第9話 最後の日

7日目・二重螺旋の話

速川の指示通り、午前七時、県立図書館に向かったのは、真木野と大沢だった。車を止めると、勢いよく飛び出す真木野。少し遅れて大沢も車を降りた。

走り出した上司に、

「そっちじゃないですよ。指示されたのは裏口だから、右に行くんです」言葉と同時に指で示した。

「面倒だな。どっちだって同じ図書館じゃないのか?」

「食堂に来させたいんじゃないですか?」

「だったら食堂に来いで良いじゃねぇか?それをいちいち食堂のある裏口とかまどろっこしいこと言いやがって」走ることを止めた真木野はムスッとしていた。

「もし速川征太が生きていたら、行った先に立っていたらどうします?」そんな上司を和ませたかったわけではないが、大沢がそんなことを口にした。

「何青い顔してんだ?そんなはずないだろ。誰かの悪戯に決まってる」しかしそれは逆効果だったと感じた。

「そうですよね」

「ほらっ、さっさと行くぞ」

「はい」正面玄関は左に曲がって二十メートルも行けば辿り着けたが、裏口はそこにあった案内図から真逆にあるようだ。速川征太の指示通り、仕方なく右に曲がるとあとは建物に沿って進んだ。百メートルほど歩いてやっと裏口が見えてきた。真木野が拳銃を取り出した。彼が臨戦態勢を取ったことで、大沢もそれに倣った。一瞬にして緊迫した空気が流れた。

「そこを左に入れば裏口です」真木野は角まで行くと片方の目だけを先に出し、確認してから左へと静かに曲がった。続いて大沢が曲がると、現れたのは裏口らしいが、とてもそうは見えない階段が聳え立っていた。

「これ裏口かよ」その立派さに真木野は立ち止まり、見上げた。大沢は舌を巻いていた。

「二重螺旋階段?」そう彼らの目の前に現れたのはぐるぐると巻かれ目で追おうものなら酔ってしまいそうな、二重螺旋階段だった。それは直径十メートルほどの円を描いて五重に六重に渦を巻いていた。暫く立ち止っていた二人も吸い込まれるようにその階段へ足を進めた。あと五メートルほどまで来て、それは階段の上から聞こえた。「お待ちしておりました」その声はやはり速川征太のモノらしかった。

「速川?姿を出せ」声のした方に叫ぶ真木野。

「そちらから僕の方へ来て下さい」

「何だと、行ってやろうじゃんか」いきり立つ真木野。

「ただし階段を上るのは一人だけ。もう一人はそこで待機していてください」大沢の顔を見る真木野。

「俺が行く」強い目で言われ、大沢は頷くしかなかった。

「早くしてください。そうしないと逃げちゃいますよ」

「ふざけんじゃねぇ」急かす速川。堪らず真木野が左側にある上り口がこっちを向いた手前の階段を駆け上がった。勢いよく階段を上る真木野。そして彼は五回ほど円を描き、四階ほどの高さの右側の建物の方に辿り着いた。

「そっちの階段を上っても、僕には辿り着けません」

「何っ?」どうやら真木野が辿り着いた先は食堂だったようだ。

「でもそっちにもあなた方が探している、あるモノがいるはずです」

「何処だ?」叫びながら真木野は目の前の扉を開け食堂の方へと入って行った。大沢の位置からでは食堂に入って行った真木野の姿も、図書館にいるらしい速川の姿も確認することは出来なかった。三分程の時間が流れたあと、三十センチ四方ほどの段ボールを抱えた真木野が階段の上に現れた。

「大沢、見付けたぞ」真木野の顔は硬直していた。

「何をです?」

「佐久亜紗美がすべて揃った」力なく放たれた言葉に、その中身がまだ見つかっていない残りの顔の部分であることはすぐにわかった。

「見つかったようですね。良かった」

「何が良かっただ?今すぐそっち行くから待ってろ!」食堂の入口で反対側の対角線にある、何故かこちらと同じ鉄の扉は開け放たれている図書館の入口に向かって真木野は叫んでいた。彼の怒りは彼女の顔を発見したこともあったが、すぐに向かうことが出来ない苛立ちからも来ていた。

「食堂に行った刑事さんはそこを動かないでください」しかしそんな男を、冷静に語る速川征太が制止した。

「何だと?」

「もう一つの階段を上って良いのは、下で待機している刑事さんだけです」

「ふざけんじゃねぇ」

「僕の指示に従ってください。ではもう一人の刑事さん。もう一つの階段で僕の元に来てください」機械的な速川の声に心なしか大沢は怯えていた。

「用心しろよ。何かあったら昨日みたく発砲しちまえ」真木野がほくそ笑んでいた。今度は右奥にある階段の上り口が向こうを向いた方を大沢は登り始めた。一段一段上りながら、彼は感じていた。この階段は本当に真木野の方ではない、速川のいる図書館へと向かっているのだろうかと。たまに見える真木野の顔が近づく度に、図書館の入口はあの世への入口、そんな不気味な考えまでが頭を過ぎった。しかし一番大きく真木野が見えた後はだんだんと上司の顔は遠のくだけで、近づいてくるのは静まり返ったもう一つの入口の明かりだった。一応拳銃を右手に構え、最後に大沢は一度だけ振り返り、その中へと吸い込まれていった。

「お待ちしておりました。あなたが登って来た階段だけが、僕に辿り着くことが出来るんです」そして大沢は見付けた。そこにあったモノは、生身の速川征太ではなかった。そこにあったモノはテープレコーダー。そう声の正体は速川なのだろうが、既に録音されていたテープを誰かが流していただけだった。「誰がこんなことを?」辺りを見渡した。

「どうした、大沢?大丈夫か?」向こうの方からどら声が聞こえた。大沢はそのレコーダーを持ち上げると入口からそれを見せた。

「速川征太の正体はこれでした」

なるほどという顔をした後に、「でも誰がそれを操作した?」

「逃げたようなので、僕は追いかけます。真木野さんは階段を下りて正面から回って下さい」

「おう」部下に使われるのはいい気がしなかったが、真木野は階段をぐるぐると降り、止まることなく正面入り口を目指した。大沢も拳銃片手に走り出し、館内中を探しまわった。そのとき同じ階のフロアの奥でモノ音がした。大急ぎで音がした方に駆け寄る大沢。見ると多くの本が投げ出されていた。それを掻き分けた先は開け放たれた窓。その窓から見下ろした先で草木の横で足を抑えてもがいている男と、その横で片手に拳銃を構えた真木野が立っていた。どうやら男は四階からサツキの様な低い木目掛け飛び降りたようだが、流石に足を痛め、唸り声を聞いた真木野によって取り押さえられたようだった。

「七時三十一分、高田和夫を確保」それは速川征太殺しの容疑者として捜していた高田和夫だった。

 近くで待機していた林と宮部が応援に駆け付けた。

「この男を連行してくれ」引き渡された高田は足を引きずりながら宮部と共にパトカーに乗り込んだ。

「佐久亜紗美を殺したのは、本当に速川なんですかね?もしかしたら高田かもしれませんね」車の横に立っていた宮部が反対側に立っている林にそう漏らした。

「それはこれから調べ上げるさ。しかし何でこんなまどろっこしいことを速川と高田はしたんだ。そもそも速川を殺したのは高田だよな?」自らの発言に頷く林。

少しして到着した鑑識に佐久亜紗美が入った段ボールを引き渡してから真木野は、「まぁトコトン吐かせてやるさ」そう言って林の車に乗り込んだ。

「あれ、大沢は置いて行っちゃっていいんですか?」

「いいんだ。あの二重螺旋階段が相当気に入っちまったらしい。飽きたら帰って来るだろ」「そうですね」そして運転席に林は乗り込み、高田を乗せた車は図書館をあとにした。車内で考えごとをする真木野。彼は自分の取る行動を速川征太に全て読まれていたことに感服していた。

一人残された大沢は、階段を下りたり上ったりしながら、考え込んでいた。


7日目・高田の話

 署に戻った真木野は、結局右足を骨折した高田和夫の取り調べを始めた。彼は証拠を出すまでもなく、速川征太を殺したことを認めた。そして速川征太を殺した時の話しを始めた。

