第8話 1983年8月6日と7日

八月六日(土)とうとう明日元の時代に戻る日になってしまった。目覚めてすぐに腕時計を見た。朝の七時半、残りは117000秒、三十二時間と三十分で元の時代へと戻される。今日の土曜日は村が一年で一番盛り上がる花火の日だ。僕らは朝早くから村の外れにある寺に集合した。「おはよう!」最初に声を掛けてきたのは吉田だった。僕も笑顔で返した。続けざまにみんなが肩を叩いたり握手をしたりそれぞれがそれぞれの挨拶を交わした。それはこれからの大仕事を僕ら四人の仲間で成し遂げようという意気込みの現れでもあった。「ここに俺らが助ける兄妹の骨が埋まっているんだな?」そう言ってシャベルを握るのは一番ビビリだがこんなときには頼りになる篤志だった。「でもこんなに広い庭のどこを掘ればいいんだ?」そう言うのは吉田だ。僕は自分の日記を思い出した。「大きな木の下だ!」そう叫ぶと、みんな一斉に見た先に元の時代にもまだあるであろう立派なタイボクを見付けた。「あれだな」そう言って田中が最初に走り寄った。そして篤志と二人でタイボクの横を掘り始めた。炎天下の下少し掘っただけで二人は汗が噴き出していた。それでもどちらも掘ることを止めなかった。しかしどこまで掘っても骨らしいものは見つからなかった。だから今度は吉田と僕が掘った。それから代わる代わる掘り進めた。どのくらいの時間掘っただろうかみんな服が絞れるくらいに汗だくになっていた。しかしこの時代の太陽が優しいのか、僕らの体が若いからなのか熱中症になる者はいなかった。そしてタイボクの周り二・三㍍深さも一㍍以上掘ったがやはり骨らしきものは見つからなかった。住職に許可を得ていたのでここまで大々的に掘れたが流石にもういい加減にしなさいと怒られた。ふと考えた、二人の兄妹の親は大人二人で掘ったとはいえ夜中に皆に気づかれないように掘るにはそこまで深くは掘れないだろうと。となると、「ここにはないんじゃないか?」僕が考えていたことを田中が口にした。一番がんばって掘っていた篤志の手が止まった。そしてみんな一斉に僕の方を見た。その眼はどれも冷ややかだった。そしてどこに骨があるんだと言っているのもすぐにわかった。僕は焦ったが、もう一度この時代に書いた絵日記の内容を思い出した。難しい表情のまま固まった僕に、「思い出せ。太郎」「思い出してくれ!」みんなが祈っていた。婆ちゃんが話してくれた親に殺された兄妹の話を一から思い出そうと頭を捻った。「・・・・あっ!」僕は婆ちゃんから聞いた話で重大なことを思い出した。「何だ、思い出したか?」珍しく田中が焦っていた。「婆ちゃん言ってた。でももう神様はいなくなっちゃったって」しかしそこには大きな問題があった。「太郎、寺にだって仏はいる。同じ神様だろ?」申し訳なさそうに吉田が口を開いた。「それにこの村には寺も神社もここ以外ないよ」力なく篤志が言ったが、それはまさしく事実だった。すると田中が、「神様がいなくなっちゃった?この村にもしかしたら昔に神社だったところってなかったっけ?」その質問にみんなが首を傾けた。でも僕だけは婆ちゃんの話ではなく男の子や女の子のことが書かれていた日記の部分に頭を巡らせた。最初男の子と女の子が出てきたのはまさしく今日、花火の日だった。しかしそのときは河原で名前を名乗って来ただけで日記は終わっていた。次が確か男の子が姿を見せて消えたんだ。それと女の子が泣いていたこともあった。でもどちらも何かメッセージらしきものは書かれていなかった。あともう一つ何かを忘れている気がしてならなかったが、どうしても思い出せなかった。どのぐらい考えていただろう。こんなに頭を使ったのは元の時代のクイズのテレビ番組以来であろう。「あっ!女の子だ。女の子がどこかを指差していたことがあった!」しかし叫んだのは僕だけではなかった。「チロリン村だ!」「そうだ!この前、僕らがこの時代に送り込まれた次の日に首つり自殺があった場所」「あのターザンの場所だ!」みんながみんな、ほぼ同時に思い出した。「あの女の子が指差していた木に吊るされたままの紐が怖いって書いてあった。つまり僕らが散々ターザンをして遊んだタイボクの根本だ!」「そうだよ!あそこは昔、神社があったけど放火かなにかで全焼しちゃって隣の村に再建されたんだった」そんな僕らが生まれた頃の知識に詳しいのは吉田だった。僕らは住職にお礼を言うとチロリン村へと急いだ。

