ある日、○○○が家出した!

雨夜

第1話 ○○○が家出した日曜日

 四月も後半に入り、舞い散った桜の花に代わって鮮やかな緑が木々を彩り始めるようになると、私立新陽館高校の学舎で今日も今日とて勉学に励んでいる学生たちからも、新学期が始まってすぐ頃にあった高揚感が薄らいでくる。代わって彼らの頭を占めるようになるのは、あと一週間にまで迫った大型連休をどう過ごそうかという楽しい想像だ。

 部活に燃える者もいれば、塾や予備校の講習だという者もいるだろう。家族で、あるいは友人たちと、もしくは独りで旅行しようと準備している者もいることだろう。

 この春で新陽館高校の二年生になった穂積恵ほづみ さとしも、連休を前にして訳もなく胸を躍らせている男子高校生のひとりだった。

 身長は百七十センチと高いほうだが、筋肉も贅肉もないために、ひょろりと細長い印象の見た目をしている。顔立ちはといえば、これまた良いわけでもなく、かといって悪いわけでもない。ただし、男らしさという形容からはかけ離れていて、よく言えば中性的な顔つきだ。女性受けはけして悪くないが、だからといってもてるわけでもない。運動には興味がなく、かといって勉強熱心だったり天才、秀才だったりすることもなく、また他に自慢できるような特技があるわけでもない。

 いまどきの草食系男子、という言い方をすれば聞こえは悪くないかもしれないが、はっきりと言ってしまえば、異性に対して訴求できる魅力を何ら具えていない青年だった。

 思春期の青年にとって、それは由々しき事態だ。恵としても、女の子にもてるようになったらいいな、と思ってはいる。いるのだが、もてるために何かしようというほど、本気でもてたいと思っているわけでもない。そのあたり、恵はまだまだ思春期の度合いが足りていないようだった。

 さて、四月末から五月始めにかけての大型連休を間近に臨んだ日曜日。

 気の早い人間は昨日、一昨日から自主休校なり有給休暇なりを活用して長期休暇を始めているともいうが、穂積恵たち普通の高校生にとっては明日もまだ普通の月曜日だ。私立高校にもピンからキリまであるけれど、新陽館高校は県内でもわりとピンのほうに当たるために、真面目な学生が多いのだ。恵もそのご多分に漏れず、いまいち熱意に欠けたところがあるけれど、根は真面目な生徒なのだ――たぶん。

 その真面目な生徒であろうところの恵はいま、自宅の自室のベッドでぐーすかと鼾を掻いている。だが、それも当然だろう。平日ならばいざ知らず、いまは日曜の早朝なのだ。

 まだ空には夜の紺色が余韻を残しており、外を歩いているのは散歩中の犬とその飼い主、それに新聞配達のスクーターくらいで、居並ぶ住宅はどこもかしこも寝静まっている。学校がある平日の朝でだって、もっと太陽が昇りきってから起きる恵が、日曜のそんな朝早くに目を覚ますわけもなかった。

 普段は寝坊しないようにセットしている目覚まし時計も、今朝は沈黙を守っていた。

 宝積家は一軒家だが、恵の父は単身赴任で他県に部屋を借りている最中だ。母も、一昨日から今週末までの日程で父のところへ泊まりに行っているから、いま宝積家にいるのは恵と、恵とは一歳違いの妹、さちのふたりだけだ。

 恵と同じ高校に通っている幸も、日曜の朝にまで早起きする趣味はないから、宅内はしんとしている。恵の朝寝を邪魔するものはない。おかげで、窓の向こうから微かに聞こえてくる雀の声を子守歌にして、恵は悠々と夢の世界に漬かっていられるのだった。

 まるで穏やかな休日の朝朗。

 たったひとつ残念なことがあるとすれば、眠る恵の見ている夢が、十七年の生涯において最低最悪の悪夢だということだった。


 夢のなかで恵は、妹の幸から逃げていた。

 恵が小さくなったのか、それとも幸が巨大化したのか、幸は恵の三倍くらいの大きさになっていて、恵は必死の思いで走っているのに、悠然と歩く幸からまったく逃げられない。それどころか、逃げる途中で振り向くたびに、幸の姿はずんずんと近づいてきている。助けてくれ、と叫んでも、周りには誰もいない。そのうちに、走り疲れて足がもつれてきて、最後にはとうとう転んでしまった。夢だからか痛みはないのだが、焦りと恐怖は現実以上に強烈だ。あわわ、と泡を吹きながら身を起こすが、腰が抜けているのか、立ち上がることができない。それでも両手で這うようにして上体を起こし、いつの間にかそこにあった壁に背中を預けて背後を振り返る。

 振り返ったそこには、広角レンズで写したかのように全身を大きく引き伸ばされた幸が立っていて、いつもどおりの冷淡な顔で恵を睥睨していた。

 止めてくれ、と恵は懇願するのだけれども、幸の態度は変わらない。何を考えているのか分からない無表情のまま、いっそ緩慢な動きで右膝を持ち上げていく。

 ひゅっ、と声にならない悲鳴を漏らす恵。幸が何をしようとしているのかが分かるのに、身体は金縛りにあったかのように動かせない。腰が抜けて立ち上がれないのならば、せめて体育座りに丸まって身を守ろう――と藻掻くのだが、それも叶わない。背中を壁に預け、両手は腰の横。そして両足はだらしなく、がに股気味に投げ出されている。

 膝蹴りをするように持ち上げられた幸の右足――なぜか、幸が実際には持っていない光沢つやつやなエナメルのロングブーツを履いている――は、やがて空中でぴたりと動きを止める。

 や、止めてくれ……。

 幸が何をするつもりなのかが分かっているから、恵は尻餅をついた蟇蛙のような格好のまま、蟇蛙のような声で呻く。だが、幸はまるでその声が聞こえていないかのように、眉ひとつ動かさない。

 や――。

 止めてくれ、と恵はもう一度訴えようとしたが、もう遅かった。現実より三倍ほども巨大な幸の右足は断頭台の刃のように振り下ろされて、恵が無防備に晒している股間のあれを、慈悲深いほど無慈悲に踏み抜いた。


「うぎゃあああああぁあああッ!!」

 恵は自分自身の絶叫で飛び起きた。眠気は欠片すら残らず吹っ飛んでいたが、さきほどのが夢で、いまが現実だということを理解するまでにはしばらくの時間を要した。それほどに、さきほどの夢は生々しかったのだ。

 もちろん、本来は恵よりも小柄なはずの幸が巨大化していたり、持ってもいないデザインのブーツを履いていたり――と、現実的ではなかった。だが、そんなことが気にならないほどの臨場感に満ち溢れた夢だった。

 標本の虫を見るような目で睥睨される恐怖。逃げたいのに逃げられない絶望感。そして、股間の愚息を踏み潰された瞬間に爆ぜた激痛――そのどれもが、

(さっきのが現実で、いまが夢だ、なんてことはないよな……?)

 と疑わせるほどに生々しかった。

 こうして覚醒しているいまでさえも、夢のなかで味わった恐怖、絶望、痛みを鮮明に思い出すことができる。

(とくに最後の、踏まれたときの痛みは……うぅ!)

 思い出した激痛に、恵はぶるぶるっと身を震わせる。それで気がついたのだが、パジャマ代わりにしているティーシャツと短パンの内側は、服地では吸いきれなかった大量の冷や汗でべしゃべしゃだ。

「う……っ」

 恵はまた身震いして、冷や汗というのが本当に寒気を催させるものなのだと痛感していた。

 だが、ベッドに上体を起こした体勢のままでしばらくじっとしていると、震えと寒気も嘘のように引いていく。カーテンの隙間から差し込む日差しに青く染められる部屋にぼんやり視線を巡らせているうちに、曖昧になっていた夢と現実の垣根がはっきりとしてくる。絶叫するほど恐ろしかった悪夢も、いまやとっくに垣根の向こう側だった。

(そうだよ、あんなのは夢だ。潰される夢なんて最悪だったけれど、夢だったんだ……よかったぁ……)

 強張っていた頬も、差し込む日差しの色が、夜明けの青から朝の透明へと変っていくにつれて緩んでいく。

「そうだ、夢だったんだ。ただの夢だ」

 声に出してみると、悪夢の余韻はもう本当に消えてなくなった。夢のなかで股間のものを踏み潰された瞬間に感じた、絶望を物理的エネルギーとして具象化させたかのような激痛も、もうよく思い出せない。

(それにしても、どうしてあんな夢を見たんだよ……ああ、そうか)

 悪夢を見た理由には、すぐに思い至った。昨日、幸が取っておいた黄粉プリンをうっかり食べてしまったからだ。夕食後に「わたしのプリンを知らないか?」と尋ねられて、「あ、ごめん。余っているのかと思って……」と答えたときに幸が見せた目つきは、夢のなかで恵を見下ろしていたときの、死んだ虫を見るかのような目つきそのものだった。

(そりゃあ、悪かったのは、勝手に食べちゃったおれだけどさ。でも、あんな目で見ることないじゃないか……)

 あのときの幸の目を思い出すと、一度は引いた冷や汗が、またじわりと滲み出してくる。

(うっ、服のなかがべちゃべちゃして冷たいし気持ち悪いし……着替えるか)

 恵はそんなことを思いながら、ティーシャツの裾に手をかけて脱いでしまおうとした。そこでようやく、気がついた。

「……え?」

 思わず呟いた瞬間、すぐ近くから女性の声がしたような気がしたけれど、いまはもっと重要なことがある。シャツを脱ごうとして視線を下に向けるや、視界一杯に映し出されたもののことだ。

 それはどう見ても――

「お、ぉ……お、おお、おおおっ! おっぱい!?」

 恵が着ているティーシャツの胸元を内側からたっぷりと押し上げているのは、紛れもなく胸だった。もっと正確に言うなら、乳房だった。それも巨乳といって差し支えない、量感たっぷりの大きくて重たい乳房だった。

 そう、重たいのである。

「ま、待てよ。ちょっと待て……」

(重たいと感じているということは、これはやっぱり、まさかとは思ったけれど……やっぱり、おれの胸なのか?)

 シャツの裾に手をかけ、自分の胸を見下ろしたまま固まっている恵。頭のなかでは、いま目に映っているものをどうにか現実的に解釈しようとして、思考回路が全力稼働している真っ最中だ。

(落ち着け、落ち着いてよく考えろ。ええと、まず……これはおれのシャツだ。寝る前にこのシャツを着て布団を被った憶えがあるから、それは間違いない。で、裾を掴んでいる両手も、おれの手だ。握って、開いて……うん、これも間違いない。じゃあ本題だが、)

 恵はそこで目を瞑り、大きく深呼吸した。

 身体中から吹き出す汗が少しは引いたような気がする。多少なりとも落ち着いたところで、恵は改めて自分の胸元を――ティーシャツの襟ぐりから深い谷間を覗かせている豊満な乳房を、じっと見下ろした。

「見るだけじゃ分からないし、仕方ない……よな、うん」

 口のなかで転がすような小声で自分自身に言い訳すると、恵はシャツの裾から手を離して、そろりそろりと割れ物に触れるみたいな手つきで自分の胸へ手を寄せていく。

「……」

 ぐびり、と喉が鳴る。豊満な膨らみの奥底で心臓がどっかんどっかん暴れている。息も上がってくるし、身体も熱くなってくる。さっきまでの冷や汗とは違う、興奮の汗が脇の下を伝う。

(って、待て待て。何を緊張しているんだよ、おれは! 一見すると女の胸っぽいけれど、これは紛れもなく、おれの胸なんだぞ。自分の胸に触ろうとして興奮するなんて、おれはナルシストか? 違うだろ!)