「昨日の朝はとにかく寒かった。人恋しくて仕方がなかった。でも隣に僕より気の小さなやくざの姿が無くなっていた。だから僕だけは逃げちゃいけないと咄嗟に考えたんです。十二年という呪縛から解放される為に。そうしたら丁度速川から連絡が入ったんです。だから僕は彼の家に行ったんです。彼の要件が何だったかは分かりません。僕は最初から彼を消すこと以外頭にありませんでしたから。彼も冷蔵庫の中身を見せることで、殺されることを期待していたんだと思います。現に自分の声を録音したあのテープを事前に用意していたんですから。そしてあの冷蔵庫で見付けた彼女が僕に言ったんです。私は彼を選んだと。もう僕は僕の人生を歩むしかないと思い彼を彼女に任せ、彼を送り届けることが出来る最後の人間として実行に移しました。彼は背中を僕に向けたまま何時までもコーヒーを入れていました。その背中も言ったんです。今殺れと。この機会を逃せば、彼は君を殺すと、コーヒーを入れ終わったとき死ぬのは君だと言われたんです。気が付いたら彼のその背中にナイフを入れていた。驚くほど奥まで入ったからエクスタシーを感じることが出来た。彼と一緒に感じることが出来たんだ」人を殺した時の話を嬉しそうに話すこの男はやはり精神異常者だろうと、真木野は顰めた顔で納得をした。

「病院を訪れたときに捜査員に君が言っていた高瀬咲枝と速川征太のとんでもない秘密とは何だ?」

「それが二つの事件の全ての始まりですよ。メモの用意はいいですか?高瀬の母親、咲枝と速川征太の父親は実は浮気していたんです。それを知った征太が父親を奪った高瀬咲枝を恨んでいた」

「やっぱり、それか」

「はぁ」さっきまで意気揚々と話していた高田だったが、目の前の刑事の落胆ぶりに意気消沈していた。


7日目・速川の6日目の話

六月六日午後二時。速川の部屋。「バイバイ。もう僕は君が怖くはないんだよ」

「この珈琲美味しんだぜ」背中にナイフが刺さったまま彼は顔を歪めながらも笑顔を繕い、無表情のまま涙を出している高田にカップを一つ手渡した。やはり彼も寒かったのか、手触りで初めて知った結構厚手のシャツの胸ポケットに彼の右手が入っていった。

「それと、これ」もう崩れる寸前だろう彼が最後に手渡してきたモノ、それは一本のカセットテープだった。それから彼は苦しそうな声で話し出した。

「いいか、亜紗美の右耳が見付かる報道が流れたら、警察に電話してA面を流してくれ。そしてA面で指示した場所、俺の職場の図書館の二重螺旋階段からの入口なんだけど、そこに警察が来たらB面を流して。あっ、亜紗美は連れてってあげて。そして彼女は図書館の食堂の入口入って直ぐの所に、このテープは図書館側の入口を入った所にセットしてくれ。そして警察が現れたと同時に再生して欲しい。頼んだぞ」そこまでを虚ろな目でも必死に伝え終わると同時に、高田の腕の中で全身の力が抜け、崩れ落ちた速川に彼は叫んだ。

「おまえが、おまえが孝次郎も亜紗美もそして俺さえも殺したんだろうが」結局あれだけ時間を掛け、美味しいと言っていた珈琲を高田は二人分飲み干した。決して珈琲が好きなわけではない。ただあれだけ長い時間を掛けて入れてくれた珈琲を捨てることなど高田和夫には出来なかったのだ。

それから速川征太に刺さったままのナイフを抜き取ると、べっとりとくっ付いた血そのままに鞄へと戻してから立ち上がり、

「終った」力なく言葉を零した。

そして彼女を冷凍庫からゆっくりと取り出すと、速川の部屋をあとにした。

「部屋を出た後のことはあまり覚えていない。ただ無性に死にたいと思った。彼を殺すまでは生きたいと懇願したはずが、どれ程か街を彷徨う内に今度はどうしても死にたいって考えたんだ。彼が僕に託したことも全く気に食わなかった。亜紗美が入った征太が用意した氷たっぷりのクーラーボックスが重たかったことも気に食わなかった。だからそんな約束なんか破って死んでしまおうと考えたんだ。しかし自ら死んだら彼にはもう二度と会えない。僕は誰かに殺されなきゃいけなくなった。そして決めたんだ。最後の勇者を、僕らの仲間を。それが橘貴代。彼女は僕の白いシャツの真ん中が鮮やかな赤をしていて咄嗟に気が付いたみたいだった。口を抑え声が出ないでいたから。特別に彼を刺したナイフも見せてあげた。そしたら貴代、腰抜かしてた。そんな彼女にナイフを握らせてここを刺せと言ってやったんだ。これで死ねると思ったのに、彼女はナイフを外に投げてしまったんだ。危ないよな、下に人がいたらアウトだ。慌てて取りに階段を駆け降りたよ。それを拾って戻ろうとしたら、刑事さんたちがいたんだ。怖かったよ。凄く怖くて震え上がった。でも夜通し居座られ流石の僕もキレたよ。だから征太の力を借りて仕返しすることにしたんだ。どんな仕返しなのか楽しみにしていたのに、テープを聞いて唖然としたよ。結局僕は彼のしもべでしかなかったんだ」そして高田は取り調べ室の床に座り込み、オイオイと声を出して泣いた。煩いぐらいに大声で泣いていた。ここまで話した高田だったが、あのビデオテープを撮影したかの問い掛けには、首を横に振った。


7日目・二重螺旋階段の話

大沢は螺旋階段を行ったり来たりしながら、一人考え込んでいた。彼はこんなことを頭に巡らせていた。

速川は最初からすべてを知っていた。死ぬ前に吹き込んだテープは、二日後の真木野さんの取る行動を把握していた。食堂に行く階段を選ぶことを。まぁあの場合誰でも手前の階段を選ぶ確率は高いのだろうけど。ともかく二つの階段を一人ずつ上らせる為に、電話でここに来させる刑事を二人と指定してきた。何故そんなことをしたんだ。やはりこの二重螺旋階段が、全てを解くカギなのか。それは全く同じ形のらせん状の階段が二つ重なったモノ。見た目は全く同じ螺旋階段でも、二つのらせん階段は大きく違う。それは入口が違うこと。そして出口も違うということ。入口も行き先も全く逆なのに、それなのに階段を上っている間は、その違いになど気付けない。不思議な階段。犯人が伝えたかった二重螺旋の意味がDNAではなく、この二重螺旋階段だったかはわからないが、もしかしたら犯人が考えたトリックの全貌がこの中に隠されているんじゃないだろうか。

大沢は一階の真ん中に立ち、二つの螺旋階段が真上で渦をなして聳え立つ眺めを見ていた。そして再び頭を捻り始めた。

今回の事件は佐久亜紗美のセンセーショナルな死に方から始まった。それが自殺なのか他殺なのかの論議が起こる中、僕らが嗅ぎつけたモノは十二年前の事件だった。それを暴くうちに、今回の事件と十二年前の事件を混合してしまっていたんじゃないだろうか。顔に布の袋を被っていたことで、二つの事件を因縁づけた。しかし二つの事件は、この二つの螺旋階段のように全く同じ形状でも、全く違うモノ。ゴールが全く違ってしまうモノ。入口を間違えると、ゴールに出るまで間違いに気が付かない。いや事件だったら階段のようにゴールに出ても簡単に間違いには気が付けないかもしれない。まさしく今回のように。さっき真木野さんは手前の螺旋階段を上ったから、ゴールに速川征太はいなかった。そしてゴールに代わりにいたモノは、佐久亜紗美だった。僕が奥の階段から登ったゴールには、速川征太がいた。正確には彼が吹き込んだテープだが。彼は真木野さんのときも僕のときも同じような言葉をテープに吹き込んでいた。