朝早くから行動したはずなのに太陽はもう西に傾き始めていた。「早くしないと花火始まっちゃうよ!」そう言う吉田に、「こんな時に花火なんか見たいのかよ!」そう返したのは篤志だった。しかしそれ以上誰ひとりとして花火のことについて話さなかった。でも内心はみんな吉田と一緒なはずだった。それは花火が見たかったからではない。この時代じゃないともう二度と会えない人がいたから。吉田は九年後にお姉さんが残忍な放火魔によって殺されてしまった。今さらだが田中の初恋の相手がそういえば吉田のお姉さんだったんだ。篤志は生まれたときから家にいてガキ大将だったくせに、どうしても勝てなかった犬のロッキーを二年後に失ってしまう。この時の篤志は一ヶ月ほど元気がなく殴りかかってもやり返してこなかった。だから僕らはそれをいいことに散々やりたい放題だったが、ある時篤志がプッツンと切れたことがあった。そのときは大変な暴れようで何十倍にもなって返ってきた。僕らは血だらけになりながら篤志が元に戻ったことを喜んだんだ。田中は元から母親がいなかったから婆ちゃん子だった。その婆ちゃんも僕が東京に出て少ししてからこの世を去ったと聞いた。僕は田中の婆ちゃんが作るぼた餅が大好きで田中がいなくてもそれだけを食べに田中の家に行ったこともあったぐらいだ。そんな僕にも田中の婆ちゃんは顔をしわくちゃにさせながらよく来たねと迎えてくれ、そしてぼた餅を食べさせてくれた。そんな大切な人たちと一緒に花火が見たいに決まっているから。だからそれ以上は誰も口に出せなかったのだろう。ただ田中が一言、「早く終わらせようぜ!」そしてみんなが頷いた。この時代に来た僕らの目的を終わらせて、最後の夜を大切な人と過ごしたい。