 そうやって興奮することはないんだ、と自分に言い聞かせてみても、興奮は収まらない。恵はただでさえ女性に免疫があるとは言い難いのに、胸元にある膨らみは、雑誌のグラビアを飾っていてもおかしくないほどの巨乳だ。その胸に触るのだと思うと、どうしたって興奮を禁じ得ないのだった。

「……ええいっ、いつまでこうしてたって始まらない!」

 恵は鋭く息を飲むと覚悟を決めて、両手で胸を鷲掴みした。

「ひっ!?」

 力一杯に握り締めた瞬間、刺激が胸から背骨を通って脳髄へと突き抜けた。

 びくっと背筋を伸ばした恵の耳に、どこかすぐ近くから女性のあられもない声が聞こえてくる。

 いや、そうではない。女性の声は外から耳に入って鼓膜を震わせたのではなく、頭蓋骨の内側から響いてきていた。

「えっ、ぇ……これ、おれの声……」

 恵はいまさらながら、さっきから呟いたり呻いたりしていた自分の声が、自分の知っている自分の声とは違うものに――男声ではなく女声になっていたことに気がついた。

(あ、そうか。身体が女になったんだから、声だって当然、女の声になるよな)

 気づいてみれば、驚くまでもないことだった。胸から上げた右手で喉を触ってみると、喉仏の硬い感触がない。胸が膨らんでいたことに比べれば些細な変化かもしれないけれど、自分の発する声が女のものになったのだという自覚は、自分の身体が女になってしまったのだということを、恵に強く意識させた。

「おれが……女に……」

 呟きながら、喉に添えていた右手を再び、胸の膨らみへと押し当てる。

「ん……っ」

 ぱつぱつに張り詰めたティーシャツの上から掌をそっと押し当ててみただけで、ぴりっとした微弱な電流が肌の内側を走る。ティーシャツの裏地が擦れる肌の感触のみならず、たゆんと弾む脂肪の重さや、その内側を走る神経までもが、この豊満な膨らみはゴムやシリコンなどでないことをはっきりと物語っていた。

「これ、やっぱり本物なんだよなぁ……いや、分かってたけどさ」

 正直なところ、それが本物か偽物かなんてことは、最初から分かっていた。ただ、そんなことあるはずがない、という常識的思考の重力圏から脱出して、そんなこともあるんだなぁ、という境地に達するまでに、ここまでの時間がかかったのだった。

 悪夢が醒めてすぐの混乱も収まってくると、ようやく自分自身をもっとよく確かめてみようという意思が湧いてきた。

 恵はカーテンをすっかり開け放ってベッドから下りると、ロッカー型の洋服箪笥へ向かう。両開きの戸を開けると、その戸の片側裏面には大きな姿見が据えつけられている。恵は一度だけ唾を飲み込んでから、その姿見に身体ごと向き直った。

 鏡に映っていたのは、見たこともない――いや、どこかで見たことがあるような顔立ちの少女だった。少女が誰に似ているのかは、もはや悩むまでもない。男女の性差からくる違いはあれど、恵自身とよく似た印象の中性的な面差しだった。とくに、二重瞼と長い睫毛に縁取られた円らな瞳は、友人たちから「おまえって目元だけ見るとイケメンだよな」とからかわれたこともある恵の瞳そのものだった。

「……つまり、」

 恵は鏡に映る少女に向かって話しかける。

「この女はやっぱりおれで、つまり、おれは女になってしまったというわけですか」

 そう声に出して言ってみると、笑わずにはいられなくなった。

 恵が笑うと、鏡のなかの少女も諦念の顔で笑う。恵がなんとなく右手を挙げてみると、鏡のなかの少女も左手を挙げる。恵が首を左右に振れば、鏡のなかの少女も同じ仕草で首を左右に、いや左右に振る。

 何度確認しても、この少女は恵自身だ。その事実はもう諦めとともに受け入れている。いま恵が気になっているのは、女性になったことで、どこがどう変ったのか、だった。

「まず、胸だよな」

 身体は女性になっても、精神面では思春期真っ盛りな高校生男子のままだから、やはり視線は胸へと真っ先に向かってしまう。

「……幸よりもでかいな」

 恵は妹の胸を思い出してみて、その重量感の違いに真顔で唸る。

 鏡に映る少女(つまり恵自身)の顔立ちは、男性のときの恵と同じく、十七歳程度のように見える。きっと年齢的な変化は起きていないのだろう。とすると、幸とは十四ヶ月しか違わないことになるのだが、胸のサイズだけは十年分くらいは違って見える。これは、幸の胸囲が平均未満なのか、それとも女になった恵の胸が平均以上なのか――。

「両方とも、だろうな」

 恵はそう結論づけると、苦笑を漏らした。笑ったときの唇が少しいやらしい感じに緩んでいたのは、自分自身の胸につい見蕩れてしまっていたからだ。しかし、恵はすぐに自分がにやけていることに気づいて、はっとした顔で唇を引き締める。

(おれ、鏡の前で何をやってるんだよ……ひとりで馬鹿みたいじゃないか、まったく)

 恵はぶるっと頭を振って恥ずかしさを振り払うと、胸以外の変わったところを探しにかかった。

 すぐに気がつくのは、髪だ。男のときはごく一般的な短髪だったのが、いまは肩口に毛先がかかるくらいの長さにまで伸びている。長さだけでなく髪質までも変わっているようで、襟足の髪を指で掬い上げてみると、洗髪料の宣伝みたいに指の隙間からさらさらと流れ落ちる。その手触りの心地よさに、思わず二度、三度と指を絡ませてしまったほどだ。

 そうして髪を触っているうちに、次の疑問が湧いてきた。

 恵はシャツの半袖から伸びている両腕を左右交互に持ち上げて、鏡に映す。続いて、短パンから伸びている両脚でも同じことをする。そして、ほぅ、と感嘆めいた吐息を漏らした。

「毛、抜けたのか……」

 恵も男性だから、腕はそうでもなかったけれど、脛や太腿にはそれなりに毛が生えていた。だけどそれが、いま鏡に映して確認してみたら、腕も脚もつるつるになっていた。

(まあ、当然と言えば当然なのかもな)

 恵は鏡に向かって、声に出さずに独りごちる。

 自分の身体を改めて見つめてみれば、骨格からして完璧に女性なのだ。これはもう、ただ単に元々の男の身体から股間のあれがなくなって、代わりに胸が膨らんで、髪が伸びたり、臑毛が抜けたりして女性に変化したのだ――と考えるよりも、オタマジャクシが蛙になったり、蛹が蝶になるような次元で女性に変態したのだ、と受け止めるほうが自然なように思えた。

(まあ、ある意味でよかったんだよな。男っぽさが微妙に残っているよりは、このくらい完璧になくなっているほうが、さ)

 恵は鏡を見たまま力なく自嘲する。そこに映っている少女は、何度見ても、どこからどう見ても、疑いようもなく少女だ。シャツの裾を捲ってみれば、腰も女性らしく括れている。

「……」

 恵は無言で、捲っていたシャツを下ろす。自分の身体だと分かっていても、女性のお腹や腰まわりの肌を見ていることに恥ずかしさを覚えてしまったからだ。

 というか、かなり重要なことに気がついてしまった。

「これ、結構……美人だよな」

 恵がそう呟いて喉を鳴らすと、鏡のなかの少女も同じような仕草をして頬を火照らせた。

 恵は元から男っぽさに欠けた容姿体型ではあったけれど、いまの姿はもっとはっきりと女らしい。身長はおそらく百七十センチのままで変わっていないし、目元なんかはとくに元の印象そのままだけど、それらの要素でさえ、凛々しい、という印象を生み出すための装置になっていた。

「モデルとかレースクイーンとか、いけるんじゃないか?」

 そんなことを呟きながら、恵はきゅっとくねらせた腰に両手を添えて、それっぽいポーズを取ってみたりする。

「お、ぉ……おぁ!?」

 鏡のなかの自分に見入ってしまった恵は、自分自身に見蕩れたという事実に驚いて、ぱっと両手を離す。その途端、バランスを崩して足を縺れさせ、どてっと尻餅を着いてしまった。

「いったぁ……」

 お尻を擦りながら起き上がった恵は、また洋服箪笥の姿見を見ようとして、そこで動きを止める。

「いや、もう止めておこう」

 恵はそっと箪笥の戸を閉めた。休日の朝早くから自分自身に見蕩れるだなんてことは、少しでも素に戻ったらできないものだった。

「さて、どうしようか」

 目覚まし時計を確認すると、まだ午前七時前。いつもなら、起きたとしても二度寝するところだが、今朝はもうすっかり目が覚めてしまっている。

「……うん。朝ご飯でも食べるか」

 汗だくで起きて、緊張したり興奮したりと忙しかったからか、気がつけば、恵の腹は臍が背中にくっつきそうになっていた。

 この時間なら、幸はまだ隣の自室で寝ているはずだ。一階に下りて冷蔵庫のなかを漁っていても、下りてくることはないだろう――恵はそう判断すると、音を立てないように気をつけながらドアノブをまわして部屋を出た。

 廊下に出るとまず、隣室のドアが閉っていることを確認する。次いで耳を澄ませ、室内から物音がしないことも確かめると、踵を浮かせて静かに歩き、階段を下りた。恵と幸の部屋は二階にあり、台所は一階にあるのだ。

 居間兼食堂の奥にある台所へ入ると、冷蔵庫からココアを取り出して、グラスに注がず、パックに直接口をつけて、ごくりごくりと喉を鳴らす。

「……っはあ」

 胃袋から身体中へと染み渡る冷たい甘さに、恵はようやく人心地がついた。

 喉の渇きが癒えると、へっこんだ腹が、次は自分だ、と訴えてくる。恵はその訴えに従って、

(すぐに囓りつけるハムがあったはず)

 と、冷蔵庫のなかを手探りする。

 その背中に、

「きゃっ!!」

 と叫び声が浴びせられて、恵はその場で跳び上がった。

「うおおぉ!?」

 叫びながら振り向いた恵が見たのは、台所と食堂の境目に立って驚愕の顔をしているパジャマ姿の幸だった。

「さっ、幸……なんで、こんな早くに……」

 恵は妹が予想外に早起きしてきたことに驚きの声を漏らすも、すぐにもっと火急の問題があることに思い至った。

「あっ、待て。違うんだ、幸。おれは不審者でも変質者でもないんだ!」

 その発言は、だがしかし、藪蛇だった。

 幸はじりと後退りする。

「わたしはあなたなんて知らない。なのに、あなたはわたしの名前を知っている。つまり……ストーカー」

「違うし!」

 否定の声を上げるときに思わず一歩踏み出すと、それに合わせて恵もまた一歩、後退りする。

「……」

 その顔には、はっきりと不審者に対する警戒心が表れている。

(不味い、このままじゃ本当に不審者扱いされる……!)

