第4話 ○○○を蹴り出した水曜日
朝。恵は目が覚めると、真っ先に自分の胸を触った。
「――ない! やった!」
快哉の声も、太くて低い男の声だ。念のために股間のほうも確認してみたけれど、そこにも、あるべきものがちゃんとある。恵は男に戻っていた。
「いやぁ、よかった……」
恵はほっと胸を撫で下ろすと、布団から出る。そこへ、誰かが階段を上ってくる足音。ややあって、部屋の戸がこつこつと叩かれる。
「お姉ちゃん、起きてる? ご飯ができたから、よかったら一緒に食べない?」
戸の向こうから聞こえてきたのは、幸の声だ。いま現在、この家には恵と幸しかいないのだから、恵を起こしにくるのが幸以外にいないのは当たり前だ。それなのに恵は、幸の声を聞いて、着替えの手を止めてしまうほど驚いていた。
(幸がおれのことを起こしにきただって!?)
その行為自体が、当たり前という言葉の真逆に位置する出来事なのだ。しかも、まるで兄を起こしにくる妹のような可愛らしく弾んだ声を出しているという、二重に"反・当たり前"な出来事だった。
「お姉ちゃん、入るよ?」
幸は返事がないのを、恵がまだ寝ているからだと思ったらしい。レバー型のドアノブが外から下ろされる。鍵はついていないのだ。
「あっ、待った!」
着替えの途中で下半身が下着一枚だった恵は大声を上げると、慌てて制服のスラックスに足を通す。それでも、幸がドアを開けてしまうまでに間に合わないかと観念していたのだが、ドアは開かなかった。
「……その声……男に戻ったんだ」
下がっていたレバーが、ゆっくりと上がっていった。
戸の向こうから聞こえてきた声は、いつもの淡々としたつまらなそうな声に戻っていた。
「朝食、あるから」
「お、おう」
恵が答えたときにはもう、去っていく足音がしていた。
「……分かりやすい態度。朝からいい気分にしてくれやがって」
恵はスラックスに片方の足を通しただけの格好で、憮然として呟いた。
着替えを終えた恵が食堂に降りると、幸はもう朝食を食べていた。
(結局、待たずに食べてるのかよ……)
恵はぶすっと唇を尖らせたものの、文句は言わない。昨晩みたいなことのほうが異常事態で、これが正常なのだ。ただしまあ、兄とお姉ちゃんとで、こうもあからさまに態度を変えられると、いい気分はしない。
恵が顰めっ面で食卓に着いても、幸は顔を上げない。テレビが朝のニュース番組を垂れ流しているなか、二人は黙々と食事する。
「ごちそうさま」
ほどなく、食べ終わった幸が席を立って、空いた皿を台所へ運んでいく。恵はそれを横目に一瞥しただけで、テレビのほうに顔を向けながら食事を続けた。
「――あのさ」
「え?」
テレビとはまったくの別方向から聞こえてきた声に、恵はそちらを振り向く。台所との境目に、幸が立っていた。いつもなら、皿を流しに置いたあとはさっさと洗面所なり自室なりに向かうのに、今朝はどうしたことか?
恵が怪訝そうに首を傾げていると、幸は所在なげに自分の片腕を持ったり撫でたりしながら、しばらく口籠もったあとに、小声の早口で言った。
「男に戻れてよかったね、おめでとう」
幸は言うなり顔を赤らめると、くるりと背を向けて、今度こそ本当に小走りで廊下へ駆けていった。
「……」
幸が行ったあとも、恵は囓りかけのトーストを手にしたまま呆然としていた。おかげで、いつもより食べ終わるのが遅れてしまい、家を出たのは走らないと遅刻確定という時刻だった。
予鈴が鳴った五分後、始業を告げる本鈴が鳴ったのと同時に、恵は教室へ滑り込んだ。息せき切らせて着席したところで教師が入ってきたから、誰かと話すような暇はなかった。
国彦が話しかけてきたのは、一時間目の授業が終わった直後だ。教師が教室から出ていくよりも早く、恵のもとに駆け寄ってきて、真正面から机に、ばんっと両手をついた。
「宝積、一生の頼みがある!」
「……なんだよ、いきなり」
恵は広げていた教科書とノートを片付けながら、顔も上げずに答える。
「めぐむさんに謝らせてほしいんだ!」
国彦が真剣そのものの形相でそう言うと、恵はようやく顔を上げた。
「おまえさ……謝って済むようなことだと思っているのか?」
そう言って国彦を見上げる恵の目には、冷たい軽蔑の色がありありと浮かんでいた。
「うっ……」
言葉に詰まる国彦。そこへ容赦することなく、恵は言い募る。
「おまえは昨日、風邪をひいたおれに数学のプリントを届けにきたんだよな」
「お、おう」
「なのに、おれが寝込んでいたのをいいことに、おれの従姉妹に襲いかかったんだよな」
「お……おう……」
「しかも、肝心のプリントを置いて帰らなかった」
「あ」
国彦は、言われて初めて気がついた、という顔をした。恵はこれ見よがしに、ちっと舌打ちしながら、掌を上にして手を差し出す。
「プリント、よこせ。頼み事はそのあとだ」
「あ、おう。いま持ってくる」
国彦はすぐに自分の机へ戻って、プリントを持ってきた。
「悪かったな、昨日渡すはずだったのに」
「まったくだよ」
恵はぶっきらぼうに答えつつプリントを受け取ると、早速回答に取りかかった。それを見下ろしながら、国彦は恐る恐る声をかける。
「ええと、それでなんだが……めぐむさん、まだおまえの家に泊まっているのか?」
「……」
恵は答えず、プリントに数式を書き付けている。国彦は戸惑いつつも、話を続ける。
「泊まっているんだったら、直接会って謝りたいんだけど、もう帰ったんなら、せめて電話で謝りたいんだ」
「……」
「だから、めぐむさんがまだ泊まっているなら、今日もおまえの家に行きたいんだけど……いいかな?」
「……」
「あっ、花束と菓子折を買っていこうと思っているんだ。もちろん、菓子はおまえの分も買うぞ」
「……」
恵はプリントから視線を上げない。国彦を無視して、黙々と回答を書き付けている。その態度に、ついに国彦は根負けした。
「悪かったよ!」
国彦は、近くにいたクラスメイト数名が一斉に振り向くほどの大声を張り上げる。
「昨日のことは本気で悪かったと思っているんだ。おれ、最悪なことをした。本気で反省しているんだ。でも、おれが一人で反省したってしょうがないだろ。めぐむさん本人に謝らなかったら、反省も何も意味ないだろ。それで許してもらえなくたって仕方ないし、謝罪なんか受け付けないって言われても仕方ない。でも、とにかく謝りたいって意思を伝えないことには始まらないんだ。だから頼むよ、宝積。めぐむさんに会わせてくれ!」
思いの丈を声の限りにぶちまけた国彦は、机に両手をついたまま勢いよく頭を下げた。ごんっ、と机にぶち当たった額が鈍い音を立てる。
「うわっ、痛そ……」
傍で見ていた誰かが漏らす。実際、机の天板に額を擦りつけている国彦の背中は、ぷるぷると痛みに震えている。だが、国彦の後頭部を見下ろしている恵の目は、国彦の熱い態度とは裏腹に冷ややかだ。
(……演技だとしても、まあ、ここまでやれば立派なもんだよな)
今朝、授業開始の寸前に教室へ飛び込んだとき、何か言いたげな様子で見てきた国彦と目が合ったときには、怯えと怒りを同時に感じたものだ。だけど、そんな冷たくて熱い感情も、国彦の大袈裟な言動を眺めているうちに、なんだか白けてしまったのだ。
(本人は格好いいと思ってやっているんだろうけど、テレビや漫画の見過ぎじゃねえの? でもまあ、友人の家で友人の従姉妹を襲うなんて大それた真似をしでかしやがったわけだし、自分に酔いでもしないとそりゃあ、やってらんないか)
考えているうちに、恵の口角はふっと緩んで失笑めいた吐息が漏れた。国彦はそれを謝罪の容認だと受け取ったようで、そろりそろりと顔を上げる。
「宝積……ありがとう、恩に着る。おまえはおれの一生涯の友だ!」
「おう、そうか」
恵は口元に乾いた笑いを浮かべて、肩をすくめた。
(おれは許したとも、連絡するのを引き受けたとも答えちゃいないんだけどな)
という内心は口にしないでおいた。ここで渋ったら、国彦が今度は机に頭突きより派手な演技をしでかしてくれることは容易く想像できたからだ。
「じゃあ、頼んだぞ! 絶対だぞ! あっ、なんだったら、めぐむさんのアドなり番号なり教えてくれたら、おれのほうから連絡するんだが」
「本人の許可なしに教えられるわけがないだろ」
「だよな。だから、宝積から伝えておいてくれよ」
「考えておくよ」
「頼んだぞ、本当に頼んだぞ!」
放っておいたら延々と念押ししてきそうな国彦だったが、二時間目の開始を告げる鐘が鳴ると渋々、自分の机に戻っていった。その後も休み時間のたびにやってきては「頼んだぞ」を連呼するのだけど、恵は「プリントをやっておかないといけないから」と理由をつけて追い払うのだった。
昼休み、国彦はいつものように恵を食堂へ誘ったのだが、恵はこれも辞退した。
「今日は幸が弁当を作っていってくれたから、教室で食べるよ」
「おっ、そうか。奢ってやろうと思ったんだけど、それじゃ仕方ないな。弁当、少しでも残して帰ったら、さっちゃん、相当怒るだろうしな……」
「うん……明日から、また弁当作ってくれなくなる」
二人は顔を見合わせて苦笑した。
その後、国彦は足早に教室を出ていく。それを見送ってから、恵も教室を出た。国彦には、教室で食べる、と言ったのだが、それは方便というやつで、本当は屋上手前の踊り場で食べる予定があったのだ。一昨日の午後、女になってしまったときに放課後まで隠れるのに使ったあの場所だ。恵は昼休みになる前にメールを打って、そこで幸と待ち合わせしていたのだった。
恵が階段を上っていくと、幸はもうすでに階段を椅子代わりに座っていて、膝の上にハンカチと弁当を広げていた。
「……」
遅れてやってきた恵に、幸は「遅い」とも言わない。一瞥をくれただけで、弁当に箸をつけ始める。
恵もその隣に腰を下ろすと、膝の上に弁当を広げた。
「ごめん、待たせて」
恵が弁当の卵焼きに箸で伸ばしながら言うと、幸はようやく口を開いた。
「メールで言っていた相談したいこと、とは?」
「あ、うん。それなんだけど……」
恵は、国彦から昨日のことで謝りたいと言われたことを幸に話した。
「――というわけなんだけど、幸はどうしたらいいと思う?」
「どうしたらもこうしたらもない。無視だ。却下だ」
幸の返事には、はっきりと敵意が籠もっていた。
恵は思わず、箸で掴んだ卵焼きを取り落とす。
「え……どうして、そこまで?」
「あいつはお姉……兄に、それだけのことをしたからだ。今後一切、会う必要なし。むしろ、教室で話しかけられた時点で無視するべきだった。ううん、いまこのときから絶交するべきだ」
「それは言い過ぎだろ。あいつだって一応は反省していたみたいだったし、初犯は情状酌量の余地ありということでも――」
「甘い!」
幸の声に、びくっと震えた恵の箸から、今度は一口コロッケが落ちた。
「びっくりした……いきなり大声を出すなよ」
幸は恵の非難に一切取り合わず、言い立てる。
「兄がそんな軟弱な態度だから、昨日はあいつに押し倒されるだなんて悪夢的な目に遭ったんだ。自覚しろ!」
「……ごめん」
気圧された恵は、小声で謝る。それで満足したのか、幸は吐息をひとつ漏らして、いつもの淡泊な調子に戻った。
「それにそもそも、兄がまた女になってしまわない限り、伊達さんと会うことも電話することも不可能。つまり最初から、謝る機会をあげるのは無理」
「あ……それもそうだよな」
いま気づいた、という顔をした恵を、幸は胡乱げな目で睨む。睨まれたほうの恵は、苦笑いするしかない。
「はは……いやぁ、伊達のやつが大袈裟な言い方をしてくるもんだから、ついつい呑まれちゃっていたんだよ。でもそうか、どのみち断るしかないんだよな。だったら、どうするか悩む必要もないわけで、話は簡単だ」
自分の言葉に、自分でうんうんと頷きながら、恵は遅くなっていた食事のペースを戻して、弁当をもぐもぐと食べ始めた。それに倣ったというわけではないだろうが、幸も黙々と箸を動かす。
(……これ、わざわざ一緒に弁当を食べながら相談するまでもないことだったよな)
ミニトマトを食べながら、恵は胸中で苦笑いした。
やがて二人とも弁当を食べ終わる。
「じゃあ――」
空になった箱をハンカチで包み直した幸が言う。
(ああ、教室に戻るんだな)
恵はそう思ったのだが、幸は立ち上がらなかった。その代わりに、恵のほうへ手を差し出した。
「ん?」
疑問を声に出した恵の目を見つめ、幸は淡々と告げる。
「携帯、貸して」
「……なぜ?」
「伊達さんに電話する」
「……なんで?」
「兄に任せたら、また日和見な態度を取るに決まっている。だから、わたしが伊達さんに電話して、兄に――めぐむさんに謝罪を受け付ける意思がないことを通告してあげるから」
「いや待て」
恵は大きく頭を振った。
「おまえに任せたら、おまえは絶対に言い過ぎる。それはいくらなんでも、伊達が可哀相だ」
幸の口から放たれる容赦の欠片もない辛辣な言葉に心をずたずたにされる友人のことを思うと、一応は被害者である恵にも、
(それは、あんまりだ)
という気持ちが込み上げてくるのだった。
だがしかし、恵のそんな甘い態度は、幸の眉間に刻まれた皺をいっそう深くさせることになった。
「だから、そういう態度が相手をつけ上がらせる。とくに伊達さんはお調子者の馬鹿だから、必要以上にはっきり言ってあげないと分からない。むしろ、はっきり言ってあげるほうが本人のためにもなる」
「いやいや、待て待て。必要以上に言ったら駄目だろ。必要な程度でいいだろ」
「どこまで強く言う必要があるか明確でない以上、全力で強く言うのが妥当」
「妥当じゃないから。というか、伊達にはおれがあとでちゃんと言うから。幸にはもう迷惑かけたりしないから」
「迷惑とか、そういう問題じゃない。女として看過できないんだ!」
恵が何をどう言ったところで、幸は引きそうにない。
(うぅ……こいつ、なんて頑固者なんだ!)