チロリン村に着くと人の多さに驚いた。ここは手つかずの自然が残っていたため木々がうっそうとしていてどこか陰気くさかった。だから普段はほとんど人を見かけないのに今日は違っていた。何故ならここからだと花火がよく見れるからだ。人を掻きわけながら進む僕らに、懐かしい顔ぶれが話し掛けて来たが、今は答えている暇もなく軽い会釈でその場をやり過ごした。そして元神社があった僕らの中では通称ターザンと呼んでいた場所に着いた。僕らはそこで大きく深呼吸をした。長く走ったせいでみんなの額に汗が光っていた。夏の暑さと走った熱さでだいぶ参ってしまったが直ぐに作業に取り掛かることにした。太陽の日が傾いたせいか汗が乾いたあとは少し肌寒ささえ感じた。幸か不幸かターザン近辺に人はほとんどいなかった。理由ははっきりしていた。数日前、あんなにショッキングな出来事があった場所に人が近づくはずはないからだ。そのお陰で人の目を気にしないで穴掘りが出来そうだ。そして僕らの目の前に大きなタイボクが現れた。枝の一つには僕らが散々遊んだターザンの縄がどこか怪しげに吊されていた。その縄は途中からなにかでちょん切られていていた。そしてまだ新しい切り口からこないだの首つり自殺で使われた縄だとわかり背筋が氷った。篤志は俺と同じように縄を見つけたらしく固まっていた。しかし他の二人は走ってきた勢いそのままにシャベルを握りしめタイボクへと向かった。そんな二人の動きが止まった。タイボクの根もとを掘るどころか近づくことも出来ないみたいだ。「なんだよ!この木は?」「バリアみたいのがあって近づけない!」そんなみんなの動揺をよそに僕はある一点を見つめていた。何かが誰かがいる!そしてタイボクの木陰から古の女の子は現れた。「無理だよ!この木に近づくことは出来ないよ」そう言った女の子の顔は悲しみに歪んでいた。「何で?僕らはどうしてもこの木の根本を掘らなければならないんだ!」「・・・太郎。誰と話てんだよ?」怪訝そうに田中が聞いてきた。やはりみんなには見えないみたいだ。すると女の子は前にも増して泣き出しそうな表情を浮かべて話し始めた。「人間がいけないんじゃないか!人間がこの木を傷つけたんじゃないか!」そして僕らが近づくことが出来ないタイボクの幹を触った。そして女の子は大粒の涙を流した。「この木が泣いているんだよ!人間がこの木を使って死んだりするから、死ぬのは勝手だけど、この木は君たち人間よりも遙かに純粋でそれが故に傷つきやすいんだよ。でも植物は自分で動くことも出来なければ、もちろん死ぬことも出来ない。だからせめてこれ以上の犠牲者を出したくないんだよ」僕らが普段気にも止めずいた木一本一本にこんなにも優しさがあったなんて、僕は気づくことが出来なかった。「何で人間のあなたが泣いているの?木の気持ちがわかるの?だからあの木はあなたを助けたのね。あなたのような人間がまだいたなんて!そう言っているわ。この木、そう言って喜んでいる。あなたの優しさがこの木の心を開かせ始めてるわ」満面の表情に変わった女の子とは対照的に、僕の顔は強張った。「僕が優しい人間?申し訳ないけどそれはないよ!嬉しいけど、それはない。昔から自分勝手で親不孝者。人の痛みなんか気にしないで自分のためにだけに生きて来たんだ。友達もこいつらがいいヤツだったから僕を受け入れてくれただけ。それなのに僕はこいつらの宝物をこれから奪おうとしているんだ!・・・そして父さんを哀しませているんだ。そんなヤツが優しいわけがないだろ!」最初は呆気に取られていた三人もいつしか目頭を熱くしながら僕に話し掛けてきた。「太郎、おまえの前に昨日話していた女の子がいるんだな?」「言っておくがおまえは自分勝手なんかじゃない!」「太郎は昔から人の痛みがわかるヤツだった。ただ生き方が下手なだけだよ」みんな僕の周りを囲み、そう言ってくれた。ますます涙を堪えきれずにみんなの前で大声で泣いてしまった。「あなたは本当に優しい人なんだね」女の子は急に光り出した。「お~!」それと同時に三人が歓声を上げた。「太郎!俺らにも見えるぞ!女の子が見える」そして彼女は宙に浮いた。「この木にはもう一つ、私にも隠していた、秘密があるみたい。人間によって傷つけられた大きな秘密が。しかしこの木は傷つけられてもなおあるモノを守ろうとしているんだ。人間を守ろうとしている!そのためにみんなを近づけなかったんだ。……それは子供。それは二人の小さな男の子と女の子。・・・仲良しの兄妹。その二人を守ってきたんだ!でももうすぐこの木は人間によってなくなってしまう。だからその前にあなたたちの優しさを信じてこの二人を救い出して欲しいって、そう言ってるわ」その瞬間さっきまで決して近づけさせなかった大木が結界を外し僕らを受け入れてくれた。僕は女の子に尋ねた。「掘っていいのかな?」彼女は大きく頷いた。僕らは一斉に掘り始めた。太陽も既に西の空で赤々と光り東の空から夜が押し寄せていた。少しすると土の匂いがしてきた。いい香りではなかったがどこかホッとする匂いだった。本当にこの下に人の骨があるのだろうか?僕らはそれを探して掘っているのだが、実際に目の前に出てきたら、そう考えると少し肌寒かった。それでも僕は手を止めなかった。みんなが頑張っているから、だから一人怖気付くわけにはいかない。辺りが完全に暗くなり始めた頃、「誰かが掘ったのかな?ここら辺の土まだ柔らかいよ」吉田が木の回りのまだ掘られていないところを掘り出した。「何だ、これ?」何かを見つけたようだ。「あったか?骨」間髪入れずに篤志が聞いた。「何かビニールに紙が入ってる」「どれだよ?」