第2話 帰ってきた親父と、家政婦と、メイドものと。
雪花と紫水が突然現れてから早くも三日が過ぎた。
その三日の間、二人は木野宮家から一歩も出ることなく、ひたすらにテレビを観たり、本や新聞を読み耽ったりして過ごした。ふさふさの大きな耳と尻尾を生やした、あまりにも目立ちすぎる格好で外出されては収拾がつかなくなっていただろうから、優貴としても願ったり叶ったりだった。
雪花が最初に使った、現地人の脳内から言語に関する知識を転写する魔術は、会話ができるようになるだけでなく、文字の読み書きにもしっかりと効果があるようだった。
なお、テレビに齧り付きなのが雪花で、本や新聞を濫読しているのが紫水である。朝から晩までテレビ漬けになっている雪花もたまには新聞に目を通したりもするけれど、見るのはテレビの番組欄と四コマ漫画だけだ。そして、テレビで観るのは、アニメと料理番組ばかりだ。そういうところは、姫様だなんだといっても、やはりお子様のようだった。
対して、紫水が本や新聞を読み漁っていたのは、この世界のことを少しでも早く理解するためだ。優貴の本棚は漫画ばかりでその役には立たなかったけれど、父親の書斎にごまんと収められている歴史関係の蔵書はかなり勉強になったようで、昨日などは朝から新聞を書斎に持ち込んで、トイレのとき以外は夜まで一度も出てこないという徹底っぷりだった。
気を利かせた瑠璃が、書斎から出なくても食べられるようにサンドイッチを持っていくと、紫水は新聞の国際問題に関する記事と歴史書とを見比べるようにして読み耽っているところだったという。
「優貴さんもあのくらい勉学に励んでみたら、旦那様に答案用紙を見せるのを怖がらなくても済むようになりますよ」
その日の晩、夕飯の席で甘口のカレーをみんなで食べているときに瑠璃からそんな一言を言われて、優貴は鼻白んだものだった。
そして、雪花と紫水が暮らすようになって三日目の今日、ついにその日がきた。しばらく出張で家を空けていた優貴の父親が今日、帰ってくるのだ。
「いいか、二人とも。今日はもう、部屋の外に出るのは禁止だからな」
学校から帰ってきた優貴は、自室に呼びつけた紫水と雪花に向けて断固とした口調で命じる。
「なんでじゃ?」
首を傾げた雪花に、優貴は目を剥いて言い立てる。
「親父が帰ってくるからだよ。昨日も言ったし、今朝も言っていただろ」
「おお、そうじゃった……だが、なぜ父君が帰ってくると、わらわたちは部屋から出てはならなくなるのじゃ?」
「だから、親父に見つかったら面倒だからだと言っていたじゃないか……」
「そうじゃったかのぉ?」
雪花がわざとらしく眉間に皺を寄せるのを見て、優貴は怒る気力をなくしてしまう。
「……とにかくそういうわけだから、明日、親父が家を出るまではこの部屋で静かにしていてくれ。本当に頼むよ」
「任せておけ」
えっへんと胸を張る雪花に、かえって不安が募ってくる。
「……紫水、この姫様が騒ぎ出さないようにしっかり見張っていてくれよ」
優貴は紫水のほうを見て、真剣な顔で頼み込む。
けれども、
「ああ、分かっている」
そう答えた紫水の顔は、優貴を見ていない。彼女はベッドに腰掛けて、新聞入れから持ってきた数週間分の新聞を読み耽っている。その足下には書斎から持ってきた本も数冊ほど積まれていて、大人しく読書をして過ごす用意は完璧のようだ。しかしそれは裏を返せば、雪花の面倒を見る気はない、ということだ。
「きみは姫様の騎士で、姫様の面倒を見るのが仕事なんじゃなかったっけ?」
「わたしの任務は、姫様に降りかかる火の粉を払う盾であり剣であることだ。姫様を監視することではない」
「そういうのを詭弁と言うんだ。親父にばれたら、きみたちはこの家を追い出されるかもしれない……いや、間違いなく追い出されるぞ。その危機を事前に振り払うのは、騎士の任務じゃないのかよ?」
