第10話 チャララララ
「貴女のお父様が覚えていないとか、そんなことはもう問題じゃないんですよ。今、こうして私の手元に残っている借用書、それが全てですから」
ヤンが口元に冷たい笑みを浮かべ、懐から取り出した紙を広げた。
その一番下には、確かに彼女――ニーナの父の筆跡で名が記されている。
ニーナは何か言いかけたが、すぐにうつむき無言のまま肩を小刻みに震わせた。
ここは、彼女と友人のサンディが営むアクセサリー店『月光』だ。
大通りに面したこじんまりとした店で、陳列棚には色鮮やかな装飾品の数々が並べられている。
陽がすっかり昇り、昼前からの営業開始に向けてニーナは準備を始めていた。
普段ならサンディもとっくに来ている時間なのだが、今日はまだ現れない。
風邪でもひいたのかと心配していたところで、
チャララララ――。
入口の鈴が鳴り、この高利貸しの男・ヤンが店に入ってきたのだった。
(本当なら、この娘はあまり追い詰めすぎない方がいいが……そうも言っていられないな)
ヤンは、静かに目の前の赤毛の少女を観察していた。
十七歳という年齢のわりにはしっかりしている。
聡明、といってもいいだろう。
だが、それでかえって余計なことをあれこれと考えてしまい、思い詰めるタイプにも見える。
彼女の父親に金を貸し付けたのは、もう半年以上前のことだ。
腕の良い飾職人で、男手一つでニーナを育てあげたという。
しかし、四十過ぎるまで酒も博打も一切やらなかった堅物の男が、近所付き合いで仕方なく賭場に入ったのが大きな過ちだった。
その賭場には当然ながら町の元締・ノロの息がかかっていた。
ヤンは直接経営に関わってこそいなかったが、何しろ賭場に高利貸しは付き物なので、ほぼ毎日出入りしている。
最初の内こそ「ほんの遊び心」で始めた博打であったが、ニーナの父親はすぐにのめり込むようになった。
初日に「勝ちすぎてしまった」ことが原因だが、これは賭場の常套手段だ。
相手が初心者で、さらにある程度金を貯めこんでいると見れば、まずは勝たせる。何度も勝たせる。
勝ち逃げは許さない、というのは二度と訪れないであろう「よそ者」の場合のみだ。そうでない客は、まず初日に勝たせる。多少の損などは気にしない。
そうやって、客が勝利の美酒に酔い痴れ、金銭感覚が狂ってきたところで回収を始めるのだ。
客は、もうその頃には、
「さっきは負けたけど、今度こそ勝てる!」
「ここで大勝ちすれば、負けた分も取り返せる!」
などと考えるようになっている。
こうなればもう、ただのカモだ。
一回で大勝するためには、どうしても分の悪い方に賭けざるを得なくなる。
小銭を賭けてコツコツと稼ごう、小さい勝負で楽しもう、という感覚には戻れないのだ。
で、賭場側の目論見にまんまと嵌ったニーナの父は、ヤンから金を借りるようになった。
初めの内こそ少額だったが、やがて分不相応な大金を高利で借りるようになってしまい、すぐに首の回らない状態に陥った。
娘の目を気にしてか、店の品物を質に入れたりはしなかったようだが、いずれにせよ店を抵当に入れても返しきれない額である。
だがヤンは、この男をすぐに「殺して」しまうつもりはなかった。
元々、職人としての評判は良い男だ。
こういう相手からは、じっくり、じわじわと毟り取る方が良い。
そう考えていた矢先――そう、ちょうど一ヶ月前だ――ニーナの父親は自宅で急に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
他に家族も縁者もいないので、当然ながら残された借金は一人娘のニーナから取り立てることとなる。
ヤンはサンディが店にいない頃合いを見計らって、これまでに何度か返済の催促にこの店を訪れていた。
(あの娘が絡むと、少々厄介なことになりそうだからな)