呆れ気味にそのビニールを取ったのは田中だった。そしてビニールから封筒らしき紙を取りだした。「……手紙だ。まだ新しいぞ」中には白い二枚の便せん用紙。少し黙読したところで、「遺書だ」田中が叫んだ。「もしかしてこの前ここで首つりした人の?」篤志がか細い声で聞いていた。「そうみたいだ」田中はいたって冷静だった。「何て書いてあるんだ?」そう聞くのは第一発見者の吉田。そして田中は読み始めた。 手を微かに震わせながら。「この手紙を見つけて頂いたということで少しは私も救われます。私はここで自殺した稲垣和美と申します。唐突ですがこの木の下に十年前に埋めたふたりの子供の骨があります。私と私の夫、稲垣慎也によって殺された私の子供、稲垣将太と稲垣和代の骨です。汚れてしまった私の代わりにこのふたりを成仏させてやってください。宜しくお願い致します。稲垣和美」それと同時に僕と篤志がその手紙のあった下の土を掘り出した。微かに柔らかさを感じた。僕らが掘り出す少し前に誰かがここを掘ったことは一目瞭然だった。もしかしてもう骨はなくなっているかも。だとしたらその上にあった手紙もなくなっているはずだ。僕は探偵並みの推理をしてみた。そのときだ。「コツン!」シャベルの先が何か堅いものに当たった。「骨か?」篤志がギョッとしていた。田中はしゃがみ込み、素手でシャベルの先にあるものを目指した。だから僕も素手で掘った。先程の恐怖は消えていた。そして僕らは掘り出した、完全に白骨化したふたりの小さな骨を。十年ぶりに陽の目を見た骨に、誰が言ったわけでもなく僕らは小さな手を合わせて合掌した。そのときだ。「ドン!」遠くのほうから歓声が上がった。夜空に大輪の花火が上がり始めた。「警察に通報する」篤志が公園の端にある電話ボックスを目指して走り出した。そのとき田中が言った。「なぁ、このタイボクこのままここにあったらダムに埋められちゃうんだよな?だったら俺らで掘り出してどっか別のところに移さないか?」その意見にみんなが乗った。吉田がシャベルを持って今まで掘っていた場所を掘ろうとした。しかし女の子がそれを止めた。「このままでいいって、このままにしておいて欲しいてこの木は言っている」「何でだよ?このままここにいたらダムの底に沈んじゃうんだよ!」そう言う吉田に女の子はただ首を横に振るだけだった。程なくして警察が駆けつけた。そして僕らは第一発見者ということで警察に行かなければならなくなった。僕らがタイボクの回りを離れると、すぐにテープが敷かれ誰もタイボクに近づけなくなってしまった。事情聴取が終わり僕らは解放されたが、既に花火は終焉していた。警察を出ると家路を急ぐ人々の楽しそうな笑い声に遭遇した。僕らとは対照的に笑顔がいっぱいだった。そのときお揃いの腕時計が一斉になった。久しぶりに鳴ったせいか篤志が奇声を発するぐらい驚いた。[任務完了!お疲れさまです]そう書かれた腕時計を見て、そして篤志の奇声で、僕ら四人は少し笑顔になれた。人の流れに逆らいながら進んだ向こうにいた。田中の大好きな婆ちゃんが、そして田中の初恋の相手・吉田の大好きな姉ちゃんが篤志の大好きだけど不細工な雑種犬のロッキーが、それと僕の母ちゃんが、そこにはかけがえのない家族がみんな立っていた。ブッシュマンやいっちゃん、大島君の顔もあった。そして僕が大好きだった杉崎の懐かしい笑顔もそこにはあった。嬉しかった、みんながいるから大好きなみんながいるから。僕ら四人は人混みを掻き分け走った。「大変だったね」田中の婆ちゃんの皺くちゃの笑顔が印象的だった。僕らは警察で話したとおり遺書を見つけたからそこを掘っただけだと説明した。誰もそれ以上は聞かなかった。そしてみんなで買った花火でいつものように静まりかえった大熊川の河川敷でもう一度花火大会をした。僕らの為の僕らだけの花火大会。それはとっても小さく儚いものだったけれども、夜空に弾ける大輪の花火よりも余程綺麗でこのかけがえのない時代を生きてきたんだということを僕らが噛みしめるのに十分だった。元の時代に戻っても忘れないようにするためにそれぞれが今を楽しんだ。篤志がポツリと言った。「太郎はいいな。この時代に一番長くいられるんだから」僕は何も答えなかった。心の底からその通りだと思ったから。ふと気になる方に目をやると川を挟んだ向こう側に人が立っていた。しかしすぐにそれが人ではないことに気が付いた。男の子と女の子だった。周りを見渡すと田中、篤志、吉田、そして僕以外は誰もそのふたりに気が付いてはいないみたいだ。ふたりは僕らに満面の笑みをくれた。お兄ちゃんは妹の笑い顔を見付けたようで一段と笑顔でこっちに手を振っていた。タイボクに書き込んだ願いが叶ったのだ。そのままゆっくりゆっくりとふたりは夜空に上っていった。いつまでも見ているとふたりはいつしか星と同化するように消えていった。僕ら四人はみんなで顔を見合わせた。そして笑った。四人以外は勿論冷やかな目で僕らを見ていた。それでも構わずにお腹の底から思い切り笑った。別れ際に杉崎に言われた、「またみんなで花火しようね」その一言に言葉は返さなかった。ただ願望から頷いた。もう二度とすることのない花火大会をまたしようと頷いた。ふと腕時計に目をやると、時間は既に夜の十時を回っていた。そしてこの時代にいられるのも残り64800秒、十八時間になっていた。花火をすべて終わらせ僕らはそれぞれの家路についた。田中が言った。「またな!」それは俺ら三人とは元の時代でまた会おうということなのはすぐにわかった。そして四人以外の人たちには“さようなら”という言葉であることも。