「そっちの階段を上っても、僕には辿り着けません」

「あなたが登って来た階段だけが、僕に辿り着くことが出来るんです」

もしかして彼が言いたかったことは、我々が彼を連続殺人犯に仕立て上げようとしていたといことが間違いで、事実は高瀬孝次郎を殺したのは自分でも、佐久亜紗美を殺したのは自分ではないということか。ゴールはそういうことが言いたかったんじゃないだろうか。もしや速川征太が一番言いたかったこと、それは僕らが入口を間違えているということだったんじゃないだろうか。でも入口を僕らはどう間違えたんだ。今回の犯人は十二年前を真似した模倣犯だということか。しかし死んでもなお伝えたかったことが、そんなに弱いメッセージのはずがない。考えろ、考えろ公靖。あっ頭が痛い……死に方は同じ、ただ佐久亜紗美だけが顔と胴が切り離された。でもそれはこの場合大した違いじゃない。怨恨か隠ぺい。これなら入口が違う!入口が隠ぺいならその先に居るのは速川ということになるが、入口が怨恨なら犯人は高瀬咲枝。でも咲枝は犯人じゃない。彼が、死んでもなお伝えたかったことなんだ、嘘であるはずがない。

頭を一度冷やす為、大沢は二重螺旋階段を少し離れ、冷えきったアスファルトの上に座り込んで、考え込みながら尚も渦巻く階段を見上げた。そして三度頭を捻った。彼はある疑問に当たった。

「犯人と思しき人間の存在が浮かび上がるときは、決まってその人間に不利な情報が、事件の証拠と共に僕ら警察には入って来る。それは当たり前のことなのだが、気になるのは、面白いように次から次へと事件解決の糸口が浮上することだ。寧ろそれは見えない誰かが僕らに与えているヒントのような。布を被せた殺し方を演出したことで、十二年前の事件が浮上した。佐久亜紗美のゴミ箱から見つかったメモ紙によって、速川征太という人物が浮き上がった。そのメモ紙がネット上に載っていたことが解ったことで、高田和夫という人間も浮上した。送られてきたビデオテープなんかは多くのヒントをくれた。まずテープの内容から、縄が置かれた状態が他殺を臭わせ、はたまた屋上トリックを解く鍵を、不審な動きを見せた被害者から見つけることが出来た。宛名から、二十代後半から三十代の男が、重要参考人として浮上した。ダブルスパイラルというタイトルが体操着袋のDNA、そして親子間のDNAを発想させた。その中で高瀬咲枝と速川征太が、重要参考人として浮き上がった。左耳の発見で他殺が決定的となり、タバコ屋の防犯カメラによって二十代後半から三十代の男の事件への関与が決定的になった。右耳の発見によって屋上トリックの謎が解けた。そして速川が持っていた佐久亜紗美の残りの顔があったこととDNA(二重螺旋構造)を使った親子の不幸を発見したことで、二つの事件の犯人が速川征太だと導き出せた。すべては十二年前の事件を連想させ、その犯人を導き出すことで、今回の事件の犯人も同一犯だと思わせるように持って行く、一貫した方法が浮かび上がるわけだ。一貫した速川征太が犯人だと導き出す証拠たちの内で、ただ二つ、高瀬咲枝が犯人だと臭わせたことがあった。でも高瀬咲枝は犯人ではない。征太と本当の親子である以上、仕返しは成り立たない。その二回のうちの一つは、犯人からのメッセージだったDNAを僕の理解が間違ったとき。つまり体操着袋のDNAだと考えたときだ。そしてもう一回は、あの言葉の理解を真木野さんが導き出した結論によって、高瀬咲枝が犯人ではないかと考えてしまったとき。この二回が何を意味するのか、やはりあの言葉の真木野さんの理解も、僕がダブルスパイラルが意味することの解釈を間違えたことと同じなんじゃないだろうか。つまり真犯人が意図しなかったことから、犯人を考えればいいんだ。そうなると……犯人はあの人ということか。しかしだったら何故、彼女が殺されなければならなかったんだ?それに何故、速川征太の元に佐久亜紗美の顔があったんだ?んー」座り込んだまま頭を抱えた。


7日目・香奈枝の話

「大丈夫ですか?並んでるんですか?」声を掛けてきたのはこの図書館で働くあの眼鏡が似合う、本が好きそうな女性だった。時計に目をやると、図書館開園時間の午前九時を少し回っていた。

「あっ、大丈夫です」慌てて返す大沢。そして苦笑いしている彼女の目線を辿った先に、二十人程の人々が彼の後ろに並んでいる光景があった。慌てて立ち上がると、

「すいません。すいません」大沢に邪魔され入れなかった人たち一人一人に頭を下げた。

全員を館内へと見送ったあと、大沢は速川のことを聴くために先ほどの女性に声を掛けた。二人は螺旋階段の手前を上った。そして上ったところにある食堂に来た。ここにさっきまで箱に入れられ置かれていた佐久亜紗美の顔があったことを思い出し、胸が詰まった。

「顔色悪いですけど、大丈夫ですか?」

「すいません。何度も心配して頂いて、でも大丈夫です」自然と笑顔になれた大沢に、彼女も笑みが零れた。かわいい……。何年ぶりかに感じることが出来た思いに大沢は困惑した。

「大丈夫ってばかり聞いてすいません。癖なんですね」そして彼女は大沢の顔を見た後に、

「この中アツいですよね」上を向き手で顔を仰いだ。食堂内は冷房が効いていた。大沢は久しぶりの感情に体が火照ってしまったのだ。それから二人、食堂横にある自販機でジュースを買い、その隣にあったベンチに腰を下ろした。そして彼女が今一番大沢に聞きたかっただろうことを尋ねてきた。

「速川さん、何をしたんですか?」その返答に戸惑っていたが、

「捜査協力です」

「捜査協力?」

「ある事件の容疑者として、彼の名前が挙がったんです。でも彼は自らの身の潔白を僕たちに証明してくれました」

「そうだったんですか」彼女は思はず立ち上がり顔を綻ばせていた。

「あっ、まだ名前言ってなかったですね。私、速川さんと同僚で、橋本香奈枝と申します」頭を軽く下げる仕草に暫し見惚れた後、

「あっ、僕、大沢公靖と申します」慌ててベンチから立ち上がり深々と頭を下げた。笑ってくれた彼女の顔を大沢は見ることが出来なかった。警察ということで彼女自身まだ警戒があったのだろう。でもこちらが少し心を開いたことでやっと名前を知ることが出来た。一人勝手にいい感じだと思いながら会話は続いた。

「本が好きなんですか?」

「はい。とっても大好きです。でも読んだ量は速川さんには到底及ばないんです」

「そうなんですか。僕も今度、何か本を読もうかな?」

「是非とも読んでください」

「どんな本から読めばいいですかね?」

「私は小説が好きなんですが、速川さんだったら、多分、男は黙って歴史書を読めって言われますよ」少し口調を変え彼のモノマネをしたのだろう。しかし大沢にはそれが似ているのかいないのかが解らなかった。ただ解ったこと、そのとき感じてしまったこと、それは大沢の短過ぎる春が終わったこと。そして彼女にはこれから過酷すぎる事実が知らされることだった。

「何かまた顔色冴えませんけど、大丈夫ですか?あっごめんなさい、しつこいですね。速川さんも何時も顔色が悪くて、だからすぐに大丈夫ですかって聞いちゃうんです。でも彼言ってくれたんです。心配されるの嫌いじゃないから、何時でも言ってくれって」大沢は思った。目の前で顔を赤くしてはにかんだ笑顔を見てしまったら、言うことなど出来ないと。彼女に伝えることなどどうして出来ようか、速川征太がもうこの世にいないことを。

「それにしても、速川さん遅いな」腕時計に目をやる香奈枝。そんな彼女を残し、彼は何も言えないままその場をあとにした。

そのあと速川のアパートを訪れていた。大沢は部屋の隅々まで顔を入れ手を入れ足を入れた。その戦いは三十分にも及んだが、結局目当てのモノを見つけられずに部屋を出た。

署に戻った大沢が真木野の机の前を通過した。が、すぐに引き返し、彼の机の上にあった雑誌に目を向けた。

「これ、確か、昨日佐久善治さんのお見舞いに新堀って人が使いに持たせたモノだ」彼は躊躇もせず勝手にページを捲った。そこに書かれていたことは“金型で佐久善治が大儲けしたことによる天からの戒めか”というデカデカと書かれた文字だった。