 警察に通報されでもしたら、本当にお終いだ。いまの恵には、自分自身が穂積恵だと証明するための物証が何ひとつないのだから。

(いや、もしかしたらDNAレベルでは証明できるのかもしれないけれど、そんな検査をされなくちゃいけない状況にまで追い詰められたくないぞ!)

 となればもう、ここで幸を説得する以外に道はない。だけど、どうすれば説得できるのか――。

「あっ、そうだ!」

 妙案を閃いた弾みで思わず声を上げてしまうと、幸がまた後退り。あと一歩でも下がったら、そのまま背を向けて走り出してしまいそうだ。恵は慌てて声を抑え、焦った顔を頑張って笑わせる。

「幸、落ち着いて聞いてくれ。いきなりじゃ信じられないかもしれないけれど、おれは恵だ。おまえの兄なんだ」

「……兄は男ですが」

「そうなんだけど、朝起きたら女になっていたんだよ。あっ、待って! 嘘じゃないし、頭がおかしいわけでもなく、本当なんだって!」

 恵の力説はまたも藪蛇を突いた。幸はますます警戒を強めて、恐怖すら籠もった眼差しで恵を見つめている。少しでも目を離したら飛びかかられる、とでも思っているかのような顔だ。

「幸、頼むから聞いてくれ。いまから、おれが恵だということを証明するから」

 恵は両手を胸元まで挙げて、敵意がないことを示しながら、ぎこちない笑顔で話しかけた。その言葉は初めて、幸の興味を誘ったようだった。

「証明?」

 眉根を寄せた幸に頷くと、恵はつらつらと話し始めた。

「おれの名前は宝積恵。今年で十八歳だけど、まだ誕生日前だから十七歳で、妹の幸――つまり、おまえとは、いまのところ一歳違いだ。あ、誕生日も正確に言うか? おれの誕生日は二月二十三日で、幸の誕生日は……ええ……あれ? いや、四月なのは覚えているんだ。な、当たってるだろ?」

 幸は黙ったまま軽く頷くことで、恵にもっと話せと促す。

「それから、ええと……あっ、そうだ。おれと幸が通っているのは、私立の新陽館高校。おれが三年で、幸が二年。それから、幸は特待生で授業料免除してもらっている。あと……あっ、猫。うちで飼っている猫の名前は、あんみつ。幸が拾ってきた猫で、たぶんいま一歳半くらい。幸以外の家族にもそこそこ懐いているけど、油断すると噛んでくる。あと、それから……」

 恵が口籠もったところへ、幸がぼそりと口を開いた。

「あなたの言いたいことは分かった。よく調べたものだと感心する」

「って、違う! 調べたんじゃなくて、最初から知っているんだって!」

「だったら、家族じゃなければ絶対に知らないようなことを言ってみて」

「え……」

「言ってみて」

「……ちょっと待って」

 恵は必死に頭を回転させる。

(ストーカーじゃ絶対に分からない、家族にしか分からないこと……って、なんだ!?)

 一瞬、混乱に落ちかけたけれど、すぐに光明を見出す。

(そうか。家族だなんて大きく考えるから分からなくなるんだ。おれと幸の思い出って考えれば、何かひとつくらい思い出せるはずだ。というか思い出せ!)

 眉間に深々と皺を刻んで、うんうん唸りながら考える恵。そこに幸の、

「ねえ、"ちょっと"と呼べるだけの時間は、もう待ったと思うんだけど」

 という胡乱げな声がかけられる。

「もうちょっと! いま思い出すから!」

 恵は右手を突き出して、掌を見せながら時間延長を要求。そうしている間にも思考を全力回転させて、記憶を辿った。

 その甲斐あって、恵はついに絶好の記憶を思い出した。

「思い出したぞ! まだ小学生だった頃、おれは幸に毎年誕生日プレゼントをあげていた。手作りのワッペンとか栞とかそんなものばかりだったけれど、幸も憶えているだろ? な?」

 恵は縋るような目つきで幸を見つめる。幸は無言のまま、感情を感じさせない冷めた目つきで見つめ返す。

「……」

「まさか幸、忘れたわけじゃない……よな? 幸も喜んでくれていた記憶があるんだけど……」

 恐る恐る尋ねた恵に、幸はほとんど表情を変えずに淡々と告げる。

「忘れてない、憶えている。もらったプレゼントも、その通りだ。いまにして思えば、つまらないプレゼントだった。でも、あの頃のわたしが喜んでいたことも、確かに記憶している」

「……そ、そうか。じゃあ、おれが不審者でもストーカーでもなく、兄の恵だって認めてくれたんだな?」

 幸の言い方には微妙な含みを感じたけれど、とにかく分かってもらえたことに安堵して、恵は胸を撫で下ろした。

 けれども、安心するのはまだ早かった。

「いや、まだだ」

 幸は続けて鋭く言い放つ。

「確かに、兄はわたしに毎年、誕生日プレゼントを贈ってくれていた。だけど、あるときから、そうしなくなった。それはいつからだ? 兄なら答えられるはずだ」

「え……」

 恵は口を半開きにしたままで固まってしまった。その表情に、幸は片方の眉をぴくりと持ち上げる。

「その顔、もしかして憶えていないの?」

「いや! 憶えているよ、もちろん。確かあれは、そう……ええと……」

 恵は大慌てで誤魔化しながら、さらに必死に考える。

(プレゼントしていたことを憶えていたんだから、いつからプレゼントしなくなったのかだって憶えているはずだろ。というか、思い出せ。でないと警察沙汰だぞ!)

 背筋を伝う汗に寒気に身震いしながら考えに考える。そして、どうにか思い出せた。

「あっ、そうだ! おれが小学四年のときは幸の誕生日にプレゼントをあげた憶えがあるけれど、五年生のときは幸がいまみたいに素っ気なくなっていたから、たぶんプレゼントしていない。ということは、おれが幸に誕生日プレゼントをあげていたのは、おれが小学四年生のときまで――つまり、幸が小学二年生のときまでだ!」

 自信満々に言った恵の顔を、幸はさきほどと同じ表情で見つめ返してる。その視線に、自信たっぷりだった幸の顔は、見る見るうちに曇っていった。

「え……あれ? もしかして、違ったか?」

 恵が頼りなげに尋ねると、幸はゆっくり頭を振った。

「いや、違っていない。わたしの記憶とも一致している」

「本当か!? よかったぁ……!」

 深呼吸するみたいに深々と安堵の息を吐いた恵を見つめて、幸はわずかに眉根を寄せた。

「プレゼントのことを知っているうえに、その兄っぽい言動と顔立ち……なるほど、確かにあなたは兄のようだ。でもそうすると、兄が姉になってしまったことになるのだけど?」

「そうなんだよ!」

 戸惑う幸に、恵はようやく話を進められたことが嬉しくなって、声を大きくした。

「どういうわけか、朝起きたら、こんなことになっちゃっていたんだよ。もうどうしたらいいか分からなくて、とにかく腹拵えしようと思っていたところに、幸が起きてきたというわけなんだよ」

「身体が大変なことになっているときに空腹を気にするだなんて、わたしが想像するより余裕があるんだ」

「いや、ないよ全然。でも、言うだろ。腹が減っては戦はできぬ、って」

「……やっぱり余裕があるようにしか思えない」

「そんなことないって!」

 唇を尖らせた恵に、幸は細めた眼差しをじっとりと注ぐ。

「そ、そんなことないんだぞ。本当だぞ」

 思わず言い直した恵に、幸も今度は、ふっと唇の片端だけを揺らして微笑んだ。

「分かった。わたしもお腹が減っているし、ともかく朝食を用意しよう」

「え、作ってくれるの?」

 恵は意外そうに聞き返した。

 単身赴任中の父は言わずもがな、母も今日のように家を空けていることが多いため、朝夕の食事二人分を幸が作るということは少なくない。ただし、休日の朝食については、お互い勝手な時間に起きて勝手に食べる、というのが慣習法だった。だから恵は、朝食を作ってもらえそうな成り行きに驚いたのだった。

 驚いている恵に、幸は微妙に目つきを険しくさせる。

「べつに作ってほしくないなら、作らないけど」

「いやいや、作ってほしいです。頼む、お願いします」

 恵が拝むと、幸はまた唇の端っこだけでほんのり笑って、得意げに胸を反らした。

 そのあと、幸は一度部屋に戻ってパジャマから部屋着に着替えると、胸当てエプロンを身に着けて台所に立つ。恵も何か手伝おうかとしたが、

「邪魔」

 の一言で追い返された。

「あ、そうだ」

 すごすごと居間のほうへ出ていこうとする恵の後ろ姿に、幸が振り向かずに声をかける。

「なんだ?」

「卵はどんなふうにして食べたい?」

「卵焼きがいい」

「味付けは塩と砂糖、どっち?」

「どっちも使わず、白ワインだけでお願い」

「なるほど、確かに兄だ。そんな注文をしてくるのは、他にいない」

 恵の答えに、幸は満足そうに背中を揺らした。

 卵焼きにトースト、それに炒めたベーコンとキャベツのサラダという食事が食卓に並んだ頃には、幸もすっかり緊張を解いて普段どおりの態度に戻っていた。いや、普段よりもっと和やかな雰囲気だと感じるのは、恵の気のせいだろうか。

 休日の朝にしては珍しくふたり揃っての朝食を終える。ふたりして食後の温かいコーヒーを啜っていると、幸が「さて」と口を開いた。

「買いものに行くから、着替えないと」

「そうか、行ってらっしゃい」

 恵がコーヒーを口に運びながら頷くと、幸は目尻をわずかに持ち上げた。

「何を他人事みたいに言っている。兄も着替えるんだ」

「え、なんで?」

「一緒に買いものに行くからだろう」

「えっ」

 きょとんとする恵に、幸は淡々と告げた。

「これから、わたしと兄とで、兄の下着を買いに行くんだ。ショーツはともかくとして、その胸はわたしのブラでは収まりきらないだろうし」

「はあぁ!?」

「そんなに驚くことではないでしょ。兄が姉になってしまった以上、下着は必要。違う?」

「いや、そうかもしれないけれど、そうじゃなく――」

 反論しようとした恵の口を、幸の一言が断ち切った。

「姉になった兄が、また兄にまた戻れるという確証はあるの?」

「あ……」

「確証がない以上、最悪の事態を想定しておくのが妥当だと思うのだけど」

「……」

 幸の言葉に、恵は反論しようもなかった。

 まさに幸の言うとおりだ。いまのいままで考えようともしていなかった――あるいは無意識のうちに考えるのを避けていたのかもしれない――けれど、女になってしまった身体が元の身体に戻れるのかどうかは分からないのだ。

(もし、このまま男に戻れなかったとしたら……?)

