第7話

 ――三人が戦っていた広間を離れ、光の届かない回廊を進むススリの足運びには一切の淀みがなかった。

 整然と並べられた石床と、その脇を連なる巨大な石柱。

 そして間近にせまる濃厚な水のにおい。

 水読みが生来もつ水に対しての鋭敏な嗅覚は、急速に眼には捉えられない地図を描き出していた。

 水源はほんの間近にあり、そこから浸出する潤いを持った魔力は闇夜に松明をいたように眩しい。

 そして水源の魔力の影になるように水源とは異なるくらい匂いが広間から漂っている。


 こくり、と白い喉がわずかに動いた。

 娘はチュニックの胸を手で抑え、熱い吐息を洩らした。

 全身を流れる血液が、一つの点に向かって殺到している。

 胸の底を突き上げるような甘い衝動。ススリは獣をなだめる手つきで胸を撫で、『それ』を心理のおりの中へ抑えこんだ。

 呼吸が乱れ、寄りかかった石柱にススリの手のひらが触れる。

 ひんやりとしたその肌触りが、本来の冷静さをひととき呼び覚ました。

 息を整えて顔を上げると、石柱を跳ねのけるように弾みをつけ、再び足を踏み出す。

 あのまま三人を戦わせていれば降参どころか、傭兵が殺されてしまうこともありうる。

 だが、慌ててそこへ飛び込んだところで得られる満足は少ない。

 ススリは自らの望む最上の景色を瞼の上に浮かべた。

 よろこびによって、かすかに身震いが起こる。

 ――今のあんな姿のままで終わらせるなんて。そんなの、つまらない。

 かすかな笑いとともに、形のよい唇が声なき言葉を象ってゆく。

「もっと、もっと、いい匂いになってもらわなくては」

 視覚に依らない鮮やかな地図はススリの眼前に分岐路を描いている。

 分岐の右側は水源のあると思しき部屋へと続き、もう一方の左側は広間につながるもうひとつの通路へと続いている。


 爆発音が彼女の鼓膜を強打したのはススリが右側の通路へ一歩を踏みしめたのとほぼ同時だった。

 爆風とともに一気に砂と埃が通路の奥から噴き出し、ススリの頭を覆うベールを吹き飛ばした。

 咄嗟に顔を伏せ、両手を前に翳す。

 風によって赤い髪が乱暴にかれてゆく。

 匂いによって描き出された地図は、通路の奥から発生したおびただしい熱量によってかき乱されていた。

 巻き上げられた砂埃がススリの喉を強く刺激する。

 それに怯むことなく水読みの娘はきびすを返して左側の通路へ入っていった。

 爆発による衝撃によって石造りの天井のあちこちで砂粒が落ち始めている。

 今の爆発は間違いなく喚起魔法エヴォケーションの一種によるものだ。

 魔術抗体を撒いた、というセリフが魔術師の虚仮威こけおどしでないのであれば、その魔法を使ったのはコンロイではありえない。

 そして、これほどの爆発の直撃を受ければ致命傷は免れ得ない。


 ――我がこと成らず、か。

 失望のイメージを僅かなあいだ瞼の裏に浮遊させたススリだったが、その予想を彼女の嗅覚は否定した。

 修復された匂いの地図には依然コンロイが漂わせる異形の匂いが記されていたのだ。

 ススリの口元に笑みがよみがえった。

 砂埃の立ち込める通路の先がぼろげに明るい。広間から洩れ出る光のようだった。

 娘の足が軽快に石床を跳ね、広間が覗く通路の石壁に背を添わせるとススリは耳をそばだてる。

 広間からはススリの記憶に新しい奇妙な魔法生物の声が聴こえていた。それに応える声はスキーグのものだ。

 やはり先程の喚起魔法はスキーグの発動したものに間違いない。

 しかしコンロイは未だにとどめを刺されることもなく、生かされたままだ。

 『同病』のよしみか、雇い主であるメレディスの指示か。

 娘の長い睫毛が伏せられた。

 スキーグの行動の底にどんな目論見があるかは不明なものの、どうやら魔術師は本気であの男を生きたまま連れ帰りたいらしい。

 水読みの巫女であるススリにとって、それは笑止な考えだった。

 しかしそれが助けとなり、この遺跡における娘の望みは果たされようとしていた。スキーグはススリの手間をひとつ省いてくれたのだ。

 小さな唇の端が上がる。

 ススリの足元には金属で出来た銀の筒が転がっていた。


            *


 ――足元の魔法円から発生した炎は髑髏の形となって噴き上がり、餌食となる男を嘲笑うかのように肉のない剥き出しの歯を開いていた。

 やがて爆炎による大音声と熱風をともなう衝撃が全身を打つ、そのわずかな瞬間――コンロイは彼が求めてやまなかったひとつの幻視を目の当たりにした。


 まだ幼さが残るエリンの顔。十五歳になる一人娘の立ち姿をコンロイはまぶしげに見つめていた。

