天高く馬鹿、肥ゆる秋
まいずみスミノフ
◆序幕&一幕『元カノと初恋の人』
○
『罠にかかったゴキブリは、一斉に羽ばたいて罠ごと飛立つ』という有名な逸話がある。もちろん都市伝説の類いだが、正直ぼくには心当たりがあった。心当たりというかソレは今この瞬間、ぼくの手の中でウゴウゴと蠢いて、存在感を放っている。
マダガスカルオオゴキブリと在来種のハイブリットという話だが、真偽のほどは定かではない。しかしぼくは限りなく真実に近いと思う。まずでかい。手のひらに収まらず手首まで届く。そして巨大な翅を背負っている。本来マダガスカルオオゴキブリに、飛翔能力はない。だがコイツは飛ぶ。飛来する大きさは、羽を合わせて三匹分である。卒倒級のトラウマを植え付けること間違いない。
何故ぼくがそのような生物兵器を持っているのか。どこから手に入れたか。第一気色悪くないのか。一つ一つの疑問に、懇切丁寧に答えていく余裕はない。
一言で説明するなら『奴』を倒すためである。
勝負。試合。距離にしておよそ二十メートル。ぼくたちは向かい合っていた。『奴』はナルシストらしい気味の悪い薄ら笑いを浮かべて、なんとも余裕の様子である。一方ぼくは満身創痍。卑劣で姑息なイヂワルによって、圧倒的不利的状況にある。
勝負方法はキャッチボールだ。キャッチボール、ギクシャクした親子関係のカンフル剤としての役割以外だと、最たる存在意義を見出せない伝統的暇つぶしである。そこに勝負の要素を無理矢理捻じ込んだ。結果、妨害、嫌がらせ、買収、ルール違反の数々、堪忍袋も限界だ。
故にぼくはこのマダゴキ、
一縷の希望を持って、彼女を地獄からすくい上げるため。
何よりぼくは、彼女に尋ねなければならないことがあるのだ。
◆一幕
◯
ことの起こりは、一年ほど前である。
「昨日はごめんなさい」
大学構内の人気の無い踊り場にて、ぼくは土下座よりも頭を低くして謝罪の意を示していた。坂道や階段などの高低差を利用するのがコツである。
「……」
彼女の冷ややかで鋭い視線を感じる。視線というものを可視化出来たなら、ぼくの背中は針山になっていただろう。
彼女の名前は丑鍋スダチ(うしなべ すだち)。スダチは黒髪である。大きな切れ長な目である。背は普通で、寡黙で知的で孤高である。そして少しだけ世間知らずである。
大学入学当初、丑鍋スダチは住む世界の違う住人だった。スダチは超絶人気者で、一方ぼくは日陰族だ。謝罪はおろか会話をすることも出来ない。
そんなぼくが何故、超・土下座をしているのか。
盛大に胃の内容物をかけたのである。飲み会で調子に乗ったのだ…。
「では弁明の余地を与えましょう」傲岸不遜な態度が、どこかしっくりとくる。そしてぼくはやや救われた。スダチのつま先を見ながら答える。
「テングタケ…天貝武(あまがい たけし)を知ってます?」「知っているわ。今年の総代だもの」「ぼくと奴の間には、切っても切れぬ腐れ縁が団子結びになっているのです」「団子結びだと私が吐瀉物にまみれるの?」「テングタケは…あなたを慕わしく思っているのです」「へえ。そう」「あなたに惚れているのです」「聞いたわ。そして私の認識とも齟齬は無かった。理解力が乏しい女だと思われるのは、とても心外」「……」
ぼくだったら『誰かに惚れられている』などと言われたら狂喜に乱舞する。だがスダチは違う。モテてモテて仕方がないのである。
「入学早々美人が片っ端から男を袖にしているという噂は耳にしていました」「あら耳ざといのね」「誰にとっても高嶺の花です」「『袖にするために入学してきた』という噂はさすがに腹に据えかねるわ」「…だから今日はノースリーブなんですか?」「弁明は以上かしら?」「と、とにかく! 『恋の病』に罹患した連中の中に、テングタケは居たのです」「三度目よ」「もっとも、小狡いテングタケは、外堀を埋めている最中だという。その話を耳にしたぼくは、これは積年の恨みを晴らすチャンスだと閃いたのです。偶然にもぼくはあなたと同じ学部、同じサークルで、だから奴の恋路を徹底的に邪魔してやろうと画策した次第」