頑として手を引っ込めない妹に、恵は胸中で呻かされる。そのときにできた隙を待ち構えていたように、幸は恵にどんっと体当たりするように手を大きく伸ばして、恵の上着のポケットから携帯を抜き取った。
幸の行動はそこからも早かった。
「あっ」
と恵は声を上げたときにはもう、恵は踊り場の隅に駆けていっていて、携帯の通話履歴から国彦の番号を呼び出そうとしていた。
「おいこら、待て!」
恵もすぐさま幸を追いかけて正面にまわり込むと、携帯を引っ掴んで、幸の手から奪い返そうとする。幸もそうはさせじと、両手で携帯をしっかり握り締める。ちょうど、互いに携帯を掴んで綱引きしているような体勢になった。
「返せ!」
「嫌!」
短く言い合いながらの綱引きは、体格で優る恵が勝つかに思われたのだが……
「いっ、いいから……わたしに任せろ!」
このままでは携帯を奪われてしまうと判断した幸は、押しても駄目なら引いてみろの精神でもって、それまで携帯を引っ張っていたのから一転、恵に思いきり体当たりした。
「おわっ!?」
幸がそうくることをまったく予想していなかった恵は、完璧に虚を突かれて体勢を崩してしまった。そこまでは幸が目論んだ通りだったのだが、そこからさきは幸にも想像していなかった。
「あっ……!」
幸が体当たりするときの思いきりがよすぎたことと、恵が幸の予想以上に大きく体勢を崩したこととが相互作用した結果――屁っ放り腰のがに股になった恵の股間に、勢いよく振り上げられた幸の膝頭が叩きつけられたのだった。
「ぎひぃ――ッ!!」
背中を壁にぶつけた恵の口から、錆びついた引き戸を乱暴に開けたときのような鈍い絶叫が迸った。
「きゃっ」
幸の口からも小さな悲鳴が漏れたけれど、それは恵の胸元に顔面をぶつけた弾みで漏れただけのものだ。恵の胸に抱き留められた形の幸には、痛みも何もない。
「……え?」
幸は一拍遅れて、顔面を硬い胸板にぶつけた程度の痛みすら感じなかったことに気がつき、さらにもう一拍遅れて、むしろ柔らかなクッションに顔面を受け止められたのだと気がついた。
「え、嘘……これって……」
驚きに目を丸くしながら跳び退った幸の前にいたのは、兄と同じ背丈で、兄にどこか似た面立ちをして、兄の制服を着ている、兄と同じ年頃の女性――すなわち、女になった恵だった。
「ほ……本当に……本当に、女になった……」
幸は目を大きく見開いたまま呻いたきり、絶句する。兄が姉になったということを信じてはいたけれど、実際に兄から姉に変化する現場に立ち会ったのは初めてだった。驚くなというほうが無理な話である。
股間を膝蹴りされた恵はというと、よろけた弾みで背中を壁に凭れさせて、そのままずるずると尻餅を着く。そのときにはもう、自分の身体がまたもや変化していることを察していた。
(あ、いまの膝蹴りが金的痛打した感じは、またやっちゃったな……)
初めて女になったのは、幸に股間を踏まれる悪夢を見たとき。二回目は、チャックを上げる際に挟んでしまったときだ。その二回でなんとなく、股間のあれに酷いことが起こると、根性なしのあれが家出して女になってしまうのだろうな――という予想はついていた。
そしていま、その予想が当たっていることを裏付けるように、股間を強かに膝蹴りされた恵の身体は、男から女になっていたのだった。
「三回目か。二度あることは三度あるとは、よく言ったもんだよ……」
恵にはもう、笑う以外になかった。
そうやって恵が諦観の念に浸っているうちに、幸はいち早く、変身を目の当たりにした衝撃から立ち直っていた。
「……!」
幸は電光石火の素早さで、恵の手から携帯を引ったくった。
「あ……?」
恵は、幸がどうして自分の手から携帯を奪い取ったのかが分からずに、ぽかんと口を開けた。幸に股間を膝蹴りされるそもそもの原因が、携帯を巡っての争いだったと思い出したのは、その三秒後だ。
幸はその三秒の間に素早く液晶を
「おい、幸!」
幸に遅れること三秒で忘我から立ち直った恵は、立ち上がるなり、幸の手から携帯を奪い返そうとする。幸は今度ももちろん抵抗したから、二人は相撲かレスリングをするように取っ組み合うことになった。
幸の背中を抱き締める体勢になった恵が、幸の肩越しに手を伸ばして携帯を取り返そうとする。幸が亀のように丸くなって身体全体で携帯を庇ったところで、国彦が電話に出た。
『おう、宝積か。どうした?』
呑気な第一声を伝えてきた国彦に、幸は叫ぶように言う。
「お姉ちゃんから伝言。あんたみたいな最低男の謝罪なんて受け入れるつもりはない。金輪際、顔も見たくないって」
『え、その声……さっちゃんか?』
「止めろ、幸!」
受話口から聞こえた国彦の誰何と、幸を止めようとした恵の声とが交錯する。直後、国彦の声量がひとまわり大きくなった。
『えっ……お、おい! その声、めぐむさん? めぐむさんもそこにいるのか!? だったら代わってくれ、頼む!!』
「だから、お姉ちゃんはあんたとなんか話さないって言ってるの!!」
幸も国彦に負けない大声で、携帯に向かって怒鳴り返した。
そこから始まる、携帯を介しての口喧嘩。
『なんでさっちゃんがそんなことを決めるんだ!?』
「お姉ちゃんが、わたしのお姉ちゃんだからだ!」
『親戚のお姉さんだろ。さっちゃんのお姉さんじゃないだろ!』
「どちらにしても、赤の他人である伊達さんよりずっと近しい間柄だ」
『どんだけ近しくたって、他人は他人だろ。おれが話したいのは、めぐむさんの妹でも親戚の子でもなく、めぐむさん本人なの。分かる?』
「分かっていないのは伊達さんのほう。わたしはお姉ちゃんの代弁者。わたしの言葉は、お姉ちゃんの言葉」
『はぁ? さっちゃん、どんだけシスコンなんだよ!?』
「姉想いのどこが悪い!?」
『その半分、いや十分の一でもいいから、お兄ちゃんのことを想ってあげてもいいと思うぞ……』
(まったくだ!)
友人と妹との火の出るような口論に圧倒されていた恵だったが、友人の漏らした嘆息混じりの言葉には、大いに勇気づけられた。
「おい、幸。いい加減に電話をこっちに――」
こっちに寄越せ、と恵が最後まで言うのを悠長に待ってくれる幸ではなかった。
「とにかく、お姉ちゃんは二度と伊達さんに会わない。以上!」
幸はそう言い放つと通話を終わらせてしまおうとしたが、恵のほうでも、そこまでは許さなかった。
「もう返せ!」
幸が通話終了のアイコンを押す寸前で、恵は携帯を取り返した。そして、すぐに携帯を耳に当てる。その途端、国彦のがなり声が、恵の耳を劈いた。
『今日の放課後――午後三時過ぎに、学校から一番近い公園で待っていると、めぐむさんに伝えてくれ! さっちゃん、頼む――』
あまりの大声に、恵は思わず携帯を掴んでいた手を耳元から遠ざけた。その手からさっと、幸が携帯をまたも引ったくる。そしてすぐさま、通話終了アイコンを押した。
「あっ……幸!」
恵が眉尻を吊り上げて睨みつけると、幸はぷいっと横を向く。
「だって……お姉ちゃんをケダモノから守るためだもん」
ばつが悪そうに唇を尖らせた幸。普段は眉ひとつ動かすのだって億劫そうなのに、兄が姉になった途端、そんな子供っぽい顔をするのだ。
(幸って、こんなに内心を顔に出すやつだったのか……)
恵は半分呆れつつ、半分ふて腐れつつ、という内心だ。その内心は顔にも滲んだようだった。
「あ……」
幸は、しまった、という顔をして、膨らませていた頬をへこませる。その仕草に、複雑な気持ちになっていた恵も、ぷっと笑わされた。
「いいよ、べつに。無理して難しい顔されても、それはそれで嬉しくないしさ」
恵がそう言うと、幸は決まり悪そうに頬を染める。そして、それを誤魔化すみたいに話題を戻した。
「……とにかく、その姿で伊達さんと会うのは止めるべき。あのひとは馬鹿だから、こうなると分かって会いにきたんだろ、とか言って襲いかかってくるに決まっている」
「いや、決まってないだろ。あいつは、まあ馬鹿かもしれないけど、そこまで見境なしの大馬鹿じゃないと思うぞ」
「いいや、大馬鹿だ。そして、男を全然分かっていない兄も大馬鹿だ」
「いや……幸よりは分かっていると思うぞ」
恵は苦笑したが、幸は冗談でもなんでもなく本気で言ったようだった。
「兄はやっぱり分かっていない。男の本性というのは、女と二人きりになったときにしか見えないもの――それが全然、分かっていない!」
語気を強めた幸の言葉に、恵は反論できなかった。
(うっ……一理あるかもしれない……)
恵だって女性と二人きりになったことくらいあるけれど、そのときの自分は確かに、男同士でいるときの自分とは別人のように挙動不審だったという記憶がある。
それが本性だとは言わないけれど、女性と二人きりになった男性がどんな行動を取るものなのかについて、男である自分より女である幸のほうがよく知っているのは道理かもしれない――そう思ってしまったのだ。
恵が口籠もっているのを見て、幸はくすりと口角を上げる。
「わたしの意見が正しいことは理解してもらえたようね」
「……百歩譲って、二人きりにならないように気をつけたほうがいい、というのは納得した」
「それが納得できれば大したもの」
幸の偉そうな言いまわしに、恵はむっと眉を顰める。それには気づかないふりをして、幸は続けて言った。
「だから、わたしも一緒に行く」
「え……あれ? そういえばさっきから妙だと思っていたけれど、もしかして伊達が電話で言っていたこと、聞いていたのか?」
恵の疑問に、幸は軽く顎を引く程度に首肯した。
「あれだけ大声で言われたら、聞きたくなくとも聞こえてしまう」
「それもそうか」
と、あっさり納得できるほど、国彦の最後の喚きは大音声だった。
「そういうわけだから、」
幸は踊り場から階段へと向かいながら言う。
「放課後、わたしも兄と一緒に行く。本当はすっぽかしてほしいんだけど、どうせそれは『伊達さんが可哀相だから』とか言って、聞き入れてくれないんでしょう」
「まあ、その通りだけど……」
見透かしたような顔の口振りに、恵は憮然とした顔をしながら考える。
(だけどまあ、本当に幸を連れていく必要はないんだよな。口喧嘩ならまだしも、取っ組み合いの喧嘩なんかされたら堪ったもんじゃないし)
「あ、そうだ」
幸は階段を三段ほど下りたところで足を止めると、恵のほうに振り返って口を開いた。
「着替えは放課後になったら持ってきてあげるから、それまでは誰に見つからないよう、ここでじっとしているように……お姉ちゃん」
最後の"お姉ちゃん"をいやに強調させた口振りに、恵は一瞬きょとんとしてから、あっと声を上げた。
(しまった、この格好じゃ出歩けないじゃないか!)
恵の身体は女性になっているけれど、服装は男子制服のままだ。ブレザーの胸元は、前合わせをしっかり閉じても、はち切れんばかりの膨らみを隠せていない。こんな格好で人目のあるところを出歩いたら、悪目立ちするに決まっている。
「ちょっ……幸、いますぐ着替えを持ってきてくれないか?」
恵は切羽詰まった声音で頼んだのだが、幸は唇の片端でにこりと微笑んだだけだ。それっきり、返事はせずに視線を前を戻すと、階段をスキップするように下りていった。
「えっ、幸ぃ!?」
幸の姿はあっという間に見えなくなってしまったけれど、それを追いかけるわけにはいかない。時刻はまだ昼休みだ。下の階に下りれば、廊下を歩いている生徒に見つからないはずがない。
「これじゃ本当に、ここから動けないじゃないかよ……うわぁ、幸のやつ!!」
だが、いまさら歯軋りしても、後の祭りというやつだ。一人で取り残された恵にできることは、携帯を弄って暇を潰すことだけだった。
●
放課後になってしばらくすると、幸がまた階段を上ってきた。背中には自分のリュックを背負い、右手には恵のリュック、左手には大きめの紙袋を提げている。
「幸ぃ……」
恵は恨みがましい目つきで睨むのだが、幸は目を逸らしもせずに、左手に提げていた紙袋を恵の前に突き出した。
「おまたせ。これ、着替え」
「あ……うん。ありがとう」
微妙に不服そうな顔をしながら、恵は紙袋を受け取り、なかに入っている着替えを取り出した。そして――着替えを手にしたところで、石のように固まった。
「なあ、幸……これはなんだ?」
「だから、着替え」
「それは分かってる。だけどどうして、体操着じゃなくて制服なんだよ!?」
恵は糾弾しながら、幸に向かって右手を突き出す。その手が掴んでいるのは、女子の制服だった。
「……というかこれ、誰の制服?」
首を傾げた恵に、幸はいつものように唇の片端だけで笑む。
「わたしの予備。近所に去年卒業した方がいて、お下がりでもらったのだけど、わたしにはサイズが少し大きかったから、予備ということにして箪笥の奥に仕舞っていたの」
「ああ、だから樟脳の匂いがするのか」
「そういうわけだから、兄でも着られると思う」
「うん――」
思わず納得しかけたところで、恵ははっと頭を振った。
「そうじゃなく! どうして幸は、サイズの合わない予備の制服を学校に持ってきているんだよ!?」
「そんなの決まっている」
幸はぴんと人差し指を立てて、言った。
「こんなこともあろうかと思って、持ってきておいた」
「……用意のいいことで」
恵にはそれ以外、もう言うことがなかった。男子制服のままでは帰るに帰れないし、どれだけ頼んだところで幸がジャージを持ってきてくれることもないだろう。
「はぁ……」
恵は大きな溜め息を吐くと、女子の制服に着替え始めた。
「あ、これも忘れちゃ駄目」
そう言いながら、幸は腰を屈めて紙袋に手を突っ込み、一番下に入れてあった下着を取りだした。日曜日に買った純白レース上下セットのあれだ。
突き出された下着を見つめながら、恵はたっぷり一秒かけて息を吸い込み、一秒かけて吐き出す。
「……せめてブラだけじゃ駄目か?」
「駄目。スカートの下からトランクスが見えたら、おかしすぎる」
「……」
「男が女物の下着を穿いたら変かもしれないけれど、兄はいま女だ。従って、男物の下着を穿いているほうが変なんだ。それを自覚すれば、なんの抵抗もないはず。違う?」
「はいはい、違いません。違いませんよ」
最後はもうぶっきらぼうに言い捨てると、恵は観念して幸の手から下着セットを奪い取り、着替えにかかった。
(それにしても……だんだん脱ぐことに抵抗のなくなっている自分が怖いな)
恵は男子制服を脱いで素肌を晒しながら、半笑いで独りごちる。
背中を向けている幸以外に人気がないとはいえ、囲いも何もないこんな無防備なところで着替えているのだ。もう少し緊張したっていいだろうに、意外にも落ち着いている自分に笑ってしまう恵だった。
着替えは予想以上に手間取った。
まず、ブラが一人で身に着けられなかった。背中のホックを後ろ手でどうにか留めようと挑戦すること三度の挙げ句、幸に頼んで留めてもらった。
ブラの後はすんなりと終わった。ブラウスの前合わせが右前ではなく左前であることにもそれほど戸惑わなかったし、下着を穿き替えるのも、覚悟さえ決めてしまえば問題はなかった。
「着替え終わったら、脱いだ制服とかはその紙袋に仕舞って。それが終わったら、言って」
幸は階段を椅子代わりにして腰を下ろし、恵に背を向けたままで話しかける。ブラのホックを留めるのは平気でも、脱ぎたてのトランクスを見るのは嫌なのだそうな。
「はい、これでいいんだろ」
恵が脱いだ制服と下着をまとめて丸めて紙袋に入れて呼びかけると、幸はそれを合図にして腰を上げ、恵のほうに振り返った。
「……」
そして、ほぅ、と溜め息を吐いた。
「な、なんだよ?」
真っ向から注がれる幸の視線に、恵は思わず両手でスカートの裾を押さえた。
「……変か?」
幸があんまりじっと見つめるものだから、恵は不安になってくる。
(やっぱりスカート短すぎだろ、これ。なんか太腿の付け根のほうまですーすーするし、素足って意外に冷えるし、なんでこんなに無防備なんだよスカートって!)
