第10話 バーアームストロングの常連客
事件の一年前、「確かに特許を持っているのはあなたの父親だ。しかし佐久善治はあなたの父親の金型を使って商品を作っているわけではない。あくまで仕入れたモノを売っているだけ、罪には問えないんです。そして作っている相手も闇社会では、泣き寝入りしか出来ないのが現状です。諦めてください」肩を落とし落ち込んだ川端に、新堀がそのあとにしたのが速川少年の話だった。
「今晩は、滝沢玲子です」画面中央でお辞儀し、顔を上げると女性アナウンサーは一度原稿へと目線を落とした。
「只今入って来たニュースです。先日、世間を騒がせたOL飛び降り殺害事件の容疑者が横浜郊外の飲食店で逮捕されました。犯人は、飲食店経営の川端茂也、三十三歳……」
「社長、捕まりましたよ」病院の待合室でテレビを見ていた小林が年甲斐もなく廊下を走りながら叫んでいた。彼はすれ違った人間たちに煙たそうな顔を向けられても気付くことはなかった。とにかく必死だった。自分の主人にこの吉報を届けることに。
「何だ?」数日前までのワンマン佐久善治の面影は皆無だった。彼は五十七歳にして老後生きる目的をなくした無気力な人間のような体になっていた。そんな彼の病室へ同じ年でもからきし元気な小林が入って来た。
「どうしたんだ?」小林は一度息を吸い込むと、
「捕まりましたよ。犯人捕まりました」速報を伝えた。
「本当か?」佐久善治は閉まりがちだった瞼を見開いたが、その表情はいまだ難しいモノだった。
「はい、今テレビ付けますね」
「いや、付けるな」テレビに向かった小林を彼は制止した。
「社長?」意外と顔に描いた小林が振り返った。
「亜紗美を殺した奴が捕まったところで、あの子が戻って来ることはないんだ」そして善治は再び瞼を閉じ、枕に頭を埋めた。しかし数分後に、ベッドサイドで椅子に座りながら既にうたた寝をしていた小林を彼は起こした。
「テレビを付けてくれ」
「いいんですか?」すぐに目を覚ました小林。
「あぁ、この目でその憎い男の顔を睨んでやる」
「わかりました」
小林は力なく立ち上がるとベッド横に取り付けられたボタンを押して、善治の上半身を少しだけ起こした。それからリモコンを手に取りスイッチを入れた。
「今日午後六時に、一週間前に横浜で起きました佐久亜紗美さん殺害の容疑で男が逮捕されました。男の名前は川端茂也、三十八歳です」しかしまだ新しいニュースだったらしく、犯人の写真までは写し出されなかった。
「カワバタ……」既に画面ではなく何もない空中を見ていた善治が、何かを思い出すように漏らした。
「男は取り調べに際し、犯行の動機を父親の恨みを晴らす為だったと供述しているそうです。ニュースは以上です」そして彼は思い出してしまった。五年前に死んで逝った男のことを。川端幸作のことを。
「亜紗美は……俺のせいで、ころされたのか……」
「しゃ、社長?しゃちょうー」小林は叫びながら、ナースコールを何度も押した。ナースが到着するまで何度も何度も押し続けた。次の日の新聞はどれもが一面で今回の事件を取り上げていた。巧妙なトリックの全貌。十二年前の男子高校生首吊りの真実。父親のせいで娘は殺された。しかしタイトルはどれも様々で、一番人気は、警察またも捜査ミス、だった。
街のファーストフード店。そこでバーガーを齧る境川連治。隣では小さな子供が騒いでいた。そんなことはお構いなしに、母親たちはぺちゃくちゃと盛り上がっていた。
「あのバラバラ殺人事件、十二年前の事件とは全然関係なかったんでしょ?」
「そうらしいね。犯人に踊らされた警察って間抜けだよね」
「でもそのまま報道したマスコミも馬鹿よね」「それを真に受けた私たち国民もなかなかだけどね」
「言えるー」そう話してから子供たちが大人しくなるほど大笑いしたが、隣に座る強面な男に気が付き、意気消沈していた。それに一瞬だが、いい気になった境川連治がポテトまで平らげ店を出ると一年で一番強い太陽に熱せられたアスファルトから立ち込める湯気の中をふらふらと歩き始めた。
