第1話 猫と狐と歓迎の夕餉

 それは桜の花がすっかり散って、眩しいくらいの新緑が街中を彩っている時季のことだった。

 今年の四月から高校生になった木野宮きのみや優貴ゆうきは、葉桜になった並木を眺めながら下校していた。だんだん日が長くなってきているとはいえ、部活が終わって帰路に就く頃はもう、空の一方が茜色に染まっている。車道にも、帰宅を急ぐ車両の群れがひっきりなしに行き交っている。

 もう少し経って夕暮れが夜になると、住宅街であるこの辺り一帯はそれから朝まで、ぐっと人気が絶えて静まりかえる。そんな静けさが始まる直前の馬鹿騒ぎみたいな夕暮れのひとときが、優貴は昔から不思議と好きだった。成り行きで入ったような部活でも毎日夕方までしっかり練習してから下校しているのも、夕暮れの街並みを歩く理由が欲しいからなのかもしれない。

 夕暮れのなかを、優貴は自宅に帰り着く。よくある一戸建ての建て売り住宅――とは言い難い家屋だ。はっきり言って、いわゆる世間並みというものよりずっと大きい。お屋敷とか御殿という呼び方はさすがに大袈裟だけど、邸宅や豪邸という呼び方はしっくりくるような家屋だった。

 老若男女を問わずに誰もが、こんな家に住んでみたい、と思うだろう家だ。それなのに、門柱の操作盤に解錠コードを打ち込む優貴の顔はどこか憂鬱だ。できるなら帰りたくないと思っているかのような顔だ。

 けれども、家に帰らず夜遊びできる性分でもないようで、自動で開いていく門のなかへ、溜息を吐きつつ入っていく。門が自動で閉まっていくのを背中で聞きながら、優貴は玄関まで歩く。門から玄関まで十メートルほどあるのも、邸宅という呼び名が相応しい所以だ。

 だけど、十メートルなんて、歩くのに数秒とかからない距離だ。毎日、玄関から門までの石畳を往復しているのだから、いちいち歩いていると意識することもなくなっている。

 いまもそうだった。半ば無意識に、玄関まで歩いていた。その歩みを邪魔するものなんて、ないはずだった。

 ないはずの邪魔が、目の前に忽然と現れた。比喩でも何でもなく、寸前まで確かに何もなかったはずのそこ――優貴の真正面三十センチ、地上から一メートル五十センチほどの空中に、彼女らは忽然と現れたのだった。

 そう――それは女性だった。しかも一人ではなく、二人の女性だった。

「うわっ」

 優貴は、忽然と現れた女性二人に驚いて、その場で跳ねるようにして尻餅をつく。それに一瞬遅れて、女性二人もどさっとその場に落っこちた。

「きゃ……!」

「あうっ」

 二人はそれぞれ短く悲鳴を上げる。

 お尻から落ちた痛みに顔を顰めている女性は、よく見れば二人ともまだ若い。一人は優貴と同い年か一、二才くらい年上の、夜空みたいな深い藍色の髪をした少女だ。そしてもう一人は、明るい金色の髪をした小学生くらいの幼女だった。そして二人とも、頭の天辺近くに髪と同じ色をした大きな耳を生やしていた。

「作り物……だよな?」

 優貴は最初、二人の耳はパーティーグッズか何かだと思ったのだけど、それにしてはふさふさ感が本物っぽすぎる。それにもうひとつ、二人のお尻からは、これも髪と同じ色をした尻尾が生えていた。夜色の髪をした少女の尻尾はすらりと長く、昼色の髪の幼女のほうは、耳よりもふさふさな尻尾をしていた。

「作り物……だよな?」

 もう一度、同じ言葉を呟く。何度も確認したくなるほど、二人の耳と尻尾は本物みたいだ。思わず触ってみたくなるようなふさふさ感だし、よく見ていると、耳も尻尾も細かく揺れ動いている。そんな機能のついた作り物なんて、どこかに売っているのだろうか?

 耳と尻尾を観察しているうちに、二人の服装にも違和感があることに気がつく。

 金髪の幼女はよそ行きの白いワンピースに青いショートブーツを履いて、大きな両耳の間に王冠をちょこんと乗せている。まあ王冠はともかく、ワンピースとブーツは普通と言えなくもない。問題は夜色髪の少女のほうだ。

 桃色のブラウスと深紅のミニスカート、ロングブーツはまだいいとしても、深紅のショートマントに手袋、そして腰に佩いている長剣は、明らかに日常生活のなかでお目にかかれる類の装いではない。そして今頃気づいたけれど、橙色のカラーコンタクトまでしている。幼女の青い瞳は天然かもしれないけれど、橙色の瞳はカラコンに決まっている……はずだ、たぶん。

 優貴が尻餅をついたまま観察眼を飛ばしているうちに、少女たちも一メートル五十センチをお尻から落下した衝撃より、立ち直りつつあった。

「○×△……」

「*/○□△?」

 何やら呻いている幼女に、隣の少女が心配顔で話しかける。その様子は優貴にも何となく伝わってくるのだけど、二人の言葉はさっぱり分からない。なんとなくフランス語やイタリア語かな、という印象がするけれど、たぶんまったく見当外れだ。聞いたこともない言語、というのが正解だった。