スカートを穿いているという、ただそれだけで、恵は脳内で吹き荒れる羞恥心の嵐に目をまわしてしまいそうになる。
「どうしたの、顔が真っ赤だけど」
そう問いかけた幸の顔は、どこか楽しげだ。恵がどうして恥ずかしがっているのかを、しっかり理解している顔だ。
「う、うぅ……よく、毎日こんなものを穿いて外を出歩けるな……」
「だって、制服だから」
「それにしたって、この短さはないだろ!」
恵が穿いているスカートの丈は、幸が穿いているものと比べて、明らかに短い。幸のは膝上十センチ程度なのに、恵のは膝上二十センチくらいはいっている。ただ立っているだけでも尻のあたりが不安になるのに、こんな格好で歩けるわけがない。
だけど、幸は平然と言う。
「兄は上背があるから仕方がない」
「そんな一言で……」
「仕方がないものは仕方がない。それにむしろ、脚が長く見えていいと思う」
「あ、あんまり見るな!」
短めの裾から剥き出しになっている太腿を見つめられると、恵は恥ずかしがって裾を押さえながら腰を引く。だけど、尻を突き出すような姿勢になると、今度は背後から誰かに見られているような錯覚を覚えてしまって、さらに恥ずかしくなる。
手を前にやったり、後ろにやったりと落ち着きのない恵。幸は淡々と嘆息すると、行ったりきたりしている恵の片手を取って歩き出した。
「あっ……ちょっと待ってくれ、幸。まだ心の準備が!」
「そんなもの必要ない。歩けば慣れる」
恵の弱気には取り合わず、幸は階段を下りていく。手を引かれている恵も、その後を追わざるを得ない。
空いているほうの手でスカートの後ろ側を押さえながら、階段を下りていく。しかしそれでも、スカートの裾は階段を一段下りるたびにはためいて、恵に涼しい思いをさせるのだった。
屋上手前から四階分の階段を下りて昇降口に着くまでに、恵は自分たちと同じようにリュックを背負った生徒や、あるいは手提げ鞄、肩掛け鞄を持った生徒たちの姿を何度となく目にした。なかにはもちろん男子生徒もいたのだが、恵の目が焦点を合わせるのは女生徒ばかりだ。それも、女生徒の穿いているスカートばかりだ。
(おぉ……みんな、普通に歩いている……なんで、普通に歩けるんだよ……)
なかには膝上五センチ程度や膝丈の女子もいたけれど、スカートを恵と同じくらい短くしている女子も少なくなかった。その少なからぬ女子たちが、恵のように尻を押さえながら歩いているかというと、そんなわけはない。階段を上っていく女子がスカートの後ろを押さえている場面を一度見たくらいで、その他の女子ら――廊下を歩いたり、昇降口で腰を屈めて靴を履き替えている女子たちは、短めの裾がひらひらとそよぐことにまるで頓着していなかった。
(そりゃまあ、気にするくらいなら丈を短くしたりしないんだろうから、気にしないで歩いていて当然かもしれないけど……っというか、だ。どうして女子はスカートを短くするんだ? ただでさえ布きれなのに、そこからさらに防御力を削ってどうするんだ? 防御を捨てることで攻めの姿勢になろうってことなのか? あっ、だから肉食って言うのか!?)
恵がそんな益体もないことをずっと考え続けながら歩いたのは、後から後から溢れてくる羞恥心を誤魔化すための、苦肉の策というやつだった。
上履きから外履きの靴に穿き替えるときだけは、さすがに周りを気にしての作業だったが。
(穂積恵の下駄箱を、見たこともない女生徒が使っているところをクラスメイトに見られたりしたら、後で面倒になるかもしれないしな)
気をつけつつも素早く靴を履き替えて、校舎の外に出る。そこまで行けば後はもう、見咎められる危険も少なかった。靴がローファーではなくスニーカーだが、運動部所属の生徒は女子でもスニーカーを普段使いしていることが少なくないので、目立ちはしない。むしろ、いちいちスカートの裾を気にしながら歩いているほうが人目を寄せてしまう。
(大丈夫、大丈夫だ。みんな、このくらいのスカート丈でも普通に気にせず堂々と歩いているんだ。大丈夫、静かに歩けば、パンツが見えたりはしない……はずだ、うん)
恵は自分に言い聞かせながら、ここまで歩いてくる道中に見かけた女子たちを真似て、背筋を伸ばし、なんでもないという顔をして、背後や足下をちらちら見たりしないように気をつけながら歩いた。
校舎を出てから校門を抜けるまでには、普通に歩いて五分とかからない。しかし、いまの恵にとっては、その三倍以上の長さに感じられていた。
(う、うぁ……やっぱりそうだ。いまのひとも、おれのこと見てた。ってことは、さっき擦れ違ったひとにじろじろ見られていたのも、きっと気のせいじゃなかったんだ)
校門へ続く通りには、いまから下校しようという生徒や、運動部のユニフォームに着替えた生徒などが、ちらほらと歩いたり走ったりしている。恵はさっきから、そんな彼らからの視線を感じていて、気が気ではなかった。
(おれ、やっぱり違和感バリバリなんだ。やっぱ背か? 背が高すぎるんだよな、やっぱ。というか、どうして背丈だけ男のときのままなんだ!? 髪はちゃんと女らしく伸びるのに、どうして背は縮まないんだよ!?)
喚きたくなる衝動を喉元でぐっと堪えて、恵は何も気づいていないふうを装って歩く。ここまできたら、視線に対して下手に反応するよりも、まったく気づいていないふりをして無反応で押し通したほうが傷は浅くて済むはずだ――と、そう判断したのだ。
「ねえ、気づいている?」
幸は歩きながら、ほとんど口を動かさずに訊いてくる。
「え、何に?」
自分の気持ちを制御するので手一杯の恵は、半分上の空で聞き返す。幸はべつに怒った様子もなく、さらにこう返事した。
「さっきから擦れ違うひとがみんな、兄に見蕩れているのに」
「……え?」
今度は、半分どころか少しも聞き流すことができなかった。
「見蕩れてる……って、もしかして文脈的に……おれに?」
恵は冗談っぽく言おうとしたのだが、失敗して口元をひくひくと引き攣らせただけに終わる。
幸は目を細めながら、軽く首肯した。
「うん、そう。兄に、見蕩れてる」
「……」
嘘だろ、とは言い返さない恵。
自分に視線を向けていたのは男子だけでなく女子もいたけれど、確かに幸が言った通り、彼ら彼女らの顔は、どの顔も頬が赤らんでいたり、小鼻が膨らんでいたり、瞳が潤んでいたような気がする。
(みんな、おれに見蕩れてた? いや、でも……えっ、本当に……?)
幸の言葉を疑うわけではないが、それでも俄には信じられなかった。恵はこれまで小中高と、女性からもてた試しがない。まして、そこらを歩いているときに熱い眼差しを向けられるなんて、これが初めての体験なのだ。
(あ、違うな。日曜日に駅前を歩いていたときも、なんとなく見られていたような気もするな……)
だけどあのときは、『女物の服を着て外出する』という初体験のほうで許容量の限界まで緊張していたから、周囲の視線を気にするだけの余裕がなかった。それがいまは、女性の格好で出歩くことになまじ慣れが出てきてしまったために、視線を意識せずにはいられなくなってしまったのだった。
「……ッ」
膝がふいに、がくりと落ちた。いや、本当に落ちてしまうのは堪えたけれど、歩き続けることはできなかった。
恵が立ち止まったのに気づいて、幸も足を止め、恵のほうを振り仰ぐ。
「……?」
どうしたのか、と目で問うた幸に、恵も言葉ではなく仕草で答えを返した。幸の片袖をきゅっと掴んで、身を寄せたのだ。
「子供?」
恵の頼りなげな仕草に、幸はおかしそうに頬を上げる。そんな茶化すような態度にも、恵は言い返せない。落ち着かない様子で視線をちらちら走らせるばかりだ。
「う、ぅ……なんで幸は、こんなひらひらする布きれ一枚で平気に出歩けるんだよ……」
「逆に、兄がそこまで恥ずかしがっていることのほうに驚く。足下から覗き込まれでもしないかぎり、下着を見られたりはしない」
「でも、みんな見てくるってことは、じつは歩くたびに見えていたりするからなんじゃ……」
「なら聞くけれど、兄はスカート姿の女子が下着を露出させながら歩いているところを見たことがある?」
「……ない、な」
恵は神妙な顔で同意した。いまの自分と同じくらいのスカート丈で歩いている女生徒を見たことがあるけれど、確かに下着は見えていなかったように記憶している。
(まあ、丸出しの太腿がけしからんとは思ったけどさ……って、いまのおれもそうなっているのか!?)