寂れた港町の片隅にある雑居ビル。そこに店を構えるバーのカウンターで、二人の女盛りが幾分過ぎかけたおなごが、酒を酌み交わしている。いい匂いがしそうな女性二人以外、薄暗い店内にお客の姿はなかった。
「高校時代、ポケベル流行らなかった?」
「嘘っ?中学でしょ。高校のときはほとんど携帯電話だったじゃん」
「そうだっけ?」
「そうだよ。因みに88は何だったか覚えてる?」
「何だっけ?」
「惚けちゃって、ハートでしょ。どうせ亜紗美そればっか送ってたんでしょ?」そこまで話した右に座っていた女・貴代が、あっという顔をした。
「そうか、私が付き合った孝次郎も征太も二人ともポケベルだったんだ。周りからは天然記念物なんて茶化されたっけ」左の女・亜紗美が慌てて思い出していた。
「ごめん。思い出させちゃったね」
「ううん、大丈夫」会話が途切れる二人。
「マスターは学生時代ポケベルもなかったんでしょ?」そんな空気を嫌ったのは亜紗美だった。
「あったよ。でも数字が送れるだけの味気ないヤツね」川端はカウンター越しに二人の女性の会話を聞きながら、たまに振られる会話に応えながら、グラスを洗っていた。
あるときは、合コン大好き女の話を、全く興味ありませんと顔に書いた女が、カウンター中央に座っていた。
「この前、無言電話掛かって来たんだ」その日も亜紗美から会話は始まった。
「無言電話?」
「そう。めちゃくちゃ気持ち悪くない?」
「気持ち悪い」
「でも絶対に知ってる奴なんだ」
「知り合い?」
「そう、この前合コンした相手。携帯って聞かれれば番号教えちゃうじゃん?」
「教えない」
「そう?私は教えちゃうんだけど、この前、番号交換したあとに、やたらと亜紗美の胸とか足見て来る奴がいて、チョー気持ち悪かったんだけど。その夜から度々掛かって来るんだよね」
「で、どうしたの?」
「だからいい加減にしてくださいって強い口調で言ってやったら、相手何て言ったと思う?」
「何だって?」
「自惚れてんじゃねぇよって言いやがって」貴代は唸りながら何度も首を縦に振っていた。それは初めて目にする彼女の心からの微笑んだ頷きであることに川端は気が付いた。
「絶対に亜紗美のこと好きなくせに。ふざけんなって感じ」それでも構うことなしに、亜紗美は吠え続けた。そんな煩い二人が陣取っているカウンター一番奥の片隅でもう一人、存在感を全く消している男がチビチビと酒を飲んでいた。そのことに女たちは最後まで気が付いてはいないようだったが、この日は貸切ではなかった。終電間際になってやっと帰って行った二人を、背中で見送った男がボソッと、
「マスター、よく平気だね?」
「何がですか?」
「よくあの女と平気な顔で話が出来るねってこと」
「仕事ですから」川端が鼻からゆっくりと息を吐きながら笑顔を見せた。
「エラいね。仕事とはいえ、あの男の娘だっていうのに、本当にエラい」
「こんな辺鄙な土地では常連を粗末になど出来ません」
「そうか」そしてカウンターの男はグラスの飲み物を音を立てて啜り飲んだ。
またあるときなんかは、結婚の話で盛り上がった女二人の会話に、川端は聞き耳を立てていた。
「私たち、もう三十じゃん。貴代は結婚して、二人も子供作って幸せそうでいいけど、私なんか適齢期というよりそろそろヤバい領域に入って来たよね」
「でも結婚は早くしない方が良いって。一番遊びたいときに子育てに追われるんだよ」
「そうだけど。確かに相当遊んだけど、この歳になると、もしかして売れ残っちゃうんじゃないかって考えちゃうんだ」
「まぁ、亜紗美の場合は本当に遊び過ぎだからね。そのツケだよ」ニンマリとした貴代。
「マスター、貴代が虐める」それを見た亜紗美が甘えた。苦笑いで返した川端に、
「じゃあマスターに貰ってもらおうかな」貴代との会話では見せない口ぶり、潤んだ瞳に思はず目線を逸らす川端。その横で興醒めの貴代。彼女が来店する度に五回はこの顔を見ると川端は常々思っていた。
