第3話 ○○○が欠席した火曜日

 朝、遅刻ぎりぎりの時刻。いつもなら遅くともこの五分前には登校している幸が、今朝はまだ玄関先でもたもたしていた。

「本当に一人で大丈夫?」

 不安そうに眉根を寄せて聞いてくる幸に、恵は辟易した素振りで肩を竦めた。幸は平日の朝らしく制服を着ているけれど、恵はぶかぶかのティーシャツに短パンという格好だ。

「大丈夫だよ。留守番くらい、できるって」

 昨日から女になったままの恵は、結局、学校を休むことにした。登校してもどうしようもないのだから仕方がない。

 幸に母親の振りをしてもらって、「息子は風邪なので休ませます」と先生に電話してもらっていた。幸も、他に方法がないことを納得して仮病の片棒を担いだのだが、自分だけが学校に行くことを後ろめたく思っているようだった。

「やっぱり、わたしも休んだほうがいいんじゃ……」

「必要ないって。幸がいたって、何かできるわけじゃないだろ」

 その一言に、幸はしゅんと項垂れてしまった。慌てて、恵は言い繕う。

「あ、悪い。そういう意味で言ったんじゃないんだ」

「……ううん、その通りだ。わたしがいても、兄を男に戻せるわけじゃない。なんの役にも立てない」

「そこまでは言ってないけど……でもまあ、そういうことだ。幸がいても仕方ないんだから、大人しく学校に行ってくれ」

 恵は敢えて厄介払いするような口調で言う。その意図は不足なく伝わったようで、幸は怒るどころか、ますます申し訳なさそうに表情を歪めた。だが、訥々と口にしたのは納得の言葉だ。

「うん……分かった。でも、できるだけ早く帰ってくるから。それと、何かあったら遠慮しないですぐにメールして。電話でもいい。それだけは約束して」

「分かったよ。何かあったらすぐに連絡する。約束する」

 恵がもう一度これ見よがしに肩をすくめると、幸もそれ以上は渋らずに家を出ていった。

「さて、と」

 閉った玄関の戸を見つめながら、恵は呟く。

「これからどうしようかな……」

 今日は初夏を先取りしたような陽気だけど、外へ遊びにいくのは論外だ。ずる休みして遊び呆けられるほど、恵の神経は図太くない。それに、もし補導でもされたら面倒だ。

(……まあ、大人しく自習してるか)

 サボって遊んだところで、定期考査までには勉強しておかないといけないことに変わりはないのだ。最後になって大変に苦労するくらいなら、最初のほうからこつこつ苦労しているほうがいい――恵はそう考えるほうなのだ。

 というわけで、恵は自室に戻って自習を始めたのだが……それも午前十時頃までの話だった。

 その時刻に、どうにも集中できなくて場所を自室から居間へと移したまではよかったのだが、そこでついテレビを点けてしまったのが失敗だった。

(昼間のテレビって、どうしてこう、どの局もどうでもよさそうなものばかり放送しているんだろうな)

 などと文句を思い浮かべつつも、芸能界のゴシップから嫁姑のあれやこれや、健康食品や真珠の通販などなどを梯子しているうちに、気がついたらお昼時になっていたのだった。解凍した白米とレトルトのカレーでの昼食も、バラエティ番組を観ながらだった。

 これではいけない――と、バラエティ番組が終わったところでテレビを消したのが、今度はついついゲームをやり始めてしまう。部屋から参考書を取ってくるとき、なんとなく携帯ゲーム機も一緒に持ってきてしまったのだ。

(息抜き、息抜き。ちょっとだけ、ちょっとだけ)

 最初は十分くらいで止めるつもりだったのが、三十分、一時間……と延びていって、ふと壁掛け時計を見上げてみれば、もう学校が終わっている時間になっていた。

「……おれ、本当に高三か?」

 合計五時間ほどもだらだら過ごしてしまったことには、さすがに反省の気持ちが込み上げてくる。恵は親大学への内部進学希望だから、世間一般で言う受験生とは違う。しかし、世の中に倣って高校三年生らしく勉強しようじゃないか、という気概はある――いや、あるつもり、だったのだ。

(男とか女とか以前に、学生としてどうなんだよ、これは。いいのか? いや、悪いだろ)

