二つ、コチラを向く。草食動物が肉食動物の目をした貴重な瞬間である。

「ぶるるるひりりりりぃぃん!」嘶き。

「ーーィナッ」

 破裂音。木っ端が宙を舞う。扉も壁もぶち抜いて、ぼくの薄っぺらい胸板めがけて飛び込んで来たのだ。コマ送りのようにゆっくりと見えるのは、走馬灯の一種か。逃げなきゃと思ったが、たたらを踏むのが精一杯だった。獣の素早さに、なまりきった大学生の反射神経が敵うはずがない。

 ふわっと体を浮遊感が包む。どうやらぼくは、真上に放り投げられたようだ。不思議と痛みはなかったし頭は冴えていた。天井がみるみる迫り、このままでは激突する。重力に身を委ねれば地面に背中を強打する。最悪二本の角に串刺だ。

「ーー痛いのは、ごめんだ!」

 ぼくは無我夢中で天井の梁を掴んだ。ナマケモノのような格好でぶら下がる。しかし命がけだ。いやナマケモノもアレで命がけだけど。

「搾らない、搾らない、搾らないよお!」

 逆さになったザックから携行食がポロポロとこぼれ落ちるが、構いやしない。筋肉番付ばりに梁を伝って、安全な所に逃げなければならない。下では鹿が地面に落ちた携行食をまくまくと食べており、これは絶好のチャンスではなかろうか。

「ん? 携行食…?」カラカラに乾燥した無味無臭の円形のウェハース。

 …鹿せんべいじゃねえか。

「さては水炊恋華、こうなることを想定していたな」イタズラの限度を知らない人である。ぼくが鹿の角でサクッと踊り串にされようものなら、諸手を上げてきゃっきゃと喜び、怪我人の枕元で酒盛りだ。「酒盛り…?」しかしその場合、酒代は誰が回収するのか。

「ひぃあ」唐突に尻をまさぐられた。

 絶妙なソフトタッチに臀部の力が抜ける。鹿が鼻でふがふがしていた。そしてぼくを引きづり降ろすと、自分の背中に乗せたのである。「取り乱してごめんね」振り返った顔は言外にそう言っているようだった。先ほどまでの凶暴性はすっかりなりを潜めている。

「…もっと食うけ?」

 正直未だ恐ろしいが、餌を食べている間は大人しい。保存食もとい鹿せんべいを差し出すと受け取ろうとして、止めた。首を左右に振り、何かを促しているようだ。

「…食べたいのに、食べない?」

 それはある程度の知能の有している証拠だ。では何故食べないのか。自分が最も鹿せんべいを多く食べられる方法を知っているからだ。しかし己が本能に逆らうことの出来ない畜生であることも知っている。

「…もしかして、その本能を利用しろと言っているのか?」

 一つの仮説が生まれる。鹿せんべいは、店賃を取り立てる小道具ではないか。

「……」

 ここで《鹿せんべい飛ばし大会》の登場である。鹿のメッカ、奈良公園で毎年開催される奇祭だ。読んで字のごとく、鹿せんべいをどれだけ遠くに飛ばせるかという祭りで、そしてルールの一つに『飛ばした鹿せんべいは鹿が食べるのでそのままにしておく』というものがある。鹿の胃袋を満たし、人間が拾う手間を省く、誰も損をしないギブアンドテイクを実現させた良法である。ちなみに参加費は三百円だ。

 嗚呼、遠い近畿の中枢に思いを馳せる。ぼくは鹿せんべいをフリスビーの要領で構えた。

「いけ!」

 放つ。小麦粉と米ぬかで出来た円盤が、半円を描きながら空を滑る。そこは、先ほどドアを叩いた部屋である。本当に留守かどうか、確かめてやる…っ! 斜め下方に放たれたそれは、ドアと一体型のポストへ、すぽんと吸い込まれた!