 恵の手はいつの間にか、まだコーヒーが残っているマグカップの取っ手を強く握り締めている。

(そうだ……父さんと母さんにはどう説明する? 母さんが帰ってくるまでまだ数日あるけれど、かならず帰ってくるんだぞ。そうしたら、ずっと顔を合わせないようにするなんて無理だ……あっ、その前に学校! 明日は月曜日で学校があるんだぞ。このままじゃ学校に行けないじゃないか!)

 このままだと二十四時間後には直面することになる問題に気づいて、恵の顔からは血の気が引いていく。その青ざめた顔色から読んだのか、幸がぽつりと口にする。

「転校するとしたら、近場の公立高校だろうね」

「転校……」

 その単語の持つ現実的な響きが、恵の胸をぎゅっと締め上げた。

(そりゃ、そうだよな。ずっと女のままだとしたら、転校するしかないよな……三年になってから転校とか、嫌だよ。付属の大学狙いで高校を選んだのに、いまさら受験勉強なんてできる気がしないぞ。最悪だ!)

 恵はいまにも泣き出しそうを顔をした。

 自分の言葉が兄を追い詰めてしまったとでも思ったのか、幸がいつになく優しげな声音を出す。

「まあ、なるようになるしかならないものを悩んでも仕方がない。できることからひとつずつ解決していくようにしよう。わたしも、できるかぎりは協力するから」

「……うん、そうだな」

 蒼白になっていた恵の顔がふわりと緩んで、微笑した頬に赤みが差す。

「でも、まさか幸に励まされるとは思っていなかったよ」

 恵がそう言い添えると、幸は怪訝そうに少しだけ眉根を寄せる。その表情に笑みを深めながら、恵は言う。

「だって幸、いつもはおれのことなんて気にも留めていないじゃないか。そりゃ、朝ご飯をは作ってもらっているけど、一緒に食べたり会話したりなんて、何週間ぶりだ? それとも何ヶ月ぶりだったか?」

 すると幸は、唇を心持ち尖らせて、心外そうに言い返した。

「そんなことはない。昨日だって夕食のときに話した」

「いや、そもそも一緒に食べていないだろ」

 昨日の夜は、恵が夕飯を食べに部屋から居間兼食堂へ下りたときにはもう、幸は食事を終えていた。だから、恵はテレビを観ながら、ひとりで食べた。従って、夕飯時に話したはずがないのだ。

 だが、幸はさも当然だと言わんばかりの顔をする。

「一緒に食べてはいないが、兄が居間に下りてきたとき、わたしは『食器は水に漬けておいて。あとで洗うから』と話した」

「それはただの伝言だろ。話したとは言わないぞ」

「でも、兄は『分かったよ』と返事をした。言葉の遣り取りがあったのだから、話した、の範疇に入る」

「……幸は意外に屁理屈を捏ねるんだな」

 恵が呆れた顔で笑うと、幸は不服そうな仕草で目線を逸らした。

「屁理屈じゃない。真っ当な理屈だ」

「どっちもでいいけどさ」

 笑いながらコーヒーを飲み干した頃には、恵の顔にもすっかり生気が戻ってきていた。そんな恵を見て、幸もそっと微笑を漏らす。

「それじゃ、出掛ける準備をしようか」

 幸がそう言って立ち上がると、緩んでいた恵の頬はまた引き攣る。

「あのさ、幸。それなんだけどさ……下着くらい、べつになくてもいいんじゃないかな」

「全然よくない」

「なら、コンビニでぱぱっと買ってきてくれよ。お金は出すからさ」

「それも却下」

「なんで!?」

 声を荒げた恵の目を、幸は冷ややかな目つきで射貫く。

「ブラはサイズに合ったものを着用しないと、形が崩れたり発育に悪影響が出たりするだけじゃなく、健康にもよくない。駅前に出れば下着専門の店があるから、そこでちゃんとサイズを測ってもらって買う。いいね」

「サイズを測るって――な、なんか嫌だ!」

 胸のサイズを測られるだなんて、想像しただけでも胸の産毛がぞわりと逆立つことだ。恵は反射的に交差させた両腕でもって胸を庇いながら吠える。だが、そんなことで幸を退かせることはできない。

「いいね?」

 幸は同じ言葉をふたたび発する。恵もまた固辞しようとしたけれど、口を開きかけたところで思い止まった。

(ここで幸の機嫌を損ねたら、誰にも相談できなくなってしまう……)

 そのことに、恵は言い返す寸前で思い至ったのだ。

「どうかした? 言いたいことがあるなら、聞くけど」

「……いや、何も」

 結局、恵のほうが折れたのだった。

「そうか。なら、話はこのくらいにして着替えようか」

「うん、そうだね……」

 がっくりと項垂れたまま背筋を曲げて頷く恵は、幸の言う"着替え"がどういう意味なのかを、まだ分かっていなかった。


 ●


 午前十時を過ぎた休日の街並みは、色鮮やかに賑わっている。

 スーツ姿の多い平日は、騒がしくとも、どこかよそよそしい印象で溢れている。それはきっと、誰もが仕事や学校などの、街並みとは別のものに自分を溶け込ませているからだろう。

 だけど、休日の街は違う。色取り取りの私服を身にまとった人々は、この街中で咲き乱れることを謳歌している花々だ。飛び交う喧騒までもが、花々のなかを飛び交う蜜蜂の羽音みたいに心地好く聞こえる。

 下着を買いに駅前の繁華街へと出てきた宝積兄妹――いまは姉妹――も、休日の街並みを彩る花二輪になっていた。

「う、うぅ……幸、なぁ、やっぱり変じゃないか?」

「大丈夫、似合っている」

 家を出てからずっと頼りなげにしている恵からのもう何度目かも分からない質問に、幸は少々辟易した様子で答えた。けれど、その答えを聞いても、恵の顔から不安の色は消えない。

「でも、やっぱりこんな格好、落ち着かないし……やっぱり普通にシャツとジーンズでよかったんじゃ……」

 周りからの視線を気にしながら呻いた恵の服装は、幸に無理やり貸された薄茶色ベージュのニットワンピとトレンカだ。素足に履いているサンダルが自前のものなのは、女性化しても幸とは身長差があるために、足のサイズが合わなかったからだ。

 ちなみに、ニットワンピのなかに着ているのは、自前の黒いティーシャツと、水泳の授業で使っている学校指定の黒い競泳パンツだ。付け加えて言うなら、肩口まで伸びた髪も、幸の手で自然に流れるような感じにセットされている。

 恵の隣を歩いている幸の服装はというと、上半身トップはデニムのジャケットに白いブラウス、下半身ボトムにはデニムのロングスカート。肩からはバッグを提げている。そして足下は、スエードの厚底サンダルだ。髪は下ろし髪のまま、和風のバレッタでハーフアップのようにまとめてある。

「……はぁ」

 幸は立ち止まると、文句を垂らし続けていた恵の目をじっと見上げた。

「まだ自覚が足りていないようだけど、兄はいま姉なの。だから、男の服装をしたら普通じゃなくなるの。それとも、いまよりもっと目立ちたかった?」

「そんなわけないだろ!」

「なら、文句を言わない。あ……それとも、わたしの見立てに文句があるという意味だった?」

 幸の視線がさらに鋭く細められると、恵は慌てて頭を振った。

「そんなことないって。幸が着せてくれたこの服、いいと思うよ――おれに似合っているかは自信ないけど」

「そこに自信を抱けないというのは、わたしのセンスに問題がある、という意味になるんだけど」

「あ……え、ええと……」

 言い淀んだ恵は、必死で上手い言葉を探す。

「いや、ほら、おれには服のセンスがないから自信を持って言えないというだけで、幸の目から見て似合っているんなら、似合っているんじゃないかなぁ、と」

「似合っている。わたしが自信を持って断言する」

 幸はまっすぐに言うと、唇の両端を持ち上げて微笑んだ。その優しい笑い方に恵は目元を染めたけれど、眉はまだ不安げに寄ったままだ。

「でもさ、さっきからずっと変な目で見られているみたいなんだけど……」

 恵が周囲に視線を走らせながら小声で告げると、幸は一瞬きょとんとしてから、ぷっと吹き出した。幸がこんなにもはっきりと笑ったところを見たのは初めてだったから、恵は不安を忘れて面食らってしまう。

「え、え?」

「く……くふっ、ふふふ……ごめん。でも、そんな勘違いしていただなんて、天然というか、兄らしいというか……くふふっ」

「え……勘違いって?」

 戸惑う恵に、幸は深呼吸するように大きく息を吸って、笑いを呑み込みながら言う。

「それは、兄が変だから見られているんじゃない。兄が魅力的だから、みんな思わず見てしまうんだ」

 その言葉に、恵は口を半開きにさせて固まってしまった。

「へ……魅力的……?」

「そう」

 幸は頷いて、得意げに目を細める。

「兄もいまさっき認めただろう? わたしのコーディネイトは完璧なんだから、変に見られるはずがない」

「いや、服装が変じゃなくても、着ているひとが変だったら駄目だろ」

 恵が戸惑いつつもそう反論すると、幸の顔に呆れの色が浮かぶ。

「自分の顔と身体、着替えるときに鏡で見なかったの?」

「いや、見たけど……」

「だったら分かるでしょう。兄はまったく変じゃない。それどころか、美人でスタイルもいい。通りすがりについ目で追ってしまうのは当然の反応」

「……本当に?」

「本当に」

 恵が耳打ちするようにこそこそ聞き返すと、幸は大きく首肯した。その態度からは、嘘や冗談を言っているようには感じられない。

(だとすると、おれが美人だから、みんな見てくるっていうことなのか……うぁ、それはそれで恥ずかしいな!)

 頬を赤らめた恵に、幸は唇の片端でくすりと笑む。

「見られる優越感、覚えちゃった?」

「そっ、そんなことない!」

 早口になってしまった反論に、恵は自分で顔を赤らめる。そんな仕草に、幸はおかしそうに目を細めたが、口にしては追求せずに話題を変えた。

「さて――兄もどうやら、自分が周りから変どころか、すごくいいと思われていることを理解したようだし、行こうか」

「あ、うん」

 ふたりはずっと路肩で立ち止まって話していたのだけど、幸が歩き出したのを見て、恵もすぐに後を追った。

 恵がさきに聞いていた話だと、幸が向かっているのは駅構内に併設されたデパート内に出店している下着屋だという。そのデパートまではあと数分も歩けば着くのだけど、恵はそこまで倒れずに歩けるか自信がなくなっていた。

(みんな、おれが美人だから見ているのか? そんな、嘘だろ。だって背は男でも高めのほうなんだぞ。でも、鏡で見た感じではわりとまあ美人だったよな……ってことは、やっぱり……うわあっ、恥ずかしい! こんな、ズボンも穿いていない格好を見ないでくれぇ!)