 女になってからすでに二十四時間以上が経過していることで、恵はどうやら自分で思っている以上に参っているようだった。

「……片付けよ」

 今朝の様子からして、幸は今日も部活を休んで早めに帰ってくるかもしれない。その前に、食卓に広げっぱなしのノートや教科書、ゲーム機を自室まで持ち帰っておくことにした。

「でも、その前に」

 恵は呟きながら冷蔵庫を開け、パックのココアに口をつける。左手を腰に当て、右手で持ち上げた一リットルのパックを直接口につけて、ごくごくと飲んだ。

 喉と胃袋を冷たい甘さで満たすと、曇っていた気持ちも晴れ渡ってくる。

「よし――部屋に戻って勉強しよ」

 恵はぴしゃんと頬を叩いて気合いを入れ直すと、改めて食卓の上を片付けようとした。

 そこへ、来客を告げる呼び鈴が響いた。

「幸のやつ、もう帰ってきたのか」

 予想よりもずっと早い帰宅にびっくりしつつも、恵は玄関先のスピーカーと繋がっているインターフォンの受話器を取り上げた。

「幸、おかえり」

 と言ってしまってから、幸だったら鍵を持っているから呼び鈴を鳴らす必要がないじゃないか、と気づいた。

 案の定、受話口から聞こえてきた声は、幸のものではなかった。

『えっ……いやいや、違いますよ、おばさん。おれですよ、伊達です』

「……!?」

 受話口の向こうでからからと笑った国彦に、恵は危うく叫びそうになった。

(どうして国彦が!? 陸上部の練習はどうしたんだよ!?)

 本当はいますぐにそう叫んで問い詰めたかったけれど、思い止まるだけの思慮はまだ残っていた。不審な態度を取って国彦に怪しまれたら、事態がいっそうややこしくなってしまう。

(国彦のやつ、おれのことを母さんだと思っているみたいだし、ここは母さんの振りをして追い返すのが最善か)

 そう決めた恵は、短く息を飲むと、母親の電話しているときの声を真似てインターフォンに話しかけた。

「あら、伊達くん。恵のお見舞いにきてくれたのね、ありがとう。でも、恵はいま薬が効いて寝ているところだから、申し訳ないのだけど今日は遠慮してくれるかしら?」

『あいつの風邪、そんなに酷かったんですか』

「ええ、そうなのよ。だから……」

『だったら、顔を見ていくのは遠慮して、プリントを渡すだけにしておきます』

「え……プリント?」

『はい。今日の数学の授業で渡されたんです。明日までにやってこいって宿題のプリントでして』

「ああ……」

 と、恵は顔を顰めた。あの宿題好きな数学教師なら、然もありなんだ。さらに言うなら、前日に風邪をひいて欠席していたからといって、宿題をやってこなかったことを許してくれたりはしない教師だ。

「そんなのは自己管理がなっていないきみの責任です」

 したり顔でそう言って、容赦なく成績に減点をつけるのだ。通年の成績や授業態度がものを言う内部進学組にとっては、終盤にじわじわと効いてくる腹打ち《ボディブロー》のような地味にいやらしい攻撃をしてくる教師なのだ。

 ――というわけだから、明日は学校に行けるかどうか分からないけれど、ここは宿題のプリントを受け取っておきたい。

(うぅ……仕方ないか)

 恵は覚悟を決めた。

『分かりました。いま玄関、開けますから』

 そう言って受話器を置くと、恵は玄関へ向かった。

(大丈夫。玄関を少しだけ開けて、さっとプリントを受け取って、さっと戸を閉める……うん。それで大丈夫だ、うん)

 自分に言い聞かせながら鍵を開け、左手でノブを捻ると腕を出せる分だけ戸を開けて、右手を外に突き出した。

「プリント、渡して――うわっ!?」

 素っ頓狂な声が出たのは、薄くしか開けなかったドアが外側から引き開けられたからだ。恵は左手でドアノブを掴んでいたままだったために、恵は勢いよく開いたドアに引っ張られる形で外へ投げ出されたのだ。

「わっ、わわっ!!」

「おわ!?」

 思いきり前のめりになった恵の身体を、国彦が咄嗟に受け止めた。

「大丈夫ですか、おばさ――あれ?」

 国彦はそのとき初めて、自分の胸に飛び込んできた女性が恵の母ではなかったことに気がついた。

「あ、あなたは……一昨日、さっちゃんと一緒に歩いていた……」

「え……あっ」

 そういえばそうだった、と恵は思い出す。

(伊達のやつ、日曜日におれと幸が買いものしていたところを目撃していたんだっけ。確か……おれのことを、幸の部活の先輩だか、友達の姉だかと思っていたんだったか……)

