第4話 どがっしゃーん!
あたしは白い息を吐きながら、エカトールの繁華街をぶらぶら彷徨っていた。
陽はすっかり落ちてしまった。寒さもより一層厳しくなっている。
だけど、さっきみたいに一人ぼっちで野犬の吠え声に怯えながら焚火にあたっているよりは遥かにマシよね。
都会とはお世辞にも言えない町だけど、繁華街はそれなりに賑わっていた。
酔客の大声が飛び交う安酒場、妖しい灯りで彩られた娼館。
広場には、大小様々な露店が立ち並んでいた。
懐が温かければ、腹いっぱい食べ、グイグイと地酒をあおり、宿で旅の垢を落とし、ベッドで毛布にくるまってぬくぬくと朝まで熟睡することだろう。
現実には、素寒貧な上に、頼れる知り合いも誰一人いないという困った状況だ。
だけど、絶望するにはまだ早い。
荒野のど真ん中に丸腰で放り出されたわけではないのだから。
ここは町で、腰には師母様からいただいたレイピアがある。
そしてあたしには、師母様の下で修業を続けてきた『戴天踏地流剣術』がある。
だから大丈夫……な、はず。
何しろ夜の繁華街だ。
きっと何かしら『事件』が起きる。
酒が入ると、途端に気がでかくなる奴ってどこにでもいるからね。
そうなったらあたしの出番だ。
颯爽と登場し、揉め事を鮮やかに解決して……。
ああ、うん、そこから先はあんまり考えてないけど、たぶん何とかなるだろう。
少なくとも、今晩の飯と宿ぐらいはどうにかなるんじゃない?
そんな期待を抱き、あたしは油断なく周囲に目を配りながら飯の種を探した。
どがっしゃーん!
しばらく歩いていたところ、前方から酒瓶が派手に割れる音が聞こえてきた。
ほらね、言ったとおりでしょ?
あたしはにんまりと笑みを浮かべ、青ざめた顔をした野次馬たちを押しのけていった。
こういうのはとにかく早い者勝ちだ。
騒ぎを聞いて保安隊が駆けつける前に、とっとと片付けてしまわないと。
野次馬を掻き分けていったあたしの目に映ったのは、解りやすい構図の修羅場だった。
赤毛の若い男が、地面に突っ伏している。
パッと見た感じ、いかにも軽そうなチャラチャラした風体の男だ。
俊敏そうな身体つきはしているけれど、喧嘩慣れしているようには思えない。
そいつをガシガシと踏みつけている巨漢。
肩まで黒髪を伸ばした、三十代半ばぐらいのがっちりした男だ。
口と顎、それと頬にわさわさと髭を生やしている。
腹が突き出ているが、腕っぷしは相当強そうだ。
いかにもヤクザでございという人相で、あまり頭は良さそうに見えない。
子分衆を引き連れてもおかしくない年頃だが、周りにはそれらしき連中はいなかった。
たぶん、暴れるだけが取り柄の、しょうもない三下のチンピラなのだろう。
前者が被害者で、後者が加害者というのは誰の目にも明らかだ。
「ちょっと、誰か早く保安隊を呼んで! 早く!」
二人から少し離れた女の子が叫んだ。
綺麗な金髪を三つ編みにした小柄な少女で、年齢はあたしより二つ三つ下ぐらいだろうか。可愛らしい顔立ちだ。
ふむふむ。
彼女の身なりから、そこそこ良いところのお嬢さんじゃないかと推理した。
着ている服も仕立てが良さそうだし、ネックレスとブレスレットのセンスも悪くない。
夜中にこんな所を出歩いているということは、ちょっと素行の悪いお嬢様なのかも。
で、そのお嬢様をあの赤毛の兄さん――今まさにどてっ腹を蹴られているが――がナンパし、どこか雰囲気のいい店にでも連れ込もうとして、あのヤクザ者に絡まれた、とか。
ヤクザ者が絡んだ理由は不明だが、何しろあの手の連中は人に難癖をつけるのが仕事というか習性のようなものだ。
事の発端なんか、いちいち確かめるまでもないだろう。
野良犬になんで噛むのか尋ねるようなものだ。
うんうん、これはラッキーだね。
やっとあたしにも、運が向いてきたのかもしれない。
あたしは飯の種を逃すまいと、一歩前に出てヤクザ者に声をかけた。
「その辺にしときなよ、おっさん」
あたしの一言で、皆が一斉に静まり返った。
あの可愛いらしい娘も、目を丸くしてあたしを見ている。
頬が少し紅潮しているけれど、これはもしかして惚れられちゃったかな?
