第7話 1983年8月5日
八月五日。その日の朝は最悪だった。今の僕は殺されるのを待っている囚人と同じである。布団から重たい体を引き摺り出すと昨日両親が喧嘩していた、居間兼両親の寝室へ顔を出した。母ちゃんは一睡もしていないのか、いつもの笑顔が強張って見えた。結局昨日の夜父ちゃんは帰らなかったみたいだ。こっちに来て始めて新聞を見た。今夜カックラ金やるんだ。見たいなー。カックラ金は研ナオコや野口五郎、郷ひろみなどが出ていたバラエティー番組だ。この後二・三年で番組は終わってしまい最終回を泣きながら、笑いながら見たことを思い出す。でも今はそんなことはどうでもよかった。二日後に元の世界に戻る大人の僕と、これからあの父ちゃんと二人暮らしをしなければならない子供の僕が絶望の淵に立たされていた。あの男の子に殺されたらその両方とも消えるのだ。どちらも嫌だが殺されるのが一番嫌なことは明らかだ。僕は楽しみだった母ちゃんのご飯を半分近く残すと何も言わずに家を出た。このときの母ちゃんの最後の台詞は、「もう食べないの?片付けちゃっていいの?」何も返事をせずに歩いていってしまう子供に最後に掛ける台詞ではない気がした。このときの母ちゃんには息子が変だと気づくことさえ出来るような精神状態ではなかったのだろう。それでも僕らの前では気丈に振舞っていた。それで精一杯だったのだ。僕の方は僕の方で母ちゃんの精神状態など考えもせずにただすべてが嫌になっていた。やはり人間は親子でも自分のことで精一杯になると相手のことが見えなくなるものなのかもしれない。ぐらぐらな精神状態のまま外へと出た。それからどこに向かうわけでもなくただ歩いた。この時代はまだ道路が完備されてなかったせいで、車が通るちょっとした大通り以外は砂利道で土が丸出しだった。だから昨日のような豪雨があると次の日は外に出ると水溜りがあちらこちらに出来ていて足元がぐちゃぐちゃで、目的地に着く頃には靴が真っ黒になってしまい最悪だった。そんなぬかるんだ道を歩いていたら、昨日の雨で水かさがいつもの倍以上になった大熊川に着いていた。そういえば学校でも家でも雨の日には決して大熊川には近づかないようにと言われていた。しかし今の僕にはものすごい勢いで流れる死の河とかした大熊川に怖さはなく、何故か濁流に居心地の良さを感じた。元の時代に戻っても故郷のみんなに非難されながら校舎を壊さなければならないし、この時代にいても優しい母ちゃんはいなくなり、父ちゃんとの二人暮らしが待っている。先のことを考えると自分のこれからの人生に何の面白みも生き甲斐も感じられなかった。眼下には水かさが増した泥水が全てを飲み込まんとするが如くに音を立て激しく流れていた。その様にいつしか見とれ、川に吸い寄せられるようにだんだん、だんだんと近づいていった。真っ黒く濁った水はまるで化け物、今にも餌食を食わんとしていた。その時だ、何かに背中を押されたようなに感じた。ふぁっと空へ浮いた次の瞬間、「バシャーン!」物凄い濁流が獣のように全身を食い千切っていった。バタバタ藻掻いてはみたが、赤子の手を捻るよりも安易に濁流は僕を飲み込んだ。口や鼻は既に機能しなかった。体に掛かる半端じゃない圧がどんどん僕の気を遠退かせた。もう駄目だとか、僕はこのまま死ぬんだとか考える暇もなかった。薄れ行く意識が段々と楽にしてくれる中、全身に全く力が入らない僕の腕をぎゅっと掴むモノがいた。そのまま僕は気を失った。