 …まあ、別に飛ばす必要は無かったかな。

「……」

 静寂が訪れる。鹿の息遣いだけが薄暗い廊下に響いていた。家主の返事は無い。所詮拙い推察であり、水炊さんの嫌がらせかと諦めかけた。

 瞬間、動いたのは鹿だった。

 先ほどの壁を突き抜けた力が勢いなら、今度は馬力だ。己の角を器用に使い、扉だけメリメリと壊し、最小限の被害で済ませる。そして角に扉を刺しにしたまま、転がり落ちた鹿せんべいをまくまくとやり始めた。「…鹿なのに馬力とはこれ如何に」

 これが本当の馬鹿力か!

「酷い!」お布団を被った男がこちらに向かって声を荒げた。「人権侵害だ!」

「はい」


「伝令。伝令。管理人代理が鹿を引き連れて店賃を取り立てている。大人しく払うのが身のため」と回ったかは分からないが、効果は覿面だった。先ほどまでうんともすんとも言わなかったアパートの住人が騒々しく騒ぎ始めた。なるほどなあ、これが日頃の活気か。お前ら学校や仕事はどうしたんだ。まったくぼくが言えた義理じゃねえけど。

 手順は簡単である。ノック↓「店賃の回収に参りました」↓ポストへ鹿せんべい。以上。そうすると血相を変えて住人が飛び出してくる。「ひええ、これで勘弁してくだせえ」

 チョロくてボロいなあ、管理人。

 しかし彼らの取り立てられまいという精神は、一筋縄ではいかなかった。

《食堂》と書かれた大広間がある。長机と丸椅子が並べられており、合宿場のようだ。そこへ逃げ込んだのだ。机を倒し、椅子を積み上げ、ものの数秒で即席のバリケードを作り上げた。完成度の高さに思わず見入ってしまう。みっちりと塞がれた入り口は、蟻の子一匹通さない。普段からこんなことをしているのか。それとも火事場の馬鹿力か。貧乏人の恐るべき団結力だ。しかしこんな小細工は、普段なら水炊恋華に通用しない。それは住人たちとて百も承知であろう。「…ぼくが舐められているってことか」

 連中は口々に言う。『暴力反対!』『断じてテロには屈しないぞ!』『こちとら鹿アレルギーだ!』『よっ伊達男!』『ドアかえせ!』

 …あ、さっきの奴だ。悪口や見え透いたお世辞、そしてドアを求める声が飛び交う。

 どうしようか。こちらに鹿がいる以上、机とテーブルはレゴブロックであり、取るに足らない障害だ。鼻息一つでぷいっと吹き飛ぶ。

 だが憂慮すべきは『相手方とて鹿の攻撃力は承知』ということだ。壊されること前提でバリケードを組み上げており、素直に突破すれば、貧乏なりに工夫を凝らしたしょーもない罠に引っかかる、かもしれない。金を取られまいという執念が、扉の向こうで怨念となって渦巻いている。鹿も「ぶるひーん」と鼻を鳴らし「どうする?」と尋ねてきた。

 んなもん決まってる。

「ひゃっはーっ!」死ぬまでに言っておきたい言葉ベスト3である。

 扉のバリケードは壊さない。

 ぼくは残った鹿せんべいを鹿の眼前に全てバラまいた。鹿はそれを一つ残らず空中でキャッチ、し終わる頃には、巻き込まれた壁そのものが、音を立てて瓦解していた。

 壊したのは、壁そのものである。

 どんがらがっしゃーんと《食堂》へなだれ込んだ。鍋やお玉で武装した集団が、見る見る間に色々なものの下敷きになっていく。一般人では危険だが、貧乏人の生命力はゴキブリ並みなので、むしろうってつけの環境と言えよう。

「ホールドアップ! お前ら全員家賃出せ!」

 こうなるともう罠とか策とか、関係無かった。

 種族を超えた圧倒的暴力に、下層類人猿は成す術を持たないのである。


「下手すれば管理人よりもイカれてやがる」

 そんなことを口々に漏らしながら、彼らは自室に帰って行った。

 ぼくの手元には、よれよれの一万円札が積み上げられていた。一人当たり一万円である。どうやらそれがここの相場らしい。家賃としては破格だが諸々含めて、不思議と妥当な金額に思えてならない。何にせよ本日の酒代には十分すぎる額が集まった。

