第6話 ぴゅーいっ!
一方、その男――ヤンは、すぐにロイのことを忘れた。
理由は簡単、彼には他に考えるべきことが山ほどあったからだ。
一目見て、ロイの力量は看破していた。
この街では見かけない顔だった。
雰囲気から察すると吟遊詩人か旅芸人のようだが、自分を値踏みした様子と態度から、堅気ではないと判断した。
といっても、殺し屋ではない。
それなりに男前だから女の数は結構知っているかもしれないが、殺しに関しては間違いなく童貞だ。
恐らくは、ちんけな盗人かチンピラであろう。
もしロイが無謀にも自分に刃を向けてくるなら、容赦なく殺すつもりだった。
人目もないし、よそ者が一人死んだところで保安隊も本気で犯人を探したりはしないだろう。
だが、ヤンは多忙な身の上だ。
しかも、これから会う男の前で血の臭いを漂わせるのは得策ではない。
奴は何しろ、ヤン以上に死の薫りに敏感で、常に闘争を求めている狂った獣なのだから。
そこでヤンは、無言のまま威圧し、屈服させることを選択した。
殺すぞ。
心の中で呟き、強い殺気を浴びせるだけで、案の定チンピラは膝を屈した。
これが完全な演技で、油断したヤンを一撃で葬る心算であったら大したものだが、そんなことも無かった。
ヤンは無価値なチンピラのことは頭から消し、街の郊外へと歩を進めた。
舗装も街灯もない、郊外の夜道。
そこをヤンは、月明かりだけを頼りに歩いている。
灯りを持たないのは、万が一にも誰かに見られないようにとの用心だった。
それに、暗闇には子供の頃から慣れている。
フクロウの声。野犬の遠吠え。時折吹く強い風に揺れる、木々のざわめき。
人の気配はまるで無かった。
(まあ、あったとすれば殺すがね、ふふっ)
薄笑いを浮かべる。
先程の若僧の時とは、わけが違う。
ここを独り歩きしている姿は、誰にも見せるわけにはいかない。
たとえそれが女子供であっても、躊躇いなく殺すのみだ。
ヤンは、この町の裏社会を牛耳る元締・ノロに仕える幹部の一人だった。
幹部衆はノロの昔からの子分だったルイスを筆頭に七人。
ヤンはその中では末席で、かつただ一人の『よそ者』だった。
だが、武闘派揃いの幹部衆の中で最も頭が切れ、金を稼ぐコツを心得ている彼はノロから会計全般を任されていた。
ヤンは組織全体の仕事として、賭場・娼館・酒場・屋台からの上納金の管理と運用を行いつつ、個人では高利貸しを営んでいる。
ノロの幹部に迎えられてから三年程経つが、商売は順調、組織内でも『必要不可欠な存在』として扱われてきた。
(何もかも順風満帆、だったのだがねえ……)
ちょうどひと月前から、ヤバい事態に直面していた。
今のところ、どうにかのらりくらりと誤魔化してはいるが、やがて絶体絶命の状況に陥ってしまうのは目に見えている。
組織も子分も捨て、早々にこの町を逃げてしまうのが一番安全であろう。
だがヤンは、これまで積み重ねてきた金と地位を無に帰してしまう気にはなれなかった。
だから、やるしかない。
今進めているこの計画を、成功させる以外に道はなかった。
(……ん? これは……)
ヤンは足を止め、鼻をひくつかせた。
切れ長の黒い瞳を光らせ、その臭いの元を探る。
目だけではなく、聴覚にも嗅覚にも自信があった。
光の差さぬ闇の中、幾人もの敵を仕留めてきたのも、この鋭い五感の働きゆえである。
(灰……。誰か焚火をしていたのか……)
腰を屈め、そっと地面に手を置く。
かすかにではあるが、まだ温もりが残っていた。
改めて気配を探る。
わずかな音も聞き逃さぬよう、呼吸を止めた。
やはり、誰もいない。
少考の後、小型のランタンにマッチで火を灯した。
淡いオレンジ色に照らされた地面に、這いつくばるような姿勢で目を凝らす。
すぐに、足跡を見つけ出した。
追ってみると、その足跡は町の方角へと向かっている。
大きさと歩幅から察するに、ヤンと同程度の身長と思われた。
一定の歩幅で、少しつま先に体重をかけて歩くクセがある。
(何かしらの武術を修めているようだな。若い男……いや、女かもしれん。だが暗殺者や刺客の類ではないな、恐らく。連中ならこんな所で迂闊に焚火などせん)
ヤンは足跡だけで、そこまで導き出した。
そしてすぐに、その未知なる存在が自分の計画に支障をきたすかもしれないという可能性に思案を巡らせる。
(……いや、大丈夫だろう。だが、油断はできないな。用心してかからねば)
灯りを消し、再び歩き始めた。
陰鬱とした森の奥にある一軒のボロ小屋の前で足を止めると、口笛を長く吹く。
ぴゅーいっ!