 というわけで、恥ずかしさのあまり頭に血が上りすぎて、まっすぐの歩くのも危うくなっていたのだった。そのことに、幸も歩き出してからほどなくして気がつく。身長差に比例して脚の長さが違うのに、普通に歩いている幸よりも恵のほうが遅れがちになっていたからだ。

「今度は何を恥ずかしがっている?」

 幸は歩きながら、恵を横目に見上げて問いかける。

「や、だってさ、この格好ってよくよく考えてみれば、下半身はタイツしか穿いていないだろ。ズボンどころかスカートも穿いていないなんて、下着丸出しで歩いているも同然じゃないか」

「何を言ってる。兄が着ているそれはニットワンピだ。ワンピースを着たうえにスカートを穿くと思う?」

「いや、それは……あっ、でも、ズボンを穿くことはあるんじゃないか?」

「わたしのパンツでは小さすぎてお尻が入らなかったんだから、仕方ないでしょう」

「だったら、おれのジーンズを穿くのでもよかったじゃないか」

「体型の出るぴったりめのニットワンピに男物のジーンズを合わせるなんて、それこそ変な格好だ。ありえない」

 幸にそう断言されると、恵も、

(言われてみれば、ちぐはぐなことになっていたかも……)

 と納得させられてしまう。

 だけどそれだったら、上着も男物にしていれば統一感が出ていたということになる。それを、「その姿で男物は目立ちすぎるから」という理由で、自分の服のなかからサイズの合うものを見繕って半ば強制的に着替えさせたのは幸だ。

「……なあ、幸」

「なに?」

「もしかして、普通にジーンズとティーシャツを着れば、万事問題なかったんじゃないか?」

「……」

 幸は無言でふいっと前を向く。

「なんで黙るんだよ!? 目を逸らすんだよ!?」

「そんなことより、ひとつだけ言わせて」

 目を剥いて喚いた恵に、幸は前を見て歩きながら淡々と言った。恵は思わず黙って、続く言葉を待ってしまう。

「勘違いしているようだけど、兄がいま穿いているのはトレンカ。タイツとは違うものだから、よそで言い間違えて恥を掻かないように」

「……どうでもいい」

 恵は怒鳴る気力もなくして、げんなりと肩を落とした。

「はぁ……おれ、なんだかもう疲れたよ」

「そうね。わたしも喉が渇いた。喋り疲れたみたい。まだ買いものの前だけど、喫茶店にでも寄ろうか」

「うん、賛成」

 幸の提案に、恵は一も二もなく同意した。

 ふたりはすぐそこにあった全国チェーンの喫茶店に入る。駅前の大通り沿いという場所柄のため、店内は恵たちのような休日の買いものを楽しむ客たちで賑わっていた。

 ふたりは大通りに面したガラス壁に沿って並んでいるスツール二席を確保すると、銘々に好きな飲みものを頼んだ。恵はなんの変哲もないアイスのブラックコーヒーを、幸はソフトクリームを浮かせたコーヒーフロートを手にして、スツールに腰かける。

「ちょっと意外だな」

 恵が、コーヒーをストローで啜りながら、隣に座った幸に話しかける。幸は、先端がスプーン状になっているストローでソフトクリームを突き崩しながら、横目で問い返した。

「意外って?」

「いやさ、幸はコーヒーを甘くして飲むのが好きじゃないのかと思っていたんだけど、違ったんだな」

「ああ……わたしが家ではブラックでしか飲まないから、そう思ったんだ」

「そういうこと」

「自分で淹れるときにブラックでしか飲まないのは、浮かべるアイスがないから」

「コーヒーミルクの粉末ならあったと思うけど、あれは口に合わないのか?」

「うん、あれは駄目。安っぽい」

「じゃあ、牛乳と砂糖で割るのは?」

「カフェオレにするなら、ココアのほうが好き」

「ふぅん、こだわりがあるんだなぁ」

 恵がしみじみ吐息を零すと、幸は小さく唇を尖らせる。

「べつにいいでしょう、コーヒーの飲み方くらい好きにしたって」

「あ、馬鹿にして言ったんじゃないよ。ただ単に、幸って結構普通なんだな、と思っただけ」

「その言い方、十分に馬鹿にしていると思うんだけど」

 幸はますます唇を尖らせるけれど、本気で怒っていないのは一目で分かる。まるで子供が拗ねているみたいな仕草に、恵はまた意外そうな顔をする。すると幸も、意外そうに眉を持ち上げた。

「え、どうした?」

 そう尋ねた恵に、幸は不思議そうな顔のまま答える。

「てっきり笑われるかと思ったのに、そんな顔されるとは驚いた」

「いや……だって、幸はもっと冷淡というか無愛想というか、そんな子供っぽい顔をするやつじゃないと思っていたから、びっくりしてさ」

 恵は冗談めかして言ったのだが、幸は憮然とした顔で唇を引き結んでしまった。

「あっ、悪い。怒らせるつもりはなかったんだ」

「べつに怒っていない」

 という言い方がすでに、ちょっと怒っている。その自覚があるのだろう、幸はこほんと咳払いして言い直した。

「ん……べつに、そんなふうに見られたことを怒っているんじゃないんだ。そんなふうに見せてしまっている自分に怒ったというか……まあ、そんな感じ」

「……うん」

 恵はなんと答えていいか分からず、曖昧に頷いてだけおいた。そもそも恵の答えを期待していなかったのか、幸はとくに何を言うでもなく、白いソフトクリームの混ざったコーヒーをストローで啜る。恵もつられて、自分のコーヒーを、ずず、と啜る。

 店内に流れる抑えた音楽と楽しげな喧騒が、ふたりの間に降りた沈黙をくっきりと際立たせる。

(うぅ……気まずい……)

 恵は内心で呻く。よくよく考えてみれば、幸とふたりで何かしているということ自体が十年振りくらいなのだから、ここまで気まずさを感じなかったほうが奇跡的なのだ。

(まあ、気まずさよりも気恥ずかしさのほうが強かっただけなんだけど)

 往来を歩いているときは足が震えるほど激しく感じていた恥ずかしさも、こうして喫茶店のなかでコーヒーを飲んでいるうちに落ち着いてきていた。だからこそ、さっきまでは気にならなかった沈黙の長さが気になってしまうのだ。

(とにかく、何か話さないと。なんでもいいから、話題を振らないと!)

 沈黙の重たさに潰れて動けなくなる前に、この状況を打開しなくては――そう決意した恵は、とにかく勢いに任せて口を開いた。

「あ――」

 だがその瞬間、幸も口を開いた。

「あのさ、一口どう?」

「えっ」

 出鼻を挫かれた恵の声は裏返っているが、幸はそれに気づいた様子もなく、口早に続けた。

「兄はさっき、わたしがブラックコーヒーしか飲まないと思っていたと言っていたが、兄こそ、そうでしょう。だからたまには、甘いコーヒーを飲んでみるというのも面白いんじゃない? ねえ、どう?」

 幸はまるで滑舌の訓練をするような早口で言いながら、自分の飲んでいたコーヒーフロートを恵のほうに差し出した。

 恵は戸惑いつつも聞き返す。

「え……飲んでいいの?」

「全部は駄目」

「それは分かってるよ」

 苦笑しながら、恵は幸のコーヒーに自分のストローを差して、ココア色に染まったコーヒーを一口啜った。

「どう?」

 そう聞いてきた幸に、恵は喉を鳴らして首肯した。

「ん……美味しい。たまには甘いコーヒーも悪くないな」

「でしょう」

 恵が笑うと、幸も満足そうに目尻で笑った。

 それからも、ふたりがコーヒーを飲み終えて店を出るまでの間、さほど会話はなかったけれど、今度は不思議と居心地がよかった。


 ●


 喫茶店を出て少し歩くと、駅に併設されているデパートの地上入り口までは一分とかからなかった。デパートに入ってすぐのエレベーターに乗ると、今日の目的である下着屋までは、さらに一分とかからずに到着した。

 だが、店の前に立ってから店内に入るまでには、三分ほどの時間を要することになった。恵がいまさらになって、やっぱり無理だ、とごねたからだった。

「おれ、やっぱりここで待ってるから、幸が適当に買ってきてくれ」

「それじゃ駄目だと何度も言った。サイズを測って試着しないと、自分に合ったブラは選べないんだ」

「ちょっとくらい窮屈でもブカブカでも構わないって」

「それじゃあ身体によくないの!」

 ふたりは下着屋の真ん前で、綱引きするように押したり引いたりしながら言い争う。恵は逃げだそうとしているのだけど、幸は恵の手をしっかりと掴んで、店内に引きずり込もうとしていた。

「幸、頼むよ。ブラを選ぶとか、無理だって!」

「無理じゃない。スーパーで好きなお菓子を選ぶのと変らない!」

「そんなわけあるかぁ!」

 恵も幸もいまは同じ女性同士だけど、体格の違いは歴然としている。そのうえ、幸は厚底サンダルという踏ん張りの利きにくいものを履いている。しかし、だというのに、恵のほうがずるずると店内に引き込まれているのだった。

 そんな根比べも、ふたりに気づいた店員が完璧な愛想笑いを浮かべて声をかけてきたことで決着した。勝負の結果はもちろん、恵の負けだ。

「いらっしゃいませ。ご用がありましたら、遠慮なくお声かけくださいね」

 そう言って、去るでもなく構ってくるでもない絶妙な距離に立った店員に、幸は早速話しかける。ちなみに、恵の左手首をしっかり掴んだままだ。

「姉のブラを探しにきたんですが、サイズの計測と試着をお願いできますか?」

「かしこまりました」

 店員はにっこり頷くと、腰のポーチから巻き尺を取り出して恵に近づく。

「それでは胸囲をお測りせていただきますので、こちらの試着室へどうぞ」

「あ……うぁ……」

 促された恵は、助けを求めるような目で幸を見やる。返ってきたのは、観念なさい、と語る冷たい視線だった。

「どうぞ、こちらへ」

「……はい」

 店員にもう一度促された恵は、連行される容疑者のように力なく連れられていった。

 カーテンで仕切られた試着室に店員とふたりで入った恵は、このまま服を脱がされるのかと覚悟していたのだけど、それは早合点だった。

「万歳していただけますか」

 そう言われた恵が両手を挙げると、店員は恵の胸にニットの上から巻き尺をまわす。胸の一番膨らんでいるところと、下側の肋骨が浮き出ているところを手際よく測ると、店員は巻き尺をポーチに仕舞って微笑んだ。

