第2話 ○○○が早退した月曜日
月曜日の朝がくる。目覚ましが鳴るのと同時にぱっと瞼を開けて跳ね起きた恵は、まず真っ先に衣装箪笥へと駆けて、戸の裏側に据えてある姿見で自分の姿を確認した。
「……よかった」
緩んだ唇から安堵の溜め息が漏れた。鏡に映っている恵の姿は、ちゃんと男だった。
「まっ、今朝は変な夢を見たりもしてなかったしな」
というか実際のところは、起きた時点で身体が男のままだということは分かっていた。わざわざ鏡を見にいったのは、箪笥のなかから着替えを取り出すついでのようなものだった。
恵はいつものように制服に着替えて、階下へ向かう。
「おはよう」
と声をかけながら食堂に入ったのだが、返事はなかった。恵は、あれ、と首を傾げた。不思議に思ったのは、返事がなかったことに、ではない。食堂にも台所のほうにも、幸のいる気配がなかったからだ。
いつもなら、母親のいない日の朝は、幸は恵よりもさきに起きて朝食や弁当を作っているのが常だ。しかし、今朝は幸の姿がどこにもなかった。台所の流しや冷蔵庫を確認してみても、料理したような形跡もなかった
(寝坊しているのかな?)
恵はそう思って玄関へ行き、三和土と靴箱を見てみる。すると、幸の靴はなくなっていた。
(ということは、幸のやつ、もう学校へ行ったのか? 朝飯も食べずに?)
パンとハムくらいは食べていったのだろうけれど、なんとも幸らしくない行動だ。寝坊でもしないかぎり朝食はしっかり食べていく主義の幸が、時間はまだたっぷりあるのに、ちゃんと食べていかないだなんて……。
(ひょっとして、今日は日直だったとか?)
そう思ったけれど、すぐにそれも違うと頭を振る。
かりに日直だったとしても、時間はまだある。幸だったら、目玉焼きとトースト、生野菜のサラダか野菜炒めあたりを手早く作って、手早く食べてから登校するはずだ。
何も作らずに登校するなんて、やっぱり変だ。何かあったのだろうか――と首を傾げたところで、唐突に理解した。
「あ、そうか……」
考えてみれば、理由はひとつしかなかった。
幸は、恵と会いたくないから、さっさと学校に行ったのだ。
(そりゃそうだよな。ずっと欲しかったお姉ちゃんが、ただの兄に戻っちゃったんだ。そりゃ、顔も見たくなくなるか)
朝、目が覚めたときは、また女になっていなくて安堵したのに、いまは、
(いっそ女になっていればよかったのかも)
と、落胆の溜め息が漏れるのだ。
溜め息は、冷蔵庫のハムとココアとレタス、戸棚の食パンで朝食を済ませる間も、歯を磨いてトイレに行って家を出るまでも、通学路をとぼとぼ歩いている間もずっと、止まってはくれなかった。
●
恵の教室は三年三組なのだが、恵が教室に入るなり、友人が猛突進してきた。
「おい、宝積。おれにあの子を紹介してくれ!」
「おはよう、伊達」
恵は友人のいきなりすぎる言葉を受け流しつつ、自分の机に鞄を置いた。この友人、
「それで?」
と、恵は着席して、鞄を机の横に吊り下げたところで、改めて声をかける。国彦は机にばんっと両手をついて、怖いくらい真剣な顔で言った。
「おれにあの子を紹介してくれ」
「それはもう聞いた」
「じゃあ紹介してくれ」
「誰のことだよ、あの子って」
「あの子はあの子だよ、
「……は?」
一時間目の授業に使う教科書やらを確認しながら聞き流していた恵は、その手をぴたりと止めて国彦を見上げた。
「ひとつ確認するが……さっちゃんというのは、おれの妹の幸のことか?」
「そうだ。他に誰がいる?」
「このクラスにも沙知子っていたと思うが」
「その子のあだ名は"さっちょん"だ……って、そんなことはいいんだ。おれが紹介してほしいのは、さっちょんではなく、さっちゃんの友達の子だ。あ、大人っぽい子だったから、さっちゃんの友達のお姉さんとか? それか、部活の先輩とか?」
「おれは幸の交友関係まで把握していないぞ。だから、その部活の先輩だかお姉さんだかなんだかを紹介することは不可能だ」