優貴の刺々しい声音に、紫水もさすがに新聞から顔を上げた。
「そんなに言わなくとも分かっている。だが、貴様も姫様を見くびるなよ。ほんの一日や二日、大人しく過ごすなど造作もないわ。ねえ、姫様」
「……」
「姫様!?」
えっへんと胸を張ったまま無言で顔を背けた雪花に、紫水が目をまん丸にして驚いた。
「いや、わらわだって子供でない。第七位とはいえ、将来、王女になるかもしれなかった身の上じゃ。無論、どこに出しても恥ずかしくないような教育を受けてきた。一日や二日、淑やかに過ごすことなど造作もないわ」
「ですよね! さすが、姫様です」
紫水は嬉しそうに顔を輝かせたけれど、雪花はまだそっぽを向いたままだ。ごにょごにょと呟くような声で続ける。
「そう、造作もないことじゃ。造作もない……が、ほれ、まあそのにゃんだ。わらわは遊びたい盛りの身空を英才教育に費やしてきた、ある意味で憐れむべき子供であったわけでじゃな、その……だからな……な?」
「……だから?」
優貴が胡乱げな目をしつつも促すと、雪花は身体ごと二人に背を向けて、ごにょごにょ。
「だから……ここには爺やも婆やも侍従長も、奴らの息がかかった侍女らもいないのだと思うと、こう……わらわのなかのずっと抑え込まれてきた童心がな、水を得た魚のようにじゃな、こう……ぴちぴちーっとな。な、分かるじゃろ?」
分かるじゃろ、と言いながら、雪花は背後の二人をちらっと振り向いた。
優貴は胡乱げな目つきで紫水を睨む。
「……おい、紫水さん」
「言うな。分かっている。姫様のなかの
「よろしく頼むよ、本当に」
「骨は拾ってくれ」
「……」
悲愴な顔で冗談とも本気ともつかないことを言う紫水に、優貴は神妙な顔で頷くのだった。
それから一時間後、優貴の父親が帰宅した。
紫水と雪花は予てからの打ち合わせ通り、優貴の自室に籠もって大人しくしていた。懸案だった雪花のなかの抑えがたき童心も、紫水が読書を諦めてテレビゲームの対戦相手を勤めることで、どうにか解決した。
二人ともこちらにくるまでゲーム機に触れたことなんてなかったけれど、遊びたい盛りな子供の吸収力はすさまじいもので、一時間も対戦した頃にはもう、紫水は最大限にハンデを使わないと勝負にならないくらい、雪花のコントローラー捌きは上達していた。もうあと一時間もプレイしていたら、紫水ではまったく相手にならなっていたことだろう。そうなっていたら、ゲームに飽きた雪花が発作的に部屋を飛び出して家中走りまわりたくなっていたかもしれない。
しかし、その心配は杞憂だった。優貴の父親は一階の自室と居間に三十分と少しほどいただけで、瑠璃に支度させた着替えや資料を持って、また仕事に出かけていった。二階に上がってくることはおろか、優貴に声をかけることもしなかった。
「旦那さまは、またしばらく外泊が続くそうです」
父親の外出を玄関先まで見送りにいった瑠璃が、様子を見に降りてきた優貴に向けてそう言った。
雪花たちのことがばれなくて安堵した気持ちはなかった。優貴の心に沸いたのは、怒り、悲しみ、やるせなさ――そんな類の感情だけだった。
「……馬鹿みたいだな」
危うく目尻から涙が零れかけて、優貴は両手の拳を固く握り締める。
瑠璃は何も言わない。でも、その場を立ち去るわけでもなく、色のない表情でただ黙然と佇んでいる。
優貴のほうも、瑠璃に話しかけているのかいないのか分からないまま、声を吐き出し続ける。
「親父が、おれや家のことにまったく興味がないのは分かりきっていたのに、なんでおれ、あんなに慌てていたんだかな」
「……」
「むしろいっそ、あいつらに大騒ぎさせたら面白かったかも。どれだけ騒いだら親父が気にするか、賭けてみるのも楽しかっただろうな」
「……」
瑠璃は返事をしない。返事をしたら、優貴が弱音を吐いていることになってしまう――と深く考えているのかもしれない。ただ答えるべき言葉がないだけかもしれない。
