第5話 木曜日にはお留守番

 翌日の木曜日。

 朝、恵が布団のなかで目を覚ますと、身体は男に戻っていた。

(寝て起きると元に戻っている確率が高い……のかな)

 そんな気はするけれど、火曜日の朝は一晩寝ても元に戻っていなかったのだから、寝れば戻ると決めつけるのはまだ早い。

(……って、まるでこれからもちょくちょく女になることがあるみたいな考えだな)

 女になったり男に戻ったりする生活を早くも受け入れ始めている自分に、驚きつつも苦笑が漏れた。

「ともかく起きるか」

 そう声に出して自分自身に宣言すると、恵は大きく伸びをしながら布団を出た。

 衣装箪笥の前で寝間着代わりのティーシャツとトランクスを脱いで、新しいものに着替えようとしたところで、部屋の扉が控え目にノックされた。ノックのみで声はなかったけれど、いまこの家にいるのは恵の幸の二人だけだから、廊下に立っているのが誰なのかは聞くまでもない。

「幸か。いま――」

 いま着替えているところだ――と言いかけたところで、恵は口を開けたまま声を飲んだ。

(ああ、違う。幸が聞きたいのは、そういうことじゃない)

 と、気がついたからだ。

「――今朝は男だ。声を聞いたら分かるだろうけど」

 恵はそう言い直すと、止まっていた着替えを再開させて、下着を脱いだ。その背後で、がちゃり、と扉の開く音がした。

「えっ!?」

 扉が開けられると思っていなかった恵は、素っ頓狂な声を上げながら、それでも咄嗟に背中を向けた。おかげで、危ういところで幸に股間の息子さんを見られてしまう事態は避けられたけれど、お尻の丸みを見せつけることになってしまった。まさに、前を隠して尻を隠さず、だ。

「きゃっ」

 幸の悲鳴と、ばたんっと勢いよく扉が閉められた音。恵はすぐに着替えを終わらせて制服姿になると、閉められた扉の向こうに声をかける。

「もう着替えたから、いいぞ」

 すると、恐る恐るといった感じで扉が少しだけ開けられ、そこから幸が顔を覗かせてきた。

「……着替えているときは、着替えていると言ってほしい」

 幸は、恵の着替えが終わったことを確認すると、眉間にうっすら皺を寄せつつも淡々と文句を言ってくる。

「ごめん。次からは気をつける」

 恵はそう言って謝りつつも、

(まさか、幸が入ってくるとは思わなかった……)

 と、驚きを隠せずにいた。

 てっきり、自分が"お姉ちゃん"から"兄"に戻っていると言えば、戻っていくものと思っていたのだ。事実、先週までの幸だったら、恵に用事があったとしても、扉越しに言うだけで済ませていた。

(一昨日の朝だって、そうだったじゃないか。幸のやつ、おれが男に戻っているって声を聞いて分かった途端、あからさまにテンション下げて、扉も開けずに戻っていったぞ。それがどうして、昨日の今日で正反対の行動を取ったりしたんだよ)

 そう聞きたい気持ちもあったけれど、それを聞いたら幸がさらに怒ることは分かりきっている。だから恵は、色々言いたい気持ちをぐっと堪えて言った。

「それで、なんの用だ?」

 恵がそう尋ねた途端、すでにうっすら刻まれていた眉間の皺がさらに深くなった。

「用事がなければ話しかけちゃいけない?」

「えっ……いや、べつにそんなことはないけれど……」

 予想もしていなかった答えに、恵の着替えたばかりのシャツに汗が滲む。けれど、もっと狼狽えたのは幸のほうだった。

「……いや、違う。喧嘩をしにきたわけじゃない」

 幸は恵から目線を外すと、口のなかで言葉を転がすようにぼそぼそと言う。その声が聞き取れなかった恵は、

「ん?」

 と首を傾げて聞き返す。

 幸は視線をちらちらと泳がせながら、これまた聞き取るのが難しい籠もった声で言う。

「あの……だから……呼びにきたの」

「呼びに?」

「朝ご飯」

「ああ、作ってくれたんだ。ありがと、いま下りるよ」

 恵は答えると、幸と連れ立って廊下へ出ようとした。しかし、なぜか幸は扉の前から動かない。

「ん……? まだ何か?」

 話しがあるのか、と促す恵。

 幸はしばらく目線を揺らして、言うか言うまいかと迷う素振りをしていたけれど、ついに意を決して、恵の顔をじっと見上げた。

「おっ、おはよう。お、ぉ……お兄ちゃん!」

 早口言葉を叫ぶようにそう言ったかと思うと、幸は勢いよく扉を閉めて、ばたばたと大きな足音を響かせながら階下へ駆け下りていった。

 眼前で扉を閉められた恵は当然、声をなくすほど驚いている。けれども、本当に恵を驚かせたのは、幸が言い放っていった言葉だった。

「おれ……幸に、おはようって……お兄ちゃんって、言われたの……何年振りだ……?」

 小学校低学年のとき以来に聞いた台詞が、恵の頭のなかで繰り返されている。

「なあ、おい」

 恵は自分の下半身を見下ろしながら、誰にともなく呼びかける。

「もしかしたらおれは、おまえがたまに家出してくれるくらいのほうが幸せなのかもしれないな」

 呼びかけられた下半身の彼は、うんともすんとも答えなかった。

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ある日、○○○が家出した! 雨夜 @stayblue

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