「起きて、起きなさい」その声にゆっくりと目を開けると、そこには古の言霊だと名乗る女の子に見降ろされている光景があった。「あなた、言霊師なんかじゃなかったんだね」女の子は幾分がっかりしたように目を伏せた。一言もそんなこと言ってないじゃんと言い返せるほどの体力が今の僕にはなかった。そんな僕の状況を知ってか知らずか女の子は話を進めた。「あなたが言霊師なら、あの男の子に言霊を掛けられたりしないもの。でもあなたは掛けられてしまった。でもあなたが落ちたあと、あれだけの濁流が静まり返った。それでもあなたは言霊師ではない。だからあの言霊には勝てない。もしまた目の前に現れたら、その時は逃げて、必死で逃げるの。いい、分かった?」僕は女の子が語った内容などほとんど理解もせずに頷いた。そして寝たままの状態で河を見た。そこにはさっきまでのバケモノはいなくなっていた。「あなたには物凄く強い一本の木霊が付いているみたい。その一本の木の思いがあなたを救ってくれたのよ」そう言われ辺りを見渡したが、近くに倒れている木など見当たらなかった。代わりに見たモノ、それはうつ伏せに倒れたまま今なを意識を取り戻していない母ちゃんの姿だった。立ち上がれないと思っていたはずがすぐに立ち上がり二メートルほど離れた母ちゃんの下へと急いだ。「母ちゃん、起きてくれよ!」大声で叫んでも母ちゃんの意識は戻らなかった。僕は何度もしつこく叫び続けた。すると唸り声のあとに水を吐き出した母ちゃんが意識を取り戻した。そして彼女の目に僕の姿が写った瞬間、「た、た、太郎!」泣きながら笑う母がきつく僕を抱きしめてきた。ビショビショになった母ちゃんを見て我に帰った。そしてビショビショで冷たいのに暖かかった。あの女の子の姿は既に無かった。僕は母ちゃんに助けられたみたいだ。母親は息子の異変に気が付いていたのだ。だから跡を追ってきたのだろう。その日は父ちゃんも早く帰ってきた。日記ではザリガニを掴む練習になっていたが、それどころではなくなった。これで一生ザリガニを触れないかもしれない。父ちゃんが昨日のことを母ちゃんと僕に謝った。そして僕を強く抱きしめてきた。こんな感動的な場面の中、埃と汗の臭いが気になったがいい匂いにも思えた。僕ら家族を放ったらかしにしていたと思っていた父親が本当は家族の為に汗を流していた証拠なのだから。
ふと腕時計に目をやると夕方五時半、残り時間は253800秒、つまりこの時代に居られるのも残り三日ほどだった。
その夕方、田中が家にやって来た。玄関のドアを開けた瞬間「よかった!生きてたか」呆気に取られていると、「ごめんな!太郎。助けてやれなくて本当にごめんな」田中が柄にもなく目尻を濡らしていた。やはり大切な友達だと実感できたのも束の間、「早く用意しろ!今から吉田の家に行くぞ!」次の瞬間にはケロッと話題を変えられた。しかしその夜は一家団欒をしたかった僕は断る為に口を開こうとした瞬間、「そのままでいいや。大事な話なんだ」そう言って田中は僕の腕をきつく掴んだ。田中の尋常じゃない行動と真剣な面もちに僕は自分の意志を通すことが出来ず、言われるがまま吉田の家に連れて行かれた。雨上がり夕方のチロリン村は相変わらず怖かったが、それ以上に田中の真剣さが僕の中では驚きで怖さは何分の一にも小さく感じられた。チロリン村を抜けもうすぐ吉田の家に着こうかというときに僕は田中に掴まれ続けた腕に痛みを感じた。「痛いよ!もう逃げないから放せ」そう言って田中の手を振り払った。「ごめん、太郎。いいか、これから聞く吉田の話は真実らしいんだが、話は冷静に聞けよ。いいな!」田中の言っていることが理解出来なかったが真剣さに思はず頷いた。そして吉田の家に着いた。玄関を開けるとそこには綺麗な女の人が立っていた。「あっ!」僕は呟いた。すると女の人は小さく会釈するとニコッと微笑みかけてきた。しかし僕は固まったまま動けなかった。何故ならその女の人は僕が元の世界で最後に立ち寄ったあの薄気味悪い喫茶店で僕にコーヒーを出してくれた店員さんその人だったからだ。完全に固まっている僕の肩を田中が優しく叩いた。「大丈夫か?」その言葉に体の自由が戻った。既にその女の人はいなくなっていた。「太郎が来たぞ」そう言うのは篤志だった。部屋にはいると四人全員が揃った。