 結局僕らはタイボクを助けることは出来なかった。でもわかっていた。タイボクの代わりに女の子が言った言葉“このままにしておいて欲しい”それは人間の住む世界で味わってしまった人間の裏切りを、もう二度と味わいたくはなかったからだろう。

家に帰ると一緒に帰ったはずなのに母ちゃんに、「おかえり」と言われた。だからいつものように、「ただいま」と返した。母ちゃんが花火を見に行く前に作ったカレーの香りが家中に充満していた。この時代に来た次の日もカレーだったことなどすっかり忘れていた僕の腹が鳴っていた。「お腹が空いたでしょ?今暖めてあげるからね」そう言って母ちゃんは嬉しそうに鍋に火をかけた。するとカレーの香りが小さな家の隅々まで漂ってお腹が悲鳴かと思うぐらい、「グルルルゥ」と奇声を吐いた。その音は父ちゃんや姉ちゃんにも聞こえたらしく三人とも吹き出した。家の中でも狭いお陰でみんなの笑顔がすぐに見渡せた。そんな当たり前の幸せな風景を見るのもこれが最後だった。そして僕は眠りについた。

その夜珍しく用を足したくなり目を覚ました。しかし臆病者の僕はトイレまで行くのがおっかなくて布団から出られないでいた。でも我慢の限界が来たので意を決して布団から飛び出した。この時僕の中身は明日、元の世界に戻らなければならないという認識以外はほとんど子供になっていたみたいだ。用を済ませて急いで自分の布団に戻ろうと廊下を走った。閉められている木戸の隙間から夜の明かりが微かに漏れていた。いつもなら気にもならないはずなのに怖さから来る好奇心で僕はその微かな隙間から外を覗いた。えっ!なんで?なんで家の外に男の子がいるの?僕から三㍍ほどの距離に突っ立ている彼は玄関のほうをジーッと睨んでいた。大きな黒目がギョロッと動いた。どうしよう!気づかれちゃう。逃げなきゃ!しかし僕は後ろにひっくり返ったまんま動けなくなった。やばい!今度こそ殺される。やっとの思いで布団に逃げ込んだ。布団の中で震えながら男の子がいなくなることを願った。しかし僕には男の子に頼まなければならないことがあることを思い出した。母ちゃんを殺さないように頼まなきゃ!あれだけ掻いていた寝汗は一瞬にして引いていた。体をどうにか前へ前へと進めようやく玄関の前まで辿り着いた。そこで一度大きく深呼吸をしてから心を決め一気に玄関を開いた。しかしさっきまでいたはずの男の子の姿はすでになくなっていた。それでも声だけが何処からともなく風に吹かれて僕の耳まで届いた。「君のお母さん、新しい男の元妻に恨まれちゃったよ」微かにしか聞こえなかったはずなのにその声は確かに笑っていた。目線を下に下ろすと、そこに一枚の紙切れが玄関前の地面に石で押さえつけられながら風に靡いていた。石を退けると何かが書かれたその藁半紙を静かに手に取った。それは大事に扱わないと今にも壊れそうだったから。書いてある内容に愕然とした。「八月七日、竹縄今日子さんの命頂きに参ります」それは母ちゃんの名前だった。なんで、何でだ。五年後じゃなかったのか?僕は眩暈でふらついた。その瞬間僕の手に握られていたはずの藁半紙は風もないのに砂のようにボロボロになり、そしてなくなった。しかし確かに藁半紙は存在した。そして確かに書かれていた、今日母ちゃんは言霊である男の子に命を奪われると。夏なのに足先からガクガク震えだした。それでも震える体をどうにか押さえ考えた。どうしたら母ちゃんを救えるかを。僕だって言霊に命を狙われながら母ちゃんが助けてくれたんだ。だから今度は僕が母ちゃんを助ける番だ!大丈夫、今日一日ずっと母ちゃんを見張っていればいいのだから。しかし重大なことを忘れていた。今日の夕方四時に元の世界に戻らなければならないことを。どうすればいいんだ。それまでに母ちゃんに危機が訪れなかったら、あの子が襲ってこなかったら。多分これはあの子の差し金なんだ。吉田を唆して僕の命を狙ったり、本当は五年後に言霊で狙う命を僕を苦しめるために今日まで早めたんだ。なんてヤツなんだ!しかし考えてみれば、五年後に母ちゃんが襲われても助けようがないが、夕方四時までに男の子が襲ってくれば母ちゃんを助けることが出来るかもしれない!それまでに来ることを信じよう。腕時計を見ると夜中の三時を回っていた。そして残り時間は46800秒だった。そうかこのままこの時代に残ればいいんだ!そしたら今日一日母ちゃんの傍を離れなければ、きっと助けることが出来る!この時代に残ることを決め、母ちゃんたちが眠る居間兼寝室が見える廊下であぐらをかいてそのときを迎え撃つことにした。突如僕の体を脱力感が襲ったかと思うと、頬を涙が伝っていた。それは怖くて怖くて逃げ出したい気持ちから来るものではなく、母ちゃんの優しさが、笑顔が脳裏をかすめたからだ。母ちゃんの笑顔決して無くしたくない!その瞬間、僕の中で恐怖はなくなった。

八月七日(日)

 「ガガガガガーッ」「太郎!何でこんなところで寝てんだ?」僕はその声にハッとして起きあがった。すぐに腕時計を見た!時間は朝八時、28723秒、あと八時間もなかった。心を決め安心したのかそのまま眠ってしまったようだ。情けない。しかし母ちゃんは無事みたいでホッとした。五人の中で最初に戻る吉田の時間まで二時間を切った。ふと回りに目をやると父ちゃんは既に会社に行った後だった。そして姉ちゃんの姿も既になくなっていた。つまり今母ちゃんが襲われたら僕一人で守らなければならないことに気が付き堪らず木刀を握りしめた。朝食の準備が出来たらしく台所に行った。「何で木刀なんか持っているの?置いてきなさい!」それは母ちゃんを守るためだろうが!出かかったが、「ハーイ」と従った。今日もいつもの味のない野菜炒めと黄身がかっちかちの目玉焼きだった。たった何日しか食べていないがもう飽きた。それでもここ何日か笑顔で食べていた僕を見て嬉しかったのか、じっと見つめる母ちゃんがいた。微かに残った大人の僕が無理やり笑顔を作らせた。「このごろ太郎おいしいおいしいって食べてくれるから母ちゃん作りがいがあるよ」作り甲斐はあっても作るモノは何ら変わらないみたいだ。こんなに元気で明るい母ちゃんが今日、本当に死んじゃうのだろうか?一瞬そんなことが頭をよぎったがすぐにかき消した。その瞬間腕時計が鳴った。[吉田が戻るまで残り1800秒前]ぶっきらぼうにそう書かれていた。この秒表示はどうもややこしくて嫌だ。残り三十分かと頭の中で計算をした。

「隆行!出掛けるんでしょ?もう行かないと時間だよ」隆行、吉田の名前だ。「ありがと、姉ちゃん。行ってくるよ!」「行ってらっしゃい」「・・・・あっ、姉ちゃん!」そのとき腕時計が鳴った。[この時代の人には未来に起こることを決して言わないでください!]そう書かれていたが、吉田は構わず続けた。「姉ちゃん、九年後に小学校の近くに出来る喫茶店で絶対にバイトしちゃ駄目だよ!そうしないと殺されるよ!」どうしても大好きな姉ちゃんを助けたかったのだろう。しかし肝心なところだけは吉田の姉には伝わらなかった。「気をつけてね。あんたは結構おっちょこちょいだから石なんかにつまずいて怪我しないようにね」そう言って笑顔で送り出した。その後吉田は何度も何度も繰り返し未来に起こる惨劇を伝えようとしたが姉の耳には決して届くことはなかった。しかしこうなることを予想していた吉田は事前に手紙で事件のことを書きしたため姉の机の上に置いていた。そして吉田は元の時代に戻った。