いやあ、モテる女は大変よねえ~、などと、自画自賛している場合じゃない。
ヤクザ者がのっそりとこちらを振り返った。
しかしこの手の連中、箸にも棒にもかからないチンピラから親分と呼ばれる連中に至るまで、一様に大儀そうにのろのろと動くのは何故だろうね。
ああすることで、タフぶってるつもりなのかな。
「ああん? 何だ、おめえは。痛い目に遭いたくなかったら、すっこんでな」
鼻先で笑われてしまった。
あたしの腰にあるレイピアなど、気にする素振りすらない。
正義感の強い『美人の』女剣士が仲裁に入った、くらいの認識なのだろう。
ドスの利いた声でちょいと凄んでやれば、たちまち尾っぽを振って逃げ出すと踏んでいるに違いない。
残念ながら、あたしはこの程度で引き下がったりはしない。
やっとこさ掴んだ、飯の種なのだ。
美味しい晩飯と寝床を確保するためにも、ヘソまで毛がみっしり生えてそうなこの太っちょヤクザには、早々に餌食になってもらわなきゃならないのよ。
「え? ああ、もしかして脅してるつもりなの? ふーん、この町ってあなた程度の安いチンピラでもデカい顔できちゃうのね。井の中の蛙って言葉、ご存じ?」
とことんバカにしきった態度に、すらすらと流れるように続く挑発の言葉。
余裕たっぷりの様子だったヤクザ者の顔が、みるみるうちに醜く歪んでいく。
いやあ、単純で分かりやすいねえ。
塩かけたら縮むナメクジ並だわ。
「……て、てめ……」
「ん? どうしたの? 何か言い返したいの? ゴメンナサイねー、あたしばっかりペラペラ喋っちゃって。でも頭の回転が悪い相手と会話するのって難しいのよ。だってバカだから、普通ならいちいち説明しなくてもいいようなことまで、噛んで含むように話してあげなくちゃいけないでしょ? でね、あたしが何を言いたいかっていうと……」
早口でまくし立てると、ヤクザ者が肩を震わせながらあたしに近づいてきた。
おおっと、凄い形相ね。
まあ、ヤクザ者がここまで舐めた態度を取られたら、そりゃあ横っ面の一つも張りたくなるだろうし、張らなくちゃいけない。
舐められっぱなしでは、明日から肩で風切って歩いていけなくなる。
こういう世界に生きる奴にとっては、まさに死活問題ね。
といっても、腰に提げている偃月刀を抜いたりはしないだろうと、あたしは読んでいた。
このヤクザ者にも、矜持とか意地とかメンツとか、その手のものがあるはずだ。
背丈はさほど変わらないが体格は圧倒的に上回っているし、いくらこっぴどく罵倒されたからといって、やたらと刀を抜けば逆に『男が下がる』と考えるだろう。
そこがまあ、あたしにとっては付け入る隙となるわけだけど。
「あらあら、どうしたの? 変な顔しちゃって。お腹でも空いた?」
実際、お腹ペコペコなのはあたしの方であるが、それは言わない方向で。
なおも挑発を続けつつ、あたしは頭の中できっちり間合いを計っていた。
あと半歩。
よし。
あたしは腰のレイピアを抜いた。
戴天踏地流の真髄は、抜剣の速さにある。
無駄のない動きで最速最短、的確に急所を狙って敵を制すのだ。
師母様の下、何千何万回も繰り返し稽古したあたしの初動は、腹に贅肉をみっちり蓄えたおっさんヤクザに見切れるものではない。
「……おおおっ!」
数瞬遅れて、野次馬たちが嘆息の声を漏らす。
あたしの抜き放ったレイピアの切っ先が、ヤクザ者の首の真横をピタリと捉えていた。
ギリギリ、身体には当てていない。
おっさん特有のギトギトした脂が、あたしの大事なレイピアの刃にくっつくのは御免だからね。
真っ赤だったヤクザ者の顔が、面白いように蒼ざめていく。
無理もないだろう、あたしがその気になったら頸動脈を斬られてこの世とオサラバするわけだから。
もちろん、あたしに本気の殺意はない。
この場で特に恨みもないヤクザ者を斬って、お尋ね者になるつもりはなかった。
ただでさえ追手を差し向けられているのに、これ以上厄介事を背負い込むわけにはいかないでしょ?