そして僕の顔を見るなり「太郎、ごめん」頭を下げていたのは吉田だった。全く訳がわからずキョトンとしていると、一言謝ったあとは泣いたまま話すことが出来ない吉田に代わって田中が口を開いた。「太郎、今朝おまえ河に飛び込んだんだって!お袋さんに助けてもらったんだろ?でも何でおまえ自らあんなに氾濫した川に飛び込んだんだ?」だから僕は答えた。「それがわからないんだ!気が付いたら川岸でずぶ濡れでその横に母ちゃんが倒れていたんだ」ずっと泣いていた吉田が話し始めた。「実はそれは僕のせいなんだ!昨日みんなが帰ったあと僕の前に目ん玉が真っ赤な気持ち悪い男が現れたんだ。そいつは人間じゃなくて言霊だって言ってた。多分太郎が見たモノと同じだと思う。そいつが言うんだ、誰か恨んでいるヤツはいないかって。おまえの姉さんを殺した太郎のことが憎くないのかって。そのとき僕頭の中でいろいろ考えていたら姉さんを殺したのは太郎じゃないかって思えて来ちゃって。そいつに太郎を殺してって頼んじゃったんだ!だってあの日、姉さんが殺されたあの日、僕が高校三年生の時のことだ。姉さんは太郎の家にほど近い出来たばかりの喫茶店でアルバイトをしていたんだ。しかしその日に姉さんは帰らぬ人になってしまった。放火だよ!放火魔が姉さんの働いていた店に火をつけたんだ!その犯人は元の時代でも捕まっていないんだ。僕はその犯人が憎くて憎くて仕方がない。だってそいつは僕の大事な姉さんを奪ったばかりか、家族の幸せそのものをぶち壊していったんだ。だから許せなかった。だからそいつに太郎が犯人だって聞いたとき信じてしまった。でも今日の朝、姉さんが枕元に立ってて、そして僕に言ったんだ。太郎君じゃない!犯人は太郎君じゃない!友達なんだから信じなさいって。僕驚いて飛び起きると姉さんに聞いたんだ。じゃあ犯人誰だか知ってるの?姉さんキョトンとした顔をしていた。そのときだ腕時計が鳴ったんだ。見てみると“これから起こることを決してこの時代に生きている人に言わないでください。言うと聞いた人にもっと恐ろしい災いが起きます。だから決して言わないでくださいって書いてあったんだ」吉田は泣きじゃくり話せる状態ではなかったがそれでも話すことを止めなかった。「放火で殺されるのに、死んでしまうのにそれから姉さんを救うために話してしまったら、それ以上に恐ろしいことが姉さんに起こるって言うんだ。殺されるより不幸な災難て何だよ?そんなのあんのかよ!」完全に取り乱している吉田の肩を篤志が優しく叩いた。「そういうことなんだ。だから吉田のこと許してやって欲しい」そう田中に言われた僕は、「当たり前だ」すると吉田が泣きながら、「ありがとう」そう言ったあとは少し笑顔を取り戻していた。多分初めてだろう、吉田とこんなに面と向かって話したのは。吉田とは同じグループにこそいたがそれほど仲が良かったわけでもなく、ただお互い同じグループということ以外は何の共通点もなかった。だから吉田にお姉さんがいたこと、そして高校の時にそのお姉さんが殺されたことを僕は全く忘れていた。僕らの友情ごっこをぶち壊すように田中が話し出した。「でっ、その言霊とかいうお化けはどこにいるんだよ?そもそも何者なの?ただ吉田が殺してって言っただけで太郎は自ら川に飛び込んだんだろ?それも本人はほとんど無意識のまま。それって凄い力を持った人間か、信じられないけど妖怪だろ?」今度は顔面蒼白の篤志が話し始めた。「そんな人間妖怪が俺らに何の用があるんだ?何が目的なんだ?」するといつも一番冷静な田中が、「言霊だろ!ってことは人が発した言葉に魂が宿るわけだから、それが人間だろうが妖怪だろうが俺らが何かを言わなければ何にも出来ないんじゃないか?現に吉田が言ったから太郎は死にそうになったわけだろ?」ここまで来たら僕も話さないわけにはいかなそうだ。