「はい、これで大まかなサイズは分かりました。合いそうなブラを見繕って参りますので、ここで少々お待ちください」

「あ、はい」

 店員は拍子抜けした顔で頷いた恵を残して試着室を出ると、店内をさっとひとまわりしてくる。戻ってきたときには、両手に色取り取りの下着を抱えていた。

「お客さまでしたらたぶん、F65かE70で合うと思います。いくつか持って参りましたが、このなかでお好みのデザインはございますか? お客さまでしたら、どれもよく似合うとは思いますが」

「わたしも見せてもらっていいですか?」

 試着室の横に立っていた幸が、店員の抱えている下着を覗き込む。

「はい、どうぞ」

 店員はもちろん拒まない。幸は興味津々の目つきで色取り取りの下着を手にとっては見比べ、矯めつ眇めつする。

「うん、どれも素敵。ねえ……お姉ちゃんは、どれがいい?」

「……」

 幸の呼びかけに、誰も答えない。

「お姉ちゃん、聞いてる?」

「えっ、おれのことか?」

 二度目の呼びかけに、恵はようやく、幸の呼んでいる相手が自分だと気がついた。

 面食らった様子で目を丸くしている恵に、幸は悪戯っぽく口角を持ち上げる。

「なによ、お姉ちゃん。"おれ"だなんて、男の子みたいな言い方しちゃって」

「あぅ……」

「そんなことより、どんなブラがいい? 可愛いのか、大人っぽいのか、小悪魔系か、清楚なのか……」

「……普通に白くて地味なやつでいいよ」

「じゃあ、まずはこの白レースの大人っぽいやつを試着しよう」

 幸が選び出したのは、地味という形容詞からほど遠い、絹のような光沢を帯びた布地にレースをふんだんにあしらった、とても煌びやかな下着だった。

「……」

 幸の決めたブラを凝視して、恵は絶句。その間に、幸は店員に向かって、

「姉はブラをつけるのが下手なので、つけるのを手伝ってあげてもらえませんか?」

 と話しかけている。

「はい、かしこまりました」

 店員がそう答えるのをどこか遠くに聞いているうちに、恵の顔にはいつの間にやら、諦めの微笑が湛えられていた。

(ああ、うん。もうどうにでもしてくれ……)

 それは誰の耳にも届かない心のなかでの声だったのだが、幸と店員には聞こえていたのかもしれない。なぜなら、恵はこのあと、"本当にどうにでもされてしまう"からだった。


 ●


 店員に手伝ってもらいながら初めてブラを着用した感想は、

(女の胸は作られていた!)

 だった。

 恵の上半身を裸にさせた店員は、恵がノーブラだったことに驚きはしたが、とくには何も言わずにブラの装着作業を始めた。恵は、ただ単純に背中のホックを留めてもらうだけかと思っていたのだけど、実際はもっとスポーツだった。

「お辞儀してください。あ、もっと深く」

 と言われて前屈した恵の背中にまわり込んだ店員は、躊躇なく恵の身体に両手をまわして、腹や腰や背中や、果ては首の肉まで寄せ集めて、胸肉と一緒にブラのなかへ押し込めにかかった。

「あっ、あっ! くすぐったい……ひゃう! うぅ!?」

 力を込めてオイルマッサージするみたいな手つきに、恵はあられもない声を出して悶えてしまう。

「まあ……お客さま、敏感なんですね」

 などと、店員に笑われてしまう始末だった。

 そんな羞恥に堪えてようやく身に着けることができたブラの中身は、自分で見下ろした恵が思わず口を半開きにしてしまうほど魅力的だった。いや、はっきり言ってしまうと、淫靡だった。もとから痩せぎすで乳房の他には余分な肉のない体型だったのに、ブラのなかに詰め込まれた脂肪の塊は、ブラをつける前からひとまわり以上は大きくなって見えた。しかも、ただ大きくなっただけではなく、ブラのカップで肉を上向きに寄せられているため、びっくりするほど深く、くっきりとした谷間ができていた。

「うぉ……」

 恵は自分の胸元を見下ろしたまま、感嘆の吐息を漏らす。

「どうです? こうやって全身を揉み込むようにしながらブラをつけると、自分で思っていた以上に盛れるんですよ」

「ええ……そうみたい、ですね……」

 店員の得意げな口振りに頷いている間も、恵の目は自分の胸元に釘付けだった。

「わたしも見せてもらっていいですか?」

 カーテンの向こうから幸がそう声をかけてきた。それは質問の体をしていたが、幸は返事を待つことなくカーテンに隙間を作って、試着室のなかに顔を差し入れてくる。そして、恵のブラ姿を見るなり、目を見開かせて息を飲んだ。

「……!」

「な、なんだよ」

 胸へと注がれる熱い眼差しに、恵は遮るように両手で胸を庇って身を捩った。すると店員が、くすりと微笑む。

「あら、隠すことありませんよ。とてもお綺麗なんですから」

 幸も同調して、どこか興奮気味に口を開く。

「お姉ちゃん、すごく綺麗。それに……格好いい」

「は? 格好いい?」

 思わず聞き返した恵に、幸はうんうんと力強く頷く。

「だって、背が高くて、すらっとしていて、美人で……それに胸も大きくて綺麗だし――わたしの理想そのものだもん」

 力説する幸の頬は、熱に浮かれたみたいに火照っている。口調もなんだか、いつもと違う。

(幸ってこういうキャラだったっけ……?)

 自分の知らない妹の一面に戸惑いつつも、恵は腰を屈めて、足下の籠に入れていたニットワンピを拾って着直そうとする。

 それを、幸が引き留めた。

「お姉ちゃん、まだよ」

「え……だって、もう試着したわけだし、これで終わりだろ」

「まだ一着しか試してない」

「ちょっと待て」

 恵は片手を翳して、待て、の身振りをする。

「その言い方だとまるで、店員さんが持ってきた他の下着も試着しないといけない、みたいに聞こえるんだけど……」

「大丈夫、問題ない。そのとおりだから」

「嘘だろ!?」

 その叫びも空しく、嘘ではなかった。

 恵はこのあと、幸と店員の手によって、色取り取りのブラを何着も何着も試着をさせられた。桃色で可愛らしいのから、葡萄酒色の挑発的なやつ、触りたくなるほど艶めいた黒いブラから、フランス料理のように派手な色彩のものや、果ては子供っぽい苺柄の三角ブラまで――と、まさに取っ替え引っ替え、着替えさせられた。

 最初は店員に乳房を見られるのが恥ずかしくて顔を真っ赤にしていたのが、途中からは恥ずかしいと思う心が麻痺してしまって、あとはもう操り人形のようにされるがままだった。

 顔には諦めの笑みを湛え、ふたりに言われるがままに下着を着替えて、カメラを向けられたグラビアアイドルのようにポーズを取り続けた。両手を腰に当てたり、後頭部に当てたり、胸を張ったり、前屈みになったり、背中を向けたり――最後のほうは、ブラの試着なのか下着姿の品評会なのか、分からないことになっていた。

 気がつけば、恵の一人下着ファッションショーは一時間近くも続いていた。幸と店員が満足したときには、恵は精も根も尽き果てていた。それだけの時間と手間と気力を費やしたというのに、購入したのは結局、最初に試着した白基調のレースをあしらったブラと、それと揃いのショーツだった。

「この下着、上下とも着て帰りたいんですが」

 幸が店員に向けてそう言ったときも、恵は抗議の声ひとつ上げずにブラをつけ、ショーツを穿いた。

 一時間前の恵なら、

「女の下着をつけるなんて絶対に無理!」

 と突っぱねていたところだが、ふたりにじろじろ見られながら何度となく下着を着替え続けたことで、女性下着を身に着けることへの抵抗や羞恥心がすっかり磨り減ってしまっていたのだった。

「せっかくだから、他の店も覗いていこう」

 という幸の提案によって、ふたりは下着屋を出たあともデパート構内をしばらく漫ろ歩いた。

 予算の都合もあるから、最初から"見るだけ"が目的の買いもので、恵としては、

(買うつもりがないのに入店するのは迷惑なんじゃないか?)

 という遠慮があったのだけど、まったく気にしていない様子の幸に引きずられる形で、並んでいる店を次から次へと冷やかしていった。靴やバッグの店では手にとって眺めるだけだったけれど、衣料品店では結構な数を試着した。恵はべつに買うつもりも試着するつもりもなかったのだけど、幸がまたも普段とは別人みたいな熱っぽい顔で、

「お願い、これを着てみて。あと、できればこっちも」

 という感じで試着をねだってきたため、恵は仕方なく試着したのだった。

(そう――あくまで、仕方なく、だからな)

 などと自分で自分に言い訳しながら、パンツやスカート、ワンピースなどに着替えては、幸のきらきら輝く賞賛と羨望の眼差しに見つめられたのだった。最終的には、何も買うつもりはなかったはずなのに、女物のぴっちりジーンズを買って、その場でトレンカから穿き替えていた。

 また本当は、幸は靴の試着もさせたがっていたのだが、恵の足には二十五センチの靴でもギリギリ入らなかったために断念していたりもする。

(もう少し足が小さくなっていたら、靴も試せたのに。ヒールのある靴って、履いたらどんな感じだったのかな……って、おれは何を考えているんだ!?)

 恵は、自分が靴を試し履きできなくて残念がっていることに気づいて慌てた。

「お姉ちゃん、どうかした?」

 幸が心配そうに恵の顔を覗き込んでくる。

「え、あ、ううん。なんでもないんだ」

 恵は強張っていた表情を緩めて、ぎこちなく笑う。幸はまだ心配そうに眉を顰めている。

「顔色が悪いみたいだけど、本当になんでもない?」

「うん、本当だって。あ、それよりもさ、ひとつ聞いてもいいか」

「なに?」

「幸はさっきから、おれのことを"お姉ちゃん"って呼んでいるよな」

「あ……」

 恵が指摘すると、幸の頬が恥ずかしそうに染まる。

「だって、その……聞いても笑わない?」

「ん?」

 小首を傾げた恵に、幸は耳まで赤く色づかせると、ささやくような声音で言った。

「あの、あのね……わたし、ずっとお姉ちゃんがほしかったんだ」

「へ……」

 恵は目を点にして、口をぽかんと開けて、一時停止ボタンを押されたみたいに固まった。幸は幸で、サクランボ色に染まった頬を両手で押さえて、嬉し恥ずかしといった目線をあっちこっちに泳がせている。

 どちらとも、それぞれの理由で黙りこくっている。

(な、なんなんだよ、この沈黙は)

 予想だにもしていなかった幸の言葉に、恵はまだ面食らったままだ。

(お姉ちゃんがほしかった、って……それはつまり、兄じゃ不満だった、ということか?)