 二人はそのうち、優貴のことに気がつく。

「@=|○¥+!!」

 夜色髪の少女がぱっと立ち上がるや、腰の鞘から剣を引き抜いて身構えると、おっかない顔をして早口で何事かを言い立てくる。でも優貴には、何を言われているのかが分からないから、答えようがない。

「あ……え、ええと……」

 優貴が答えに詰まっていると、金髪幼女のほうが少女のスカートをちょいちょいと引っ張って話しかけた。どうも何事かを提案したようで、少女は眉を揺らして納得顔をする。同意を得られた幼女もにっこり笑うと、優貴に向きなおった。

「……?」

 戸惑うことしかできない優貴を、幼女は真剣な顔で見据えると、ぶつぶつと何かを言い始めた。優貴に話しかけているのではなく、独り言のようだ。しかしそれにしては、優貴をはっきりと見据えている。

「あ……呪文?」

 優貴はふと、幼女が自分に向かって呪文を唱えているのだ、と理解した。非常識的なことだが、明らかにぴんと立ったり、びりびり震えたりしている動物そっくりの耳と尻尾を見ていると、そのくらい非常識なことのほうがしっくり受け入れられるのだった。

 幼女の呪文詠唱はそのうちにどんどん抑揚を強め、節回しも速く激しくなっていく。優貴は逃げるべきなのではないか、と今更ながら思ったけれど、そのときにはもう遅かった。

「$’%$()~=――ッ!!」

 幼女が一際大きな声で叫びながら、右手の掌をばっと優貴に向かって突き出す。その直後、突き出された掌から青白い光が放たれた。

「うわっ!?」

 優貴は咄嗟に目を瞑ったけれど、それでも瞼の裏がちかちかするほど眩い光だった。

 光はすぐに収まる。それでも、光の焼きついてしまった目がまともに見えるようになるまで、十秒くらいはかかった。

「……どうじゃ、効いたか?」

 聞き覚えのある声をした誰かが、優貴に恐る恐るといった声音で話しかけた。

「効いたって何がさ?」

 優貴は反射的にそう聞き返しながら、まだ少しちかちかする目を瞬かせる。そしてもう一度ぱちくりと瞬きしたところで、やっと気がついた。

「あっ、言葉が通じてる!」

「どうやら問題なく効いたようじゃ。さすが、わらわじゃ」

 えっへんと胸を張る幼女。大きなふさふさ耳と尻尾も、得意げにひょこひょこ揺れている。やはりどう見ても本物だ。それに、スカートの後ろがどういう構造になっているのかも地味に気になる。スカートの後ろ側を捲って飛び出しているのではないみたいだから、スカートに尻尾を出す用の穴が開いているのだろうか?

(……って、そんなことよりも! 言葉、どうしていきなり通じるようになったんだ!?)

 その疑問は顔に出ていたらしく、金髪の幼女が得意顔で答える。

「どうして急に、わらわたちが喋れるようになったのか気になるようじゃな。特別に答えてやるが、それはわらわが言葉を喋れるようになる魔術を使ったからじゃ」

「魔術……」

 またまた非現実的というか幻想的というか子供騙しな単語が出てきたものだ、と優貴の口元が苦笑いに引き攣る。そんなことには気づかず、幼女はますます得意げに胸を反らす。尻尾がもう明らかにぴょんこぴょんこ跳ねている。

「わらわは魔術に長けた狐種のなかでも、特に優れた柏の一族じゃからの。分かるか、おまえ? わらわは柏の姫じゃぞ、姫」

「はあ……」

 優貴の答えは、肯定とも疑問とも取れる曖昧な溜息だ。キツネだとかカシワだとかいきなり言われても、分かるわけがないのだから、溜息の他に返事のしようがない。そんな曖昧な相づちでも、幼女にとっては満足のいくものだったらしい。

「そうかそうか、恐れ入ったか。くぁっかっかっ!」

 ラジオ体操みたいに仁王立ちで両手を腰に当てて、大きく仰け反りながら大笑いする。曖昧な相づちを、間違いなく自分への賛辞だと受け取ったらしい。

 ――なるほど、こういう子か。

 優貴はなんとなく納得した。この不思議な幼女が何を言っているのか分からないけれど、どんな性格なのかは言葉が通じるようになってからの短い遣り取りだけで、十分に理解できた。ついでに、自分のことを姫と言っていたのは本当のことなのだろうな、とも思えた。

 世間知らずのお姫様、という形容がぴったりの見た目と言動だった。

「おい貴様、言葉が通じるようになったのなら、答えてもらおうか」

 そう言いながら二人の会話に割って入ったのは、夜色の髪をした少女のほうだった。幼女を庇うようにして立ちはだかると、腰の鞘から抜き放った長剣を優貴に突きつけてくる。

「答えてもらうぞ、ここは間違いなく異世界なのか? 貴様、姫様の命を狙う共和主義者の刺客ではなかろうな!? 答えないと、いまこの場で斬り捨てる!!」

「……ッ」

 優貴はごくりと息を飲む。いまの質問というか恫喝のなかにあった、異世界や共和主義者といった単語が何を指しているのかはさっぱりだったけれど、いま喉元に突きつけられている剣の本物っぽさには、心ではなく身体のほうが問答無用で竦み上がってしまっていた。