そこに気づいてしまうと、剥き出しになっている太腿にぞわぞわっと震えが走る。
幸が小さく嘆息する。
「まだ納得できない、という顔ね」
「いや、下着が見えていないのは納得したけど、太腿が見えてるじゃないか!」
「……それが?」
「え、いや……それがって言われても困るんだけど……」
「太腿が見えていることの、どこが問題? 太腿を見られるのは恥ずかしいこと?」
「……あれ?」
真面目な顔で聞き返されると、べつに恥ずかしいことではないように思えてくる。
幸はさらに真顔で言い募る。
「太腿を見られるのが下着を見られるのと同じくらい恥ずかしいことなら、ショートパンツでジョギングするのは露出行為になると思うのだけど?」
「そんなことないよな、うん。太腿はべつにエッチじゃない、うん」
心の片隅では、でも太腿っていいよな、と語りたがっている自分がいたけれど、その存在には気づかなかったことにして、恵は力強く首を縦に振った。
「パンツは見えてないし、太腿は見えても平気。おどおどしているほうが、かえって恥ずかしい。だから、普通に歩けば恥ずかしいことはない――そういうことなんだよな?」
「そう」
肯定を求める恵の期待に、幸は端的な一言で見事に応えた。そのたった一言で、恵の脚を強張らせていた緊張は、潮が引くように掻き消える。
「……うん、もう大丈夫だ」
恵は自然と縮こまらせていた背をしゃんと伸ばし、ずっと掴んでいた幸の袖から手を離す。顔にはまだ赤みを残していたけれど、弱々しく下がっていた目尻からは、滴り落ちそうだった涙の粒がすっかり引いていた。
「それじゃ」
幸は歩き出す。恵もすぐにその後を追いかける。今度は、両手で不自然にスカートを押さえようとして、かえって挙動不審になることもなかった。ただし、手足が左右同時に出ていたけれど。
●
学校から徒歩七分のところにある公園は、街中に造られた緑色のオアシスといった風情の場所だ。繁茂する背の高い木々のなかを蛇行する遊歩道と、そこに沿って一定間隔で並べられたベンチと街灯。中央部には東屋が建てられている。
子供の遊び場と言うよりは、散歩途中の休憩所と言ったほうが雰囲気に合っている。実際、恵と幸が公園内で見かけるのは、自分たちのことを追い抜いていくジャージ姿のジョギング客や、犬を連れた散歩客。遊歩道沿いのベンチに腰かけている背広姿の中高年、静かに談笑している老夫婦などばかりだ。
この公園は、恵や国彦が小学生の頃からずっと、こんな感じだった。恵たち三人の通っていた小学校からも近いため、三人で鬼ごっこや隠れんぼをして遊んだこともある。だから、国彦が言った「学校から一番近い公園」は、ここでまず間違いなかった。
「あ……めぐむさん!」
東屋に近づくと、先に待っていた国彦が東屋のなかから駆け寄ってきた。
「めぐむさん、その制服……おれたちと同じ学校だったんですね。いままで気づかなかったなんて、一生の不覚です――」
そこまで言ったところで、ずっと笑顔だった国彦の顔が曇る。恵の横に、不機嫌そうな顔をした幸が立っていることに気づいたからだ。
「……なんで、さっちゃんがいるんだよ」
「お姉ちゃんを獣と二人きりにさせるわけがない」
国彦の嫌そうな声に、幸も負けないくらい嫌そうな声で言い返す。
「おいおい、さっちゃん。そのケダモノというのはもしかして、おれのことじゃないよね?」
「他に誰がいる」
「さっちゃん」
「伊達さんは目も悪いんですね」
「さっちゃんの口の悪さに比べたら全然だけどね」
「……」
「……」
挑戦的な言葉と言葉を斬り合わせ、視線と視線でがっぷり四つに組む幸と国彦。双方ともに一歩も退く気がないのは、問うまでもなく見て取れる。
「……じゃあ、そういうことで」
恵はこれ幸いとばかり、爪先立ちで後退りして、この場から立ち去ろうとした――が、もちろん、それを見逃すほど、二人は甘くなかった。
「待ってください、めぐむさん!」
「お姉ちゃん、ビシッと言ってやって!」
「あ、幸も引き留めるんだ……」
恵は裏切られた気分で幸の顔を見る。
(幸なら、伊達に本気で組みついてでも逃がしてくれるかと思ったのに……いや、そんなことないか)
幸の性格をよくよく考えてみれば、逃走に手を貸してくれるはずがない。会うと決めて、こうして実際に会ったからには、話さずに逃げるというのは不誠実だ。おまえの顔は二度と見たくない、と言葉の刃で誠実に切り刻んであげるのが筋だ――と、そのように考えるのが幸なのだ。
(まあ、ここで逃げたら、それはそれで後が面倒なことになるし……ばっさりお断りの返事をするのが最善だろうな)
伊達が落胆するだろうことを考えると少なからず罪悪感を覚えるけれど、相手が自分にしたことを思えば、その程度の罪悪感はどうでもよくなる。
(それに、この身体もまたそのうち男に戻るんだろうし、そうしたら友人として学食でカツ丼の一杯でも奢ってやればいいさ)
恵は自分のなかでそのように結論づけると、背筋を伸ばして、ひとつ大きく息を吸い込む。そして、国彦の目を正面から見据えると、ひと息に――
「すいませんでしたぁッ!!」
近くを歩いていた中年女性とその飼い犬が振り返るほどの大声を張り上げたのは、国彦だった。いままさに声を発しようとした寸前で機先を制される形になった幸は、開けた口を閉じることもままならずに、間抜けな顔で固まってしまった。
国彦は大音声で謝ったのと同時に、腰を直角になるまで曲げて低頭している。犬を散歩させている途中だったおばさんは、立ち止まったまま不思議そうな顔で恵三人のことを見つめている。その目は、唐突に始まった昼下がりのメロドラマに、わくわくと輝いていた。
(えっ……これはもしかして、三角関係とか修羅場とか、そんなふうに見られている……!?)
犬を連れた中年女性は、恵と目が合った瞬間にぱっと視線を逸らして、犬に引っ張られるようにして、いそいそと去っていく。
(あ、よかった。堂々と居座られたらどうしようかと思ったぞ)
恵は小さく胸を撫で下ろしたものの、またすぐ不安が襲ってくる。
中年女性が一人立ち去ったからと言って、近くで他の誰かが聞き耳を立てていないともかぎらないのだ。東屋内のベンチで寝そべっているかもしれないし、そこらの木陰に隠れている者がいるかもしれない。
不安はどんどん掻き立てられるばかりで、恵の顔は泣き崩れそうなほどに赤くなっていく。
だけど、背中が地面と平行になるまでお辞儀している国彦には、その顔が見えていない。いつまで待っても、なんの声もかけられないことに焦れて、低頭したまま声を張る。
「あの、昨日は本当にすいませんでした。あんなことするなんて、おれ、どうかしてました。許してください、とは言いません。でも、どうかせめて、この謝罪だけは受け取ってください」
「分かった、許す」
「えっ!?」
恵の即答に、国彦はがばっと顔を上げた。両目は驚きに丸く見開かれている。
「……本当に許してくれるんですか?」
信じられないという顔で恐る恐る聞き返してくる国彦に向けて、恵はぶんぶんと大きく頷く。
「うん、本当。許す。というか、もう許した。だから顔を上げて。ね、早く」
「は、はぁ……」
国彦はまだ、腑に落ちない、という顔をしていたが、言われた通りに背筋を起こす。それを見て、恵は少しばかり安堵した。
恵にとっては最早、昨日のことを許す許さないなどというのは些末なことなのだ。重要なのは、一刻も早くこの状況から脱出することだった。
(というか、伊達は恥ずかしくないのか!? こんな壁も屋根もないところで、あんな大声で謝ったりして……っていうか、おれが恥ずかしいんだよ。そんな大声で謝るな。おれが苛めているみたいに見えるじゃないか!?)
――という、声にして抗議するのもままならないほど羞恥に打ちのめされている恵の内心に、国彦はまったく気づいていない。あっさりと許されたことに本気で戸惑っているらしい様子からは、周囲の目を利用するためにこの場所を選んだとは思えなかった。
(伊達は、そんな悪知恵のまわるやつじゃないと思っていたけどな)
ちくりとでも疑ったことをお首にも出さず、恵はにこやかに微笑む。
「伊達さん。わざわざ謝りにきてくれて、ありがとうございます」
「あっ、いえ。めぐむさんのほうこそ、きてくれてありがとうございます。おれ、嬉しいです」
恵は、国彦の声を無視して一方的に話し続ける。
「それじゃあ、謝ってもらったから、もう昨日のことはチャラ。おれ――じゃなくて、わたしと伊達さんの関係は元に戻ったということで」
「はい!」
国彦の元気な返事に、恵は怪訝そうな顔をする。恵はいま、おれとおまえは元の他人同士に戻った、という意味のことを言ったのに、国彦は弁解も落ち込みもしないで、心から嬉しそうな顔をしているのだ。
「……はい?」
不審げに小首を傾げる恵。
考え事をするときの癖で、恵は無意識のうちに顎を右手で撫でる。その手を、伊達の両手が力強く引っ掴んだ。
「感激です!」
「……は?」
「おれ、あんなに酷いことしたのに、こんなにすぐ許してくれるだなんて……めぐむさん、あなたは天使だ! 女神だ! もっと好きになりました!」
国彦はまたも人目を憚らない大声で恵を賛美する。近くを通り過ぎようとしていたジョギング中の男性が、びくっと転びそうになりながら、こちらを振り返ってくる。
「たっ……頼むから、もっと小さな声で……」
恵はいますぐにでも逃げ出したかったが、片手を国彦に握り締められていては、それもできない。せめて、国彦に声を落としてもらおうとするのだけど、感極まった様子の国彦には聞こえていないようだ。きらきらと潤んだ両目は、幸のことをまっすぐ見つめているというのに。
そこへ、横から救いの手が差し伸べられた。
「馴れ馴れしい!」
ぴしゃりと乾いた音がして、幸の手を握り締めていた国彦の手が打ち払われた。幸が平手打ちしたのだ。
小柄な幸の平手だから、実際にはそんなに痛くもなかったのだが、あまりにも小気味よい音をさせた平手打ちだったから、国彦は反射的に手を離してしまったのだ。
「何するんだよ、さっちゃん!?」
信じられないという顔で詰問する国彦。対する幸の顔も、嫌悪感が剥き出しだ。
「それはこっちの台詞。お姉ちゃんにセクハラするな」
「セクハラ!? おれ、そんなことしてないだろ」
「手を握った」
「それのどこがセクハラだよ!?」
「伊達さんがすると、それくらいのことでも十分セクハラに該当する」
「おいおい! いくらさっちゃんでも、その暴言はカチンとくるぞ。おれのことを痴漢か何かだとでも思っているわけ?」
「痴漢じゃなければ性犯罪者だろ。昨日のあれはセクハラなんて甘い言葉じゃ許されない、完全なる暴行未遂だ!」
「うっ……」
幸の、これまた人目を憚らない朗々たる宣告に、国彦は言い返す言葉もなく狼狽える。ふんと鼻を鳴らして、それ見たことか、と勝ち誇る恵。そんな二人は、横で恵が頭を抱えて蹲っていることにまだ気づいていない。
(ああ……そこのおっちゃん、ものすごい興味津々って顔で、おれのこと見てたよ……あっちの子は携帯でチャット打ってたっぽいよぉ……ああもう、恥ずかしい……帰りたいよぉ……)
いっそ、もう本当に逃げ出してしまおうかとも思うのだが、後のことを考えると、それも決めかねてしまう。
(いま逃げたら、この面倒臭い状況が後々も続くことになる。だったら、ここで我慢して一度で終わらせてしまったほうがいい……というか、終わらせればいいんだよ。なんだ、簡単じゃないか!)
蹲っていた恵は、がばっと顔を上げる。場の流されて忘れていた、ここへきたそもそもの目的を思い出したのだ。
「伊達さん、大事なお話があります。聞いてください」
恵はすっくと立ち上がるなり、はっきりとした声で告げる。睨み合っていた幸と国彦は、まったく同時に幸のほうへ首を振り向かせた。
「はい! なんですか、めぐむさん?」
「お姉ちゃんは黙ってて!」
国彦は上気した笑顔を恵に向けたものの、すぐに幸のほうへ顔を戻して睨みつける。
「おいおい、黙ってて、とはなんだ。そもそも、おれはめぐむさんと話したくてお呼びしたんだぞ。さっちゃんとはまた今度お話ししてあげるから、今日はもう黙っていような」
「気色悪いこと言うな。誰が伊達さんなんかと好き好んで話したりするか!」
幸も、恵を一喝して黙らせるや、すぐさま国彦に向き直って睨みつける。そしてまた始まる、二人の言い合い。
(あ、あれ……? どうして、こうなるんだよ……)
恵は呆然とした顔で、嫌味をぶつけ合っている二人のことを見ている。
せっかく、意を決して口を開いたというのに、妹に一喝されただけで黙らされてしまった自分の不甲斐なさに、もう泣きたかった。
下唇を噛み、ぎゅっと両手を握り締めている恵を他所に、二人はぎゃあぎゃあがみがみ言い合いを続けている。
「――だいたい、さっちゃんはさっきからなんだよ。お姉ちゃん、お姉ちゃんって、違うだろ。さっちゃんにいるのは、お姉ちゃんじゃなくお兄ちゃんだろ。あんまりお姉ちゃんお姉ちゃん言っていると、本物のお兄ちゃんが拗ねるぞ」
「伊達さんに言っても理解できないだろうけど、お姉ちゃんは正真正銘、本物のお姉ちゃんだ。だから、拗ねたりしない」
「……さっちゃんが、めぐむさんのことをどのくらい大好きなのかは理解できたよ」
「だったら、大人しく身を引いて」
「それとこれとは別の話だ。なぜなら、おれのほうがさっちゃんよりもずっと、めぐむさんのことが愛しているからだ!」
「……伊達さんが馬鹿だということは再確認できました。馬鹿はお姉ちゃんに相応しくない。よって、おまえはいますぐ帰れ!」
「ああ、帰ってやるよ。ただし、まず先にさっちゃんが帰ったら、その後一時間後にな」
「やっぱり馬鹿!」
「馬鹿馬鹿って、それこそ馬鹿のひとつ覚えだろ。お馬鹿なさっちゃんは早くお家に帰って、お兄ちゃんにお勉強を見てもらってなさい。さあさあ、ほらほら」
「わたしは兄に勉強を教わるほど馬鹿じゃない」
幸の言い放ったその一言に、落ち込んでいた恵の肩が、ひくんと揺れた。だけど、幸も国彦も言い争うに夢中で、そのことに気づいていない。
「おいおい、さっちゃん。そんな言い方したら、宝積のやつがまた落ち込むぞ。本人の前では言ってやるなよ」
「ただの事実だ。隠すつもりはないし、お姉ちゃんだって落ち込んだりしない」
「いや、めぐむさんじゃなくて、サトシのことな」
「あ……」
幸は失言に気づいて顔を赤らめる。国彦はそれを単なる言い間違いだとしか思わなかったようだ。
「さっちゃんは本当に、めぐむさんのことを実の姉のように思っているんだな。お姉ちゃんがいれば、お兄ちゃんはいらない……ってか?」
「そ――ッ」
国彦が苦笑しながら言った冗談に、幸は何かを言おうとして、はっと声を呑み込んだ。恵が見ていることを思い出したからだ。
(そ――の後は、なんて続けようとしたんだろうな。そんなことない、かな。それとも、その通りだ、だったのかね……)
幸を見つめる恵の胡乱げな目つきは、そう語っていた。それは幸にも伝わったようで、幸は柄にもなく動揺を露わにする。
「あ……いや、違う――」
だが、幸の釈明は、何も気づいていない国彦の声によって阻まれてしまった。
「ああでも、その気持ち分かるぞ。さっちゃんの兄貴が兄貴じゃなくてお姉さんだったなら、つまり、おれの幼馴染みがめぐむさんだったということだもんな。もしそうだったなら、おれの人生どれだけ輝いていたんだろうか……はぁ!」
国彦は最後に冗談めかした仕草で溜め息まで吐いてみせたけれど、恵にはまったく笑えなかった。
(どいつもこいつも、お姉ちゃんだ、めぐむさんだ……そればっか、そればっかそればっか……!)