 思考がそう帰結した瞬間、恵の胸にずきりと痛みが走った。物理的な意味ではなく、精神的な意味で、だ。内心の痛みは顔にも表れたのだろうか、恵の顔を照れ笑いしながら、ちらちらと盗み見るようにしていた幸が、はっと息を飲んだ。

「あっ、ごめん。そういう意味じゃなくて」

 幸は慌てて言い直すが、それがまた恵の胸をぐさりと抉った。

 じゃあどういう意味なんだよ、と恵が聞き返さなかったのは、もし聞き返してみて、幸が返事に窮してしまったら立ち直れそうになかったからだ。

「え、ええとね、お姉……あ、じゃなくて――」

「いいよ、お姉ちゃんでもなんでも。幸の好きに呼べば」

「……ごめん」

 幸がしゅんとしてしまうほど、恵の声は投げやりだった。

 また微妙な沈黙。

 今度、その沈黙をさきに破ったのは恵だった。

「それよりもさ、幸はもう他に寄りたいところはないのか?」

 だったらもう帰ろうよ、という意味合いを込めての台詞だったのだが、幸にはそこまで伝わらなかった。

「あ、うん。できれば、化粧品の店にも寄っていきたいんだけど」

「……分かった。じゃあ、行こうか」

 恵は短い沈黙を挟んで苦笑混じりに頷くと、さきに立って歩きだした。その背中に、幸が慌てて声をかける。

「お姉ちゃん、待って」

「……?」

 立ち止まって振り向いた恵に、幸は困ったように眉根を寄せた。

「お店、逆方向」

「……」

 なんともばつの悪い沈黙のなか、今度は幸が先頭に立って化粧品店へと歩きだした。


 ●


 化粧品店では、化粧の実演を行っていた。店内に椅子が用意されていて、希望した客に対して店員が試供品を使って化粧してくれるというものだ。

「せっかくだし、わたしたちも化粧してもらわない?」

 店内に入ってすぐに、幸は恐る恐るといった様子で伺いを立ててきた。

 恵は少々戸惑ってしまう。いつもの幸だったら、こういうときは、

「わたしたちも化粧してもらおう」

 というような言い方をするはずだ。してもらわないか、と判断を仰いでくるような言い方は絶対にしないと断言できる。だから恵は、またちくりと心臓に針を刺された。

(兄の意見は気にしないけど、お姉ちゃんの機嫌は気にするってわけだ)

 幸の言動に感じる些細な違和感に、恵は自分自身でも戸惑ってしまうほど落ち込んでしまっていた。その動揺は幸にも伝わっているのか、幸は眉を八の字にして途方に暮れた顔をする。そしてまた、昨日までの幸が見せたこともなかったその表情に、恵はいっそう打ちのめされるのだった。

 そんな曇り空みたいな空気を振り払おうと、幸は意識的に笑窪を作って微笑む。

「ねえ、やっぱり化粧してもらおう。化粧が綺麗に決まると、とっても気分がよくなるんだよ」

「……うん」

 恵は一瞬、駄々を捏ねてやろうか、とも思ったけれど、すんでのところで思い止まって短く頷いた。

 店員に話しかけると、ちょうど空いた席にふたり揃って案内された。恵にとっては初めての化粧体験だから、最初はどうしたらいいものかと戸惑いもしたけれど、すぐに、

(ああ、床屋と同じだ)

 と悟った。

「下のほうを見てください。少しだけ顎を上げてください」

 などと店員が言うとおりにしていれば、いま何をされているのか分からなくとも、顔は勝手に化粧されていくのだ。

 途中でちらりと隣に座っている幸を見やると、幸は店員に向かって小声で注文をつけたり相談したりしているようだった。

(幸は間違いなく、美容院でも細かく注文をつけるタイプだな)

 目の端に、店員とふたりして卓上鏡を見つめながら熱心に話し合っている幸の横顔を映しながら、恵はそんなどうでもいいことを思って微笑する。そして、

「あっ、いまは笑わないでくださいね」

 と、唇に細筆を滑らせていた店員から微笑混じりに窘められるのだった。

 そうこうしているうちに、店員は最後の仕上げだったリップグロスを塗り終える。

「はい、できました。どうですか?」

 店員にそう促されて、恵は正面の長机に置かれている卓上鏡に目をやる。その瞬間、恵は大きく目を瞠った。

「え……これが……」

(これが……おれ、なのか……?)

 鏡のなかで驚きに目を丸くしていたのは、朝に衣装箪笥の姿見のなかで見つけた少女をさらに美しく磨き上げた美少女だった。今朝の彼女をダイヤの原石とするならば、いま目の前に映っている彼女は、輝かしく磨き上げられた宝飾品だった。

 濃淡の陰影に縁取られ、くるんと上げられた長い睫毛に飾り立てられた、大粒の真珠みたいな双瞳。処女雪の上に桜吹雪を散らせたような頬。蜂蜜漬けにした薔薇の花弁みたいにしっとりと艶めく薄紅色の唇。

 顔の輪郭に収まったどの部位も、すっぴんのときは内に潜められていた魅力を瑞々しく咲き誇らせていた。

「お客さまの服装ですと、あまり気合いを入れすぎないで、このくらいナチュラルな感じに仕上げたほうが似合っていると思うんですけど……ご自分で見た感じ、どうですか?」

 改めて感想を求めてきた店員に、恵は口をぽかんと開けたまま無言で頷いて、それからやっと言葉で答えた。

「はい……なんかもう、自分じゃないみたいで、すごいです」

「あら、そんな」

 店員はおかしそうに微笑む。

「お客さまは、普段はあまり化粧をなさらないんでしたっけ。確かに素のままでもお綺麗ですけど、ほんのひと手間かけるだけで、ぐっと印象深くなるんですよ」

 得意げに微笑む店員の言葉をぼんやり聞きながら、恵は鏡のなかの自分が口角をにへらぁと緩めて、だらしない笑顔になりそうになるのを、頬の筋肉に力を入れて必死に堪えていた。

 話しながら化粧してもらっていた幸のほうも、恵より遅れること十分ほどで完了した。ばっちりと化粧した幸は、デニム主体の力強い服装とも相まって、大学生くらいに大人びて見えた。


 ●


 化粧してもらったあとは、幸が当初の来店目的だった化粧水と無色のリップを買った。実演してもらった化粧品はひとつも買わなかったけれど、代わりに試供品とパンフレットを山ほど渡された。

「化粧って、すごいんだな」

 店を出てからほどなく、恵は隣を歩く幸を見やりながら、しみじみと嘆息する。それを聞いて、幸は唇の端だけで笑ってみせた。

「化粧は女の戦闘服。すごくて当然」

 横目に見上げてくる幸の微笑に、恵は図らずも、どきりとさせられた。

 恵が目元をほんのり色づかせたのを、幸は目敏く見つける。

「そういえば……お姉ちゃん、その化粧をしてもらっていたとき、鏡に見蕩れていた」

「うっ」

 恵は、見られていたのか、と顔を赤くする。なんとも珍しいことに、その顔が幸の悪戯心を刺激したようだった。

「鏡よ、鏡。この世でいちばん美しいのはだぁれ?」

「止めてくれよ、頼むよ」

 恵が眉を顰めると、さすがにこれ以上は本気で怒らせてしまうと察したのか、幸は素直に言葉を呑んだ。ただし、目尻や唇の端には笑いの名残を残したままだが。

「まったく……そんなに笑うことないだろ」

 恵は居心地悪そうに唇を尖らせる。

「笑ってない。これが普通の顔」

「嘘を吐け。笑ってるじゃないか」

「笑ってない」

「……もういいよ」

 恵に、不毛な言い合いを続ける気力はなかった。溜め息をひとつ零してそう言った恵に、幸は怖々と問いかける。

「お姉ちゃん、怒った……?」

「怒ってないよ」

「本当に?」

「うん、本当に」

 いつになくしつこい幸に、恵は頷きながらも少々辟易してしまう。その内心が顔に出ていたのか、幸は申し訳なさそうに目を伏せた。

「ごめん。さっきから変なこと言ってばっかりで。今日のわたし、どうかしてる」

 幸がなんのことを言っているのかは、考えるまでもない。兄が姉になって嬉しい、みたいな発言のことだ。 

「さっきのことなら、べつに気にしてないよ。もう忘れたし」

「……覚えてるじゃない」

 幸はむすりと唇を尖らせたけれど、恵が忘れたと言っている話題をこれ以上、蒸し返すつもりはないようだった。その代わりに、あ、と何かを閃いたように顔を上げた。

「ねえ、お腹が減ってない?」

「ああ……言われてみれば」

 時計代わりの携帯は幸のバッグに入れてもらっているから正確な時刻は分からないけれど、たぶんとっくに正午はまわっている。腹が減るのも当然だ。

「わたしもお腹が減ったし、帰る前に何か食べていこう。わたしが奢る」

「えっ、いいのか?」

 思わず聞き返した恵に、幸は微笑しながら首肯する。

「今日はわたしの我が侭に付き合ってもらったようなものだから、お礼のつもりで奢らせてほしい。といっても、予算の許す範囲で、だけど」

「そういうことなら、じゃあ遠慮なく奢ってもらおうかな」

 恵は、ここは素直に好意を受け取っておくことにした。

「じゃあ、お姉ちゃん、何を食べたい?」

「そうだな……」

 恵は小首を傾げて考える。

(何でも、と言われても……あんまり高いものは止めておこう。麺類か丼物あたりが、お値段的にも量的にもいいか? ああでも、待てよ。化粧したままラーメンを啜ったり牛丼を掻っ込んだりしたら、口紅が剥がれてぐちゃぐちゃになったりするんじゃないか? どうなんだ!?)