 逃げたいと思うのに、手足が強張っていて身動ぎすらできない。でも、とにかく何かを言わないと本当に斬られてしまいそうで、優貴は必死に言葉を探す。

「あ……え、ええと……おれは敵とかじゃないです、はい」

 難しい言葉は分からないけれど、ここは異世界じゃなくて現実です、とか、現代日本の国民ですから民主主義者ですよ、とか答えるよりは、端的に敵ではないことを伝えるだけにしたほうがいいだろう――という判断が働いた結果の返答だった。

 その返答は果たして、少女を満足させるには至らなかった。

「敵ではない、か。そんな口先だけの言葉を、はいそうですか、と信じるとでも思ったか!?」

 少女は鬼の形相で優貴を睨めつけ、握っている剣に力を込める。喉元の切っ先がぎらりと光って、優貴はいっそうの冷や汗を掻かされる。

「いっ、いや、待ってよ。だったら、どう言ったら信じてくれるんだ……くれるんですか?」

 思わず敬語で言い直しつつ聞き返すと、少女の顔に初めて動揺が走る。

「あ……」

 どうやら、優貴が言ったことの真偽をどうやって判断すればいいのか、何も考えていなかったようだ。生真面目で居丈高なくせに天然という、かなり面倒くさい性格をしているようだ。

「あっ、貴様! いま失礼なことを考えただろ。顔に出ていたぞ!」

 天然だけど、察しは悪くないらしい。やっぱり面倒くさい性格だ。

「いえいえ、まったく考えてませんでございますよ。そんなことより、こっちからも質問。というか提案」

 優貴は話を先に進めてしまおうとする。少女のほうもくだらない問答を続けるつもりはないようで、鷹揚に頷く。

「言ってみろ。聞くだけは聞いてやる」

「玄関先で立ち話もなんだし、話の続きは家のなかに入ってからにしませんか?」

 夕日は少し前に沈みきっていて、西空に残っていた茜色も深い紺色に呑まれてしまっている。いくら人気がないとはいえ、いつまでも石畳に座り込んだまま話してはいたくなかった。

 少女は剣を優貴に突きつけたまま、優貴の視線を追って背後の家屋を見やる。

「ふむ……これは貴様の家なのか?」

「そうです。おれの……まあ正確には、おれの親父の家、ですけど」

 その注釈には興味を示さず、少女はしばし視線を、家と優貴との間で往復させる。日が落ちたせいでどんな表情をしているのかはよく見えなかったけれど、長い尻尾が思案投げ首の体で揺れている。

 悩んでいるらしい彼女のスカートを、幼女の手がくいくいと引っ張った。

「なあ、紫水しすい。わらわ、野宿は嫌じゃ。これも何かの縁じゃろうて、ここはひとつ、此奴の家にわらわを歓待する栄誉をくれてやってもよいのではないか?」

「……姫様がそう仰るのでしたら」

 紫水と呼ばれた彼女も恭しく頷くと、改めて優貴を睨みつけつつも、突きつけていた剣を鞘へと戻す。

「聞いていたな、そういうことだ。さあ立て。そして我らを歓待するがいい」

「……はあ」

 他になんと答えていいやら分からず、優貴はとりあえず曖昧な溜息を漏らしながら立ち上がると、玄関の前まで行って鍵を開けた。

「ただいま」

 条件反射で言いながら家のなかに入る優貴。少女と幼女――紫水と姫様もその後に続く。

 木野宮家の屋内は、外観から想像できる通りに、きれいで広々としている。ホテルというのは大袈裟だけど、繁盛している大きめのペンションと言い張れるくらいの規模と清潔感がある。

 優貴はあまり家に友人を連れてくることはないのだけど、初めて遊びにきた友人は例外なく、家の大きさに圧倒されたものだ。けれども、奇妙な耳と尻尾を生やした少女と幼女はまったく驚いていない。

「うむ、まずまずの小屋じゃな」

「申し訳ありません、姫様。このような場所で一夜を凌いでいただくことになろうとうは」

「よいよい、苦しゅうない。わらわも、もう子供ではないの。己の立場は弁えておる」

「姫様……ああっ、なんとお強くなられましたか! この紫水、柏の血統に代々お仕えしてきた柊の家名に懸けて、賊軍を誅戮せしめた家臣団が姫様を迎えに来るその日まで、例えここが魑魅魍魎の跋扈する闇深き異世界だとしても、必ずや姫様をお守り通してみせましょう!!」

「うむ、良きに計らえ」

「ははぁ!!」

 紫水は恭しく片膝をついて頭を下げ、耳と尻尾もぺたんと下げる。金髪の幼い姫様は、明らかに彼女より年上の紫水から捧げられる臣下の礼を当然のものとして受け止める。

 自宅の玄関で開始されたどこぞの時代劇から飛び出したような一幕を横目に見ながら、優貴は革靴からスリッパに履き替える。驚きに費やすエネルギーは玄関先で使い切ってしまったようで、いまさら時代劇ごっこくらいでは呆気に取られたりしなかった。