「随分凄いこと書かれてるな」そのとき大沢の携帯が鳴った。

「もしもし真木野さん?」

「おう。おまえの携帯誰からも鳴らないから俺が掛けてやった」

「そんななことで電話してきたんですか?いいんです。放っといて下さい」

「そんなことより、どうだ?閃いたか」

「もう少しなんですが」

「だったら少し情報を足してやろう」

「でも僕、もう署に戻ってますよ」

「何だよ、だったらすぐに資料室に来い」

「その前に、速川の自宅からビデオテープまだ押収されてませんよね?探したんですが、なくて」「そういえばそうだったな」

「高田が隠し持っているんですかね?」

「十二年前の証拠品をか?アイツはそれを暴く為に、ネット上に載せたのにか?」

「そうですよね。おかしいですよね」電話越しに顔を見合わせる二人。

次の瞬間、

「まだ受け取ってない?」大沢はすぐさまこの前の、宅配便の集積所へと連絡を入れた。案の定、その荷物はまだ保管されていた。すかさず真木野は資料室を出ると宮部の元へ向かった。丁度外へと向かう途中だった彼を見るなり、

「宮部っ。本当に速川は三日前、宅配便取りに行ったのか?」何の事だか分らなくても凄い剣幕と、数日前の記憶が彼をたじろかせた。

「すいません」頭を深々と下げる宮部。今度は真木野を止めることが出来た大沢が、

「落ち着いて下さい。取り敢えず、集積所行ってみましょう」どうにか宥め、車へと押し込んだ。恐れ慄いていた宮部から聞いた情報で、速川は確かに集積所で箱に入れられた荷物を一つ受け取ったことが分かった。真木野たちが確認したビデオテープが入れられていたのは箱ではなくただの紙袋だった。つまり彼には二つの荷物が届いていて、持ち帰ったのはビデオテープではない方だったのだ。集積所に着くなり車を飛び降りると真木野は走った。事務所の窓ガラスが割れんばかりに勢いよくドアを開けると、

「警察だ。速川征太宛てに届いた荷物で、ビデオテープともう一つ、三日前に届けられたモノはあるか?」その迫力に逮捕されるんじゃないかと戦慄が走った顔をしたおばさんが、大急ぎでパソコンのキーを叩いていた。

「あ、あります」

「中身は?」

「中身まではわかりませんが、チルドで送られています」

「冷凍?」

「宛名は?」

「ありません」

「もしかして?」

「そうだ。そのもしかしてだろう。佐久亜紗美だろう。そしてあのビデオテープのときと同じ奴に書かせた、もう一枚の伝票を使って、速川に送り付けたわけだな」

「そうか。やはり、そいつが佐久亜紗美を殺した犯人だったんだ。あっ、真木野さんがさっき資料室で見付けた情報って何ですか?」

「それは車の中で話そう」

「速川征太が俺らに伝えたかったことって何だ?」

「それも車の中で話しましょう」

そして二人は車に乗り込むと、再び速川のアパートを訪れた。

「証拠品はすべて回収済みですよ。今更、速川の部屋で何を探すつもりですか?」錆びた階段を先に上る真木野の背中に大沢が口を尖らせた。

それの返答はしないまま、玄関前に洗濯機が置かれた部屋の玄関をノックした。

隣の部屋が何もなく殺風景なのを確認した大沢が、

「速川の部屋は隣ですよ」と諭したが、それにも返答はなく、玄関が開いた。出てきたのは、陽光を迷惑そうに半分目が塞がっている顔を顰めたパジャマ姿の男だった。世間が真昼間でも夜の商売をしている風貌の彼にとっては真夜中なのだろうと察した真木野が、

「こんな時間にすいません。警察のモノなんですが」

「警察の人間が何の用?」昨日隣の部屋で人が死んだというのにそんなこと全く興味がないのだろう、男の反応は冷めきっていた。もしかしたら事件があったことも知らないのかもしれないと思ってしまうほどだった。

「洗濯機の隣に置かれている黒いビニールが何重にもされている中身って何ですか?」

「そんなのあったっけ?俺のじゃないよ」面倒臭そうに受け答え、話を終わらせようとドアを閉め掛けたそこに足を挟んだ真木野。いよいよ面倒だと男が睨み付けてきた。しかし真木野の顔は晴れやかで、「では中身を確認しても問題ないですね」男が引くほどだった。

「勝手にしろよ」ドアが閉まるなり、真木野は意気揚々と、

「こないだから気になっていたんだよね」独り言まで零しながらそれを開けた途端、二人同時に仰け反った。そこからの匂いが尋常ではなかったから。五六枚ほどのビニール袋で何重にもされた中に入っていたモノは四十センチ四方ほどの段ボール箱、その中に収められた同じ大きさの発泡スチロールの箱だった。その中身は殻でもそこに入れられていたモノは想像出来た。段ボール箱の上面にはいつかのテレビ局に送られてきた宅配便の用紙と同じ人間が書いた紙が貼られたままだった。「速川はこれも我々に引き渡す考えだったんだろうな」真木野も大沢も何時しか塞いだ表情をしていた。

署に戻った二人は、捜査本部で幾つかの受け答えをしたあとに校長の相良が速川に託したビデオテープを見た。そこに写っていたもの。午前六時六分、そこに二人で写っていたのは、高瀬孝次郎と肩に腕を回された高田和夫が一緒に校門を潜る姿だった。高田は怯えた様子で連れられていた。そして少し遅れて登場したのが、速川征太だった。当時、高瀬孝次郎と高田和夫が早朝に二人で登校することは同級生の聞き込みで上がっていた。そのことを校長は防犯カメラで知っていた。事件があった日は二人の数分後に速川征太が登校してきたことで、相良はその日死んだ高瀬孝次郎の死に、速川征太が少なからず絡んでいることを察したわけだ。

逮捕からだいぶ時間が経った高田和夫は落ち着きを取り戻し、取り調べで色々なことを話し始めた。

「十二年前、本当に虐められていたのは僕なんだ。僕を虐めていたのは孝次郎。事件があった日も朝早くに呼び出され屋上で僕は孝次郎から暴力を受けていた。そこに現れたのが征太。彼は僕を助けに来てくれたんだ。あのときの彼の顔は物凄く怖かった。鬼を見ているようだった。鬼になった征太に迷いはなさそうだった。彼は孝次郎の前まで歩み寄ると、その迫力に威圧された孝次郎が戦意を失った瞬間、持っていた体操着袋を孝次郎の顔に被せたんだ。そして顔を強張らせ体操着袋の紐を一気に締めあげた。それは手から血が出る程だった。そして彼は孝次郎を絞殺した。そのあとは征太に言われるがまま、二人で屋上から縄を使って孝次郎を吊り下げた。それは僕が彼のしもべになったことを意味していたんだ。孝次郎が死んだ後、僕は彼のロッカーに一冊のノートを見つけたんだ。そこには色々なことが書かれていたよ。学校で自転車が故意にパンクさせられたことや下駄箱に犬の糞や動物の死骸が入れられていたこと。上履きに画鋲が入っていたこと。学校の塀の外から石を投げられたこと。家に帰ったら玄関のドアに赤いモノが塗ってあったこと、それが血に見えて怖かったって書いてあった。しかしどれも顔の見えない人間が死角から攻撃してくるから一層怖いって。そのノートを読んでいたら、犯人は征太だったんじゃないかと思えて来たんだ。名前はどこにも書いてはいなかったけどね。でも確信があった。それまでの二人の行動を見ていればわかることだ。僕は孝次郎が征太から虐めを受けていたなんて知らなかった。それを読んでいたら、僕は孝次郎を許せるようになったんだ。そしてそんな孝次郎を殺した征太を憎むようになったんだ。だからネット上に、最後の一文を書き加えて載せた。あの事件以来、征太は僕の為に孝次郎を殺したと一度も責めて来ることはなかった。僕には何よりそれが怖かった。何時彼が僕の前に現れ、しもべだと宣言したら、僕はそれに逆らうことは出来ない。三年前、チンピラだった僕は数人で暴走族の一人をボコボコにした。気を失ったところで、そこに征太を呼び出し警察も呼んだ。僕らにヤラれたヤツはビビって、征太一人にやられたって供述をした上に、征太もそれを認めやがった。全く信じられない奴だよ。そして征太は捕まった。僕はお腹が捩れるぐらいに大笑いしたんだ。でもそのあとにあの男のことが一層怖くなった。何時でもどこに居ても、征太が僕を見ているような気がしてならなかった。そして僕は思ったんだ。いつかあの男に殺されるって。そして亜紗美が殺されたのを知って僕は震え上がった。次は僕だって思った。だから殺れる前に殺ってやろうと思ったんだ。でも彼を刺して、僕の腕の中で死んで逝くときに、彼が言ったんだ。ごめんな、和夫。十二年前、孝次郎を殺したのはおまえを助ける為じゃなかったんだ。自分を守る為に殺したんだ。おまえを助けたのは切っ掛けであって、俺の為に孝次郎を殺したんだって。それを聞いたら、今までの十二年間は何だったんだと思った。僕は利用されただけだった。結局僕は征太に負けたんだ。それを知ってしまったら、急に生きていることが怖くなった。この三年間、ずっと死にたくないと考えていたのに、今度は死にたくなったんだ。でも勝手過ぎた。だから僕は、彼の為に生きて彼の罪も償うことにしたんだ」