そんなことを考えているうちに、優貴はふっと笑い出す。
「まっ、そんなことしても損しかしなかったか。無事にやり過ごせたんだから、百点、花丸。よかったよかった。うん、よかった」
優貴は両手で後頭部を抱えるようにして大きく背伸びすると、自室に戻っていった。瑠璃は部屋の扉が閉まる音を聞くまでずっと、その場に立っていた。
自分の部屋に戻った優貴が見たのは、きゃっきゃと勝ち誇っている雪花と、その足下でぼろ雑巾のように頽れている紫水という光景だった。テレビには対戦型格闘ゲームの、勝利キャラが勝ち名乗りを上げている場面が映っている。二人に確かめるまでもなく、勝ち名乗りを上げているキャラを使っていたのが雪花で、そのキャラの足下で倒れているキャラを操作していたのが紫水だろう。
「姫様、お願いします。次はもう少しハンデをください……」
「すでにやれるだけのハンデをくれてやっているぞ。それでも勝負にすらならんとなると、もうゲームは止めにして、思いっきり大きな音を立てて家探しするしかないかのぉ」
「ひっ、姫様、それだけはどうかご勘弁を!」
「ふふぅん、どうしようかのぉ」
「うぅ……そんなことをされては、わたしの沽券にも関わります。それに、本当にここを追い出されてしまうかもしれません……ですからどうか、後生ですから、この部屋を出ることだけはご勘弁ください……!」
「どぉするかのぉ? ふぉっほっほっ」
優貴が入ってきたことに気づいていないわけがないだろうに、二人はよく分からない寸劇を続けている。もはやゲームの相手を務められそうにないと判断した紫水が、身を削って雪花を引き留めているのだった。
「――もういいよ、家探しでもなんでもしてくれて」
言いながら、優貴はベッドにどさっと身体を投げ出す。
「なんと?」
雪花が可愛らしく驚く。紫水もむくりと起き上がって、一転、真面目な顔で顎を撫でる。
「というと、貴様の父上はもう家を出たということなのか?」
「そういうこと」
「それは……随分と早いな。確か話では、出立は明日だと言っていなかったか?」
「瑠璃さんからはそう聞いていたんだけど、今日になって予定が変わったんだろ。親父はいつもそうだ。予定が変わって家に長くいたことはなくても、その逆なら毎度なんだからさ」
「確執あり、といったところか」
紫水の呟きに、優貴はごろりとうつ伏せになって顔を隠すことで答えた。
さすがに空気を読んだようで、雪花も顔いっぱいに浮かべていた勝利の笑いを収める。
「ふむ、事情はよく分からぬが、危機は去ったということじゃな」
「そう」
枕に顔を押しつけたまま答えた優貴に、雪花はにんまり笑った。
「そうかそうか。では、おまえもこれで何の心配もなくゲームができるな」
雪花はとてとてっとベッドに寄って、小さな手で優貴の肩を揺さぶる。
「おい起きろ、優貴。起きて、わらわとゲームをするのじゃ。紫水ではもう相手にならんのでな」
「うぅ……すいません、姫様」
紫水が申し訳なさそうに項垂れる。
「なに、べつにおまえが謝ることではない。おまえは騎士で、わらわの遊び相手が仕事ではないのだからな。適材適所というやつじゃ。というわけで優貴よ、わらわの遊び相手を務めさせてやるぞ」
「姫様……!」
臣下へのフォローも忘れない雪花に、紫水は胸の前で手を合わせて感激している。そんな遣り取りも、枕に顔を押しつけている優貴には見えていないし、顔を上げて見る気もない。
「うるさい。頼むから、ほっといてくれ」
優貴が顔も上げずに言った。
「ほっといてくれ……じゃと!?」
雪花は両目と口をまん丸にして驚愕すると、猛然と抗議し始めた。
「なんじゃ、おまえ! わらわの頼みを断るのに、ほっといてくれ、とは何という言い様じゃ!? 頼みを断るなとは言わんが、もっと申し訳なさそうに断るのが礼儀というものじゃろうが!」
優貴の、喚き散らす雪花への返答は簡潔だった。
「……煩い、出ていけ」
顔を伏せたまま、手振りだけで扉を指し示す。その態度に、雪花の怒りも超特急で頂点に達した。
「ぬ、ぬっ、ぬうううぅッ!! おまえが出ていけ! 紫水、放り出せぇ!!」
「はい、姫様!」
雪花が激しい手振りで扉を指すや、紫水ががばっと飛びかかるように優貴の腰を抱え上げる。
「なっ、なあぁ!?」
いきなり抱きかかえられて驚いているうちに、優貴は廊下に投げ出された。尻から落とされて呻く優貴の前で、扉が勢いよく閉められた。
唖然としている優貴に、扉のなかから雪花が言い放つ。
「そんなに煩いなら、おまえが出ていけ! わらわたちは何があっても、ここから出んからなッ!!」
優貴はしばらく唖然としたまま扉を見つめていたけれど、がちゃっと鍵の掛かる音を聞いて、はっと立ち上がった。
「おい、馬鹿! おまえら、何を考えてるんだ! ここはおれの部屋だぞ、どうしておれのほうが閉め出されなくちゃならないんだよ!?」
優貴はノブをまわそうとしたり、扉を叩いたりしながら叫ぶ。しかし、室内の二人は、ことさらに無視する。
「おい、紫水。そういえばさっき、優貴のやつが言っておったよな。家探しでもなんでもしていい、と」
「はっきりと言っていました」
「よし。では家探しを開始するぞ」
「はい!」
そんな会話に続いて、箪笥や押し入れを開ける物音。扉への殴打を止めて聞き耳を立てていた優貴は、憤慨に赤くなっていた顔を、さぁっと青くさせていく。
「ばっ……おい、本気で止めろ! 止めるんだ……止めてください、ちょっと!? おい、聞いてるか? 聞こえてるだろ!? 止めろ、止めて! 本当に――おい馬鹿、止めてぇ!!」
優貴はノブを必死でがちゃがちゃまわして、壊れてもいいから開けようとするのだけど、ノブは自らの耐久性を誇るかのように、びくともしない。思いあまって扉に肩から体当たりしてみても、蝶番が外れたりすることはない。
「頼むから止めろ! 止めて! くださいっ、本当に!」
もう怒りはどこへやら、必死で懇願する優貴。けれども異世界の女子二人は残酷で、聞こえていないはずがないのに、まるっと無視して、ごそごそとお部屋探索を進めている。
「姫様、わたしの勘ではこの辺が怪しいですぞ」
「よしっ、わらわはこっちの本棚を調べるから、おまえはそちらを探すのじゃ」
「かしこまりました!」
扉越しに二人の会話を聞いているうちに、優貴の顔色は青から白へと変わっていく。
優貴だって年頃の男子だ。たとえ身体の一部が人間とは異なっている異世界の相手とはいえ、年頃の女子に見られたくないものひとつやふたつ、部屋の各所に隠してあったりする。しかも、いままで自宅にいるのは、優貴の部屋に上がってくるなんて滅多にない父親と、見えるところをさっと掃除するくらいの瑠璃だけだったら、隠し方もぞんざいだ。がそごそと物音がするほど盛大に捜索されたら、見つかるのは必至だった。
「あっ、姫様! 怪しいものを発見しましたよ!」
ついに紫水が声を張り上げた。
「待て、止めろ!」
優貴の悲痛な声は当然、無視される。
「でかしたぞ、紫水。わらわにも見せろ!」
「止めてくれぇ!」
優貴はもう一度、必死にがんがんと扉を叩く。開かないと分かっていても叩くのは、物音でもって二人の話し声を掻き消したいからだったのかもしれない。
その思いが天に通じたのか、室内から聞こえていた声や物音がぴたりと止む。扉を叩いていた優貴の手も、その気配を感じて止まる。
「……」
優貴は、自分の喉がごくりと鳴った音を聞きながら、扉に耳をぴたりと押しつけて、なかの様子を探ろうとする。
かつてないほど冴えている優貴の聴覚が、二人の話し声を聞き取った。
「紫水、これは……ゲームか?」
「そうだと思います。優貴がこの装置に嵌め込んだのも、この円盤と同じものだったかと」
「ということは、この円盤をゲーム機に入れれば、新しいゲームができるということか……?」
「はい、おそらくは」
二人の会話から察するに、紫水が見つけたのは女子に見られたくない類のものではなく、ゲーム用のディスクだったらしい。
「はあっ……」
安堵の溜息が、優貴の口からどっと溢れた。
良かった。ゲームなら問題ない。むしろ、ゲームに熱中してくれるのなら大歓迎だ。夕飯時まで時間を稼げれば、あとはどうせ、向こうのほうから部屋を出てくる――。
優貴の顔にも、ようやく血の気が戻ってきた。
「おっほおおぉッ!!」
「うわああぁあぁ!?」
室内で上がった大絶叫の二重唱が、扉に耳をつけて安堵していた優貴を派手に転けさせた。
「なっ、なんだぁ!?」
優貴は、部屋の扉と反対側の壁に寄りかかる体勢になって、引き攣った顔で自室を見つめる。すると、さっきまでは呼べども叩けども開かなかった扉が、内側から勢いよく開け放たれた。
開け放ったと同時に、紫水が飛び出してきた。
「うわぁあぁぁああぁぁッ!!」
紫水は叫びながら、座り込んでいる優貴の胸ぐらを引っ掴むと、そのまま部屋のなかに引っ張り込んだ。
「うおぉ!?」
女性とは思えない力で引っ張られて、顔面から転びそうになる優貴。そこを紫水は、今度は首根っこを掴んで引き留め、床に座らせる。そして、間髪入れずにテレビを指差して喚いた。
「おい貴様、これはなんだ!? こんなものを姫様に見せるとは何事だぁ!!」
紫水の言う、これ、が何を指しているのかは、言われる前から優貴にも分かっていた。テレビに映っているのは、優貴が映画DVDのパッケージに入れて隠していたDVDの内容物――お子様は見たらいけない類の、男と女がアレしてアレする映像だった。しかも、ほんのちょっぴりばかし特殊な趣味のものだった。
「お……お、ぉ、お、おおぉ……!!」
男女が大人な意味でいちゃいちゃしているテレビ画面を、雪花は食い入るように凝視している。
「おい、紫水。これは何じゃ? この女子、すごい声を出しているが、これは苦しんでいるのか? それとも楽しんでいるのか!? おい、紫水!?」
「いけません、姫様。これはまだ姫様には早すぎます! 見てはいけません!」
紫水は背中から抱き締めるようにして、雪花の両目を手で覆い隠す。
「うおっ、なんじゃ!? 紫水、これでは見えんぞ」
「ですから、見てはいけないのです。見てはなりません!」
「なぜじゃ!?」
「そっ、それは……子供が見るものではないからです」
「どうして子供が見てはならないのじゃ?」
「どっ、どうしてもですっ」
「だからどうしてじゃ!?」
「どうしてもですぅ!!」
テレビ鑑賞を邪魔する両手を振り解こうとする雪花と、絶対に見せまいとする紫水の戦いを、優貴は呆然と眺めていた。
テレビのリモコンはそこに転がっているし、ゲーム機も手を伸ばせば届くところにある。でも、コレクションを暴かれてしまった恥ずかしさで頭がどうにかなっていて、テレビかゲーム機の電源を落とせばいいという発想が思いつかなかったのだった。
テレビのなかでは相変わらず、きれいな女優と半分見切れている男優が激しくプロレスしている。スピーカーから、ピアノの右側の鍵盤を弾き散らすような高音が流れっぱなしだ。
「――これはどういう状況でしょうか」
優貴の後頭部に声が降ってくる。もちろん、目の前で押し問答している雪花と紫水のものではない。この家に残っている最後の人物、瑠璃の声だった。
「あひっ」
放心していた優貴が、へたり込んだ姿勢から予備動作なしに跳び上がった。跳ねた尻が着地するのと同時に振り向いた優貴の前には、半袖シャツにぴったりしたジーンズという、地味だけど色っぽい服装をした瑠璃が立っている。彼女の視線は優貴の頭上を通り越して、テレビ画面をまっすぐ見ている。
「あっ、いや、これは……違うんです」
考えるよりも先に、優貴の口は言い訳を始めている。顔は瑠璃を見上げたまま、片手で床を叩くようにして、テレビのリモコンかゲーム機を探す。なのに、さっきまでは確かに手を伸ばせば届くところにあったはずのリモコンもゲーム機も、なぜか見つからない。テレビのなかでは、男女プロレスが対戦相手を入れ替えて第二ラウンドに移行している。
瑠璃は何も感じていないような無表情で、そんな映像を目に映している。
「いや、だから……違うんです。これは――」
優貴の空しい言い訳を無視して、瑠璃が薄い唇を開く。
「メイドもの、ですか」
「あがっ……!!」
一切の感情を感じさせない淡々とした一言なのが、よりいっそうの鋭さで優貴の胸に突き刺さる。乱れたメイド服姿の女優が映っているテレビ画面から、ちらっとずれて優貴を見やった視線にも、冷めた温度しか感じられない。テレビを消せばいいということも忘れるくらい動転している紫水のレベルにまでは達しなくとも、せめて少しくらいは怒ったり軽蔑したりしてくれれば救われたのかもしれない。でも実際には、瑠璃はいつもの調子で淡々と告げただけだった。
「テレビ、消さないんですか?」
「あ、はい……消します……」
優貴の手は呪縛から解かれたようにすんなりとリモコンを掴み取って、テレビを消した。
「あっ」
途端、安堵の声を上げる紫水。彼女の手をようやく振り解いた雪花は、真っ黒になって沈黙したテレビに眉根を吊り上げて憤慨する。
「むむっ、なぜ消した!? 早く、もう一度見せい! わらわにだけ見せないとか、そういう子供扱いは許さんのじゃあ!!」
雪花は紫水の服を掴んで大声を出す。テレビを見せろとせがむ子供そのものだ。
「姫様、どうかご理解ください。あんなもの、子供だろうと大人だろうと、見てはいけないのです。あんなものを姫様に見せたとあっては、わたしは本当に自害しなくてはならなくなってしまいます! どうか後生ですから、わたしの命を助けると思って、もうそのようなことは言わないでください!」
紫水も必死に説得しているが、それで納得するようなら、雪花もここまでごねたりはしない。
「嫌じゃ! 見るのじゃ、絶対に!」
雪花はそう言うが早いか、紫水の側からぱっと身を翻して、優貴に飛びかかった。まだ放心から立ち直りきっていない優貴の手からリモコンを奪い取るのは造作もないことだった。けれども、雪花の手が伸びるよりも一瞬早く、瑠璃の手が優貴の手からリモコンを取り上げていた。
「あっ、返せ!」
両手を伸ばしてしがみついてくる雪花を、瑠璃はリモコンを高々と掲げたまま表情を変えることなく見下ろす。
「雪花さん。このビデオを見ていいのは大人だけなんです」
「わらわは大人じゃ」
「本当ですか?」
「本当じゃ!」
「大人は甘いカレーを食べませんが、いいんですね」
「なんじゃと!?」
雪花の顔に動揺が走る。
「大人用のカレーは、舌が焼けるほど辛いですが……大人なら問題なく食べられますよね」
「う、ううぅ……」
雪花が目を泳がせてしまうのは、この前に食べたカレーの味を思い出しているからだ。瑠璃は子供でも食べやすいように甘口で作ったのだけど、それでは物足りなかった優貴が胡椒や唐辛子をたっぷり振って食べたのを、雪花も真似してしまったのだ。そのときの、冷水を何杯飲んでも治まらなかった喉や唇のヒリヒリを思い出しているのだった。
「どうしますか、雪花さん。これからは辛いカレーしか食べませんか?」
勝ち誇るでもなく淡々と尋ねる瑠璃に、雪花はがっくりと項垂れて敗北を認めた。
「辛いのは嫌なのじゃ……」
「はい、分かりました」
瑠璃はくすりと目尻を緩ませた。
でもすぐに、いつもの静かな顔に戻って優貴のほうに振り返る。
「優貴さん、このビデオは処分しますが構いませんね」