ひとたび、燃え上がった復讐の炎は、高く高く立ち昇り、ぼくを駆り立てた。まずスダチと顔見知りになる所から始める。普段ならお喋りすらままならないが、不思議と小粋なジョークが湧き上がってきた。そしてあの手この手を使って、同じ宴席までこぎ着ける。そこでテングタケの悪事をありったけ暴いて、いざ奴が行動を起こした時には、時すでに遅し、調子にのるテングタケを汚物のようにスダチはあしらう。ぼくは一言「ざまあみろ」そんな感じの絵空事だったが、今となっては馬鹿馬鹿しい。一種の燃え尽き症候群といえよう。居酒屋のゴミ箱に、吐瀉物と一緒に吐き捨ててしまったのである、やる気。
「あなたが吐いたのは、ゴミ箱じゃなくて私のスカート」
「…その通りでございます」
そうだった。ゴミ箱とか厠とか、人道的な吐き方はしなかった。それにスカート、というのはかなりオブラートに包んだ表現である。
そこから記憶はない。気づいた時には友人Aの家だった。ことの顛末は彼に聞いて、今土下座と相成ったわけである。
人を呪わば穴二つ。自分の株を落とすだけ落としただけだった。
「つまりトーキチは」「はい桃吉です…」「トーキチは、天貝くんへの復讐に、私を利用しようとしたわけね」「…返す言葉がございません」「そんなことをしなくても」「……」「私は、お付き合いをするつもりはないわ。誰とも。今の所」「分かっています。あなたのような慧眼の持ち主が、奴のトレーシングペーパーのような人間性を」「薄っぺらと言いたいのね」「見抜けないはずがない」「買いかぶるわね」「でもどうせなら、コテンパンにされてしまえば良い…」
「そう」スダチは小さく息を吐いた。「まあ人間誰しもそういう相手が一人ぐらい居るものね」意外にも復讐に利用されたことを咎めはしなかった。「それで? 弁明は以上?」
弁明、とは少し違う。これは懺悔である。いや、独り言か。違う、これじゃあ予防線だ。
「一つ聞きたいことがあります」
「何なりと」
「何故今回、宴席を設けようと言い出したのです?」
スダチが飲み会に参加する、というニュースは学内に瞬く間に広まった。普段なら彼女は、絶対に参加しない。規模にして数百人。その宴席を纏めたのは何を隠そうぼくであり、一番の功労者だ。…まあ、その功労者が全てをぶち壊したのだが。
しかし「一席設けよ」と命じたのは、何を隠そう丑鍋スダチその人であった。
「そうね」スダチの声は抑揚がなく冷淡な印象を受ける。「私、酔っ払いに甘いんだわ」
「はあ」
彼女の突飛な物言いに、ぼくは呆気にとられた。
「昔電車で座ってたら私の前に男の人が立ったの。ふらふらしてて、あーこれはまずいかなあなんて思っていたら、頭からゲロぶっかけられたわ」
「うわあ…」
「吐いた本人は次の駅で降りていくし、手を差し伸べてくれる人は誰も居ない。広漠たる専用空間で一人呆然としちゃって、駅員さんに頭から丸洗いされるまで意識がとんでた。…これ分かる? 毛先の色が微妙に抜けてるの。胃酸とビールのせいなんだって。どっかの部族がお洒落の一環で、牛のおしっこを被るのを思い出したわ。初めての経験だったの、髪の色抜くの」
「…そっち?」
「私、自分の黒髪が好きだった。祖母もよくそれを褒めてくれた。だから脱色しようとは思わなかったし、想像も出来なかった。でも姿見を見たら、そこに見慣れた顔をした別人が居て、くりびつてんぎょうだったわ。髪の色を変えるだけで、印象が全然違うんだもの」
「ゲロと縁のある人生なんだね…」
「それで目覚めちゃったんだわ」
目覚めたというのは、言葉通りに受け取れば、のっぴきならない意味合いとなる。
「何か勘違いしているようね、あなた」
「勘違いで安心しました」
「私知ってるわ。女子高生に吐瀉物をかけるのって男の人には快感なんでしょう?」
「いや…その…どうだろう」
違うとも言い切れない自分が居た。性癖ってのは降って湧いたように目覚めるからなあ。
「ともかくゲロをかけられて、私嬉しかったの」
「勘違いじゃねえ!」
「あら、利害の一致と言うのかしら」
「丑鍋さんが満足ならそれで良いけど…」
