第5話 従兄弟と、刺客と、必殺剣と。

 雪花と紫水が木野宮家で暮らすようになってから、もう一ヶ月以上が過ぎている。同居人が二人増えた生活にも、驚きや戸惑いがまったくといっていいほどなくなっていた。

 木野宮家の邸宅はもともと、家人だけで住むには広すぎる家だったから、余っている客間を二人に使わせることには、何の問題もなかった。一番の問題は優貴の父親だったが、一ヶ月が経ったというのに、彼はなんと、未だに同居人が増えたことに気づいていないようだった。

 もともと仕事一筋――というか、仕事をしていないと窒息してしまうとでも思っているような仕事の虫で、仕事場に寝泊まりしているような人物だった。家に帰ってくるのは着替えを取りにくるときか、家に置いてある資料を持っていくときくらいだ。しかもそういうときは、あらかじめ瑠璃に連絡を入れておいて必要なものを用意させておき、父親本人はそれを受け取って仕事場にとんぼ返りする場合がほとんどだった。

 もちろん、たまには家で寝てから仕事場に戻ることもあった。けれども、そのときだって必要最低限の時間しか家に留まらず、仕事に戻る前に息子の顔を見ていこうだとか、たまには一緒にご飯を食べようだとか考えるような人物ではなかった。

 彼は徹底して、家に拠ろうとはしなかった。自分自身に刻印された「父親」という肩書きを、全身全霊で拒んでいるような人物だった。

 そんなわけだから、父親が帰ってくるというときは、二人のブーツを隠しておくだけで問題なくやりすごせたのだった。

 ――もしかしたら、本当は居候二人の存在に気がついていたのかもしれない。気がついていたけれど、どうこうするつもりがないから黙っていただけなのかもしれない。

 どちらにせよ、二人増えた生活は何の問題もなく続いていた。

 季節は六月半ば。気象庁が発表した梅雨入りまでには、今少しの猶予がある。朝夕の通学路はまだ晴れた空ばかりだ。日の入りも一年のうちでもっとも遅い時季であり、部活を終えた帰り道でもまだ夕方前であることが多い。今日もそうだった。

 帰宅ラッシュを迎えた車道には大小の車両が騒がしく行き交っている。その脇の歩道を、優貴は一人で下校していた。

 空は青く明るいのに、優貴は浮かない顔をしている。

「はぁ……」

 もう何度目かの溜息が口を突く。その溜息が消えるか消えないかのうちに、もうひとつ。

「はあぁ……」

 足取りも重たい。家に帰りたくないという態度が、ありありと表れていた。

 だが、それは正確には少し違う。優貴は家に帰るのが嫌なのではない。明日を迎えるのが嫌なのだった。

 今日は土曜日で、明日は日曜日。世間的にも休日であり、優貴もいつもだったら楽しい気分になっていたところだ、しかし、明日ばかりはいつもと事情が違っていた。なぜなら、明日は木野宮家の主たる親族が集まる用事が予定されていたからだ。

 大分、勿体ぶった言い方をしてきたが、端的に言ってしまえば、こうだ。明日は、優貴の祖父に当たる人物を追悼する集まりがあるのだった。近しい親戚一同で菩提寺に集まって墓参りをした後に、レストランなり料亭なりで昼食会をするというのが恒例なのだが、優貴はその昼食会が嫌で嫌で、いまから憂鬱になっているのだった。

「……明日、風邪をひけないかな」

 優貴はのろのろと歩きながら、真剣な顔で呟いている。でも、自分の声を聞きながら、それが無意味なことは分かりきっていた。わりと金持ちの多くて、自分たちのことを上流階級だと思っている木野宮家の面々にとって、親族の集まりというのは重要な行事なのだ。

 だから、ちょっとやそっとの体調不良を訴えたところで、無視して連れて行かれるのがおちだ。本気で休みたいなら、入院するくらいの怪我か病気になるくらいは必要だった。だけど、優貴にそこまでする気力はなかった。

 嫌な行事でも、たかが半日のことだ。何を言われても我慢していればいい。いままでだって、親族の集まりをそうやって耐え抜いてきたじゃないか。明日だって、これまでどおり、柳になったつもりで聞き流していればいいんだ――優貴は何度も自分に言い聞かせるのだが、溜息は一向に止まってくれないのだった。

 結局、家に辿り着くまでに気分が回復することはなかった。

 少し早めの夕飯を終えてから、雪花にせがまれてテレビゲームを一緒に遊んだり、漫画の解説を求めてきた紫水としばらく話した後も、それから長めのお風呂に入った後も、気分はずっと重たいままだった。

 布団に入ってからも、部活でたっぷり身体を動かしてきたにも関わらず、眠りに落ちるまでしばらくかかった。寝て起きたら日曜日が来てしまうと思うと、なかなか寝付けなかったのだった。

 しかし、どれほど抵抗しようとも眠りは訪れるし、翌日の朝はやって来る。

 日曜日の朝は、カーテンの隙間から差し込む日差しがじつに気持ちいい、抜けるような快晴の墓参り日和だった。

 優貴の父親は昨日も帰ってきていない。瑠璃が言うには、

「いまの仕事が山場を迎えているから、今日も職場近くのホテルに泊まるとのことです。法要にはホテルから直接向かうので、現地で落ち合おうとのことです」

 ……だそうだった。

 それは例年のことだし、自宅に呼んだタクシーに乗るだけだから、優貴一人でも菩提寺まで行くのに支障はなかった。

 木野宮家の菩提寺は、総じてプライドの高い一族には不釣り合いな古寺だった。どこもかしこも古めかしいけれど、手入れは隅々にまで行き届いている。風情とか情緒とかいう形容がよく似合う景観には、駐車場にずらずらと詰め込まれた高級車の群れがじつに似合っていない。これまた年季の入った墓石の前に集まった親戚一同の姿も、死者の眠る静謐な場所に似つかわしいものとは言い難かった。

 これはとくに年回忌の集まりというわけではないから、皆、地味な平服で来ている。背広や制服で来ている者はいいのだが、なかには墓場でパーティをするつもりでいたとしか思えない原色使いのスーツ姿の者、チェックやボタン飾りのたっぷりついたドレス姿の者もいた。ちなみに言えば、どちらも若者ではなく、ご年配のご婦人方だ。

「おじいさまは新しいものや派手なものがお好きでいらしたから、きっとこのくらい明るくしたほうが喜んでくださるわよぉ」

 口元で手を振って、けらけらと笑いながら言っている。その身振り手振りから漂ってくる香水の酸味に、優貴は急いで風上へ逃げるのだった。

 墓参りはとくにどうということもなく終わる。全員、祖父に対しては思うところがあるのか、墓の前ではわりと神妙にしていた。その本性が――優貴に言わせれば、まさに本性である――が発揮されたのは、料亭の離れを借りて行われた昼食会が始まってからだった。

 優貴はほとんど記憶していないのだが、祖父はただそこにいるだけで、良い意味でも悪い意味でも周囲に緊迫感を抱かせる人だったらしい。墓参りすることで祖父に対する畏敬を思い出させられた反動なのか、その後の昼食会では決まって、彼らは下品なくらいに大声で話しながら食事するのだ。ほとんど喋らずにいるのは優貴の父親くらいなものだった。

 優貴はどうなのかと言えば、そもそも物心つく頃にはもう祖父は亡くなっているから、思い出すような緊迫感もない。それに、親族が苦手というか嫌いだということもあって、向こうから話しかけられたら曖昧に笑って相槌を打つくらいだった。後はもう、ひたすら料理に集中するのが常だった。高そうな料亭だけあって、昼食の美味しさだけは、来た甲斐があると思わせてくれるものだった。

 全てを聞き流して食事だけを楽しむつもりだった優貴だったが、隣から聞こえてきたその声を無視することはできなかった。

「おい、和彦かずひこ。おまえ、あの女をまだ自宅に囲っているのか?」

 和彦というのは、優貴の父親の名前だ。その名を呼び捨てにして話しかけてきたのは、和彦の兄――優貴の叔父に当たる人物だ。優貴の父親と顔立ちは似ているけれど、無口な弟と違ってよく喋る人だった。

 優貴の父親は少しだけ迷惑そうに眉を潜めながら兄を見やっただけで、それ以上はとくに反応を示さない。弟のそういう淡泊な態度には慣れているのか、兄は気にせずに言い立てる。

「あの女だよ。ほら、家事手伝いだとかの名目で押しつけられた、あの若い女だ。いや、もうそんなに若くはないのか? まあともかく、そんな女をいつまでも自宅に囲いっぱなしというのは、聞こえが良くないとは思わないのか? 火遊びは火傷する前に止めるべきだ。なあ、そうだろう?」

「兄さんには関係のないことですから」

 父親の返事はその一言だけだった。兄はそれからもしばらく捲し立てていたが、父親がそれに返事をすることはなかった。兄のほうも一頻り捲し立てて満足したのか、そのうちに反対隣の相手と別の話を始めた。ほっとした様子さえ見せずに黙々と食事を続ける父親の姿を、優貴は横目でそれとなく見やりながら、ぼんやりと考える。

 こんなに間近で父親を見るのは、何日ぶり――いや、何ヶ月ぶりだろうか? ここ一ヶ月ばかりは優貴のほうでも父親と顔を合わさないように避けていたけれど、それ以前から、まともに顔を合わせるような生活をしていなかった。間に瑠璃がいるから問題なく過ごせているけれど、瑠璃がいなかった頃はどうしていたのだっけ?

 そこまで考えて、ああそうだった、と納得の吐息を漏らした。

 優貴と父親が疎遠になったのは、瑠璃が家政婦として住み込むようになったのと同時期だった。というより、父親が家を空けがちになったのと、瑠璃が住み込むようになったのは、同じ理由からだった。

 優貴の母親は、周囲から漏れ聞こえてきた評によると、元から母親としては不適格な人物だったという。誰も優貴に詳しいことを教えてくれなかったから、実際のところはどういった経緯だったのか、優貴には分からない。ただ事実として、母親は優貴が六歳のとき、家を出て行った。離婚したのでも、他の男と駆け落ちしたわけでもない。父親の名義で買ったマンションに一人で移り住んだっきり、帰ってこなくなったのだった。

 生活費やマンションの維持費、さらには彼女の交際費までもが、父親の財布から支払われている。一体、父親と母親がどういうつもりで、離婚ごっこのようなことを九年間も続けているのか、優貴にはさっぱり分からない。分かろうという意思も、とうの昔に失せていた。

 優貴はもう、母親の顔が思い出せない。家の書斎にはアルバムがあって、そのなかにはまだ家族だった頃、親子三人で撮った写真も収まっているのだけど、それを見てもまったく、ぴんとこないのだった。

 写真のなかで笑っている女性は、おぼろげな記憶のなかにいる母親の姿とよく似ている。でも、それだけだ。この女性が母親なのだという実感が湧かないし、記憶が間違っていないという確信も抱けない。

 もしかしたら、自分には最初から母親なんて最初からいなくて、この写真は合成したものなのかもしれない。自分の記憶も、この写真を見たときから後付けで創作してしまった嘘の記憶なのかもしれない――。

 優貴にとっての母親とは、実体のない記号でしかなかった。

 母親がそんな人だったことが原因なのか、それとも父親がそうだったから母親が家を出たのか――どっちが先なのか、いまとなってはどうでもいいことだが、優貴の父親も仕事に没頭するようになっていったのもたぶん、母親が出ていったのと時期を同じくしている。

 当時、まだ小学校低学年だった優貴は、夕食代だけを預けられて一人で過ごすことも少なくなかった。優貴ほど電話で出前の注文をするのに慣れた小学生もいなかっただろう。

 そんな状況をどこから聞きつけたものか、木野宮家にとって姻戚筋のひとつに当たる桜川家が連絡を取ってきたのだった。

「年端もいかない子供を一人にするのは何かと物騒です。しかし、余計な人を家に入れるのも、これまた何かと問題を生むかもしれません。そこで、出過ぎた真似だと思いましたが、うちの娘を送らせていただきました。親戚同士、困ったときは助け合うのは当然ですから、どうか遠慮なく家政婦として使ってやってください」

 そのような趣旨の手紙と共に、瑠璃を寄越したのだった。

 着払いの商品を勝手に送りつけて、つい金を払ってしまうと、「受け取ったおまえが悪い」と言って返品拒否する詐欺があるけれど、ほとんどそれと同じやり方だった。

 押しつけられたようなものだった瑠璃を、優貴の父親はしかし、何も言わずに受け入れた。以来、今日までの九年近く、瑠璃は住み込みの家政婦として十二分な働きを続けている。

 父親が瑠璃のことをどう思っているのか、優貴は尋ねてみたことがない。どんな答えが返ってきても、やるせない気分になることが分かっていたからだ。

 だけど、優貴に尋ねる気がなくとも、周囲というのは無遠慮だ。父親の兄が瑠璃のことについて言ってきたのも、さっきが初めてのことではなかった。

 そうした悪意の波濤から瑠璃を守る防波堤になっている父親の姿を目の当たりにすると、優貴の胸には黒い気持ちが込み上げてくるのだ。それが嫉妬という名前で呼ばれている感情だということを、高校生になった優貴は理解するようになっていた。

 食後の水菓子が出てくると、みんな席を立って思い思いに集まり、お喋りに興じ始める。優貴たち親子二人はその輪に混ざらず、水菓子とお茶で食後の満足感に浸っていた。

 だが、優貴たちに他者へ話しかける気がなくとも、向こうから話しかけてこられたら、答えざるをえない。

「よう、久々だな」

 優貴に話しかけてきたのは、同い年くらいの少年だった。優貴はその顔に見覚えがあったけれど、名前が思い出せなかった。

「あ……ええと、うん。久しぶり」

 とりあえず、適当に愛想笑いして誤魔化そうとしたのだけど、相手にはばればれだったようだ。

「なんだよ、おれのこと覚えてないのか。っていうか、おまえは優貴だよな?」

「うん」

「だったら、おれはおまえの親父の兄の息子ってことだ。ついでに言うと、確かおまえの一個上だったと思うぞ。おまえ、高一だろ。おれは高二だ」

「うん、合ってる」

 優貴は頷きながら、そういえば大吾だいごという名前だったっけ、と思い出していた。かなり近い親戚とはいえ、優貴たち親子はとくに他の親族と付き合いが薄いので、今日のような会合の席でもなければ、互いに顔を合わすこともない。名前を覚えていくても、むしろ当然だった。