 無意識に上唇と下唇を擦り合せると、丹念に塗られた口紅のねっとりとした糊のような感触、そして薬を舐めたときのような味が口内にじわりと染みてくる。こんな唇で美味しく、かつ汚さずに食べられるものというのがあるのだろうか――。

「あ、そうか」

 恵はふいに閃いた。

「なに?」

 きょとんと目を瞬かせる幸に、恵は続ける。

「ここまで幸の行きたいところばかりに行ったわけだし、どうせなんだから、食事する店も幸が選んでくれ」

「それじゃ、わたしの食べたいものになっちゃう」

「いいんだよ、それで。幸の好きなものを食べてみたいんだ」

「……そこまで言うなら、分かった」

 恵の提案に最初は不服そうだった幸も、最後には神妙な顔で頷いた。

「期待を裏切らないよう、頑張ってお店を選ぶから」

「うん。頼んだ」

 こういうときの幸に「そこまで真剣にならなくていいよ」と言っても逆効果だというのを知っているから、恵は苦笑混じりに頷き返した。

 幸の案内で向かったさきは、デパート地下の食品街だった。ふたりはそこで、イタリア式タコスとも呼べるピアーダを食べた。豚脂ラードの練り込まれた無発酵パンに、半熟卵、とろけたチーズ、焼きトマト、サラミ、キャベツ的な葉物などを挟んだもので、熱々のところにかぶりつくのは、とても幸せだった。

 幸が少し恥ずかしがりながらも大口を開けて頬張っている姿が印象的だった。

 口紅のことは結局、気にしなかった。


 ●


 ふたりが帰宅したのは、ビルの陰間に隠れつつある太陽がそろそろ赤みを帯び始め、街路を流れる車の量が増えてきた頃合いだった。

「ただいま」

 誰もいないと分かっていても習慣でそう声に出しながら、恵と幸は食材の詰まったスーパーのビニル袋を玄関の上がり框に置いた。駅前からの帰り、ふたりは自宅近所のスーパーに寄って、今夜の食材などを買ってきたのだった。

「荷物持ちしてくれて、ありがとう、お姉ちゃん。台所までは、わたしが運ぶ」

 さきに靴を脱いだ幸はビニル袋を両手に提げると、奥へ歩いていく。恵はそれを見送りながらサンダルを脱いだ。

「あ、あれ……?」

 と、恵が声を漏らしたのは、いつものように踵を前のほうから持ち上げようとしたからだ。恵のなかでは無意識に近い動作だったのだけど、股関節は無意識で思っていたほど滑らかに動いてくれなかったのだ。

「あ……そうか。だから女子って、靴を脱ぐときに足を後ろ側へ上げるのか」

 恵は思わず声に出して感心してしまった。

 立ったまま腰を屈めてサンダルを脱ぐという何気ない動作でも、自分の身体の至るところが女性に作り替えられているのだと気づかされる。自身の変化を知ることは怖くもあったけれど、同時に興味深くもあった。

(興味深いだとか、おれもわりと余裕だな)

 恵はふっと皮肉めいた笑みを漏らしてから、その笑みを柔らかくさせる。

(これも案外、幸のおかげなのかもな)

 顔を上げて廊下の奥を見やると、台所のほうからは幸が夕飯の支度を始めている物音が聞こえてくる。耳を澄ませていると鼻歌まで聞こえてきて、恵の笑みはますます深くなった。

(幸のやつ、本当に楽しそうだな。"お姉ちゃん"との買いものが、随分と楽しかったようで)

 そのことに考えが及ぶと、恵の笑みに陰りが過ぎるのだ。

(……楽しんでいたのは幸だけじゃなかった。おれも楽しんでいた)

 買いもの中の記憶を辿るまでもなく、恵には自分が女物の服や下着を身に着けたり、化粧してもらったりして快い気分になっていたことを自覚していた。

 いきなり女性になったしまったことへの恐怖は、いまもある。もしこのまま男に戻れなかったら――と考えると、両親にどう話せばいいのかや、転校しないといけないのかなど、現実的な思考が襲ってくる。それは朝にも考えて恐怖したことだったけれど、いまは朝より冷静に受け止められている気がした。

(家に閉じ籠もっていたら、きっとこうはならなかっただろうな。多少なりとも前向きに考えようって思えるのは、強引にでも外に連れ出してくれた幸のおかげ、なんだよな)

 しかし、笑んでいた顔もすぐに険しくなる。

(でも、幸が連れ出してくれたのは、おれが"兄"じゃなくて"お姉ちゃん"だったからだ)

 そのことを思うと、どうしても苦々しい気持ちが湧いてきてしまう。

(いや……"お姉ちゃん"を喜んでいたのは、幸だけじゃない。おれも同じだ)

 恵には分かっていた。自分が、兄としての自分ではなく、お姉ちゃんとしての自分を――妹から好かれている自分を楽しんでいたと自覚していた。

(嫌われている兄より、好かれているお姉ちゃんでいるほうが、おれにとっても幸にとっても、いいことなのかもな)

 恵の口元は自然と歪んでいく。自分の顔がいま、笑っているのか泣いているのか、よく分からなかった。

「あれ……お姉ちゃん、まだ玄関にいたの?」

 その声に顔を上げると、廊下の奥で幸が不思議そうな顔をして立っていた。

「え、ああ……うん。ちょっとぼんやりしてた」

 恵は取り留めない思考を振り払いながら苦笑する。すると幸は、あ、と声を漏らして、申し訳なさそうに俯いた。

「そうか……いきなり女になっただけでも気疲れしただろうに、そのうえ一日中、歩かせてしまったんだ。疲れていて当然だ……」

「そうじゃないんだよ、幸。べつに歩き疲れたとかじゃないんだ。ただ……」

「ただ?」

 言い淀んだ恵を、幸は俯いたまま上目遣いに見つめる。恵は履きっぱなしだったサンダルを脱ぎながら、なんでもないことのように笑って肩を竦めた。

「ただちょっと、考えごとをしてただけ。本当に疲れてないから、気にするな」

「……うん」

 幸は申し訳なさそうな顔のままだったけれど、それ以上は謝ったりしないで、この話はこれで終わりだと宣言するように、頬を持ち上げて笑顔を見せた。

「いま晩ご飯を作っているけど、まだ時間がかかるから、さきにお風呂を沸かして入っておいて」

「うん、そうさせてもらう。今日は疲れ……たわけじゃないけど、さっぱりしたいから」

 うっかり「疲れた」と言いそうになって苦笑いする恵に、幸もくすっと、今度は自然な感じに微笑んだ。

 それから四十分後、恵は熱めのお湯を満たした湯船に鼻の下まで漬かって、ぶくぶくと溜め息の泡を作っていた。

「……」

 肺に溜め込んだ空気を口からゆっくりと吐き出して湯船に泡を弾けさせながら、恵は自分自身がどうしたいのか、どうするべきなのか――真剣に考えていた。

(できるなら、男に戻りたい。うん、それだけは、はっきりした)

 女のままでいいかも、と弱気になっていた気持ちが一転したのは、お風呂の前にトイレへ立ち寄ったからだ。

 女になってから現在までに数時間が経過しているし、その間に飲み食いだってしているから、トイレ自体はもう何度か利用している。朝、出掛ける前にも自宅で用を足したし、デパート内でも利用している。最初は確かに気恥ずかしさがあったけれど、しないわけにはいかない行為だ。

(これは生命維持に必要な行為なんだ。息を吸ったり、瞬きしたり、ものを食べたりするのと同じく必要なことなんだ)

 自分にそう言い聞かせて最初の二回を乗り越えた後は、一人下着ファッションショーを完遂したこととも相まって、便座に腰かけて小用を足すという行為自体への抵抗はもうなくなっていた。

 そんな恵を戦慄せしめたのは、便座に腰かけたところから見える棚へ無造作に置かれていた生理用品だった。朝には何もなかったはずだから、たぶん、さっきのスーパーで幸がいつの間にやら買っていたのだろう。もっと見えないところに仕舞うつもりで一時的にそこの棚へ置いていたのを、そのまま忘れてしまったのだろう。

 とにかく、その生理用品を目にしたとき、恵はついにそのことへ思い至ったのだ。

(このままずっと女だったら、おれにも、あ……あれが、くるのか……!?)

 恵には、自分が生理用品を使っているところを想像するのは不可能だった。生理用品なるものが正確にどういう物体で、どういうふうに使用するべきものなのかをよく知らなかったからだ。ただとにかく言えるのは、そんなものを使っている自分を想像したくなんかない、ということだった。

(絶対、男に戻ってやる!)

 湯船に顔の下半分を沈めたまま、恵は最後の息を搾り出しながら、自分に向かって宣言した。そして、大きな水音をさせながら顔を上げると、大きく息を吸い込んで大声で言った。

「絶対、男に戻ってやる――!?」

 恵は叫んだと同時に息を飲んでいた。恵の喉から飛び出して浴室内に勢いよく残響した声が、変声期を終えた青年の太い声だったからだ。

「えっ、え!?」

 危うく転びそうになりながら湯船から出ると、洗い場の鏡の前に膝をつく。

 鏡に映っていたのは、恵だった。短い髪に平らな胸、広い肩幅。そして、女性にはないものが付いている股間。どこからどう見ても、男の身体をした恵だった。

「お、お……おおぉ……!」

 恵は鏡を見たまま、両手で自分の身体をぺたぺた触って、鏡が嘘を吐いていないことを確認する。そして確信するや、快哉を上げた。

「男に戻ってる! やった、やったぞぉ!!」

 どういうわけかは分からないが、恵の身体は男に戻っていた。

(でも、どうして急に戻ったんだ……?)

 そのことは気にならないではなかったけれど、いまはとにかく、男に戻れたことが素直に嬉しかった。

「やった、やった、やった!」

 風呂を上がった恵は、馬鹿みたいな顔で笑いながら、脱衣所に用意していた男物のティーシャツとジャージに着替えた。女の身体で着るのとは布地の当たり具合が違っていて、男に戻ったのだということを実感できた。

 脱衣所を出た恵は、スキップするような軽い足取りで廊下を抜けて、台所に駆け込んだ。

「幸、見てくれ。男に戻れたぞ!」

 コンロの前に立っていた幸に、恵は喜び勇んで声をかける。一日中心配させてしまった幸に、無事に男へ戻れたことを報告したかったのだ。幸もきっと喜んでくれると思っていたのだ。

 振り向いた幸は、笑っていなかった。

「……そう、戻ったの。よかった」

 抑揚の少ない声からは、幸が本当に「よかった」と思っているようには聞こえなかった。

「あ……うん」

 幸の素っ気ない態度に、恵の喜びは急速に失せてしまう。男に戻れたくらいのことで大袈裟に喜んでいる自分が、急に恥ずかしくなってきた。

 幸はエプロンを外しながら、恵のほうを見ないで告げる。

「わたし、お風呂に入ってくる。夕ご飯は、そこのお鍋を温めればすぐに食べられるから、さきに食べていて。洗いものは流しに置いていてくれればいいから」

「うん」

「じゃあ」

 幸は目を合わせることなく恵の横を通り過ぎて、部屋を出ていった。台所に一人残された恵は宙ぶらりんになった気持ちを持て余したまま、ぽつねんと立ち尽くす。

 コンロを見れば、蓋の閉まった大きな土鍋が乗っている。中身は見なくとも分かる。さっきスーパーで買ってきた食材で作ったカレー鍋だ。

「……一人で食べていてと言われても、鍋を一人で食べるのは空しいんだが」

 恵は鍋を見ながら呟く。だが、腹のほうは意見が異なるようで、手は勝手にコンロのスイッチを捻っていた。昼食は遅めだったけれど、一日ずっと歩いていたために、早くも腹が減っていたのだ。

(さっきの様子だと、幸のやつ、風呂を上がってもしばらくは夕飯にするつもりはないんだろうし……まあ、仕方ないか)

 恵は溜め息混じりに鍋を温め、一人で食事した。

 一人で食べる鍋ほど味気ないものはない――と思いつつも、締めのうどんまでしっかり食べた。出汁の利いた和風カレー味が染みた春キャベツと春玉葱は、何だかんだと後を引く旨さだった。

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