彼女の清廉潔白なイメージがガラガラと崩れ落ちる。ひとの印象なんてそんなものか。だとしても重すぎるフェティシズムだ。
「じゃあ今回のことも、その…勘弁して貰えるのでしょうか?」やや厚かましくはあったが、彼女のこの変態性欲はある種の救いであり、ぼくは確かめずにはいられなかった。
「そうね別に怒ってはいないわ」
ぼくはその言葉を聞いて内心ほっとする。…彼女の顔を見上げるまでは。
「でもねトーキチ。その優位性を私が無条件で放棄すると思っていて?」
あ、悪い笑顔だ。なまじ美人なせいで迫力が違う。ぼくに何をさせるつもりだ。
「別に何をさせようってわけじゃない。無理矢理あなたの喉を胃酸で焼く気分でもないし」
恐ろしい発想をする子だ。しかしそう考えると、一見マゾヒズムの延長にありそうな彼女の嗜好も、加虐趣味に思えてくるから不思議である。
「そうねえ」スダチは顎に手を当てて、考える人のテンプレを見せつけてくる。
「無理に捻り出すようなことではないよ…?」冷静を装うが背中に変な汗が伝う。
しばらくして、彼女はおもむろに、鞄から一振りの鋏を取り出した。クルクル回して切っ先をぼくの眉間に突きつける。計画性のないコンビニ強盗か。ソレには『一ちねん二くみ うしなべすだち』と書かれている。物持ちの良さは認めるが、小学校低学年に持たせるには、本格的に危険なラシャ鋏である。
「あなたは髪の毛の色、黒か茶か、どっちが好き?」「…丑鍋さんは、どっちの色でも似合うと思うけど」「けど?」「じゃあ黒かな…」「黒髪が好きな人って、変態が多いんでしょ?」「偏見、だと良いなあ…」「じゃあ切ってよ」「切る?」「髪」「髪!」「ここで」「ここで!」「あなたが」「…ぼくが!」
ヌバタマの髪は、本来であれば触れることすら許されない聖域である。それもただの友人、と呼んで良いのか微妙な奴が、あまつさえ刃物を滑り込ませるという。言うまでもなく他人の、それも異性の髪を、切ったことなど、生まれてこの方一度も無い。美容師の卵とかカツラ職人の見習いとかならば、謹んで拝命する名誉だが、一介の大学生には荷が重い。絹に勝るとも劣らないそれは、時代が時代ならば十数万、現代なら数十万、写真付きで桁が変わるマニア垂涎の代物だ。
さては彼女もまだ酒が抜けきっていないな。
「はやく」「……」「はやく」
有無を言わせぬその言葉は、逆らうことを許さない。
すっかりぼくに背を向け切られる気満々である。極端なショートカット、つまり虎刈りになっても知らんぞ。ええい、ままよと鋏を構えた。髪はいずれ伸びると自分言い聞かせる。それに虎刈りだろうと角刈りだろうと、美人は美人なのだ!
「ーーきゃあ」と愛らしい悲鳴をあげたのは、ぼくだ。
驚くべきは切れ味である。小学生用のものなら、人間の髪などそうは切れない。物持ちが良いのか元から良いのか、その両方か。ぼくの手のひらには、一束の黒髪が滑り込んできた。軽く握ると手の中で転がり、地面へと舞い落ちる。指の間を滑る快感と、その背徳的な行為に身震いした。「欲しいの?」酩酊感を誘う声に、ぼくは反射的に許しを請う。「いいよ」再び鋏を髪の下にくぐらせ、一束ポケットにしまった。
「どうするの?」「悪いようにはしない」「そう」
ただ風に飛ばされるそれが、無性に惜しくなっちまったのだ。
「あ」と言ったのはスダチだ。その声でぼくはびくりとする。「今更やめたとか言うなよ!」「や、手」「手?」ぼくの手にはどろっと、鮮血がこびりついていた。「血ぎゃああ」血の気が引く。うろたえるぼくと対照的に、彼女は平然と言い放つ。
「耳、切れたっぽい」「ごめん! …その、ごめん!」「なんで?」「なんでって…」「すぐ止まるよ」「そうかもしれないけど!」「これでやめる気?」
やめるわけには、いかないだろう。
スダチは鞄からティッシュペーパーを取り出し耳にあてる。幸い傷自体は深くはないようだが、女性の柔肌に刃物を突き立てた罪悪感に押し潰されそうだ。ざくざくと無我夢中で髪に鋏を入れていく。加減も完成形も分からない。着地点はどこだ。やがて一周し終わる頃には、見事なおかっぱヘアーが出来上がっていた。これは人かな? 河童かな?