 少なくとも優貴にとっては、覚えていなくて当然の相手なのだけど、大吾のほうは無遠慮に話しかけてくる。他に歳の近い親戚がいないなから、これまた当然の行動と言えるのかもしれなかった。

「にしても、おまえも大変だよな」

 大吾は馴れ馴れしく優貴の肩を叩きながら、さも同情するかのように頷いている。優貴は、自分が何を同情されているのかと探るように、横目で大吾を見やる。その視線に答えて、大吾は言った。

「おまえのとこ、親父の妾が家に住み着いちまってるんだろ。ほんと、災難だよな」

 瞬間、優貴の頭は白紙になる。何を言われているのか分からなかった。いや、分かりたくなくて、頭が思考することを拒否したのだ。思考停止してる間に大吾が行ってくれればよかったのだが、大吾は優貴の様子に気がつくことなく、つらつらと喋り続ける。

「嫌だよな、こっちが金を持ってると分かると、平気でケツ振って媚びを売ってくる牝豚どもって。あんま大声で言えることじゃないけど、うちでも親父がそんな豚をこっそり外に飼ってたのが母さんにばれて大変だったことがるからな。あんときはその豚が家に乗り込んできて、おれにもとばっちりがくるわで本当、最悪だったぜ」

「……」

「ああ――けどまあ、おまえんとこに住み着いてるのも、中身はともかく顔と身体だけはいいんだろ。どうせ向こうから尻振ってくるんだろうし、溜まったときにすぐ使えるってのは便利そうでいいよな。親父の中古品ってのが玉に瑕だけ――」

 大吾の言葉はそこで不自然に途切れた。

 ――あれ、どうしたんだろう?

 優貴は不思議に思って、大吾のほうに顔を向ける。そこでやっと、なぜか大吾が畳の上でぶっ倒れているのに気がついた。

 それからもうひとつ、気がついたことがある。自分がなぜか右手の拳を固く握り締めていたことに。

「……ああ」

 優貴は、理解と納得の声を漏らす。自分が無意識のうちに大吾を殴り倒していたのだと、理解したからだった。

 真っ白になっていた頭が動き始めると、右拳の痛みがじんじんと響いてくる。どうやら、かなりの力で殴ったようだ。

「くっ、ぅ……何しやがるんだよ、てめえ!?」

 大吾は頬を押さえて身体を起こすと、怒りに滾った目で優貴を睨みつける。

 周りも騒ぎに気づいたようで、優貴と大吾に視線を集中させている。

「おい、どうしたんだ?」

 年配の親族がやってきて、二人に事情を問い質そうとする。大吾が何か言おうとして口を開いたけれど、優貴は勢いよく立ち上がることで機先を制した。

 全員の視線が自分に集まったのを感じたところで、優貴は深々と頭を下げた。

「すいません、彼とちょっとしたことで口論になって、手を出してしまいました。大吾くん、ごめんなさい」

「あ、ああ……」

 大吾は不服げに眉を顰めながらも、その謝罪を受け入れた。いきなり殴られたことに納得がいっていないという顔だけど、親戚一同に見られているこの状況では、度量の大きいところを見せないわけにはいなかった。

 優貴の謝罪で、周りを取り囲んでいた親戚たちの緊張も解け、皆一様にどこか白けた顔でざわざわと話し始める。昼食が終わったこともあるし、本日の集まりはここで解散と相成った。

 大吾はその後、優貴に一度も話しかけてはこなかったけれど、帰り際までずっと頬を押さえて優貴を睨みつけていた。優貴はずっと気づかない振りを通した。

 父親はそのまま会社に向かうとのことで、優貴はまたタクシーを呼んで帰宅することになった。

 一人、自家用車に乗り込む父親のことを、優貴はその場の雰囲気でなんとなく見送る。

 大吾を殴ってしまったことで、さすがに説教されるかもしれない――と危惧していたのだが、父親はいつもどおりの無関心な顔のままだった。優貴はそのことに安堵しつつも、まったく何も言ってこないのは親としてどうなんだよ、と苛立ちを覚えもした。

 だが、やって来たタクシーのほうへ歩き出した優貴の背中に、父親は唐突に声をかけた。

「いいパンチだったな」

 え、と優貴は振り向く。父親はもう車を出していて、見えたのは走り去っていく車の後ろ姿だけだった。

「……せめて怒れよな」

 そう呟いた優貴の顔は、少し笑っていた。


 それは木野宮家の集まりがあった日から二日後の火曜日のことだった。

 放課後、走り込みを終えた優貴たちがいつものようにステージ上で素振りや打ち込みをしていると、普段は他の部活をかかりきりで教えている顧問の教師が珍しく壇上にやって来て、こう言ったのだ。

「他校から練習試合の申し出があったから受けたんだが、問題ないよな」

 顧問の発言に、優貴たちは騒然となった。べつに練習試合することに問題があったからではない。それはむしろ大歓迎だ。騒然となったのは、そもそも練習試合を申し込まれることがあるなどと思ってもみなかったからだ。

 スポーツチャンバラというのは、剣道やフェンシングに比べて歴史の浅い競技である。ルールについても現在進行形で整備されているという状況だ。それだけに、スポーツチャンバラ部のある高校というのは少ない。むしろ、ない。

 優貴たち部員四名の誰もが、他校のスポチャン部などというものが存在するなどとは思っていなかった。それがいま、向こうのほうから練習試合を申し込んできたと言われたのだ。狂喜しないはずがなかった。

 顧問がさらに話したことによれば、練習試合は今週末に相手方の高校にて、とのことだった。相手の高校は、この近所では一番大きな私立高校だった。進学クラスの偏差値もさることながら、スポーツでも有名なところだ。その高校出身の有名なプロ選手もいたりする。

「いやぁ、さっすがスポーツ有名校だよな。剣道が強いのは知ってたけど、スポチャン部もあるなんて、さすがだね」

 部員のなかで一番お調子者の充が、感心そうに言ったものである。

 まさかの練習試合が決まったことで総勢四名の部員は否応なくやる気になり、その日の練習は熱の入ったものになった。また、優貴はその日の夕食の席で、週末に試合があることを瑠璃たち三人にも話した。

「あら、それはよかったですね」

「ほおぅ、試合か。面白そうじゃな!」

 瑠璃は口元を和らげてたぶん微笑み、雪花もふさふさの耳と尻尾を振り立てて興奮している。だが、紫水だけは思案顔だ。

「試合か、ふむ。以前、わたしが腕試しをしてやってから、しばらく経つが……あれから少しは強くなっているんだろうな? あのときから進歩がないようでは、試合になるかどうか怪しいものだぞ」

 その指摘は、優貴自身ももっともだと思っていた。

「おれだって一ヶ月前に比べたら進歩していると思うよ。でも、試合になるかどうかと言われたら、正直なところ自信がない。だから、きみにお願いしたいんだ」

「わたしにお願い?」

 怪訝そうに聞き返してきた紫水に、優貴は箸を置くと背筋を正して言った。

「紫水さん、明日から週末まででいいので、おれたちのコーチになってください。どうかひとつ、何卒よろしくお願いいたします」

 椅子に座ったままではあるが、両手を膝に置いて後頭部を見せるくらいに頭を垂れて、優貴は紫水にお願いした。これは、優貴が一人で考えたことではない。今日の部活が終わった後、充が提案して、浩志と隆も賛同したことだった。

「え、え……ええと……」

 紫水はいきなりのことに面食らっている。するとそこへ、雪花が面白げに口を挟んできた。

「よいではないか、紫水。われらはかりにも居候の身。数日、剣の稽古をつけてやるくらい、問題なかろう」

「はぁ……それはそうですが、わたしは姫様の護衛が任務ですから、姫様の傍を離れるというわけには……」

「それなら問題ない。わらわも一緒に学校へ行けばいいだけじゃ。べつに問題はないじゃろ、優貴?」

「うん、大丈夫。部活のコーチをお願いした人と、その人の妹だとかで通せば、数日くらいは問題ないと思う」

 優貴が答えると、雪花は大きく頷いた。

「よし、決まりじゃ。わらわと紫水は、明日からしばらく、優貴の師匠じゃ。わらわたちの指導は厳しいぞ。心して取り込むのじゃな、かかかっ」

 楽しげに高笑いする雪花に、師匠になってもらうのは紫水一人だけなんだが、と口のなかで呟いて苦笑する優貴だった。紫水は急に緊張した様子で、夜色の耳と長い尻尾をぴりぴり震わせていた。

 翌日の放課後から早速、紫水に稽古をつけてもらうことになった。

 放課後になってすぐ、待ち合わせの場所として指定した校門前で優貴が待っていると、紫水と雪花がやってくる。二人とも、以前と同じような服装だ。雪花はオーバーオールに、幻術で耳と尻尾を化けさせたリボンという姿。紫水はフード付きのパーカーにタイトジーンズ、耳はフードを被って隠し、尻尾は腰にくるっと巻いてベルトに見せかけている――という出装に加えて、雪花の幻術で傘に偽装させた剣を片手に握り締めている。

 体育館まで案内した二人に、優貴は今朝のうちに購買部で買っておいた上履きを差し出す。

「本当は裸足がいいんだけど、靴下でやられるよりはましだから、こっちに履き替えておいてくれ」

 そう言って渡された上履きに、二人は文句を言わずに履き替えた。

「本来なら、最低でも踝をすっぽり隠すだけの長さが欲しいところじゃが、われらも大分、こちらでの身なりに慣れたものじゃな」

 文句のような自嘲のような台詞はあったけれど、嫌がっている様子はなかった。靴を履いておけることに少なからず安堵しているようでもあった。購買で売っている最小サイズの上履きでも雪花にはぶかぶかで歩きにくそうにはしていたけれど、大人しく見学している分には何の問題もなかった。

 それから間もなく始まった紫水の指導は、苛烈の一言だった。

 いつもは唯一のスポチャン経験者である浩志が、まったくの初心者である優貴と充に教えるというやり方だった。中学まではずっと剣道を続けてきた隆については、剣道とスポチャンとでのルールの違いを教える以外、浩志にも教えられる余地がなかったため、剣道ではやってこなかった臑の狙い方や、臑を狙われた際の対処について一人で練習しているような状況だった。

 紫水はそうした現状を聞いた上で、まず部員四人と改めて対戦し、この一ヶ月でどのくらい成長したのかを確認した。それから、個別に問題点を指摘しながら実戦形式で指導を施した。

 実戦形式で指導、と言えば聞こえはいいけれど、要するに試合という名で部員たちを一人ずつこてんぱんに打ちのめした上で駄目出しして、さらに打ちのめし、さらに駄目出しした――ということだった。

 指導が次の部員に移った後は、駄目出しもとい指摘された問題点を直すべく素振りしているように言い渡されるのだが、皆一様に死んだ魚の目で素振りをしていた。時間にすればたった数十分ずつの地稽古で、紫水は部員たち全員の自信をぼっきりとへし折ったのだった。

 下校時刻を迎えた後の帰り道、優貴は紫水に苦言を呈した。

「あれはちょっとやりすぎだったんじゃないか? 練習試合まで時間がないのに、みんなを自信喪失させてどうするんだよ」

 しかし、紫水は頭を振って、厳しい目つきで言う。

「逆だ。試合まで時間がないから、荒療治するしかないのだ」

「……どういうことさ?」

「じっくり時間をかけて矯正していく暇がないから、邪魔な癖や経験を乱暴にでもぶち壊して、きちんとした基礎を叩き込み直す。それが一番、手っ取り早いんだ」

「そのほうが余計に時間がかかると思うんだけど、そういうものでもないのか?」

「それが分からない程度の連中を、あと三日で形にしないといけないのだ。我ながら、安請け合いをしてしまったと後悔しているぞ」

「……おれや充については反論の余地もないけれど、浩志と隆は十分に地力があるだろ」

 自分のことについては言い返せない以上、優貴の反論は経験者二人を引き合いに出すことになる。

 紫水は思い出すように目を細めた。

「浩志というのは、唯一の経験者だとかいう輩のほうだな。あれは、わたしに言わせれば、曲芸だな。ぱっと見は様になっているが、一撃一撃が話にならないほど軽い。あれでは、どうぞ打ち返して反撃してください、と言っているようなものだ」

「て、手厳しいな……でも、隆のほうはどうだ? 剣道ではかなりいい線までいってたとも聞くし、もっと実戦的なことがしてみたくてスポチャンを始めてみたっていう、あれで結構、好戦的なやつだ。一撃が軽いってことはないだろ」

「ふむ……そうだな、確かにあいつだけはなかなか見所があるな。足下を気にしすぎている節があったが、時間があれば独力で克服していたかもしれん」

 紫水は表情を緩めて、感心した様子を見せる。けれど、すぐにまた眼差しを険しくして続けた。

「だが、攻め倦ねるとすぐに太刀筋が荒れるのはいただけない。あの短気で熱しやすい性格をなんとかしなければ」

 紫水の言葉を、優貴は驚きの顔で聞いていた。

 優貴が隆と知り合ったのは今年の春、入部したときだから、まだ数ヶ月の付き合いでしかないけれど、隆のことは無口で物静かなやつだと思っていた。それを紫水は、短気で熱しやすい、と表したのだ。