取り留めなく続きそうだった会話を、恵はつまらなそうに打ち切る。国彦もそれ以上は追求しようとしなかった。
「まっ、そうだよな。あのさっちゃんが、おれにお友達紹介してくれるわけ、ねぇよなぁ」
「そういうこと」
恵は苦笑いしながら大きく頷いた。国彦は恵と小学生になる前からの付き合いなので、幸がどういう正確の子なのかも、よく知っていたのだ。
「さっちゃん、昔は可愛かったのにな。おれたちの後ろをついてこようとして走って転んで泣いちゃったりとかしてさ」
腕組みをして昔を懐かしみ始める国彦に、恵も、
「そんなこともあったな」
と、適当に調子を合わせながら、途中で止まっていた一時間目の準備を再開させた。
その顔には、この会話にはもう興味ない、という表情を浮かべていたのだが――鞄から教科書や参考書を取り出している手の内側には、びっしょりと汗を滲ませていた。
(おいおいおい! 見られてたのかよ、こいつに!!)
『幸が昨日一緒に歩いていた子』が誰のことなのかなど、その台詞を聞いた瞬間に理解していた。
(誰のことかって? おれのことだよ! 幸が昨日一日ずっと一緒にいたのは、女になったおれだよ!)
何も知らない振りして国彦と話している間中ずっと、恵は心臓が口から飛び出さないかと気が気でなかった。
(っていうか、なんだ? 国彦のやつ、おれを紹介しろだと? 昨日、街中で幸と歩いているおれを見て、おれに一目惚れしたとでも言うのか? 嘘だろ、おいおい!! っていうか、こいつの顔まともに見れねぇ! いま、おれの顔、赤くなっていたりしないよなぁ!?)
――という内心が顔に出ていないかと、気が気でなかった。幸いにも、国彦の反応から察するに、恵は最後までポーカーフェイスで乗り切ったようだが。
ちょうど、恵の健闘を称えるように、始業五分前を告げるチャイムが鳴る。
「ほら、授業が始まるぞ」
「やっべ、一時間目って数学かよ!」
恵が用意した教科書で扇ぐようにして追い払うと、国彦は慌てて自分の席に戻っていった。
そのうちに数学教師が入ってきて授業が始まるのだが、内容はさっぱり頭に入ってこなかった。恵の頭のなかでは、すっかり女気分で買いものしている姿を友人に見られていたという事実がぐるぐる渦巻いていて、他のことを考える余地なんてどこにもなかったのだった。
●
結局、午前中の授業は碌々、頭に入ってこなかった。
「おぅい、宝積。今日は弁当か?」
午前最後の授業が終わって教師が出ていったのと同時に、国彦が声をかけてきた。
恵は席を立ちながら答える。
「いいや、今日は学食だ」
すると国彦は、にやっと笑う。
「おまえ、さっちゃんを怒らせたな。今度は何をやったんだ?」
「おれがいつも何かをやらかしているみたいな言い方は気になるが、まあそんなところだ」
「おまえも大変だな。イギリスの天気より意味不明なさっちゃんのご機嫌伺いしないと弁当も作ってもらえないなんて……いや、機嫌悪くなければ作ってくれるんだから、むしろ優しい? あれ?」
「ほら、行くぞ。早くしないと席がなくなる」
自問自答の末に悩み始めた友人。その肩を叩いて、恵は歩きだす。
「おうっ」
国彦も悩んでいたことなんて即座に忘れて、すぐにそのあとを追った。
廊下に出ると、恵たちと同じく学食を目指したり、学食横の購買でパンを買おうという生徒で賑わっていた。
さきほど恵の言った「早くしないと席がなくなる」というのは、比喩でも大袈裟でもないのだ。とくに、学食は一階にあるから、四階に教室のある三年生は、二階の教室から直行できる一年生に比べて倍の距離を歩かなければならない。慣例として、学食の一角は三年生用ということになっているけれど、それでも五分の遅刻が命取りになるのだ。
恵と国彦が教室を出たのは、昼休み開始の三分後。何事もなければ、多少の余裕をもって席が取れる算段だ。しかし、そういうときほど問題が起きるもので。
「――あ」
廊下を曲がって階段を下りようというところで、恵は急に立ち止まった。
「どうした?」
