第1話 運命られた出会い -2-

 ——迷いの森。皆がそう呼ぶ森に行く。皆、というのは苗字なしの子供だけでなく、苗字なしの大人達、いや、そればかりでなく苗字を持っている人たちでさえそう呼ぶ恐ろしい森。迷い込んだりしたら、本当に抜け出せなくなってしまう森が、ここを抜けてあともうちょっとだけ歩いた先に、広がっている。

 年に何人もの大人も子供も、迷いの森に迷い込んでは行方知れずになっているような、そんな森だ。オプスパベルの連中も、流石に最初から何もせずに放置した訳ではないが、派遣した兵士一師団までもが出てくる事叶わず、ある日無残に骸だけが投げ出されたかのように入り口に打ち捨てられ放置されていた、という件があってからというもの、投げやりなロープと、『この森入るべからず』の看板を設置するだけのおざなり対応に終始している。

 リクの母はリクに対してこう言っていた。

「この地区に住んでいるのはどうせまともな身分でも平民。多くは苗字なしなのだから、誰からが迷い込んでも、『どうせ苗字なしだ』で終わるんだろうよ」

 苗字なしには、文字一つ読めない者も珍しくないというのに。ちなみにリクは文字を読める。母から教わったものの一つが、文字だった。母は物知りで、この国、オプスパベルの文字だけでなく、その隣近所にある国々の文字についても、教えてくれた。だからリクは、両手に抱える重たく分厚い本の文字を読むのに、さほど苦労しないのだ。

 迷いの森についてまずリクがすることは周囲の確認だ。人に見られないよう、薄暗い入り口で身を屈めて静かに入り込んでいく。これはあまり苦労しない。人通りは少ない場所だ。人がいても、苗字なしの子供になんて誰も興味を持つものか。素知らぬ顔で俯いてジィッとしていれば、関わり合いになりたくもない、と人は立ち去っていく。森に入れば、——ここからが重要だ——身を屈めたままの姿勢で、こそこそと歩く三十歩の先、右手の大きな木。季節は冬が春に変わる頃。背の高い草、リクの全身が見えなくなってしまいそうなほど長い草に纏わり付かれながらも、リクは目印の常緑樹を見つめる。すると、

「やっほ。リク。今日も来てくれたんだ」

 静かに木々と、背の高い草を揺らす風に乗って、リクにだけ聞こえる声を響かせる者があった。

 「うん! 今日も来たよ。遊ぼ! ソラ」

 リクは両手に抱えていた本をどうにか左腕一つに抱えて、自由にした右手を木の上へと伸ばし、言った。

「うん!」

 と答えた子供のような声の主は腰掛けていた目印の木の枝から元気よく飛び降りた。地面はいつだって日がまともに当たらないためか柔らかい。ストンと両手両足を揃えて着地したソラという名の子供はリクの右手を柔らかく掴むとニコっと微笑む。リクも、それに合わせ微笑み返すと、そのまま二人は森の奥へと消えた。

 リクとソラの出会いは一昨日のことだった。母におつかいを頼まれたついでにまたゴミ置き場に行って本を拾っていたのだが、そこで自警団に見つかり追いかけられてしまった。自警団に捕まってしまえばどんな目に遭うかわかったものではない。彼らは名ばかりの集団で、オプスパベルの下層民、つまり苗字なしが住まうこの一帯の治安を守る大義名分のもとに気に入らない存在を——時には平民や子供にさえ平気で手を上げることがある——リンチする連中だ。リクは必死に自慢の逃げ足を発揮し迷いの森の入り口まで駆けた。

 勿論リクは迷いの森へ入る気など毛頭無かった。そこへ入り込めばどうなるか、そこについて母から聞いた言葉を忘れたりなどしたこともなかった。だが、迷いの森へ入る道以外の全てを、一体どのように連絡を取り合っていたのだろうか。自警団に待ち伏せされてしまったのだ。どうしようかとリクが泣きそうになりながら迷いの森へ後ずさりをしていたその刹那、その手を一気に引き込んだのがソラだった。

 リクは最初びっくりしてその手をふりほどこうとしたが、背の高い草地へ入り込み、不安定な足下でバランスを維持することの方が大変になってしまった為に叶わなかった。でも、よくよく見てみればその手の大きさ、力の加減、時々見える体つきが、どう考えても大人のそれではないことが、リクにもわかってくる。だから、

「ね、ねぇ! ちょっと!」

 なんていう風に声を出してその子の足を止めようとした。リクの声に反応して今まで手を引っ張り続けてきた相手ははた、と足を止めて、息を切らしながらリクの方を振り向いた。