真木野と大沢が意気揚々と車に乗り込み辿り着いた先、そこは港が近くに見える、少し寂れた場所だった。車を降りた二人の背中に斜陽が降り注いでいた。百メートルほど歩いたところにあるビルの、幾つもの部屋がテナントを募集していることを伝える看板を横目に彼らは階段を上った。

扉の前にいたのは、「新堀?」真木野が漏らした名前に、大沢が反応した。

「この人が、新堀さん?」

「僕は警察でどんな噂されてんだ?」薄ら笑いを浮かべた男は全身を黒のスーツとコートでまとめていた。

「一昨日、佐久善治の見舞いに使いを寄こしたか?」真木野から淡々と話は始まった。

「いいや」

「そうか」先に煙草を付けたのは新堀だった。

「吸うか?」差し出された煙草ケースに、

「僕は吸わないんです」大沢は低調に断った。それから何も言わずに真木野にそれを差し出した。そこから一本を取り出すと、新堀が火を翳して来る前に、自らのライターでそれに火を付けた。何故かニンマリとした二人。再びやり取りは始まった。

「この間俺に話した話、他の奴に話したか?」

「どの話だ?」真木野の問いに、新堀が首を傾げた。

「十二年前の男子高校生が自殺した事件。それでおまえの会社が親に五千万円支払ったんだろ?」

「その事件なら君たち警察が十二年も掛かって真実を突き止めたじゃんか。他殺だったって、同級生の男の仕業だったって、テレビでやっていたぞ。今の時代テレビ一台あれば何でも情報は入って来る」

「バーカ。そうやって国民は踊らされているだけなんだ。そんなことも知らないのか?」

「どこかの偏屈爺みたいなこと言うな。老けるぞ」

「大きなお世話だ。そんなことより、その話、俺にする前に誰かに話したか、聞いてんだ」

「あぁ。あとこんなことも話した。十二年前の事件のとき、体操着袋の持ち主がテレビのインタビューで叫んでいたことも」

「速川征太が何をテレビで叫んだんだ?」新堀は厭らしく笑うと、

「同じ反応だな」

「誰と?」

「だからこの話をした奴と」

「で、速川は何て言ったんだ?」

「孝次郎が自殺なわけがない。あんな死に方は可笑し過ぎる。あいつが死ぬことで得をする人間がいるんだ。と公共の電波で叫んだんだ」

「つまりアイツは一年前から計画的に事を進めていた?」

「鼻っから高瀬咲枝を嵌めるつもりだったんだ。それに十年以上もまんまと乗っかったのがこの俺であり、君ら警察だったってわけだ」

「しかし何故だ、当時のおまえは高瀬咲枝と速川征太が実は本当の親子だって知っていたんだろ?」ニヤける新堀。

「それなのに五千万円払ったのか?」

「他人の子を殺して大金をせしめるやり方が気に入っただけだ」

「悪趣味ですね」新堀の答えに大沢が呟いた。

「それに君ら警察を完全に欺くことが出来たご褒美の意味もある」そう言ってほくそ笑む新堀を睨み付けた大沢。

「そこまで知りながら、おまえは征太のトリックに今の今まで気づかずに十二年前の事件の話をしていたわけか?」今度は真木野だけが口角を上げた。

「そうだ」

「でもある男は、その話を一度聞いただけで速川征太の真の狙いを見破った」

「そう」

「そしてそれを今回の事件に応用したわけか。なるほど、凡人には到底思い付かないことだよ」扉の前、新堀と真木野は笑顔で奥歯を噛み締めた。

「でもおまえは凄いな」新堀が云った。

「いいや俺もおまえと全く同じ、凡人だ。偉人はコイツだ」

「ぼ、僕ですか?」肩を叩いた真木野に恐縮する大沢。

「この若武者が、おまえの言う偉人?」目を剥く新堀。

「でも偉人になれるのは、一年で一回ぐらいなんだ。あとは凡人以下だ」

「何でですか?」一度有頂天になったことで悔しさを倍増させた大沢をやり過ごした真木野が、

「用意はいいか?」横の扉に手を掛けた。

「はい」襟を正した大沢が大きく頷いた。

「では、新堀君、先行かせてもらうよ」彼はどうぞ、と手で合図して見せた。

そして二人の刑事はバー・アームストロングの扉を開けた。

「いらっしゃいませ」迎えてくれたのはいつもと変わらない出で立ちでいるマスター川端茂也だった。店に入るなり、真木野は立ち止ると相変わらず店内を見渡していた。

「あれっ刑事さん。今日はどういったご用件ですか?」後から入って来た大沢が、川端とカウンター越しに対峙した。そんな彼の顔を見るなり、

「どうしたんですか?そんなにおっかない顔をして」せせら笑った川端だったが、大沢の真剣さに彼も根負けしたように口元を締めた。

「今日はある事件があってから、この七日間の僕らの出来事を話しに来ました」二人に遅れて、新堀が店内へと足を踏み入れてきた。彼はいつものように生ビールを頼むと、いつものようにカウンター一番奥の席に腰を下ろした。そして川端が生ビールを新堀の前に置くのを確認してから、大沢は川端を目で掴み、話しを始めた。

「七日前に、佐久亜紗美さんが何者かに殺されたことは、既に報告済みですね」

「はい」

「彼女は顔に布の袋を被せられ、十階建てのビルのテッペンから飛び降りました」

「知ってます」川端は整然としていた。

「恰も十二年前の事件との因果関係を匂わす死に方でした。だから僕らは、捜査開始からその線で洗い始めました」

「はぁ」

「ビデオテープにダブルスパイラルというラベル。被害者のゴミ箱から見つかったあるメモのコピーとネット上にあった本文。左耳の発見に、体操着袋の血痕。防犯カメラに写っていた映像に、右耳の死後硬直。全てが二つの事件の犯人が、速川征太だと語っていました。しかしそれら全てが、真犯人から与えられたヒントだったんです。僕らは気付かない間に、その人物が作り上げた青写真の上を歩かされていたんです。それでも多くのヒントを与えて貰った僕らが、速川征太を真犯人が意図する犯人だと行きつくまで四苦八苦しました。その原因の一つが与えて貰ったヒントを、馬鹿な僕たちは何度か履き違えたからです。ダブルスパイラル、つまり二重螺旋というヒントから、僕たちは体操着袋の血痕のDNAを差しているものだと勘違いしました。そのことで犯人は、高瀬咲枝なんじゃないかと考えてしまったんです。しかし犯人が伝えたかった二重螺旋は、高瀬咲枝と速川征太が、実は本当の親子だということだったんです。そしてある人が言った言葉によっても、僕たちは犯人の意図することからはみ出してしまったんです。その言葉によって今回の事件を恨みによるもの、つまり速川征太に同じ苦しみを味合わせる為に、高瀬咲枝が佐久亜紗美を殺したという考えに辿り着いてしまった。だから今回の事件、高瀬咲枝が犯人ではないかと疑ったことがあったんです。それが、『私だったら死んだ者の為に恨みを晴らすことは考えません。私自身の為に恨みを晴らします』という言葉だったんです。二つの勘違いが何を意味するか?一つ目のDNAは我々の履き違いで片付けられました。しかし二つ目、こちらも勿論僕たちの解釈が誤っていたわけですが、もしかしたらその言葉にこそ、今回の事件を紐解くモノが隠れているのではないかということに目を付けたんです。そしてあることに気が付きました」川端の目が微かに泳いだのを、大沢の後ろで置物のローソクを手に持っている真木野が嗅ぎつけた。