一歩遅れて立ち止まった国彦が振り向く。
「ごめん。おれ、トイレに寄っていく。さきに行って席を取っておいてくれ」
恵はそう言って謝罪の意味で片手を上げる。
「おう、そうか。席は取っててやるから、ちゃんと手を洗ってからこいよ」
「言われなくても、そうするって」
階段を下りていく国彦にそう返事しながら、恵は階段を通り過ぎたさきにあるトイレへと駆け込んだ。
みんな教室で弁当を広げているか、学食や購買に移動中のために、そのときそのトイレを利用しているのは恵だけだった。それが不幸中の幸いだった。
「……ふぅ」
恙なく小用を終えた恵は、自然と緩んだ唇から吐息を零す。そうしながら、意識する必要もない動作として、排泄のために出していたものを収納し直し、下げていたズボンのチャックを上げようとする。
だが、そこに罠が潜んでいた。一連の所作におけるどの時点で齟齬が生じたのか、決定的な破滅を引き起こしてしまったのだ。
つまりどういうことかと言うと、上げたチャックで、あれを挟んでしまったのだ。
「――ッ!?」
股間から腰椎へと走り、背骨を駆け上がって、いままさに脊髄を叩かんとする激痛の電気信号。その到来を脳が予感した瞬間、神経と神経を繋げている決定的な結び目が、ぶつりと断線した。
断たれたのは、神経だけではなかった。意識そのものが、まるでテレビのチャンネルを変えたみたいに断たれて、別のチャンネルに切り替わった。いや、意識だけではなかった。というより、意識以外の全てだった――切り替わったのは。
恵の身体は女になっていた。
「――ッ!!」
自分の身に二度目の変化が起きたと理解するや、恵は個室に駆け込んだ。だが直後、個室を飛び出す。トイレからも飛び出すと、人目が途切れていることを祈りながらすぐそこの踊り場へ駆け込み、階段を駆け上がった。
身体が女になっても、服装は男子用の制服そのままだ。そんな格好をしたままトイレの個室に閉じ籠もっていたら、昼休みが終わるまで、出るに出られなくなってしまうと思ったのだ。階段を下ではなく上に向かったのは、下には生徒が大勢いるからで、上る以外に選択肢がなかったからだ。
新陽高校の校舎は四階建てで、四階からさらに階段を上ったさきにあるのは、屋上との出入り口がある踊り場だけだ。屋上への出入り口は施錠されているし、扉についている磨りガラスしか採光がないから、昼間でも薄暗い。だから、そこの踊り場で昼飯を食べようなどと考える生徒はいない。というより、屋上に続いている踊り場があることを知らない生徒も少なくないと思われる。
そういう場所だから、恵は緊急時の避難場所として最適だろうと判断したのだった。
ただ避難するだけならば、ずっとトイレの個室に閉じ籠もっていても同じだったかもしれない。だが、この場所がトイレの個室に勝っているのは、助けを呼べるという点だった。
恵は階段を椅子代わりにして座り込むと、携帯で幸にメールを打った。
『女になった。屋上前の踊り場にいる。助けてくれ』
メールの送信から十分足らずで、手提げ鞄を抱えた幸が息せき切らせて階段を駆け上ってきた。恵の姿を見つけるなり、幸は血相を変える。
「お姉ちゃん、大丈夫だった!?」
「あ、幸……」
幸の声を聞いた途端、恵の強張っていた顔は安堵に緩んだ。そんな恵とは逆に、幸はますます心配げに眉根を寄せる。
「その格好、誰かに見られたりしなかった?」
「うん、大丈夫。誰にも見られなかったと思う……たぶん」
恵は自信なさげに頷いた。
トイレから廊下を抜けて階段に駆け込むわずかの間に、誰かに見られていなかったともかぎらない。だが、ここまで幸以外は誰もやってこなかったことを考えると、大丈夫だ、と言い切っていいだろう。
幸もそう考えたようで、ひとまずは顔色を戻した。
「よかった。最悪の事態にならなくて」
「うん……」
幸の言った"最悪の事態"になっていた場合を想像すると、恵の心臓はぎゅっと縮こまる。もし誰かに見つかって、
「女なのにどうして男の制服を着ているんだ?」