[吉田が元の時代に戻った]時間は朝十時。僕の時間まで21600秒。つまりあと六時間だ。しかしそれまでに母ちゃんに何も起こらなければ戻る気はないのだが。次は篤志の番か。確かあと二時間後だったな。僕は母ちゃんの行くとこ行くとこ金魚の糞のように付きまとった。すると母ちゃんが急に立ち止まった。我が子でも流石にうざかったのだろう。怒られると思ったらそうではなかった。母ちゃんは僕の目線に合わせるためにしゃがみ込んだ。その顔はいつもの笑顔とは少し違って真剣な表情で僕を見ていた。「太郎。母ちゃんに何か感じるのかい?」僕が首を横に振ると、「そっか。太郎は父さんのこと好きだよね。母さんも父さんのことは好きなんだよ。でもそれだけじゃ駄目みたいなんだ。大人になるといろいろあってややこしいんだ。母さん、そんな大人のふりするの疲れちゃった。太郎は大好きになった人のことは最期まで守り抜かなきゃ駄目だよ!それだけは母ちゃんと太郎の約束、いいね」そう言う母ちゃんの笑顔は今までに見たことがないぐらいに悲しいものだった。ほとんど子供の僕も微かに残った大人の僕も今の言葉を理解することは出来なかった。しかし凄く重く、目の前が真っ暗になるくらいに切ない言葉だった。ただこの言葉によって言霊が今日、本当に来ることを悟った

朝ご飯は食べ終わったが僕は台所に居座った。「どうしたの太郎?まだお腹空いているの?」そうじゃない、ただ母ちゃんを守ってるんだ。そう言う代わりに、「いいでしょ、俺がどこにいようが」そう答え膨れた。変な子だねという顔をされたが構わず居座った。するとまた腕時計が鳴った。[篤志が戻るまで1800秒前]

「ロッキーありがとう!俺は元の時代に戻っちゃうけど、この時代の俺がおまえの面倒はちゃんと看るからな。……泣くな!」するとロッキーは首を傾げた。「あっ、泣いてるのは俺か」篤志は立ち上がり玄関で靴を履くと、「じゃあ母ちゃん行ってくる」「どこ行くんだい?」そう篤志の母は聞いてきた。「学校。田中と吉田と太郎、みんなで遊ぶんだ」「そっか。気をつけるんだよ!道路は飛び出しちゃ駄目だよ!」「いつもいつも言われているからわかってんよ!」そう言って篤志は笑顔で家を飛び出した。玄関を飛び出したのは今にも泣き出しそうな自分を誤魔化すためだった。そのときだ。「ワンワン、ワンワン」ロッキーが玄関を飛び出し篤志目掛けて走ってきた。「おまえ初めてだな!俺のこと追いかけてきてくれたの」そう言って篤志はロッキーの頭を撫でた。ロッキーにとって篤志は家族の中で唯一下の存在だったみたいだ。しかしそんな篤志が大好きだったから今日の篤志の変化に気が付いたのかもしれない。泣きながら抱きしめてくる篤志をただ静かに見守った。そして篤志は元の時代に戻った。

残り四時間。「太郎!買物行こっか」さっきの暗さが嘘のように母ちゃんは元気な声で言ってきた。だから「うん!」元気な声で返した。綺麗な格好をした母ちゃんは息子の僕が言うのも何だが綺麗だ。だから綺麗な母ちゃんとどこかに出掛けるのが大好きだった。ワクワクする心の中に一瞬不安がよぎった。外に出るということは危険が増すということだ。果たして体の小さい僕に母ちゃんを守ることが出来るだろうか?だったらこのまま家にいた方が何倍も安全だろう。母ちゃんとの思い出をこれで終わりにしたくない!だから僕は、「やっぱり嫌だ!行かない」すると、「どうしたの?太郎の好きなチョコレートパフェ食べたくないの?」「食べたい!」即答してしまった。しかしパフェよりももっと母ちゃんが好きだ。だからやっぱり買物には行かない。「だったら母さん一人で行っちゃうよ!」それが一番駄目なケースだ。「駄目!それだけは駄目!」僕は言いながら半ベソをかいていた。「男の子でしょ!泣いたらみっともないよ。わかった今日はやめておこうね」その優しい言葉に抑えきれなくなり、大声で泣いた。本当に情けなくて、恥ずかしいことなのに僕は母ちゃんに甘えずにはいられなかった。気づかなかったのだが腕時計が鳴っていたようだ。[田中が戻るまで1800秒前]

「今日はどっかに出掛けるのかい?」「う、うん。どうしてだ?婆ちゃん」「いや、今日はおまえの母さんの命日だから墓参りにでも一緒に行こうかと思ったんだが、出掛けるんじゃしょうがないね」「そっか、今日は母ちゃんが死んだ日か」婆ちゃんは急に下を向いて静かに話し始めた。「私は八月七日が一年で一番嫌いなんじゃよ。美佐江が病気で死んでしまった日だから。親不孝でごめんねごめんねって何度も言って死んでいった。その光景が昨日のことのように脳裏に焼き付いて離れないんだ」そう涙を浮かべた。このあとも何年も続くことだから少しは慣れたが、母ちゃんが死んで今日で丁度三年。忘れたふりはしてみたが子供の俺も大人の俺も一日だって母さんのことを忘れた事なんて無い。ただ口にすると泣いてしまいそうだから。うる覚えだが約束したんだ。男の子は泣かないって母さんと約束したから、だから泣けない。だから思い出したくないんだ。でもいろいろな感情が俺の心をこじ開けたらしく、気づけば頬を涙が伝っていた。