「なんだ、優貴。変な顔をして」

 優貴の顔に気づいた紫水が、不思議そうに小首を傾げる。

「いや、隆が短気で熱しやすいっていうのは違うんじゃないかな、と思ってさ」

「それは、貴様があの少年の本質を分かっていないだけだ」

 紫水はどこか得意げに笑う。

「剣を交えるというのは、その交えた剣を通じて互いの本質を伝え合うことだ。それが分からないようだから、貴様らはまだまだ弱すぎるというのだよ」

「……そんなものなのか?」

「そんなものだ」

 紫水は楽しげに笑う。フードのなかで、猫耳も楽しげにひょこひょこ揺れていた。

 翌日以降も、紫水の指導は熾烈を極めた。

 棒状のゴムを空気で膨らませたソフト剣で打ち合っているのに、優貴たちの身体はどこもかしこも痣だらけだ。なのに、優貴たち四人を一人で相手にしている紫水の身体には痣なんて、まったくできていない。

「打たれるのは、打たれたら困るところに打たれるからだ。打たれて困らないところに打たれるようにすればいいんだ」

 紫水はそう言うのだけど、その説明で納得したのは隆だけだ。

「それってどういう意味だよ。ちゃんと教えてくれよ」

 優貴が三人を代表して聞いたのだけど、紫水の答えは明快だった。

「教えるも何も、そのままの意味だ。聞いてすぐに分からなかったのなら、それはまだ稽古が足りていないということだ。分かるまで、わたしの剣で打ち据えられろ!」

 そして三人はまた一人ずつ、問答無用で紫水に叩きのめされるのだった。

 そんなふうにして、週末までの三日間は飛ぶように過ぎ去った。練習試合の当日を迎えた日には、四人とも全身が打ち身と擦り傷と筋肉痛で、ぎしぎしと軋んでいた。

「試合当日なのに、このコンディションって……すまない、みんな」

 相手の高校に行く前、自分たちの高校に集まったところで、浩志は他の部員三名に向かって深々と謝罪した。部長であり、部を立ち上げた当人である浩志は、貴重な同じ高校生との練習試合なのに部員全員が最悪の体調で臨まなければならなくなったことに責任を感じているようだった。

「いや、悪いのは無茶な特訓をやらせた紫水だ。浩志が責任を感じることじゃないだろ」

 優貴が慰めるのだけど、浩志は聞き入れない。

「いや、紫水さんに特訓してもらおうと最終決定したのは部長のおれだ。だからやっぱり、おれのせいだ……」

 真剣な顔で落ち込んでいる浩志のこと、充がいつもの調子でへらへらと笑った。

「それこそ気負いすぎだっての。なんでもかんでも自分のせいにすりゃいいってもんじゃないっての。ってか、スポ根気分で紫水軍曹のスパルタに最後まで付き合ったのは実際、おれら全員なわけだし、体調管理なんてさっぱり考えてなかったのも、おれら全員だろ。あでもっ、おれは最後まで反対してたし、責任問題ってことで言えば、おれが一番無責任だよな。って、なんかこの言い方は違うか?」

 充の軽々しい言い草に、浩志は最初こそ憮然としていたけれど、聞いているうちに表情を和らげていった。

「……まあ、いまは責任が誰にあるかを言っている場合じゃないか」

「そうだよ」

 と、すかさず優貴も言った。

「そういう小難しいことは集中の邪魔になるから、試合が終わるまで考えない。いまは試合に集中。そうだろ?」

「……だな」

 浩志が降参を認めるように肩をすくめた。その横で隆も、その通りだ、と言わんばかりの態度で頷いている。

「で――おまえたちはいつまで、その茶番を続けるのじゃ?」

 優貴たちスポチャン部員の青春劇を一歩離れたところでつまらなそうに眺めていた雪花が、つまらなそうに言い放った。

「あ……」

 雪花の一言で急に恥ずかしくなった部員たちは、誰ともなく溜息のような声を漏らすと、咳払いしたり、誤魔化すように笑ったり、ふっと横を向いたりする。

 優貴も少し熱くなった首筋を撫でながら、雪花たちに振り返った。雪花の隣にはもちろん、紫水もいる。紫水はスポチャン部のコーチとして、雪花は監督として、試合を見届ける義務と権利があるのだ――とか主張して、優貴についてきたのだった。

「ええと……待たせて悪かったな。じゃあ、そろそろ行こうか」

「うむ」

 優貴の言葉に、雪花は鷹揚に頷いた。

 紫水と雪花の服装は、一ヶ月前、初めて優貴の前に現れたときとほとんど変わらないものだった。ここ最近は現代日本の一般的な装いが板についていたと思ったのだが、今日はこの格好で行くのだと言い張って、断固として譲らなかった。

「今日は特訓の成果が試される大事な日だ。わたしが直接戦うわけではないが、その場に立ち会うからには軍装で臨むのが当然のこと。こればかりは譲らんぞ!」

 これは今朝、「ついてくるのはいいけれど、せめて普通の服を着てくれ」と懇願した得優貴に対して、紫水が決然として言った言葉である。

 雪花もまた、紫水と同じことを言う。

「一から十までまったくもって紫水の言うとおりじゃ。わらわもブカツドーの監督として相応しい衣装で臨席するぞ。よいな」

 おそらく雪花本人の考えではなく、正装するべきだという紫水の言に感化されてのことだろう。理由はどうあれ、優貴にはとうとう、二人に着替えてもらうよう説得することができなかった。それでも、紫水にはマントを、雪花には王冠を脱いでもらうとことを聞き入れてもらい、どうにか体裁を繕うことには成功していた。

 改めて二人の服装を描写すると、紫水は大きめのキャスケットで耳を隠し、黄色いトップスと臙脂のミニスカートが一体になっているワンピースの上に淡い桃色の長袖シャツを着て、足下にはスカートと同色のブーツ、小脇に傘を抱えているという出装だ。尻尾は腰で巻いてベルトにしている。

 雪花のほうは、赤いスカーフがワンポイントになっている白い長袖ワンピースと青いショートブーツという装いだ。ふさふさの耳と尻尾は、例によって金色のリボンに見せかけてある。

 なお、優貴たちは部活動の一環として他校へ赴くということもあり、四人とも標準服だった。私服通学が許可されているとはいえ、対外的な場面では標準服を着るのが慣例なのだ。

 総勢六名は移動を開始した。

 顧問の教師は、掛け持ちで顧問をしているバレー部のほうでも今日、大事な試合があるということで、そちらに同行していってしまっていた。本来なら代理の教師に同行してもらわないといけないところなのだが、相手校とは徒歩で行き来できる距離であることもあり、部員たちだけで行くように言い渡されていた。

「あの適当顧問、代理で一緒に言ってくれる先生が見つからなかったとか言ってたけど、あれは絶対、代理を探してなかったよな」

 教師が同行しないことについて、充がそんなふうに文句を言ったことがあった。他の三人もその意見に同感だったりするが、余計なことを言ってせっかくの練習試合がふいになっては堪らないから、騒ぎ立てることはなかったけれど。

 練習試合の場所である相手校校は、優貴たちの高校から徒歩十五分ほどのところにある。優貴たちの高校より二倍か三倍は広そうな敷地を誇っていて、外から見ただけでも、校舎や体育館やその他施設の大きさ、綺麗さに圧倒される。

 正門の前まで来たところで、六人の足は自然と立ち止まる。

「でかいな……」

 浩志の呟きに、優貴と充もこくりと頷いた。

 今日は休日だというのに、校内は校庭や体育館から伝わってくる活気と喧噪で満ちている。運動部の生徒たちにとっては、休日こそが本番なのだろう。優貴たちだってそれは同じはずなのだが、規模の違いに圧倒されてしまっていた。

 だが、全然圧倒されていない者が二名いた。雪花と紫水だ。

「これはまた大きな学校じゃな」

「はい、姫様」

「学校が大きいということは、ブカツドーの門弟も多いということじゃろう? そうなれば、手練れの剣士がいる可能性も高いのじゃろうな」

「はい、姫様」

「胸が躍るな!」

「はい、姫様!」

 まるで芝居というかコントのような遣り取りを始めた二人に、息を飲んでいた優貴たちも思わず失笑した。

「なんだ、貴様ら。何がおかしい?」

 むっと眉間に皺を寄せる紫水に、優貴はまだ少し笑いながら手を横に振った。

「いや、すごい強気だなと思ってさ」

「強気で当然。わたしたちはいま、敵地に乗り込まんとしているのだぞ。奢るのは問題外だが、強気に行かなくてどうする」

 紫水は、当たり前のことをわざわざ言わせるな、という態度で優貴たちを睥睨した。

 浩志が朗らかに笑った。

「ははっ、紫水さんの言うとおりだ。おれたちを容赦なくぼこぼこにしてくれた紫水さんに比べたら、相手校に乗り込むくらい、どうってことないって思えてくるな」

「あ……確かに。あれに比べたら、試合するほうがなんぼかマシって気がしてくるぜ……」

 充が少し芝居がかった仕草で自分の身体を抱きすくめて、ぶるるっと怖がってみせた。

「あはは、言えてる」

 一緒になって浩志も笑う。充もさらに笑おうとして、紫水が憮然とした顔をしているのに気がつき、慌てて目を逸らす。その反応に気づくのが遅れた浩志は、紫水に真正面から睨みつけられて本気で顔を青くするのだった。

 優貴と隆は図らずも目を見合わせて、苦笑を浮かべ合う。

「まったく、緊張感のないやつらじゃ!」

 雪花は腕組みをして、憤然と鼻息を荒げるのだった。

 そこに、校内から近づいてきたジャージ姿のの男子生徒が、優貴たちに声をかけてきた。

「すいません、多嘉良たから高校スポーツチャンバラ部の皆さんですか?」

「あ、はい。そうです。おれが部長の田上です」

 浩志が六人を代表して進み出ると、相手は軽く一礼して自己紹介した。

「ぼくは、ええ……この高校のスポーツチャンバラ部の部員です。練習場まで案内しますので、どうぞ、こちらへ」

 六人は彼の案内で門をくぐる。校舎を横目に見ながら歩いていった先は、第一体育館、第二体育館と並ぶようなところに建てられた武道場だった。

 体育館が二つもあることにも、体育館とは別に武道場なるものがあることにも、優貴たちはすっかり圧倒されてしまった。武道場のなかに入ったときには、最初に校門前で校舎を見上げたときの萎縮した気持ちに戻ってしまっていた。

 武道場は三階建ての小さな体育館みたいな施設で、一階が板敷きの多目的ホール、二階が畳敷きの柔道場、三階が板敷きの剣道場になっていた。優貴たちが通されたのは、三階の剣道場だった。

 階段を上がった先、踊り場の横に見える重たい引き戸を開けてなかに入ると、窓を開けていても汗臭い板張りの空間には、ジャージを着た男子生徒数名が集まって、だらだらとお喋りしたり、ソフト剣で時代劇ごっこをしたりしていた。

 優貴たちが入ってくると、彼らは一斉に振り返る。どいつもこいつも、えらく体格のいい者ばかりだ。ソフト剣の構え方も堂に入っていて、見るからに強そうな連中だった。

 もうこの時点で、優貴たちはこれ以上ないほど完璧に呑まれてしまっていた。いや、部員四名のうち隆だけは、少なくとも見た目はいつもと変わらない様子だったが。

 しかし、優貴と充の武道未経験者二名は、完全に竦み上がっていた。浩志の顔色も微妙に青ざめていたけれど、部長の自分が弱気になってはいけない、という責任感が勝ったようだ。優貴と充に向けて、不敵に笑いかける。

「お……おいおい、二人とも。いまから膝が笑っているで、どうするんだよ。紫水さんの特訓を思い出せよ」

 実際には、不敵というには引き攣った笑いだったけれど、二人の強張っていた顔を少し緩めるくらいには役立った。

 その意気を引き継ぐように、二人の背中を紫水が両手でばしぃんっと思いっきり叩いた。

「そのとおりだ。わたしは、貴様らに生半可な稽古はつけた覚えはないぞ。それとも、あの程度ではまだ地獄を見足りなかったか!?」

「いっ、いいえ!!」

 二人は跳び上がるように背伸びすると、顎を上げて同時に叫ぶ。紫水がさらに言葉の鞭を振るう。

「だったら、この足の無様な震えは何だ!? まさか足が竦んでいるのか!?」

「いいえ!!」

「では、なぜ震えている!?」

「これは武者震いです!!」

「ならばよろしい!」

「はい!!」

 何度目かの大声を発したときには、二人の手足を縛っていた震えもどこかへ消えていた。

 いきなり軍隊ごっこを始めた優貴たち三人を、浩志と隆は苦笑しながら見ている。雪花はなぜか満足そうに踏ん反り返っている。相手校の生徒たちは、ぽかんとした顔で優貴たちを見ている。その視線は少しくすぐったかったけれど、さっきまでの緊張に比べたら、微風のようなものだった。

「いきなり面白いものを見せてくれたな、優貴」

 微風のような視線を掻き分けて近づいてきた相手校の生徒が一人、馴れ馴れしい態度で優貴たちのほうに近づいてきた。それはつい先日、優貴が顔を合わせたばかりの相手だった。

「あっ……」

 優貴は思わず相手を指差した。

 だけど、相手の素性は顔を見た瞬間にぱっと思い出せたのに名前が出てこなくて、口を半開きにしたままで止まってしまう。

 相手のほうが待ちきれなくなって、苛立った声で自分から名乗った。

「大吾だよ! おまえの従兄弟の!」

「ああっ」

 喉元まで出かかっていた名前を思い出せて、優貴は嬉しがった。が、直後、不快下に眉を顰めた。先日、顔を合わせたときのことを思い出したのだ。

 あの日の一件について、優貴と大吾とでは認識が百八十度違っているかもしれないけれど、少なくともお互いに相手とは二度と話したくないという点では一致を見ている――と、優貴はそう思っていた。

 それがどうして、大吾はいま、馴れ馴れしく話しかけてきたのか……?