と聞かれていたら、答えようがなかった。それだけならまだしも、職員室に連れていかれたりして大事になっていたら、『男の格好をしている女』ではなく『女になった男』だと白状させられていたかもしれない。そうなったら、冗談ではなく転校しないといけない羽目になっていたところだった。
(いや、転校で済めばいいほうだ。捕まってテレビで晒し者にされたり、変な実験されたり、なんてことも……)
一度想像してしまうと、思考は嫌なほうへ嫌なほうへと流れていく。幸の顔を見て一度は血色を戻した顔色が、また青ざめていく。放っておいたらどこまでも落ちていきそうな思考を遮ったのは、意外にも、恵の腹が鳴る音だった。
ぐ~ぎゅるる、と響いた大きな音に、幸が堪らず、ぷっと吹き出した。
「ふっ、ふふ……お姉ちゃん、やっぱりだ……ふふっ」
「やっぱりって何がだよ?」
恵は笑われたことに頬を赤らめ、唇を尖らせる。幸は答える代わりに、脇に置いていた鞄のなかから購買で買ったのだろう調理パンとジュースを取り出して、幸の膝にぽんと乗せた。
「時間的に考えて、これから学食に行こうとした途中で女になったんでしょ。だから、きっとまだ昼食を食べていないだろうなと思ってた」
「その通りだけど……これ、幸が自分で食べるつもりで買ったんじゃないのか?」
「いや、わたしはちょうど食べ終わったところだったから。これは残りもの」
幸はそう言うけれど、嘘だというのは一目瞭然だ。膝に乗せられたコロッケパンはセロファンで包装されたままだし、パックジュースも飲み口の銀紙が剥がされていない。
恵の視線と無言で察したのだろう、幸はふいと微笑する。
「自分で食べるつもりで買ったんだけど、友達のお弁当をもらったらお腹一杯になってしまって。だから、本当に遠慮しなくていい」
「……そこまで言うなら、本当に遠慮しないからな」
恵は結局、空腹に勝てなかった。包装を開けるなり、コロッケパンの半分を一気に頬張る。口をもぐもぐ動かしながらジュースのパックにストローを差して、ずずっと吸い上げた林檎ジュースで口の中身を喉へと流し込む。
勢いよく食べ始めた恵に、幸はくすっとおかしそうに唇を揺らす。だが、その微笑みはだんだんと萎れていった。
「……ごめん」
「ん?」
いきなり謝られた恵は、食べる手を止めて幸を見やる。
「謝られるような心当たりがないんだけど……」
恵が不審げに聞き返すと、幸はますますしゅんとしてしまう。恵は何か声をかけるべきかと迷ったけれど、そうして逡巡しているうちに幸は重たげに唇を持ち上げた。
「今朝のこと」
「え?」
「だから、今朝のことを謝りたかったの」
察しの悪い恵に、幸は眉間に皺を寄せたのだけど、その皺もすぐに消えて、吊り上がった眉根もまた、への字に下がる。
「今朝、朝食も作らないで家を出たこと、ごめんなさい」
「え……いやいや、それはべつに謝ることじゃないだろ。むしろ、おれのほうが毎日感謝しないといけないくらいのことだし」
恵としては、かなり恥ずかしいことを言ってしまったな、と自分で照れてしまうくらいの台詞だったのだが、幸の曇った顔を晴らすことはできなかった。
「いや、おれは本当に気にしてない――」
「違う」
なおも元気づけようとした恵の言葉を、幸は大きく頭を振って遮った。
「違う、そうじゃないの……わたしが本当に謝りたいのは、今朝のことじゃない。昨日のことだ」
「昨日?」
「……昨日、兄が男に戻ったことを喜んでいたとき、わたしは一緒に喜んであげられなかった。ごめんなさい」
「……」
「今朝も謝ろうと思っていたのに、兄がまだ怒っているかもと思ったら怖くなって、ご飯も作らずに飛び出してしまった……ごめんなさい、本当に……ごめんなさい」
幸は深々と腰を折って、二度も三度も謝罪の言葉を重ねた。そのときの恵はといえば、すっかり放心した様子で固まっていた。
(幸が……あの幸が、おれに謝っている……? おれが怒っていると思っていた? 怒られるのが怖かった……?)