「でも亜紗美は結婚出来ないよ」
「どうしてよ」川端との会話そのままに亜紗美が口を尖らせる。
「あなたには、あのお父さんがいるから」
「大丈夫よ、パパは。亜紗美が結婚したいって言ったら、そうかそうかで盛大にお祝いしてくれるわ。ただ旦那さんになる人には相当辛く当るだろうけど」
「そうかもね。亜紗美のパパ、亜紗美のこと溺愛してるもんね」
「この歳になっても、目に入れても痛くないって言ってたもん」するとブランド物のバッグの中で今流行りの女性シンガーの着うたが店内に鳴り響いた。その中を覗く亜紗美。
「噂をすれば、パパからだ」それを掴むと立ち上がり、花散らす雨が降る中、厚い雲に覆われた夜空の下へと出て行った。
「たくっ、どうしようもないね。親離れ子離れ出来ないんだよ、あの家は。どちらかが死ぬまで無理でしょ」そう漏らした貴代は、亜紗美が出て行ったドアを見ていたが、目をむいた表情で振り返った。
「だってそうでしょ。それだけ親子愛が強いと、どちらかがいなくなるまで無理。彼女お嬢様だから一生父親の脛齧るだろうし、父親もそれを望むだろうし。そういう意味で死ぬまで無理ってこと」一人頷いた貴代が、
「でも、馬鹿は死んでも治らないとも言うよね」してやったりな顔つきで笑った。
「そんなに愛されて、彼女幸せだよ。羨ましいね」リキュールの瓶を拭いていた川端が言った。
「本当に羨ましい。彼女の父親、カネの亡者だってみんな噂してるけど、亜紗美は彼の命よりも大切なお金以上の存在なんだろうね。やっぱり彼女の旦那になるのは大変だよ、マスター」最後は貴代がニンマリしていた。
一ヶ月後、「このごろ非通知の無言電話がやたらと掛かって来るんですよ」早々にマスターへと相談を持ち掛けた亜紗美。横では貴代が、
「どうせ合コンの相手の男でしょ?」嫌味交じりに返していたが、亜紗美の表情は硬いままだった。彼女の話では、この一週間毎日毎晩決まった時間に無言電話が掛かって来るとのことだった。そしてとうとう、彼女は真夜中に自宅の部屋の外に不審な人影を見たと言い出したのだ。
「もしかして?」貴代が何かを思い出したようだった。
「まさか?」それが切っ掛けだったのか、亜紗美まで口を開いたまま閉じることを忘れていた。「征太?」貴代から出た名前に、
「止めてよ」亜紗美が怪訝な表情に変わった。時として女は周りに誰かがいることを忘れ、大事な話を結構大声ですることがあると、この店を開いてから初めて気が付いたことだった。そんなことを考えた川端が、カウンターの中、レモンの皮を剥きながら全く血の通わない顔つきで立っていた。
「仕掛けたんだ?」二人が帰ったと、相変わらず存在感皆無の男が、話し掛けてきた。二人は目を合わせることなく会話を続けた。
「どうして?常連は大事にする主義じゃなかったっけ?」
「はい、その信念は変わりませんよ」
「そう、ならいいんだけど」
それから二週間ほどのときが流れたある日。その夜は亜紗美が唯一、ひとりでこの店に来た日だった。
「今晩は」何時になく元気のない彼女に対して、川端が何かを尋ねることはなかった。すると我慢できなかったのか、彼女の方から話を始めた。
「昔ね、付き合っていた彼氏が自殺したことがあるんだ。当時も正確には元彼なんだけどね」彼女が座ったカウンター正面で下を向いて何かを作業をしていた川端の手が止まり、そして彼が手をタオルで拭いてから自分の方に顔を向けたのを確認すると、亜紗美はまた口を動かし始めた。