「あら……まあ、これは……」

 驚きの声は廊下の奥からやってきた。長袖カットソーにぴっちりジーンズという服装の女性だ。見た目から想像できる年の頃は二十代半ばといったところで、優貴の姉にしては年上すぎるし、母にしては若すぎる。親戚のお姉さんというのが妥当な線だろう。

「た、ただいま、瑠璃るりさん」

 優貴は少し緊張した様子で、廊下に立ち尽くしている女性に小さく頭を下げた。

 呼びかけられたことで驚きから立ち直ったのか、瑠璃と呼ばれた女性もぽかんと半開きにしていた唇を引き締めて、表情を取り繕う。

「あ……はい。おかえりなさい、優貴さん。こちらのお二人は、ご学友……?」

 ご学友ですか、と最後まで言わなかったのは、三和土で寸劇をしている少女と幼女が明らかにどう見ても学生には見えなかったからだ。

「ええと、この二人は演劇部の部員なんだ。もう少しで本番だからって、練習が終わってからもずっとこうでさ。で、どうしても、おれの持っている資料が見たいと言って、ついてきちゃったんだ」

 優貴は乾いた笑いを浮かべて適当な理由をでっち上げる。自分で言いながら、本番が近いのだったら、衣装を着たまま外を歩いて汚しちゃ不味いだろ――とか、おれの持っている資料って何だよ――だとか自分で突っ込みを入れたくなるほど穴だらけの理由だったけれど、瑠璃は納得してくれた。

「分かりました。では、優貴さんのお部屋までお茶をお持ちしましょうか?」

「あ、いや……大丈夫。お茶は要らないです」

「そうですか。では、何かありましたら、お呼びください」

 瑠璃は一礼すると、廊下の奥に戻っていった。最初こそ驚いた顔をしていたものの、立ち直ってからは終始、物静かで理知的な態度だった。少女たち二人が演劇部だという話も、本当に信じたわけではないのだろう。きっと、そこを追求しても詮ないことだと判断したというだけのことだ。

「おい、おまえ、」

 瑠璃がさっきまで立っていたところをまだ見ていた優貴の袖口を、姫様と呼ばれている幼女がくいくいと引っ張る。

「わらわは足が疲れた。早く部屋へ案内せい」

「……はいはい」

 いまさら断る理由もなく、優貴は先に立って廊下を歩き出す……が、すぐに嫌な予感がして、ぱっと背後を振り返った。

 予感は的中していた。

「家に上がるときはブーツは脱いでください。お願いしますから」

「なぜだ?」

 紫水が訝しげに聞き返してくる。

「外国だか異世界だかではどうだか知りませんけど、この世界のこの国では、家に上がるときは靴を脱ぐのが仕来りなんです。裸足になるのが嫌だというなら、そこのスリッパを履いてくれればいいですから」

 それまでになく強い語調で言い立てた優貴に、紫水も姫様もちょっと驚いた様子で目をぱちくりとさせる。

「ふむ……そういう仕来りであるならば、仕方ないな」

「ひっ、姫様!?」

 踝丈のブーツを脱ごうとする幼女に、紫水が驚愕の声を張り上げた。

「姫様、なりません! どこの馬の骨とも知れぬ男の男の家に、靴を脱いで上がるなどというはしたないこと、絶対になりません!」

 たかが靴を脱ぐ脱がないで、どうしてそんな大声を上げるのかが、優貴にはさっぱり分からない。目を丸くするばかりだ。

 姫様も、ちょっと呆れた顔で紫水を見上げて言う。

「そう喚くな、紫水。おまえの言うことも分からんでもないが、ここは異世界じゃ。そしてわらわは、王統を守るためとはいえ、父母も国も捨ててそんな異世界に逃げざるをえなかった姫じゃ。ここで名も知らぬ男に靴を脱がされるの辱めを受けるもまた定めよ」

 大人ぶった憂い顔で滔々と語った姫様に、紫水はオレンジ色の両目いっぱいに涙を溜めて感激に打ちのめされている。

「姫様、そこまでのお覚悟をなされていらっしゃるとは……! 分かりました、姫様。もはやお止めいたしますまい。ですが、姫様お一人に恥ずかしい思いはさせません。わたしめもお供いたします!」

 そう言い放つや、紫水も悲愴な顔でロングブーツを脱ぎ始めた。

「紫水……おまえの忠誠、わらわは終生忘れぬと誓うぞ」

 姫様も姫様で、青い瞳を湖のように潤ませて感激しながらショートブーツを脱ぎ始める。そして二人は、図ったような同時でブーツを両足とも脱ぐと、目を見合わせて恥ずかしそうに、でも誇らしげに微笑みあった。

