第22話 ピョンピョン
ヤンは咄嗟に右へ低く飛んだ。
間一髪のところで、首を狙う赤目の一撃を回避する。
ささくれだった床に身を投げ出し、懐に忍ばせた短刀を抜いた。
修羅場からは遠のいていたヤンであったが、殺し屋としての勘も身体の動きも衰えてはいない。
これも日々、たゆむことなく心身を鍛えてきた成果だ。
ノロのような、だらしない肉塊とは違う。
だが、この事態を一体どう切り抜ければいいのか――。
初撃をかわされた赤目は、短剣の刃を恍惚しきった表情で眺めている。
そうしながらも、ヤンの姿を視界にしっかりと捉えているのはさすが、といったところか。
いや、感心している場合ではない。
「ひひ、避けた、避けた~。なあんだ、お前、やっぱり戦えるじゃないか。狐、狐、こ、狡猾で、び、敏捷な狐じゃないか~。いや、狼だな! 狐の皮をかぶった狼か、ひひ、お、面白い~!」
奴の中での評価は、どうやら狐から狼に昇格されたようだ。
まったくもって、ありがたくも何ともない話であるが。
「バカ、やめろ! お前、依頼主だけは殺さないんじゃなかったのか!?」
「ひひ、だぁって、仕事を頼むのはいっつも狸や豚ばかりだからなあ、はは、ひひ、そんな奴ら、殺してもなぁんも面白くなぁい!」
身を起こしたヤンは舌打ちした。
どうやら、事前情報に誤りがあったようだ。
こいつはやはり、分別のない、どうしようもなく頭のイカレた戦闘狂なのだ。
(どうする?)
ヤンはこの期に及んでなお、迷っていた。
こいつを殺すのは簡単だ。
例の言葉を叫ぶだけで、全て終わる。
だが、計画はどうする。今から、別の暗殺者を手配する余裕はない。
(……俺が自分の手で殺るしかないのか?)
それはあまりにも無謀で危険なように思えた。
しかし、この凶暴な暗殺者に命を狙われている今の状況の方が、遥かに危険なのは間違いない。
(くそ、もう、仕方ない!)
こいつはもう、どうしようもない。この場で速やかに殺そう。
ノロを殺すか否か、この町を捨てるか否か、それを考えるのは、まず自分の命の安全を確保してからだ。
ヤンは、今度こそ躊躇うことなく、
「シャドルミレディ!」
と、絶叫した――つもりだった。
「シャドルミレ……」
実際に声に出すことができたのは、そこまでであった。
それよりも一瞬早く、赤目の短剣の切っ先がヤンの喉笛を引き裂いていた。
(そん、な……)
赤目の迅雷の如き接近速度は、ヤンの反応を遥かに超えていた。
先程の初撃は、
(そうか、あれはあくまでも様子見に過ぎなかったと……いうのか)
受け身もとれず、床に背中から倒れたヤンは瞬時に理解した。
そう、あれはヤンが赤目にとって『殺すに相応しい存在か』を試しただけだったのだ。
そして、運悪くその狂気じみた審査に合格してしまった自分は、今度は全力を出した赤目に襲い掛かられ、こうして命を落とす羽目になったというわけだ。
もっともあの時、回避できなくても同じように死んでいたと思われるが。
(……どっちにしても、死んでいたと? くっ、バカバカしい話だな……)
切り裂かれた喉から凄まじい勢いで噴出する血を、ヤンはなす術もなく見つめていた。
彼はもう、全てを諦めていた。
自分はここで死ぬ。こうなっては逃れようもない運命だ。
身体に全く力が入らない。
傷口の場所が場所だけに、もはや声を上げることすらできなかった。
ただ、呼吸をするたびにヒューヒューと、喉が笛のように鳴るのが耳障りで仕方なかった。
死ぬことは怖くなかった。
この町に来る以前の殺し屋時代から、いや、あのおぞましい貧民窟で生まれ育った頃から、『死』は身近な存在だったからだ。