 黙って記憶を手繰り寄せている恵に、国彦は顔を赤らめながら話しかける。

「あ、あの、初めまして。おれ、宝積の……あ、恵くんのクラスメイトで、伊達国彦っていいます」

「え……あ、はい。どうも」

 熟れた林檎みたいな顔で話しかけられて、恵は引き攣った顔で愛想笑いする。国彦とは十年来の友人付き合いだけど、こんなにも情熱的な顔をしているところはは見たことがなかった。

「……って、あ! ごめん!」

 恵は自分が国彦に抱きついていたことを思い出して、両手で国彦の肩を押しながら身を離す。

「あっ、べつにこのままでもよかったのに」

 国彦の口から漏れた言葉は、冗談のようには聞こえなかった。それだけに、恵の背中をぞわわっと気色悪い怖気が這い上がる。

(とにかく、伊達をさっさと追い返そう)

 心の底から込み上げる危機感が、その決意を新たにさせる。

「え……ええと、プリントでしたね。わたしが受け取っておきますので」

 恵は片手を差し出して、口早に催促する。

「あっ、はい」

 国彦は――差し出された恵の手を両手でぎゅっと握った。

「え……いや、握手じゃなく。プリントをくださいという意味で」

「あっ、そっちでしたか」

 恵の手をまだ握ったまま、国彦はにこにこ笑う。

「でもその前に、ちょっといいですか?」

「……なんでしょうか」

「お姉さんのお名前、まだ教えてもらっていないんですけど」

「え……名前……」

 恵はぐっと息を飲む。

(どうしよう!? まさかさとしと名乗るわけにはいかないし、ああっ、どうするか――)

「――あっ、めぐむ! わたしの名前はめぐむ」

 恵はぱっと閃いた名前を名乗る。本名の読み方を変えただけだが、国彦ならきっと気づくまい。

「へえ、めぐみさんですか。いいお名前ですね」

 国彦は本気でそう思っているらしく、両目をますますぐんにゃりと細めて幸せそうな顔をした。

 もうここまできたら、疑いようがない。

(こ、こいつ……おれに本気マジ惚れしてる!!)

 そう直感した瞬間、足首から首筋までの毛穴がぶわっと総毛立った。気心の知れた友人から性的な目で見られるという体験がこれほど怖気を催させるものだと初めて知った十七歳の春だった。

「どうしたんですか、めぐむさん。顔色が悪いですよ……あっ、もしかして、めぐむさんも風邪ですか?」

 国彦は心配そうに顔を曇らせたが、自分の言った言葉に自分で怪訝そうな顔をする。

「いや、その前に、めぐむさんは恵とどういうご関係で……あっ、まさか!?」

 両目をかっと見開かせた国彦。付き合いの長さが成せる業か、国彦が何を言いたいのかは恵にもしっかり伝わっている。

「いやいや! おまえが――じゃなくて、伊達くんが想像しているような関係じゃないから!」

「あっ、そうなんですか。いやぁ、よかった」

 恵が声を荒げて否定すると、国彦は本気で安堵する。

「おれはまた、恵の野郎が風邪の看病してもらうのに託けて、めぐむさんに風邪がうつってしまうようなことをしやがっていたのかと思っちゃいましたよ。でもよかった。めぐむさん、べつにあいつの彼女ではないんですよね」

「ええ、そうですよ。恵くんの彼女なんかじゃないですよ」

 おほほ、と乾いた笑いを浮かべる恵に、国彦はさらに尋ねる。

「でも実際のところ、めぐむさんは恵とはどういったご関係なんです?」

「え……ええと……」

 恵は必死に頭を回転させた。

(国彦は、うちのことをよく知っている。だから、姉ですとは名乗れない。じゃあやっぱり、幸の友達ってことにするか……いや、駄目だ。それじゃ、幸がまだ帰っていないことに気づかれたら、恵の彼女説が再燃してしまう。もっと、うちで留守番していても不自然じゃない立場はないか――)

