第1話 運命られた出会い -1-

 少しだけ。そう。ほんの少し。何かの甲高い音が響いたその場所から徒歩三分程度。彼の歩幅で三分程度離れた位置。これまたお世辞にもきれいなどとは言えない、それでも先ほどの場所より多少はましに見えるボロくて小さな家から、一人の男の子が姿を現した。名前はリク。オプスパベル国の身分制度のせいで、苗字を持たぬ少年であった。髪の毛はクリーム色、瞳が青く輝いている。

 その瞳は家の南側。件の声が響いた方向とは真逆の方向にあるゴミ置き場の方を向き今にも駈け出さんと煌めかせている。

「お待ちなさい、リク。ちゃんと挨拶くらいはして出て行きなさいな」

 家の中からやや低く響くその声に、

「わかってるよ。ぼく、もう赤ちゃんじゃないんだから、大丈夫。剣も持ったし、すぐ帰るから。いつも行ってる所に行くだけだから。それじゃあ、行ってくるね。お母さん」

 そう返事をして、「行ってらっしゃい」の言葉も聞かずに彼は家を飛び出して行ってしまった。その「行ってらっしゃい」の声も、その者の見てくれも、幼いリクのお母さんとしては幾分年老い過ぎている女性は、「…………」深いため息を一つ吐くなり、木桶を一つ持って家を出る。大した用事ではない。今日の夕餉の支度をするために井戸の水を汲みに行ったのであった。

 リクが向かったゴミ置き場には大小様々なゴミが、申し訳程度の分別をされてぶちまけられている。ぶちまけられて、という文言からその程度が察せられる通り、この場には大量の虫がわき、異臭がたちこめる。誰もここに好き好んで立ち寄ることはしないのであるが、リクは違う。いや、リク以外にも背格好の同じくらいの子供たちが大量にいるのではあるが、リクがここにいる子らと異なるのは、その目的である。

 子らは当然ゴミの中から日々の生活に活かせるもの。例えば、まだ食べられる残飯やら、売って金にできる金属片やらをかき集めるのであるが、リクの場合はというと、

「うわぁー。今日も一杯埋もれているなぁ」

 という感嘆の声とともに拾い上げたのは、本。絵本のような子供向けでない、使い古されてはいるがまだ辛うじて本としての役割を保っている学術書等の類である。リクはこうしてゴミの山に埋もれた本を拾い上げては読み漁ることを好んでいた。

 オプスパベルでは本は大した値段で取引されない。ましてや一度こうしてゴミ置き場に出されてしまったような汚物だ。到底金にはならない。だがリクはゴミの汚れを丁寧に拭きあげて大事そうに抱えて歩く。その様子が周囲の子供や大人の目に奇異に映ることは当然のことであり、それが元で絡まれてしまうことも多々あったが、そんな時は背中の剣を抜いてしまえば解決だ。実際に斬りつけるのではない。その剣は所々が錆び、刃こぼれしていた。実用には堪えない代物であることがリク自身にもわかる程だ。でも、同年代の子らは武器を持たぬし、大人でも一瞬はたじろぎ身構える。その隙に逃げ去ってしまえば良いのだ。逃げ足には自信があった。

 剣をなぜ持っているのか、それをリクは知らない。これがどういう経緯で母の手元に入り、そしてどうして自分が持っているのかを母は教えてくれないのだ。もっと不思議なことを言えば。自分には容易く、そう、幼く小さな手指しか持たぬリクが片手で扱えるほど軽いこの剣を、母は渾身の力を込めても持ち上げることができない。

「こんなガラクタなんて、見るのもイヤだよ」

 と小言をぐちぐち言いながらも、捨てることも隠すこともできやしないまま、今もリクの手許にあり続けていた。

 ゴミ置き場から今日は二冊持ち帰る。いつもは三冊くらい、最高で五冊拾ったこともあるのだが、その時は流石に前も見えないし重さでふらふらしてしまうしで大変だったので、今日は少なめにしたのだ。帰り際、

「よぉリク。いつもお勉強関心だねぇ」

 化粧気もなく褐色のボロボロとした肌をした女が話しかけてきた。足が悪く働くことができないのに子沢山なこの人は、決して悪い人ではないことをリクは既に知っている。

「うん。おばちゃん。今日も皆頑張ってるね。……ところで今日は自警団の人たちって……」

 声を潜めてリクが問うと、

「んあぁ。それは安心しな。アンタが来るちょっと前に立ち去っちまったよ。しばらくは戻ってこねぇさ」

 頬をボリボリ掻くと一緒に垢やら何かの汚れやらが一緒くたに落ちていくのが目に見える。それが異常なこととは思わない。リクも実際、体を綺麗にする、なんていうことをした覚えが特にない。せいぜい、ラウァ。お母さんから濡れタオルで体を拭いてもらうくらいだ。いや、さすがにもう数えで八歳になるのだから、体くらいもう自分で拭ける。けど、ラウァがどうしても拭きたそうにするから、そうさせてあげているにすぎない。

「そっか。ありがとうおばちゃん!」

 そう言ってリクは意気揚々とその場を去り、家への道を歩き出した。その背中を見て、女がつぶやく。

「それにしたって何であの子は勉強なんてするのかねぇ。苗字なしに生まれっちまったら、学校にも行けないし、まともな職になんざ就けやしないってのに」

 リクはその本を持って、行くべき場所がある。学校などではない。苗字なしにそのような場所へ行く権利はない。そこはいかにも身分の高そうな子供達が、いかにも立派そうに、——それは多分我が家で自らの親がやっていることの真似をしているのではないか、とリクは思う時がある——胸を反らしては苗字なしの子供達を得意気に見下して鎮座する場所だ。その為に、学校は苗字なしの住む貧民街と平民の住むある程度まともな区域との境目に建てられていて、更に校門には門兵まで立っているのだ。

 今から行く場所へ行くには、そこを通らなければならない。リクは、気が重く感じる、なんていうこともなくそこを通り過ぎていく。通り過ぎていくその最中、背中にチクチクとした視線と何かクスクスとした笑い声とを感じたが、それもリクは気にしなかった。何せここは学校だ。オプスパベルの学校とは、上級なり平民なり、それなりに身分を持った子供達が、そうでない子供達を見下し嘲笑するための場所だ。

「あぁ良かった。俺は、僕は、私は、あいつらとは違う」

 そんな気持ちで通うことを強いることさえする場所だということを、幼いリクも知っていた。……それは全て、母に教わったことだった。リクは母から沢山の事を教わった。ここに列挙するにはあまりにも多い諸々の事を、教わった。今からリクが行く場所は、そんな母から、決して行くなと教わった場所だ。

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