 戸惑っている優貴の様子に、大吾は満足そうに顔を歪めて笑う。

「あんときは不意打ちで殴ってくれて、ありがとよ。その場で殴り返してやってもよかったんだが、それじゃおまえと同じレベルに落ちちまうことになるからな」

「……」

 憎しみの目で嘲笑ってくる大吾を、優貴は黙って見ている。べつに返事は期待していなかったのか、大吾は構わずに続ける。

「おれは、おまえと違う。無駄な喧嘩はしない。だが、部活の練習試合となれば話は別だ。おまえが、もう許してください、と泣いて懇願するまで、滅多打ちにしてやるからな」

「いや、それはたぶんルール違反になるから」

 冷静に言い返した優貴に、大吾はちっと舌打ちをする。

「そうやって下らないことを言っていられるのも、いまのうちだ。スポーツチャンバラだかなんだか知らないが、こっちは剣道の有段者を揃えてあるんだ。もちろん、おれも剣道はそこそこやるほうだ。で、おまえは高校から始めたにわかなんだろ?」

「……」

 優貴が無言をもって肯定すると、大吾はますます嵩にかかる。

「ハッ! おれたち剣道有段者軍団と、チャンバラごっこしか知らないおまえらとじゃあ、どうせ練習にもならないだろうから、せいぜい無様に足掻いて楽しませてくれよ!」

 大吾は高笑いとともに丸っきり悪役そのものの台詞を言い放って、自分の仲間が集まっているほうへ戻っていった。

 大吾が行ってすぐ、浩志が小声で優貴に尋ねた。

「……なんだったんだ、優貴。あれ、おまえの知り合いなのか?」

「残念ながら親戚だ」

 優貴は苦虫を噛み潰した顔で呻く。浩志はもっと詳しく聞きたそうな顔をしつつも、そうか、と首肯しただけだった。

 そこへ、優貴たちをここまで案内した男子生徒が、道場の外か戻ってきた。彼は優貴たちを案内した後、

「じゃあ、先生を呼んできます」

 と言って、またすぐ出て行っていたのだ。だから、教師と二人連れで戻ってこないといけないのだが、彼は一人だった。

「おい、先生はどうした?」

 大吾が不機嫌そうに聞くと、彼は申し訳なさそうに身を縮める。

「すいません。なんか、会議が長引いているとかで、もう少し時間がかかるから、それまで待っているように……と」

「そんなの待ってられるか。そんな役に立たない顧問ならいなくていい。おれたちだけで試合、始めるぞ」

 大吾は舌打ちするや、不機嫌そのものの顔で宣言する。

「え、でも……」

「おれがやると言ったら、やるんだ!」

 大吾の怒声に、反論の声は上がらなかった。優貴たちはもちろん、大吾の仲間であろう相手校の面子も、面白くなさそうな感情を顔に出しただけで、口には何も出さなかった。

「あっ、みなさんの着替えなんですけど、」

 優貴たちを案内してくれた彼が、部長である浩志に話しかける。

「ここ、更衣室はないので、いっぺん外に出ることになっちゃいますけど、部室まで案内しますね」

「あ、べつにここで着替えてしまっていいんですけど」

「えっ」

 彼は驚きに目を丸くする。見ているのは、浩志の後ろに立っている紫水と雪花だ。浩志もその視線に気づいて、苦笑した。

「この二人は部員じゃないです。うちのコーチみたいなもので」

「ああ、はぁ……」

 彼がまだ微妙な顔をしながら、偉そうに腕組みしている雪花を見ている。

「あっちの子は、うちらの監督なんだそうで」

 浩志が笑い混じりに、こそっと小声で告げた。彼は笑っていいのかどうか迷うような中途半端な顔をする。

「でも、いいんですか?」

 今度は浩志が、眉を寄せつつ話しかけた。

「え?」

 聞き返した相手に、浩志は続ける。

「生徒だけで来てるうちが言うのもなんですけど、顧問の立ち会いなしで勝手に試合をするのって、後で問題になったりしません?」

「ああ、それは心配なく」

 彼はどこか疲れたように笑うと、ちら、と横目で大吾を見やる。

「あいつ、信じられないほど偉そうだったでしょう。なんでだと思います?」

「え……スポチャンが強いから?」

「外れです。というか、あいつも含めておれたち全員、本当は剣道部なんですよ。なのに、あいつに無理やりチャンバラやれって集められただけなんです。本当、いい迷惑ですよ……って、これは失言でしたかね」

 彼は全然、失言だと思っていない顔で言う。浩志のほうでも、こうも真っ向から言われると苦笑しかできなかった。彼はよほど鬱憤が溜まっていたのか、小声ながらも、ここぞとばかりにべらべら喋る。

「あいつの親父、うちの学校の大口寄付者なんですよ。だから、教師は誰もあいつに逆らえないんです。だから、勝手にチャンバラ部なんてものを作って、剣道部のレギュラーを強引に部員登録させても、誰も文句が言えないってわけなんです。ね、最悪でしょう?」

「はあ……」

 浩志は曖昧に首を傾げただけだったが、内心ではひどく落胆していた。

 自分たちと同じスポチャン部と試合ができると意気込んできたのに、どうやら相手は歴としたスポチャン部ではないらしい。大吾とかいうやつが親戚の優貴に意趣返ししたいがためだけに形だけ整えた張りぼてで、その実体は剣道部員たちを寄せ集めただけの、やる気に欠けた集団らしい。

 この一週間、全身の肉と関節が悲鳴を上げるほどきつい特訓に耐えたり、足が震えるほど気負ったりしたのが馬鹿みたいに思えてくる。

 相手は、浩志が落ち込んでいることにも気づかず、ここぞとばかりに愚痴りまくる。

「おれたち、剣道部のレギュラーですよ。大会も控えているんですよ。こんなことしてる場合じゃないんですよ。でも、本気でやって勝たなかったら顧問に言ってレギュラー外させるぞとか無茶を言いやがるんですよ、あいつ。こんなんで負けてレギュラー外されたら、おれ、自殺しちゃいますよ」

 しかも、愚痴に紛れて、さり気なく牽制まで入れてくる。天然で言っているという線もなくはなかったが、浩志は相手の目が一瞬、きらりと光ったのを見逃していなかった。

 相手はまだ色々と精神攻撃を仕掛けてきたかったようだが、向こうから大吾の苛立った声が飛んできて、それを邪魔した。

「おい、何やってるんだ。敵とくっちゃべってんじゃねえぞ!」

「あ、はい。いま戻ります!」

 振り向いて大吾に返事した彼は、最後に小声で、

「じゃ、お互い不本意だとは思いますが、頑張りましょう」

 そう言うと、小走りで仲間たちのほうへ戻っていった。

 その後、優貴たち四人は道場の隅で、Tシャツにジャージのズボンという格好に着替えた。その間、雪花と紫水は反対側の隅っこで反対向きに立っていた。雪花はわりと興味津々だったりしたけれど、紫水が両手で顔を抱き締めるようにして彼女の目をがっちり覆い、盗み見るのを断固阻止していた。

 四人がジャージに着替えると、しばらくは両校別々に剣を振って身体を温めた。それも十分間程度で大吾が音頭を取って止めさせ、全員を道場の中央に並ばせた。

 両校の生徒は二列に並んで正対する。なお、紫水と雪花は隅に座って見ていた。紫水は帽子を脱ぐわけにいかないので、優貴たち四人と一緒に並ぶわけにはいかなかったのだ。

「よろしくお願いします!」

 声を張り上げて互いに挨拶する高校生男子どもを見ている紫水の目は、どこか羨ましそう、あるいは悔しそうだった。

 試合形式は、非・勝ち抜き戦方式ということで決めてあった。相手のほうはちゃんと五人いたけれど、優貴たちが四人しかいないので、全部で四戦の勝負になる。勝ち星の多いほうが総合勝利で、二勝二敗のときなどは代表戦を行うことになっている。

 なお、例によって審判はいない。相手校のほうが一人多いから、優貴たちを案内してきた生徒が審判役を務めることになったけれど、

 第一試合は、充が出た。本人が、最初がいい、と志願したのだ。

「おれ、嫌いなおかずは最初に食べる主義なんだよね。あと、苦手な教科は真っ先に片付ける主義」

 という理由での志願だった。

 相手方から出てきたのは、丸刈りで厳つい顔つきに大柄な体格の、いかにも体育会系といった少年だ。ノリも見た目も軟派な充とは、まさに正反対の相手だった。

 なお、相手方は全員が剣道部ということだったが、袴姿ではない。スポチャンの試合では衣服に当たっても有効打と見なされることがあるのくらいは、事前に勉強してきたようだった。

 試合は、まずはゆっくりとした立ち上がりから始まった。さっきの彼が本当のことを言っていたのだとしたら、相手はスポチャンに興味などないけれど、この勝負には剣道部のレギュラーが懸かっていることになる。慣れないルールだからといって、負けるわけにはいかないのだ。まずは相手の出方を探ろうとするのは自然なことだった。

 対する充のほうはどうかというと、こちらも初めての対外試合に緊張しきっていた。勢いで先鋒を買って出てはみたものの、いざ相手と対峙してみると、向かい風のようにぶつかってくる威圧感に四肢が強張って、ただ剣を構えているだけでも息が上がってくるのだった。

 剣道の構えそのままに両手で長剣サイズのソフト剣を握る相手と、片手半身で小太刀を構えて立つ充。二人はしばらく、相手を呼び込もうとするように剣を揺らしているばかりだったが、そのうちに相手の顔つきが変わった。

 あ、こいつ素人だ。緊張でガチガチになってやがる――そう気づいたのだ。

 直後、試合が動いた。

「キエエェッ!!」

 金切り声のような雄叫びを上げて、相手が斬り込んできた。

「ひっ」

 充は相手の気迫に呑まれていたけれど、それがかえってよかったのか、考えるより速く身体が動いていた。

 相手の剣が充の面に打ち下ろされたのと同時に、充の剣は相手の肩口を打っていた。相打ちである。

 先に動いたのは相手のほうだったが、身体を真正面に向けた両手持ちと、利き手側の半身を前に出した片手持ちとでは、打ち込んだ剣の届く速さが違う。その結果、辛うじて相打ちに持ち込めたのだった。

 スポチャンで一般的なのは一本勝負だが、今回は三本勝負である。そして、相打ちは互いに一本ずつ取ったとして扱われる。すなわち、次の一本を取ったほうが勝者だ。

 三本目は十秒ほどで決着がついた。相手の剣が、充の剣を握っている手を打ったのだった。小手有り一本である。

 さっきは面を狙ったから踏み込みに必要な距離の分だけ相打ちになってしまったが、それを学習して今度は、充の身体のなかの一番手前に出されている、小太刀を握った利き手を狙ったのだった。

 その目論見は見事に嵌り、充は手を逃がすこともできずに小手を打たれて、剣を取り落としたのだった。

「す……すまん……」

 優貴たちの元に戻ってきた充は、いつになく落ち込んでいた。

「気にするなって、いい試合だったじゃないか。初めてであれだけやれたんだ、十分さ」

 浩志が笑って励ますのだけど、その笑顔がとても朗らかなものとは言えなかったために、逆効果にしかならなかった。

「ほんともう、なんでもうちょっとこう……ああっ、あんなに特訓したのに……本気で頑張ったのに……ほんとにおれはもう、なんで……!」

 慰められたことが引き金になったようで、充はくしゃっと表情を歪めたかと思ったら、首を直角にまで曲げて俯いてしまった。顔を覗き込むまでもなく、小刻みに震える肩と強く握り締められた両手が、充が涙を堪えているのだと語っていた。

「充……」

 浩志も声をなくしてしまう。優貴も戸惑うばかりだし、隆もいつも以上にきつく唇を引き結んでいる。いきなり訪れたお通夜ムードに、優貴たち多嘉良高校スポチャン部の士気はどん底まで急下降してしまった。

「下を向くでないわ、馬鹿者ども!!」

 叱咤の罵声は、四人の足下から上がった。四人は一斉にそちらを見たから、残念ながら、下を向き続けることになった。

 声の主は、両手を腰に当てて仁王立ちする雪花だった。大きく見開かれた両目は、炯々と燃えている。

「下を向くのは敗者のすること。おまえたちはもう負けたのか?」

「いや、まだ一敗しただけだから――」

 浩志が答えるや、雪花の両眼が火を噴いた。

「そのとおり! おまえたちはまだ負けていない。たかが一敗しただけじゃ。下を向くには百年早いわ!」

 百年早いという言いまわしが適しているのかは、この際、些事だ。雪花の一喝は、四人の胸を強く打った。息が止まったかのような顔をした後、四人は誰からともなく、くっくっ……と肩を震わせて笑い始めた。

「むっ……何がおかしいか!?」

 顔を上げろと言ったのも聞かずに俯いたまま笑い出す四人に、雪花は唇を尖らせる。

 優貴は笑い声を噛み殺しながら言う。

「おかしいよ。だってさ、なんできみが一番偉そうな顔で、いいことを言うんだよ」

「なぁ!? なんだじゃあ、その言い草はぁ!!」

 目を剥いた雪花に、優貴以外の三人もいっそう肩を揺すって笑う。

「ふ、ふふっ……あんまり笑うなよ、優貴……ふふふっ」

 小さい子が励ましてくれたのに笑っちゃ悪いぞ、と言いながら、自分でも笑いを堪えきれていない浩志。

「前から思ってたけど、お嬢ちゃんは賢いなぁ。きっとお姉さんの教育がいいからなんだろうなぁ」

 充は雪花の頭にぽんぽんと手を載せながら、紫水に秋波を送っている。その紫水はといえば、優貴たちに昂然と檄を飛ばした雪花の勇姿に、涙ぐみそうなほど感激していた。

 隆はまあ、あまりいつもと変わらない。ただ、よく見ると唇の端っこが、むずむず震えていたけれど。

「貴様ら、姫様の仰るとおりだ」

 感涙の涙を飲み込んだ紫水が、ずいと前に出てきて雪花の横に立つ。身長差はそれほどないので、真正面から四人を見据えているのだけど、優貴たち四人には高みから見下ろされているかのように錯覚された。

 紫水は四人をぐるりと見渡しながら言う。

「いまの一戦を見たかぎり、敵方の太刀筋は中村なかむらのものと同派だな?」

 中村とは隆のことだ。その隆が頷いたのを見て、紫水はさらに続ける。

「であるならば、その剣の弱点も中村と同じだ。そうだな」

 四人はそれぞれの仕草で頷く。優貴と浩志は顎を引くように、充は子犬のようにこくこくと、隆は目を瞑りながら。

 紫水はそれらを見やって、満足そうに口元を緩めた。

「そうだ、その顔だ。それでいい」

 四人はいつの間にか、不敵な顔で笑っていた。

 第二試合に出たのは浩志だ。

「優貴、おれが勝ち筋を見せてやる。見逃すなよ」

 浩志は珍しく押しの強いことを言って、出ていった。

 第一試合は小太刀と長剣の戦いだったが、今度は長剣と長剣の戦いだ。得物の長さで有利不利はない。その差を分けるとすれば、剣の構え方だ。

 浩志が取る片手半身の構えと、相手の取る正眼の構え。これがもし真剣での殺し合いだったなら、斬るという動作には相手の肉を断つだけの適切な太刀筋や威力が必要になるだろうが、これはソフト剣を使ったスポーツチャンバラの試合だ。大ざっぱに言ってしまえば、相手より先に剣を当てればいいのだ。

 剣道とスポーツチャンバラのどちらがより実戦的であるかの議論を別にしても、スポチャンの規則で戦う以上、スポチャンに適した構えのほうが強いのは当然だろう。

 そのくらいは相手も調べてきているだろうに、それでも剣道の構えで立っているのは、その構えが身に染みついているからというのもあるだろうが、最たる理由は浩志たちのこと舐めているからだ。

 実際に対峙して相手の目を見たことで、浩志はそれを確信した。

 ――舐めやがって!