「……気になるから聞くけど、きみたちの文化では、靴を脱ぐのはいやらしいことだったりするわけ?」

 そう尋ねた優貴を、二人は揃って睨みつける。

「当たり前じゃ、痴れ者め!」

「良人でもない男に靴を脱げと命じられた屈辱、絶対に忘れんぞ!」

「あ……うん、そうか。うん、分かった」

 優貴は曖昧に頷きながら、そそくさと廊下を進んで階段を上がっていく。

 彼女たちにとって靴を脱ぐというのは、下着を見せろと言われたようなものなのだろう。それが想像できたから、優貴は赤らんでしまった頬を隠すために、さっさと歩き出したのだった。

 優貴の自室は、焦げ茶色のフローリングにクリーム色の壁紙で、フローリングと似通った色味の本棚や机、テレビにゲーム機、エアコン、ベッドなんかが配されている。本棚には漫画も多く、男子高校生の自室として想像の範疇内といった部屋だ。

 家の大きさには驚かなかった少女たちも、案内された優貴の部屋には少なからず驚きの声を漏らした。

「おぉ……なんと奇妙な……」

「あれは一体、何じゃ……?」

 二人が真っ先に興味を示したのは、テレビとエアコンだった。

「それはテレビとエアコン。テレビは色々な番組を見たり、ゲームをやるのに使うもの。エアコンは室内の空気を暖めたり冷やしたりするためのもの」

 優貴は説明しながら、テレビとエアコンのリモコンを両手にもって操作し、電源を点けたテレビの番組を次々に変えてみせたり、エアコンを暖房にしたり冷房にしたりしてみせる。

 当たり前のことを実演して見せている自分に、これでこの二人が自分にドッキリを仕掛けているだけだったら大笑いされるな、と思ったりもしたのだが……。

「おおおぉ!!」

「何じゃ、この魔術はぁ!?」

 二人は本気としか思えない驚愕の形相で絶叫した。

「この熱波と冷気を吐き出す箱……温度操作の魔術が込められているのか? しかし、なんとも精巧な……!」

 紫水はエアコンを見上げて、長い尻尾をぎゅんぎゅんに振りまわして大興奮だ。

「こっちの箱もすごいぞ、紫水。ほれ、見てみい。ただの、変な形をしているだけの水晶玉ではないぞ。遠くの景色だけではなく、ほれ、絵巻物まで映しよる!」

 姫様のほうはテレビが気に入ったようで、紫水のよりふさふさで大きな尻尾を振りたくって、テレビ画面に両手で抱きつくようにして見入っている。

 二人の興奮っぷりは、とても演技と思えない。それに何より、千切れんばかりに振られている尻尾も、お尻から本当に生えているようにしか見えない。

「二人とも、本当に異世界からやってきた異世界人なのか……?」

 優貴が呻くように言うと、まだ興奮冷めやらぬといった様子の紫水が彼のほうに振り返って、小さく首肯した。

「どうやら、それで間違いないようだ。このような呪具が造れる技術は、我らの国には――いや、われらの世界にはまだ編み出されていない。貴様のことも、我らを謀るために耳と尻尾を切り落として変装した間者かとも疑っていたが……」

 紫水は言いながら、優貴のすぐ目の前まで歩み寄ると、伸ばした両手で彼の両耳を触った。

「んっ」

 いきなり耳を触られたくすぐったさで、優貴は思わず仰け反る。紫水はそれを気にせず、手袋をした手で握ったり引っ張ったりして優貴の両耳を弄ぶと、神妙な顔で喉を鳴らす。

「……癒着させた痕もないし、血や神経も通っているようだ。やはり、偽物の耳ではなく、これが本当に貴様の耳なのだな」

「当たり前だろ……って、きみたちにとっては当たり前じゃないのか?」

 そう聞き返すことがもう馬鹿みたいだと思いつつも、優貴は聞き返さずにいられなかった。

 紫水は黙って両手を優貴の耳から離すと、優貴の両手を握って持ち上げ、自分のこめかみに触れさせた。

「お……おおぉ……」

 優貴の口から空気の抜けるような声が漏れる。普通な耳があるはずの場所を撫でている両手からは、髪を撫でる感触しか伝わってこなかった。さらに何度も撫でまわしてみたけれど、どこにも耳は見つからなかった。

「どうだ、分かったか」

 髪を両手で撫でられている紫水は、毛ほどもくすぐったがることなく、優貴を見つめる。

「うん、分かった」

 優貴も神妙な顔で頷き返した。

「わたしと貴様とでは、耳の位置が違う。形も違う。それに、貴様には尻尾が生えてない。貴様は、わたしのまったく知らない――わたしの生まれた世界には存在していなかった生き物だ」

 それは優貴の視点から言えば、彼女たちはこの地球に存在していない生き物だ、ということだ。

 両者ともに、出会いの時点で予感していた結論ではあったけれど、いまこのときをもって、紫水と優貴は完全にその認識を共有するに至った。

 お互いに何を言っていいのか分からず、居心地の悪い沈黙のなか、二人は探り合うように視線を惑わせる。しかし、その緊張はテレビのほうから上がった歓声であっさりとぶち壊された。

「おい見ろ、紫水! いま写っているこれ、何だと思う? わらわは食べ物だと思うのだが、どうじゃ!?」

 テレビにかぶりついていた姫様が、ふさふさの耳と尻尾を盛大に振りまくりながら紫水を呼ぶ。

「あっ、はい。どれでしょうか?」

 一瞬でシリアスを止めて、姫様の横に屈む紫水。

「これじゃ、これ!」

 と、姫様はテレビから少し離れて紫水にも見えるようにしてやりながら、液晶画面に小さな指を突きつける。ちょうど料理番組だか情報番組の料理コーナーだかをやっていて、画面には美味しそうなちゃんこ鍋が映っていた。

 紫水は、ふぅむ、と小首を傾げて唸る。

「なるほど、これはたぶん料理ですね。大量の水で食材を煮込んだものでしょう」

「そんなことは見れば分かる。わらわが聞いておるのは、この煮込まれている食材が何なのか、じゃ」

「それはさすがに、わたしにも分かりかねます。申し訳ありません」

 紫水は本当に済まなさそうな顔で項垂れる。姫様のほうは鷹揚に腕組みをして、

「ふむ、そうか。紫水ならば知っているかとも思ったが、さすがに買い被りすぎたか。わらわこそ、済まぬ」

 幼い姫様は顔色ひとつ変えずに、さらっと嫌味を言い放った。傍で聞いていた優貴は口をあんぐりと開けて、うわぁ、と息を飲む。姫様の顔を見るに、本人に嫌味を言ったつもりはないようだけど、それがまた恐ろしい。

 紫水は少なからずダメージを受けたようで、自分で自分を抱き締めるようにして、よろっと後退る。

「うっ……い、いえっ、そんなことはありません! 買い被りではありません! わたしは姫様の騎士です。姫様の期待に応えるのが義務であり誉れであり喜びなのです。姫様の望みとあらば、たとえ異世界の見たこともない料理の見たこともない食材について答えろというご無体な要求であっても、このわたくし、必ず答えてみせましょう。ええ、みせますとも――ッ!!」

 紫水の両目はまん丸に見開かれていて、橙色の光彩もぐるぐると渦を巻いている。ここに至って、さすがに姫様も自分が失言していたことに気がついたようだ。

「あ、いや、違うのじゃ。わらわは何も無茶振りをしたわけではなくてだな、ただちょっと、紫水は物知りだし、もしかしたら異世界の文献にも触れたことがあるかもしれんなぁ、くらいの軽い気持ちで聞いただけであってじゃな――」

 姫様は慌てて言い繕うのだけれど、彼女の騎士という立場に非常な矜恃を抱いている紫水にとっては、彼女から慰められたということ自体もまた、恥の上塗りに感じられたようだった。

「くっ……くうぅ、申し訳ございません、姫様! 姫様のご期待に添えることができませんでしたこと、この上は死をもって償わせていただく所存!」

 そう言うや、紫水は腰の剣を鞘ごと持ち上げて、天秤棒を担ぐように首の後ろへ宛がうと、両手で柄と鞘を持って刀身を半分ほど抜いて、自分で自分の首を刎ねてしまおうとした。

「あああっ、馬鹿者! 早まるでないぃ!!」

 大慌てで止めに入る姫様。放っておくと紫水が本気で自死しかねないことは、姫様の慌てようで察せられる。だから、優貴も仕方なく止めに入った。自分の部屋で自殺された日には、夢見が悪いなんて程度の話ではない。

「まあ待ちなよ、ええと……紫水さん」

「ええいっ、止めてくれるな! そして、馴れ馴れしく話しかけるな!」

 紫水は、背後から両腕を掴んできた優貴を振り解こうとして、ぐいぐいと身をよじる。そのたびに刀身がぎらぎらと剣呑に輝くけれど、その刃が彼女の髪を切ったりはしないところを見ると、やっぱり本気ではないようだ。

 まあ、こんなことで本当に死のうとするような意志薄弱な人物だったら、かりにも姫と呼ばれている身分の幼女を護衛する騎士には任命されまい。

 要するに説得してくれ、ということか――優貴はこっそりと溜息を吐く。

「馴れ馴れしく話しかけられたくないんだったら、ひとの部屋でいきなり死のうとしないでくれるかね」

「うるさい! わたしの気持ちが貴様なんかに分かるか!」

「分からないけれど、きみが死んだら、きみの姫様が独りになってしまうことは分かるよ」

「あ……」

 初めて思い至ったという声を漏らして、紫水は身動ぎを止める。ここが説得の糸口だと見た優貴は、一気に畳みかけた。

「きみは騎士であって、物知り博士ではないんだろう? だったら異世界の見たこともない食べ物のことなんて、知るわけがなくて当然だ。どこにも恥じるところはない。違う?」

「む、むむぅ」

「だいたい、知らないことがあるなら調べればいいんだ。それか、知っているひとに聞くっていうのでもいい。要は結果として、姫様の質問に答えられればいいんだからさ」

「む、う……うむむ……まあ、そうかもな」

 紫水の両手から力が抜けていく。それを確認して、優貴はほっと胸を撫で下ろしながら、彼女の腕から両手を離した。

 紫水はばつの悪そうな顔をしつつも、鞘に収めた剣を腰に佩き直す。

「貴様の言うことにも、まあ一理ある。貴様は一応、我らに寝屋を提供してくれたわけでもあるし、ここは貴様の顔を立てて説得されてやるとしよう」

「それはそれはありがたき幸せにございます、へいへい」

 わざとらしく神妙な顔をする紫水に、優貴も冗談めかして笑ってみせた。紫水は不服げに眉を上げたが、すぐに破顔して小さな笑い声を零す。

 なんとなく優しい空気が流れかけたところで、足下のほうから上がった腹立ち声が二人を振り向かせた。

「おい、おまえら。結局、さっきの料理は何だったのじゃ!?」

「あ、はい。ええと……」

 紫水がちら、と優貴を見やる。

「あれはちゃんこ鍋と言って、肉団子や野菜を味噌で味付けした出汁で煮込んだもの。重要なのは、全部の材料を鍋のなかで一緒くたに煮るというところだね」

 紫水の代わりに答えた優貴を、姫様はこれまでで一番子供らしいきらきらした眼差しで見上げる。顎の前で揃えて握られた両手がひどく可愛らしい。

「ちゃんこ鍋! 鍋なら分かるぞ。だが、わらわの知っている鍋はこう……もっと黒い。それに、鍋のまま食卓に供したりはしないぞ。こっちの世界では、皿を使わずに食事するのか!?」

「そんなことはない。国によって色々だけど、皿も箸もフォークもスプーンも使うよ。でも、鍋料理は鍋のまま食卓において、みんなで突くように食べるものなんだ」

「なぜじゃ?」

「うぅん……そうしたほうが美味しいから?」

「なぜ、そうすると美味しくなるのじゃ?」

「……食材それぞれの味が煮汁に染みていくから、かな」

「ふむふむ。だがそれならば、食材それぞれの味が煮汁に染みてから皿に取り分けて供したほうが美味しく食べられるのではないか?」

「い……いやいや、そうじゃないんだ。ほら、テレビを見てごらん。みんな、食べるのと煮込むのとを同時にやっているだろ」

「おおっ、本当じゃ! しかも、食べて減った分だけ新しい食材を追加しているぞ。なんと奇妙な料理じゃ、食べるのと作るのを同時に行うとは!」

「そう、同時に行うんだよ、鍋は。だからこそ、できたての熱々なところを食べられるし、くたくたになるまで煮込まなくても、じっくり煮込んだのと同じ美味しさを味わえるというわけだ」

「なるほど、理に適っているのじゃな!」

「そういうこと」

 目のなかから星屑がきらきらと溢れ出してきそうなほど感心している姫様の姿に、優貴の口元もついつい綻ぶ。

 紫水は一人、ちょっぴり複雑そうな顔だ。

「確かに姫様は喜んでくださったが……これではやはり、わたしの立場がなくなるのではないか……?」

 紫水がぶつくさと呟き始めたのを遮るように、優貴が、あっ、と声を上げた。

「そうだ、ひとつ聞きたいことがあったんだ」

「なんだ?」

 紫水が仏頂面で促す。

「うん。きみの名前は紫水さんでしょ」

「いかにも」

「じゃあ、こっちのお姫様の名前は?」

 紫水はずっと、幼女のことを姫様としか呼んでいない。だから優貴は地味に気になっていたのだ。

「おおっ……そういえば、わらわたちはまだ正式に名乗っておらなんだな」

 姫様は、ぽんっと手を叩いて言うと、咳払いをひとつ挟んでから、優貴を見上げて微笑んだ。

「わらわは、狐種が氏族にして王統たるかしわ家が末子。第七王位継承者、雪花ゆきはなである」

「そして、わたしは姫様の騎士という大役を仰せつかった、猫種が氏族、ひいらぎが一子、紫水だ――わたしの名は既に知っているようだが、改めて記憶し直しておけ」

 紫水の余計な一言は、軽く肩をすくめただけで受け流す。

「ええと……雪花と紫水、ね」

 優貴は二人の顔を順番に見やって、いま聞いたばかりの名前を口にする。直後、紫水に拳骨で頭を叩かれた。

「あたっ! なんで叩かれた!?」

「馬鹿者が! 姫様を呼び捨てするなど、本来ならその場で斬り捨てられても文句は言えぬところだぞ!」

「あ……そっか」

 優貴も納得した。呼び捨てしただけで斬り捨てられるのは理不尽にしても、初対面の異性から呼び捨てにされたら反応に困るのは確かだろう。

「じゃあ、雪花ちゃん?」

「馬鹿者ぉ! 一国の姫を子供扱いとは何事か!?」

 優貴はまた、ぱぁんっと叩かれた。

「いってぇ……だったら、なんとお呼びすればよろしいのでございましょうか?」

 頭をさすりつつ嫌みったらしく言った優貴に、紫水は何かを言おうとして息を吸い込む。でも、その息が言葉になることはなかった。

「べつに雪花でよい。だが、ちゃん付けだけは許さん」

 雪花本人がそう言い放ったのだった。その横で声を発しそびれた紫水が、開けっ放しの唇をぱくぱくと喘がせているのが、優貴には少しおかしかった。

「うん、分かった。雪花と紫水さんで……」

 優貴は微笑み混じりに言いかけたところで、はたと根本的な疑問に思い至った。

 これまでの言動からして、彼女たちはどうやら異世界から落ち延びてきた亡国(まだ滅びていないかもしれないが)の姫とその従者らしいけれど、かりにその想像が当たっていたとして、彼女たちはこの先どうするつもりなのだろうか? どうも、こちらに寝食を世話してくれる伝手があるようでもないし……。