「実はその男の子の目が赤いのは俺がやったことなんだ。昨日片桐山で言霊と名乗る男の子に恐怖のあまり傘を投げつけたんだ。それからは何度も耳鳴りが止まなくて、痛い!痛い!許さないからってずっと聞こえてくるんだ。だから彼は吉田を使って俺に恨みを晴らそうとしたんだと思う」田中には既に話していたことだったが、その話に吉田は青ざめていた。篤志は相変わらず震えていた。皆それぞれが予想通りの反応を示したことが可笑しくて笑ってしまった。「何が可笑しんだよ!太郎」「そうだよ。こんなまじめな話をしているっていうのに」田中や篤志が憤慨していた。「ごめん、ごめん。だってみんなの反応が可笑しくて」すると急に篤志が胸を張って前に出てきた。それがまた可笑しくて笑うと吉田も笑い出した。それに釣られて田中も笑い出した。そして最後に篤志も笑った。多分意味も分からず笑っているのだろう。皆で笑ったらすっきりした。「敵、現れたな」何時になく冷静に篤志が漏らした。「でも、それと校舎の心残りは関係あるのかな?」田中が言うと、「関係ないといいな」何時でもポーカフェイスの吉田が顔を強張らせた。あの顔を見れば誰だってこうなるだろうと僕は思った。しかしその反面で、僕を殺すことを陰で頼んでいた吉田の顔が僕にはぶれて見えて仕方がなかった。「やっぱり俺らで探さなきゃいけないんだよ。校舎の心残りってヤツを」田中が話を戻した。「何だ、俺らは正義のヒーローじゃないのか?そうじゃないならつまらないから、もう探すの止めようよ」篤志は蚊帳の中に居るのか外に居るのか解らない男だ。「そうだよな、それはそうと中村、マリオクリアしたらしいぞ」田中までが子供化していた。「マジで、アイツすげーな」呑気な篤志に、「でも、心残り解決しないと僕ら元の世界には戻れないんだよ」いつもと違う風の吉田が声を震わせた。「そんなこと一言も言ってなかったぞ。ただタイムリミットがあるって言っただけだ。時間がくれば、俺らは自然に元の世界に戻されるだけさ」篤志がそう言ったからなのか、吉田の表情が嫌だったのかは分からないが、「でもそれじゃあ校舎可愛そうじゃないか?」僕も冷静ではいられなくなった。「そうだよ!元の時代では校舎次の日無くなっちゃうんだぞ」田中が乗っかって来た。「だからってどうしろって言うんだよ」篤志が声を荒げる。彼はこれ以上怖いことが起こるのが嫌なのだろう。「そうだけど……」珍しく田中が言葉を詰まらせた。「もしかしたら解決出来ないとこのままこの時代に取り残されちゃうんじゃないの?」今日の吉田はネガティブでもあるようだ。「そうなるとこのまま大人の俺らは子供の俺らに吸い込まれていくんだ」田中が仮説を断言して言った。「つまり大人の俺らはいなくなっちゃうってこと?」それが気になった僕が聞いたが、「そうだろうな。この時代は子供の僕らの時代なんだから」吉田が答えた。「そんなの困るよ」唯一楽観的だったはずの篤志の顔が今にも泣きそうだった。「どうしてさ?」それさえも気に食わない僕が、今日は一番客観的に話を見ていた。「自分がいなくなっちゃうんでしょ?この時代の子供の俺らだって、同じ俺らだ」篤志を泣かしたかったわけではないのだが、この時の僕は誰かに突っ掛かりたかったのかもしれない。「そうだけど、なんか違うじゃん」目尻に涙をいっぱいにして篤志が反論した。「そうだよな。未来から俺らが来ている以上、過去の俺らに吸い込まれちまったら、二千十年以降の俺らはいなくなっちゃうもんな」だからそれ以上話を平行線にすることを一先ず止めることにした。「つまり、寿命は三十六歳ってことか」田中が言った。「そんな若くして死ぬのか?」吉田のこの言葉に僕は苛立ちを覚えた。なんせ僕は十歳で殺され掛けたのだから。しかしそれを隠す為に、「仕方ないか」と諦めてみた。「仕方なくなんかないよ」篤志は聞き流してはくれないようだ。「じゃあどうすればいいんだよ?」