第24話 ポリポリ
頭の中を数千数万の羽虫が飛び交っているかのような、壮絶な耳鳴り。
悪夢そのものといった騒音に、赤目は時折悩まされていた。
酷い時は、これが三日三晩続いたりもする。
それはもう、死にたいとすら願う程の苦痛だった。
だが、赤目はこの苦役を終わらせる唯一の方法を知っていた。
それは、人を殺すことだった。
ただし、誰でも彼でもいいわけではないし、殺り方も何でもいいというわけではない。それは部族の掟であり、彼らの習性でもあった。
彼が認めた『強者』でなければダメなのだ。
そういう奴を、己の最も得意とする武器――赤目の場合は短剣だ――で殺す。
そうすることによってのみ、あの騒音を消すことができるのだ。
頭の中で、長老と父の言葉が何度も繰り返された。
――いいか、強い敵でないとダメだぞ?
――うむ、得意な武器を使うのじゃ。
今、赤目は苦しみから解放された喜びに浸っていた。
脳内を、心地よい旋律が流れている。
穏やかな風。打ち寄せる静かな波。小川のせせらぎ。
ああ、心が落ち着く。
赤目は目を薄く閉じ、胸に両手を当ててハミングしていた。
最高の気分だった。
やはり長老と父の言葉は間違っていなかったのだ。
しばらくして、赤目は目を開けた。
その紅玉の如き瞳には、もはや殺気は微塵も残されていない。
腕を真横に大きく伸ばし、深く息を吸った。
そして、ゆっくりと息を吐く。
外はすっかり暗くなっていたが、まるで爽快な朝を迎えたような気分だ。
凛とした冷気も、上気した肌にはちょうど良く感じられる。
そもそも極北の地で生まれ育った赤目にとって、この程度はむしろ暖かいぐらいの気候でもあった。
この町に住んでいる連中は寒がりすぎるぜ、まったく。
「……うん、いい心地だなぁ……」
満足げに何度も頷いた赤目は、そこでようやく自分の足元に転がる男に気づき、
「……あっ」
ボソッと呟いた。何度か瞬きをして、しゃがみ込む。
男の顔をじっと観察した。
ええと、ええと、誰だっけ?
必死になって記憶を辿ってみる。
こっちの世界の連中の名前は総じて覚えにくいが、確かこいつの名前は割と短かったはずだ。
ああ、そうそう、ヤンだっけ。
しばらくして赤目は、彼が依頼主だということまで思い出した。
ポンと手を打ち、改めてヤンの様子を眺める。
むせるような血の匂い。
ううん、これだよ、これ。修羅場って感じでワクワクするぜ。
ヤンの首は綺麗に横に切り裂かれていて、床は血の海と化していた。
赤目は満足げに数度頷いた後、パッと目を見開いた。
「……殺っちゃった!」
そう、彼――暗殺者・赤目は、こともあろうに依頼主を『殺っちゃった』のであった。
しばしの沈黙の後、ヤンの身体を軽く蹴飛ばしてみたが、やはり死んでいた。
とりあえず素っ裸というのも具合が悪いので、服を着てからもう一度声をかけてみたが、やっぱり死んでいた。
三度目は、さすがに確かめなかった。
疑う余地もなく、依頼主のヤンは死んでいたのだ。
自分以外の誰かが殺したのではないか、と一瞬だけ考えたが、右手の短剣にべっとりと付着した血糊が、それをはっきりと否定していた。
どう考えても、赤目はヤンを殺してしまったのだ。
ええっと、あれ? どうすりゃいいんだ?
いや、何で俺は殺しちまったんだ?
うーん、うーん……。
赤目は混乱していた。
錯綜する記憶を、どうにか繋ぎ合わせようと試みる。
踊りを始めて……ええっと、それから、こいつが来て……。
あっ、そうだ!
こいつが「殺すな」とか言い始めやがったんだ。
殺し屋の俺に向かって「殺すな」って、そりゃ無理な話だよ。
鶏に卵を産むなって言うようなもんだぜ?
あれ!?
でも、こいつはさあ、俺の依頼主だよな?
依頼といやあ、当然殺しのことに決まっている。
まさかこの俺に、お使いを頼むはずがないもんな。
なのに何で、「殺すな」って言うんだ?
おかしい。全く意味が分からない。
こいつは頭がおかしいのか?
それとも俺が、何か大事なことを忘れちまっているのか?
赤目は首をブルブルと振ってヤンを殺した理由を思い出そうとしたが、どうにも納得できる結論を導き出すことができなかった。
そこで彼は、とりあえず今後自分がすべきことを中心に考えてみることにした。
理由に関しては、そのうちふっと思い出すだろうと期待して。
さて、どうすりゃいいんだっけ?
ああ、そういえばあいつ、何か紙を出していたな。
おう、これか。
うーん、こりゃあ地図だな、多分この町の。
印がついてるってことは……おっ、そうか、ここに獲物がいると。
そうだよな? って、確かめようがねえんだけど。
それで――ああ、そう、明日とか明後日とか、言っていたような気がするな。
どっちだっけ?
明日、でいいか。明後日まで待つ理由なんて一つもないもんな。
そこから先は、まだ思い出すことができなかった。
だが、ともあれやるべき事は見つかった。
この地図に従って、印のついた所まで行って標的を殺すのだ。
標的?
あ、やべえ、誰を殺せばいいんだっけ?
そこに居るのが一人ならいいが、わんさか人がいて、うっかり違う相手を殺しちまったら困るよな。
ええと、ええと……。
ダメだ、全然分からねえ。
いや、そもそもこいつ、俺に標的の名前を教えてなかった気がするなあ。
うん、そうだ、きっと教わってねえんだよ。
…………。
いや、それじゃ困るよ!
何でそれを聞かずに殺しちまったんだよ、俺!
くそ、やっちまったなあ……。
赤目は自分がしでかしてしまった事の重大さに気づき、深く反省した。
こめかみを両の拳でグリグリとこねる。
困ったときの彼の癖だった。
うう、まあ、でもよお……。
やっちまったもんは、もう仕方がねえよなあ。
赤目は大げさに溜め息をつき、乱れきった心を静めた。
すまなそうな顔をして、ポリポリと頭の後ろを掻く。
それから、すでに冷たくなったヤンの死体に向かって、
「……ゴメン」
一言呟き、深々と頭を下げた。
そうしたところで、彼が生き返るわけでも、あの世で喜ぶわけでもないのだが。
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