[田中が元の時代に戻った]残り二時間。やる事がなく時間を持て余した母ちゃんが既に夕飯の支度を始めていた。その背中を静かに見守った。言霊の男の子はどのように攻めて来るだろう。本人が直接手を下すことはないだろう。「太郎、悪いんだけど隣の石川さんの家行って醤油借りて来てくれない。太郎が買い物行きたがらないから足りないんだ」それでは仕方がないからと僕は隣の家に醤油を借りに行くことにした。家を出る時、何処にも行っては駄目だと念を押し僕の足にはだいぶ大きい父親のサンダルをいつものように借りて外に出た。隣の家に醤油を借りに行くだけなのにわざわざ見送ってくれた母の顔が何処となく悲しげだった。それは僕自身がそんな顔をしていたからだろうと思った。外に出ると太陽は燦々と降り注いできた。それに少しだけ勇気を貰うと100メートルほどの道のりを走った。しかし父親のサンダルを履いてきたせいで思うように前に進めなかった。隣の家とは言っても都会のように密集しているわけではなく、僕の家のようにぼろくて小さくても土地だけは余っていたのだ。石川さんの家に着くと呼び出しブザーなどは押さずに大声でおばちゃんを呼んだ。「太郎君か、どうしたの?」そう言って出て来たおばちゃんは母よりもだいぶ年上で如何にも人が良さそうな顔をしている。「あの、醤油貸して下さい」「無くなっちゃったのかい?いいよ、ちょっと待っててね」そうまた優しい口調で答えるとおばちゃんは一度家へと消えて行った。おばちゃんが戻るまでの1分程の時間の中で、僕は言いようのない胸騒ぎに襲われていた。しかしその原因が何なのかまで答えを導き出せぬままおばちゃんが小さな容器に入った醤油を持って戻って来た。「はい」おばちゃんに深々と頭を下げると来た道を戻ろうと一歩足を踏み出した。母ちゃん……胸騒ぎの正体が何なのか感じ取ったときには貸してもらった醤油を投げ出し大きくて歩きにくいサンダルを投げ出して、太陽でだいぶ温まった砂利道を裸足で走った。何度もチクチクヒリヒリを感じたが気にもならなかった。玄関よりも近い裏口から入ると縁側の窓から中を覗いた。そこには両手で包丁を握り締め自らの喉仏に刃先を向けて震えている母親の姿があった。「母ちゃん!」大声を上げ、ガラス戸を開けようとしたが、閉まっていた。多分どこも閉まっているだろうと咄嗟に考え近くにあった手頃な石をガラス戸目掛け力一杯投げ込んだ。「バリンッ!」物凄い音と共にガラス戸は破壊された。尖ったガラスをもろともせずに一心不乱に鍵を開け、同時に母に飛び掛かった。突然の出来事に固まっていた母だったが、掴みかかった息子を振り払うと、「死なせて!」そう叫びながら包丁を握る手に力を込め、そして目を瞑った。床に転がった僕は、「駄目だ!」そう叫び再び飛び掛かった。心を決めてしまった母を助けることが出来るとは思わなかった。しかし川に身を投げた息子を自らの命も顧みずに助けたあの光景が走馬灯のように僕の頭を駆け巡った。「グサッ……ウゥ……」血が噴き出すと、それが辺り一面に一気に広がった。そして涙を流す母ちゃんが大きく口を開いて何かを叫んでいたが、その顔が段々翳んでいった。どうやら包丁の刃が刺さったのは僕のようだった。でもよかった。これで母ちゃんは死なないで済んだのだから。遠くの方でサイレンの音が聞こえた。母ちゃんは大粒の涙を流しながら僕を膝枕してくれていた。そして僕は気を失ったようだ。既に腕時計は鳴っていた。[太郎が戻りまで1800秒前]と鳴っていた。