幸の神妙な態度からは、嘘や冗談を言っているようには思えなかった。だけど恵のなかにある幸のイメージと、いま目の前で蹲るようにして謝っている実物の幸とでは、まったく印象が重ならない。
(まさか偽物じゃないのよな……)
恵はわりと本気でその可能性を疑った。または、自分の身体が女になったみたいに、幸の心が女らしいものに変わってしまった可能性もあるのではないか、とも思った。
だが、その疑念を口に出して問い質そうかと思った矢先、恵はふいに理解してしまった。
(ああ、そうか。おれがいま、お姉ちゃんになっているからか)
兄には謝れないけれど、お姉ちゃんになら謝られる――幸はいま、そう言ったのだ。少なくとも、恵はそう宣告されたように思ってしまった。
(……べつにいいけどさ)
と胸中で強がってはみたものの、やはり面白くない。
恵は、低頭している幸に何か安心させることを言ってやるべきだと思いつつも、奥歯に小骨が挟まったような漠然とした不愉快さが邪魔をして、何も言えずにいるのだった。
と、そこに恵の携帯が鳴って、メールの着信を告げた。
『遅いぞ。大便か? つか、さきに食ってる』
「あ……忘れてた」
恵はすぐに『悪い。今日は他で食べる』と返信した。
「メール、誰から?」
顔を上げた幸がいつもの抑えた声で聞いてきた。恵がメールを返している間に、いつもの調子を取り戻したようだった。
そのことに恵はほっと胸を撫で下ろしながら答える。
「伊達だよ。一緒に学食へ行く途中、おれだけトイレに寄ったところで女になっちゃったんだ」
「ああ、伊達さん」
そう言った恵の眉間にうっすら皺が寄ったのを見て、恵は苦笑した。国彦が幸のことを知っているように、幸も国彦の為人をよく心得ていた。
「兄はまだ、あのひとと友人なんだ」
「ははは……」
「付き合うなとは言わないけれど、わたしのことを馴れ馴れしく『さっちゃん』と呼ぶのだけは止めさせて」
「うん、本人に言っておく」
恵は乾いた笑いを浮かべながら、適当に頷いておいた。幸が『さっちゃん』と呼ばれるのを嫌がっているのは、国彦もとっくに知っているのだ。幸から直接、「馴れ馴れしく呼ぶな」と言われたこともあるのに、いまだにその呼び方は直っていない。幸が折りにつけて「あのひとに呼び方を改めさせろ」と言うのは、もはや、ちょっとした恒例行事なのだった。
「ああ、それはそれとして、」
幸は思い出したように言うと、手提げ鞄のなかから体操服のジャージ上下を取り出した。
「その格好じゃ、誰かに見られたときに目立ちすぎる。こっちのほうがまだ誤魔化せると思うから、着替えて」
「あ、うん。わざわざありがと」
恵はジャージを受け取ると、いま着ている男子用制服を脱ごうとして――その手を途中で止めた。
「……幸」
「なに?」
「後ろを向いてて」
「あっ、ごめん」
横に座っている恵をじっと見ていた幸は、ぱっと正面を向いて階段の下を見る。恵もジャージを抱えて、踊り場の奥へ行ってから着替えを再開させた。いまは女同士とはいえ、日曜日の下着屋でさんざん裸を見られたとはいえ、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