 しかし、それについて彼女たちに尋ねてみることは、藪をつついて蛇を出すことそのもののような気もする……。

「おい、貴様」

 いつまでも内心で葛藤を続けていた優貴の耳を、紫水がぎゅっと抓った。

「いたたたたっ」

「痛がっている暇があったら、早くしろ」

「早くって何を!?」

「決まっているだろ。わたしと姫様が名乗ってやったのだ、次はおまえが名乗る番だろうが」

「あ、そうか」

 言われてみれば至極当然のことだ。優貴はひりひりする耳をさすりながら、改めて口を開いた。

「おれは木野宮優貴。名前と名字の他、とくに付け加える情報はなし」

「キノ、ミヤユー、キ?」

 復唱しながら小首を傾げる雪花。いやいや、と頭を振る優貴。

「木野宮が名字で、優貴が名前」

「ふむ、ユーキだな」

「うん」

「よし、ではユーキ。これからもひとつ、よろしく頼むぞ」

 雪花は可愛らしく微笑んで、優貴に右手を差し出した。

「うん、よろしく」

 握手の意味と習慣は同じなんだな、と思いながら優貴はその手を握る。握ってから、はっと気づいた。

「え、待って。これからも? よろしく頼むって、何をよろしく?」

「そんなの決まっておろう」

 雪花は、何をいまさら、という顔で優貴を見上げて言った。

「故国からの迎えがくるまで、ここを仮の住まいとしてやることにした。色々と面倒をかけるやもしれんが、ひとつよろしく頼むぞ」

 雪花は屈託なく微笑んでいるが、まったくもって、ひとにものを頼むという態度ではない。

「姫様にご逗留いただく名誉を賜れるのだ。心して尽くすがよい」

 雪花の隣で胸を張っている紫水の顔も、頼む側ではなく頼まれてやる側の顔だ。

 これほど理不尽かつ尊大で、しかも、それをまったく自覚していない態度で頼み事をされたのは初めてで、優貴はしばし、口をあんぐりと開けて呆けるばかりだった。


 結局、優貴は二人の要求を、呑まざるをえなかった。

「わらわの魔術でおまえの頭から言葉を写し取ったとき、ついでに呪をかけておいた。わらわの申し出を断れば、その頭の中身がちゃんこ鍋になってしまうかもしれんぞ」

 雪花にそう笑顔で脅されたからだった。

 それから間もなくしてやってきた瑠璃が、

「そろそろ食事の支度ができますが、ご友人方も食べていかれるのですか?」

 と尋ねてきた。おかげで何の問題もなく、雪花と紫水も食事を一緒に食べることができた。その席で優貴は、この二人をしばらく家に泊めることになるのだけど、と瑠璃に対して話を切り出す。

「旦那様には黙っておいたほうがよろしいのですね」

 瑠璃は詳しい事情も聞かず、まず最初にそう言った。

「あ、うん。できれば、そうしてほしい」

「分かりました。問題があると判断しないかぎり、わたしからは何も申し上げることはないでしょう」

「すいません」

 申し訳なさそうに頭を下げた優貴に、瑠璃は唇の端っこだけで本当に少しだけ微笑んだ。その微笑もすぐに引っ込んで、いつものように淡々とした表情で食事を続けた。

 だけど今夜は、いつもと違って客人が二人増えている。いつもならテレビの音で静けさを誤魔化しながら進められる二人きりの夕飯が、今夜はお祭りのように賑やかだった。

「おい、瑠璃。これはなんじゃ? 肉か? これは肉なのか?」

「それはレバーに衣を付けて揚げたものです」

「レバー……肝臓か! それなら、わらわも食べたことがあるぞ。だが、わらわの知っているレバーはこう、もっと違った味だったぞ」

「きっとそれは、豚か鶏のレバーだったのでしょう。これは牛レバーですから、味が違うように感じたのではないでしょうか」

「ふむ、そうかもしれん。よく分からん。だが、美味いということに変わりはないぞ」

「恐縮です」

 食事の前に軽く名乗りあっただけなのに、雪花と瑠璃はまるで気負うことなく会話している。尊大にして物怖じしない雪花と、淡泊かつ動じない瑠璃とは、なかなかに相性がいいようだ。

 紫水のほうはといえば、食べ慣れないものを前にして神妙な顔をしながら、一口一口、黙々と慎重に食べていた。

 優貴の自室で見せていた態度そのままに食事する雪花と、打って変わって緊張しながら食べている紫水。そんな二人の姿に、優貴は自然と口元を笑わせてしまうのだった。


 食事の最中ずっと、雪花のふさふさした耳と尻尾は興奮気味に、紫水のすらりとした耳と尻尾は緊張気味に振られっぱなしだった。

 瑠璃は最後まで、そのことに一言も触れないままだった。

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