組織の筆頭幹部・ルイスが、サンディにご執心なのはヤンも心得ていた。
あの少女のことだから、ルイスに借金の帳消しを頼んだりはしないだろう。
だが、ルイスの方からヤンの仕事に横槍を入れてくる可能性はあり得る。
昔気質の侠客の彼のことだ、女子供を泣かせるな、とか何とか説教されるかもしれない。
ヤンにとっては、面倒な話だ。
だから細心の注意を払い、サンディにこの一件を知られないように動いてきた。
ニーナにも、
「もし知られれば、貴女の大切な友達を巻き込むことになりますよ?」
と、念を押してある。
これも、彼女の生真面目そうな性格を見込んでことだった。
もっとも、彼女の借金を帳消しにしてもさして大きな痛手にならない。
稼ごうと思えば、他にいくらでも稼げる相手はいる。
これが平時で、ルイスから直々の命令であればそうしても一向に構いはしない。
だが、今は緊急事態だ。
赤目と接触し、彼を町に引き込むために、そしてとっておきの『切り札』のために、一体いくらの私財を注ぎ込んだことか。
金はいくらあっても足りない。
ヤンは何としても、彼女から取り立てる心算だった。
ヤンは借用書を懐にしまうと、
「では、明日の朝まで待ちましょう。それまでに銀貨五百枚、きっちりとご用意くださいね。もしそれができなかった場合は……」
貸し付けた相手には、終始丁寧な言葉づかいをするのが、ヤンの流儀だった。
声を荒げたりする必要はないし、暴力に訴えるなどもっての外だ。
そんなことをしても意味はない。
万が一、首でも吊られた日には、保安隊が出動することになる。
賄賂でどうにでもなる連中ではあるが、金と労力と時間を無駄に使いたくはない。
要は取り立てればいいのだ。
店を売り払わせ、足りない分は彼女の体で払わせる。
ニーナの年齢と器量であれば、娼館で高く売れるだろう。
胸も大きい方なので、上客もつくに違いない。
罪悪感はなかった。
道徳も人情も、ヤンはとうの昔に捨てていた。
いや、貧民窟の最下層で生まれ育った自分には、最初からそんなものはなかったのかもしれない。
神の愛とやらはドブの臭いがする裏路地には見当たらなかったし、ガキの頃に何度もぶち込まれた留置場にも、罪人が強制労働のために送られる鉱山にも落ちてはいなかった。
あるのはただ、暴力と金と欲、それだけだった。
真っ青な顔でうつむいたままのニーナを背に、ヤンは店を出た。
雲間から差し込む陽光に、切れ長の目を細める。
今日は、昨日よりもだいぶ暖かくなりそうだ。
(さて……あとは、あの女……メス狼、か)
昨夜、赤目から聞いたその女の素性は分からないままだ。
だがあの後、所用のために立ち寄った酒場で、ヤンは気になる情報を得ていた。
ルイスが、よそ者の女剣士にこっぴどく恥をかかされた、という話であった。
聞く限りでは不意討ちを喰らわせたようだが、それにしても只者ではない。
すぐにヤンは、赤目の話を思い出した。
エカトールはそれほど大きな町ではない。
恐らくその女剣士が、例の『メス狼』で間違いないだろう。
その後サンディと意気投合し、彼女の部屋に泊まったらしい、というところまで掴んでいる。
(刺客、という線は完全に消えたな。だからといって、安心はできんが)
もし刺客であれば、わざわざ自分から目立つようなことはしないだろう。
ただの正義感の強い旅の剣士、といったところだろうか。
ヤンとは正反対のような人間だ。
(もっとも、いざとなれば赤目に始末させればいいだけの話だ。気に病むこともないか)
きっとあの狂獣は、歓喜の声をあげてその仕事を請け負うだろう。
計画の範疇外ではあるが、何事も臨機応変に対処するというのは、ヤンがこれまでの修羅の人生で学んできた大事な処世訓であった。
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