第3話 虎の物語(2)
彼は空腹だ。もうどれ位獲物を仕留めていないだろう。このままでは飢え死にしてしまうかもしれない。もちろん、それでも構わないとも思っていたが、やはり目先の空腹を満たせるのであれば満たしたいとも思っていた。
こうして、今日も生きる事の矛盾が生産される。生きる事なんてまるで執着していないかの様なポーズを気取りつつも、やはり空腹は我慢しがたい。空腹を満たしたい。それが本能的な気持ちだ。
しかし、仮に獲物を見つけたとしよう。それは明日を願って必死に生きたい者かもしれない。それでも彼は可能な限り仕留めにかかるであろう。
必死に生きようとする獲物をしとめ、もがき苦しむ獲物を食らう。生きるために。
そんな価値が果たして自分にあるのであろうか。
生きる事に執着していないはずの者が、生きる事に執着している者の命を食べて空腹を満たす。その矛盾を、彼は、シニカルに笑い飛ばした。そうしない事には正気を保てなかった。
罪悪感。祈り。終わり。祈り。祈り。祈り。
彼は、なんとなしに、西に向かって歩を進めてみた。もちろん、獲物を探して彷徨っているのであるが、どうせどこにも当てなどなかったので、西に向かおうと思ったのだ。
東の空に太陽が上り一日が始まり、西の海の向こうに太陽が飲み込まれて一日が終わる。
彼は、自分のような者には、始まりを表す華やかな東よりも、終わりを司る西の方角の方が似合っていると思った。
そうだ。この世界は様々な祈りに満ちているが、彼は終わりを祈る者であった。
そうして、なんとなしに歩き続けていると、獲物の気配を感じた。
(…人間だ)
人間は最も危険な生き物だ。もちろん、仕留めれば立派な食料になるが、こちらが殺されてしまう事の方が圧倒的に多い。彼の仲間も、実に多くの者が人間に殺された。近しい種族の虎は、人間に娯楽や狩猟目的で乱獲され続け、最後にたった一頭残った者も、人間に射殺されて滅びた。
最後に残った一頭の気持ちを想像してみた。もちろん本能的な恐怖はあったであろう。しかし、それを乗り越えてしまったら、案外達観していたのではないだろうか?――ようやく孤独から開放される、みんなの元にいける――と、逆に安堵すらしたのかもしれない。
人間からすれば何も考えなどない行動だったろうが、それは救済の凶弾だったのかもしれない。
彼はそんな風に想像してみた。
彼は、さて、自分にも救済がやって来たのかも知れないな、と考えると特に恐怖に駆られる事もなく、気配のあるほうに慎重に歩を進めた。
鬱蒼と生い茂る木々と、すこし纏わりつくような青臭い臭いの中に、確かに人間の臭いを感じる。
…子供だ。
まだ、こちらには気づいていないようだ。それどころか少し心配になる位薄い警戒心で森を闊歩している。こんな相手一ひねりだ、久々についているな、と思い、彼は一気にその人間の子供の下まで駆け寄った。
背後から一気に仕留めてしまってもよかったが、どうせ子供相手だ、正面からでも危険はあるまい、彼は少しの慢心と共に、少年と対峙する。それは、憎き人間へのささやかなる仕返しの気持ちもあったのかもしれない。対峙して、さぞ恐怖に震えるがいい。そんな気持ちがあった。
しかし、対峙した少年を見て、様子が変わった。
彼は、戸惑った。
自分は今、酷く空腹である。目の前にいるのは憎き人間の無力な子供。こんな絶好の状況はそうそうあるものではない。
しかし、彼は感じてしまったのだ。少年の孤独の臭いを。己と同じ孤独の臭いを身にまとっている事に。
無理な事であった。孤独が孤独を食べる事など決してできない。彼は諦めて、他の獲物を探す事にした。
虎は、空腹を満たし損ねた。
西の空の赤さも限界が近づき、夜を迎えようとしていた。
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