スダチは手鏡を見ながら髪を手で梳く。
「へえ」「ど、どうかな?」「悪くないんじゃん? 私が切ってもお店で切っても、絶対にならない感じ」「ほめてんの?」「ほめてないけど、嬉しい」スダチはぼくの手から鋏をもぎ取ると、微調整を始めた。手慣れている。
うーん、ぼくは何をしに来たのだっけ? こんなことをしに来たわけじゃないのは確かだが…許して貰えたと、解釈して良いのだろうか。
解釈しよう。
「…でもぼくが切って、本当に良かったの?」「…じゃあ誰が切ったら良かったのよ」「友達とか親兄弟とか」「面倒なこと気にするのね」「親しい親しい間柄の人じゃないと…」「じゃあ親しい間柄になる?」「いや、友達っていうのは、自然となるものであって…」「鈍感」「すわっ!」「私とトーキチが付き合えば問題ないんでしょ?」「……」
誘導尋問的に問題を曲げられ、結果として別の問題がうまれたような気がする。
「それとも今から美容師でも目指すわけ?」
少し切れ気味だった。
「あのさ嫌いな相手を介抱したり、膝枕したり、ゲロ掃除したりすると思う?」
色々と初耳である。
丑鍋スダチは黒髪だ。大きな切れ長な目だ。背は普通だ。寡黙で知的で孤高だ。そして少しだけ世間知らずで、酔っ払いに甘く、酔っ払ったぼくを介抱してくれた。そしてぼくの大切な人。…ようするに『彼女』である。
超宇宙的現象とか超法規的何かが秘密裏に働いたのだろうか。合理的に考えれば働いていた。そうでなければ起こるはずがないのである。とにかくこれがぼくの人生における絶頂であり、ぼくとスダチは、まあ男女交際を始めた。
○
有頂天である。人生の絶頂である。それは、今振り返っても相違いなく、同時に最低でもあった。最低で盲目で考え無しだった。
詳細は割愛する。かの罪深き
大丈夫分かっている。
クソカップルの乳繰り合いを話すつもりはない。スダチがいかに可憐で美しいか、あらゆる手段を用いて、見ず知らずの人に知らしめる。そういう恥知らずな行為はしない。
もう絶対にしない。
ひとの不幸は蜜の味。つまり今から話すのは、とってもとっても甘い蜜についてである。
…嗚呼、恥を忍んで言うなら、ぼくはスダチに振られたのだ。
それは丁度、交際一周年記念の時だ。
「トーキチ」
「ん?」
一年前と同じ場所、同じ時間に、ぼくとスダチは向かい合っていた。違う点は同一平面上に二人が存在することである。
男女交際は三ヶ月がある種の山場と聞く。しかしぼくは、初めてにも関わらず、その四倍の月日を過ごしたのである。恋のいろはを取得した気になっていた。今思えばそれはビギナーズラックですらない。
スダチの策だった。
「ねえこれ見てくれる」そう言ってスダチはぼくに一枚の茶封筒を渡した。
「開けて良いの?」
「うん」
ペラペラである。何だろう。映画のチケット、パーティの招待状、大穴で領収書や給与明細。分かった。一周年記念にラブレターだ。どんとこいロマンチック。
「…写真?」
果たして、入っていたのは一枚写真。これを見ろと判断して良いのか? 良いのだろう。はて写真なんて撮っただろうか。現代の若人は、写真を現像する習慣がない。ぼくたちに至っては、写真を撮る習慣すらなかった。
となると、これはこっそり撮ったぼくの寝顔である。
「うふふ、愛らしい顔。ヨダレよヨダレ」「あーやったなーこいつー」で芝の上をゴロゴロ。良かろう。ならば一緒にはしゃいで、秘密の日記帳へ書くネタを提供しよう。ブログなんつう露出趣味でなく、慎ましやかな大和撫子の嗜みは大歓迎である。ええい芝はどこだ! 芝を探せい!