「これを水炊さんに届けよう」

 一瞬持ち逃げという名案が浮かんだが、やめた。見つかれば水車とかに縛り付けられる。

「しかしやりすぎただろうか…」

 回収額より修繕費の方が高くつくかもしれない。何と言い訳したものか、と考えながらぼくは管理人室をノックした。

「……」

 返事が無い。また居留守か、と考えてしまうのも無理からぬこと。しかし彼女が居留守を使うのは妙であり、鍵はかかておらず、開けてみれば中はもぬけの殻であった。

「本気留守(マジるす)だ」待っているべきだろう。下手に動けば、行き違うし、最悪ぼくが迷子になる。「しかし本当に戻ってくるのか?」放浪癖のある人なので昔からふらっと消える。それに万が一心配して、ぼくを捜しているとしたら、ぼくが心配されるようなことになっていないと、納得しないのだ。

「…少し捜してみよう」心配される前に、こちらから見つける。

 ぼくは、迷子になる可能性のある屋内を避けて、庭から捜すべく外に出た。

 荒れ放題の裏庭、と思いきや何故かソコだけ妙に手入れが行き届いていた。家庭菜園。夏の植物がつやつやとした果実をぶら下げていた。小さな温室まである。

「…ふむ」

 そして見れば、錆びた梯子が屋根に向かって掛けられていた。

 さてこれは登るべきか。長いこと放置され梯子というよりも、ツル科の植物の支柱である。所々抜けているし、人間の体重に耐え得る強度を持っているのか。もし登りきったとて、その瞬間階下から現れた水炊さんが「バカが見ーる。ぶたのケーツ」と歌いながら梯子を下ろす姿が浮かぶ。最悪、ぼくが勝手に登って勝手に怪我をするかもしれない。

「……」しかし水炊恋華は、高いところが大好きなのである。「ええいままよ!」

 ぼくはその梯子に引導を渡すべく足をかけた。告白するとちょっと登ってみたかった。

 で。

 頂上の景色は決して絶景とは言い難い。さすがにお山のむこうまで見通せることはないし、地平線もデコボコで虫食いだらけだ。せいぜい数軒先の民家が見下ろせる程度である。

 だというのに、不安。

 眼前の夕日が辺りを焼き払う。目が眩み思わず後ずさると、背後の夕闇に足元をすくわれそうになった。大禍時。昼と夜の中心にぼくは立っている。手すりなどない。不安定な足場、一歩間違えれば闇の中に真っ逆さまだ。しかし妙な高揚感。忍び寄る油風が、川から漂う強烈な水のにおいを運ぶ。背後に聳え立つ木々がざわめく。調子外れの水のせせらぎが聞こえる。遮るものが無いせいか、やたらと音の距離が近い。初夏の虫の声、遠くを走る自動車の音、大学生の笑い声、これから夏に向けて最盛を極める生き物の息遣いが届く。だから不思議と、その不安は、悪いものじゃ無かった。

 さて水炊さんはと、ぼくは見回す。すると奇妙なものを見つけた。このアパートに屋上は無いはずだが、一箇所、四畳半ほどの納涼床のようなものが組まれていた。そこには古ぼけた戸棚、丸テーブル、ダイヤル式のテレビが置いてある。昭和の食卓みたいだ。

「どうせなら壊れるまで、使い倒してやろうと思ってさ、雨ざらしにしてあるんだけど、すごいね昔の電化製品は。いつまで経っても壊れやしない」

「水炊さん。何ですかここ」

「秘密基地」

「何してるんですか」

「夏の匂いをかいでいる」水炊恋華は、その秘密基地に一人座っていた。

 彼女が抱えているのは年季の入った煙草盆で、手には助六煙管、気だるげに口から紫煙を吐き出す。それで本当に夏の匂いなど分かるのだろうか。

 今日の水炊さんは、休日の侍みたいな出で立ちである。「お前侍の知り合いがいるの?」「平成生まれが考える薄っぺらな想像です。第一侍に休日があるんですか?」「知らん」無造作に結わえた髪に着流しに裸足に一本下駄。あれでここまで登ってきたのか。天狗か。

