第12話 くくくっ
黒髪の女剣士がサンディを伴って『月光』に入るのを見届けたヤンは、満足げな笑みを浮かべて歩き出した。
もうここに用はない。
茶屋に残した子分には監視を言いつけてある。
(なるほど、メス狼か。確かに、あれは相当な手練れだな)
この町では見たことのない女剣士だ。
赤目の言っていたメス狼とやらが、あの女であることは間違いないだろう。
腰に差したレイピアから、戴天踏地流剣術の使い手だと思われる。
俊敏で、正確に技を繰り出すタイプの剣士だ。
革鎧と外套のくたびれ具合から、旅慣れた様子も見受けられた。
帝国の放った密偵――いわゆる、狗の可能性もないわけではないが、それにしてはやはり目立ちすぎであるし、そういう類の気配は感じなかった。
何よりあれは、「誰かに使われる」タイプの人間ではない。
(いや、誰かの下につくことはない、かな)
いかにも自由奔放に生きている、という雰囲気だ。
世間の規範や法律よりも、自分の流儀を押し通す。
ある意味では、ヤンたちよりもよっぽど『侠』の精神を理解し、実践しているような人間なのではないか――。
そして、大事なことがもう一つ。
あの女、恐らくは裏の世界にも通じている。
あるいは今はもう無関係なのかもしれない。
だが、一度染みついた血とドブの匂いは決して消すことなどできないものだ。
一目見ただけであるが、ヤンはその辺りまで彼女のことを推測した。
だが、やはり若い。
本当に熟達した剣士――それこそ免許皆伝レベルの者であったら、ヤンの放った鋭い気配も、もっと軽く受け流していたはずだ。
恐らく、剣術の腕前はともかく経験はまだ浅いのではないだろうか。
そう考えると、色々と合点がいく。
きっと、剣術修業の旅の途上で、このエカトールに立ち寄ったのだろう。
だが、彼女の立ち居振る舞い、特に足の運び。
さらには、ヤンの視線をすぐに察した勘の良さ。
若くて美人だからといって、侮ることは一切できない相手だ。
ヤンは穏やかな足取りで、これから起こるであろう事態を予測した。
多分、あの女剣士はサンディからヤンの素性についてあれこれ聞くことだろう。
それは別に構わない。
組織の幹部ともなれば、この狭い町の大半の人間に顔も名前も知られてしまっているのだから。
あえて隠す必要もない。警戒心なら、とうに抱いていることだろうから。
問題は、あのニーナの借金の件だ。
彼女には念を押してはあるが、あの蒼ざめた様子からサンディたちが窮地を察し、事情を聞き出すことは充分にあり得る。
いや、あの女剣士が気づかないはずがない。
そうなれば、少々面倒なことになる。
サンディは友人の危難を放っておくような少女ではないし、あの女剣士も首を突っ込んでくることは間違いなかった。
それは昨日のルイスの一件で証明済みだ。
己に何の見返りもないのに、進んで揉め事に関わってくる人間。
自分とはまるで正反対であるが、そういう人間が世間には少なからずいることを、ヤンは知っていた。
(それに……恋人の友が窮地となれば、放ってもおけぬだろうしな)
二人の表情と距離から、ヤンは彼女たちの関係を何となく察していた。
どこまで進んでいるかは知れないが、ただならぬ仲であることは容易に想像できる。交わす視線が、「同性の友人」以上の関係であることを雄弁に語っていた。
昨夜出会ったばかりのはずだが、恋愛は時間の長さが全てではない。
恋心などというものはとうの昔に捨ててしまったヤンであるが、そのぐらいのことは理解している。
何より、人と人との関係を即座に見抜けぬようでは高利貸しは務まらない。
(まあいい、どっちにしろ借用書は俺の手の内にあるんだ。これがある限り、いくらあの女剣士が強かろうが獰猛な狼だろうが、関係ない)
懐に手を当て、改めて借用書の感触を確かめる。
これがヤンの商売道具、いや、現状においては生命線であった。
もちろん、あの二人がニーナの借金を肩代わりする、ということでも大歓迎だ。
要するに、しっかり金を回収さえできれば問題はないのだから。
(ふふ、力づくで借用書を奪う、なんていうのであれば話は別だがね)
くくくっ……。
ヤンは足を止め、口元をさりげなく袖で隠すと忍び笑いを漏らした。
いくら何でも、そのような愚行に及ぶような奴ではないだろう。
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