だけど、気持ちは「少しでも動けば斬る」と決めていた。
ここで油断して立場が逆転してしまったら、全てが台無しになっちゃうからね。
「どう? 速かったでしょ?」
「ぐ……」
ヤクザ者が悔しそうに呻いた。
こめかみから頬にかけて、ダラダラと脂汗が伝い落ちている。
何か言いたげに口をパクパクさせているが、考えがまとまらないのか舌がもつれているのか、言葉は何も出てこない。
ぶざまねえ。
さあて、さっさとケリをつけちゃわないと。
保安隊が来ると色々面倒だし、こいつの仲間が現れても色々と面倒なことになる。
あたしはこのヤクザ者に手傷を負わせるつもりはないし、不名誉なこと――例えば土下座させるとか、股の下をくぐらせるとか――を強要する気もなかった。
だいたい、そんなことして一体何になるっていうの?
あたしが欲しいのは、温かい料理と一晩の宿だ。
少々のお小遣いもあればなお良いが、それはいささか調子に乗りすぎだろう。
といっても、このヤクザ者にそれらをせびるつもりは毛頭ない。
さすがに男のメンツにかけて断固拒否するだろうし、そもそもこいつの紹介する宿に泊まるなんてゾッとしない話だ。
要するに、もうこのヤクザ者はあたしにとって「用済み」の存在だった。
ここにいて欲しくないし、こいつもさっさとお家に帰ってご飯でも食べたいだろう。
あたしは目線で「これで見逃してあげるから、消えなさい」とサインを送った。
一応、こいつも侠を売る稼業の端くれだ。
ヤクザはとにかくメンツを重んじるから、これ以上顔に泥を塗られたくはないだろう。
あたしに一瞬で負けた時点で、もう名誉もへったくれもないと思うけれどね。
「て、てめえ、そのツラ覚えたぞ……。ただじゃおかねえ……こ、後悔させてやるからな、覚悟しとけよ……。俺が、必ず……」
この場をすんなり収めてあげようというあたしのせっかくの配慮も、こいつには通じなかったようだ。
どこかで聞いたような安い台詞のオンパレードは、耳に入れる価値もなかった。
世話が焼けるね、まったく。やれやれだわ。
「はいはい、お願いだからさっさとオサラバしてちょうだい。それとも、今ここで永遠にこの世とオサラバしたいの? あたしはそれでも一向に構わないんだけど?」
あたしが呆れ顔で返すと、ヤクザ者は悔しそうに歯噛みしながら後退りし、巨漢らしからぬ速さで走り去っていった。
野次馬が、関わり合いになりたくないとばかりに道を開ける。賢明な判断ね。
はい、これで一件落着。
それにしても、どうしてチンピラの語彙ってどこに行っても似たり寄ったりなんだろ? そういう言葉しか使っちゃいけない決まりでもあるの?
野次馬は一様に当惑しきった顔をしている。
あたしに拍手喝采を浴びせるつもりはないらしい。
あのヤクザ者の心証を損ねたくない、ということかもしれないけどね。
例の赤毛のナンパ男は、どさくさに紛れてスタコラ逃げ去ったようだ。
窮地を救ってあげたのだから、感謝の言葉の一つや二つはあってもいいようなものだけれど、あたしの目的はあいつではないから気にしないことにした。
レイピアを収めると、精一杯の爽やかな笑顔を作り、金髪の少女に向き直った。
あたしを見つめる彼女の目は、キラキラと輝いていた。
完全に、憧れの王子様に出逢ったお姫様の顔になっている。
ふふーん、ここまでは計算通りね。
どうやら本格的に、ツキがあたしに味方してきたみたいだわ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます