第34話 ぶひゅ、ぶひゅ

「面白くねえ……お、面白くねえぇ! くそ、くそ、くそおっ!」


 赤目は血塗られた短剣を手に、やり場のない怒りに総身を震わせていた。

 薄紫色の空。カーテンの隙間から差す朝の陽光。

 赤目の口から洩れる、白い息。

 彼の足元には、二つの死体が転がっていた。

 豪勢な毛皮のガウンに身を包んだ、宝石類で飾り付けられた醜悪な肉塊が二つ。

 片方はこのエカトールの闇を統べる元締・ノロで、もう一つはその息子のボルゲであったが、そんなことは赤目にとってどうでもよかった。


 昨夜、うっかりヤンを殺してしまった直後、すぐボロ小屋に戻って支度した。

 夜もすっかり更けた時分に出立し、受け取った地図を頼りに目的の屋敷へと向かった。

 で、例の地図に付けられた×印の屋敷に潜入した。

 塀を乗り越え、息を殺して庭を忍び歩き、壁にぺったりと張りついてトカゲのようによじ登り、窓を開けて中に入る。

 屋敷の外には番犬が一匹、それと見回りの連中が何人かいたが、気取られることなく潜入に成功した。

 そうして二つ並んだベッドの下に潜み、標的の到着を待った。

 それにしても、香水だが香木だかの匂いがきつい部屋だった。


 くそ、匂いが身体に付いちまうじゃねえか。


 待つこと数時間。ようやく標的が現れた。

 赤目は期待していた。

 ヤンの話によれば、その男は『猛牛』のような男ということだった。

 猛牛というからには、相当力が強くタフな相手なのだろう。

 もう一人は猛牛の息子らしい。

 ヤンは詳しくは述べていなかったが、まあ猛牛の息子は猛牛に決まっている。

 部屋の扉が閉じられた直後、赤目は襲いかかった。

 そして知った。

 標的は猛牛でも何でもない、ただの豚だったということを。

 もちろん、豚の息子はやっぱり豚だった。


 赤目はただの一撃で、ノロの首筋――皮が何重にも弛んで、顎と首の区別もできないような――を切り裂いた。

 何が起きたのかすら理解できない、といった顔をした豚は、すぐに白目を剥いてベッドの上に大きな音を立ててひっくり返った。

 その死を確かめることもなく、赤目はもう一匹の豚に飛びかかった。

 口をタコみたいにさせて、今にも泣き出しそうなそいつの目と鼻の間にナイフを突き入れる。

 ぶひゅ、ぶひゅ、と豚らしい小さな悲鳴を上げて、そいつもぶっ倒れた。

 すぐに二匹とも、息を引き取った。

 ほんの数秒の出来事だった。


 あれ、間違えたのかな?


 赤目は当初、自分が標的を誤ったのかと思い、改めて地図と印を確認してみた。


 うん、やっぱりこの部屋だ。


 仕事を終えた後は、速やかに撤退する。

 これが赤目の信条、というよりも暗殺者なら誰もがそうするわけだが、彼は不安になったのでもう一度、確かめてみた。

 やはりこの部屋で間違いなかった。

 この豚二匹が、ヤンに依頼を請けた標的だったのだ。


「くそ、くそ、くそ! 何だ、この豚野郎どもは! どこが猛牛だ!」


 ここに至って初めて赤目は、自分がヤンに欺かれていたことを知った。


 くそ、何が猛牛だ、ふざけるな。

 こいつらはどう見積もっても豚、百歩譲っても鈍牛止まりだ。

 あいつは、ヤンはこの俺を騙していた。

 俺が強者しか標的にしないことを知っていたくせに、あろうことか豚の始末を依頼しやがったのだ。

 絶対に許せない。

 あの狡賢い狐め、殺してやる。

 

 ……あ、もう殺しちまったんだっけ。


 赤目は悔しさに唇を噛みしめながら、屋敷から脱出した。

 もしかしたら、屋敷の中にはもう少し手強い相手がいるかもと思ったが、所詮ここは豚小屋だ。

 豚小屋にいるのは豚か、あとはハエに決まっている。

 俺を満足させてくれるような強者はいやしないだろう。

 さっさと出ていくのが得策だ。

 それに赤目は、何よりこの部屋のきつすぎる香水の匂いが気に食わなかったのだった。


「ああ、ちくしょう、ちくしょう!」


 明け方の、まだ薄暗いエカトールの町を走りながら、赤目はなおも毒づいていた。

 強者は、強者はいないのか。

 せっかく昨夜は戦いのダンスを踊ったのだ。

 狐の皮をかぶった狼だったヤンはいい。あれは満足できた。

 だが、あの二匹の豚は何だ。

 あんなので満足できるはずがない。

 注文したのは新鮮な肉料理なのに、テーブルに出てきたのは雑草の盛り合わせだったとか、そんな気分だ。


「え、兄ちゃん、豚さんを殺しちゃったの?」

「うん」

「そりゃダメだよ。豚さんじゃ戦いにならないもん。ただの弱いものイジメだよ」

「いや、俺はそんな卑怯な奴じゃない」

「でも豚さんって。まさか豚さんなのに強かったの?」

「強い豚なんかいるかよ。違うんだ、依頼主には猪だって言われてたんだよ。でも行ってみたら豚だった」

「何それ、わけわかんないよ」

「俺もわけがわからん。騙されてたんだな、狐に」

「じゃあさ、口直しに強いのを殺せばいいじゃん」

「うーん、いるかなあ、そんな奴……」

「いないの? 本当にいないの?」


 脳内の妹とそんな会話をしながら冬の町をひた走っていた赤目であったが、


「ああ! そうだ! 狼が! メス狼がいたぞおっ!」


 突如として立ち止まり、絶叫した。

 そう、あの時、赤目のいたボロ小屋の近くで焚火をしていた、あの女剣士。

 あれはいい、あれは間違いない。

 本物の強者だ。

 どうしてすぐに思い出せなかったのだろう?

 ああきっと、あの豚小屋の嫌な匂いのせいだな。


「狼だ! 狼だ! 狼がいたぞっ!」


 あまりの大声に、近隣の住民が何事かと目を覚ましていたが、赤目はまるで意に介すことなく、奇声をあげて走り出した。

 そして数秒後、再び彼は立ち止った。


 で、一体どこにいるんだ、あのメス狼は?


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