「む……」
着替えていた恵が小さく呻いた。
「どうしたの?」
前を見たまま尋ねる幸。
「いや、大したことじゃないんだけど」
と言いながら、恵は幸の隣に座りなおした。着替えは終わっていて、ジャージを上下とも、ちゃんと着ている。どこに呻くような問題があったのだろうか、と小首を傾げた幸に、恵は苦笑いを浮かべる。
「いや、さ……胸と尻がちょっときついな、と思って」
「……我慢して!」
幸はびっくりしたように口籠もったあと、柄にもなく頬を朱色に染めた。そして、照れ隠しするような早口で話題を換える。
「そんなことより、これからどうするかを考えないと。もうあと十五分で昼休みが終わっちゃうんだから」
「ああ、そうだった」
恵も真顔になると、首を捻って考え始める。
「うぅん……このまま教室に戻るわけにはいかないよな……」
「それができたら、こんなところに隠れてないでしょ」
「だよなぁ」
「予鈴が鳴るまでに元へ戻らなかったら、午後の授業は諦めるしかない」
「……だよなぁ」
恵にも、幸がいま言った以上の名案は思いつかなかった。結局のところ、女になってしまった以上、他に方法はないのだ。
もう一度深々と溜め息を吐く恵に、幸は努めて無感情に述べていく。
「いま下校しようとすると目立つかもしれないから、放課後になるまで、ここに隠れていたほうがいい。放課後になってから帰ろう」
「それが最善か……あ、待て。鞄を教室に置いたままだ」
「鞄なら、わたしが回収しておく。そのときに、兄は風邪をひいて早退した、と言っておけば万事問題ない」
「ふむ……じゃあ、それで頼む」
恵が頭を下げると、幸もこくりと頷いた。そこに、午後の授業開始五分前を告げる予鈴が鳴る。
「じゃあ、わたしは行くけど、何かあったらメールして」
「うん」
「……じゃあ、放課後に」
幸は、幸にしては珍しく、後ろ髪を引かれるように二、三度、恵のほうを振り返りながら階段を下りていった。
幸が行ってからしばらくは、階下から教室へ急ぐ生徒たちの話し声などが微かに聞こえていたけれど、そのうち本鈴が鳴ると、辺りはしんと静まりかえった。さすがに、戸を閉めた教室のなかで授業している物音までは聞こえてこない。
「……」
いつもなら、授業を受けている時間。小テストを受けている間でも、紙を捲ったりペンを走らせたりする物音が聞こえている。なのにいまは、学校からひとが消えたかと錯覚するほど静かだ。
ひどく落ち着かない。
「……」
最初は携帯を弄って、ネットを眺めたり、ゲームをしたりして時間を潰していたのだけど、階段を誰かが上って気やしないかと気にしながらでは、まともに液晶を見ていることもできない。それで結局は、何もしないでぼんやりと考え事をして放課後を待つのだった。
考えていたのはもちろん、これからどうなるのか、だ。
(さて、危惧していたことが現実になってしまったわけだが……本当、明日からどうしよう。本気で転校しかないのか?)