「……」しかしどうにも…。

 水炊さんを見ていると赤面してしまう。着流しから胸元や太腿がえらく大胆にはだけている。全体的に布の面積は少なくないが、大事な部分が隠れてない。肌の露出が極めて顕著であり布の下は…。嫣然と足を組み替えたり、膝を立てたり、肩を晒してみたり、戻したり。ぼくが目を瞑ると彼女は艶かしい吐息を漏らすので、余計に妄想が膨らむ。

「膨らむのは妄想だけですかにゃあ?」

 座り込んだぼくの股座に、ゴロンと横になり頭をうずめた。危険体位である。包丁を突きつけられているようだ。いや突きつけているのは、ぼくか。「あたち下ネタ嫌い!」「嘘言え」破廉恥極まる大悪党め。ぼくに劣情を抱かせて反応を楽しんでいやがる。

 水炊さんは寝転がったまま器用にキセルを咥えると、蒸気機関車のように紫煙を天高く吐き出す。顔面直撃。超煙い。

 水炊恋華、着流しの帯は落としても、タバコの灰は落とさない。こと煙と名のつくものに、異様な執着を見せる。それが例え、ありし日の白秋少年が買ってきた『ようかいけむり』であっても同様だ。しかし不思議である。男の煙草吸いは、公害レベルの口臭で環境を著しく汚染するというのに、女性の喫煙者はむしろかぐわしく、頭がくらくらする。

 水炊さんは、服の上からぼくのヘソをほじりながら言った。

「…お花一匁(はないちもんめ)って知ってるか?」「勝って嬉しいはないちもんめ?」「そ。負けて悔しいはないちもんめ」「もぐもぐもぐまだ煮えない?」「ちょっと違うだろそれ」「で、そのあぶくたったが何なんです?」「やるんだよ」「誰が?」「お前が」「何故?」「そういう風に決まってるから」「はあ」「《めぞんアビタシオン》には、通称二号館と呼ばれる棟がもう一つ存在する。うちは川の近くで、向こうは山の高台。見下されているようで、まことに鼻持ちならんが、その《二号館》と住人を取り合って戦う。それが私らの言う《花一匁》」水炊さんはキセルでビシリと天空を差した。「あそこ見えるだろ?」

 そこは小山の天辺に位置するらしいが、いい加減日も陰ってきたので、うす闇で判然としない。おそらく何かしらの建物を指している。当たり前か。あれが《二号館》

「…何故そんなことを?」

「だからそういう風に決まってんだよ!」言ってぼくの腹に噛み付いた。

 水炊さんの説明は以下のとおりである。

 ことの始まりは《めぞんアビタシオン》創建当初まで遡る。同時期に建てられた二つの建物は、住人の奪い合いに躍起になっていた。時には怪我人が出るほどその争いは苛烈を極め、ことを重くみた当時の管理人たちは、平和的に解決するために《花一匁》を始めた。

「という話をここに最も長く住んでいる爺さんから聞いたが、そのような証拠はどこにもないし、創建当初がいつなのかも判然としない。痴呆で、酔っ払いで、歯抜けだから半分以上何喋ってんのか、そもそも喋ってんのかすら分からなかったけど、多分ホントね!」「ピュアだなアンタ」「私じじいが好きなのかなあ」「気をつけてくださいよ。世の中善良なじじいばかりではないですから」「でも棺桶に片足突っ込んでるって、草食系の極みって感じでとっても安心!」「…本当ですかそれ?」「いざとなったら無理矢理食わせるし、草」「……」そのまま窒息させるんだろうなあこの人。そして『いざ』が気分次第なのも恐ろしい。

