第4話 学校と、チャンバラと、ストロベリーパフェと。

 瑠璃と一緒に初めて買い物に行って以来、雪花と紫水は何度か外出するようになった。瑠璃のお供をして近所のスーパーへ買い物に行っただけなのだけど、おかげで二人とも、この世界の街並みや人混みに慣れることができてきた。

「この世界の中年女性は恐ろしいのじゃ……」

 午後のタイムセールを経験した雪花の呻きである。

 それはさておき……雪花と紫水の二人はいま、食堂兼居間の大部屋でテレビを観ている最中だった。優貴の部屋にもテレビはあるけれど、居間のテレビのほうが大きいのだ。

 時刻はすでに正午をまわって大分経っている。南西に面した窓から差し込む日差しはぽかぽかと暖かく、ソファに深く腰を下ろしてテレビを観ていると、頭がぼんやりとしてくる。

 いや、心地よい眠気に浸ってぼんやりしているのは紫水だけだった。彼女の隣に座っている雪花は、目を丸々と輝かせてテレビに熱中していた。

「おぉ……そこじゃ、いけ! あっ、くうぅ……なんと卑怯な! あっ、危ない……おぉ、すごぞ! さすがじゃ、そこじゃ、いけいけぇ! いくのじゃあ!」

 座り心地のいいソファなのに、雪花は背中をほとんど背もたれに預けることなく、身を乗り出してテレビに声援を送っている。放映されているのは、再放送の特撮番組だ。普通なら休日の朝にやっていそうな番組だけど、穴埋めなのか特集なのか、今日はたまたまこんな時間にやっていたのだ。

 テレビのなかでは、格好いいボディスーツ姿になった二人組のヒーローが、学校を爆破しようとした怪人の計画を見事に阻止して、破れかぶれになった怪人との戦いが始まったところだ。

「いくぞ、相棒!」

「さあこい、相棒!」

 ヒーロー二人が阿吽の呼吸で呼びかけ合って、必殺技を繰り出す。

 一人が格好いいポーズを決めてからしゃがむと、その肩にもう一人が飛び乗って、これまた格好いいポーズを決める。そして、二人揃って決め口上を叫びながら、しゃがんで人間発射台カタパルトになった一人が思い切り跳び上がって、肩に乗ったもう一人を人間弾道弾ミサイルとして発射させる。

 怪人は逃げも隠れもせずに仁王立ちしてその攻撃を真っ向から食らい、跡形もなく爆発した。

「おおおぉ! 格好いいのじゃ!!」

 爆発に背を向けて最後の決めポーズを披露するヒーロー二人に、雪花は盛大な拍手と歓声を贈る。その音で、うたた寝していた紫水も、はっと目を覚ました。

「あっ……姫様? あれ?」

 寝惚けている紫水を、雪花は半分閉じた目で睨む。

「あれ、ではないわ。せっかくのいい場面を寝過ごしおって、馬鹿者め」

「すいません……」

「まあよい。おまえはどうも、ニュースとかいうもののほうが好きなようじゃからの。わらわにはニュースのどこが面白いのか分からんから、お相子ということなんじゃろうて」

「ニュースは面白いですよ。情報の共有という概念は、おそらくわたしたちの世界にはなかったものですし」

「そういう難しいことは分からん……おっ、見ろ」

 雪花はテレビを指差す。

 エンディングテーマも流れ終わった番組は、ファミリーレストランのCMを映しているところだった。食卓を囲んだ子供連れの家族が、それぞれの前に並んだメニューに向かって大袈裟に喜んでいる。

「紫水、あれはなんという食べ物じゃ?」

「さあ……」

「まっ、分からんよな」

「すいません……」

 申し訳なさそうに項垂れた紫水に、雪花は鷹揚に手を振る。

「よいよい。後で瑠璃が帰ってきたら聞けばいいだけのことじゃ」

 瑠璃はいま役所に提出しないといけいなものがあるだとかで、家を空けていた。帰りに夕飯の買い物をして帰ると言っていたから、帰宅はもうしばらく後になるだろう。

 いま木野宮家にいるのは、雪花と紫水だけなのだった。

「しかし……テレビもいいが、そろそろ身体を動かしたいのぅ」

 雪花が大きく伸びをしながら独りごちる。

「ですが、勝手に出歩くというわけにもいきませんでしょう」

 紫水は当たり前のことを当たり前のように言うのだが、返ってきたのは不思議そうな問いかけだった。

「なぜじゃ?」

「え……」

「わらわも、おまえも、この近所についてはそろそろ把握しておる。二人でちょいと散策するくらい、べつに問題なかろう」

 雪花の言葉に、紫水は考え込む。

「そうですね……この近辺でしたら、わたしたちだけでも大丈夫ですよね」

「うむ、大丈夫じゃ。問題ない。というわけで早速、出かけるのじゃ!」

「えっ……いまからですか!?」

「そう、いまじゃ」

「……って、どこへ?」

「どこでもいいのじゃが……あっ、そうじゃ。ガッコーというところに行ってみたいのじゃ」

「ガッコー……というと、優貴が毎朝出かけていく、あの学校ですか?」

「その学校じゃ。いまテレビでやっていて、楽しそうなところだったのじゃ。べつに通いたいとは言わんから、こそっとでいいので見てみたいのじゃ。なあ、いいじゃろ?」

 雪花は紫水の袖を掴んで、心細げに眉尻を下げてねだる。そんな顔をされては、紫水も無碍には断れない。

「うぅん……」

 唸っている紫水に、雪花は駄目押しの一言。

「おまえが連れて行ってくれないのなら、わらわは一人で行ってしまうぞ。よいのか、わらわを一人で外出させても?」

 その恫喝に、紫水は溜息を吐いて折れた。

「……分かりました。わたしもお供いたします」

「よく言った。それでこそ、わらわの騎士じゃ」

 胸を張ってからからと笑う雪花に、紫水はもうひとつ溜息を零しつつ苦笑するのだった。

 それからおよそ三十分後、雪花と紫水の二人は優貴の通う高校を目指して出発した。出発まで間があったのは、着替えに少々手間取ったからだ。

 雪花は明るい色のシャツに、デニム生地のオーバーオールだ。足下のショートブーツと、腰と頭を飾る大きな金色のリボンはいつもと同じ。紫水のほうは、Tシャツの上にフード付きのパーカーを羽織り、ホットパンツを穿いている。足下はいつもの長靴で、耳はパーカーのフードを被って、ベルトのように巻いた尻尾はパーカーの裾で隠している。それから念のために、雪花の幻術で傘に偽装してもらった剣も持っていくことにした。自分以外の生き物に幻術をかけることは難しいけれど、物の見かけを変化させることなら、雪花にもなんとか可能なのだった。

「これならば、不審がられることはあるまいて」

「ですね」

 結構な苦労をしながら着替え終わったところで、二人は互いの服装をチェックし合うと、満足そうに頷き合った。

「では出発なのじゃ!」

「はい!」

 二人は喜び勇んで、外へと繰り出した。

 住宅街であるこの辺は、この時間帯になると学校から帰ってくる小中学生の姿も、そろそろ多くなってくる。最初のうちは、そんな子供たちと擦れ違うたびに紫水の背中に隠れていた雪花も、そのうちに少しは慣れてきたようで、紫水の手を握っているだけで普通に歩くことができるようになった。

「タイムセールの人集りに比べたら、子供と擦れ違うくらいは大したことないと思うんですけど」

 紫水は歩きながら、くすっと笑う。

「あのときは瑠璃がいたし、驚く暇もなかったのじゃ。というか、わらわはべつに怖じ気づいたりしたことないぞっ」

 頬を膨らませて言い返してくる雪花に、紫水はますます微笑む。

「あれ、そうなんですか?」

「なんじゃ、その顔は……あっ、この手は違うぞ。これは手を繋いでいないと、おまえが迷子になるかもしれないと心配してじゃ!」

「そうだったんですか、ありがとうございます……ふふっ」

 紫水は笑いを堪えっぱなしだ。それが納得いかなくて、雪花の頬はぱんぱんだ。

「うぬぬっ……わらわの騎士のくせに、わらわを馬鹿にするとはぁ……!」

 そう言って腹立ちを露わにしながらも、その手は紫水の手をしっかりと握ったまま離さない。表情と裏腹なその態度が可愛くて、紫水はずっと、くすくす笑いながら歩くのだった。

 そうこうしているうちに、並んで歩く二人の行く手にそれらしき建物が見えてくる。

「おっ、あれじゃないか?」

 雪花が指差した先を、紫水も見やる。

「……はい、たぶんそうです。あそこが出入り口のようですが、ほら、見てください。優貴が着るのと同じ、制服というのを着た少年が出てきています」

「む、どれどれ……おおっ、本当じゃ。するとやはり、ここが学校で間違いないな!」

「はい。学校のなかでも、高校と呼ばれる種類のものでしょう」

「細かいことはいい。さあ、行くぞ!」

 雪花はすぐそこに見える校門を目がけて走り出す。

「あっ、はい」

 雪花と手を繋いでいる紫水も、引っ張られるようにして後に続いた。

 堂々と校門を抜けて敷地内に入った二人だが、とくに見咎められることはなかった。

 二人は知らないことだが、優貴の通うこの高校は、学校指定の標準服と私服のどちらで登校してもいいという校則なのだ。だから、いわゆる制服のことも、標準服という呼び方をするのである。なお、全校生徒における標準服と私服との比率は、だいたい七対三から六対四で標準服のほうが多い。なんだかんだと、朝の忙しい時間に着ていく服を悩まないで済むのは助かるようだった。

 とまれ、そういったわけで、二人が私服姿であることを見咎める者はいなかった。ただし、どう見ても小学校低学年の雪花については、行きすがる生徒たちが不思議そうに見てくることもあった。

「あのちっちゃい子、可愛いっ」

「妹さんと一緒に遊んでるのかしらね?」

 そんな声を交わしながら帰っていく女生徒たちの横顔を、紫水はちらりと見やる。

「姫様、大丈夫でしょうか……」

「何がじゃ?」

 不安げな紫水とは対照的に、雪花は目をわくわくと輝かせている。校舎や体育館などの建物も、そこから出てきたり入っていったりする生徒たちの姿も、珍しくて堪らないらしい。自分のほうが彼ら彼女らからも珍しく見られているのに、まったく気がつかないくらいだ。

「ひ、姫様……わたしたち、見られてませんか……?」

「よいではないか、見られて減るものでなし」

「いえ、そういうことではなく、衛兵を呼ばれたりはしないかとっ」

「衛兵? わらわがテレビで見た感じでは、ガッコーには子供と教師しかいないはずじゃが、違うのか?」

「え、あれ……どうなんでしょう?」

 逆に問い返された紫水が首を傾げていると、雪花が力強く頷いた。

「よし、分かった。優貴を探そう。衛兵がいようといなかろうと、案内役は必要じゃ」

「そうですね。優貴を探しましょう……あっ、でも、どうやって?」

 雪花の言葉に頷いた紫水だったけれど、すぐに眉を曇らす。

「そんなの決まっておる」

 雪花は強気に笑って言った。

「手当たり次第に探せばいいのじゃ」

 言うが早いか、雪花は紫水の手を引いて、手近な建物に向かって走り出した。

 雪花と紫水が向かったのは体育館だ。校門からはそれほど近くないのだが、校内を歩いているうちに、近くまできていたのだった。

 暖かい時季ということもあって、体育館の扉は大きく開け放たれている。二人は開いている扉に身を隠すようにして、館内を覗き見する。

 放課後の体育館では、いくつかの部活が絶賛活動中だった。バスケ部、バレー部、バトミントン部あたりがコートを使っていて、体育館全部のステージ上では、玩具の竹刀みたいなものでチャンバラをしている一団もあった。

「……あっ、いたぞ!」

 雪花が声を上げた。

「えっ、どこですか?」

 尋ねる紫水に、雪花はステージのほうを顎で指してみせる。

「そこじゃ、ほれ。あの壇上で剣の稽古をしている連中のなかにいるではないか」

「え……あっ、はい。見つけました!」

 紫水もすぐに優貴の姿を視界に捉えた。

 優貴はシャツとジャージのズボンという体操着姿で、同じ格好をした三人の少年らと剣を交えていた。

「優貴のやつ、剣を習っていたんですね。言ってくれれば、わたしが腕試ししてやったのに……」

 ほんのりと唇を尖らせる紫水の横で、雪花は苦笑いを漏らす。

「いやぁ、あれは習っているというものでもないようじゃぞ」

「え?」

「ほれ、よく見てみろ。師匠が教えているわけではなく、自分たちで勝手に剣を振っているだけのようじゃ」

 雪花が言うとおり、優貴たちの側に教師らしき大人の姿はなかった。もう少しよく見ていると、少年のうちの一人が指導役になって、優貴ともう一人の少年を教えていることが分かる。残る一人もいちおうは教わっているのだけど、剣の持ち方や摺り足の自然さから、彼が別の流派で長いこと修練を積んできていることが窺えた。

「なんとも中途半端な……! 初心者が師匠もなしにやったところで、実戦で役に立つ剣が使えるようになるものか!」

 紫水は、信じられないものを見た、という形相で目を剥いている。その様子を横目に見ていた雪花が、ふむ、と頷く。

「つまり、師匠がいるべきだ、というのじゃな。よし、では紫水、おまえが師匠になってやれ」

「はい?」

 紫水は思わず、雪花をまじまじと見つめる。

「え、ええと……姫様。それは、わたしにあそこへ行って、優貴たちに剣を教えてこい――と?」

「そうじゃ。嫌なのか?」

「いえ、けして嫌ではないのですが、あの……ひとつ問題が」

「問題?」

「見てください」

 きょとんと首を傾げた雪花に、紫水はステージ上で練習に励んでいる優貴たちの足下を指差した。

「あ……」

 雪花もそれに気づいて声を漏らす。ついでに頬をほわっと赤らめる。

「は、裸足じゃ……あやつら、こんな人前で堂々と裸足になっておるぞ。しかも、男同士で……!」

 おののいている雪花に、紫水はさらに淡々と述べる。

「他の球遊びをしている連中は靴を履いていますが、土汚れが見あたりません。どうやらこの場所、室内専用の靴か素足でなければいけないようなのですが……どうしたらいいでしょうか……」

「いや、どうしたらって……このまま、ブーツを履いたまま入ってはいかんのか?」

「ここで問題を起こせば、本当に衛兵が駆けつけてくるやもしれません。それに、優貴に――ひいては瑠璃に迷惑をかけてしまうことになる可能性は大です」

「むっ……優貴はともかくとして、瑠璃に迷惑をかけるわけにはいかんよな。あいつ、あれで怒ったら怖そうなところあるし」

 瑠璃に怒られるところを想像したのか、雪花はごくりと唾を飲む。

「はい……」

 紫水もフードのなかで耳をぺたんとさせている。

「で、では、どうすればいいのじゃ?」

 困り果てた雪花に、紫水は神妙な顔で言った。

「選択肢は二つ。諦めて帰るか、ブーツを脱いで裸足で行くか……です」

「なんという過酷な二択問題じゃ……!!」

 息を飲む雪花。しかし彼女は、火中に落ちている栗でも拾わずにはいられない性分なのだ。

「……わらわはいくぞ」

「姫様!?」

「ここまで来て、手ぶらで帰るわけにいくか。それにこの世界では、靴を脱ぐことを誰も恥とは思っていない。わらわたちも堂々としてればいいのじゃ」

 雪花は自分に言い聞かせるように声を発しながら靴を脱いで、靴下姿で体育館に上がった。

「ひっ、姫様ばかりに恥ずかしい思いはさせません!」

 紫水も意を決して長靴を脱ぎ、雪花に続いた。

 脱いだ靴を小脇に抱えて、体育館の隅っこをステージのほうへと小走りする二人。部活に励んでいた生徒たちの何人かが二人のことに気がついて不思議そうな視線を送ったりもしたものの、すぐに先輩からどやされて、自分たちの練習に戻っていった。

 紫水たちがステージに上ったところで、玩具の剣を振っていた優貴たちも二人のことに気がついた。

「えっ!?」

 優貴が真っ先に驚きの声を上げた。その声に、他の三人は優貴を不審そうに見る。

「木野宮、おまえの知り合いなのか?」

 優貴ともう一人に教えていた少年が問いかけると、優貴は口元を引き攣らせる。

「え、あっ……ええと……」

 優貴はどう答えるべきかと悩みながら紫水と雪花のほうを見るのだが、その視線を雪花は違った意味に受け取ったようだった。

「来てやったぞ、優貴!」

 靴を抱えていないほうの手を元気よく振ると優貴のほうに駆けていって、最後はそのまま優貴の胸に飛び込んだ。

「おぉ!?」

 まったく予想していなかったその行動に、優貴は逃げるわけにもいかず、反射的に手を広げて雪花を受け止めた。

「えっ……どうして、きみがここに……って、瑠璃さんも一緒なのか?」

 優貴は紫水の他にも連れがいないかと探しながら問いかけるのだけど、雪花はまったく聞いていない。

「探したのじゃぞ、優貴。おまえにガッコーのなかを案内させようと思ったのに、こんなところで剣術ごっこしておったとはのぉ」

 雪花にとっては他意のない言いまわしだったけれど、優貴には一ヶ所、引っかかるところがあったらしい。優貴の眉間に険しい皺が寄る。

「剣術ごっこ? ごっこは言い過ぎだろ、ごっこは」

「む? ……ごっこでないのか?」

「いちおう、本気でやってるんだけど、そうは見えなかったか?」

「うむ」

 即答して頷いた雪花に、優貴は鼻白む。いや、優貴だけでなく、他の三名もそれぞれの態度でずっこけている。

「お、およ? わらわ、何か不味いことを言ったか?」

 目をぱちくりさせている雪花の肩に、遅れてやってきた紫水がぽんと手を載せて、小声で軽く窘めた。

「姫様、彼らは彼らなりに真面目な気持ちでやっているんです。外野が乞われもせずにそういう評価を下すのは、あまり褒められたことではありませんよ」

「ふむ……確かにそうじゃな」

 納得した雪花は、紫水から優貴に視線を戻すと、ぺこりと頭を下げた。

「すまんかったのじゃ」

「いや、うん……まあどうでもいいや」

 優貴が投げやりな感じで肩をすくめたところで、さっき優貴に質問したまま答えをもらっていなかった少年がもう一度、優貴に問いかけた。

「おい、優貴。この二人は――」

「あ、うん。そうだよ、知り合い。ええと……親戚なんだ。親戚の姉妹。いま用事があって家に来ているんだけど、学校に来るなんてどうしたんだい?」

 優貴はぎこちなく愛想笑いしながら、雪花と紫水を交互に見やる。

「来たかったから来ただけじゃ。何か悪いか?」

 悪びれることなく言った雪花に、優貴の笑みがいっそう引き攣る。さすがに紫水が説明を付け足した。

「すまない、優貴。家のなかに閉じ籠もってばかりでは身体によくないと思って、わたしが姫様を連れ出したんだ。ここに来たのは、姫様が学校を見てみたいと申したからなのだが……ひょっとして問題があったか?」

「問題が有るといえば有るし、ないといえばないけれど……それより、きみと雪花の二人だけで来たの?」

「そうだ。わたしたちが、いつまでも瑠璃に付き添ってもらわなければ出歩けないと思っていたか?」

「そうは思っていなかったけど、でも学校に来るとは思ってなかったから」

「……他に取り立てて行き先もなかっただけだ」

 なぜかちょっと照れた素振りで目を泳がせる紫水。

「そんなことより、早く学校を案内せいっ」

 雪花は優貴の袖を掴んで、くいくい引っ張る。

「ええと……」

 優貴は助けを求めるように、仲間の少年たちを見る。が、彼らはにやにや笑っていたり、肩をすくめたり、我関せずで黙々と素振りをしていたりで、助けの手を差し伸べるつもりはないようだった。

「ええと……いまは部活中だから、案内はできないんだ」

 結局、優貴は当たり障りのない言葉で二人を追い払おうとした。二人だけで歩かせるのは危険かもしれないと思いはしたけれど、気恥ずかしさが先に立ったのだった。

 けれども、雪花の返事は優貴の思惑とは異なるものだった。

「ぶかつ……とは何じゃ?」

「え? ええと、部活というのは、学校の授業が終わった後にやる活動のことだよ」

「剣の稽古のことか」

「剣の稽古とは限らないよ。例えばほら、あっちの連中はバレーやバスケ……ボールを使って運動しているだろ。あれはバレー部とバスケ部だから」

「優貴は何部なのじゃ?」

「おれはスポーツチャンバラ部。見てのとおり、一年生四人だけの同好会みたいなもんだけどな」

「ふぅむ……」

 分かっているのかいないのか、雪花は思案投げ首の体で唸る。

「そういうわけだから、悪いけど二人のは案内は――」

 できないんだ、と優貴が言い終わるのを待たずに、雪花が朗々と言い放った。

「よし、分かった。その部活とやら、わらわも混ざってやろうではないか」

「はぁ?」

 口をあんぐり開けた優貴を他所に、雪花は脇のほうにまとめて置いてあったソフト剣――空気で膨らませたゴム製の剣や槍――から適当に一本、長剣サイズのものを取って、ぶんぶんと振りまわし始める。

「さあっ、こい。おまえらの腕前、わらわが試してやるのじゃ。さあ、いざ!」

 やる気満々でソフト剣を構える雪花に、優貴以外の部員たち三人も顔を突き合わせて相談を始める。

「おい、どうすんのさ、これ?」

「うん……まあ、いいんじゃないか、たまにはこういうハプニングも」

「いいのかなぁ?」

「たまに、短時間だけなら、な」

「おれはどうでもいい。みんなの判断に従うよ」

「おれも、ちびっ子はどうでもいいけど、あっちのお姉さんとはもっと一緒にいたい!」

「じゃあ、そういうことで」

 三人の相談は、かなりあっさりまとまった。そのうちの一人、優貴たちに教えていた少年が三人を代表して、雪花のそばまで行くと、しゃがんで目線を合わせてから優しく話しかけた。

「やあ、初めまして。おれは田上たがみ浩志こうじっていうんだ。きみの名前はなんていうのかな?」

「わらわは雪花じゃ」

「雪花ちゃん、だね。随分と変わった言葉遣いだけど、それって最近の流行りだったりするのかな?」

「流行り? よく分からんが、わらわは昔からこうじゃ。そんなことより、早く試合をするのじゃ。わらわの剣は血に飢えておるのじゃ」

「あ、そうだね。それじゃあ、おれと試合してみようか」

「えっ、いいのか?」

 驚きの声を上げた優貴に、浩志は爽やかに笑い返した。

「ただ帰すのも芸がないだろ。気分転換にもなるだろうし、ちょっとくらいならいいさ」

「……なんか悪いな」

 申し訳ない気持ちで頭を下げる優貴に、浩志も他の二人も、「いいってことよ」と肩をすくめる。

「そんなことより、早く試合じゃ。試合をするのじゃーッ!」

「うん、そうだね。でも、負けても泣いたら駄目だよ」

 やる気十二分の雪花に、浩志はにっこりと笑いかけた。

 紫水を含めた他の四人は脇に避けて座り、対峙する雪花と浩志のために場所を空ける。

「姫様、頑張ってください!」

 紫水が応援すると、その隣に座った少年がすかさず浩志に声援を飛ばす。

「負けんなよ、浩志……あ、おれ、下山しもやまみつるって言います」

 声を張って応援したと思ったら、すぐさま隣の紫水に振り向いて、へらへらした顔で自己紹介だ。自己紹介する切っ掛けのためだけに声援を飛ばしたのが一目瞭然だ。

「……紫水という」

 名乗られた紫水は、渋々といった様子で名乗り返した。充のへらへらした態度は、あまり好かないらしい。でも充は、そんなことお構いなしにべらべらと話しかける。

「シスイさん……変わった名前ですね。外国の方だったり? あっ、違うか。優貴の従姉妹だって言ってましたもんね。こっちにはよく来るんですか? 家、近くなんですか? よかったら、またいつでも遊びにきてくださいよ。おれら、だいたいいつもこんな感じで緩く稽古してるんで、もう大歓迎ですから」

「あ、ああ……」

 紫水がちょっと引いているのにも構わず、充はなおも、へらへらぺらぺら喋くろうとする。それを、充の反対隣に座っていた少年が、充の頭をむんずと掴むように手を載せて黙らせた。

「うげっ、何すんだよ。舌を噛むとこだっただろ!」

「試合、始まるぞ」

「はいはい、試合中はお喋り禁止だろ。分かってますっての」

 充はぼやきながら、雪花と浩志のほうに視線を戻す。そちらではちょうど、浩志が簡単なルール説明を終えたところだった。

「ふむ、分かったのじゃ。蹴りや拳は禁止で、後は好きにしていいということじゃな」

「他にも細かいルールはあるんだけど、概ねはその理解でいいよ。審判もいないしね」

「よぉし、説明はもういいのじゃ。さっさと始めるぞっ」

「了解」

 息巻いている雪花と、苦笑する浩志。お互い、適当な距離を取って向かい合って剣を構える。スポーツチャンバラでは、例えば長剣対槍という異種戦もあるのだけど、今回は二人とも長剣を構えている。

「それじゃあ……いいよ、いつでもどうぞ」

 審判がいないので、浩志がそう宣言して試合が始まった。

「先手必勝じゃあ!!」

 試合が始まるなり、雪花が剣を高々と振りかぶりながら真っ向突撃した。そして、その剣を打ち下ろす前に、浩志の剣で腕をぺしぃんと斬り落とされた。本当に斬られたわけではないけれど、そのくらい綺麗に決まったのだった。審判がいなくとも文句の出ようがないほど完璧な一本勝ちだった。

「はい、一本。勝負あり」

 浩志がにっこり笑って宣告すると、ぽかんとしていた雪花もようやく、自分が負けたことを理解して顔を真っ赤に茹だらせた。

「いっ、いまのは違う! いまのは手違いというか……そうっ、立ち会いの呼吸が合わなかったから無効なのじゃ。取り直しを要求するのじゃあ!」

 子供そのものの態度でソフト剣を振りまわして駄々を捏ねる雪花に、浩志は大らかに笑う。

「ははっ、元気がいいなあ。いいよ、もう一回やろうか」

「そうこなくては! ……あっ、今度は得物をこっちに替えるのじゃ」

 雪花は手にする得物を長剣から槍へと替える。長いほうが有利だと考えたのだろう。事実そうなのだが……。

 槍対長剣になった二回戦目も、浩志の一本勝ちに終わった。

 いくら槍のほうが長かろうと、高校生の浩志と小学生くらいの雪花とでは、腕の長さがそもそも違いすぎた。雪花の槍が浩志に届いたときには、浩志の剣も雪花に届いていた。リーチの差がなければ後はもう、腕の差がそのまま勝敗となったわけだった。

「むっ、むきいぃ!! 納得いかんのじゃ! もっかいなのじゃあ!!」

「はいはい、じゃあもう一回ね」

「あっ、得物も替えるのじゃ。これは、わらわには長すぎで駄目だったのじゃ!」

「はいはい」

 というわけで、今度は用意してあった武器のなかでも一番短い短刀を手にする。

 それで勝てたかというと、もちろん負けた。短くて扱いやすくても、それだけだ。リーチの差を埋める技術がなければ、長剣に勝てる道理がなかった。

「そうじゃ、盾を持てばいいのじゃ!」

 逆手に盾を持って、小太刀と盾で再戦を挑むも、これまた敗北。左手を使おうとした分だけ右手の動きが疎かになって、てんで駄目だった。

 怒濤の四連敗である。

 これにはさすがの雪花も、ぐったりと意気消沈だった。

「……うぅ」

 雪花は剣と盾を取り落とし、よろけるようにして紫水の胸に飛び込む。

「ひっ、姫様! 大丈夫ですか!?」

「大丈夫じゃないのじゃ……わらわは四回も負けたのじゃ。これが戦場ならば、四回も斬り殺されていたのじゃあ……」

「大丈夫です、姫様は殺されません! これが戦場ならば、わたしが命に代えても姫様をお守りしておりました! そのことをいまから照明してみせます!」

「おおっ、仇を取ってくれるのか!?」

「いえ、仇討ちではありません。わたしは姫様の剣です。すなわち、わたしが勝つということは、わたしという剣を使って姫様が勝つということです」

「おおっ! つまり、わらわの勝利ということじゃな!」

「はい、そのとおりです!」

「よぉし! 紫水、おまえに命じる――行ってこい。そしてわらわに勝利を捧げよ」

「御意に!」

 尊大に胸を張って紫水を指差す雪花と、その足下に膝を折って頭を垂れる紫水。ステージ上ということも相俟って、まるで舞台の稽古をしているみたいだ。

「……なあ、優貴。この子たちって、子役か何かなのか?」

 充がこそっと耳打ちしてくる。

「まあ、そんなとこ。あんまり突っ込まないでやってくれ」

 優貴は頬を引き攣らせながら答えるしかなかった。

 ちなみに、もう一人のスポチャン部員はずっと無口のまま、興味があるのかないのか分からない目で、浩志の前へと歩いていく紫水を見ている。

「ええっと、きみもやるの?」

「如何にも」

 戸惑いながら尋ねた浩志に、紫水は淡々と答えながら、何気ない所作でソフト剣の切っ先を持ち上げる。たったそれだけのことで、浩志の背中に大量の汗が噴き出した。

「――ッ!?」

 紫水に剣を向けられた瞬間、殺気というやつが浩志の正面から背中へと衝撃を伴って吹き抜けたのだ。

「えっ……きみ、経験者?」

 浩志は呻くように問うが、紫水は答えない。ただ一言、

「いつでもいいぞ」

 そう言ったきり、あとはもう口を噤んで浩志を見据える。浩志にももう、余計なことを口にする余裕がなかった。

「……」

 ごくり、と浩志の喉が鳴る。構えたソフト剣の先が、早くも緊張に堪えかねたかのように揺れた。その瞬間、紫水の剣が跳ねた。少なくとも浩志には、紫水の剣が大きさを増して迫ってくるように感じられた。

「うわっ!?」

 浩志は反射的に剣を振って、迫ってくる紫水の剣を受け止めようとした。しかし、その剣は空しく宙を薙いだだけだ。紫水は最初の姿勢からまったく動いておらず、構えている剣も一瞬揺らめいただけだったからだ。その一瞬の揺らめきが、浩志には斬りつけられたように見えたのだった。

「あ――」

 自分がフェイントに引っかかったのだと悟ったのは、盛大に空振りして体勢が大きく崩れたところへ振り下ろされたソフト剣が、彼の頭を強かに打ち据えたときだった。

 あまりにも見事なタイミングで、あまりにも見事に頭を叩かれたものだから、浩志は声を上げる間もなく、顔面から突っ伏すようにしてその場にぶっ倒れてしまった。

 傍で見ていた優貴たちも呆然としていたけれど、優貴の倒れた物音で、はっと我に返る。そして、歓声と響めきを同時に上げた。

「おぉ……!」

「すげぇ!!」

「……大丈夫か?」

 優貴たち部員三名が驚いている横で、雪花は思いっきり跳び上がって大喜びだ。

「やった、やったのじゃ! さすが紫水じゃ、うひゃっはーッ!」

 子供っぽいのを通り越して、ネジが一本吹っ飛んだくらいの喜びっぷりだ。誰もそれを笑ったり呆れたりしないくらい、紫水の勝ち方は神懸かっていた。

「お、おぉ……なんだよ、いまの……」

 倒れていた浩志が、頭を振りつつ起き上がって紫水を見上げる。

「さあ、なんだったんだろうな。貴様がもっと腕を磨けば、分かる日が来るかもな」

 紫水は一笑すると、雪花のほうに振り返る。

「姫様、見ていてくださいましたか!?」

 つい数秒前までの凛とした姿はどこへやら、ご褒美を待つ飼い犬のような笑顔だ。

「うむ、よくやったぞ。それでこそ、わらわの騎士じゃ。うむうむ」

 雪花が満面の笑顔で褒め言葉を投げると、紫水も誇らしげに照れ笑いする。

「……演劇というか、そういうなりきりプレイなのか?」

 二人の遣り取りに呆れた様子で呟いた充の隣で、ずっと無口なままの少年がすっくと立ち上がった。

「どうした?」

 優貴が彼を見上げると、彼はかつて見たこともないほど好戦的な顔をしていた。普段は修行僧みたいなのに、いまは歯を剥いて笑っている肉食獣だ。

「お、おい……?」

 充も、仲間の異変に気づいて目を白黒させる。無口な少年は、優貴と充の視線を気に留めることなく、紫水の前まで歩いていく。

たかし、なんだ?」

 立ち上がったばかりの浩志が、隣まで歩み寄ってきた無口な少年の名を呼ぶ。けれど、彼は浩志のほうを見ない。ずっと紫水を見据えている。その視線で、紫水には彼の意図が伝わったようだった。

「――そうだったな。わたしは四敗分を取り返さなくてはならないのだから、せめて貴様ら全員を斬って捨てるくらいはしないとなぁ」

 その言葉で、他の連中にも隆と紫水が試合を始めるつもりなのだということを理解した。

 浩志が急いでその場を離れ、雪花も浮かれていた表情を引き締める。

「自分から紫水に挑むとは身の程知らずの輩じゃ。こてんぱんに熨してやれっ」

「はい、姫様」

 紫水は雪花のほうを見ずに答える。正面で長剣を構える隆から、たとえ一瞬でも目を離せなかったからだ。

 開始の合図はない。けれど、隆も紫水も既に剣を構えている。少しでも隙を見せれば、隆は迷いなく斬り込んでくるだろう。獰猛な光を湛えた彼の目は、はっきりとそう語っていた。

 短いが濃密な沈黙。

 二人とも長剣を構えているけれど、紫水は半身に構えた片手持ち。隆は両手に構えた、いわゆる青眼の構え。一般的に言えば、両手持ちは片手持ちより剣の振りが遅く、可動域も狭い。片手持ちのほうが両手持ちより強いというのが常識だ。けれども、そういった一般論が黙ってしまうほど、隆の剣からは気迫が滲み出ていた。

 沈黙のなかで互いの手札を探るような、濃密な数秒間の果てに、紫水が先手を取った。

「はッ!!」

 臑を薙ぐと見せかけたうえで、首筋へと跳ね上げるように打ち込む。

 隆の剣はフェイントに騙されることなく、跳ね上がってきた紫水の剣を、剣の根本で押し返す。そのまま刀身を滑らせるようにして反撃の一太刀を浴びせにいくのだが、これは紫水も読んでいて、しなやかに跳ねる尻尾のような身のこなしでこれを躱した。

「おぉ……!」

 誰ともなく感嘆を漏らす。

 たった数合の攻防は、それほどに緊迫したものだった。雪花までもが応援を忘れて見入っている。

 だが――どちらが勝つのか予想できないように思われた試合も、決着はそれほど遠くなかった。

 紫水の剣は平服での斬り合いを想定したもので、隆の剣は剣道のもの。打っていい場所の決まっている剣道とは違って、身体のどこかに当てればいいというスポーツチャンバラのルールは、紫水に有利なものだった。

 隆はよく粘ったけれど、両手持ちのハンデを覆すことはできずに、それから六度、剣を合わせたところでついに紫水の動きを追いきれなくなり、七度目の斬撃をまともに浴びたのだった。

 最後の一撃は、臑斬りのフェイントから喉元へと跳ね上がる打ち込み――初太刀とまったく同じ一撃だった。

 勝敗が決して感嘆の声が上がったところで、紫水も小さく安堵の息を吐く。

「ふぅ……少し焦りました」

 負けた隆のほうは、無言で優貴たちのほうに戻っていく。声にこそ出していないものの、表情には珍しく悔しげな色が滲んでいた。

 浩志は戻ってきた隆を一瞥すると、充の肩を叩いて言った。

「よし、充。次はおまえだ。行ってこい」

「へ?」

 言われた充はきょとんとしてから、はっと顔色を変えた。

「いやいやいや! 浩志と隆が敵わなかったんだぜ。おまえに習ってる最中の初心者なんだぜ!?」

「べつに勝ってこいとは言わないさ。何事も経験だ、四の五の言わずに負けてこいや」

「わ……分ぁったよ!」

 意を決して小太刀サイズのソフト剣を手に持ち、出ていく充。その三十秒後、開始と同時に綺麗な一本負けをして、すごすご戻ってきた。

 強かに叩かれた胸元をさすりつつ仲間たちの元に戻ってきた充は、優貴の肩に、叩くようにして手を載せる。

「え……?」

 眉根を寄せた優貴に、充は悪い顔で笑いかけた。

「最後、おまえの番だぞ。めっちゃくちゃ痛いから、思いっきりやられてこい」

「……まあ、来るかなぁとは思ってたけどさ」

 優貴は溜息を吐きつつ立ち上がると、重たい足取りで紫水の前まで進んだ。手にしているのは、長剣よりもやや短い小太刀だ。充と同じく初心者の優貴は、長剣よりも扱いやすい小太刀で練習しているのだ。

 正面に立ってぎこちなく小太刀を構える優貴に、紫水はにやりと噛みつくように笑む。

「知らなかったぞ、優貴。おまえが剣の手習いをしていたとはな」

「言うほどのことじゃないからだよ」

「それが謙遜か事実か、確かめてやる」

 紫水は薄笑いしながら剣の切っ先を持ち上げる。小太刀を握る優貴の手に、ぐっと力が籠もる。

「では、始めだ。いつでもいいぞ」

 紫水が宣言。優貴は無言で、じっと紫水を見据えている。自分から飛び込む気がないと明言しているような立ち姿に、紫水は目元で失笑する。

 ここまでの三試合で、紫水の実力が圧倒的なのは分かりきっていた。普通にやっても確実に勝てないのは、優貴でなくても分かる。だから優貴は、相手の初太刀を決め打ちして、それを受けたと同時に反撃するつもりだった。

 後の先、というやつだ。野球で言うなら、様子見や配球を読んだりすることを捨てて、第一球に勝負を懸けた――ということだ。

 もっとも、その意図は紫水にも筒抜けだし、筒抜けだということが優貴にも察せられていた。

 それが意味するところは――

「きみは初心者を相手に、余計な小細工をするような卑怯者じゃないよな?」

 と、優貴が挑発しているのだった。

 その挑発に、紫水は……乗った。

「はあ――ッ!!」

 気合い一閃、紫水が斬り込む。とはいえ、本当に小細工なしの一撃ではない。足下を薙ぐように見せておいて、胸から喉元にかけてへと跳ね上がる一撃だ。

 かかった!

 優貴は自分の読みが当たったことに驚喜する。紫水は何度もこの一撃を見せてきた。だから優貴は、紫水の性格からして挑発的に構えれば、きっと自分にも同じ攻め方をすると踏んだのだ。

「さんざん見せてやった一撃だ。さあ、受けてみろ!」

 紫水の剣はそう言っていた。

 跳ね上げる長剣を、優貴の小太刀が受け止める。足下への防御を最初から捨てていれば、フェイントはただの無駄な動きにしかならない。その分だけ、まだまだ未熟な優貴にも受けられたのだ。

 やった――と思う暇はない。優貴の剣は紫水の剣を弾くや、その反動でもって紫水の喉元を薙ぎにいく。紫水にそれを受けられる剣はない。

 今度こそ、優貴は勝利を確信した。その瞬間、紫水の姿が消えた。

「え……」

 何が起きたのか理解できない優貴の臑を、ものすごい痛みが襲った。続いて横手から歓声が上がる。反対側、ステージ下で練習していたバレー部員も、口をあんぐり開けて壇上を凝視している。

 優貴は左右を見て、前に視線を戻して、それからやっと、自分がどうやって負けたのかを理解した。

 紫水は、優貴の渾身の一撃を、ブリッジするほど大きく仰け反って躱したのだ。そしてそのまま、空いている逆手だけを使って低空でバク転し、着地したと同時に優貴の臑を薙いだのだった。

「どうだ、優貴。これが、わたしの実力だ。思い知ったか」

 立ち上がって、少しずれたフードを被り直しながら勝ち誇る紫水に、優貴はぐうの音もない。

「あんな動き、ありかよ……」

 そんな負け惜しみを搾り出すのでやっとだった。

「すっげ! すっげ、すうっげぇ! なんですか、いまのアクロバットは!」

 歓声を上げて紫水へと駆け寄っていくのは、充だ。そのついでに優貴を突き飛ばしたりもする。

「うわっ……と、と」

 臑の痛みとも相俟って、優貴はよたよたと蹌踉ける。他の部員たちも、優貴には目もくれずに紫水を見ている。いつも無表情で無口な隆までもが、目を丸くして驚いてる。

 充はいつも以上の大騒ぎで褒めちぎっているし、真面目な浩志も、

「いまのすごいね。あれ、狙ってやったの? おれも練習したらできるかなぁ」

 と、いつになく熱っぽい顔で話しかけている。

 そこまで見て、優貴はふと気がついた。紫水の勝利を一番に喜んでいいはずの雪花が、なぜか膨れっ面をして腕組みしているのだ。よく見なくても、喜んでいるどころか怒っているらしいことが見て取れた。

「……どうしたんだ?」

 優貴が話しかけても、雪花は振り向きもしない。優貴が雪花の視線を追ってみると、彼女が睨んでいるのは照れ笑いしている紫水だった。

 紫水は雪花の望んだとおりに快勝したのに、どうして睨んでいるのだろうか――優貴は少し考えたけれど、すぐ納得した。

「あ、そうか。紫水ばっかりチヤホヤされているもんだから、面白くないのか」

「うっさいわ!」

 優貴のほうにくるっと振り向き、噛みついてくる雪花。その子供っぽい態度に、優貴はにやりと含み笑い。

「紫水は言われたとおりに頑張っただけなのに、文句の多いお姫様だこと」

「わらわがいつ文句を言ったか!?」

「言ってるだろ、その目がさ」

「目は喋らないのじゃ」

「こっちには、目は口ほどにものを言うって諺があるんだけど、意味は伝わるかなぁ?」

「初めて聞く言葉じゃが、意味はなんとなく分かるぞ。おまえ、わらわを馬鹿にしておるんじゃろ!?」

「はははっ、そんなつもりはないぞ」

「むがーッ!!」

 優貴がここぞとばかりに雪花をからかうのは、紫水にど派手な負け方をした鬱憤を晴らしているのかもしれない。

 二人が騒がしくしていると、さすがに紫水も気がついた。

「おい優貴、貴様! わたしの前で姫様に喧嘩を売るとはいい度胸だな!」

 紫水は眉を怒らせて優貴に迫る。

「勘違いだよ、喧嘩なんて売ってないって」

「だったらどうして、姫様がご機嫌斜めになっているというんだ!?」

「それはおれのせいじゃなく、きみのせいだろ」

 言い返した優貴に、紫水は怪訝そうに眉根を寄せた。けれどもすぐに、からからと笑う。

「は? わたしのせい? 馬鹿を言うな、わたしが姫様を怒らせるわけなどあるか。ねえ、姫様」

「……」

 雪花は答えず、ぷいっと顔を背けてしまう。

「え、姫様? わたし、何か姫様を怒らせるようなこと、しましたっけ……?」

「べつに何もしてないのじゃ。というか、わらわ、何も怒ってないのじゃ」

 狼狽する紫水に、雪花はふて腐れた顔を明後日のほうに向けたままだ。

「いや、怒ってますよね……」

 途方に暮れている紫水に、優貴が助け船を出した。

「雪花は、格好良く勝ちまくった誰かさんばっかり目立っているのが悔しいんだってさ」

「なんと!」

 紫水は驚愕の目で雪花を見つめる。雪花はそっぽを向いたままだったけれど、その態度が答えだった。

「そんな! わたしは姫様の剣であり、わたしの勝利はすなわち姫様の勝利です。ですから、悔しがる必要などありません。どうか、一緒に喜んでください」

 紫水は熱を込めて言うのだけど、そんなことは雪花だって分かっているのだ。頭では分かっていても、気持ちは割り切れるものではないのだ。

「あっ、そうです」

 紫水が胸の前で、ぱんっと手を合わせる。ぴくっと、いまはリボンに見せかけている耳を揺らした雪花に、紫水は笑顔で告げた。

「これから、あのお店に行きましょう。ほら、出かける前にテレビでやっていたお店です。確か、ここに来るまでの道すがらに似たような店がありました。ね、そこに行ってみましょう」

 紫水の提案に、雪花の膨れていた頬が嬉しげに緩んでいく。でも、完全には緩まずに途中で止まって、また膨らんでしまった。

「わらわ、知っておるぞ。店というものに入るには、金子が必要なんじゃろ」

「あ……そうでした……」

 がっくりと肩を落とした紫水に、雪花はふんっと鼻を鳴らす。

「いいのじゃ、べつに。家に帰れば、瑠璃が煎餅のひとつでも出してくれるかもしれんしの。わらわにはその程度がお似合いなのじゃ、ふんっ」

「姫様ぁ……」

 唇を尖らせてすっかりふて腐れている雪花と、おろおろするばかりの紫水。浩志たちスポチャン部の部員たちは、二人の会話に口を挟んでいいものか分からずに顔を見合わせている。

 自分以外にこの居心地の悪い沈黙をどうにかできないと悟った優貴は、耳を撫でながら二人に話しかけた。

「どっか寄りたい店があるのか? 高くなければ、お金を出してやってもいいよ」

 優貴がそう言った途端、雪花の顔にぱぁっと明るい花が咲く。

「本当か!?」

「おれ、ここで嘘を吐くほど酷くはないぞ」

「つまり本当なんじゃな!」

「そうだよ、本当」

「うひゃっはーッ!」

 さっきまでの膨れっ面が嘘だったかのように、雪花は跳び上がりながら両手を振り上げて快哉を叫んだ。

「やった、やった! わらわ、あれ食べるのじゃ。パフェ食べるのじゃあ! ひゃっはー!」

 ものっすごい喜びようだ。さっきまで、ここで紫水を顎で使っていたり、その紫水に美味しいところを全部持っていかれて拗ねていた少女と同一人物とはとても思えないほどのはしゃぎっぷりだった。

 全身全霊で喜びの舞を踊っている雪花に、紫水も優貴も驚いたり苦笑したりするのを通り越して唖然としている。そんな二人の肩を、充が両手で抱き寄せるようにして叩いた。

「なんだかよく分からないけど、分かった。優貴、おまえはもう、今日は練習を上がれ。そして、あの子にたらふくパフェを食わせてやるんだ」

「え、でも――」

 いきなり帰れと言われて、優貴は戸惑う。当然だろう。そこに、部長である浩志までもが言ってきた。

「充の言うとおりだ。どうせ今日はもうそろそろ終わりにするつもりだったし、優貴はお嬢さん二人をエスコートしてやれ」

「え……」

 些か気障っぽい言いまわしに言い返すべきか、それともお礼を言うべきなのかと迷っていると、隆までもが無言で親指を立てて、

「行ってこい」

 とジェスチャーしてくる。

 自分以外の部員全員から言われたら、優貴も維持を張る気にはなれなかった。

「分かったよ。そんじゃ、悪いけど先に上がらせてもらう。片付けはよろしくな」

「ああ。明日は片付け、おまえ一人な」

 本気か冗談か分かりにくい顔の浩志に、優貴は曖昧に笑いながら手を挙げると、はしゃぐ雪花と、雪花の機嫌が直って嬉しそうな紫水を連れてステージを降りた。

 体育館の出入り口でブーツを履こうとしている女子二人の姿を、練習に戻らずへらへら顔で眺めていた充が、あっと声を上げる。

「おい、いつまで見てるんだ。練習するぞ、練習」

 呆れ顔で声をかけてきた浩志に、充はいまちょうど外に出て行った三人のほうを見たまま、呟くように言う。

「いまさらだけどさ……あの子、裸足じゃなくて靴下だったんだよな……」

 浩志はその呟きの意味に数秒ほど気がつかなかったけれど、やがて、さっきの充と同じく、あっと声を上げた。

 紫水は上履きも履かず、裸足にもならず、靴下履きで試合をしていた。それはルール上の問題があるとか以前に、ワックス掛けされた板張りのステージ上で靴下履きというのは、普通だったら足下が滑ってまともに試合ができるわけない。それを紫水は、軽やかに片手バク転までやってのけたのだ。

 紫水の立ち振る舞いがあまりにも普通だったから、二人とも、そんな当たり前のことにいままで気がつかなかったのだった。

 隆だけは、二人の話を聞いていても、とくに驚いたりしていない。それが、彼だけはとっくに気がついたからなのか、ただ単に内心が顔に出ていないだけなのかは、本人しか分からないことだった。


 部室に戻って標準服に着替えててきた優貴は、部室棟の前に待たせていた雪花、紫水と合流して学校を出ると、通学路の途中にあるファミリーレストランに向かった。

 小洒落た喫茶店や洋菓子店なんかに連れて行かれたらどうしようかと思っていた優貴は、二人の行きたがっていた店がファミレスだったことに安堵しつつ、先に立って店に入った。

 店のなかに入ってからも、雪花は興味津々に、紫水は少し不安げに店内を見まわしている。

「ほら、これがメニュー。家に帰ったら夕飯もあるんだし、一品だけな。ご飯物は止めておけよ」

 優貴はテーブルを挟んだ向かいに並んで座る二人に、メニューを開いて見せてやる。

「おぉ……」

「なんと……」

 二人とも、メニューを見ただけで早速、感嘆している。メニューのなかに並んでいる美味しそうな料理の写真に、雪花は両目をきらきらと輝かせて食い入るように見つめている。

「おぉ、おおぉ……こ、これ、どれを食べてもいいのか? 構わんのか?」

「いやだから、お腹に溜まるものは止めて、軽食かデザート一品にしておけと言っただろ」

「お、そうか。では、このデザートという項目から選べばいいのじゃな……おおっ、これまた美味そうなものがずらぁっと!」

 メニューのなかに並ぶケーキやパフェの写真に、雪花は早くも涎を垂らしそうだ。

「姫様、これなどはいかがでしょうか!?」

 紫水が興奮気味にメニューのひとつを指差す。雪花もそれを見て、きらきらの目をもっと輝かせる。

「おおっ、これはなんとすごいのじゃ!」

「ですよね! 是非、これを頼みましょう!」

 二人が口々に言い立てるほどすごい品とはなんぞや、と優貴もメニューを覗き込む。二人が見ているのは、ビールを注ぐのに使うピッチャーにこんもりと盛りつけられた、お城のようなパフェだった。

 優貴はそのパフェの写真と値段を見て、ひやっと首筋に汗を伝わせる。けれども、すぐさまこう言った。

「これは量が多いから、二人でひとつな」

「むっ、二人でひとつだけじゃと!? むっ、むむむ……!」

 優貴の提案に、雪花は真剣な顔で考え込む。だが、それも長い時間ではない。

「……分かったのじゃ、二人でひとつというその要求、呑もう」

「後から追加注文は絶対に許可しないからな」

 念を押した優貴に、雪花は鼻を鳴らす。

「分かっておるわ。紫水もそれでよいな?」

「はい。姫様がよろしければ、わたしに異論はありません」

「よし。では優貴よ、注文するがいいのじゃ」

 神妙な顔で命じてくる雪花に、優貴は肩をすくめただけで、テーブル脇の呼びつけボタンを押す。やってきた店員に「特大ピッチャーパフェ」をひとつだけ頼む。

 注文してからパフェがやってくるまでの間も、雪花と紫水はメニューのページを捲っては目を輝かせたり、喉を鳴らしたり。他の客が食べているものや、他の客に運ばれていく品物に食い入るような目を向けたり。それから、天井の一角から提げられたモニターに映る店内放送を真面目な顔で観賞したりと、一時も暇を持て余すことなく過ごした。

 あっちを見たりこっちを見たりと忙しくする二人の様子に、優貴もわりと楽しんでいたようで、ふと気がつけば、注文したパフェとグラスがもう運ばれてきた。

 雪花と紫水の前に置かれた特大ピッチャーパフェは、下からチーズケーキ、ティラミス、砕いたフレークとナッツとバナナを混ぜたコーヒークリーム、苺ソースの染みたスポンジと生クリームのしっとりケーキ……と重ねた上に、フルーツ各種と生クリームとカスタードクリームとアイスクリームをこれでもかと盛りつけて、さらにチョコレートソースとカシスソースをかけまわし、そした最後にシナモンパウダー、砕いたパイ皮を散らせ、ついでにポッキーと板チョコを何本か挿したという、数種類のケーキを凝縮させたようなボリュームの化け物だった。

「それでは、ごゆっくりどうぞ」

 パフェを運んできた店員が一礼して去っていく。それを合図に、パフェに見入っていた雪花が、柄の長いスプーンを手にしてパフェに突撃した。

「……どうですか?」

 緊張の面持ちで問いかけた紫水を、雪花はゆっくりと嚥下してから見上げる。そして、小さく息を吸い込んでから言った。

「すっ――ごいのじゃ! 甘いのじゃ、冷たいのじゃ、すわーってするのじゃ、美味いのじゃ!!」

 ボリュームはともかく、値段から考えるに、そこまで感動するほどいい材料を使っているとも思えないのだが……圧倒的な見た目が味覚にも作用しているのかもしれない。ただのチキンライスも、旗を立てれば美味しいお子様ランチになる、というのと同じ効果だ。

 まあ、本当に美味しいのか、それとも思い込みが味付けしているのかは、実際に食べてみれば分かることだ。

「あ、あの、姫様。わたしも一口いただいてよろしいでしょうか?」

「おう、遠慮するな。これだけあるのじゃ、じゃんじゃん食え」

「はいっ、では!」

 紫水は珍しく喜びを露わにして、探るように伸ばした長柄スプーンでパフェの丈夫を飾る、クリームの載ったアイスを掬い取って口に運ぶ。

「ん……っ」

 アイスの冷たさにか、紫水の眉が官能的な角度に寄せられる。

「冷たくて美味しい……これは、はい、すごいです……あぁ」

 目が潤んでいる。

 どうやら、彼女たちの世界にはアイスクリームがないようだ。シャーベットやフラッペやかき氷もないのかもしれない。

 そんなことを思いながら、優貴はパフェから生えているポッキーを一本摘んで、ぽりぽりと囓る。二人がパフェの大ボリュームを持て余すようなら頑張って食べようかというつもりだったのだけど、どうやらその必要はなさそうだった。

「美味い、美味いのじゃ! しかも、食べ進めるごとに違った味、違った食感が楽しめるという嬉しい心遣いが、またにくい! このパフェという料理を考え出した料理人こそは、まさに天才じゃあ!」

「あっ、姫様。それは最後の苺……わたしのために残しておいてくれたのではないのですか?」

「む? おおっ、そうじゃった。悪い悪い」

「と言いながら食べちゃってますよね!?」

「お? ありゃ、本当じゃ。食べちゃったのじゃ。てへっ」

「てへ、って……姫様ぁ!」

 二人とも、いつもとは微妙に違った顔をしながら、特盛りパフェをぱくぱくと掘り進めていく。優貴はその光景を眺めながらポッキーと板チョコをぽりぽり囓っているだけで、もうお腹がいっぱいだった。

 パフェが運ばれてきてから二十分後には、二リットルは入りそうな大きなピッチャーが空っぽになっていた。

「はぁ……食ったのじゃあ」

「至福のひとときでした……」

 雪花と紫水は揃ってスプーンを紙ナプキンの上に置き、背中をソファの背もたれに預けて、パフェの味になった甘い溜息を吐き出す。

 優貴は呆れるを通り越して、いっそ感心の顔だ。

「本当に食べきるとは、二人ともどんな胃袋をしてるんだよ……とくに雪花」

「ん、わらわか?」

「そう、きみ。紫水の倍くらい食べたんじゃないか?」

「そんなには食べておらん。せいぜい、三割増しというところじゃ」

「いえ、わたしより四割は食べていたかと」

 紫水から少しばかり恨めしげに訂正されて、反対側に目を逸らす雪花。

「ま、まあ、わらわのほうがちょっとくらい多く食べたかもしれんな」

「苺を全部食べました。わたしも苺を食べたかったのに。わたしが苺を好きだって、姫様も知ってますよね?」

 横目でじとぉっと睨む紫水に、雪花は目線だけでなく首ごと逸らして知らんぷり。

「そっ、そうだったかのぉ? わらわ、初めて聞いたと思うのじゃがー?」

「姫様……そんな嘘まで吐くのですか。そうですか、へえそうですかぁ」

 紫水が声の温度を低めると、雪花もはっと表情を引き攣らせて振り返る。

「い、いや、待て。悪かった、わらわが悪かったのじゃ。だから、その……許せ」

「ふんっ」

 今度は紫水が顔を背ける番だった。

 いつもとは随分と違った様子で怒ったり惚けたり拗ねたりしている二人を、優貴は新鮮な気持ちで眺めている。

「苺はそっちの世界にもあったんだな」

 そんなことを呟きつつ、板チョコで甘くなった口をお冷やで潤す。

 雪花と紫水は、腹ごなしのような拗ねたり甘えたりを、もうしばらく続けるのだった。


 ファミレスを出ると、西空はもう茜色から紺色へと染まりつつあった。

「瑠璃さんにメールは入れているけど、少し急ぐか」

「う、うむ……」

 優貴の提案に、雪花がなぜか眉を曇らせる。

 どうしてそんな顔を、と小首を傾げた優貴に、紫水が説明した。

「わたしたち、瑠璃に留守居を任されていたにも関わらず、黙って出てきてしまったからな……」

「うむ……よくよく思い返してみると、鍵を掛けてきたかも怪しいのじゃ……」

 雪花は眉も唇もへの字に曲げて、情けない顔をしている。

「せめて、書き置きだけでも残していくべきでした……」

 被っているフードのなかで、紫水の猫耳もへこたれている。

 優貴は肩をすくめて、そんな二人をからかう。

「自業自得って言葉のいい見本だな。あ、意味は分かるか?」

「ふんっ、馬鹿にするでないわ。言葉が分かるというのは、言葉の意味が分かるということじゃ。その程度の慣用句、分からいでかっ」

「慣用句じゃなくて四字熟語だけどな」

「似たようなもんじゃろ」

「まっ、そうだな」

 またも肩をすくめて笑う優貴に、雪花は不服げに鼻息を鳴らす。

「要するに、帰ったら瑠璃に叱られよ、というのじゃろ。そのくらい、覚悟はできとるわい。のう、紫水」

「はい。このうえは腹を括っております」

 話を振られた紫水も、真面目な神妙な面持ちで頷く。

「二人とも、いい心がけじゃないか。まっ、瑠璃さんもねちねち怒るひとじゃないから、一発がつんと怒られるといいさ」

 早くも身構えている二人に、優貴は肩を揺らして、また笑うのだった。

 すっかり日が落ちた頃に帰宅した三人を出迎えた瑠璃は、

「これは、けじめですから」

 と言って、雪花と紫水の頭を一回ずつ拳骨でこつんと叩いた。

「ごめんなさいなのじゃ」

「申し訳ありませんでした」

 叩かれた頭を垂れた二人は、素直に謝った。

「次からは、出かける前にわたしか優貴さんに言うようにしてください。どちらもいなければ、せめて書き置きくらいはしていってください。それから、近日中に鍵を用意しておきますので、出かけるときは施錠も忘れないようにしてください。いいですね」

「かしこまりました」

「相分かったのじゃ」

 二人がこれまた素直に返事をすると、瑠璃はいつもより少し硬くしていた表情を和らげて言った。

「それで、外出は楽しめましたか?」

「あ……うむっ、もうすっごく楽しかったのじゃ!」

 雪花はさっきまで萎れていたのが嘘みたいな満面の笑顔になって、今日のことを瑠璃に話し始める。勢いばかりで要領を得ないところは、傍に控える紫水が補足する。そうして、優貴の高校に行ったことや、部活に混ぜてもらって試合をしたこと、紫水が連勝して喝采を浴びたこと、その帰りにファミレスに寄って大きなパフェを食べたこと――出かけてから帰ってくるまでのことを瑠璃に話した。

「ファミレスに寄るというメールは受けていましたが、やっぱり夕飯は遅くしたほうがいいようですね」

 一通り話を聞き終えたところで、瑠璃が思案顔で言う。けれども、雪花は頭を振った。

「ううん、すぐでいいのじゃ。パフェも美味ではあったが、今日は剣術ごっこもしたし、結構歩いたし、お腹はまだまだぺこぺこなのじゃ。なんだったら、いますぐ食事にしても構わんくらいじゃぞ」

 その言葉に、瑠璃はくすりと微笑を零す。

「まあ……でしたら、準備はできていますから、いますぐ夕食にしましょうか?」

 言葉の最後は、優貴と紫水に向けての問いかけだ。

「あ、はい。わたしもすぐに食事で構いません」

「おれはそもそも、ポッキー一本と板チョコを一欠片しか食べてないんで」

 二人の答えに、瑠璃は頷く。

「では、すぐに支度しましょう。雪花さん、紫水さん、手伝いをお願いします。優貴さんは着替えてきてください」

「はい」

「分かったのじゃ」

 元気よく返事した雪花と紫水に、瑠璃は柔らかく微笑んだ。

 それから、瑠璃たち三人は台所へと歩いていき、優貴は二階の自室に向かう。階段を上りながら、優貴はついさっき目にした瑠璃の微笑みを思い返していた。

「瑠璃さんも、あんなふうに笑うんだ……」

 そう呟いたときの表情は、笑顔でも渋面でもなかった。瑠璃がいつもするような――していたような、感情を噛み殺した表情だった。

「おれも、あいつらみたいに甘えられればよかったのかね」

 誰に聞かせるわけでもない呟きは、誰の耳に届くことなく階段を転がり落ちていった。

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