恵の顔はたちまち、夕立の空みたいに陰っていく。幸はそのことに気づいて顔色を変えているけれど、国彦はこれまた気がついていない。
「あっ、そうか。おれが今日までさっぱりもてたことがないのは、運命がねじ曲がっていたからなんだ。本来なら、おれは幼馴染みのめぐむさんと結ばれる運命だったのに、それが何の因果か、
そこまで言うと、国彦はようやく恵のほうに向き直って、真摯な瞳で熱っぽく語りかけた。
「めぐむさん! おれと運命をやり直してください!」
それはおそらく、国彦の恋心が弾き出した会心の口説き文句だったのだろう。国彦の「どうだ!」という顔が、その内心を如実に物語っていた。
だが、その言葉も眼差しも、恵に一握の感慨すらも与えることはなかった。
「あ……あれ? めぐむさん……?」
国彦もようやっと恵の剣呑な顔つきに気づいたようで、頬をひくっと引き攣らせる。どうして恵が怒っているのか分かってはいなくとも、自分が恵を怒らせたということだけは理解したようだった。
「あ、あの……おれ、何か怒らせるようなこと言っちゃいましたか……?」
おずおず問いかけた国彦に向かって、恵は冷たい眼差しを投げ返す。
「伊達さんにお話があります」
目つきと同じくらい冷たい声に、国彦は自然と気をつけの姿勢を取る。
「えっ……あ、はい。なんでしょうか」
「わたし、伊達さんと付き合ってもあげてもいいですよ」
「えっ!?」
警戒していた国彦の顔に、ぱぁっと喜びの花が咲く。それとは対照的に、幸は目玉を落としてしまいそうなほど盛大に目を見開かさせて、ぴくりとも動かなくなっている。
「めぐむさ――」
国彦は両手を広げて恵へ抱きつこうとするのだが、恵が表情を変えずに続けて発した一言に、それは止められた。
「ただし、宝積恵くんとは絶交してください」
「……え?」
「恵くんは友人でも幼馴染みでもない、ただの運命的な失敗作なんですよね。だったら、金輪際、目も合わさないし口も聞かないと誓うなんて簡単なことですよね」
「いやぁ、それは……」
はい、とも、いいえ、とも答えられずに口籠もった国彦に、恵は舌打ちのような溜め息を吐く。
「へえ、そうか。断らないんだ」
呟くようにそう言うと、次いで視線を幸へと移す。
「さっちゃん」
「は、はい……!」
他人行儀な呼び方をされた幸は、緊張に裏返った声で返事する。いつもの冷淡な態度をど忘れしてしまったようだ。
「さっちゃんも、お姉ちゃんがいれば、もう兄なんて要らないんだよね?」
「そんなことない!」
「おっ、偉いぞ。ちゃんと即答で否定するとは、さすが幸だ。どんなときでも模範解答だな」
「そんなんじゃない! わたしは本当に――」
幸は弁明しようとしたが、恵は両手を前に突き出して、それを拒む。
「いいよ、止めてくれ。いまさら向きになられても、余計に情けなくなるだけだから」
「お姉ちゃん……」
幸の思わず漏らしたその一言が、恵のいじけた心に止めを刺した。
「おれは姉じゃねえッ!!」
「あっ」
幸が引き留める暇もあらば、恵は踵を返すなり全速力で駆けていってしまった。
「……なんで、こうなっちゃったんだ?」
状況についていけず、引き留めようと思いつくことすらできなかった国彦は、恵の背中が見えなくなったほうを見つめて、呆然と呟いた。
●
(くそっ、くそっ……! どいつもこいつも間違えやがって! おれは恵だ。兄だ! めぐむさんでもお姉ちゃんでもない!)
胸中で何度も何度も毒づきながら、恵は走った。べつに行き先の当てがあってのことではない。ただ、自分の前で堂々と「恵は必要はない」と言い合っている二人のいないところへ逃げ出したかっただけだった。
けれども、いつまでも走っていられるわけではない。
「はっ……ぅ……」
とうとう足が上がらなくなって走るのを止めたけれど、足は立ち止まらずに惰性で前へとのろのろ歩いている。止まってしまったら、落ち込まずにはいられないことを考え始めるのが分かっていたからだ。
(ああもっ、くそくそ! 悪いのはあいつらなのに、どうしておれが落ち込まなくちゃならないんだよ!)
悪いのは、サトシを蔑ろにしてメグムばかり持ち上げる幸と国彦のほうだ。自分は被害者だ。一方的に被害を被った側だ。
――そう思うとするのに、少しでも油断すると、自分が悪いような気がしてくるのだ。全身を支配していたはずの怒りはとうに萎えて、いまは後ろめたさで胸が苦しい。いま立ち止まったら、この場で蹲ったきり動けなくなるという自信があった。
「はぁ……伊達の言う通りなのかもな……」
重たい溜め息が口を突く。
伊達が冗談めかして言っていた、運命がどうのという話だ。聞いたときは失笑ものでしかなかったけれど、いまにして思い返してみると、じつは正鵠を射ていたのではないかと思えてくる。
(おれは本来、女に生まれてくるはずだったんだ。でも、それが何かの手違いで男に生まれてしまった。みんなはそのことを無意識に知っているから、男のおれに違和感を覚えていたんだ。だって、そう考えれば、幸が兄には冷たかったのに、姉には人が違ったみたいに甘々なことにも、伊達が女のおれに一目惚れしたことにも説明がつく……)
分かっていたことではあるが、考えれば考えるほど気持ちは下へ下へと沈んでいく。緩慢に進めている歩みも、爪先を引きずるような足取りになっている。
どこへ向かうわけでもなく、ときに人混みの流れに沿って、ときに人混みから逃げるようにして、ふらふらと歩き続ける。それでもようやく、
(ここはどこだろう……?)
と気になる程度には気力が回復してきて、ぼんやりと辺りを見まわす。
雑多なビルが居並んだ、どこか煤けた雰囲気の路地。見覚えがあるような、ないような曖昧な印象なのは、きたことのない道だけど、視線を上げた先に見える建物が見知ったものだからだ。
(あれは駅前のデパート……ってことは、ここは駅の裏側辺りか)
日曜日にも行ったデパートや大型専門店、お洒落な飲食店などが建ち並んでいるほうが表側で、駅を挟んだ反対が裏側だ。裏側は、計画開発された大通りに面する表側とは正反対に、無計画に立ち並んだ雑居ビルや居酒屋、一膳飯屋などの間を縫うようにして路地が走っている。建物の密度が違うせいか、表と裏とでは、路面に落ちる日差しの量すら違って感じる。
(いや実際、物理的に違うんだろうけどさ)
ビルに見下ろされているような狭い路地から見上げていると、夕暮れがいつもの一割増しで早くやってくるように感じる。
(とうとう太陽からも見放されちまったぜ……なんてな)
くすり、と恵の唇から笑みが零れた。脳内で芝居がかった台詞が出てくる程度には、元気が出てきたようだった。
だがしかし、泣きっ面に蜂とはこのことか――。
「ねえねえ、きみぃ。こんなところでお散歩なんて、ナンパ待ちってことでいいんだよねぇ」
恵に背中からそう声をかけてきたのは、いかにもヤンキーという風体の青年二人連れだった。一方は金髪にピアスに古着ファッションで、もう一方は黒革のパンツにウォレットチェーンをじゃらじゃら巻きつかせている。
一見して、
(あっ、これは関わらないほうがいい人種だ)
と確信できる二人だった。
「……」
声に反応して振り返った恵だったが、すぐに前へと向き直って足早に立ち去ろうとする。
「あれぇ、聞こえなかったのかなぁ? 耳が遠いのかなぁ?」
背中越しに聞こてくるわざとらしい声は、第一声と同じく金髪ピアスのものだ。どうやら、女に話しかけるのは彼の役目と決まっているらしい。だがまあ、この二人がどんな役割分担でナンパすることにしているのかなど、恵にとってはどうでもいいことだ。
(とにかく無視だ、無視。もっと人通りのあるところまで行けば、こいつらだって諦めるだろう)
そう考えて、疲れを訴える両足に鞭を打って、早足で歩く。幸いにも、このまま歩けば駅の真ん前に出られるはずだ。
しかし、二人連れがそれを黙って見送ってくれようはずがなかった。
「おい、待てよぉ。こうすりゃ、ちゃんと聞こえるよなぁ?」
金髪ピアスが恵の肩に後ろから腕をまわして、ぐいと引き寄せた。
「きゃっ!?」
まさか、そんな乱暴なことをされると思っていなかった恵は、自分でびっくりするほど甲高い悲鳴を発した。
「おい、聞いたか? きゃっ、だってよ。可愛いじゃないか、おい」
金髪ピアスは恵を背後から抱き締めながら、下卑た声で笑う。彼に呼びかけられた革パンツの青年はとくに返事をするでもなく苦笑しただけだが、さりとて金髪ピアスの行為を止めるでもない。
(悪戯小僧とその親かよ!)
恵は胸中で毒づくが、それを声に出すことはできなかった。肩口から腕をまわされた瞬間から、全身ががちがちに強張って、喉を震わせることすらできなくなっていたのだ。
その震えを恵と触れ合っている箇所から感じ取ったのだろう、金髪ピアスはこれまたわざとらしい調子で言う。
「あれあれぇ? きみ、もしかして震えてる? やだなぁ、まるでぼくたちがおっかないことしてるみたいじゃないかぁ」
「はっ、はな……離して、くだ……さい……」
言い返した恵の声は、それが自分の声だとは信じられないくらい痛々しく掠れている。
(う、うぁ……またか? また、こうなっちゃうのか?)
弱気の虫が鎌首を擡げるや、目尻にじわりと涙が滲んできた。昨日、国彦に押し倒されたときと恐怖がフラッシュバックのように脳裏を過ぎる。
(……いや、違う。昨日の比じゃなく……怖い……!)
見ず知らずの男に抱きつかれているという恐怖に比べたら、よく見知った相手に押し倒されることはまだ諦めようがあったと思える。
(もしこのまま、もっと人気のないところに連れ込まれたりしたら……)
うっかりそう考えてしまっただけで、腰が抜けそうになった。いや、抜けそうになった、ではなく、たぶん本当に腰が抜けている。金髪ピアスの反対の腕がいつの間にか腰にもまわされていたから、へたり込まずに済んでいるのだ。
「あらら……おい、ちょっと。この子ったら、ちょっとハグしてやったら、おれにべったり身体を預けてきてやんの。なんだよ、なんだよぉ。離してくださいとか言っといて、やる気満々じゃないかよぉ」
金髪ピアスはにたにた笑いながら、恵の背中をいっそう強く抱き締める。
「ひぅ……!」
背中や尻に押しつけられる男の体温に、嫌悪感と気色悪さの綯い交ぜになった震えが背筋を駆け上がって、恵に嘔吐するような悲鳴を上げさせた。
「おっ、いまのって喘ぎ声? きみ、おれに背中抱っこされて感じてちゃったのかなぁ?」
肩口からまわされた金髪ピアスの片手が、幸の胸をぎゅっと鷲掴みする。
「……ッ!?」
心臓を直に掴まれたかと思った。激しい静電気のような恐怖が、恵のなかでばちっと弾けた。
(こっ……怖い、怖い怖い怖い――ッ!!)
コワイの三文字が溢れて、頭が内側から弾けそうになる。よく、恐怖で失禁する、なんて言うけれど、それがあながち虚構のなかだけでの誇張表現ではなかったのだなと理解できた。腰から下に力が入らない現状で尿意を催したら、我慢できる自信がなかった。
金髪ピアスは、すっかり怯えきっている恵の首筋に鼻先を埋めるようにして、乱暴な手つきで胸を揉みしだいている。
「おっはぁ……でけぇなぁ……」
どんどん荒くなる鼻息に、力任せな手つき。
(う、ううあぁ……怖い、怖い……気持ち悪い怖い気持ち悪い怖いぃ!!)
目尻に溜まった涙が、つつ、と頬に零れる。金髪ピアスも革パンツも、その涙に気づきもしない。
「よぉし、ここじゃこれ以上はなんだし、場所を変えよう。おれたち、いいところ知ってんだ」
金髪ピアスは恵の肩に腕をまわしたまま、歩き出す。
行き先はどこか分からなくとも、このまま連れていかれたら間違いなく危険なことは恵にも分かっている。
「やっ……止めろ!」
恵は気力を振り絞って声を発し、肩で相手の胸元をかちあげるようにして金髪ピアスから逃れようとした。だが無情にも、足腰が萎えている状態からでは、自分よりも体格のいい男性を押し退けることは叶わなかった。それどころか、逆に相手の嗜虐心を刺激してしまった。
「おっとぉ……だからさぁ、さっきも言ったと思うけどぉ、そういうことされると、まるでおれらがイケナイコトしてるみたいじゃん? そういうのって、おれら的にも心外なんだよねぇ。分かるぅ?」
金髪ピアスは恵のことをより強く抱き寄せて、耳元へ粘っこい吐息を流し込みながら、にたにたと楽しげに恫喝する。
「うっ……ぅ……」
男を振り払えなかったという事実は、恵をそれまで以上に萎縮させる。せっかく振り絞った勇気が、皮肉な結果を招いてしまったのだ。
(抵抗しても無駄、なの……?)
それは昨日も思ったことだけど、昨日とは決定的に違うことがある。
昨日は諦めようと思えた。もう受け入れよう、と一時だけでも思えた。だけど、いまはまったく諦められない。
(嫌だっ……こんな奴らに、いいようにされるなんて……そんなの絶対、嫌だ! 嫌だぁ!!)
勇気ではなく恐怖が、恵の身体を突き動かす。感電したみたいに跳ねた恵の身体が、今度は金髪ピアスの胸ぐらをどんっと突き上げた。
「うご――ッ!!」
胸骨の上から肺を強かに叩かれた衝撃に、金髪ピアスは口から空気を全て吐き出しながら大きくよろける。その瞬間を逃さず、恵はほとんど無意識で泳ぐように身体を前に出して、男の腕から抜け出すことに成功した。
(やった……!)
と思った瞬間、よろけて、こけた。
疲労と恐怖に苛まれ続けた恵の足は、男の胸ぐらを肩で押し退けるために踏ん張ったところで、限界を超えていたのだった。
「くっそ、この
よろめきから立ち直った金髪ピアスが、それまでの気色悪い笑いをかなぐり捨てて、起き上がろうとしている恵に歩み寄る。
「や……ッ」
男の近づいてくる気配は、見えなくとも分かる。恵は急いで起き上がろうとするのだけど、身体は自分で思っている以上に動いてくれない。男女の身体的な差もあるのだろうが、普段から走り慣れていないことが一番の原因だろう。
(こんなことなら、足が動かなくなるまで走って逃げたりするんじゃなかった……)
いまさら後悔しても後の祭りだ。
「おい、起きろぉ」
金髪ピアスが恵の腕を掴んで、乱暴に引き起こす。
「いたっ、痛い……!」
恵は痛みを訴えるが、金髪ピアスは手を止めない。無理やり立たせた恵の腕を引いて、自分のほうを振り向かせる。
「おまえさぁ、自分がちょっと可愛いからって、なんか勘違いしてね?」
金髪ピアスは首をぐっと傾けて、横目で覗き込むように恵の睨めつける。
(あ……こいつ、おれより背が高い……)
恵の身長は女性になっても百七十センチあるのに、金髪ピアスはそれよりも長身だ。考えてみれば、恵は男のときも女のときも基本的に相手を見下ろすほうで、相手から見下ろされるという経験が少ない。そのことも、金髪ピアスに威圧感を覚えることの原因なのかもしれない。
(……って、いまさらそんな分析したって仕方ない――いや、仕方なくない!)