「それは今回の佐久亜紗美さんの事件が、元々彼女が恨まれたり妬まれたりして殺されたモノじゃなかったということです。犯人は彼女が殺されたのを十二年前の事件を利用することで、その事件との繋がりがあると装いたかったのでしょう。しかし真相は、ある男が自分の大切な人を死に追いやった人間を殺すのではなく、その人間に男と同じ苦しみを味合わせたいという自らの恨みを晴らすだけの為に、それだけの理由で関係のない彼女を殺してしまったということです。五年前、一人の男性が、自らの工場で首を括って自殺しました。彼は自らが開発した金型が勝手に輸出され、中国の安い労働力で出来上がった製品が、安価で日本に入って来ることに散々迷惑を掛けられて来ました。多くの同業者はそれによって倒産へと追い込まれました。しかし彼は踏ん張り、新しい金型を発明したんです。それが余りにも素晴らしかったから、彼はそれを特許庁に申請し、万全で商品を売り出すことに成功しました。しかしその万全策も、すぐに中国の闇社会に飲み込まれてしまった。そしてそれを安価で輸入し大儲けをする日本人が現れてしまったんです。それこそが佐久善治さんでした。それに全財産、全精力を注いだ彼は力尽き、自らの首を括った」堪え切れなくなったのか川端が煙草に火を付け、それを大きく吸い込んだ。それを確認しながら大沢は続けた。

「しかしその事件は、すぐには自殺だと断定されませんでした。それは彼が首を括ったロープに挟まっていた一本の髪の毛が原因でした。DNA鑑定の結果、その髪の毛からは一人の人物を導き出すことが出来ませんでした。それは髪の毛の場合、DNA鑑定によって人物を判定出来るのは、髪の毛の毛根部分にある頭皮組織の一部である毛根鞘からだけなんです。それが付いていることは滅多にありません。生えている髪を引っこ抜いても付いてくるかもわからないモノなんです。まして抜けた毛なら尚更です。あのときの髪の毛、佐久善治さんのモノだったんじゃないですか?そして今回、発見された佐久亜紗美さんの右耳に付いていた髪の毛も、そういった理由で一人の人間に行き着くことは出来ませんでした。でもあの髪の毛も、もしかしたら速川征太さんのモノだったんじゃあ?警察に再度チャンスをくれたのかもしれませんが、期待に応えることは出来ませんでした。申し訳ございません」大沢は一度話を止め、川端の顔を覗き込んだが、彼はまだ涼しい顔つきで煙草のヤニを肺に入れる動作を繰り返すだけだった。

「切り口を変えてみましょう。捜査を進める中で僕たちの中で感じたもう一つの疑問。それは全てのことが、速川征太が犯人だと指示していること同時に一貫してひとつのことを演出しているんです。それは異常性です。十二年前の事件には布の袋を被せたことには異常を感じますが、あれが速川征太から佐久亜紗美へのそして本当の母親へのメッセージだったと考えるなら納得がいきます。しかし今回は切り離された彼女の顔を持って行ったこと。そしてそれを切り刻み道端に左耳と右耳を置いたこと。まさしく異常者です。そのニュースを知った人々も次は目が見つかるのか、鼻が見つかるのか、何時になったら彼女の顔は揃うのか?ドギマギしたことでしょう。そして人々はいつしか犯人を、精神が狂った卑劣で野蛮な犯罪者として恐れ慄きました。しかし僕たちは捜査を進める過程で、今回の事件も異常者の仕業じゃないのではないかと考えました。何故なら遺体を切り刻み小出しするという、異常者を装いながらも一番切り離し易い耳だけだったことです。つまり犯人の真の目的は、他にあると考えました。そしてそれを一番鮮明にしてくれたのが、犯人はわざわざ彼女の顔を持ち去ったにもかかわらず、屋上トリックを成立させる為には不可欠なイヤホンが差し込まれていたのを発見出来たのは右耳に死後硬直を発見出来たからです。犯人が自らヒントを与えてきたんです。この矛盾した行動の真の目的を考えました。そして私たちが行き着いた答え。彼女を殺すことでも、速川征太を捕まえることでも、まして異常者を装うことでも、ダブルスパイラルで導き出された咲枝と征太が真の親子だと知らしめたDNAも、犯人にとってはどうでもいいことだったんです。本当の目的は、常に話題を作ること。日本国民が大好きな話題を作り続けること。彼女を殺し、遺体を少しずつ発見させることで、何かのメッセージを送り続けているんじゃないかという考えに行き着いたんです。報道業界に常に新しい情報を提供することだったんじゃないかと。案の定、この七日間、テレビのニュース番組では、彼女のことがトップを飾る番組も多くありました。しかし話題を作り続けるというキーワードはわかっても、犯人の狙いが何なのか、それだけがどうしてもわからなかった。でも一昨日入院中の佐久善治さんの元に、新堀さんの使いを装いお見舞いに訪れた人物が置いていった写真週刊誌を見て気が付いたんです。これこそが本当の復讐だったことに。あの使いの人、あなただったんじゃないですか?川端さん」

川端は何も答えない。

「まあいいでしょう。つまり目に入れても痛くもない、可愛い愛娘の惨過ぎる死に様を、何時までも忘れさせない為。脳裏に焼き付ける為。被害者遺族の苦しみを、それを与えた人間にも味合わせることだったんです。今の報道はそういった部分で加害者よりも被害者の遺族の方に、精神的ダメージを与えている報道が多くあります。しかしそれは我々国民が求めている結果であって、みんなは人の不幸に同情する偽善者でいる自分に安堵し、そして被害者が自分や家族ではなかったことに幸せを感じているんです。もしかしたらそんな平凡な日常に飽き、自分が安全な場所で傍観出来る人の不幸でストレスを発散しているのかもしれません。しかし本当の被害者になったとき人は初めて気付かされる。報道の凄さに怖さに恐ろしさに打ちのめされるんです」

大沢は一度荒げた息を整えた。そして川端が一点を見つめていた反応を確認した後に、彼は仕上げへと入った。

「あなたは五年前、父親を失ったときにそのことを思い知らされた。だから今回、あなたは父親の恨みを晴らす為ではなく、あなた自身が味わった苦しみの恨みを晴らす為に、佐久善治から最愛の人を奪い、彼にあなたと同じ苦しみを味合わせたかったんです。あなたが言ったあの言葉の真意が、そこにあったんです」

大沢の話を最後まで聞いた川端がカウンター越しに拍手をしていた。

それが白旗なのだろうと大沢は理解し、胸を撫で下ろしたのも束の間、

「凄いですね。でも証拠がないですよね?」

すぐに顔を顰める結果となった。その表情を川端は涼しげに眺めていた。

「証拠ならすぐ作れますよ」後ろで静かにしていた真木野が目には力を込めず、口角だけを吊り上げた。

黙り込んだ川端。

「指紋取らせて下さい。速川征太に送られた、佐久亜紗美さんの顔が入っていた段ボール箱、彼その箱を大事に保管し、我々に彼女の顔ごと引き渡して来たんです。そこに残っていたある指紋と佐久善治さんのお見舞いに行ったときに週刊誌に残っていた一つの指紋が一致しました。それとあなたの指紋が一致すれば真犯人である確固たる証拠になります」次の川端の一手に真木野が身構えた。

「そこまで調べ上げて凄いです……完敗です」しかし川端は呆気なく、真木野は肩透かしを喰らったと顔に書いてしまうほどだった。

川端はあと腐れなさ気な表情に変わると、心もち時間を置いてから話を始めた。

「ダブルスパイラスル、所謂二重螺旋が意図することは、刑事さんが察した通りですよ。表向きはDNA、しかし本当は、見た目が全く同じなのに入口も出口も全く違う、二重螺旋構造そのものを指していたんです。私はこの素晴らしいトリックを思い付いたとき、鳥肌が立ったんです。だから今回の殺人事件のタイトルにしたんですよ」

真木野が拳を握った。

「でもさっきの推論、一つだけ不正解がありましたよ。それは彼女の右の耳に付いていた髪の毛、あれはあの速川とかいう青年のモノなんかじゃありません。あの髪の毛は紛れもなく、私のモノです」