…正直な話、嫌な予感がしたのだ。
だから腹が立っても笑って許そうとか、大人の対応をしようとか、考えていた。
度が過ぎる極楽トンボである。
「ぺらり」
ここで食べ物の話をする。食べ物には大きく分けて、体に良いものと悪いものがある。前者は野菜とか果物で、後者はスナック菓子やカップラーメンなどである。穀類や肉類は、ちょっと判別が難しいが、それは当たり前だ。ここで言いたいのは、それが食べ物である以上、本当の意味で体に悪いものは、この世に存在しないということである。要するに酒は百薬の長であり、度が過ぎれば何でも毒になる。そして人間、本当の意味で体に悪いものを食べる機会はそうはない。
だが今この瞬間、おままごとで泥団子を食わされる経験をしてこなかった僕は、本当の意味で体に悪いものを食べた。その証拠にひどい下痢と嘔吐に苦しめられ、卒倒した。もっともそれは、精神的ショックとも考えられる。。
厳密には『写真』を見て精神的にショックを受け、摂取することによって肉体的にダメージを受け、精神的にショックを受けるものを摂取してしまったことに、また精神的ダメージを受けた。メンタル&フィジカル&死体蹴りである。
つまりぼくは『写真』を脊髄反射で口に入れた。
何故そんなことをしたのか、今となっても意味不明である。
『写真』ではスダチと、見知らぬ男がまぐわっていた。
ここ一番の笑顔を浮かべながら彼女は手を叩いて喜ぶ。
「ヤギさんみたい!」
「空前絶後の空腹に見舞われた」
「たくさんあるのよ」
「むしゃむしゃむしゃむしゃ」
「素敵!」
「むしゃむしゃ、ぜんぜん、むしゃむしゃ、こんなんじゃ、むしゃ、腹の足しにも、むしゃむしゃむしゃむしゃ、ならないよ。むしゃむしゃ、あそうだお昼、むしゃ食べた?むしゃむしゃ、学食、むしゃむしゃ、行こうよ、おろろろろろろ…」
「あーあ、吐いちゃった」
いっそ虫けらを見るような目なら楽だった。何だ虫けらを見るような目とは。虫けらを見るような目で虫けらを見たことなど、一度もない。
スダチの顔は、いつもと変わらない。悪いことをしたとか、楽しいことをしたとか、恍惚に浸っているとか、そういうんじゃない。出会ったときのスダチと今のスダチは同じ顔で、同一人物だ。当たり前か。阿修羅像じゃあるまいし。
ぼくが異常なのだ。スダチと出会ってから、取り繕ったり、偽ったり、浮かれたり…。生来、表情が豊かでも表現がオーバーでも無い。どちらかと言えば無感動で無気力な若者だ。感受性豊かな白秋桃吉は、存在しないはずなのに、した。してしまった。
無茶なのは先刻承知だ。
だけど、あまりにも、この仕打ちは、酷過ぎやしないか。
人間どうして良いか分からない時の表情は決まっている。
「笑ってるわよ」「スダチは美人だからなあ」「トーキチが初めてよ」「……」「トーキチが初めての彼氏」「じゃあこの写真はどういうことだよ!」「説明しないと分からないの?」「どうしてこんなことするの?」「趣味、かなあ」「…えげつな」「じゃあもう別れましょう」「は? え? なんだよそれ!」「言葉通りの意味よ。これで私とあなたの交際はおしまい。さようなら。アディオス。アリヴェデルチ。まあ幼稚園児でも鼻で笑う、おままごと以下の暇つぶしだったけれど」
「では」と軽やかに手を上げ、コンビニでも行くような足取りで背を向ける。
ぼくは、どうするべきだったのか。追いかけて肩をつかんで押し倒して我侭を言ってごねて泣いて喚いて、それでもわけを訊くべきだったのか。頭の中の白秋桃吉は、妙に粘着質な奴である。そんなこと出来ないくせに。これ以上傷つく覚悟も無いくせに。
しかし駆け寄る以前に、立っていられなくなり、その場にへたり込んだ。目の前が真っ白になる。意識が遠のく。脳内麻薬で酷使した体が限界を迎えた。
「…雨」雨ってやつはどういうわけか都合が良い。吐瀉物も桃色写真も、全て水に流してくれる。ああ、どっちも一緒か。桃色写真はぼくのゲロ。