「起きなさい。あなたは寝ている場合じゃないのよ」どうやらそれは夢の中での出来事らしかった。ゆっくりと目を開けると、そこには古の言霊の女の子がいた。「もう時間がないよ。あなたはこの時代の人間ではなかったのね。だから最初中身は大人だったのね。一本の木の命によってこの時代に送り込まれた。そしてあなたたちは見事その命を成し遂げたわ。どうやらあなた方が来た時代では私たち古の言霊の霊力は存在出来ないみたいね。だから人間言霊を成敗する為にあなた方を送り込んだのに、あの言霊までもこの時代へとやって来ていた。多分あなた方と共にこの時代へと忍び込んだのでしょうけど」少し俯いていた女の子が急に顔を上げた。「そんなことよりも早く、校庭の桜の木の所へ行かなきゃ。みんな待ってるわよ」「でも僕はこんな状態だ。身動きとれないよ。それにみんなはもう元の時代へと戻れたんだ」「彼らはまだ元の時代へは戻れていないの。この時代からは消えたけど、あなたが来るまで時空の中を彷徨ったままなの」「じゃあもし僕が戻らなかったら?」「その時はみんな時空に閉じ込められちゃうよ」「でも僕はまだ母ちゃんの傍を離れられないよ」「何を言っているの?あなたのせいでみんながこのままずっと時空間を彷徨ってもいいの?もうあなたしか助けることが出来ないのよ」「そんなこと言ったって、吉田は僕を殺そうとした。篤志は杉崎を奪った。一番信じていた田中は僕の窮地に同情するだけで救ってはくれなかったじゃないか」「みんなそのことは後悔しているし、心から謝っていたじゃない」「じゃあ僕だって謝ればいいんだろ?」「あなたはあの人間言霊に勝った人間なのよ。言霊師でもないのに勝った。それはあなたの心が何よりも純粋だった故なの。あなたのお母さんは充分にあなたの優しさを知ったわ。だからお願い、私にも見せて。あなたの優しさをそして強さを私とそしてあなたを待っている友たちにも見せてあげて!」「でも……」「みんなはあなたを受け入れてくれた、でもあなたはどう?みんなのことを受け入れた?心を開いて接した?」確かにそうだった。田中は最初から最後まで無条件に受け入れてくれた。篤志は最初こそ突っ掛かって来たが、この時代では僕に懐っこく接してきた。吉田はずっと心に引っ掛かっていた事をぶちまけた上で涙を流し謝ってきた。それなのに僕はどうだっただろうか。友として彼らのことを受け入れていただろうか……「わかった、わかったよ。でもどうやってここから出ればいいの?ここは救急車だろ」「私に任せて。いい、15秒後にこの救急車は桜の木がある小学校の前を通過するわ。その時、私の合図と共にドアを開けるからあなたはそこから飛び出して。あとは一目散に校庭の端っこの小高い丘の上の桜の木を目指して。いいわね?」「わかった」その言葉と同時に、僕は目を覚ました。その瞬間、物凄い激痛が腹から全身を流れた。どうやら包丁が刺さったのは鳩尾辺りのようだった。あの状況でどうやったら腹に包丁が刺さるのかは分からなかったが、取り敢えず僕は古の言霊の合図を待った。そして、「行くわよ、それっ!」その合図と共に、救急車は急停車して後ろのドアが勢いよく開いた。それと同時に僕は全身に力を込めて立ち上がった。「ウッ!」ウオサオしている救急隊員を尻目に僕はどうにか外へと飛び出した。「何をしているんだ?」そう叫ぶ声が聞こえたが、振り返らずに学校の門を潜った。全身を激痛が襲ったが、噴き出した血からやはり刺さったのが腹であることを改めて認識したじろいだが脚は止めなかった。走り出して少しすると痛みが幾分和らぐのを感じた。気が遠くなっているせいだとは思ったが、気には留めなかった。残り30秒というところでどうにか校庭へと出た。残り150メートル。後ろでは相変わらず、救急隊員が騒いでいたが何を言っているのかは分からなかった。なんせこのときの僕は走る事以外の回路が全て遮断されていたのだから。みんなを助ける為に僕は走る。その思いだけで、体の何処にも何の痛みも感覚もなかった。ただマシーンのように足を前に進めるだけの行動を一心不乱に続けるだけだ。不思議と体は軽かった。真後ろで追っかけて来る人間には到底及ばない次元を僕は走っているような思いだった。しかし残り数メートルの所で突如全身に鉛のような重みを感じた。「ごめんなさい!」その声が古の言霊であることはすぐにわかった。どうやら彼女が僕の全身の痛みと重みを全て肩代わりしてくれていたのだ。しかしあと少しの所で彼女は力尽きてしまった。倒れ込んだ僕の後ろには救急隊員がおっかない形相で飛び掛かろうとしていた。もう駄目か、そんな思いが僕の心に押し寄せて来た。そのときだった、太郎と叫ぶ友の声が聞こえた気がした。多分気のせいだったのだと思う、もしかしたら僕自身の心の声だったのかもしれないと。微かに見えた真っ赤な顔で何かを叫んでいる母ちゃんの姿があった。それが僕に最後の勇気をくれた。段々とスローモーションで救急隊員の手が伸びて来た。それでも僕の思いが揺らぐことはなかった。友を助けたいと、そして彼女に母に僕の勇志を見せてやりたいと、だから僕は這いつくばってでも桜を目指した。必死で目指した。残り1メートルほどの所で既に僕の上には救急隊員の一人が覆い被さってきた。あと3秒、それでも諦めるわけにはいかなかった。「絶対に桜、掴むんだ。そしてみんなで戻るんだ」「その言葉受け取ったわ」2秒、1秒。そして僕は力尽きた。「大丈夫か?」気を失う僕を救急隊員は抱かかえようとした。しかし左手が邪魔をしていた。桜の一本の枝を握ったまま離さない左手があったから。

僕は多分夢の中にいて女の子と話をしたんだ。勿論古の言霊の女の子とだ。ここで僕はずっと気になっていたことを聞いた。「どうして、校舎はあの兄妹が死んでしまう前の時代に僕らを送り込まなかったの?」すると女の子は少し俯いて、「それが古の言霊の決まりなの。決して人間の生死には関わってはいけないと。それを破ると言霊は消され、それによって運命を変えられた人間にはもっと大きな災いが降り注いでしまうの」「そうなのか」それはどうしようもないことなんだと段々大人になって行く僕が飲み込んだ。突然、女の子の動きが止まり、どんどん私から離れて行ってしまった。「どうしたの?」と聞くと、「もうこれ以上先には進めないの。これ以上先の時代に私たち古の言霊は生きていることが出来ないの。だからごめんなさい、ここでさようならです……」そう言って悲痛な顔のまま、それでも何かを伝えたいのか口をパクパクさせていたが、もう何も聞こえては来なかった。だからありがとうの代わりに頭を下げてみた。それを見つけた彼女がゆっくりと手を振ったのが見えたが、それもすぐに見えなくなってしまった。そして再び私は気を失った。


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