第2話 へっくちゅん!

一体全体何でまた、よりによってこのあたしがこんな目に遭わなくちゃならないの?

あたしはかれこれ一週間ほど前から、同じ愚痴を何度も何度も心の中で繰り返していた。


ここは大陸北部の町、エカトール。

何の取り柄もない、ごく普通の町だ。

その郊外の森で、あたしは一人寂しく焚火にあたっていた。

周囲には鬱蒼と茂る針葉樹。

さっきから野犬の遠吠えがやかましい。

しかも、気のせいかこちらに近づいてきているみたい。

ちょっとちょっと、勘弁してよね。


ああもう、本当に気が滅入る。

世の中、良いことと悪いことの繰り返しよ、なんて師母様はよくおっしゃっていたけど、今のあたしは悪い方向に偏りすぎているとしか思えないね。

ホント、何やっても失敗しそうな感じ。

きっとバクチを打っても大負けするだろね。やらないけど。


今日は朝からずっと曇り空だったけれど、昼が過ぎてあたしがこの町に入った頃にようやく太陽が雲の切れ間から顔を出し始めてきた。

と思ったら、あっという間に夕暮れで、あたしはこうして膝を抱えて座り込み、身体の内側まで忍び込んでくるような寒さにガタガタ震えてるってわけ。


はあ。


溜め息をつく。

そんなことしたって状況が好転するわけでもない、というのは重々承知の上だ。

それでも、溜め息をつかずにはいられない。そんな気分だった。

とにかく寒い。

焚火にあたっている前側は暖かいけど、その分背中は冷え切っている。

旅立ちの前に師母様からいただいた外套があるからまだマシだけど、それにしたってやっぱり我慢できないぐらい寒い。

このままだと風邪ひいちゃうね、きっと。


おまけに懐も寒かった。

いや、おまけどころじゃない。

これこそあたしにとって一番切実かつ緊急の大問題だ。

金さえあれば、いくらでも暖はとれる。

いくらここが北方系の町で、あたしが東方系だからって、宿屋も酒場も入店を拒んだりはしないだろう、たぶん。


さらに悪いことに、あたしは空腹でもあった。

ここ数日ばかり、まともな食事をとっていない。

歯が折れるんじゃないかってくらい硬いパンに、水気のまるでない干し肉。

そんな物をチビチビかじって生き延びてきた。

まったく、情けないったらないね。

ああ、あの茶店の、挽き肉がぎっしり詰まったアツアツの饅頭が懐かしい……。


その上、眠い。

どうしようもなく、眠い。

あの忌々しい村からこのエカトールに辿り着くまで、ずっと野宿だった。

それも辺りに警戒しながら少し仮眠をとるだけで、実はほとんど寝てないのよ。

空腹に睡眠不足で寒さにガタガタ震えながら、すっからかんの財布を虚しく眺める女剣士。

それが今のあたしだった。うわ、みじめすぎるわ。


本当は、町に着いたら全ての問題はまとめて解決するはずだった。

武者修行の旅――そうそう、言い忘れていたけどこれはあたしにとって、修行の一環なのだ――を始めるにあたって、師母様からはいくつか貴重なアドバイスをいただいていた。

その一つが、「コネを利用しなさい」というものだ。

コネといっても、生まれてこのかた帝都からは一歩も外に出ていなかったから、地方に知人なんていやしない。

利用するのは、師母様と『戴天踏地流剣術』のコネクションだ。


師母様も若い頃、一人で武者修行の旅をしたらしい。

だから、その時に交流した武術家たちをあてにしなさい、ということだった。

私の名を出せば皆さんきっとよくしてくださるからね、という師母様の言葉は確かに嘘ではなかった。

町の道場にふらっと行って師母様の名前を告げると、誰もが下に置かない扱いをしてくれる。

中にはちょっと、いやだいぶ顔をひきつらせていた道場主もいたけれど――ま、気にしないことにしよう。

あんまり深く突っ込むと、怖い話になりそうだからね。

あの師母様のことだから、きっと……うん、やめとこ。


そんな調子で数ヶ月間、あたしは一人旅を続けてきた。

さすがに町から町への旅費は自腹だし、贅沢はできなかったけど、これまではおおむね問題なかった……と、思う。

それがあの災難以来、本当にろくなことがないんだわ。

何やかんやでこの町に着いた時には懐はすっからかん、おまけに追手が背後に迫っているという有様。

だけど、この町に住んでいる師母様の旧友を訪ねれば、暖かい食事と寝床を得ることができて、追手からしばらくの間だけ匿ってもらうこともできるはずだった。


師母様の話によれば、郊外に小さな道場を構え、そこで弟子と二人ひっそりと暮らしているということだったけど――陰気な森の中を探し回っても、それらしき建物は全く見当たらなかった。

一軒だけ朽ち果てかけたボロ小屋があったけど、中からどうにも異様な気配を発していて、あまりに薄気味悪いので近づかないでおいた。

これ以上のトラブルは御免だからね。


半日かけて歩き回った末、あたしはそこを通りがかった老婆に声をかけてみた。

焚き木を採りに来たという老婆は耳が悪く、必要な情報を聞き出すのにえらく時間がかかっちゃったけど――そこであたしは、とてつもなく重大な事実を知ることになったのだ。

 

この町の名がエカトールだってことを。


え? それの一体何が問題なのかって?

