第5話 どぐっ!
ついてねえ、マジでついてねえ……。
くそっ、ここんところの俺は一体何がどうしちまったってんだ?
何もかもが裏目じゃねえかよ。
畜生、こんなはずじゃなかったのに!
ロイは腫れあがった頬をしきりに撫でさすりながら、悪態をつき続けていた。
口の中が、ヌルヌルした血の鉄さびの味で気持ち悪い。
腹がシクシクと痛むが、たぶん骨まではやられていないだろう。
くそっ、あのデブ、しこたま蹴ったくりやがって。
何であのヤクザにボコボコにされなくてはならないのか、その理由をロイは知らなかった。
あの娘の雰囲気からして、奴の情婦というわけではなさそうだ。
となると、まさか、妹?
いやいや、いくら何でも似てなさすぎだろう。
ともかく、どうにか命だけは助かった。
あの黒髪の威勢のいい姐さん――どっかで見たような気がしないでもないが、恐らく勘違いだろう――が、どうなったかは分からないが、どっちにしろ自分とはもう関係のない話だ。
保安隊がそのうち来るはずだから、まぁ殺されたりはしまい。
あのヤクザ者がどれ程の奴だろうと、お上に逆らったりはしないだろうから。
むしろ保安隊に関わってこられて困るのは、ロイ自身であった。
この町は初めてなので『仕事』はしていないが、人相書が出回っている可能性はある。
処刑台送りは無いとしても、鉱山で強制労働をさせられるなんて冗談じゃない。
ロイは盗賊だ。
ガキの頃から徒党は組まず、一本独鈷で稼業を続けている。
つい先日もポザムという村でどでかい仕事をしてきたばかりだった。
そこの長老が後生大事にしていた宝珠を、我ながら見事な手口で盗み出してやったのだ。
その仕事には随分と手間がかかった。
まずは吟遊詩人に変装し、口八丁手八丁で長老に取り入って宝珠を見せてもらったのだ。
その時は番人も一緒にいたので、とりあえず家の間取りだけ頭に叩き込んでおいて、故郷・サバトールに行き、顔見知りの盗品を扱う質屋で似たような見た目の石ころ――二束三文の、ガキ向けに作られた玩具だ――を用意した。
こいつはもちろん、囮だ。
で、村に戻って村長を舌先三寸で騙くらかし、宝珠を盗み出して逃走。
追手がすぐに差し向けられたが、当然計画の内だ。
頃合いを見計らって囮の石ころを投げ捨て――追手が唖然としている隙に脱兎のごとく逃げ出したのだった。
それだけではない。
分かれ道の標識にも細工をした。
エカトールとサバトールを逆にしておいたのだ。
追手が土地勘のない奴か、よっぽどの間抜けじゃない限り引っ掛かりはしないだろうが、実はこれも事前に伏線を仕込んである。
村長には、自分はエカトールの出身だと嘘を吹き込んでおき――その一方で、茶屋の娘や村人には「これからサバトールに行くつもりだ」と、それとなく話をしてあったのだ。
そう、攪乱工作だ。
単純だが、意外に効果はある。
追手は果たしてどちらの街にロイが向かったのか、分かれ道で迷うことだろう。
その間に、自分は貴重な時間を稼げるという塩梅だ。
さらに、念には念を入れてある。
ロイはあえて、故郷サバトールではなく不案内なエカトールで宝珠を売り捌くことにしていた。
この方が足がつきにくいだろうという判断だった。
何という完璧な計画!
鮮やかな手際!
俺ってやっぱり大盗賊の器だな、へへっ。
ということで、本来なら今頃ロイは大金を手にし、綺麗な女を両脇にはべらせて、成功の美酒をしこたま呑んで酔いしれているはずであった。
それが、この現実である。
おいおい、どうしてこんなことになっちまったんだ?
いや、つまづきの原因は明白だ。
あろうことか、ロイは囮ではなく、本物の宝珠を投げ捨ててしまったのだ。
全くもって、我ながら信じがたい大失敗だった。
きっと長老は、ロイの間抜けぶりに高笑いしていることだろう。
くそっ、その間抜けにまんまと一杯喰わされたお前はもっと大間抜け野郎じゃねえかっ!