「――あっ、そうそう。わたしは親戚なの。今日はたまたま用事があってこちらにお邪魔したんだけど、そうしたらたまたま恵くんが風邪をひいて、看病がてら留守番しますっていうことになったの」

「ああ、なるほど。恵の従姉妹なんですか。じゃあ、おれとも友達みたいなもんですね」

「え……ええ……」

 朗々と笑う国彦のつられて、恵もぎこちなく笑いながら、小首を傾げるようにして頷く。それを見ると、国彦は、

「それじゃあ」

 と言いながら、当然のように玄関ドアを引き開けて、なかに入ろうとした。

「ちょっ、ちょっと!?」

 恵は、自分の傍らを擦り抜けようとする国彦のことを身体で止めようとする。しかし、身長百七十センチの恵よりさらに長身で大柄、しかも陸上部で鍛えている国彦のことを、華奢な女の身体で止められるわけがない。国彦は通せんぼされていることに気づいたふうもなく玄関に上がって、靴を脱ごうとする。そこでようやく、恵が邪魔をしていることに気がついた。

「めぐむさん、ちょっとすいません。そこに立たれていると靴が脱げないんで……」

 そう言いながら、国彦は正面に立ちはだかっている恵の肩に両手をかけて、脇に退かそうとした。恵はもちろん抵抗しようとしたのだけど、国彦はひょいと、大人が子供を抱き上げるときくらいの手軽さで、恵を押し退けてしまった。

 いや――もしかしたら、押し退けた、とすら思っていないかもしれない。そのくらい簡単に恵は退かされてしまったのだ。

(いくら、おれがいま女になっているからって……伊達って、こんなに力のあるやつだったのか?)

 急に、恵の心臓は鼓動の音を大きくさせる。

 本気で追い返そうとしても敵わないだろうということを実感した途端、身体の芯から怯えとも焦りともつかない感情が込み上げてきたのだ。

 恵が顔色を悪くしたのに気づいたのか、国彦が大袈裟なほど心配そうな顔をした。

「めぐむさん、どうしたんですか? 顔色がよくないですよ」

 顔を覗き込んできた国彦に、恵は反射的に仰け反る。

「なっ、なんでもない――あっ!?」

 仰け反った弾みで一歩下がった足の踵が、上がり框の段差にぶつかった。不味い、と思ったときにはもう、恵の身体は後頭部から真っ逆さまに落ちていっていた。

「危ない!!」

 国彦が弾かれたように動いた。恵が目を閉じる寸前に見たのはそこまでだ。直後、背中に衝撃が走った。だがそれは、予感していたものよりずっと軽いものだった。それに、大きく仰け反ることになった後頭部には、なんの衝撃も感じなかった。

 恵は不思議に思いながら目を開いたのだが、状況を理解するにはしばしの時間を要した。

「え……ぇ……うわぁ!?」

 理解したとき、思わず叫んでいた。

 恵は国彦の片手で抱きかかえられていた。国彦の片腕で腰を支えられた恵は、ちょうど情熱的な社交ダンスのように、背中を大きく反らした体勢で抱き留められていたのだ。

「……大丈夫ですか」

 国彦がささやく。その吐息が恵の頬をくすぐるほどに、二人の顔は近い。

「あ……うん、はい……」

 恵の返事はほとんど掠れ声だ。国彦とは十年来の付き合いだが、こんなに顔を近寄せたことはなかった。

「あ、あの……もう大丈夫ですので、降ろしてもらえますか?」

 恵は一刻も早くこの危険極まりない体勢から逃れたくて、強張った唇をもごもご動かしてお願いするのだけど、国彦は動かない。恵の顔をじっと見つめたきりだ。

「あ、あの?」

 恵がもう一度、怖々と声を発する。

「……」

 国彦はまだ動かない。わずかに動いたのは、ごくりと鳴った喉だけだ。恵を見つめて見開かれている両目は瞬きを忘れている。

(け、けだものがいる……!)