何人も、この手で殺めてきた。
そんな自分が、まっとうな死に方ができるわけがないと覚悟はしていた。
ただ、こんなにも呆気なく、もっと言えば間の抜けた死に方をするとまでは当然予測していなかったわけだが。
だから、恐怖よりもむしろ怒りがわいてくる。
赤目の後先考えないバカさ加減にも腹が立つし、己の判断の迂闊さにも憤怒を禁じ得ない。それにあのデブ親子が、自分よりほんのわずかでも長生きするのが癪に障る。くそ、順番がおかしいだろ、と。
だが、仕方のない話でもある。
誰もが、死ぬ。
余るほどの財を持っていようが、位人臣を極めようが、歴史に名を残すほどの叡智や武力を有していようが、死は避けることができない。
しかも死は、たいていの場合本人の予測も希望も考慮せずに襲ってくる。
早く死にたいと願う奴ほど長生きしたりするし、ただひたすら長生きできればいい、などと望む者ほどあっさりくたばったりもするものだ。
だから諦めるよりない。
自分は、残念ながら今ここで死ぬのだ。
赤目が、ひたひたと近づいてくる。
相変わらず薄ら笑いを浮かべていた。
まったく、とんでもない厄種だ。
まあいい、こいつともこれっきりでオサラバだ。
(……それにしても、素っ裸の男に殺されるとはね)
赤目が奇声を発し、その場でピョンピョンと飛び跳ね始めた。
先程のあれが戦いの踊りなら、これは勝利を祝う踊りだろうか。
悪戯を成功させた悪ガキのようにはしゃぐ姿――それが全裸の殺し屋というところが、より一層いまいましい。
奴の股間でブラブラと揺れるモノを見て、ヤンは忌々しげに眼を閉じた。
さんざんこの世の汚いものを見続けてきた彼であるが、末期に目に映る光景がコレというのは、あまりに滑稽すぎる。
全身がわなわなと震えていた。
かつて感じたほどの無い寒気。
どうやら、そろそろお終いらしい。
ノロ父子暗殺のための完璧な計画を組み、そのための準備を周到に整えてきたつもりだったのだが――それもこれで白紙となった。
演劇の脚本家が、本番で道化によって舞台に引きずり出され、あろうことかこの悲劇――いや、喜劇か――の主役に抜擢されてしまったというわけだ。
もしかしたら、最初からヤンは脇役の一人で――どこかのクソッタレ脚本家の書いたろくでもないシナリオによって、とうの昔に死ぬ運命が決められていたのかもしれない。
もしそいつに地獄で会ったら、一発ぐらいぶん殴ってやりたいところだ。
こいつは、赤目は、これからどうするのだろうか。
ノロ父子を殺すだろうか?
そうなったら、組織はどうなるだろう?
ルイスはどうする? 彼に組織を束ねる器量はあるだろうか?
計画が順調に終わった暁には、自分が全力で補佐をするつもりだったのだが。
そうそう、あと、あのマナという女剣士。それに、ニーナの借金。
ああ、そういえば借用書は今、自分が持っていたのだ。
これは結局どうなる?
まあ、いい。
気がかりなことは山ほどあるが、自分にはどうすることもできないし、考えてみればどうでもいい話だ。
どうせ自分は死ぬのだから。
あとは例の『脚本家』――神か悪魔か、それとももっと低俗な存在かもしれないが――に任せてしまうより他ない。
地獄の底から、事の成り行きを見物させてもらおう。
(ふふ、まあ……勝手にしやがれ! というところかね?)
ふっと、身体を支える最期の力が抜けたように感じた。
何も見えない、延々と続く闇――音も消え、痛みも、何もかもが消えた。
こうして、ヤンの意識は漆黒の闇の底へと墜ちていき――。
彼は、死んだ。
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