 浩志の胸にその気持ちが沸き上がらなかったわけではないが、それ以上の冷めた感情が手足の隅々にまで染み入っていた。

 胸の奥に闘争本能を点しつつも、冷静に距離を保つ。膝を曲げて腰を落とし、這うような低い体勢だ。前に突き出した剣の影に隠れるような構えの意図するところを、相手はこう理解した。

 それで剣の影に隠れたつもりか? おつむががら空きだぞ!

 浩志の構えを弱気からきた稚拙な構えだと看破した相手は、摺り足で一気に距離を詰めて、低い位置にある剣を飛び越えるようにして、がら空きの頭頂部に長剣を叩きつけようとした。しかし、その動きこそが浩志の待っていたものだった。

 浩志の剣は低い位置から跳ね上がって、剣を打ち下ろしてきた相手の小手を下から打ち据えた。

「一本!」

 審判役の相手校生徒が手を挙げて宣言した。自分から審判を買って出たおかげでレギュラー落ちの危険から一人免れた彼は、活き活きとして審判役をしていた。

 三本勝負の二本目は、相手も今度は不用意に飛び込んでこなかった。浩志の構えが単なる及び腰なのではないと悟って警戒し、慎重に隙を窺おうとする。そしてやっと、低い体勢から突きつけられた長剣の厄介さに気がつく。

 相打ちが両者一本という扱いになる以上、ここで相打ちを取られれば三本中二本を浩志に取られたことになってしまう。つまり、負けだ。本当にレギュラーを降ろされるかもしれない以上、万が一にも負けたくはない――その思いが、相手をなおのこと慎重にさせていた。それはもう慎重ではなく、萎縮と呼べるものだった。

 浩志は何度かのフェイントで相手に上を意識させたところで、相手の足下への流れるような薙ぎ払いが決まった。

「あっ」

 相手は慌てて足を引いたけれど、もう遅い。エアーソフトの刀身が、ぴしゃっと小気味よい音を立てた後だった。

「一本、それまで!」

 審判役の生徒が少し申し訳なさそうに宣告した。

 相手は納得いかなそうに彼を睨んだけれど、結局は何も言えずに、すごすごと引き下がっていった。

 浩志のほうは胸を張って、笑顔で仲間の元へと戻る。

「どうだ、見てたか?」

「うん、見てたよ。ばっちり」

 優貴は親指を立てて首肯する。そして、自分の小太刀を握った。次は自分だ、と。

 だが、隆がその肩に手を置いて、優貴を制した。

「次はおれがいく」

 そう告げた隆の目は、相手方から出てきた生徒のことを見据えている。どうやら次の対戦相手とは因縁があるらしいと、隆の視線を追った優貴も察した。

 隆は相手から視線を外さず、唇を小さく動かして言う。

「あいつとは中学の剣道部で一緒だった」

 説明らしき言葉はそれだけで、後は黙って開始線まで進んでいった。

 第三試合の立ち上がりは、今し方の第二試合と大して変わらないものだった。両者とも長剣を得物とし、相手は正眼の構え、隆は低い片手半身の構えで見合って、距離を測り合う。

 次鋒の仲間が臑を打たれて負けたのを見ているから、相手も迂闊には攻めてこない。一般的な剣道では、下半身を狙うのはルール違反になる。彼も、下半身を攻めたり、攻められた際の対象方が分からない。それが彼を必要以上に、慎重にさせているのだった。

 隆は剣を細かく揺らすようにフェイントをかけて、そんな相手の神経を逆撫でする。いや、隆本人にそのつもりはないのかもしれないが、相手はそれを挑発と受け取ったようだった。

「この卑怯者。勝手に剣道を止めやがったのは、そんな不格好な構えをしてまで足狙いしたかったからなのかよ、卑怯者!」

 本来なら試合中のそんな罵倒は、それこそ挑発行為として反則ものだろうが、そこは同じ仲間が審判だ。さらっと聞き流す。隆もそうすればいいのに――というか、いつもの隆なら黙々と聞き流していただろうに、今日の隆はなぜか、その挑発に乗った。浩志と同じく、胸の奥に燃え盛るものがあったからだろう。

 隆が背筋を上げた。半身にしていた身体を正面に開き、片手で握っていた剣にもう片方の手も添えた。スポチャンの構えから、剣道の構えに移行したのだ。

 そこからの試合は、相手も隆も剣道における有効部位しか狙わない、ただの剣道だった。しかし、一本目を決めたのは、剣道との得物の違いだった。

 隆の打ち下ろした剣を、相手は剣で受け、そのまま摺り上げて面を打ち抜こうとしたのだが、ソフト剣は竹刀ほど硬くない。剣と剣を打ち合わせた瞬間、ソフト剣は微妙に折れた。予期していたのと異なる手応えに、相手は微妙に体勢が崩れて剣が遅れた。そこを逃さず、隆の剣が胴を獲った。

 二本目、相手は得意の摺り上げ技を封じて、猛然と攻めてきた。剣道の形式で負けたことが相当、彼の自尊心を傷つけたようだった。その勢いに押されたのか、隆は終始攻められたまま、とうとう切り返す機を見出す前に小手を抜かれた。

 そして最後の三本目。これもスポチャンのルールで剣道をやるかのような試合運びだった。しかし今度は、互いに主導権を譲ろうとはせず、探り合いと打ち合いを続けることになる。そして制限時間の六十秒が過ぎようかという直前、隆の身体が本当に一瞬だけ、ふっと沈んだ。

 足下への加撃!

 次鋒戦での仲間の敗北を見ていた相手は、咄嗟に足下を気にした。その瞬間を見逃さず、隆は相手の逆胴を抜いていた。

「一本、それまで!」

 審判役の生徒が手を挙げたとき、相手はものすごい形相で審判役を睨んだ。しかし、一度出てしまった判定は覆らない。相手は唇を噛み締めて抗議の声を飲み込み、床板を踏み鳴らして戻っていった。

 勝った隆は、なぜか肩を落として仲間の元へ戻ると、笑顔で迎えた優貴たちにいきなり謝った。

「すまない。剣道をしに来たのではないのに、つまらないことをしてしまった。すまない」

 優貴たち三人も、それに雪花と紫水の二人も、きょとんと目を瞬かせる。それから、肩をすくめたり、失笑したり、顎を上げて大笑いしたり――と、それぞれの態度で、隆の勝利を祝った。

「なかなか見応えのある試合だったぞ。それに、敵方がやはり下半身への攻めに慣れていないことが、はっきりしたな」

 紫水が不敵に笑むと、隆もわずかに首肯する。

「実際、卑怯な真似をしたとは思う。だが、効果は予想以上だった」

「ということだ。いけるな、優貴」

 隆の言葉を引き継いで、紫水が優貴を見やりながら言った。

「できるだけ、やってみるさ」

 優貴は神妙な顔で頷くと、小太刀を握って開始線へと向かった。相手方から出てきたのは大吾だ。開始線に立って優貴と対峙すると、礼すらせずに長剣サイズのソフト剣を中段に構える。そして、鼻を鳴らして傲岸に笑う。

「知ってるぜ、優貴。おまえ、高校に入るまで剣を習ったことなんてないんだろ。だから、チャンバラごっこしか知らないおまえに、おれが教えてやるよ。本物の剣ってやつを」

 優貴は反論しようかと口を開きかけたものの、途中で馬鹿らしくなって止めかける。だがしかし、また思い直して言った。

「いや、ここまで二勝一敗で、うちの勝ち越しだ。チャンバラごっこより弱い剣を教わっても、しょうがない」

 優貴が言った途端、大吾の表情が一変した。

「なにいぃッ!!」

 大吾は目で噛みつかんばかりの形相になって怒声を発する。

 その豹変ぶりに優貴は気圧されそうになったものの、すぐに足腰を踏ん張らせて真っ向から大吾を睨み返した。

「怒るなよ、大吾くん。おれは何も、剣道がチャンバラごっこ未満だと言ってるんじゃない。きみたちが、おれらより弱いだけだ……と言ってるだけなんだから」

 そんなことを言われれば、大吾がますます鬼の形相になるのは当然だ。

「て、てっ……てめえぇ! ぶちのめすッ!!」

 大吾は獣のように吠えながら、剣を大上段に振り上げて優貴に打ちかかった。

「あっ、始め!」

 審判役の生徒が咄嗟に試合開始の号令を発したのは、彼の立場として、大吾を反則負けとするわけにはいかなかったからだろう。

 ともかく、第四試合は始まった。

 自分から挑発したのだから、優貴も大吾が不意打ちしてくるのは予期していた。すぐさま飛び退きながら小太刀を振って、勢い任せに落ちてきた大吾の長剣を受け流す。優貴はそこから反撃に転じようとしたのだが、大吾は流されたソフト剣を腕力で強引に引き戻して、既に切っ先を優貴へと向け直している。試合開始前、高圧的に勝ち誇ってみせただけのことはあるようだ。

「うらあぁ!!」

 大吾は口汚く吠えながら、次なる太刀を振るう。それを優貴は、身体を捻るようにして逃げつつ、どうにか受け流す。

 大吾にスポチャン経験はないけれど、剣道経験は長い。試合経験も豊富だ。真っ向から打ち合ったら、ルールと得物の違いを加味したとしても、優貴の勝ち目は薄い。しかし、いまの大吾は激情に駆られて動きが雑になっていた。無駄な雄叫びを上げるのも、体幹が崩れて腕だけでの打ち込みになっているのも、怒りに我を忘れていることの証明だ。

「おらぁ! 逃げるな、くそがぁ!」

 大吾は円を描くように逃げる優貴を追って、闇雲に剣を振りまわす。腕と足がばらばらの方向を向いているし、腰や肩の捻りもちぐはぐだ。これでは剣に威力が乗らないのは当然として、太刀筋もぶれるし、その分だけ速度も鈍る。だから優貴は、追いすがってくる剣から身を翻すのも、あるいは打ち落とすのも、さして難しくもなかった。

「くそ! ぼけぇ、おらぁ!!」

 優貴が避ければ避けるほど、大吾の剣はいよいよ荒れる。反面、優貴はどんどんリズムに乗っていく。

 大吾が剣を打ってきてから受けるのではなく、次第に優貴が受けるべき出した剣のところへ大吾が打ってくる、というようになっていく。大吾がもう少し冷静なら、次第に主導権を奪われつつあることに気づいて、仕切り直すなり変化を加えるなりしただろう。しかし、いまの大吾はそんなことも考えられないほど頭に血が上っていた。

「うりょあらあぁッ!!」

 もう罵声にもなっていない意味不明な奇声を上げて、大吾は無理やりな攻勢を続ける。優貴は大吾にもう少し攻めさせたところで、攻め疲れたところに反撃の一本を入れようと狙っていた。しかし、わざわざ機会を狙い澄ます必要はなかった。

 大吾は勝手に足を縺れさせて転んだ。みずから首を差し出すように転んだ大吾の後頭部を、優貴は苦もなく叩いて一本を取った。

 さんざん逃げまわっていた相手にこんな形で最初の一本を取られれば、大吾は当然、さらに激怒する。頭部プロテクターの透明な面貌から見える大吾の顔は、絵の具で塗りつぶしたかのように真っ赤だ。

「おっ、ぉ、おのれえぇッ!!」

 時代劇でもなければ聞かないような罵声を上げて、またも試合再開の合図を待たずに大吾は打ちかかってきた。審判役が慌てて号令するのを耳だけで聞きながら、優貴も素早く剣を上げる。

「やれぇ、優貴ぃ! 斯様な卑劣漢に負けることは、わらわが許さぬのじゃあ!!」

 外野からの声援が優貴に、正面から襲いかかってくる怒り狂った大吾の気迫に呑まれるだけの気力をくれる。

 優貴の得物は、大吾が振りまわす長剣よりも少し短い小太刀だ。長さの差は、攻撃に関しては不利だが、守りに関しては必ずしも不利とはならない。小回りの利く小太刀は、相手の大振りな剣が落とされる位置に先回りして届き、それをよく防いだ。