 恵が、このままでは本当に危険が危うすぎると察して身を捩ったのだが、腰にしっかりとまわされた国彦の腕から逃れることはできなかった。むしろ、身動ぎしたことが、国彦の獣欲を刺激してしまった。

「めぐむさん! おれ、初めてみたときから、あなたのことが好きでした!」

 至近距離からの叩きつけるような告白と同時に、腰のみならず背中にも腕をまわされて、きつく抱擁された。

「ひ――ッ」

 もう少しで唇と唇が触れ合ってしまうところだった。抱きすくめられた瞬間に首を横に捻ったたことで、接吻キスという最悪の事態は辛くも逃れたけれど、だからといって危機的状況なのには変わりない。

「ちょっ……やっ、ばか! 離せ……おいっ、ばか!」

 恵は自由な両手を使って国彦を引き剥がそうとするのだけど、国彦の身体はまるで根を張った樹木のようで、びくともしない。それどころか、恵が必死にもがけばもがくほど、国彦はぎゅうと強く抱き締めてくる。

「ああぁ……めぐむさんの身体、すごく柔らかいです……ああっ」

 国彦の両手が、恵の背中や腰をものすごくいやらしい手つきでねっとりと這いまわる。じつは厚い国彦の胸板に押し潰された乳房が、逃げ場を求めて、ぐにゅんぐにゅんと暴れている。

「うぁ……! めぐむさんの胸、柔らかすぎるぅ……!!」

(ひっ……ひいいぃ――ッ!!)

 怖気の波がぞわぞわぞわっと、恵の尻から脳天へと駆け抜けた。

(やばい、やばいやばい! これ、マジでやばい! こんなことなら、恥ずかしがらずにブラしておくんだった。もしノーブラだと気づかれたら……うあぁ!!)

 そうなったときのことを想像をするだけで、全身に鳥肌が立つ。いや、いまでも鳥肌は立っているけれど。

「やっ、本当に止めて……」

 恵は怒りを込めて言い放ったつもりだった。しかし実際に口から出た声は、自分でも信じられないほど弱々しい、蚊の鳴くような声だった。

(どうして!?)

 と息を飲むが、恵にも理由は分かっている。本気で力を振り絞っているのに、国彦の抱擁から逃れることができないからだ。

(や……やばい……伊達がその気になったら、抵抗のしようがない……!)

 瞬間、両足から、がくりと力が抜けた。国彦に抱きすくめられているから、今度は倒れたりしなかったけれど、その代わりに、押し倒された。

「めぐむさん! おれ、もう!」

 国彦は玄関マットに恵を寝かせ、上から身体を強く押しつける。

「ひいぃ……ッ!!」

 恵はもうすっかり涙目だ。走りまわった直後のように動悸が激しく、身体が熱いのに、全身の毛穴から吹き出る汗は震えが止まらなくなるほど冷たい。なんとかして逃げなければ――と思うのに、手も足も言うことを聞いてくれない。恵が初めて体験する金縛りだった。

 硬直している恵を他所に、国彦は顔を真っ赤に上気させてすっかり盛り上がっている。

「あ、ぁ……めぐむさん、おれ……絶対、悲しませませんから!」

 左手だけで腕立て伏せするみたいに上体を起こして、空いた右手でもって、恵のティーシャツ一枚に包まれた水饅頭みたいなぷるんぷるんの胸を、むんずと鷲掴みにした。揉んだとか、まさぐったとか、そんな生易しい手つきではなく、

「いっ、痛い……!」

 と恵が目を瞑ってしまうほど力任せに握り締めたのだ。

「あっ、すいません!」

 国彦は上擦った声で謝るけれど、右手は恵の胸をぎゅうぎゅう掴んだままだ。むしろ、手を握ったり開いたりして、パン生地を捏ねるみたいに揉みしだいている。

 恵もいちおうは男であるからして、豊かな乳に手が吸付いてしまって離れてくれないという国彦の気持ちは分からないでもない。しかし、男であるからこそ、男に胸を揉まれているという状況が、気色悪くて気色悪くて堪らないのだ。

(うぅ……女って、胸を揉まれたら気持ちよくなるんじゃなかったのかよぉ!)