どうやって帰ったか記憶がない。
○
当たり前だ。そこからぼくは、一度たりとも自分の部屋へ帰っていないのだ。
気づいた時には、高級住宅街で大吟醸を煽っていた。一面ブルーシートとダンボール、水よりも安い合成酒だったような気がするが、本人たちは「我々のサロンへようこそ」と言い張っていた。だったらそうなのだ。人よりも獣に近い臭気を纏っていたが、ゲロまみれのぼくの方が異臭レベルは上だ。
だからルンペンの仲間になるのに、そう時間はかからなかった。
しばらく世捨て人になろう。
一人になると考えなくて良いことばかり考えてしまうし、大学に行けば本人が居る。単位がなんだ。進級がなんだ。成績はすでにボロボロだ。頼れる友達ももういない。
誰もぼくのことを知らない場所に行きたかった。
まあ、いざとなったら実家に帰れば良いのだ。本物の世捨て人が聞いたら「捨てられてねえだろ」と呆れそうだが、聞かせる予定はないので別に構わない。ほどほどの不自由でないと、堪え性のない現代っ子はすぐに投げ出すのである。
結果、少々の不自由でも投げ出した。
ぼくのホームレス生活は、一ヶ月ももたなかった。
思い描いていたホームレス像は、身なりは貧しくても心は富める、冷たい夜を歌って過ごし、笑えば心もぽっかぽか。そんなイメージである。船乗りか何かと混同していたのかもしれない。しかし現実は甘くない。彼らの日常は、ゴミの取り合いである。そして若いというだけでドサ回りや汚れ仕事をさせられる。やがて巻き込まれたホームレス同士の縄張り争い。社会からドロップアウトした連中は、また別の社会の中で生きていくしかない。
ぼくはすっかり辟易してしまった。
そんな時。申し合わせたように、水炊恋華(みすい れんげ)と再会したのである。
○
一升瓶は鈍器で、鍋蓋は盾の、チンケな抗争だった。そこから這々の態で逃げ出したぼくは、さながら逃亡兵である。深夜の空気が肺を刺す。ここにきて、どこにも行き先が無いことをようやっと実感した。
さて、これからどこへ行こうか、ぼく。
公園のベンチで夜を明かすか。いや野宿は危険だ。身をもってそれは理解している。それにホームレスからホームレスでは、せっかく逃げ出した意味がない。かと言って金もない。有り金は、浮浪者どもに上納金として巻き上げられた。
北の大地で、労働力を金に還元するような生活がしたいなあ。しかし「どうせまた逃げ出すだろ」とぼくを知る人々は、口を揃えて言う。そんな時に競馬好きの友人が言っていたことを思い出す。「競馬は最終的に馬のせいに出来るから良い」そう、仕方の無いものなのだ。動物とか植物とか自然とか、プリミティブな連中は、人類のチンマイ脳みそでは計り知れない巨大な陰謀に突き動かされている。だからもしぼくが逃げ出したとしても、それは意志が弱いわけではなく「馬を含む自然界のせい」であり、仕方のないことなのだ。
うーん第一次産業なめきってるなあ。
そのくせ足は、二十四時間営業のコンビニエンスストアへ吸い寄せられていくのだから、現代人の闇は深い。
「嗚呼、人間という小さな枠組みから解き放たれ、もっと大きなものの一部に還りてええ」
「え、なにその恥ずかしいセリフ」
「……」独り言を聞かれた。それも頗るつきで意味の分からないヤツを。
煌々と光る照明を背に受け、嫌なシルエットが声をかけてきた。
「無視すんなよ」
「…べつに無視したわけじゃありません」
「じゃあここ座りなよ」
水炊恋華(みすい れんげ)はそこに居た。
十年前と変わらない姿で、不良少女のようにコンビニの縁石に腰掛けて、昨日も会ったかのような気安さで話しかける。
「いいからこっち!」そう言って水炊さんはぼくの手を引いた。無理矢理地面に座らせると、飲みさしの缶ビールを渡してくる。自分は新品を開けると勝手に乾杯をして一人で盛り上がり始めた。