 ちなみに件の法螺吹きじいさんは、齢百二十歳(自己申告)の誕生パーティで、大好物のホールケーキに顔から突っ込んでそのまま絶命したらしい。今度線香でもあげてやろう。

「まあでも、現状『平和的解決』とは言い難いぜ」

「…不吉だなあ。ご存知の通りぼくは殴り合いには不向きです」

 水炊さんの知っている幼少のぼくは、まず手が出るタイプだが、明確に勝利を収めたことは一度となく、自己ベストは喧嘩両成敗であり、小学六年生のときに幼稚園児に骨を折られてから腕力に訴えれば損をすると学んだ。かと言って現在まで得をした記憶も無い。

「で、《花一匁》のルールだ」

《花一匁》のルール。

《めぞんアビタシオン》及び《二号館》の住人は、これに強制的に参加させられる。もっとも強制的と言いつつ住人の数を把握していないので、強制力がどこまで効力を発揮されるか定かでない。しかしちょっとした町内会のお祭りぐらいにはなるという。

《花一匁》は名前の通り《はないちもんめ》と同意義であるが《はないちもんめ》が原則じゃんけんで勝敗を決するのに対し《花一匁》の場合その勝負内容は多岐に渡る。誰もが知ってる鬼系遊びであったり、誰も聞いたことのないブラジルの国技だったり、時には初心に返ってじゃんけんで決めたり…。要するに何でも良いのだ。

《めぞんアビタシオン》と《二号館》は、勝って嬉しい《花一匁》で負けて悔しい《花一匁》だ。そうして住人を取り合って、束の間の非日常に浸る。

「つまりルールなんて無いんですね」「ルール無用のデスマッチ!」「うわあ、やっぱり不吉だ」「なんだ不満か?」「不満ですよ、不満の権化です。でも強制的に参加させられるんでしょう?」「あたぼうよ!」「しかし何故今なんです?」「ああ?」「何故今水炊さんはぼくに、《花一匁》について説明したんですか?」

 これでも一応めぞんアビタシオンの一員であり、強制参加に異論はない。しかし直感で動く彼女が、微に入り際を穿つ説明をするのは、不自然だった。

「心構え、かな」水炊さんは答える。

「お楽しみ会に心構えが必要なんですか?」

「あそこに住んでんだ、あんたの天敵が。ーー《テングタケ》が」とんでもない告白をあっけらかんと告げた。「あっこでおめえと同じようなことしてる」

 色々と言いたいことはあるが、全て脇に置いておく。

「水炊さんは、それを言ったら、ぼくが乗り気になる、と?」

「思わないね。だが今回の《花一匁》てめえはなんぼ嫌だろうと、参加せざるを得ない」

「随分な自信ですね…」

「今回は、ついっとばかし趣向を変えようと思う。これから新しい住人が入居することになってんだけど、まだどちらに住むか決まっていない。だからお前とテングタケが、代表して戦って勝った方に入居させる」だからぼくには関係の無い話だ。何を好き好んで奴と余興をせねばならんのだ。入居者を取り合う? 勝手にしてくれ。決めた。逃げよう。回収した家賃は腹いせに持逃げしーたろ!「その入居者ってのがさ、丑鍋スダチ。あんたのイロだ」

「…元イロです」そして今となっては元かどうかも怪しい。

「振られた理由、確かめるんだろ? 手伝ってやるよ!」

「んがっ!」水炊恋華は、ぼくの顎を額で貫いて立ち上がった。そして屋根伝いに突っ走ると、着流しの裾を派手に広げながら飛び降りる。高低差、重力、質量、その他諸々の物理法則は、彼女にとって意味をなさない。地上から見上げたら、さぞ絶景だったことだろう。一本下駄とは思えないバランス感覚で、地面に突き刺さるように着地する。

「じゃあ勧誘してくるから!」

「これからかい!」

 一方ぼくは、不意打ちをもろに食らい、もんどりを打って倒れた。さんざっぱら床で転げ回ると、しゃくれを気にしながら仰向けに寝転んだ。頭がぼんやりする。すでに夜の帳は落ちており、先ほどまでの騒々しさが白昼夢のようであった。

 会いたくねえなあと思った。

 テングタケはくたばれと思った。

 奴がくたばれば、万事平穏無事に解決するのだ。

「…嘘だろ」

 あ、一番星。

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