恵は両手をきつく握り締めて、目の端に再び溜まった涙が落ちるのをぐっと堪える。
自分が相手に対して恐怖を感じてしまった理由がひとつでも分かれば、その分だけ恐怖は減ったはずだ。
(そうだ――だから、このくらいなら頑張れるはずだ……!)
恵は自分にそう言い聞かせて、転んだはずみで粉々に砕けて散らばってしまった勇気をもう一度だけ掻き集める。
「……んぁ? なんだぁ、その顔はよぉ」
泣き出さずに睨んできた恵へ、金髪ピアスは苛立たしげに眉を歪めると、建物の壁に寄りかかって静観していた革パンツに視線を飛ばす。
「おい、おまえもそんなとこに突っ立ってないで、こいつを運ぶのを手伝えよ」
その呼びかけに革パンツは無言で頷くと、二人のほうへゆっくりと近づいていく。
瞬間、恵は決意した。
(二人がかりで押さえつけられたら、本当にどうしようもならない。もう、いましかない!)
決意したときにはもう、背筋を伸ばし、胸を大きく張って、肺の限界まで息を溜め込んでいる。そして次の瞬間、その息を声に変えて、全身全霊で悲鳴を上げた。
「きゃあああああああぁぁ――ッ!!」
恵は今日まで、どうして漫画やテレビのなかの女性というのは、ことあるごとに悲鳴を上げるのか――と不思議に思っていた。悲鳴を上げる余力があるなら、走るなり反撃するなり、他にもっと建設的な手段に訴えたほうが助かる可能性があるだろうに、と思っていた。
どうして女は悲鳴を上げるのか。いまなら、その理由がよく分かる。それがもっとも助かる可能性がある行為だからだ。
大声で相手を怯ませると同時に、周囲の人間を呼び寄せる。これ以上に合理的な窮地打開の手段があるだろうか。いや、ない。
恵には、いまなら断言できた。
「おっ……おい、この女ぁ! なに叫んでんだ、止めねぇか!!」
金髪ピアスが悲鳴に張り合うみたいに声を荒げて、恵の口を手で塞ごうとする。だけど、恵だって必死だ。首を大きく横に逸らして、喉の限りに叫び続ける。
「誰かああぁ!!」
「おい! 止めろっつてんだろ!!」
「助けてええええぇぇ!!」
絹を裂くような悲鳴と、犬が唸るような恫喝。どちらにせよ騒がしい声の合唱が、ビルとビルの合間にこだまする。
その狂騒に終止符を打ったのは、黙ったまま恵の傍らに歩み寄った革パンツの平手一発だった。
ぱん、と乾いた音が、恵の頬で弾ける。
「あ……」
顔を叩かれた恵の口から、呆然とした声が漏れる。そこへもう一発、同じほうの頬をまた平手打ちされた。
「……」
恵が黙ったのを見ると、革パンツの青年は手を下ろして、近づいてきたときと同じく無言で離れていく。革パンツの行動を呆気に取られた顔で見ていた金髪ピアスが、はっと我を取り戻す。
「あっ、おう。分かればいいんだよ、分かればよぉ」
まるで自分が恵を黙らせたかのような口振りだったが、いまの恵にはそれほど怖いとは感じなかった。革パンツに感じる怖さに比べたら、どうということはなくなっていた。
叩かれた頬も痛かったけれど、暴力を振るわれたという事実が恐ろしかった。顔色ひとつ変えずに無言で平手打ちしてきた革パンツが恐ろしかった。
青白い顔になって黙りこくってしまった恵の肩に、金髪ピアスが改めて腕をまわす。
「なぁに、心配するな。聞き分けにいい子には痛いことしないからさぁ。むしろ、楽しくて気持ちいいことしちゃう? みたいな?」
自分の言葉に自分で笑う金髪ピアス。恵はもちろん、革パンツも黙ったままだ。その反応に金髪ピアスは不服そうな顔をしたものの、すぐに締まりのないにやけ顔になる。
「まっ、なんでもいいやな。ほらほら、行こうぜ」
そう言うと、恵の肩を抱いたまま歩き出す。革パンツも遅れて歩き出す気配がする。
(や、やだよ。行きたくないよ……誰か、助けて……)
しかし、その思いは声にならない。頬に残る焼けつくような痛みが、恵の喉から声を奪っていた。恵にできるのは、心のなかで繰り返すことだけだった。
(助けて……助けて、助けて、誰かきて……誰か助けにきて……)
けれども、声にならない声は誰の耳にも届かない。
恵は誰に知られることもなく、どこか嫌なところへ連れていかれてしまうのだった。
――いや、そうはならなかった。
「めぐむさん!!」
恵たちの背中に、叫ぶような大声が投げつけられた。男の声だ。恵にだけは、それが誰の声なのか、聞いた瞬間に理解できた。理解できた瞬間に振り返り、顔も確認しないうちからこう叫んでいた。
「伊達、助けて!!」
「はい!」
恵の叫びに全身で返事したのは他の誰でもない、伊達国彦だった。国彦はずんずんと大股な歩みで、恵のほうへ近づいていく。
「なんだぁ、おまえはよぉ?」
金髪ピアスは恵の肩を抱いたまま、眉や唇を大袈裟に歪ませた形相で国彦を睨みつける。恵の知っている国彦は、中学時代から運動部で鍛えられた体格をしているけれど、殴り合いの喧嘩をした経験は小学校低学年の頃以来さっぱりないはずだ。
金髪ピアスより身体の厚みで勝っているとしても、場慣れした態度で威嚇されたら怖じ気づいてしまうのではないか――恵はそう心配した。けれども、その心配はまったくの見当違いだった。
国彦は歩みを止めぬまま、金髪ピアスを真っ向から睨み返す。
「おれが誰か、だと? 問われて答える義理もないが、教えてやる。おれは、その
「……は?」
間抜けな顔で間抜けな声を漏したのは、金髪ピアスだけではなかった。彼に抱きすくめられている恵もだった。傍らの建物に背中を預けて静観していた革パンツも、目をぱちくりと瞬かせていた。
「なぁ……もう一回、言ってくれるか?」
金髪ピアスが三人を代表して言う。そのすぐ正面まできた国彦は、仁王立ちして言い放った。
「おれは、めぐむさんの
暗がりの路地に、国彦の声だけが雄々しく響いた。すぐには誰も、一言も声を発さなかった。
「……?」
国彦はそんな反応をされるとは予想していなかったらしく、勇ましく吊り上げていた眉根を下げて困惑顔をする。それが切欠になって、金髪ピアスが弾けるように大爆笑した。
「ぶはっ! ぶっははははッ!!」
「何がおかしい!?」
なぜ笑われるのかが分からなくて眦を吊り上げた国彦に、金髪ピアスは腹を抱え、指を差して、いっそう大声で笑い立てる。
「ぶひゃひゃッ!! ナイト! ナイトだってよぉ! こいつ、くっそだせぇ!!」
「なっ……ださいって何がだ!?」
「こいつ、
「うっ、うるさい! 黙れ!」
国彦も自分が笑われている理由を悟ったらしい。顔を真っ赤にして怒鳴り返すのだが、金髪ピアスの笑いは収まらない。
「きゃー、こわーい。ナイトさまが怒っちゃったわぁ……ぎゃははは!」
などと冗談めかして、自分でさらに大笑いする。
両手で腹を抱えて爆笑する金髪ピアスに、国彦のほうが先に堪忍袋の緒を切った。
「てめぇッ!!」
国彦は雄叫びを上げながら、弓を引くように拳を振りかぶって金髪ピアスに突進した。
「おらぁ、こいよ!」
金髪ピアスも、抱き締めていた恵を突き飛ばすと、国彦にまっすぐ向き直る。そこへ叩き込まれる国彦の右拳。しかし、素人目にも大振りすぎる正拳突きは、ぐっと膝を沈めた金髪ピアスにあっさり避けられてしまう。
金髪ピアスはしゃがんだ体勢から垂直跳びの要領で飛び上がりながら拳を振り上げる。蛙跳びアッパーカットというやつだ。
だが、これまた予備動作が大きすぎだった。
「うおっと!?」
喧嘩慣れしていない国彦でも、持ち前の運動神経を働かせるだけで避けることができた。しかも、それだけではない。
国彦は、大きく振り上げられた金髪ピアスの拳を、上体をぐるりと捻ることで躱したのだが、そのときに身体を捻る流れで自然と突き出された右拳が、金髪ピアスの鳩尾へときれいに吸い込まれたのだった。
「うっ……うええぇッ!!」
金髪ピアスは嘔吐するように呻きながら、腰をくの字に折り曲げて崩れ落ちた。
「お、おぉ……やった……のか?」
見事なノックアウトを勝ち取った国彦だが、その顔には喜びよりも戸惑いのほうが強く表れている。まさか一発で熨せると思っていなかったのもあるが、誰かを殴り倒したことに喜びを覚えていいのかと迷ってしまったのだ。その迷いが命取りになった。
「あっ、危ない!」
恵が咄嗟に叫ぶ。国彦の目に、え、と怪訝そうな色が浮かぶ。それとほぼ同時に、壁際から滑るようにして駆け込んできた革パンツの右拳が、国彦の左頬を真横から強烈にぶち抜いた。
「ぐぁッ!!」
無防備なところを殴りた国彦は、それでも辛うじて踏み止まる。
「くそ――」
朦朧としながら、自分を殴った相手に向き直って身構えようとする国彦。だが、革パンツは国彦が体勢を立て直すまで待ってはいなかった。
硬い肉と肉とがぶつかる、ばん、という衝撃音。革パンツの左拳が、相手に向き直ろうとしていた国彦の顔面を真正面から叩きのめした音だった。
「お……ぉ……」
国彦は目の焦点が定まらないまま二、三歩ほど後退ったところで、足を滑らせるように後頭部から倒れていった。ごん、と鈍い音がしたのは、ビルの壁に後頭部がぶつかった音だ。
「伊達!?」
崩れ落ちて動かなくなった国彦を、恵は悲鳴じみた声で呼びかける。だけど、国彦はぴくりとも反応しない。
(だ、大丈夫。気絶しているだけだ。大丈夫、大丈夫……でも……)
恵は口のなかで繰り返し唱えながら、国彦に駆け寄ろうとする。だが、その行く手を革パンツが阻んだ。
国彦のことしか目に入っていなかった恵は、
「あっ」
と小さく叫んだときにはもう、革パンツに正面から抱きすくめられてしまっていた。
「おいっ、離せ! くそっ……おい、伊達! 大丈夫か!? 返事しろ!!」
駆け寄って介抱できないのなら、そう呼びかけるしかない。恵はとにかく、国彦がちゃんと生きていることを確認せずにはいられなかった。そのくらい、国彦は倒れたときの姿勢から、ぴくりとも動いていなかった。
国彦が動かないでいるうちに、国彦に殴られて蹲っていた金髪ピアスがのそのそと立ち上がる。
「っ……この野郎、舐めたまねしてくれやがってぇ……!!」
金髪ピアスは殴られた腹を押さえながら国彦を憎々しげに見下ろすと、サッカーボールを蹴ろうとするみたいに大きく足を振りかぶる。動かない国彦を蹴りつけようとしているのだ。
「止めろ――ッ!!」
恵が必死に叫ぶのは聞こえているのに、金髪ピアスは止まらない。むしろ恵に見せつけようとするかのように、国彦を蹴っ飛ばそうとする。だが、まったく反対の方向から響いた叫び声が、金髪ピアスの足を大きく空振りさせた。
「お姉ちゃん!!」
「おっ、おぅわ!?」
金髪ピアスは空振りした勢いで転びそうになるのを堪えながら、声がしたほうを見る。恵と、恵を押さえ込んでいる革パンツも首を捻ってそちらを見やる。
「……ッ」
恵の顔が泣きそうに歪む。声を聞いた瞬間に分かってはいたことだが、見やった先に立っていたのは、いま自分が着ているのと同じ制服を着た小柄な少女――幸だった。
(幸、どうしてここに……いや、分かる。伊達と手分けして、俺のことを捜してくれていたんだよな)
そのこと自体は嬉しい。だけど、このタイミングはあまりにも最悪すぎた。
「へえぇ、ほほぅ……なぁるほど、お姉ちゃんほど発育していないけど、いいねぇ、嫌いじゃないぜ」
幸のことを無遠慮に品定めした金髪ピアスが、にたぁと品性下劣な顔で笑う。幸は心底から不快そうに顔を顰めると、金髪ピアスを無視して、幸を抱き締めている革パンツに話しかけた。
「お姉ちゃんを放せ」
いつもと同じく無愛想に言い放つけれど、腰の脇で固く握られている拳が小刻みに震えているのを、恵は見逃していない。
「馬鹿! いいから、おまえは逃げろ。それで警察を呼んでこい!」
恵は声の限りに訴えた。それを聞いた瞬間、幸はどうするべきか戸惑うように視線を揺らす。しかし、恵を捕らえている男二人は、幸に悩むような暇を与えなかった。
「おっとぉ、妹ちゃんが逃げたら、おれたちはその隙にお姉ちゃんを秘密のプレイルームに連れていっちゃうけれど、いいのかなぁ?」
金髪ピアスが憎たらしい顔で幸を見据える。
どうするべきか、と幸が迷ったのは、ほんの一瞬だけのことだ。
「……お姉ちゃんを、放せ。早く!」
金髪ピアスを素通りして革パンツを睨む幸の立ち姿からは、先ほどの数秒間には感じられていた迷いが消え去っている。
助けを呼びにいって手遅れになることを考えたら、噛みついてでも自分で助けてみせる――幸の顔には、そうはっきりと書かれていた。
(くそ……ッ!)