しかも情けないことに、失敗に気づいたのはこのエカトールに着いてからだ。
ある情報屋の紹介で、いわくつきの品物でも買い取ってくれる店に入ったロイだったが、
「……おい、俺を舐めてやがるのか、このオカマ野郎!」
北方系のむさ苦しい店主に凄まれてしまったのだ。
ちょっと前まで余裕綽々の態度だったロイは、オヤジに投げつけられたそれを見て、思わず目を疑った。
「おいおい何だよ、これ――ただの石ころじゃねえか!?」
「そうだよ、この野郎。てめえ、俺の目を節穴だと思ってやがるのか?」
「いやいや、ちょっと待ってくれって、こいつはきっと何かの間違いだって!」
「うるせえ、つべこべ言わずにさっさと俺の店から出てけ!」
そんなわけで、今にもロイの首をねじ切らんというオヤジからほうほうの態で逃げ出し、宿屋に帰ってから改めて確認してみたが、やはりただの石ころだった。
いや、きっと夜だからオヤジも俺も見間違えたんじゃねえのかな、と思い直し、次の日の朝にもう一度じっくり舐めるように見てみたが、やっぱりただの石ころであった。
丁寧に布で何度も拭いてみたが、やはり何の価値もないおもちゃのままだったし、万が一の可能性に賭けようと、水に漬けたり火で炙ったりもしてみたが、何も変わらなかった。
こいつは、本当に無意味で無価値な、つまらないクソッタレ石ころに過ぎなかったのだ。
こうしてロイはようやく――ほぼ丸一日かかったが――自分がとんでもないミスをしでかしたことを悟った。
その夜は、安宿の酒臭い部屋で一人、ワンワン泣いた。
だが、不運はそれだけではなかった。
翌日、昼間の内からやけ酒を呷り、夕暮れの繁華街をあてもなくブラブラと歩いていたロイは、ハッとするほどの美少女に出逢った。
絶望と悔恨の中、目に入る何もかもが灰色に映るロイにとって、彼女は光り輝く宝石のように目映かった。
うん、これはきっとアレだな。
えーっと、あれ、何て言ったっけ、そうそう、『天佑』とかって奴だ。
惨めな俺への、神様からの粋なはからいに違いねえな、うんうん。
ロイは軽い足取りで彼女に近づき、声をかけた。
北方系の、少し白みがかった金色の髪と、碧の瞳。抜けるような白い肌。
ふへーっ、若いねえ、肌の張りが違えや。
キラキラしてやがるぜ。
まだ男も知らない乙女だな、きっと。
よっしゃ、こいつは久しぶりに、気合入れて口説くとするかねえ!
ロイは、地元ではちょっと顔の売れたナンパ師でもあった。
いつか盗賊稼業から足を洗う日が来たら、女衒になるのもいいかもしれない、などと自負している。
今度は女のハートを盗む仕事に華麗に転職――なんてね。
まずは軽い感じで挨拶し、冗談も交えながら彼女のアクセサリーや髪型やらをとにかく徹底的に褒めまくり、その流れで茶屋に連れ込む。
これがロイのナンパの常套手段だった。
個室のある、雰囲気の良い店で口当たりの良い酒を飲ませて――と、お得意のパターンを脳裏に浮かべた次の瞬間、後ろに危険な気配を感じた。
あ、ヤバいかも、と思った時には、もう手遅れ。
肩口をむんずと掴まれ、恐ろしい力で振り向かされたかと思うと、
どぐっ!