 青年誌の漫画から得ていた知識はまったくの嘘だったことを知る。大きくて節くれ立った手に好き勝手されて感じるのは、痛さと気色悪さだけだ。それは恵の表情にも出ているのに、国彦にだって見えているのに、国彦は手を緩めない。恵の上から退こうともしない。

「はあっ、あぁ……! めぐむさん……おれ、すいません……でも、おれ……!」

「いいから、退け……! いっ、痛いんだ……よ!」

「すいません、すいません!」

 国彦はもうそれしか言わない。さっきは胸から手を離そうかと迷う素振りを見せたのに、いまはもう取り繕おうともしない。ぜえはあと鼻息を荒くさせ、眼光を野獣のぎらつかせて、手に収まりきらないほど豊かな乳房を、体重をかけた強い手つきで揉みくちゃにする。

「いぃ……! 痛いって、だから……うぅ! うあ!」

 恵は眉間に深い皺を刻んで呻くが、国彦はまったく関係のない疑問を発した。

「あ、あれ……めぐむさん。この、こりっとした感触って、もしかして……えっ、じゃあ、いまノーブラ!?」

 掌に感じたグミのような適度に硬い感触に、国彦の大きく剥かれた双眼がさらに血走る。

(しまった! ばれた!)

 恵が顔面を蒼白にするのと、国彦が次の行動に移るのとは、まったくの同時だった。

「ノーブラってことは、いいんですよね!?」

 国彦は野太い声を上げながら上体を起こすと、馬乗りになったことで空いた両手を使って、恵のティーシャツを脱がせにかかった。

「ぎゃ!? 止めれぇ!!」

 恵も両手を使って、なんとかティーシャツの裾を捲らせまいと必死に抵抗する。だが、男女の体格差に加えて体勢の不利まであるのだから、その抵抗も時間の問題だった。

「止めろ止めろ止めろぉ!!」

「ノーブラで誘ってきためぐむさんが悪いんです! だから、だから!」

「何が、だから、だぁッ!!」

 恵がいくら喚いても、国彦の狼藉は止まらない。

 腰に跨っている国彦をブリッジして押し退けようにも、国彦の身体は見た目以上に重くて、さっぱり持ち上げられない。国彦の手を払い除けようとしていた手も逆に払われてしまい、とうとうシャツの裾が大きく捲り上げられた。

「うわあぁッ!!」

 恵の口から、絹を裂くような悲鳴。

 捲られたシャツのなかから露わになった、白磁のように白い肌と、滑らかにくびれた腰つき。そして、こんもりと膨れ上がった豊満な乳房の下半分。

「おっ……お……お、おおぉ……」

 国彦の口は、お、の形に開いたまま固まってしまう。両目も同じく開いたまま、暴かれた乳房の下半分に釘付けになっている。国彦の動きは完全に止まっていて、腰に跨っている国彦をはね除けるには、これ以上ない好機だった。

 恵はしかし、

(みっ……見られてる……!!)

 国彦に胸を凝視されていると思っただけで、身動きひとつできなくなるほどの羞恥に襲われていた。それはもう、羞恥というのを通り越して、恐怖とさえ呼べる強烈さだった。

(やばい……駄目、もう駄目だ……)

 抵抗する気力が萎えていく。腕や足から、暴れる力が失せていく。片方の目尻に滲んだ涙の粒が、耳へと滑り落ちていく。

「もう……止めて……お願い、だから……」

 啜り泣くような震え声。それが、いまの恵にできる精一杯のことだった。

「めぐむさん……おれ、頑張りますから……!」

 国彦が、ごくりと生唾を呑み込む。恵はもう、頑張るって何をだよ、と思うことすら億劫だった。

 恵が抵抗しなくなったのを了解の意思と受け取ったのだろう。国彦は腰を浮かせて、恵の胸に引っかかっている状態のティーシャツを完全に脱がせてしまおうとした。

(おれ……おれは……)

 昼下がりの、自宅の玄関で、親友に……。

(……死にたい)

 もう片方の目からも、涙の粒が流れ落ちた。

 国彦はそんなことに気づきもしない。餌を前にした野犬のように鼻息を荒くしている。よく、犬に噛まれたとでも思って忘れてしまえ、などという言いまわしを聞くけれど、まさか自分がそんな目に遭う日がこようとは思ってもいなかった。

(でも、犬に噛まれたら忘れられないよな)

 恵の目は虚ろに天井を見上げている。国彦の荒い鼻息を遠くに聞きながら、嵐が通り過ぎるまで天井の染みを数えていればいいやと諦めていた。

 そのときだった。

「お姉ちゃん!!」

 鍵を開けたまま玄関扉が勢いよく開けられた音と、それ以上に大きく響いた幸の声。

「――幸!?」

 恵の目に、はっと正気の光りが戻った。

「えっ!?」

 国彦も跳び上がるようにして身体を起こし、慌てて背後を振り返る。そこへ――

「最っ低ええぇッ!!」

 幸の怒声と、勉強道具の詰まったリュックサックによる横殴りの一撃がぶち込まれた。

「ぎぇふぇ!!」

 遠心力の乗った強烈な一撃を、ちょうど振り向いた顔面にカウンターの要領で食らった国彦は、濁った悲鳴を吐き出しながら首をくるっとまわして、斜め前方に顔面からぶっ倒れた。