「でなんだっけ? はやく人間になりてえだっけ?」
「もういいです。本当やめてください。ごめんなさい」十年越しの再会で、いきなり謝り倒しだった。「…何の用ですか?」美人の飲み残した気の抜けたビールで喉を潤した。
「美人汁うめえ」
「コレで何か買って来い!」
言って万札を渡された。豪気である。へー万札ってこういうデザインなんだ。
で。
「…おにぎり百円セールだと、食べたくもない変り種ばかりになってしまうのは、何故なのでしょう」
「貧乏性だからだろ」水炊さんは「相変わらず馬鹿だね」と言って笑った。
「そういう問題じゃないんです!」
あの悪意ある値段設定には、大人の事情めいたものを感じる。
「しかしお前、酒の飲んでる隣で、コーシーはねえだろ」
最近流行りのコンビニコーシー。オリジナルブレンドである。お前のオリジナル基準など知ったものかと思いつつ、オリジナルを銘打つ以上多少の信頼は置いている。
「しかもブラックコーヒーなんて斜に構えてる! むかちくから砂糖増量な」「ああ! 砂糖をお茶請けにするのが好きなのに!」「おばあちゃんかっ」「ひどい。しょっぱ!」「あ、ヒマラヤのピンクソルト入れちゃった」「なんでそんなもんがあるんです…?」「かあいいから買った!」「かあいいもんに弱いんですね。相変わらず」「そ。だから昔のあんたともよく遊んだわけ」「ぼくの幼稚園バッグに青大将入れるのが遊びだったわけですね」「あちゃーばれてたか」「鼻を噛まれました」「だからそんなに高くなったんだね」「後遺症です!」「マジ感謝じゃん。でも気付いていたのにチクらなかったんだね。私もマジ感謝」「そりゃそうですよ。ただでさえぼくの両親は、あなたが居候していることに反対だったんですから。完全に追い出す口実になるじゃないですか…」「もしかして十年越しの告白ってやつ?」「何と思ってもらっても結構です」「フリーの私を狙って? けだもの! 穴があれば入れたいの!?」「コレをアンタの鼻の穴に入れたい」「やあよ、しょっぱいもん」「あんたのせいだろ!」「コーヒーフレッシュって塩分を分解するらしいよ」「…本当ですか?」「だから投入」「まろやかになった!」「…でもしょっぺえぞ」「おかず感増してません?」「まあ嘘だからね」「そんな気はしていました」「コーヒーもミルクもカレーに入れるし、持って帰れば?」「帰りませんって。第一今下宿先にも帰れない状況ですから」「ふーん。何かあったん?」
あ、と思う。思った時には口が既に滑り出して、ここ数ヶ月の不祥事や一悶着やあだ事を、つぶさに打ち明けていた。一人では抱え切れなかった。自ら孤独の極地を目指して、他人が嫌だ人間が嫌いだと言っておきながら、早々に耐えられなくなっていた。
「…というわけでぼくの部屋には、彼女の残滓が存在しているのです。だから帰れない」
「一年やそこらで残滓も何もねえだろ」
「人間関係は期間じゃない!」
「それで大学も休学?」
「…大学にも彼女の残滓が存在しているのです」
「残滓じゃねえだろ。本人だろ」
「……」
「住所不定無職か」と水炊さんは笑う。「どうりでくせえと思ったぜ」
「やっぱりにおいます?」
「発酵食品マニアに尻の穴から吸われるぞ」
「…なんですかそれ」キビヤック。
だが、言われてみればそうだ。住所不定無職。後ろ盾の無さに清々しさすら感じる。あまりの身軽さに飛び降りかねない。その危うさを知ってか知らずか、水炊さんは言う。
「なんでさあ」「……」「なんで振られたんだと思う?」
いきなり核心を、話の流れなど意に介さず、自分のペースで振ってくる。
「わかりませんよ…そんなこと」
ぼくは精一杯スダチのことを思いやり、大切にしてきたつもりだった。まだ足りなのか。それとも大切にしたつもりで、大切に出来ていなかったのか。それともそれとも、大切にすること自体駄目だったのか。男らしく乱暴に扱えば、女は喜ぶというのか。