いきなりごつい拳を頬骨に喰らわされた。
一発でロイは吹っ飛ばされ、石畳を転げる羽目になった。
後はもう、身体の至る所をひたすら蹴りまくられた。
突然のことだったので、とっさに急所を庇うのが精いっぱいだった。
命乞いをしようにも、声を出す暇すら与えられなかったのだ。
それにしても、きついパンチだった。
あんなのは、ガキの頃に屋台の金をかっぱらい、店のオヤジに捕まってリンチされた時以来だ。
ああくそ、嫌なこと思い出しちまった。
で、そこにあの勇敢な姐さんが現れて窮地を脱することができたというわけだ。
あ、いや、その前にあの娘が何か言ってたな。
えーっと、あぁそうそう、やめなさいよ、ルイス、とか何とか。
そうか、あのデブはルイスってんだな。
で、あいつ、ルイスは何て答えたんだっけ。
黙ってろ、サンディ。
うん、確かそんな感じだった。
実際のところ、ルイスは暴行をやめなかったし、サンディも黙りはしなかったわけだが。
よろよろと歩き続けている内に、いつの間にか繁華街からかなり外れた、うら寂しい街区に来てしまっていた。
遠くから犬の遠吠えが聞こえてくる。
盗賊にとっては、まさに天敵の犬コロども。
ったく、忌々しいったらないぜ。
ロイはもう、心身ともに疲れ切っていた。
粗末な造りの小屋の壁によりかかり、そのままずるずると座り込む。
大きく溜め息をついた。
寒い。肩をすぼめ、天を仰ぐ。
ちくしょう、上手くいかねえなあ。
何かいい金づるでも見つからねえかなあ……。
そんなロイの視界の端に、一人の男の姿が映った。
ちらりと目をやると、身なりのいい壮年の男がこちらに向かって歩いてくる。
上下黒ずくめで、いかにも高そうなコートを風に靡かせていた。
へっ、革靴まで真っ黒でテカテカ輝いてやがら。
お供は誰も連れていない。一人きりだ。
男の左の耳に、ロイは注目した。
蒼いピアスを付けている。
パッと見た感じ、本物の宝石だろう。
ロイの見立てでは、結構な値打ち物だ。
おおっと、こいつはチャンスかもしれねえな。
辺りには、他に人の気配はない。
それとなく近づいて、道でも尋ねるふりをして、相手が油断した隙に懐に忍ばせてある短刀を突きつけて――いや、そんな辻強盗なんてダサい真似はロイの本分ではないが、背に腹は代えられないという言葉もある。
何も身ぐるみ剥ごうってんじゃない、ちょっと小遣い程度でも頂けりゃあいいんだよ。
それで今の俺の、このどうしようもなくイライラした気分も少しは晴れるってもんだぜ?
ロイはゆっくり立ち上がろうとして――。
そのまま、その場に固まった。
おい、何だよ、こいつ……。
たまらず目を伏せた。
口の中が一瞬で渇き、唾を呑み込むことすらできなかった。
男から放たれる眼光が、ロイを真っ直ぐ刺し貫いていた。
一歩ずつ、こちらに近づいてくる。
遠目にはただの金持ちの優男にしか見えなかったが、そんな生ぬるい相手ではなかった。
背はロイと大して変わらないし、体格も細い。
あのルイスに比べたら、腕力もそれほどではないだろう。
だが――。
やべえ、こ、殺される……殺されちまう……
ロイはもう、小便を漏らさんばかりの恐怖で全身を震わせていた。
一目散に逃げるに越したことはないのだが、足が金縛りにあったように動かない。
こいつは――この男は、只者ではなかった。
間違いなく、幾多の修羅場をかいくぐり生き延びてきた人間だ、と直感した。
殺した数も、両手の指で数えられはしないだろう。
絶対に、何があっても関わり合いになっちゃいけない。
そういう類の人間だった。
しかもそいつは、ロイの企てを全て見透かしていて、逆に全身から強い殺気を放ちながらこちらに向かってきている。
これはもう、誰がどう考えても絶体絶命の大ピンチだった。
ちくしょう、一体何だってんだよ、ホントに。
勘弁してくれよ、俺、まだ何もしてねえだろ?
いや、確かに善からぬことは企んださ。
だけどよ、何も殺さなくったっていいじゃねえか。なあ、そうだろ?
もう短刀も持ってないし、俺がそんな危ねえ奴じゃないってこと、あんたぐらいのタマだったら一目瞭然だろ?
だから、だから……。
うつむいたまま、ただひたすらに心の中で懇願した。
謝罪の言葉を口にしたくとも、舌がもつれてどうにもならない。
だから態度で示した。
自分は、何者でもない。大それたことができるような人間じゃない。
無害で、無価値な、ただの『石ころ』なんだから無視してくれ、と心の底から願った。
やがて男は、そのまま素通りしていった。
心の祈りが届いたのか、最初から男にその気がなかったのか、はたまたこれこそがまさしく『天佑』なのか――そんなことはロイには分からなかったし、どうでもよかった。
ロイはそのままずるずると尻餅をつき、唇をぎゅっと噛みしめた。
盗みに失敗してからの様々な不運と不幸、それと今の不甲斐ない自分の姿に、瞳から涙が溢れ出てきた。
安堵と、屈辱と、無力感。それらがないまぜになった涙が、頬を伝い落ちていく。
ちくしょう、と力なく呟くことしかできなかった。
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