恵が悪態を吐いたのは、他の誰に対してでもない。自分自身に向けてだ。
(幸も国彦も、おれを助けようとして必死になってくれている……おれは、いじけて逃げたっていうのに……)
国彦が殴り倒されたのも、幸まで捕まりそうになっているのも全部、自分のせいだ。だったら、自分がなんとかするべきなのではないか? いや、しなくてはならない。そうじゃなかったら、
(そうじゃなかったら、男じゃない!)
恵の胸にかっと火が点くのを感じる。全身を支配していた震えや怯えは、心臓から広がる熱に溶けていく。
(幸や国彦が女のおれしか求めていない? だったら、どうだっていうんだ。何か問題があるのか? ないだろ、そんなもん!)
恐怖とはまった別物の熱い感情が、心臓を力強く鼓動させる。煮えたぎった血流が全身を駆け巡る。さっきまでとは性質の違う震えが、頭を内側から激しくノックする。
早く動け、いますぐ動け。いま動かないで、いつ動くんだ!
――全身の細胞がそう叫んでいる。
(そうだよ、まったくもってその通りだ。二人がおれのことをどう思っているかじゃない。おれがいま、二人を助けたいと思っているんだ!)
さっきまでの、男のおれが女のおれが――と一人でいじけていた自分の馬鹿さ加減に、いっそ笑えてくる。
「ふ、ふふっ……そうだよ、すごく簡単なことじゃないか……く、ふふっ……」
顔を俯かせたかと思うと、いきなり呟くようにして笑い始めた恵。
「……?」
恵を正面から抱き締めて押さえつけていた革パンツは怪訝そうな呼気を漏したけれど、幸に構っている金髪ピアスには聞こえていない。
「さあさぁ、妹ちゃんもこっちおいでぇ。お姉ちゃんと一緒に、おれらといいとこ行って、いいことしようねぇ」
「はっ……放せ!」
幸の腕を掴んで引っ張ろうとしている金髪ピアスと、足を踏ん張ってその腕を振り解こうとしている幸。どちらも相手のことに傾注していて、恵と革パンツのほうには気がついていない。
革パンツは金髪ピアスのほうを呼びかけるように見たけれど、結局は声をかけることなく、視線を恵に戻す。
まるでその瞬間を狙い澄ましていたかのように、恵の唇が動いた。
「……離れろ」
瞬間、革パンツは驚きにぎょっと目を開いた。その声は確かに、俯いている恵の口元から聞こえてきたのに、恵の声ではなかった。少なくとも、革パンツが恵だと認識している少女の声ではなかった。
革パンツは思わず顔を上げて、辺りに視線を走らせる。自分たち五人しかいないことはすぐに分かったが、その一瞬が命取りになった。
「離れろっつてんだ!」
野太い男声を張り上げると同時に勢いよく顔を上げた恵の頭頂部が、油断していた革パンツの顎を強かにかち上げた。
「……!」
革パンツは顎を晒して大きく仰け反る。そのまま後頭部からぶっ倒れてもおかしくない勢いだったけれど、両手を広げてバランスを取りながら後方へたたらを踏んで、辛うじて踏み止まる。
倒れるのをどうにか堪えた革パンツだったが、恨めしげな顔で恵を睨みつけるや、驚愕に飛び跳ねた。
「うっ、うわああぁ!?」
今度は声を上げて驚いたのだが、その声に国彦は少なからず驚かされた。革パンツの上げた悲鳴はとても男性のものとは思えない、高く澄んだ鈴を転がすような女声だったのだ。
(あ、そうか……だからこいつ、ずっと黙っていたのか)
束の間、状況を忘れて納得顔をする恵。その恵の顔を凝視して、革パンツはもう一度、裏声のような甲高い悲鳴を上げた。
「ひいいぃぃ!? オカマだああぁ!!」
その単語で、恵自身も初めて気がついた。
「え……あっ! おれ、男に戻ってる!?」
その声も、喉仏を震わせて発する男性の声だ。男に戻ったと自覚した途端、身に着けている制服が少しきつくなったようにも感じる。意識があるうちに男へ戻ったのは初めてだったから、恵自身も戸惑いを覚えていた。
(……って、驚いてる場合じゃないだろ!)
先に我を取り戻したのは、恵のほうだった。
まだ目を見開いて驚愕している革パンツの襟首を、殴りつけるようにして伸ばした手で引っ掴むと、今度は額と鼻面にぶち当てる形でもう一発、頭突きをお見舞いしてやった。
「ぐぇっ」
革パンツは蛙の鳴き声みたいな呻き声を上げるのだが、これまた可愛らしい声だ。もう少し冷静なときだったら、恵も笑ってしまうか罪悪感を覚えるかしていたかもしれない。しかし、腹の底から込み上げてくる激情は、その程度の美少女声に負けてしまうような軽いものではなかった。
「おまら、いい加減にしろ! これ以上、幸に何かしてみろ。ぶん殴るくらいじゃ済まさねぇぞ!」
お世辞にも独創性に富んだ脅し文句ではなかったが、さっきまで美少女だったはずの相手が男になって、どすの利いた胴間声で怒鳴りつけてくるという状況自体は、あまりにも独創的すぎていた。
「ひっ……ひぃ!? ひいいいぃいぃ!!」
革パンツは恵のことを両手で突っぱねるなり、絹を裂くような悲鳴を上げながら一目散に逃げていった。
「え……お、おい!?」
取り残された金髪ピアスは、急に走り去っていった相棒の背中を呆気に取られた顔で見つめている。彼が立っている位置からでは、ちょうど革パンツの背中が壁になって、これからイイコトしようとしていた女子高生が女装男子高生になっていたことに気づいていなかったから、どうして普段は頑なに口を閉ざしている革パンツが悲鳴を上げるほど動揺したのかが分からなかったのだ。
狼狽えている金髪ピアスに、恵はまだまだ吐き出し足りない激情に任せて、野太い声で嘲笑する。
「お友達は逃げたけど、おまえは追っかけなくていいのか?」
「なんだと――ッ!?」
反射的に恵を睨んだ金髪ピアスだが、それ以上の言葉は繰り出せなかった――それはそうだろう。振り向いた先に立っていたのは、路地の向こうからやってきて相棒を逃げ帰らせた第三者の男でも、さっきまで相棒が抱き締めて役得を堪能していた美少女でもなく、"美少女の制服を着た第三者の男"だったのだから。
「え……ぇ……え? え?」
想像を絶するものを目の当たりにして、金髪ピアスは言語を喪失してしまう。両目と口を同じくらい大きく開けて固まっている姿に、恵はぶふっと吹き出す。
「なんだよ、変態でも見るようなその顔は」
恵はにたぁっと唇を裂くように笑いながら、金髪ピアスに近づいていく。
「ひっ」
掴んでいた幸の腕を放して、転がるように後退りする金髪ピアス。それでもまだ、恵は歩みを止めない。
「おれとイイコトしたいんだったよな、なぁ?」
「ひっ……ひいいいぃ!!」
金髪ピアスは背を向けると、裏返った悲鳴を上げながら、革パンツが逃げていったのと同じほうへと一目散に駆けていった。
恵はしばらく二人が消え去ったほうを睨んでいたけれど、戻ってくる様子がないことを確認すると、ようやく緊張を解いた。
「……ふぅ」
途端、そう声がするほど大きな溜め息が口から転げ落ちた。全身を高揚させていたアドレナリンが尽きたことを自得する。
ぐったりと脱力した恵の片袖を、幸の手が握り締めた。
「お姉ちゃ――」
そう言いかけて、はっと言葉を呑み込んだ幸に、恵は苦笑しながら頭を振った。
「べついいよ、お姉ちゃんでも。もう気にしてない……こともないけど、気にしないようにすることにしたから」
恵としてはいまの素直な気持ちを言ったまでなのだが、幸はきゅっと唇を噛み締めて申し訳なさそうに俯いてしまう。
「……ごめんなさい。兄が、女になって戸惑っているのを分かっているつもりだったのに、わたし、嬉しがってばかりいた。もっと、兄の気持ちを考えるべきだった……ごめんなさい」
俯いたまま、恵の袖を縋るように握り締めて、辿々しく言葉を紡ぐ幸。それは、恵が知っているいつもの幸からは想像できないほど頼りなげな姿だった。
「本当にもういいんだよ、幸。それよりも、ありがとうな」
「え?」
「助けにきてくれたこと、ありがとう」
恵は自分でも不思議なほど穏やかな気持ちで笑いかけると、自由なほうの手で幸の頭をそっと撫でた。
「あ……」
幸が小さく吐息を零す。
「嫌だったか?」
恵が聞くと、幸は無言で首を横に振る。
「そうか。じゃあ、もうちょっと」
「ん……」
頷いた幸の頭を、恵はもうしばらくだけ、掌で擽るようにして撫でてやった。
(何年ぶりだろうな、こいつの頭を撫でるなんて。十年振りくらいか?)
そんな感慨に浸りそうになったけれど、はたと大事なことを思い出す。
「あっ、伊達だ」
「……あ」
幸もようやく、国彦が倒れたままであることを思い出して、顔を上げた。
国彦は、恵と幸が二人して見やった壁際に背中を預けるようにして昏倒している。まだ目は覚ましていなかったが、苦しげにひくついている眉や唇、漏れ聞こえてくる呻き声などが、もうそろそろ目を覚ましそうなことを告げていた。
「あれ?」
恵はふと気がついて、自分の格好を見下ろして呻く。
「この格好、伊達が目を覚ます前になんとかしないと不味いよな」
「たぶん、心置きなく絶交されると思う」
幸は同意を示してから、困ったように眉根を寄せた。
「でも、着替えは持ってきていない。だから、どこかに隠れていてもらうしか」
幸の提案に、恵は少しだけ迷ってから首を横に振った。
「いや、もっといい方法がある。たぶんだけど、上手くいく」
「……?」
どんな方法か、と目で問いかけてきた幸に、恵は一呼吸の間を置いてから告げた。
「幸、おれの股間を踏んでくれ」
「……はあぁ!?」
「待て! いいか、よく聞け。おれが初めて女になったのは、おまえに股間を踏まれる夢を見て飛び起きたときだ。二度目は、トイレで用を足した後、チャックに挟んだときだ。そして三度目は、やっぱりおまえに股間を膝蹴りされたときだ。いいか、分かるか? つまり、おれの大切な息子さんは危害が加えられたり、あるいは加えられたと感じたときに家出してしまうんだ。ということは、危害を与えれば、意図的に女になることもできるはずだ。な、そう思うだろ?」
「……確かにその可能性はあると思う。でも、だからといって、わたしが蹴ったり踏んだりする必要はない。兄が自分で叩くなり握るなりすればいい」
「それじゃ駄目だ。重要なのは、おれの息子が『危害を加えられた』と思うことなんだよ。おれが自分でやったんじゃ、本気で潰す気じゃないのが分かりきっているから意味ないんだよ」
「それは、そうかも……だけど……でも、やっぱり、そんな……」
幸がどうにかして断ろうとしている間にも、国彦は目を覚ましそうにしている。寝息のような息遣いに呻き声の混じる頻度がだんだんと増してきているのは、気のせいではない。
幸は最後の説得を試みる。
「やっぱり隠れるべきだ。兄がまた女になれば、目を覚ました伊達さんがまた、付き合ってくれ、だとか言ってくる。どうせ断るつもりなら、このまま女の姿では二度と会わないようにするほうが手間も省けていい」
「それじゃ駄目なんだ!」
恵は退かない。幸の両肩を掴んで、必死の眼差しを叩きつける。
「伊達だって、おまえと同じだ。そりゃ、あいつだって昨日はおれに変なことしようとしたけれど、それでも、今日は気絶するまで頑張っておれを助けようとしてくれたんだ。なのに、お礼も言わないで逃げるなんてこと、できるかよ。そんなことしたら、おれはもう『こいつの友人だ』って、胸を張って言えなくなる」
「……」
「だから、頼む! 幸、おれの股間を踏んでくれ!」
「……分かった」
「本当か!?」
諦めた顔で小さく頷いた幸に、恵は表情をぱっと輝かせる。そこへ間髪入れず、幸が飛びついた。
「えっ」
胸に飛び込んできた幸を、恵は驚きの声で反射的に抱き留めようとする。だが、幸の動きはそこで終わらない。恵が着ている制服の肩口を両手で掴んで強く押したと同時に、差し入れた自分の右足を引っかけるようにして恵の右足を内から外へと払った。
柔道の小内刈りというやつだ。
「うおっ」
文字通り足を掬われた恵は、両肩を押されたことで崩れたバランスを回復しきれずに、どてっと尻餅をつく。ただし、幸が両手でしっかりと制服の肩口を掴んでいたから、落ちるというより、勢いよく座り込んだという感じだ。
「つぅ……」
恵は臀部を路面にぶつけた痛みで短く呻くが、幸の不意打ちはまだ終わっていなかった。恵の上に屈み込む体勢になっていた幸は、素早く身を起こす。
「いきなり何するんだ……よ……」
立ち上がった幸を見上げて声を荒げた恵だったが、その声は途中で掠れて消えた。尻餅をついた自分を見下ろしている幸の右足は、足払いされて開き気味になった両足の間に置かれている。それはつまり、幸の右足と恵の股間とを結ぶ直線上になんの遮蔽物もない、ということだ。
それを理解した瞬間、恵の頭からはいきなり転ばされたことへの怒りが消し飛び、身も凍るような恐怖がそこに取って代わった。
「さ、幸、待って。まだ心の準備が――」
幸は最後まで言わせてくれなかった。
無慈悲に突き出された幸の爪先が、短いスカートと女物の下着に守られた恵の家出がちな息子さんを、すこーんっと蹴り上げた。
痛みは感じなかった。ただ恐怖だけが、恥骨から頭蓋骨へと突き抜けた。
(あ……この感じ、上手くいったな……)
予感した激痛が襲ってこない代わりにやってくる、高所から突き落とされた瞬間のような浮遊感と、蒸し暑いサウナから出て水風呂に漬かったときのような爽快感、そして一抹の喪失感が身体のなかを通り過ぎてく感覚――それは、もう何度か経験している、身体が男から女になったときの感覚だった。
「……」
恵はゆっくりと息を吐きながら、自分の身体を見下ろしてみる。まず視界に入ったのは、制服の胸元を内側から押し上げている豊かな膨らみだった。一度男に戻ったせいか、ブラが上のほうにずれてしまっているのが自分でも分かって、少し恥ずかしなったりもする。
「本当に……女になった……」
幸がしみじみと驚きの声を漏す。本当に踏んだだけで女になるとは思っていなかった、という表情をしている。
(もし、おれが女にならなかったら、どうするつもりだったんだろうか……)
その疑念を実際に問質してみる勇気は、恵にはなかった。
そこへ聞こえてくる、国彦のくぐもった呻き声。
「う、う……」
「あっ、伊達!」
恵が呼びかけたのと同じくして、国彦はゆっくりと目を開けた。
「あ……あれ……あぁ、そうか。おれ、あいつらに殴られて――ッ!?」
国彦はまだ寝惚けているような様子だったが、唐突にがばっと身体を起こす。途中で頭を押さえて呻いたけれど、それでも立ち上がろうとしながら、必死の形相で辺りを見まわした。
「大丈夫。あいつらなら、もう逃げたよ。おまえ――伊達さんが頑張ってくれたから、あいつら、恐れをなして逃げていったんだ。覚えていませんか?」
「え……あれ? そうなの?」
笑顔で言った恵のことを、国彦はきょとんとした顔で見上げる。どうやら、殴られて気絶したことは覚えていても、その前後の記憶は曖昧らしい。
(頑張ってくれたのは事実だし、あいつらが逃げていった本当の理由を話すわけにはいかないし……まあ、ここは伊達の手柄にしてやるか)
恵がそう考えているのを知ってか知らずか、思い出せずに悩んでいた恵の顔が、にんまりと笑顔に緩んでいく。
「あ……あぁ! そういえば、気絶した後も意識がないまま闘争本能だけで戦ったような記憶があるぞ。そうか、そうだったのかぁ」
「……そこまであっさり受け入れるか」
「えっ? めぐむさん、何か言いました?」
「伊達さんは単純明快でいいな、と言ったんですよ」
「いやぁ」
国彦は頭を掻いて照れる。
(そこで照れるのかよ!)