「彼ね、学校の屋上から首を吊ったの。それだけでも驚きなんだけど、何故か顔に布の袋を被っていたの。それが同じクラスの男の子の体操着袋だったんだけど、それを登校して知った私は愕然とした。そのとき、その体操着袋の持ち主だった男の子が私の顔を見て微かにだけど、確かに笑ったの。私だけが気が付く程度に、そっと。本当に怖かった。でもそれからが地獄だった。彼は私の為に元彼を殺しましたと言わんばかりに近づいてきた。結局、警察は元彼の死を自殺と断定したから、彼が殺したんじゃないのかもしれないけど。私ね、首を括った男の子が別れた後も相当しつこかったから、ずっと迷惑に感じていたの。そのとき彼に言っちゃったんだ。あの男いなくなってくれないかなって。軽い気持ちで言ったつもりだったの。でも彼はそうは捕らえていなかったのかも。その次の日にあの惨劇が起こった。そんな事件があってから一ヶ月後、その彼が私に告白してきたんだ。もうびっくりだった。でも断れなかった。断ったら何をされるかわからないっていう思いもあったんだけど、それ以上に彼の目がすごく優しく感じたの。だから付き合い出した。でも周りのクラスメイト達はそれを許してはくれなった。それ以来いろいろな虐めを受けたんだ。本当に辛かったけど、彼が必死で庇ってくれたから、だから耐えようって決めたの。実際に虐められることはそんなに苦じゃなかった。べつにMってわけじゃないの、もしかしたらそうなのかもしれないけど。でも虐めは嫌でも彼が優しかったから、だから耐えられたんだと思う。その思いも長くは続かなかった。あるとき思っちゃったんだ。彼のことをウザいって、どこまでも優しくしてくれる彼のことが気持ち悪いって。だから私から別れを告げた。彼は亜紗美が望むのならって、すんなり聞き入れてくれた。それで虐めもなくなった。早くそうすれば良かったって思った。でもそれからの彼は本当に気持ちが悪かった。学校に居ると何時も目線を感じてた。家の前で待ち伏せしていたこともあったの。それで私、直接言っちゃったんだ、キモイって。そしたら彼ごめんだって。でもね、このごろ思うんだ。彼が一番私を愛してくれていたんじゃないかなって、だからストーカーが彼だったなら良かったのにな」
ヘッという顔になった川端に、
「でも亜紗美、彼じゃないこと知ってるんだ。征太の使っていたポケベルは、東京テレメッセージ。88がハートなのはドコモだけなんだ。だから彼が88なんて数字を打つはずがないの。ねっマスター」亜紗美は厭らしく笑っていた。彼女は気が付いていたのだ。一ヶ月前から、自分の家の下でじーっと見ている男も、無言で電話を掛けてきた男も。そして昔散々彼女がやったというポケベルのように数字を羅列しただけの(アイシテイマスハート)のメールを送ったのが誰かも。それでも彼女は警察に届け出た。犯人が誰かを知りながら、そのことは伏せたまま。
最初に、佐久亜紗美があの佐久善治の娘だと知ったときは、本当に驚いた。でも殺そうなんて思いもしなかった。それから彼女があの爺に寵愛されていると知ったときには、私の中で一本ネジが外れたのを感じた。それでも抑えられない程ではなかった。新堀から十二年前の話を聞かされたとき、そこで速川征太という、彼女が最後には愛おしがった男のことを知った。だから考えたんだ殺人を。だが今回の殺人実行への、最後に私の心のネジを全て外してくれたのは、亜紗美本人だった。速川征太が亜紗美の為に殺人を犯したなら、私は亜紗美自身を殺してしまおうと考えた。それが愛情によるものかは分からないけれど、何となく私だけのモノにしたいって思った。丁度オヤジさんにも借りがあったから。孝次郎君、君は私にいいモノをくれたね。十二年後に琵琶法師の如くに事件のことを私に語り掛け、そして後押ししてくれるパートナーを寄こしてくれた。君の恨みも私が晴らすよ。
誰もいなくなった店内で、カウンターの一番奥から声がした。
「君は彼女の最期を見届けてあげな。飛んできたモノは僕が回収しておくから。やった者勝ちだよ。ねっ」男は優しい口調でそう告げると立ち上がり小銭を置こうとしたが、
「それ、奢りです」川端はワイングラスを丁寧に拭きながら男を見送った。
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