語尾を上げた疑問系ではなく、確認の、いや断定の口調だ。
「と、友達から借りたものだから、処分は……」
咄嗟に口から嘘が出た。その一瞬、優貴を見つめる瑠璃の視線が冷ややかになる。ひっ、と口のなかで呻いた優貴に、瑠璃は嘘みたいに優しく微笑んだ。ただし、目つき以外で。
「そうですか。では、いますぐ、友達に返してきてください」
「え……いますぐ……?」
「はい。自転車で行けば、日が暮れるまでには帰ってこれるんじゃないですか」
「い、いや……あっ、そうだった。おれ、あいつの家にはまだ行ったことがなくて。このDVDも学校で借りたものでして」
「……では明日でいいです。明日、必ず返してくださいね。もし明日の朝以降に見かけたら、処分しますので」
「……」
「旦那様にも報告することにしましょうか?」
「必ず明日、学校に持っていって返します」
「はい、そうしてください」
恥ずかしさで耳まで真っ赤にしている優貴に、瑠璃は満足そうに目を細める。でもすぐ、いつもの無感動な顔に戻ると、優貴の部屋を出ていった。
扉の閉まる音が遠慮がちに響くと、それを合図にしたかのように、紫水が優貴に食ってかかった。
「おい、貴様! 貴様はなんという破廉恥極まりないものを姫様に見せてくれたんだ! 恥を知れ、恥を!」
「恥ならいま知ったよ! ああ、知ったとも!」
優貴の顔は、瑠璃にまで見られてしまった恥ずかしさと、そうなる原因を作った二人への苛立ちと、テレビを消すのも忘れて固まっていた自分自身への嫌悪感とで、真っ赤を通り越して真っ黒だ。
「見せてくれたんだって言うけれど、見せたのはおまえだろ、紫水。おまえが勝手にビデオを再生させて、姫様に見せてたんじゃないかよぉ」
「うぐっ……それは、てっきりゲームだと思ったからで……そっ、そうだ。この、ゲーム機というのに入れるものと同じ形をしていたのが悪いんだ。そのことを事前に説明してくれなかった、おまえが悪いんだ!」
「きみが勝手に出してきて、勝手に再生させたのが悪いに決まってるだろ。文句を言いたいのはこっちなんだよ、ああもう! あああっ!」
優貴は両手で髪を掻き毟って、その場に蹲ってしまう。情けないこと極まりないその姿に、
「瑠璃に見られたのが、そんなに恥ずかしいのか? だったら、見られないように隠しておけばよかっただろうに」
「隠してただろ! それを誰かさんが見つけ出してくれたんだろ!」
「隠してたぁ? そこの棚に、普通に置いてあったじゃないか!」
紫水にとっては、映画DVDのパッケージもゲームDVDのパッケージも同じにしか見えない。だから、パッケージを替えて隠していただろと怒鳴られても、さっぱり理解できないのだ。
「隠してた!」
「隠してなかった!」
不毛な言い合いは、テレビのスピーカーから再び流れ出した女優の甘ったるい悲鳴みたいな声で遮られた。
「おおおぉ!」
優貴と紫水は、奇声を上げた雪花のほうに揃って振り返る。いつの間にかリモコンを手にしていた雪花は、子供らしい好奇心いっぱいの瞳で、メイド服姿の女優がアクロバティックな体勢で頑張っているのをまじまじと凝視していた。
「紫水、すごいぞ! なんか分からんが、とにかくなんかものすごいのじゃ!」
「見てはなりませんんんッ!!」
紫水は雪花の手からリモコンを奪おうとする。雪花はそれをひらりと躱す。
「嫌じゃあ! 見るのじゃあ!」
「なりませんんぅ!!」
部屋中をぐるぐる逃げまわる雪花と、それを追いかけまわす紫水。二人がどたばたと走りまわるなか、優貴は膝から崩れ落ちて嘆く。
「ああぁ……瑠璃さんに見られたぁ……ううぁあぁ……」
テレビのなかで、半裸のセクシーなメイドが一際甲高い声を張り上げて、ぐったりと動きを止めた。
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