と突っ込みそうになったけれど、国彦が納得してくれている以上、余計なことを言うのは得策ではない。恵は突っ込みを入れたい欲求をぐっと飲み下すと、神妙な顔をして切り出した。
「あの、伊達さん」
「あっ……はい、何でしょうか!?」
恵の改まった態度に、国彦もびくっと背筋を伸ばして、気をつけの姿勢になる。その様子から察するに、失神から目覚めた直後の朦朧さは治っているようだ。そのことに安堵の吐息を零しつつ、恵は深々と頭を下げた。
「助けにきてくれてありがとう。伊達さんと、それに幸が着てくれなかったら、どんな目に遭わされていたことか……本当にありがとうございます」
だが、国彦はお礼を言われても喜ぶどころか、かえって狼狽えた。
「えっ、あ、いやそんな! というかむしろ、おれが変なことを言って、めぐむさんを怒らせてしまったのが原因みたいなものですし……あっ、そうだ!」
国彦は弁解じみたことを言っていたかと思ったら、今度はいきなりがばっと低頭した。恵がお辞儀していたところへ正面から勢いよくお辞儀したものだから、下げた頭と頭がもう少しでぶつかるところだった。
「ひゃっ」
耳のすぐそばで起こった風に、恵はびっくりして跳ね起きる。そこへ、頭を下げたままの国彦が馬鹿みたいな大声を張り上げた。
「めぐむさん、すいません! おれ、めぐむさんとはやっぱり付き合えません!!」
その声の大きさにも内容にも、恵は絶句させられた。そばで黙って成り行きを見守っていた幸も、唇を半開きにして、ぽかんとしている。
「え……ええと?」
どうにかこうにか発言の続きを促した恵に、国彦は腰を直角に曲げたままで言う。
「おれ、めぐむさんには本気で惚れてますけど、宝積だっていいやつなんです。おれのどうしようもない愚痴をなんだかんだ言いつつ最後まで聞いてくれるし、宿題のノートやプリントも拝み倒せば貸してくれるし、財布を忘れたときに昼飯代を貸してくれたこともあるし……とにかく、あいつは友人なんです。それはもう、絶交するとかしないとかじゃなくて、切っても切れない仲というか――あっ、そう! 腐れ縁ってやつなんです、おれと宝積とは」
国彦はそこでいったん言葉を切る。恵は、だから結局何を言いたいの、と小首を傾げる。その仕草は、まだ低頭したままの国彦からは見えていなかったはずだが、まるでその反応を待っていたかのように、大きな声でこう告げた。
「おれ、あいつとは絶好できません。だから、めぐみさんとは付き合えません! ごめんなさい!!」
せせこましい路地のなかに、国彦の声はわんわんと必要以上に大きくこだました。恵も幸も、すぐには何も言えなかった。むしろ、あんぐりと開けた口を閉じることすら忘れていた。
九十度に低頭したまま返事を待っていた国彦だったが、うんともすんとも言葉が返ってこないことに、さすがに不審を覚えたようだ。
「……?」
国彦はこそこそと顔を上げて、上目遣いに恵を見上げる。その視線をまだ呆気に取られたまま見つめ返した恵は、瞬きを二、三度したところでようやっと表情を動かした。
「――ぶふッ!」
口角が大きく持ち上がったかと思うや、破裂音のような声を発して、恵は大笑いを始めた。
「ふふっ、あははははッ!!」
「え……な、何? え、なんで? どうして、おれ、笑われてるんすか?」
憤慨気味に眉根を逆立てた国彦に、恵はどうにか笑いを呑み込みながら頭を振る。
「いや、違うんだ……違うんです。わたし、じつはちょっと悩んでいたことがあったんだけど、いま解決して、それで嬉しくなって大笑いしてしまったんです。ごめんなさい、変なタイミングで笑っちゃって」
「あっ、いえ。そういうことだったら、全然いいんです。おれがまた何か、さっきみたいに大笑いされるようなこと言っちゃったのかと思って……ちょっと神経質になりすぎですね、おれ」
国彦はそう言って乾いた笑いを漏す。
恵は小首を傾げて、
「さっきみたいに……?」
と呟いていたけれど、すぐに合点が入ったという顔をした。
「ああ、ナイト!」
「止めてください!」
顔を真っ赤にする国彦に、恵はまた「ぶふっ」と吹き出した。
「もう本当、勘弁してくださいよ……」
「ごめん。もう笑わない……ふふっ」
「って、笑ってるじゃないですか!」
「笑ってない、笑ってない」
笑窪ができるのを堪えて澄まし顔をする恵。その顔を、国彦はふて腐れた目つきで睨めつける。
先に根負けしたのは恵のほうだった。
「あ、そうそう。話を戻すけど――公園で言ったことは冗談だから、真に受けないように」
「え?」
国彦は目を点にする。
「だから、穂積恵くんと絶交したら付き合ってあげるというのは冗談でした。本気で悩んでくれたみたいで悪いんだけど、そういうことだから……」
恵はぺこりと軽く頭を下げた。
そういうことだから、どうあってもお付き合いはできません――という意味を込めての謝罪だったのだけど、国彦の理解力は恵の想定を軽く凌駕していた。
「やったぁ!!」
「え?」
今度は恵が目を点にする番だった。
「ってことは、べつに宝積と絶交しなくても、チャンスがあるってことなんですね!? ありがとうございます!!」
「……え?」
恵は目を点にしたまま、さらに口をあんぐりと開ける。国彦がいきなり何を言い出したのか、まったく意味が分からなかった。
笑顔満開の国彦は、ぽかんとしている恵の手を両手で握り締めて、ぶんぶんと振りまわすように握手する。
「ありがとうございます! おれ、頑張りますから!!」
国彦は南国の太陽みたいな眼差しで恵を見つめて言うだけ言うと、返事を待たずに背中を向けて、走っていってしまった。
「あ……」
瞬く間に見えなくなった国彦の背中を、恵は口をあんぐりと開けたまま見送るのみだった。
恵と同じく呆気に取られていた幸が、ぼそりと呟く。
「前々から知ってはいたけど、伊達さんは犬だ」
「……そうだな」
恵も納得してしまう。
大はしゃぎしながら駆けていった後ろ姿は、大喜びで散歩しに駆けだしていく柴犬そのまんまだった。
「ところで質問」
幸がまた、ぽつりと呟く。
「なんだ?」
聞き返す恵。
「ナイトって何?」
「……あいつの名誉のために黙秘する」
「そう」
自分で聞いておきながら実は大して興味がなかったのか、幸はあっさりと引き下がる。それが恵には、少しだけ奇妙に思えた。幸が興味もないことをわざわざ尋ねてきたのが少々解せなかったのだ。
「もしかして、何かもっと他に言いたいことがあったり?」
そう水を向けてみると、幸の両目にはっきりと動揺の色が過ぎった。
「えっ、本当にそうなのか?」
驚いた顔で見つめた恵に、幸は恨みがましい目つきで見つめ返す。そして、
「だって……」
と、唇を尖らせる。
「だって?」
「……だって、お――兄が、伊達さんとばかり楽しそうに話していたから……」
「いたから?」
また聞き返した恵に、幸はますます唇を尖らせると、ぷいと目を逸らした。
「わたしだって怖いのを我慢して頑張ったのに、全部、伊達さんの手柄にしちゃうんだもん。伊達さんばかり贔屓して、ずるい……もん!」
「ずるいもんって、おまえ……その分のお礼なら、さっき頭を撫でてやっただろ」
「あんなのでお礼になるか!」
「でも、わりと喜んでいたように思うんだが」
「だったら逆に聞くけれど、頭を撫でられていたときのわたしの喜びようと、さっきの伊達さんの喜びようと、同等だったと思う?」
「む……そう言われると、まあ……」
恵にも、幸の言わんとするところは分かる。
助けにきたことへのお礼ならば、自分にも国彦と同じくらい喜ぶことをされる権利があるはずだ、というのだ。
(でも、そんなのどうやってだよ……)
幸がどうすれば、雪の積もった庭を駆けまわる柴犬並みに喜ぶのかなんて、恵にはさっぱり考えもつかなかった。
「ん」
困り果てている恵の顔を、幸が真正面から覗き込む。身長差十五センチの分だけ、見上げる形になる。急に顔を近づけられた弾みで、恵は反射的に仰け反った。
「えっ、なんだよ?」
「お礼、ちょうだい。伊達さんに負けないくらい喜ばせて」
「え……」
もうさっきから、え、と言ってばかりの気がする。この三分間で何回言っただろう……なんて、どうでもいいことを考えたくなるほど、恵はこの展開に呆然としていた。
幸は恵を見上げる姿勢で、目を閉じていた。どう考え直してみても、それは唇に唇で触れてもらうのを待っている姿勢だった。
「いや、いやいやいや! 待て待て待てよ! おかしいだろ!」
「……何が?」
声を裏返して大慌てする恵に、幸は目を瞑ったまま淡々と聞き返す。
「いや、何がって……い、いくらいまは女同士だからって、姉妹でキ……キスはしないだろ」
「世間一般ではそうかもしれないけれど、わたしたちは例外だから問題ない」
「問題しかないと思うんだが」
「問題なのは、兄が無防備すぎること」
「……ん?」
脈絡なく持ち出された話題に首を傾げた恵。そこへ滔々と告げる幸。
「兄はこれからも、女になったり男に戻ったりするんだろう。そうしたら絶対、そのうち誰かに――例えば伊達さんあたりに唇を奪われるのは、目に見えている。兄も嫌でしょう、男に唇の初めてを奪われるのは」
「う、うん。まあ……それは普通に嫌だな、うん」
「だから、わたしが初めての相手になってあげると言っているの」
「ああ、なるほど……って納得できるか!」
と、律儀に乗りツッコミしてから、恵はさらに言い立てる。
「色々とおかしいだろ! というかそもそも、おまえに助けてもらったお礼をするのであって、おれの初めてがどうのって話じゃなかっただろ!」
「細かいことに拘るな」
「拘るし、細かくもない!」
「……そこまで嫌がるのなら、これで妥協する」
幸はそう言うなり、目を閉じたまま前のめりに身体を倒して、恵のたわんたわんな胸に、ぽすっと顔面を受け止めさせた。
「ひゃっ」
思わず声を上げて仰け反る恵。しかし、幸は胸に顔を埋めたのと同時に両手をまわして恵の腰をしっかり抱き締めていたため、恵は逃げられない。
「んん……ブラ、ずれてる……」
胸のなかから声を漏しながら、幸は首を揺すって、顔をぐりぐり擦りつけている。
「ちょっ、馬鹿……んぅ! っ、っ……ってか、なんで……?」
恵はどうして自分がこんなことをされているのか意味が分からなくて、幸を押し退けるのも忘れて狼狽える。恵がその狼狽から立ち直る前に、幸は身体を起こして、恵から身を離した。
「じゃあ、いまのがお礼ということで」
「ということでって、どういうことでだよ……」
それは質問というより愚痴に近い呟きだったのだけど、幸は答えてくれた。
「昨日、伊達さんだってお姉ちゃんの胸を見たり触ったりしていた」
「あ……」
そういえばそんな目にも遭ったな。あれはつい昨日のことだったのか――と小さく驚いている恵に、幸はむすっと唇を尖らせて、ぶつくさと続ける。
「わたしだって、その胸に触ったり頬ずりしたりしてみたいと思っていたのに。でも、さすがに遠慮していたのに。それなのに……」
「いちおう言っておくが、おれが自分から触らせていたわけじゃないぞ」
「分かってる。でも、とにかく悔しかったんだ」
幸はぶっきらぼうに言い放つと、ひとつ大きく息を吐いて、表情を緩めた。
「でも、もう気にしない。わたしも堪能させてもらったから」
「そ、そうか……まあ、なんだ。喜んでもらえたみたいで、よかったよ」
恵にはもう、そう言って苦笑することしかできなかった。
「うん」
短く答えた幸の顔は、恵の苦笑が和らいでしまうくらい嬉しそうな――そして、少し恥ずかしそうな笑顔だった。
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