「強がりを言うな。それでは自分が不利になるだろ」真木野が噛み付いた。

「警察にチャンスを与えたんです。もし判明したら、今回の事件の犯人がすぐに導き出せるようにしたんです。でもそれに失敗したのに、ここまで来たことには、脱帽です」大沢は奥歯を噛みしめた。

「ここまで完璧なショーだったのに何故だ?彼女の残りの顔の部分だって、警察が速川をマークする頃合いを見て、彼が家に居ない時間を指定して宅急便で届けた。不在票を手にした彼が生ものの表示を見てすぐに取りに行く。自宅でそれの中身を見たときには既に張り込まれている彼はそれをどうすることも出来ない。捨てればすぐに捕まる。流しても家に入り込まれれば痕跡でばれる。そこまで完璧にやったのに、何故最後は自爆まで考えた?」川端は二本目の煙草を灰皿へと擦り付けると、カウンターからフロアへゆっくりと足を運んだ。

「時間稼ぎですよ。最低でも一ヶ月ぐらいは逃げ延びたかった。犯人が捕まると、事件に対する日本国民の熱は一気に冷めてしまいます。出来るだけ長くワイドショーに取り上げて欲しかっただけです。本当は一生私には辿り着けないと踏んでいたんですがね。でも最後は、警察が私に辿り着けなくても、表に出て行くつもりでした」

「嘘つけ!」

「見せ付けたかったんです。私みたいな天才がいるってことを。こんなに単純なトリックで、警察を翻弄し、またまた冤罪を作ることが出来ました、ってな具合に。そこで真犯人は私だったんですって、両手を挙げて自首したかったんです。日々に飽き飽きしている民衆に、娯楽を与えたかった。そんな天才が、佐久善治みたいな金の亡者に負けるわけがないってことを教えてやりたかった」自らが熱くなっていることに冷めた川端は、顔だけで笑って見せると、彼の今回の事件の本当の狙いを話し始めた。

「いいですか、言いましたよね?私だったら死んだヤツの為に恨みを晴らすことは考えないって、私自身の為だけに恨みを晴らすって。そういうことですよ。全て自分の為に、とことん恨みを晴らすんです。そのことだけに命を掛けていたんです。だから私が捕まることで、本当の恨みが晴らせるんです」黙り込み何も言葉を発することが出来ない二人と、同じフロアに立った川端は、なおも話しを進めた。

「たくっ、頭の悪い人たちですね。何で私のトリックは、こんな人たちに暴かれたんですかね?いいですか、耳の穴かっぽじってよく聞いて下さい。私が捕まれば、テレビで名前が取り上げられます。そうなれば、否応なしにあの爺さんの耳にも入るわけです。そうなると彼はどう思いますか?」

「自分のせいで一番大切な娘が殺されたことを知ってしまう?」大沢がボソッと漏らした。

「そうです。それがこの事件の動機であり、私の一番の狙いだったってわけです。自分のせいで最愛の娘が殺されたという事実を知った佐久善治は、怒りに震え、恐怖すら感じるかもしれません。あっそうだ……新堀さん、これ、私の門出を祝して、奢りです」

端っこで存在を消し去っていた新堀がグラスを掲げた。真木野に言葉はなく、ただ涼しい顔でいる川端を睨みつけるしか出来なかった。

「でも速川征太君でしたっけ、彼には悪いことをしました。私のせいで殺されてしまったわけですから。じゃあそろそろ行きましょうか」

「大丈夫です。彼はあなたのせいで死んだんじゃないから」大沢が下を向きながら言葉を吐いた。忸怩たる思いで突っ立っていた真木野の真横を弾むように歩き出した川端が足を止めた。

「自ら犯した十二年前の過ちに、自らの命で清算しただけです。あなたの負けです」その目は確かにイカっていた。真木野がそれに続いた。

「彼は佐久亜紗美のストーカーなんかじゃなかった。あれは全てあなたの仕業ですね。橘貴代はここであなたの話術に嵌まった。恰も佐久亜紗美本人までも、速川征太にストーカーされているような錯覚に陥ったんじゃないですか?現に橘貴代は、速川征太がストーキングしているところを全く見てはいなかったらしいですから。あなたの話術と刷り込みで、彼女たちはあなたのショーの中へと巻き込まれてしまったんです。そして実際にストーキングしていたのは、勿論あなた。無言電話に彼女のマンション前に立ったこと、そして十数年前を思い出させるポケベル変換のメッセージも。でもあなたのトリックは所詮真似事じゃないか。速川征太の真似事。あんたはあの男には勝てなかった。入口を虐めや恋の縺れではなく、自殺を装った偽装工作を狙った保険金目的の事件へとすり替え、出口を自分ではなく高瀬咲枝にした、二重螺旋という新しいトリックを考えたあの男には。その証拠にあんたのトリック、あの男には見破られていたんだよ。だから俺たちはあんたに辿り着けたんだ。あの男が全てを教えてくれたんだよ」

今度は大沢が、確かに川端を捕らえた目で訴えた。

「今回の事件は単体の事件だって、入口と出口さえ間違えなければどうってことはないよって、彼は教えてくれた。でも僕たちはその入口を間違えてしまった。だから勿論、結論も間違えてしまった。二つの事件が、二重螺旋階段のように余りにも似過ぎていたから。でも二つの螺旋階段は姿かたちは同じでも、入口と出口は全く違うんです。そして速川は僕たちに自らの罪、つまり十二年前の高瀬孝次郎の殺害を認めることで、佐久亜紗美殺害が、自分が犯した事件とは関係ないことを教えてくれた。本当の事件の入口、殺されたのは亜紗美でも、あなたが狙った被害者は、佐久善治だった。つまりあなたは、本当の被害者をすり替えることで、僕らの事件の取っ掛かりとなる入口をすり替えたんだ。でも彼だけはそれを見破ったんだ」

「見破ることが出来ようが、結局十年以上も隠し続けた自分の犯罪を、この私によって暴かれたんだ。お相子ですよ、お相子」悔しさをかみ殺した川端の笑いは痛々しかった。

「でも、多分テレビでは川端さんよりも、速川の方がヒーローのように取り上げられますよ。美少女殺害事件、十二年前の自らの罪を認めることで犯人逮捕に貢献、みたいな見出しで」

「アイツだって、ただの人殺しだ」

「そうですよ。速川もあなたと同じ、最低な人殺しです」大沢の言葉に、

「それなのに、そこまで扱いが違うものですかね?」俯いた川端が軽く笑って見せた。

「仕方ありませんよ。なんせ彼は死んだんですから。死んだら誰もその人のことを悪くは言わないものです」

そう言って口元を緩めた大沢の顔つきが変わった。彼は川端の右手を掴むと、

「午後六時三分。殺人容疑で、川端茂也を逮捕します」同時に店の入口から三橋、林、宮地が入って来た。それぞれがお互い敬礼し、川端の脇を林と宮地が固めた。そして川端は自らの店を手錠をされた状態で出て行った。