「お姉ちゃん、平気!?」

 幸は自分がぶっ飛ばした国彦のことなど目もくれずに、寝そべっている幸の側にしゃがみ込む。

「うん、平気……」

 起き上がりながらそう答えた矢先、安堵したせいか、恵の頬を涙が一筋、伝い落ちた。それを見て、幸の両目も大きく潤んだ。

「……ごめん。わたしがもっと早く帰ってきていれば……この!」

 幸は凄まじい形相で国彦を睨む。

「ひ……ッ」

 頭を振りつつ起き上がりかけていた国彦は、その眼光に撃たれたように、がくんと腰を抜かした。

「い、いやっ……さっちゃん、違うんだ。これは誤解だ。全然、違うんだ!」

「何が?」

 顔を青くした国彦の言い訳を、幸は一言で切って捨てる。

「い、いや、だから――」

「だから、何が違うの?」

 雷雲が唸るような幸の声音に、国彦の顔色はもはや青いのを通り越して真っ白だ。

「だ……だから……おれはまだ、何もしていなかったわけで……だから、違うんだ。無罪だ……よ?」

 最後のほうは、聞いているほうが憐れになるほど弱々しい声だった。だが、国彦のことを不憫だと思ったのは恵だけだったようだ。幸は大きく胸を張って最大限まで息を吸い込むと、喉の限りに絶叫した。

「出ていけええええぇ――ッ!!」

「ごめんなさああぁい!!」

 雷鳴に撃たれた国彦は、幸の横を這うようにして擦り抜けると、短距離走でクラウチングスタートをする要領で一気に駆け出し、一目散に逃げていった。

 あっという間に足音も聞こえなかった。あとに残るのは、玄関の外を睨んでぜえぜえと盛大に肩で息をしている幸と、玄関マットにぺたんと尻餅をついた格好で呆然としている恵の二人だ。

「お姉ちゃん!」

 幸は、恵に向き直るや、鋭い声で叱りつけた。

「一人のときに男を家に上げるなんて、何を考えているんだ!!」

「ごめん……でも、」

 でも、相手は伊達だったから大丈夫だろうと思って――と続ける前に、幸の怒りが爆発した。

「ごめんで済むなら警察は要らない! わたしが今日も部活を休んで帰ってこなかったら、正真正銘の警察沙汰になっていたんだ! 女として、もっと自覚しろ! 馬鹿!!」

「……ごめんなさい」

 恵は肩を落として項垂れた。反論はない。警察沙汰、という言葉にまた恐ろしくなって、涙が溢れるのを堪えるのでやっとだった。

 すっかり縮こまってしまった恵に、幸も怒りを収める。ゆっくり溜め息を吐くと、恵と目線を合わせるようにしゃがむ。

「わたしも、ごめん。ちょっと強く言いすぎた。でも、分かってほしかったんだ。わたしが今日一日、どれだけお姉ちゃんのことを心配して過ごしたのか……少しでいいから、分かってほしかったんだ」

「幸……」

 顔を上げ、名前を呟いた途端、また涙が頬を伝った。

 幸の手が伸びてきて、恵の髪を優しく撫でる。

「よかった。お姉ちゃんが無事でよかった」

「さち……っ……うん、ごめん。心配かけて、ごめっ……っ……」

 ぽろぽろと涙が零れてくる。涙はあとからあとから溢れてきて、止まらない。

「ううん、いいの」

 幸の両手が背中にまわされる。さっき国彦に同じようなことをされたときは気色悪くて仕方なかったのに、幸の華奢な両腕で精一杯に抱き締められているのは心地好くて、ほっとして、涙が止まらなかった。