 長い髪の毛がフワリと風にゆれて舞う。それも、今までリクが見たこともないような、美しく空気に透き通るような白く細い、高級な絹のような美しい髪だ。リクは思わず、

「きれいだなぁ……かわいいや」

 そう口走っていて、それを聞いた相手の子が、

「……え?」

 と驚いたような顔と声で返されてしまう。

「い、いや! なんでもないよ!」

 リクがそんな風に顔を赤らめて首を振りながら誤魔化して二、三秒。静寂が来てから、

「危ないところだったね、リク」

 そんなことを、彼女は口にした。

「あ、ありがとう……。あれ? ぼく、君に名前教えたっけ……?」

 そんな風にリクが聞くと、今度は彼女の方がどぎまぎし始め、

「え、あ! あ、あの、ね」

 いろんな言葉を短く言って、すぐに黙る。その後に、ニコッと笑って、

「ないしょ!」

 そんな風に言ってから、えへへ、と笑う。

「え? そうなの? ないしょなの?」

 とリクが問いかけると、

「そうよ。綺麗な女の子は内緒を持ってるものなのよ」

 得意気な顔をして胸を張って言う自分と年の変わらなさそうな少女をリクは見て問う。

「そしたらさ。名前も内緒なの?」 

「あ……えっと、えーっと」

 そんな風に口を濁しながら少女は空を見上げてしばらく黙り込む。上を向いたのと同時にまた長く真っ白で細やかな髪の毛がふわりとした。そして、

「ソラ! わたしの名前は、ソラ!」

 大きな声で答えた。迷いの森はいつだって木々もそうであるが空までもがうっそうとしている。でも、リクにはソラという名前の語感も、美しく透き通った白い髪も晴天を思わせるように感じられ、まるで彼女の周囲だけはそのうっそうとした空気が弾かれて、新鮮で澄んだ空気が漂っているように思えた。

「へぇ……。ソラ、かぁ! 良い名前だね。きれいだ」

 そんな気持ちでしみじみとリクが言うのを聞いたソラは、

「そ、そう、かな……」

 と少しだけ顔を赤らめて言った。顔を赤らめる程に照れ臭く感じているのだろう。体も少しだけ横に揺れており、それに合わせて着ているこれまた真っ白のスカートもひらひら揺れる。

「そ、それよりもリク。どうしてあいつらに追われていたの?」

 ソラが今度はリクに問う。リクがそのいきさつを話して、最後、ソラにこの迷いの森へ引っ張り込まれた部分に話が入った瞬間、

「あぁーーー!」

 リクは叫び声を上げる。ソラがびっくりして体を飛び上がらせてから、「え? 何? どうしたの?」

 と聞くと、

「迷いの森に入っちゃった……ぼく、もうこの森から出られないんだ……どう、しよう……」

 涙を目に浮かべながらリクはソラに告げる。オプスパベルの一師団がこの森に入り込んだ際にも、出てきたのは骸だけだったことも合わせて。だが、それを聞いてもソラは顔色一つ変えず、

「この森にそんな恐ろしい動物なんていないわ。それに、ここってそんなに言うほど迷うような場所でもないし」

 そうあっさりと答えてあっけらかんとしている。

「……ふぇ?」

 リクの気の抜けた返事。

「わたし、ずっとリクとお話したいなって、思ってたんだ。今日はそれが叶ってとってもうれしいから、リクにこの森の中とか、色々案内してあげたかったんだけど、でもおつかいの途中なんだよね。じゃあ、出口まで連れてってあげる。……一緒に来て」

 優しく差し出される左手をリクは右手でつかむ。見た目通りの、小さくて柔らかい手。その手に導かれるようにして、本当に一本道。まっすぐに歩いただけで、いとも容易く迷いの森の入り口、ソラがリクの手を引っ張り込んだ場所にたどり着いてしまった。自警団も、流石に迷いの森に入り込んだ子供を待ち伏せるようなマネはしていないようで、その姿は完全になくなっていた。辺りはもう、薄暗い。その別れ際、ソラはリクの額を指先でなぞるようにして、

「おまじない!」

 そう言って指を離す。あっけにとられて呆けているリクにソラは言葉を続ける。「このおまじないをしたら自警団、だっけ。あの人達には会わないよ。まっすぐお家に帰ってね。それと、わたしこれからも森の入り口の近くで待ってる。だから、また来て。わたし、待ってるから」

 そう言ってソラは足を森の中へ踏み入れる。ソラよりも、そしてリクよりも背の高い草を、手で支えて首だけ出す形でソラはリクのことを見ていた。リクの姿形が見えなくなってしまうまで、ずっとソラはそうし続けていた。

 それから今日で三日目。リクは毎日ソラに会いに来ていた。二日目にはリクが持っている本に興味を示したソラが、いくつか読んでみたいとページをめくってみたが、

「何これ、全然意味がわからないよ、リク。リクって頭良いんだね。こんな難しい本を読んでるなんて」

 という感想に終わった。もう一冊の本は図鑑で、これを読んでいると時間はあっという間に過ぎ去ってしまった。

 三日目、今日は森の中の泉に案内してもらった。泉に湧く水のおいしさはとんでもなくて、古臭く老朽化した井戸水とはまるっきり違う透明さと舌触りの柔らかさにリクは感動していた。その別れ際には、二人の集合場所も決めた。入り口から、リクの体よりも背の高い草を分け入り三十歩。右手にある大木に、森を案内される時に荷物になるからと置いてきた本があり、それがそのまま集合場所になった。

 問題は、そう。その次の日のことだった。

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