それは、日曜日の朝、幸に指摘されたときから心配していた問題だ。だが、そのときから微妙に状況は変っている。あのときは、『このままずっと男に戻れなかったら』という過程での話だった。しかしあれから、『男に戻って、また女になった』という事実が累積されている。そうなってくると、また事情が変わってくるのだ。
(かりに転校したところで、また女から男に戻ったら同じことだ。だったら、転校することを考えるより、もう一度男に戻る方法を考えたほうが妥当だよな)
そう考えると、再び女になってしまって落ち込んでいた気持ちも前向きになってくる――が、またすぐに眉根が寄った。
「戻れる方法が簡単に分かるなら、苦労しないんだよ」
自分自身の楽観に向けての愚痴は思いの外、大きく響いた。恵ははっとして口を噤むと、なんの物音もしないことを確かめる。
(おれ、神経質になってるな……)
ついつい溜め息が漏れるけれど、ぶるっと頭を振って弱気を追い払う。
(いやいや。そんなに悲観的になることもないさ。一回元に戻っているんだから、今回だってしばらくしたら自然と男に戻るって)
昨日は風呂に入っている最中、気がついたら男に戻っていた。ということは、今回だってそんなに狼狽える必要はないのだ。悲観して状況がよくなるわけでもなし、せいぜい楽観的でいたっていいじゃないか。
(うん、そうだ。その通りだ)
また気分が浮上してくる。ところがまた、でも……、と逆説の思考が過ぎるのだ。
(でも、二度あることは三度あると言うし……今回、また男に戻れたとしても、そのあとでまたまた女になっちゃうかもしれないよな)
今回は誰もいないトイレのなかでだったから、まだよかった。だけど、たとえば授業中に三度目の性転換が起きてしまったりしたら……。
「……うぁ」
想像しただけで、脇の下にどっと冷や汗が滴るのだ。
一度目に性転換が起きたのは、寝ていたときだ。とすると、授業中に居眠りしてしまったせいで女になってしまう可能性もありうる。
「い……いや、そうだな。逆に考えれば、これからは居眠りしないように心がけられるということじゃないか。よかった、よかった……ははは……」
無理に笑ってみたものの、空っ風みたいな笑い声しか出ない。
弱気の虫がまた大きくなり始めてきたのを感じて、恵は大きくぶるっと頭を振った。
(駄目だ、駄目だ。もっと前向きに考えよう!)
頬を両手で叩いて、無理やりに気持ちを切り替える。
(この性転換が何度も続くようだったら、そのうちタイミングを読めるようになったり、自分の意思で性転換するコツを掴めたりするかもしれない。そうしたらほら、きっと便利だぞ、すごいぞ!)
自分でも無理がある話だと思っているけれど、必死で気づかない振りをして妄想を続ける。
(たとえば、映画館のレディースデイで安く映画を見られるぞ。あとは、カラオケにも女性だけ割引になる日があったし、他にはええと……あっ、レストランとかラーメン屋にも、女性だと安くなるメニューがあったような気がするな。おお、こうして考えてみると女性になったほうが結構お得なこと、多いじゃないか)
なんだか趣旨がずれてきたな、と心の片隅で苦笑している自分がいるけれど、それも無視して恵は続けた。
(でもなんで、レディースデイはあるのにメンズデイはないんだ? いや、それとも、おれが知らないだけで、男性だと安くなる日があるのか? うぅん……ちょっと思いつかないな。もしかして世の中、女のほうが得なのか? だとしたら、おれもこれからは半分、得できるようになるってことか!)