「…でももう良いんです。過ぎたことです」
あ、まずい。
再び胃の内容物を吐き出しそうになる。あんな気色の悪いもんを体内に取り込めば色々な弊害があってしかるべきだ。きちんと消化出来たのか。出来ないから吐き出したのか。しかし未だに胃壁に貼り付いている気がして、ことあるごとに吐き気を催す。キャベジンが手放せない。吐こうと思えばいつだって吐ける、そういう体になっちまった。
「過ぎちゃいねえよ。お前また同じことするぞ」
水炊さんは、ドスの効いた声でぼくを脅す。
同じこと? 同じこととは何を指すのか。ぼくは何もしちゃいない。
「何もしてねえからだろ。手え出してたら、そんな風にしょぼくれてねえだろ。大切にすることと臆病は別物だ。自分の気持ちに嘘ついた時点でおめーの負けだ、自家発電坊主」
「わかっていますよ! しかし女性が『男はやりたいだけでしょ』などと迷信を信じ込むから、本気で幸せにしたい奴が、積極性を失わなければいけないのです!」
「『傷つけるのが恐い』なんて笑わせんな。傷つけても良いんだよ。傷ついた相手のことまで考えられないようじゃ、大切にしたなんて言えねえぞ」
「……」
「あのさあ、他人のせいにするのは自由だけどさ、他人を変えたり他人に期待するのって並大抵の労力じゃねえと思わん? だったら自分を変えた方が手っ取り早くねえか?」
分かっている。スダチは噂や迷信で右往左往するどさんぴんでないし、もしぼくが襲い掛かったとて、傷一つ負わない鋼鉄の女だ。己の価値を知っているし、それを下げるようなことはしない。ぼくみたいに煩悩で懊悩しない。
「もし」
「もし?」
「…もし、ぼくが手を出していたとすれば、その時はまた別のしょぼくれ方をしていたと思います。そしてその方がよほどひどい有様だった」
「ふむ。そういう考え方もあるな」
「…どうしてぼくは振られたんでしょう」
「んなもん知るか」
星の数ほど男を手玉に取ってきた水炊さんなら、恋の搦め手を心得ていると思っていたが、早合点だった。創世以来、人類は惚れた腫れたを繰り返している。それにもかかわらず導き出せない答えに、王道も覇道もあったもんじゃない。
「お前が確かめて来い」「……」「振られた理由を確かめて来い」「彼女にはもう会いたくないです…」「かーっ、情けないやつ。恥ずかしいやつ!」「ううう…」「けっ、泣け泣け。幾らでも付きおうたる!」
悪い人ではないんだけど、口が悪い。
「よし分かった。お前、うちに住め」「…水炊さんの家ですか?」「家っていうかアパート、私の」「アパートの管理人なんですか?」「そだよー。知らなかった?」「知らなかったっていうか、想像もしなかったです」「あんたの爺さんに貰ったんだ」「え! うちの爺ちゃんアパート持ってたんですか? しかもあげちゃうって…」「餞別だってよ。なんつうかあんたの爺さんは、分かりやすく分かり辛い人だよね。私みたいな赤の他人をねえ」「ですね」「まあでもこういう形で孫であるあんたを、助けることが出来るわけだし、爺さんの思いつきも、あながち思いつきじゃなかったのかも!」「ぼくが水炊さんに助けを求めることを想定して、恩を売っていたと」「孫可愛いさにね」「でも何故ぼくをアパートへ?」「管理人が勧誘しちゃいけねえってのかよ」「そうじゃないですけど…」「行く所無いんだろ?」「それはそうですけど…」
水炊恋華。一筋縄ではいかない女。おめおめと付いて行った先が南米の強制労働施設、なんてことがありそうで怖い。うーんと少し考える。考えた結果、直感で決めるのが一番だと分かった。
「あの、一つお尋ねしても」
「寛大な御心で」
「…フリー、なんですよね?」
「やめろよ殺すぞ。きもちわりいな」
そんな風に本気で軽蔑されたら、付き纏いたくなっちまう。
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