熱くなる僕に少し驚きながらも、「校舎の言う心残りを解決するのさ」田中が前向きな発言をした。「それがわからないから困ってんだろ」篤志の口調までキツクなった。「でも元の時代に戻れたとして36歳からの残りの人生と10歳の僕らが2010年まで生きれることと長さ的にそんなに大差はないかもな」僕が冷静に分析結果を公表すると、「確かに」そこにはいつもの吉田がいた。「まだそんなこと言っているのか。俺らがこの時代に来たのは校舎の心残りを解決する為だ。そしてそれを解決したら俺らは元の時代に戻る」田中が立ち上がった。もうこれ以上反論させないという強い意志からの行動だろう。「何か、田中だけずっと大人のままだな」何故か篤志が感心していた。「こいつは昔からこうだったよ」それが今の僕には心強く感じた。「そうだな」それは吉田とて同じようだった。
僕らはもう一度だけ、学校を訪れることにした。この数日間色々なことがあり過ぎてみんなへとへとだったが、それでも若さと約束を守るという責任感がそうさせた。そして日没後の暗くなった校舎の中へと入った。恐る恐る下駄箱の横を通り抜けた瞬間、僕の目にあのタイボクが飛び込んできた。思はずそれに駆け寄った。そこには無数の落書きがされていた。誰々のことが好きだとか、身長が伸びたいだとか、どうでもいいことがぎっしりと書き込まれていた。「またお前らか?」そう言って現れたのはジャイアンだった。勿論篤志は開口一番、「ジャイアン!」と叫び、今回は富士山という体罰を謝るまでまた一分ほど喰らっていた。富士山とは手の甲の皮を親指と人差し指で摘みそのまま皮だけを引っ張り上げる体罰で、案の定篤志の手の甲も立派なフジヤマを拵えられた結果、赤紫に腫れ上がっていた。どんなに体罰をされても篤志は懲りずにジャイアントと言い続けていた。そしてギリギリまで体罰を耐え続けることで、自分に対する周りの威厳を保ち続けようと考えていたのだろう。しかし大人がまだ残る僕らには篤志ほど小心者で、しかし温かいヤツはいないだろうと気が付いていた。そんな篤志を他所にジャイアンが、「何だ、柄にもなくおまえらもこの柱に願い事か?でも先生に見られちまって残念だったな」そう言って笑った。「何で、先生に見られると残念なんだよ?」田中が聞いた。この時代はまだ敬語に不慣れな僕らは先生に対してもタメ口だった。「そんなことも知らないのか?この木はおまえらにとって願いを叶えてくれる木なんだろ」「そうだった、この木に願いを書き込めば何でも叶えてくれる木だと信じられていたんだ」思はず声を張り上げた僕の後に、「しかしそこにはいくつかのルールがあったよね?」吉田も嬉しそうに続けた。「そうそう。まず一人で書き込まなきゃいけない。それに書き込むとき誰にも見られてはいけない。あと何かあったか?」未完成の篤志に「誰かが書いたモノを消してはいけない、だろ」田中が完成させた。「そうだ、そうだ」喜ぶ四人の横でジャイアンだけがポカンと口を開けたまま立っていた。「ということは」柱に近づき食い入るように見つめ出した僕に、「どうしたんだよ?太郎」後ろからそんな声が聞こえたが、僕は夢中で何かを探した。自分でもそれが何なのかは分からなかったが、それでも探した。ふと横を見ると他の三人も気が付いたのかタイボクに書かれた落書きに見入っていた。「何してるんだ、おまえら。人が書いたものを盗み見するなんて下品だぞ」ジャイアンが叫んでいたが構わず探した。この時代に送り込まれた目的のヒントが無数に書き込まれた落書きの中にきっとあると考えたからだ。どれほどの時間が流れていったのだろう。何度も僕らを注意し続けたジャイアンにたまに生意気な口を利く篤志が散々体罰を喰らい、時間稼ぎをしてくれた。篤志の体が持ちこたえられる時間も残りわずかだと悟り、焦りを感じた。そして時間ぎりぎりで僕はある言葉を見付けた。