そのとき、大沢のポケットの中で久々の感触があった。彼はそれを取り出すと、「真木野さん」カウンターに入って、ウィスキーの瓶の蓋を開けている真木野に見せ付けた。

「わかったわかった。おまえは人気者だ」ニンマリしたあとに通話ボタンを押した。「もしもし。なんだ、健二かよ」電話の相手は彼の唯一ともいえる友人からだった。

「なんだはないだろ。せっかく合コンの席作ってやったのに」

「もういいよ」

「よくない。今度は正真正銘の刑事好き。太陽にほえろがバイブルだって女の子が、どうしても本物の刑事さんに会いたいんだって」

「硬派だね」

「だろ。だからおまえにもってこいだ」

「それでもイメージ違うって言われるのがオチだ。そういう女の子が僕みたいな、刑事っぽくない刑事と会っても夢を壊すだけだって」

「いいから。おまえ以外にいないんだよ」

「僕じゃなくて、知り合いの刑事が他にいないだけだろ?」眼を細める大沢。

「そう言わずに頼む」電話越しに手を合わせるのが見えた気がした。

「おまえが行かないなら、俺が行っちゃおうかな?」既にグラスにそれを注いでいた真木野が口を挟んだ。

「駄目ですよ。真木野さんにはちょっと強いけど奥さん居るじゃないですか」携帯電話を耳から少し離すと大沢が反論し、

「わかった。俺が行く」覚悟を決めた。真木野は苦笑いを浮かべ、新堀は歯茎を見せていた。

「助かった。ありがとう。じゃあ今夜八時、横浜高島屋前で」

「今夜?無理だよ無理……あっ切れてる」呆れ顔で立ち尽くした大沢に、

「じゃあ早く書類書いて、合コンに行って来い。いい加減、大沢に春が来ないと、見ているこっちが悲しくなる」真木野が馬鹿にした。

「人の不幸で勝手に悲しまないでください。で、真木野さんは?」

「俺はこの男とここで合コンしていく」新堀が今度はロックグラスを翳していた。

「あっ、でも勤務中だから酒は駄目ですよ」カウンターの向こうでもう一つのロックグラスが見えた大沢が忠告をした。

「自分は合コン行くくせに」口を曲げる真木野。

「僕はちゃんと仕事あとに飲むんです」

「そうですか。わかりました」相変わらずのへの字口だった。ドア前で大沢が振り返り、

「そういえばあのポケベルのメッセージ、どんな意味があったですかね?」首を傾げた。

「さあな」真木野はさらりと受け流した。上司が軽薄でも、

「じゃあ、お疲れ様でした」部下は深々と頭を下げた。

「おう、大沢も、お疲れ様」だから真木野もボトルと既に色が付いているグラスを置くと、そこまで畏まらずに敬礼をした。

そして大沢が出て行った薄暗い店内で、二人はカウンター越しのままグラスを鳴らした。

「ポケベルのメッセージって?」

「おまえにも知らないことあったんだな」ここでも真木野は受け流した。

「まぁいいや。それより今回の事件は解決を見れてよかったじゃんか」新堀の言葉に、

「あぁ」嫌味と分かっても真木野は受け流した。それよりも気になっていたことがあったから。

「新堀、ところでおまえはここへ何しに来たんだ?」それを確かめようと話題を変えた。

「報告だ」

「五年前の事件の話か?」

「オイオイ、俺は刑事じゃないんだ。特許の事でだ」二人はカウンター越しに話をした。

「金型か。でも五年前の話しが何故今頃?」

「訴えを起こしたのは、死んだ父親じゃなく息子なんだ。一年前、彼は突如特許庁を訪れた。そして佐久工務店が莫大な儲けを出している商品が、どうも父親が特許を出している金型に似ているという事で、調べて欲しいと要請があったんだ」

「今日の報告は何だったんだ?」立っていることに疲れたのか、真木野がグラス片手にフロアへと出ると、

「佐久善治が賠償金を払い、川端の父親が発明した金型を使うことを約束したよ」

「皮肉なもんだな。もう少しその報告が早く出来ていたらな」

「あぁ」新堀から席を一つ空けた椅子へと腰を下ろした。

「でも今回の事件で、その件はどうなるんだ?」

「もう契約書にサインしてしまった佐久善治一人が、結果的に大負けだ」その言葉に真木野が睨みつけたが、口元だけを緩めると、

「おまえ今回の事件、絡んでるな?」

「おいおい証拠でもあるのか?」

「いいや。ただ前回、おまえから聞いた話が、今回の事件に余りにもタイムリーに絡んでいたからな」

「それは偶然だ。でも役に立てたなら、光栄だ」疑いの目を向けられても、構わず新堀は続けた。

「川端にこんな話もしたな。十二年前、ある少年が友人の母親を恨んでいた話。彼は恨んでいた友人の母親ではなく、その息子、つまり彼の友人を殺した話を」

「それって、速川征太と高瀬咲枝のことだよな?」

「あぁ、実際は親子だったわけだが。彼は保険金という動機を使って、近所の目、マスコミの目、世間の目、警察の目をそこに集中させることで、自らの犯罪をないものにしたって話をした。」最後は息苦しく話した新堀。気が付けば彼のまん前には鬼の形相の真木野、そして彼の手が胸倉をギュッと掴んでいたから、彼は苦しさを感じたんだと知った。

「おまえ、そこまで知っていたのか?」真木野の全身の血管が浮き出ていた。

「あぁ、おまえにもこの話、したぞ。でもおまえは寝てしまっていたから、聞いてなかっただけだ」その姿に、新堀はニンマリとした。そう、前回二人で飲んだとき、確かに途中から記憶がなくなっていた。そして新堀が何かを語り続けていたことも知っていた。しかしそのことを気にも留めていなかった。

「あのときに、もしおまえが俺の話を聞いていたら、今回の事件、もっと簡単に解決できたのかもな」息苦しさで顔が赤くなっても、新堀は厭らしく笑えた。

「そうじゃない。俺に話したか話さなかったかじゃない。何故、あの男に、この話をしたんだ?もしおまえがその話をしていなかったら、所詮凡人だった川端が、このトリックを思い付くことはなかったんだ。おまえが言わなかったら、無実の犠牲者は出なかったんじゃないのか。川端は憎い相手である佐久善治を狙っていたんじゃないのか。もしかしたら、彼女は死なずに済んだんじゃないのか?」

「バキッ」真木野の右ストレートが新堀の頬を捉え、彼は堪らず椅子ごと後ろへと倒れた。

「イテテッテテッ。善治だったら殺されても良かったみたいな発言、現職の刑事さんが云っちゃぁ駄目でしょ?」血の出た唇を舐めながらそう言って起き上がった。そして椅子を起こし、またそれに腰を下ろすと、血で赤く染まった歯茎を見せた。その横に立ったままの真木野の目が大人しくなった。

「俺を捕まえたければ捕まえれば良い?で、何罪だ?」冷めた笑いを向ける新堀。それを黙り込む真木野が一瞥すると、振り返り店の入口へと歩き出した。

「逃げるなよ、真木野」そんな男を新堀が引き止めた。

「逃げてなどいない」足が止まる。

「俺は昔、おまえが大嫌いだった」

「何だ、急に?」ストレートに言われたことで、真木野は振り返り怪訝そうな顔をした。

「でもお前は変わったな。丸くなったよ。昔みたいにデコボコでトゲトゲじゃなくなった」新堀が言った一言に、

「デコボコでトゲトゲってどんな奴だったんだ、俺は?」真木野は無理に笑って見せた。

「何に対しても立ち向かいトコトンやるのかと思いきや飽きっぽい。人が何故か集まるのにそれを寄せ付けない。そして誰にも心を許さない」

「そんなヤツ嫌だろ?」表情で笑い続けるしかない真木野。

「でもおまえはそんなヤツで、人気者だった」

「そんなだったか?」

「そんなだった。あの頃のおまえには、絶対に勝てないと思った。だから俺はおまえのことが嫌いだったんだ」今度は困惑した真木野を、新堀がじっと見つめる。

「何に勝てない?」

「すべてにおいてだ」

「大袈裟だろ?」

「大袈裟じゃない」黙り込む真木野を一人残し、話を続けた。

「でも今のおまえは好きだ」何故などと聞いたわけではないのに、新堀は答えた。

「今なら勝てるからだ、今のおまえにならな」

「そうか」力のない声。

「おまえをねじ伏せられる」新堀がぎろりと眼を剥いた。

「大した自信だな?」それを肌で感じながらも、目線を落とした真木野が彼の方を向くことはなかった。

「当たり前だ。おまえには牙が無くなったんだ。そして臆病者になってしまったんだ。牙はどこに捨てたんだ?部下に慕われて嬉しいか?護るモノがあるって嬉しいか?おまえは社会に順応出来る奴じゃないだろ?」

「人間は変わる。牙なんて昔からないよ。ただつっぱって見られたかっただけだ。本当の姿を見られるのが怖かっただけだ。護るモノがある人間の方が強いって、何かの映画で言っていたぞ」

「俺は認めない。何も護るモノがない強さを、腑抜けになったおまえにいつか必ず教えてやるよ。昔おまえが俺に教えてくれたように。今度は笑って俺がおまえを崖から蹴落としてあげるよ」新堀は赤い顔で笑った。それを鼻で笑った真木野が再び入口へと足を進めた。

「またな」ドアを開けたとき、振り返った先にブラックライトに照らされた新堀が、この世のものとは思えぬ生き物のように彼の目には写っていた。

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