「あはは、やったね」
恵の口から出てきた笑い声は、さっきの以上に乾いていた。
そうして、月曜日の午後は、わりと無為に過ぎていった。
●
本日の全授業が終了したことを告げる鐘が鳴ると、ほどなくして階下からの喧騒が聞こえてくる。直下の階に並んでいるのは三年生の教室だけど、授業が終わった解放感で声が大きくなるのは、一年生や二年生と変わらないようだ。新陽館高校は大学付属の高校なので、三年生は大学受験を控えてぴりぴりしている――ということはないのだ。
(それに、まだ四月だ。いまから一年後のことに身構えていたら、このさきやっていられないもんな)
などと胸中で独りごちていると、携帯にメールがきた。幸からだ。
『掃除当番が終わったら、すぐに行く』
恵がそのメールに『わかった』と返信してからおよそ十分後、自分のリュックを背負い、恵のリュックを胸元に抱えた幸が、息を弾ませながら階段を上がってきた。
「ごめん、お待たせ。何もなかった?」
「うん、大丈夫。何もなくて寝ちゃいそうだったくらいだよ」
本当は取り留めない思考が止まなくて居眠りするどころではなかったのだけど、それは言うほどのことでもない。
「そう……よかった」
幸はリュックをふたつとも踊り場の床に下ろすと、恵の隣に座って口元を綻ばせた。
「ありがとうな、鞄を持ってきてもらって」
恵は申し訳なさそうに感謝を述べた。幸は、ううん、と首を小さく横に振る。
「先生には、兄は風邪をひいて早退した、と言っておいた。今度からは保健室に寄ってから帰るように、だそうだ」
「本当に風邪をひいたときは、そうするよ」
冗談めかして苦笑したところで、恵はいまさらながら、あることに思い至った。
「あっ、そうだ。幸、部活はいいのか?」
恵は心配そうに眉根を寄せて、幸を見た。幸は勉強漬けの毎日を送っているように見えるが、じつは茶道部に入部していて、毎日小一時間ほどを茶室で過ごしてから下校するのが日課だった。
「大丈夫。気にしないで」
申し訳なさそうな恵に、幸は口元を緩めながら頭を振った。
「部活と言っても、あれは茶室で適当に寛いでいるだけ。べつに行かなくても問題ない」
「え、そうなんだ……いや、うん。なら、いいんだけど」
恵はぱちくりと目を瞬かせた。恵のなかでは、幸は毎日、真面目に茶道の練習をしているものとばかり思っていたからだ。茶道の練習というのがどんなものなんかは想像できないけれど、とにかく、『適当に寛いでいるだけ』などという形容からはもっともかけ離れた活動内容を想像していたのだ。
「わたし、何か変なことを言った?」
狐に抓まれたような顔をしている恵に、幸のほうも不思議そうに小首を傾げる。
「あ、いや、なんでもない……って、そうか」
恵は笑って誤魔化そうとして、とても当たり前なことに気がついた。
「鞄を持ってきてもらったんだから、ここで別れてもいいんだよな。おれだけさきに帰って、幸は部活に行く――でもさ」
恵はなぜかずっと、このまま幸と一緒に下校するつもりでいたのだが、べつにそんな必要がないことに、いま気づいたのだった。
言われたほうの幸は、何を言っているの、という顔をする。
「……何を言っているの?」
顔に出しただけでなく、声にも出して言った。
「いや、だから……」
口籠もった恵に、幸はむっと眦を吊り上げる。
「わたしが、大変なことになった兄を一人にして、のほほんとお茶できるような人間だと思っているの?」
「……ごめんなさい」
素直に謝る恵。
幸は、分かればいいんだ、という態度で鼻を鳴らした。
「ええと、それじゃあ……帰る?」
恵がおずおず提案すると、幸は少し考える素振りをしてから却下した。
「まだ、ひとが多い。もう少し待とう」
「ああ……そのほうがいいか」
大して考えもせずに恵は頷いた。幸の意見はいつでも的確なのだ。
それから十五分ほど時間を潰してから、ふたりは下校した。いまは陸上部の練習で校庭を走ったりしているだろう国彦と出会してしまうことだけは避けなければならなかったから、いつもなら校庭を横切って正門から帰るところを、裏門から出て塀沿いにぐるりとまわる道筋で帰ったのだった。
買いものは昨日の分がまだ残っているので、ふたりは寄り道せずに帰宅した。
家に入ってからも、夜になって入浴したあとも、寝る時間になっても、恵は女のままだった。そして翌朝、目が覚めてもまだ女のままだった。
目覚まし時計の音で跳ね起きた瞬間、胸にメロンをぶら下げているみたいな重さを感じて、恵は息をするのも忘れるほど絶句したのだった。
(ど……どうしよう……これじゃあ、どうやって学校に行ったらいいんだ……?)
心の声に、どこからか答えが返ってくることはなかった。
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