そこにはおなかがすいたという言葉と、すぐ下にもう一度かずよの笑顔が見たいと書いてあったのだ。それこそあの兄妹が書き残したモノだとわかった。「もしかしたら校舎の心残り、解ったかも」六個の目が一斉にこっちを向いた。それと同時に、「いい加減にしろ!」ジャイアンの堪忍袋の緒が切れた。僕ら四人は大目玉を喰らい校舎から追い出された。仕方なく外に出てから、さっきの話の続きをした。「実はもう一人言霊だって名乗る女の子に会ったことがあるんだ。彼女は教えてくれたんだ、男の子の言霊の言うことには絶対耳を傾けちゃいけないって。それとこれはこの時代に俺らが送り込まれた目的のヒントになるかもしれないことなんだけど……」気が付くと道路の真ん中でみんな顔が近くに寄ってきて暑苦しかった。この時代は元の時代に比べれば全然気温が低いのだがやはり体温が高い子供が固まると汗が出た。しかしみんなの真剣な面もちを目の当たりにして話を遮る度胸はなかった。「その女の子は男の言霊よりもよっぽど綺麗な目をしているんだ。だから彼女が言うことは真実だと思うんだ。その彼女が言ったんだ、男の子と女の子の兄妹の骨、本当に埋まっているよって。この時代に婆ちゃんから聞いた話を俺が絵日記に書いていたんだけど、この時代よりも何年か前に男の子と女の子の兄妹が忽然と姿を消したらしいんだ。しかしそれは両親がふたりを虐待して殺してしまい、処分に困って神様の下に埋めたって噂になったらしい。でも誰もそれを調べもせず、警察も行方不明者として噂がなくなると同時期に捜査を終わらせてしまったようだ。そのまま時代の流れと共にふたりのことを口にする者もいなくなり、気が付くとふたりの両親もこの村からいなくなっていたらしい」ふと周りを見渡すと汗だくになりながら篤志が輪の真ん中にいた。しかしそのことには触れずに話を続けた。「つまりこの時代に俺らが送り込まれた目的はこのふたりの兄妹の遺体を掘り出して成仏させてあげることなんじゃないかなって思うんだ。現にこの兄妹がよく学校の校舎で遅くまで遊んでいたのが目撃されたらしいんだ。それは家に帰っても両親に殴られるから怖くて逃げるためにいつまでも学校にいたんじゃないかな。それを知っていた校舎が俺らに兄妹を救ってくれって託したんだよ」みんなが大きく頷いた。そして僕の婆ちゃんの話を頼りに明日ふたりを捜しにこの村で唯一神仏がいるであろう寺に行くことを決めその日は解散した。
帰り道、辺りもすっかり暗くなっていたのでチロリン村は通らずに田中と二人で帰った。「この時代って夜は本当に夜ってぐらいに真っ暗なんだな」突然田中がそんなことを言い出した。確かに夜の暗闇を遮るようなネオンもなければコンビニもない時代だ。薄暗い蛍光灯の街灯と、僅かしかない家からの蛍光灯の明かりが少し漏れているだけでそれ以外に明かりと呼べるものはなかった。「うわーぁ、すげー綺麗だ!」今度は何事かと田中を見ると、夜空を見上げていた。だからそれに倣った。「すっげー!」そこには元の時代には決して見ることが出来ないほどの無数の星が夜空を埋め尽くしていた。この時代に来て、いろいろ忙しくて空を見る事なんて無かったから昔は見慣れていてすっかり忘れてしまっていた自然の凄さに胸が熱くなった。二人どこを歩いているかわからないほど星空を見上げていると田中の家に帰る道をすっかり過ぎてしまっていた。「田中、おまえが帰る道通り過ぎちゃったぞ」そう言う僕に、「あっ、本当だ。太郎の家の方から回って帰るから大丈夫」そう田中は答えた。ほとんど子供の心の僕でも田中の優しさなのはすぐにわかった。でも今夜はその優しさに甘えることにした。家の前まで送ってくれた親友に別れを告げ家に着いた。