師母様の旧友が住んでいるのはエカトールではなくて、サバトールなのよ。

そう、信じられないことに、あたしは来るべき町を間違えちゃったってわけ。


それでもあたしは半信半疑で、てっきりこの老婆が勘違いしているのだろうとか、何となく名前が似ているから聞き違えているのかなと思い込もうとしたけど、


「え? おねえちゃん、ここはサバトールかってぇ? あっはっは、そりゃまたひでぇ勘違いをしたもんだな! ここはエカトールだよ、エカトール。えっ、そんなわけないって? ああ、あんた、ポザムの方から来たのかい。この寒いのにずいぶんとまあご苦労なこったな。ああ、分かった。そりゃあきっと、途中で道を間違えたんだ。街道の途中で二又に分かれるところがあったろ? うん、そうそう。あれを……ええっと、西に行けばサバトール、東に行ったらここ、俺っちの住む町エカトールってわけよ。え? 標識にサバトールはこっちって書いてあったって? はあ、そんなこと言われたってよお、今からここをサバトールにするってわけにはいかねえじゃねえか。誰かが標識に悪戯でもしたんじゃねえかな?」


あたしと老婆の会話に割り込んできた赤ら顔の行商人のおっさんの話で、ここが目的地ではないという非情な現実を思い知ることになった。

とりあえず、その標識に悪戯をしたバカたれが永遠に呪われますように。


さて、おっさんの言う通り、いくらあたしがこの町をサバトールだと主張したってどうにもならない。

ここがエカトールという悲しい事実は、認めざるを得ないのだ。

で、あたしはともかく焚火で暖をとり、これからの身の振り方を考えることにした。

あまり先のことはくよくよと悩まないのがあたしの性分だけど、ここはさすがに考えどころだ。

むやみに動くのは、それこそドツボに嵌りかねない――いや、もうどっぷり嵌っているだろうと突っ込まれると、返す言葉がないけれど。


今から引き返してサバトールに向かうのは、いくら何でも無謀だ。

体力的にも限界だし、無一文でまた旅に出るのは無理がありすぎる。

しかも今のタイミングだと、あの分かれ道辺りで追手に出くわす、なんて間抜けなことにもなりかねない。

いやいや、十分あり得る話よね。


もしかしたら、このエカトールにも、あたしを庇護してくれるような人がいるかもしれない。

それを探すのが、最も賢明な選択と思えた。

一番いいのは戴天踏地流の道場だ。

大陸では名の知れた流派だから、この町にもきっと一つくらいはあるだろう。

そう信じたい。

ここは一つ、開祖・剣聖天女様のご威光にすがるべきところだ。

いやホント、お願いしますって。


 それにしても……今のあたしって運がないなぁ。


「不平不満を口にする暇があったら、まず動きなさい。それが一番の近道よ」


 あまりの不遇に頭を抱えていたところで、唐突に師母様の言葉を思い出した。

 まったくもって、正論よね。

 一応、頭では理解できている。

 今、あたしがどれだけ悲惨な状況に陥っているかをグダグダと思い悩んでも、事態はさらに悪化するのみだ。

 あたしはそこまでバカじゃない。

 ただ、次の行動に移る前にドバっと愚痴を吐き出したかっただけなのだ。


 あー、スッキリした。

 最低最悪、落ちるところまで落ちたら、後は浮上するだけと願いたい。

 

 あたしは重い腰を上げた。

 大きく伸びをすると、硬くなっていた関節がバキバキと鳴る。

 まずはこの町の繁華街に行ってみよう。

 そこで何とかして、今夜の寝床と食事を得る手段を探すのだ。

 よし。あたしは頬を叩いて気合を入れた。

 焚き木をガシガシと踏みつけて、火を消す。

 

 へっくちゅん!


 身を切るような冷たい風のせいか、それともどこかで誰かが噂でもしているのか、豪快にくしゃみをしてしまった。

 もしこの場に師母様がいたら、口ぐらい押さえなさい、はしたないわね、とお小言をくらっていただろう。師母様、すいません。


 そうそう、ちょっと身体をほぐしておこう。

 焚火に当たっていたとはいえ、寒い中ずっと座り込んでいたから身体の節々が硬くなっているいる気がする。

 これじゃあ、いざって時に不覚をとりかねないからね。

 あたしは腰のレイピアを抜き、まずは全ての技法の基本となる持剣の構えを取った。

 息をゆっくりと吐き、気持ちを落ち着かせてから刺剣、劈剣、掛剣と基本技を練習する。

 動作そのものは決して複雑ではないけれど、一本一本の指先まで神経を集中させていると、自然に身体の奥が熱くなってくる。

 じんわりと汗が出てきたところで、転身雲剣、提膝刺剣、弓歩崩剣と連続技に移る。

 教え通り、常に敵と対していることを想定した稽古だ。


 よし。


 こめかみを一筋の汗が伝い落ちたところで、あたしはレイピアを鞘に納めた。

 空腹と寝不足という状況は相変わらずだけど、気合だけは入ったね。

 さあて、行くとしますか。


 ああ、そうそう、名乗るのを忘れてたね。

 あたしはマナ。

 戴天踏地流剣術師範代の、マナ・クサナギだ。


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