朽ち果て、不気味な静寂に包まれた小屋の奥から口笛が返ってきた。
ヤンが今度は短く口笛を吹くと、ボロ小屋に灯りがつく。
これが、二人の間で取り決めた合図だった。
念入りに尾行者・監視者の有無を確認してから、慎重な足取りで中へ入った。
「くくく、遅かったなぁ~。何か、楽しいことでもあったのか~い?」
男の、高い声。
耳にこびりつくような、聴く者に不快な印象を植え付ける口調にも、ヤンはまるで動じなかった。
どうせ短い付き合いなのだ。気にすることはない。
「お前の方こそ、何か俺に報告すべきことがあったんじゃないのか?」
淡々とした口調で問い、男に目を向ける。
「……何のことかなぁ~?」
「とぼけるな。今日、この近くで焚火をしていた奴がいただろう。まさかお前が気付かなかったというわけはあるまいな、赤目?」
変わらず静かな口ぶりであったが、目には斬りつけるような強い光があった。
「ああぁ、さすがにお見通しかぁ~。くくく、そうだよぉ。狼さ、狼がいたのさぁ」
「狼?」
「そぉさ~。とびきり生きのいい、メスの狼がなぁ~。くくくくくっ」
そう言って笑う男の赤い目が、妖しい光を放っていた。
男の名は『赤目(レッド・アイ)』。
もちろん、本名ではない。
計画のためにヤンが雇った暗殺者だ。
どこの組織にも属さない一匹狼であったが、大陸の裏社会では凄腕として知られている。
保安隊から懸けられている賞金も、銀貨五百枚という破格の扱いだ。
その名の通り、瞳が赤い。髪も赤い。
肌は死体のように蒼ざめている。
背はヤンより少し低い程度で、体格は女のように細いが、それはあくまでも外見だけだ。
実際には濃密な筋肉の塊のような身体つきをしている。
首には黒革の首輪をつけていた。
その中心部には、不気味な輝きを放つ血のように赤い宝珠がはめ込まれている。
これは、ヤンからの前金を兼ねた贈り物だった。
赤目の得物は鋭利な短剣で、身体の至る所に仕込んでいるという。
投擲技術も尋常ではないが、本人曰く「敵の喉首を掻っ切るのが最高」なのだそうだ。
殺しの腕は超一流だが、赤目は裏社会でも爪はじきにされている。
理由は単純、この男はとんでもない『戦闘狂』なのだ。
酒も飲まず、麻薬も嗜まなければ、女も抱かない。
ただひたすら、人を殺すのが楽しくて仕方がないというのだからタチが悪い。
もっとも、この男にもそれなりにポリシーがあるらしく、『強者』しか標的にしないということだった。
だから、誰でも無差別に殺すような手合いではない。
その代わり、ある程度以上の戦闘力を持った者であれば、老若男女、敵味方の区別なく、殺す。
一言で表せばメチャクチャな奴なのだ、この赤目という男は。
一応、強者でも仕事の依頼主にだけは手を出さない流儀らしいが、それも眉唾な話なので、ヤンもその点は十分に警戒している。
何しろこの裏社会では、自分の親分すら手にかけようという者もいるのだから。
普通に考えれば、こんな『厄種』に仕事など頼みたくはない。
というよりも一切関わりたくないし、もっと言えば町に来られるだけで迷惑だ。
しかし今は、そんなことは言っていられない。
尋常な手段では解決が困難な状況なのだ。
だからこそ、赤目のような奴に頼らざるを得ない。
そのために、こいつを呼び寄せたのだ。
ヤンには十人の子分がいるが、赤目の件について知っている者は一人もいない。
組織の人間が誰も知らないところで、密かに進めてきた計画であった。
(メスの狼……女剣士か。飛燕幻舞流刀術か、戴天踏地流剣術か……?)
ヤンの頭にすぐに浮かんだのは、大陸に数ある流派の中でも特に女性の修行者の多い二大武術だった。
腕前がどの程度かが一番気になるところであるが、
「くくく……。アレはいい、相当な強さだぜぇ……。我慢するのが大変だったよぉ……」
などと、赤目が恍惚とした顔で語るほどだから、相当なものだろう。
狼などと形容されるのだから大したものだ。
ちなみにヤンは初対面の時に、「あんたは……狐だなぁ」と言われた。
明らかに狼の方が強者という扱いだが、別に羨ましくはなかった。
「俺の仕事を遂行した後なら一向に構わんよ。狼でも虎でも勝手に殺せばいいさ」
興味なさげに言い捨て、赤目の喉仏の辺りで輝く宝珠に目をやった。
(よしよし、すっかりお気に入りのようだな)
金よりも宝石類、しかも赤を好むという情報は確かだったようだ。
この宝珠こそがヤンの切り札、計画を完璧に遂行するための鍵であった。
(それにしてもその女、どうにも気になるな。やはり只者ではないか……)
これまで順調に運んできた、彼の『計画』。
そこに飛び込んできた不安材料に、ヤンの心はにわかに騒めいていた。
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