 一本目と変わらない試合運びだ。大吾が力任せに剣を振りまわし、優貴がそれを必死に受ける。一本目を取られたのと同じ展開なのだから、大吾も攻め方を変えればいいのに、そうすることが負けだとでも思っているのか、いっそう激しく剣を打ちつけるばかりだ。

 叩きつける激しさは増すけれど、けして速すぎも重すぎもしない打ち込みをいなしつつ、優貴はじわじわと主導権を奪い返しにかかる。このまま最後も同じ展開になるかと思われた。

「おぉあらあぁッ!!」

 大吾が奇声を上げて、優貴に体当たりした。けして明白なルール違反とは言えないかもしれないが、優貴は完璧に虚を突かれた。

「うわっ」

 躱し損ねた優貴は、尻餅をつくようにして転倒する。大吾が悪魔のような形相で笑った。両手で握った剣を振り上げる。その剣が落ちてくるところを、優貴は最後まで見なかった。優貴は尻から転んだ勢いを殺さず、むしろ活かして、ぐるっと後転したのだ。半分横向きになった無様な後転だったけれど、落ちてきた長剣を紙一重で躱すには十分な動きだった。

「な――ッ」

 勝利を確信していた大吾の身体は、空振りの勢いで前のめりになる。その足下を、優貴は四つん這いで着地したと同時に小太刀で薙いだ。大吾の臑を打ったソフト剣が、ぱんっ、と大きな音を響かせた。

「ひゃっはぁ! やったのじゃあ!」

 審判が一本を宣言するより早く、雪花が握り拳を振り上げて快哉を叫んだ。その隣で、紫水も満足そうに笑っている。

「いつか、わたしが見せた動きの模倣か。大分みっともない動きだったが、まあよくやったな」

 もちろん、浩志たち三人も大喜びだ。対する相手校の面々には声もない。審判役も観念したように手を挙げた。

「一本――」

「無効だぁ!!」

 大吾は、宣言しようとした審判役の胸ぐらを掴んで吠えた。

「おい、いまのは無効だろ。あんな、転がって足を打つなんて、そんなもん認められるはずがないだろ! おまえ、剣道を何年やってんだよ!?」

「い、いや……でも、これは剣道じゃなく――」

「ここは剣道場だ!」

 言い訳する審判役に、大吾はいっそう激しく噛みつく。もちろん比喩だが、そのうち本当に噛みつきそうな怒気が漲っていた。

「……くそ!」

 大吾はすっかり萎縮している審判役を投げ捨てると、今度は優貴に食ってかかる。

「おまえ、あんなので勝って嬉しいのかよ!?」

 怒鳴りつけながら優貴の胸ぐらにも手を伸ばしたが、優貴はそれを反射的に躱して、困惑に眉を潜める。

「いや、嬉しいよ。我ながら派手に勝てたし」

 優貴はただ率直に気持ちを述べただけだったが、派手な負け方をした大吾にとっては十分すぎる挑発だった。

「んんだとぉ!! てめぇ、調子に乗ってんじゃねああぁッ!!」

 言葉の最後は意味を成さない奇声になっている。またいきなり打ちかかってくるか、と優貴は身構えたけれど、そうではなかった。大吾がしたのは、起き上がるところだった審判役の生徒の胸ぐらをまたも掴んで恫喝することだった。

「おい、次だ。次の試合だ!」

「え、え……?」

 何を言われているのか意味が分からず聞き返した審判役に、大吾は唾を飛ばして言い立てる。

「いまのは第四試合、副将戦だろ。だったら次は第五試合の大将戦だろぉが!」

「え、いや……それは、相手が四人だから四戦だけって決めていたじゃないですか……」

「代表戦もやると決めてただろ!」

「いやでも、うちの一勝三敗だから、代表戦は……」

「おれがやると言ったらやるんだよ!!」

 支離滅裂な言い分である。やる意味はないし、そもそもやらないと取り決めていた試合をやれ、と一人で騒いでいる。しかも、自分たちのほうに五人いるから第五試合をやれ、と騒いでいるのに、実際には自分が連続で試合をする気なのは明白だ。これでは、かりに第五試合をやったとしても、大吾が負けたら「もう一試合だ!」と騒ぐのも目に見えている。

 審判役の生徒は、横に控えている仲間たちのほうを見て、助けを求めた。だがしかし、彼の仲間たちは厄介事は御免だとばかりに目を逸らした。思い余った彼は首の向きを百八十度変えて浩志たちのほうを見やり、それから一番近くにいる優貴を見つめた。

「えっ」

 優貴は思わず声を発してしまったことで、何か答えを提示しなくてはならないという雰囲気に呑まれてしまう。

「え、ええと……」

 雰囲気に押されて口を開いた優貴だが、それ以上の言葉が続かない。大吾の煮えたぎった眼光が、つまらないことを言ったら噛みつくぞ、と脅しているからだ。

 そこに助け船を出してくれたのは、浩志だった。

「だったら、第五試合はそちらの不戦勝ということで構わないんじゃないかな、うん」

 この言葉を、もしかしたら浩志は本当に助け船のつもりで言ったのかもしれない。けれど、大吾にとっては声高に嘲笑されたものとしか受け取れなかった。

「て、ててっ……てめぇらあ!! 舐めくさってんじゃねぇぞお!! チャンバラなんかやってられっか! 剣道で勝負しひゃぎゃギャギャ――ッ!!」

 喉を盛んばかりの大絶叫を響かせた大吾。しかし、その絶叫は最後まで言葉を成さなかった。

 激高して、まともな言葉にすらならない雄叫びを上げる大吾に、誰も彼もが、「またか……」と、眉を顰めた。そんな周りの様子に目もくれず、大吾は口をこれ以上なく開けている。

 いや、口だけではない。両眼も皿のように見開かれていた。さらには、喉仏が張り出すほど大きく首を反らしているし、手足にも電流を流されているかのような震えが断続的に走っていた。

 大吾の様子は明らかに異常だった。

「お……おい、大丈夫か……?」

 優貴は恐る恐る声をかけながら、大吾の肩に手を伸ばす。だが、その場で小さく飛び跳ねるように痙攣している身体に触れることが躊躇われて、伸ばした手を宙で少し迷わせた。その躊躇いが優貴を救った。

「ギャアアああぁッ!!」

 大吾は瀕死の獣みたいな奇声を発したかと思うと、まるで感電したかのような不自然さで跳ねた。優貴がもう少し近づいていたら、吹き飛ばされていただろう。そのくらい、唐突かつ強烈な跳躍だった。

「うわっ」

 顎や胸ぐらを突き飛ばされることは避けた優貴だが、風が唸るほどの動きだったのだ。勢いに押されて、その場でまたも尻餅をつくことになった。そこに、大吾の剣が叩きつけられた。

 スピード違反のトラックが壁に激突したような爆音が、尻餅をついた優貴の股ぐらで炸裂した。それは、ゴムのなかに空気を詰めただけのソフト剣が、硬い板張りの床を打ち砕いて大穴を開けたときの物音だった。

 その場の全員が息を飲んだ。何が起きたのかを瞬時に理解した者はいなかった。その間隙を突くように、大吾の身体が再度、跳ねた。まるで見えない大きな手で掴み上げられるかのような、非人間的な動きだった。

 大吾は驚異的な距離を跳んで、真ん中から折れかけたソフト剣が狙ったのは雪花だ。雪花の横には浩志たちもいたけれど、大吾の奇怪な跳躍に反応できたのは紫水一人だけだった。

 雪花の脳天に叩きつけられるはずだったソフト剣を、紫水の翳した傘が受け止めた。折れかけていたソフト剣が、今度こそ半ばから千切れ飛ぶ。当たっても怪我しないようにという配慮から作られたソフト剣だが、まともに当たればただでは済まない威力であることは、壊れた床板が語っている。もし剣が折れていなければ、傘で――幻術で傘に偽装した剣で受け止めた紫水は、その場で両膝を折って倒されていただろう。

「くっ……!」

 紫水は相手の驚異的な力に驚きつつも、大吾の腹に膝蹴りを叩き込む。すらりと長い脚を小さく折り畳むことで生まれた爆発力は、大吾の鳩尾に間違いなく叩き込まれた。普通なら身体をくの字に折って悶絶して然るべき一撃だったが、大吾は少し背後に蹌踉めいただけで、膝を曲げもしなかった。

 大吾の異常な頑健さは予想の内だったらしく、紫水はすぐさま膝蹴りから前蹴りへと連携させて、今度こそどうにか大吾を後退りさせた。

「気をつけろ、紫水。やつは何者かに操られておるぞ! どこかに術者が潜んでおる!」

 雪花が緊張の声を飛ばす。

「分かっております」

 紫水は背後に雪花を庇いながら、短く答える。目線は大吾から離していない。その大吾は、まだ呆気に取られていた充の手からソフト剣を奪い取って、紫水を――紫水の後ろに庇われている雪花を見ている。

 大きく見開かれた両眼は白目を剥いていて、だらんと半開きになった唇の端からは泡になった唾液が垂れている。大吾が意識を失っているのは明らかだ。

 大吾が意識のないまま、まるでゾンビのようになって動いている異常性は、そばにいた浩志や充、隆もすぐに察した。

「……あっ、止めろ! 止めないか!」

 動揺から立ち直った浩志が、小太刀サイズのソフト剣をよたよたと構える大吾の片腕にしがみついて、この場から引き離そうとする。少し遅れて、隆が反対側の腕に、充も大吾の背中にしがみつく。しかし、大吾を取り押さえることはできなかった。

 大吾はまるで酔っぱらいかゾンビのように蹌踉めいているのに、三人がかりで羽交い締めにされても、びくともしない。それどころか、一度大きく身震いしただけで、三人をいっぺんに投げ飛ばした。振り解いたのでも逃れたのでもなく、両腕に組み付いた浩志と隆を吹っ飛ばして壁に叩きつけ、そのとき振った腕の一撃で充を床に叩き伏せた。

 壁と床とで発した大音に、それまで固まっていた相手校の連中四名も正気を取り戻す。

「うっ、うわあぁ!!」

 まず真っ先に、審判役の生徒が逃げ出した。それが呼び水になって、他の三人も我先にと逃げていってしまった。

 これには優貴もしばし、唖然としてしまった。

 おまえさん方、いくらなんでも逃げっぷりがよすぎやしませんか、と。

 だが、頭のなかを白紙にしていたのも一時のことだ。優貴は急いで立ち上がると道場の出入り口まで駆け、開けっ放しになっていた引き戸を閉めて施錠した。さらには、外から解錠されても戸を開けられないように、手にしていたソフト剣を心張り棒にした。

 自分から逃げ場を断ったことになるのだが、優貴としては咄嗟に他の方法が考えつかなかったのだ。

「紫水、フードを脱いでいいぞ!」

 その言葉に、紫水はちらと戸口に目を走らせる。そして、いまこの場で意識があるのが、優貴と自分と雪花の三人だけであり、部外者が入ってくることもないのを理解した。

 紫水は唇の端に笑みを乗せるや、頭を振るようにしてフードを脱ぎ捨てる。大きな夜色の猫耳と髪を露わになって、ベルトのようにしていた長い尻尾もしゅるりと解かれ、しなやかに空を打つ。ついでに、浩志たちが大吾をわずかばかりの時間でも足止めしていた間に、靴下も脱いでいた。

 優貴が戸を閉めたのは、紫水に遠慮なく実力を発揮してもらうためだった。

 ただ逃げるだけなら話は簡単だが、雪花はさきほど大吾を指して、術で操られている、という旨の警告を放った。優貴には、術というのが具体的にどういうものか分からなかったが、ゾンビのような状態になっている大吾をこのままにして逃げるわけにはいかなかった。あんなやつでも、いちおうは親戚なのだ。

 だが、話が戻ってしまうが、たったひとつの逃げ道をみずから塞いでしまったこともまた間違いない。

「紫水、大丈夫だよな!?」

 投げかけられた優貴の疑問に、紫水は不敵に笑ってみせた。

「そういえば、貴様にはわたしの本気を見せたことがなかったな。この程度の木偶、一刀のもとに斬り伏せてくれるわ」

「って、斬っちゃ駄目だろ! 気絶させるなりして、もっと穏当になんとかしてくれ!」

「無茶を言うな。こいつはすでに気絶している。それをさらに気絶させるなど、殺すより至難だわ!」

「きみが本気を出せば、そのくらいできるだろ!」

「ええいっ、煩い! なんとかしてやるから、黙って見てろ! あっ、いや、姫様をお守りしろ!」

 紫水はそう言い放ったのを最後に、優貴が弾かれたようにして雪花の傍まで向かうのを確認することもなく、大吾との戦いに集中した。

 大吾はべつに、紫水と優貴の話が終わるのを律儀に待っていたわけではない。手にしたソフト剣で紫水に何度も襲いかかっていた。紫水はそれを、鞘を履いたままの剣でいなしながら話していたのだ。

 大吾が振っているのはソフト剣のはずだが、いまや傘の迷彩が解けた紫水の長剣とぶつかっても、初太刀で床板を叩き割ったときのように折れたりしない。それも魔術的な現象なのだろう。

 魔術で操られ、魔術で硬化された剣を振るう大吾。その戦いようは、格闘ゲームのキャラクターがそのまま現実に飛び出してきたようだった。本来ならあり得べき予備動作というものをまったく感じさせず、バネ仕掛けのような唐突さで動くのだ。手練れの戦士であればあるほど、相手の予備動作を盗んで動くものだが、大吾には盗むべきそれがないのだ。唐突に打ち込まれる強烈至極な一撃を、紫水はほとんど勘と瞬発力だけで、いなし続けていた。

 フードから解放された夜色の大きな耳が絶え間なくひくついているのは、目には映らない大吾の予備動作を耳で見ているかのようだ。リズミカルに跳ねる尻尾はカウンターウェイトとなって、紫水に研ぎ澄まされた刀剣のごとき切れのある体捌きを成さしめていた。

「……!!」

 大吾はもはや奇声を発することすらせずに、紫水へ猛攻をかけている。雨霰と放たれる打ち込みの間隙を突いて、紫水も何発か反撃を入れているのだが、大吾は止まらない。すでに気絶しているうえに、外部から加えられる力で動かされている以上、骨に罅が入った程度の痛みでは動きを止めることはできそうになかった。

「くっ……このままでは不味いか……!」

 紫水は、ぎり、と歯軋りする。

 いまのところは互角の攻防で大吾を抑えているけれど、大吾に疲労の様子はない。対して紫水のほうは、じわじわと身体が重たくなってきているのを自覚せざるをえない。まだ身体の動くうちに状況を打開する必要があった。

「姫様、こいつを操っている魔術を破ることはできませんか!?」

 紫水は鞘に収まったままの剣で必死に相手の剣を受けながら、背後の雪花に問いかける。

 雪花の返事は早かった。

「さっきからやっておるが駄目じゃ。その者にかけられた魔術、外部からの干渉をまったく受け付けん。わらわでは、解呪は無理じゃ」

「では、斬るしか!?」

「いいや、外部から影響されないというのは、使い切り型の魔術ということじゃ。内蔵された魔力が尽きれば、それで術は解ける」

「それまで耐えろ、ですか」

「無茶な要求か?」

「いえ、仰せのままに!」

 雪花と優貴からは紫水の顔を見ることはできなかったが、紫水がきっと噛みつかんばかりの不敵さで笑っているのが想像できた。

 紫水と大吾の響かせる剣戟の音が、いっそうの激しさを奏でる。優貴に魔術云々の件は分かりかねたが、このまま時間が経つのを待てば大吾が元に戻るらしいということは、なんとなく理解できた。

 よかった……と安堵に気を緩ませた優貴だったが、そこでふと疑問に行き当たった。

 ――どうして大吾は、いきなりこんなことになったんだ?