夜遅くに、訪問客があった。玄関のドアを開けると、そこにいたのは吉田だった。どうしたんだよ?そう言い掛けたか分からないうちに、「ごめん!本当にごめんなさい」玄関前の土の上に土下座している吉田が地面に何度も頭を擦り付けていた。「止めろよ、吉田」僕はただアタフタするだけだった。その後も吉田はなかなか頭を上げなかった。やっと顔を見せたが、彼の眼は真っ赤で額には茶色い土がべっとりと付き、頬っぺたには涙なのか鼻水なのか分からないが一筋の線が光っていた。「汚ったねー」その顔に堪らず僕は吹き出してしまった。彼はその光るモノを右手の甲で拭き取るとそれを半ズボンに擦り付けた。その行動に違和感は全く感じなかった。それから彼はゆっくりとした口調で話を始めた。「僕、小学生の頃ってこんな性格じゃなかったんだ。もっと気弱で誰かの陰にずっと隠れているようなそんな性格だった」言われてみれば確かにそうだった。「でもこの時代に送り込まれてからある事が僕の心にはずっと引っ掛かっていた。そしてそのある事は自分がどんどん子供にも戻っても消えることはなかった」「そのある事が、吉田のお姉さんの事件だね」「うん」吉田は静かに頷いた。「犯人はずっと太郎だと思ってた。あの喫茶店、僕らが高校を卒業するぐらいにオープンしたんだ。その頃太郎が引き籠りになったって村中で噂されていることを姉貴が教えてくれたんだ。それがあの事件の数日前のことだ。そしてあの日の夜、店が閉店してすぐにあの火事が起こったんだ。ほど無くして田中から太郎がこの村から出っていたことを知らされた。奇しくもその日は火事があった日だったんだ。だから僕は犯人は太郎しかいないって思った。そしてこの時代に来た時、太郎をどうにかしなきゃと思ったんだ。九年後にあの放火を犯した犯人を始末しなきゃって。だからこの時代に戻った僕は心を閉ざし太郎を含めみんなのことを蔑んでいたんだ」吉田は一度呼吸を整えると、「でもあの夜、あの男の言霊に太郎を殺して欲しいとお願いしたあの夜、枕元に立った姉貴が言ったんだ。犯人は太郎じゃないって。あの姉貴、だいぶ大人だった。殺された頃の姉貴だったと思う。だから幽霊だったんだろうね」話し終えた吉田が少し笑って見せたが、口元以外は泣いていた。「田中に言われたよ。太郎は馬鹿だし、たまに何を考えているのか分からないときがあるけど、でもアイツは心底信頼できる良い奴だって。だから疑ったりして本当にごめんなさい」そう話す頃には抑えきれなかったのか口元まで泣き出していた。正直それだけのことで疑われていたことが腑に落ちなかったが、自分に置き換えた時、もしかしたら同じように考えていたかもしれないと思えた。そして吉田が後悔していたから。あの男の子の言霊に頼んでしまったことを悔やんでいるのが分かったから、だから吉田を本当に許せることが出来たのだろう。
布団に入ってもなかなか寝付けなかった。遠くの方でただいまの声が聞こえた。どうやら父親が帰って来たようだった。もう少しで寝付けそうだった時に起こされた僕は仕返しのつもりではなかったが、隣の両親の会話に聞き耳を立てていた。しかし二人が会話を交わすことは全くなかった。それから暫くして止めどなく水が流れる音が聞こえて来た。どうやら母ちゃんがお風呂に入ったようだ。隣の部屋ではテレビの音だけが相変わらず無機質に聞こえて来た。しかしそのうちに微かだが声が漏れて来た。それは唸っているような堪えているようなそんな声だった。だから僕は出来るだけ音を立てずに布団から体を出すと、震える手でそっと襖を開けてみた。3ミリも開ければ充分だった。そんな小さな隙間からそれは見えた。目の当たりにした僕は頭が真っ白になった。父ちゃんが今まで母ちゃんが身に着けていたエプロンに顔を埋めて啜り泣いていたのだ。その背中はとても小さかった。小学生の僕でもそう思ってしまうほど、本当に小さな背中だった。
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