 五分か十分か――しばらくそうしていたが、恵は洟を啜りながら、恥ずかしげに顔を上げた。

「ごめん、なんか変な空気にしちゃって」

 腫れぼったくなった目元を擦って苦笑いする恵に、幸は小首を傾げる。

「変?」

「だってほら、抱き合って慰めてもらうなんて、兄弟らしくないというか、なんというか……」

 そこで恵が言い淀んだ言葉を、幸が引き継いだ。

「姉妹らしい?」

 その一言に、恵は、うっと口籠もって頬を赤らめる。対照的に、幸はにんまりと笑窪を作った。

「嬉しいな。お姉ちゃんがそう思ってくれて……嬉しい」

 そう言った幸の顔がもう本当に堪らなく嬉しそうだったから、恵もなんだか、

(ああ……べつにそれでもいいのかもなぁ)

 などと思ってしまうのだった。


 そのあと、恵はまだ日も落ちていないうちから、幸の手によって風呂場へ押し込まれた。

「あんな最低野郎に触られたままじゃ病気になる。念入りに洗い流さないと駄目」

 と、本気の目で迫られては、泣き顔まで見せてしまった恵には、断ることができなかったのだ。ただし、一人で身体を洗っていたところへ水着に着替えた幸が乱入してきたときには、驚いたなんてものではなかったが。

「お姉ちゃんが自分で洗うのだと、適当にしか洗わないでしょう。とくに髪とか、リンスをすぐに流したりしそう」

 だから自分が洗ってあげるのだ、というのが幸の理論だった。事実、恵はいつもリンスをすぐに流しているけれど、さすがにここは幸の要求を鵜呑みにはしなかった。

「かりに百歩譲って最初から正真正銘の姉妹だったとしても、この歳になって一緒に風呂に入ったりしないだろ!」

 そう必死に抗弁したのだけど、

「あの最低下半身野郎には触らせたのに、わたしには触らせてくれないの……?」

 と眉間の皺を険しくしたために、妥協案を呑んでもらうのが精一杯だった。

「お姉ちゃん、じっとしててね」

「うん……というか、じっとしている以外、何もできないけどな」

 恵は背中を丸くして風呂椅子に座っている。その後ろで膝立ちになって、石鹸で泡立てたボディスポンジを手にしている幸の顔には、目隠し代わりの手拭いが巻かれている。

 全裸を見られるのはさすがに恥ずかしすぎるから、せめて目隠しをしてくれ。そうしたら髪で身体でも洗わせてあげるから――と言ったら、幸は本当に目隠ししてしまったために、恵もあとに引けなくなってしまったというわけだった。

 結論から言うと、目隠しした相手に身体を洗われるというのは、恵が想像だにしていなかったほど、いやらしかった。次にどこを洗われるのか予想できないというだけで、これほど笑わされたり、悲鳴を上げさせられたりするとは思わなかった。

 結局、恵のほうが途中で降参して、幸に目隠しを外してもらった。そのあとは普通に髪や身体を洗われたのだけど、不幸中の幸いと言うべきか――目隠し洗いの段階ですでに疲れ果てていた恵には、もう恥ずかしがるだけの気力も残っていなかった。

 風呂を上がってからも、幸はずっと恵にべったりだった。夕飯を作るときも、食べるときも、食べ終えてから洗いものをするときも、恵はずっと幸の横にいた。

 いつもなら、

「家事はわたしがやる。兄がいても邪魔になるだけだから、出ていってくれ」

 という言動なのに、今日はその正反対に、

「お願い、一緒にいて」

 と訴える目つきで、恵のことを折りにつけて見つめてくるのだ。

 一昨日の恵なら、

(兄にはそんな妹みたいな態度を取ったことなんてないのに、お姉さんにはでれでれかよ!)

 と、ふて腐れていたところだけど、今夜の恵はそんな刺々しい気持ちにもなれない。午後の一件があったことで、そのあたりの蟠りが多少は解消されたようだった。

(こういうの、雨降って地固まる、って言うのかね)

 恵はそんなことを取り留めなく思考しながら、幸と一緒にテレビを観たり、幸が今日の学校での出来事を話すのを聞いたりして夜を過ごした。

 国彦から数学の宿題プリントをもらい忘れたままだったのに気づいたのは、自室の明かりを消して布団に潜り込んだあとだった。

(しまったな……明日の数学、午後だったよな。昼休みになんとかすれば、まあ間に合うか……って、男に戻っていればの話だけど……)

 布団を引っ被って目を閉じているうちに、恵の意識は深い眠りへと落ちていった。

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