「なあ、雪花。魔術って言うけど、それって、きみたちと同じように……?」

 そう尋ねた優貴に、雪花は顎を引くように軽く頷いた。

「うむ。まず間違いなく、わらわを追ってこちらの世界に飛んできた刺客じゃ」

「そうか……」

 優貴はさらに考えを進める。

 いまの状況は、雪花を狙う刺客が大吾に魔術をかけて、雪花を殺させようとした――ということになるのか?

 だけど、考えれば考えるほど、その仮定のおかしさが見えてくる。本気で雪花を狙うつもりなら、どうして大吾は紫水と戦い続けているんだ? 痛みで動きが止まったりしないのなら、強引にでも雪花を狙いにいくのが筋なのではないか? あれではまるで、紫水と戦うことが目的のようじゃないか――。

「……あ!」

 優貴は瞬間的に、自分が何を疑問に思ったのか、理解した。そして理解と同時に、身体を動かしていた。それは気配を感じての行動などではなく、疑問の答えを見出した弾みで、意味もなく身体が動いただけだった。だから、完璧な死角から突き出されたその刃を止められたのは、奇跡としか言いようがなかった。

 雪花の背後に向かって振り抜かれた優貴のソフト剣は、その場所に忽然と現れた人物の突き出した短剣とぶつかった。ぱんっ、と空気の破裂する音を上げて、ソフト剣は壊された。

「ほう、なんと……」

 突然現れた人物は、雪花の心臓に背中から刺さるはずだった短剣を阻まれたことに、感心そうな声を漏らす。

「うっ……うわぁ!」

 優貴はいきなり現れた人物に驚きながらも、壊れたソフト剣を振りまわす。相手はぬるりと滑るように後退して、いったん距離を取った。

「オレ様の奇襲、よく見抜いたなぁ。すげぇ、すげぇぜ」

 薄い唇を歪めて楽しげに嘲笑するその相手は、口調こそ荒くれ者のようだったが、その容姿は間違いなく女性だった。

 優貴よりもやや小柄で華奢な肢体に、黒い全身タイツを着た上から幅広の革ベルトを包帯のように巻き付けたような出装。顔にも革ベルトを網のように巻き付けていている。上から下まで奇抜すぎる装いだけど、細いなりに艶めかしい曲線がさり気なく強調されていて、女性であることを疑わせない。顔に巻かれたベルトの隙間から覗く、長い睫に縁取られた目元や、悪辣な笑みに歪んでいる口元の輪郭も、やっぱり女性だ。たぶん紫水や優貴と同じ年頃で、少女と呼んでも差し支えないだろう。

 だが、そうした見た目のなかで何よりも優貴の目を惹いたのは、ベルトの隙間から伸びる褪せた灰色の短髪と、同色の大きな丸い耳だった。その耳を見た優貴は、もしかして、と思いながら目線を下げていく。

「……やっぱり鼠か」

 彼女の腰には、少し桃色がかった長い尻尾が見え隠れしていた。その色といい、耳と尻尾の形といい、彼女は間違いなく鼠だった。

「貴様、尖晶せんしょうか!」

 少し離れたところで大吾と打ち合っている紫水が、横目で彼女を見やりながら怒りの籠もった声で吠えた。

 尖晶と呼ばれた彼女は、にたぁっと唇をいっそう歪めて笑む。

「ああ……覚えてくれたのかよぉ。嬉しい、嬉しいぜぇ、紫水ぃ」

 どうやらこの二人は知り合いらしい。優貴はそうと分かっても、身構えた身体を緩ませずにいる。知り合いという言葉が、旧交ではなく因縁を意味しているのは、二人の声音を聞いていれば判然としていたからだ。

「あやつの名は尖晶。鼠種が氏族、かつら家の娘じゃ。紫水とは幼馴染みというやつで、昔は仲がよかったと聞いておる」

 雪花がそう語ったのは、優貴に聞かせるためだ。けれど、反応したのは尖晶自身だった。

「オレ様があんな野郎と仲良しだったぁ!? どこ情報だよ、そらぁ!? このオレ様が、あんな高慢ちきな腐れ猫野郎と仲良くするわきゃねぇだろぉがよおぉ!!」

 包帯のようなベルトの隙間から覗く両眼を血走らせるほど丸々と見開き、口から唾を飛ばして喚き散らす。おかしくなる前の大吾も似たような顔で激高していたが、滲み出す狂気はその比ではない。

「それはこっちの台詞だ!」

 と、紫水も、大吾の猛攻をいなしながら反論してくる。

「わたしが高慢ちきなら、貴様は生まれついての陰険女だ! そんなやつと仲良くしてやれるわけがあるか! だいたい、わたしは野郎ではなぁい!!」

「……なるほど、二人がどういう間柄なのかは、だいたい想像がついた」

 優貴は微苦笑を漏らす。おかげで、緊迫感でがちがちになっていた身体が少しは解れた。尖晶はそんな優貴に目を戻すと、手にした短剣をぬらりと光らせて嗤笑する。

「昔の話なんざぁ、どうでもいいんだよぉ。いまのオレ様は、そこのチビ姫様をぶっ殺すために雇われた、由緒正しい暗殺者だ……ああ、そうそう。せっかくだからひとつ、これからオレ様に殺されちまう憐れなチビ姫さまが知りたくて知りたくて堪らないだろうことを教えてやるぜ」

 いきなり話題を振られた雪花は、優貴の着ている胴衣の背をぎゅっと掴みながら、怪訝そうに問い質す。

「わらわの知りたいこと……な、なんじゃ?」

 その言葉に、尖晶は待ってましたとばかりに、にたぁっと噛みつくように歯を剥いて笑った。

「そりゃ決まってんだろ。てめぇの親父がどうなったかだよぉ」

「……!!」

 雪花が大きく息を飲んだ。

「くっひっ、どうだ? 気になるだろぉ?」

「ど……どう、なったのじゃ……父上はどうなったのじゃ!? 答えよ!!」

 いやらしく笑う尖晶に、雪花は必死の形相で言い立てる。優貴の胴衣を掴んでいる手には、もの凄い力が入っている。

 尖晶は糸を引くような、いやらしい声音で告げた。

「死んだよ」

「な……」

「本当は生け捕りにして公開処刑するはずだったんだが、なんとあの野郎、爆死しやがった。自爆だよ、自爆。立て籠もった天守閣ごと木っ端微塵に吹っ飛びやがったから、晒し首にもできなかったぜ。最後の最後で、してやられたってわけだ」

 尖晶は眉を顰めて、忌々しげに舌打ちした。その表情からすると、雪花を騙すために出任せを並べたわけではなさそうだった。だからこそ、雪花は僅かな希望に縋ることすらできなかった。

「そんな……父上が、死んだ……う、嘘じゃ……」

 呆然と呟いた雪花の手が、優貴の胴衣をいっそうきつく握り締める。思わぬほど力が入っていたその手に、優貴は背後へ引き倒されそうになって、一歩よろめいたほどだ。

 優貴の胴衣にしがみついていないと頽れてしまいそうなほど、雪花は打ちのめされていた。

 対照的に、尖晶は顔の下半分をすべて口にするみたく哄笑する。

「くっひひひ! いい顔だぜ、チビ姫様よぉ。その顔だよ、オレ様が見たかったのは! くっひゃひゃひゃ!」

「う、うぁ……嘘じゃあ……」

「嘘じゃねえよ。だいたい、てめえだって薄々覚悟はしていたんだろ……国王はとっくに殺されている。自分を逃がすために殺されちゃったんだ、ってよぉ!」

 その言葉に、雪花の両膝から、がくりと力が抜けた。

「あ、ああ……!」

「くひっ……だが、悲しまなくていいんだぜ。このオレ様が、いまから父親の後を追わせてやるんだ……あの世で仲良くやるといいさ」

 尖晶は笑い声を収めると、無造作に一歩、踏み出す。雪花は逃げることもできない。だけどそれでも、雪花は小さな手に必死の力を込めて優貴に縋りつき、必死に倒れまいとしている。

 背中に感じる震えと、その震えに負けまいとする力強さが、及び腰になっていた優貴の背筋は自然とまっすぐに伸びていた。

「大丈夫だよ、雪花」

 優貴の手がぽん、と雪花の頭を撫でた。

「あ……」

 少し驚いたよう顔で見上げた雪花に、優貴は力強く頷いて言った。

「おれは、きみとこいつの間に何があったのかは分からないけれど、きみは親父のことが好きなんだろ」

「うむ」

「だったら、こいつを一発ぶん殴ってやれ」

「え……」

「おれは、おれの好きな人を笑って馬鹿にした奴にそうしてやったぞ。すっげえ、すっきりしたぞぉ」

「……うむ。わらわもそうするのじゃ!」

 雪花も力強く頷き返した。

 だがそこに、尖晶の冷たい声が響く。

「おう……何を勝手に盛り上がってんだよぉ……」

 抑揚の薄い一言だったが、その一言だけで優貴の背筋に震えが走った。喉元へ冷たい刃物を押し当てられたような恐怖に、声も出なかった。

 さっきの試合でも、鬼気迫る形相の大吾と戦ったけれど、そのときに感じた怖さや緊張とは次元の違う感覚だ。どちらがすごいとかではなく、質が違うのだ。大吾は怒りを消化したいから殴りかかってくるのであって、尖晶はただ殺すから殺すというだけだ。そこに個人的感情を介在させる必要なしに、殺すから殺すということができる人格の持ち主なのだ。

「う……ぅ……」

 首筋に冷や汗を伝わせている優貴のほうに、尖晶は爪先で滑るような足取りで一歩近づきながら世間話のように続ける。

「まあ大分、偶然っぽかったが、てめぇはオレ様の奇襲を読んだ。その褒美ってことで、てめぇが両手を挙げて降参するってんなら、特別に見逃してやってもいいぜ」

「……おれが言うとおりに両手を上げたら、そのナイフで喉をすぱっと裂いちゃうつもりなんだろ?」

 引き攣る頬を無理にでも笑わせて皮肉めかした優貴に、尖晶は目をくりっと瞬かせて驚く。

「おぉ、またばれた」

「……本気で、そのつもりだったのかよ」

 笑った顔を維持しているのがやっとの優貴だった。その努力を止めたら泣き出してしまうのが分かっていたからだ。

「というかよぉ」

 尖晶が半笑いで首を傾げる。

「てめぇ、オレ様をぶん殴れとか言ってくれちゃったけど、本気でそんなことができると思ってるわけ?」

「……できないと決まったわけじゃないだろ」

「本気かよ! その玩具の剣で!」

 爆笑する尖晶に対して、優貴は言い返せない。改めて握り直したソフト剣は、最初の不意打ちを止めた時点で壊されている。というよりそもそも、安全性に考慮されたソフト剣と、危険性だけを追求した本物の短剣とでは勝負になるわけがない。

 格好良く意気込んではみたけれど、これじゃ実際、どうしようもないぞ……。

 優貴は内心で呻きながら、何か打開策になるものはないか、と空しく辺りに視線を惑わす。

 打開策は、目ではなく耳に飛び込んできた。

「優貴、これを使え!」

 紫水の鋭い声に、優貴はそちらへぱっと振り向く。紫水は丁度、誰かが投げ捨てていったソフト剣を拾い上げて逆手に握ったところだった。執拗に打ち込まれる大吾の剣を受け流し続ける合間、紫水はお手玉をするようにして空中で長剣とソフト剣を持ち替えると、逆手に握った長剣を優貴のほうに向けて滑らせた。

 鞘に収まったままの長剣は、カーリングの石みたいに床板を滑ってくる。優貴はすぐさま飛びつきにいったが、その頬を掠めた冷たい風が、優貴を硬直させた。

 風を起こした物体は、優貴を追い越して床板に突き刺さる。尖晶の投げた短剣だった。短剣の掠めて頬が、じわ、と熱を持つ。触ってみると、うっすら切れた皮膚から血が滲んでいた。

 紫水が滑らせてくれた剣は、床に刺さった短剣に阻まれて優貴の手なで届かなかった。だが、かりに手の届くところまで滑らされていたとしても、優貴に拾うことはできなかっただろう。剣を拾った瞬間、本気で殺されると確信してしまったからだ。

「優貴!」

 雪花がすぐさま駆けてきて、片手を伸ばした中腰の姿勢で動けずにいる優貴の背中に縋りつく。背中に伝わってくる震えと体温が、固まっていた優貴の身体に火を入れる。しかし、浴びせかけられる氷のような笑い声が、その熱を無為にさせるのだ。

「いいねぇ、元気だねぇ。けど、剣なんて持ったら、本当に殺されなくちゃならなくなるんだぜぇ?」

「ど……どうせ、剣を持たなくたって同じなんだろ」

「おっ、またばれたよ。あっひゃひゃ」

 さすがに三度目は、優貴も鼻白むことはなかった。

 優貴はのしかかってくる寒気を押し退けるようにして、立ち上がる。雪花がその腰に、きゅっとしがみついてくる。雪花が自分の腰くらいしかない小さな女の子なのだったことを、優貴はいまになって再確認する。そうするとなぜか、逃げるわけにも、蹲っているわけにもいかないよな――という気持ちで、全身が静かに熱くなってくるのだ。

「へえぇ、やる気なんじゃん。ちょおっとビックリだぜ……けどまぁ、いいぜ。行きがけの駄賃ってやつだ。チビ姫様の前菜に、さくっと殺ってやるぜ……くっひひっ」

 尖晶は背筋を前後に揺すって、わざとらしいほど狂的な笑いに歯を軋ませる。右手を背中にまわして二本目の短剣を引き抜くと、手品師のように手のなかで弄びながら優貴に近づく。

 優貴と雪花は、じり、と後退る。

 紫水は大吾を抑えるので手一杯だ。どうにか優貴たちのほうへ救援に向かおうとしているのだけど、得物を長剣からソフト剣に持ち替えてしまったことが裏目に出て、むしろ討ち取られかねない状況だった。

 紫水は助けに来られない――優貴は横目でそれを確認すると、覚悟を決めて剣を構える。短剣を刺されて壊れたソフト剣でも、何も持たないよりはましだ……きっと。

 尖晶の身体が、ふらっと前のめりに倒れた。いや、そうではなかった。尖晶は這い進む蛇のようにぬるぬると優貴に肉薄したのだ。

 その手に握られた短剣が、ぬらりときらめく。

 優貴が構えていたソフト剣の、まだ残っていた刀身の下半分が細切れになって、ばらばらと床に落ちた。

「うっ……わあぁ!!」

 ソフト剣が輪切りにされた後になってから、優貴はやっと時間が動き出したかのように叫んで剣を――刀身がなくなってしまった剣を振りまわす。そのときにはもう尖晶は、ぬるりと背中から倒れ込むような動きで後退していて、掠りもしなかった。

「ひゃっひっひ! 玩具の剣がなくなっちまったぁなぁ! どうするよ、やばいよ大変だよ、ひっひひひぃ!」

 尖晶は歯を剥いて、歯軋りするように大笑いする。暗殺の成功を確信して、油断しているのだろうか。

 付け入る隙があるとすれば、その油断しかない。けど、どうやってそこを突く? どうすればいい!?

 ――優貴は必死に考えた。人生でこんなに考えたことはないというほど、頭の血が上りすぎて倒れるんじゃないかというほど考えた。

 頭が爆発するんじゃないかと思ったが、その前に雪花の笑いが爆発した。

「あはっはははっ!!」

 いきなり胸を張って爆笑を始めた雪花に、優貴も尖晶も唖然とさせられる。雪花は笑いながら尖晶を見上げて言い放った。

「さすがは暗躍が本分たる鼠種のなかでも、暗殺がお家芸の桂が末じゃ。真っ向勝負では、素人の毛が生えた程度の少年にも敵わないと見える」

「あぁんだとぉ!?」

 尖晶は歯を剥き、目玉を飛び出せんばかりの形相で雪花を睨む。雪花は思わずごくりと喉を呻かせたけれど、引き下がることなくさらに言い立てる。

「おお、おっかない顔じゃなぁ。玩具の剣すら怖がるへたれな暗殺者とは思えぬ迫力じゃあ。おお、怖い怖いのぉ」

 それは明らかな挑発だった。尖晶にも、それが分からないはずがない。だが、雪花と優貴の生殺与奪を握っているという確信が――油断が、尖晶をその挑発の乗せさせた。

「……いいだろう、乗せられてやらぁ。取れよ」

 尖晶は顎をしゃくって、すぐそこに転がっているソフト剣を指す。雪花は、にやっ、と唇の端を持ち上げた。

「さすが、桂の末じゃ」

 雪花はうっすらと笑いながら、宮廷作法に則った仕草で礼をすると優雅な足取りを見せつけるように歩いて、落ちていたソフト剣を拾い上げる。

「さあ、優貴。これを使え」

「う、うん……」

 雪花から手渡された剣を握った優貴は、戸惑いに眉を揺らす。

「大丈夫じゃ、おまえなら勝てる」

「でも……」

「勇気百倍、当たって砕け――じゃ。分かるな?」

「……あっ」

 優貴がはっとした顔をするのを見て、雪花は勇気づけるように笑って小さく頷く。そして、背伸びしながら片手を伸ばして、優貴の背中をばしっと叩いた。

「さあ、いってこい!」

「おう!」

 優貴は自分自身を鼓舞するためにも、力を込めて声を発する。長剣サイズのソフト剣を片手に構え、その切っ先を尖晶に向けると、猛然と躍りかかった。尖晶の虚を突くつもりだったのかもしれないが、それは叶わなかった。

「もっかい細切れだあぁ!!」

 尖晶の構える短剣が閃いて、打ち込まれるソフト剣をもう一度切り裂こうとする。

 玩具の長剣と本物の短剣が交錯する。硬いもの同士がぶつかる衝撃はなく、玩具は一方的に壊される……はずだった。

 がんっ、という硬い衝撃音と手応えが、交錯した長剣と短剣を握る二人の両手に響き返った。

 空気が詰まっているだけのソフト剣に、そんな硬さがあるはずがない。優貴の構える剣は、いつの間にか本物の剣に――紫水が床を滑らせて寄越した長剣に変わっていたのだ。

「はあぁ!?」

 尖晶は驚愕しながら、まだ床に転がっているはずの剣を目で探す。そこには確かに、尖晶自身が投げた短剣に引っかかる形で捨て置かれている。

 それなら、優貴の構える剣は一体どこから沸いて出たのか? 玩具の剣が本物の剣に変化したというのか?

 その答えを示す手がかりに、尖晶は気がついた。

 紫水は、剣を鞘に収めたまま滑らせたはずだ。なのに、いま捨て置かれているのは、鞘だけだ。さっきまでは確かに見えていたはずの、鞘から伸びる剣の鍔や柄がなくなっていた。いま落ちているのは、中身の空になった鞘だけだった。

「うがっ、やられた! 柏の幻術かぁ!」

 おそらく、紫水が剣を鞘ごと滑らせたときにはもう、それは雪花の幻術によって中身が収まっているかのように見せかけられた鞘だけだったのだ。中身の剣はその前に床へ転がされていて、幻術でソフト剣に偽装させてあったのだ。雪花が拾って優貴に手渡したのは、玩具に偽装された本物の剣だったのだ。

 出し抜かれたのだと気づいて臍を噛む尖晶に、優貴は雄叫びを上げながら身体ごとぶつかっていく。

「うわああぁ!!」

 剣で斬るというより、剣を身体ごと押し込んでくるという不格好なやり方だ。けれど、微妙にでも体勢を崩してしまった尖晶には、それを躱すことはできない。体重の乗った一撃に短剣をどうにか合わせて受け流すのが精一杯だった。

「くっ……そがあぁ!!」

 尖晶が汚らしく吠える。

 優貴はよくやったけれど、ここまでだ。尖晶の手から短剣を弾き飛ばすことも、まして傷を負わせることもできなかった。全体重を乗せた渾身の一撃は、斜めにされた短剣の刃を削ぐように滑って、横向きに力をいなされる。なまじ体重を乗せていたため、優貴は流れる剣を引き戻すことができない。むしろ、剣に引っ張られるようにして体勢を崩してしまっている。さきに体勢を立て直すのは尖晶のほうだ。

 優貴には初めから、体勢を立て直すつもりがなかった。体当たりをいなされたと分かった途端、優貴は両膝の力を抜いて、その場に深くしゃがみ込んだ。

「――ッ!?」

 尖晶の目は反射的にそれを追いかけた。だから、致命的に遅れた。

「勇気っ百ばあぁいッ!!」

 しゃがんだ優貴が腹の底から叫ぶ。その肩に跳び乗った雪花も叫ぶ。

「当たって砕けええぇッ!!」

 雪花が優貴に剣を手渡したときにも告げたその言葉は、とある特撮番組のヒーロー二人組が合体必殺技を決めるときに必ず発する決め口上だった。

 優貴の肩を踏み台にして、雪花が跳んだ。それは、意識を下に向けてしまった尖晶の隙を突いた、乾坤一擲の一撃になった……なるはずだった。

 相手の顎を狙った雪花の頭突きは、紙一重で空振りした。雪花は跳ぶ前に前口上を入れた分だけ、絶好の機を逃してしまったのだ。

 雪花の攻撃は外れた。だが、雪花たちの攻撃はまだ終わっていない。

「だああぁ!!」

 優貴が口から気合いを迸らせながら、雪花がしたように跳んだ。ただし、尖晶の腹にぶち当てるのは額ではない。両手でしっかりと支えた長剣の切っ先だ。雪花の身体が目眩ましになった尖晶に、その刺突を避けることはできなかった。

 長剣が、革ベルトと黒いインナーを突き破って肉の奥まで突き刺さった。鈍い手応えが、優貴の腕にも伝わった。

「……ぐはっ」

 尖晶が笑った。血を吐くような凄絶な笑いだが、実際には一滴も溢れていない。それでも、剣は尖晶の下腹部に根本近くまで刺さっている。致命傷でないはずがない。

「やっ……やりやがった、な……」

 尖晶は優貴の肩に手をかけて、剣ごと優貴を引き剥がそうとする。その手にはまったく力が入っていなかったが、優貴は雷鳴に打たれたかのごとく、びくっと全身を震わせて剣から両手を離した。

 けれども、深く刺さっている剣は抜けない。尖晶は腹に剣を刺したまま、優貴を押し退けようとした反動で、よろよろと後退る。

「……おいおい。なんだよ、その顔はよぉ」

 尖晶は優貴を見て、目尻や唇を引き攣らせるように笑う。優貴の顔は紙のように真っ白だった。

 魔術に操られて暴走する従兄弟だの、異世界からの刺客だの、本物の剣を向けられた恐怖だの……非現実的な諸々でパンクして麻痺していた頭だったからこそ、防衛本能の裏返しとも言える闘争心に身を任せることができていた。

 だが、その脅威は去った。闘争心も霧散してしまった。熱狂の去った後の頭に残るのは、人を刺してしまった事実だけだ。

 やらなければ自分たちのほうが殺されていた。これは正当防衛だ――そうやって行為を正当化することはできる。でも、行為自体をなかったことにはできないのだ。両手に残る、肉を刺し貫いた感触は消えないのだ。

「ああ……もしかして、あれか? てめぇ、人殺しは初めてかぁ?」

 尖晶がにたりと、口元をさらに引き攣らせる。

「あ……当たり前だろ……」

 人殺し、の単語に、優貴の顔色は白を通り越して灰色に変わっていく。その変化が面白いのか、尖晶は奥歯を摺り合せるようにして笑うのだ。

「じゃあ、これでデビューだ。おめでとう。ようこそ、人殺しの世界へ……きしししっ」

「違う!!」

 叫んだ優貴に、尖晶は「何が違うものか」と言っているかのような嘲笑を浮かべると、足下から崩れ落ちていった。まるで、糸を切られた木偶人形のような最期だった。

 尖晶は、剣を腹に刺したまま土下座するように突っ伏すと、もうそれっきりだ。ぴくりとも動かない。

「本当に、し……死んで……おれが殺して……」

 生命を感じさせなくなった尖晶を、優貴は直視できなかった。

「安心せい、殺してはおらん」

 雪花が少し呆れた顔で言った。

「え……?」

 どういうことか、と目で問いかける優貴に、雪花は動かなくなった尖晶の頭を掴み上げてみせた。

「よく見ろ。これはただの人形じゃ」

「えっ……あ!」

 尖晶の身体はマネキンになっていた。ついさっき、力尽きて倒れるまでは確かに生きた人間だったのに。

 優貴は見間違いではないかと目を擦るが、やはりマネキンだった。目も鼻もないのっぺらぼうの顔を、人間と見間違えようはずがなかった。

「魔術人形じゃ。尖晶はこれに自分の意識と姿を紐付けして、こちらの世界に送り込んできたのじゃろう」

「つまり……これは、ただの人形……?」

「そうじゃ。生き物ではない。ただの人形じゃ……だから、おまえは人を殺しておらん。安心せい」

「あ……」

 安心しろ、と言われた途端、優貴の身体から、どっと力が抜けた。緊張の糸が切れた、というやつだ。

 へなへなと座り込んだ優貴の肩に、雪花がぽんと手を置いた。

「感謝するぞ、優貴。おまえのおかげで、わらわは殺されずに済んだ」

「は、はは……」

 優貴は力なく笑った。

 自分が、尖晶を殺したのではないと分かって安心しているのか、それとも雪花を助けられたことに喜んでいるのか、優貴にもよく分からなかった。ただとにかく、身も心も限界だった。

 それから二分後、大吾がようやく動きを止めた。優貴が気絶したのは、その二十秒前だった。

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