 一年ものあいだ、ベッドから起き上がることもできなかったエリンの顔に病苦の影は見えない。

 ――呪いが解けたのだな。よかった、ほんとうによかった。

 安堵と歓喜が一度に胸へ流れ込み、コンロイを嗚咽させた。

 城塞からもたらされる水のうち、飲料となる水は人体に適合するよう精製・加工されている。

 しかしそれでも極めて稀に、その加工された飲用水にさえも過敏な反応を示す者が現れた。

 現時点で激しい喉の渇きをともなう高熱などの諸症状を治療する術は存在しない。

 そしてちまたに流布する無責任な風聞によって、彼らのほとんどは都市市民のいわれなき中傷を浴び、見殺しにされる運命にあった。

 一般に過敏症と呼ばれるその病によってコンロイの娘であるエリンは若い命をむしばまれていた。

 商団に付き従いつつエリンを救う手立てを探していたコンロイは、故郷のエルギンで父の帰りを待つ娘を案じ気をもみ続けていた。

 しかし十日前にエルギンから届いた手紙にはエリンの容態悪化を告げる報せがあった。


 あふれた涙がこめかみを伝い耳まで流れ落ち、一瞬の歓びをもたらした幻影は去った。

 コンロイは魔法による爆風によって吹き飛ばされ、冷たい広間の石床に背中を叩きつけられていた。

 そして彼の娘のエリンは依然、死の床にある。

 娘を助けられない、という冷え冷えとした恐怖が傭兵の心臓を絞め上げた。

 ――ではいったい、私は何のためにここまでやったのか。 

 不意に傭兵の凍りついた胸の奥底から気泡のような疑問が膨らみ、浮上してゆく。

 ひとつの疑問が浮かぶとそれが次々と新たな問いを引き連れてくる。

 仲間たちの死に顔がよみがえる。

 ベン、マイルズ、エイボン、コンラッド。

 先遣部隊として探索に入った九人のうち、特にこの四人はコンロイにとって友とも呼べる存在だった。

 いったい何のために。

 自問を鋭くとがらせながらコンロイは友の姿を思い浮かべた。剣の柄を不自然にも左脇下から生やしたベンの姿があった。

 ベンは左腕に触る柄を、まるで珍しいものであるかのようにしげしげと眺め、やがて自身の作った血だまりの中で息絶えた。

 胴回りの太いベンの身体を刺し貫いたのはマイルズの剣だった。

 マイルズは充血した眼を走らせ、理解の及ばぬ言葉を並べながら呆然と立ちすくむエイボンへと歩み寄り、出し抜けにエイボンの大きな鼻へ歯を立て食いちぎった。

 ようやく仲間たちに恐慌が起こった。

 次々と剣を抜いた四人がマイルズを追うが、狂える傭兵は後頭部や肩や背に斬撃を浴びながらもその動きを止めない。

 絶叫を上げるエイボンの唇や目玉を貪り喰らい、次いでコンラッドの細長い首へと襲いかかり血しぶきを上げさせた。しかし追い縋る三人の剣がコンラッドの首にかじりついたままのマイルズの背中を貫いた。

 マイルズはかつての仲間の死体に覆いかぶさるようにして死んだ。

 ――コンロイが初めての発動させた魔術イリュージョンは、四人の仲間を殺し合わせた。

 コンロイは死んだベンの腰に差してあった短剣を抜き取り、残った四人の傭兵に斬りかかった。マイルズを仕留めるために血道をあげていた四人は背後からのコンロイの奇襲に気付かなかった。

 コンロイが正気に返った時、既に水源のある広間は死による静寂で浸されていた。

 彼の切れ切れの記憶には鼓膜を破るような仲間の悲鳴、そして仲間の一人を仕損じたことへの憤怒が焦げついていた。


 ――何のためにここまでやった? 商団を裏切り、仲間を殺してまで。

 ぽつぽつと湧き出てくる問いに対し、もはやコンロイは明快な答えを出せない。

 彼の記憶がすべて遺跡の闇の中へと逃げ失せたからではなかった。

 言葉だけの、上滑りするような軽薄なものでは決してない。そんな甘い覚悟でここまで来たのではなかった筈だ。

 そうでなくては、なぜ何人もの命を犠牲にできようか。

 エリンのためだ。

 娘の命を救うためにここまでやったのだ。水源に接触し、魔法を得て娘の命を侵し続ける病の根を断つために。

 エリンを助けられるのは唯一、魔法の力だけだったのだ。たとえそのために自身がスウィッガーとなるのだとしても。

 だが、傭兵の目論見は水面に漂う泡のように脆くはじけ飛んだ。

 彼は、娘の待つエルギンへ帰ることもなく三日を無為に過ごしていた。

 仲間を殺し魔術を得たあと、彼はなぜか水源近くに留まりつづけた。肺腑にせり上げる焦りや不安は、蠱惑こわくするような水源に対して何の抵抗にもならない。

 私は水に魅せられている。コンロイは自身がスウィッガーと呼ばれる化け物に変異し始めていることを、絶望とともに悟った。


「――おい、大丈夫か?」

 子供のような甲高い声をかけ誰かがやってくる。

 これはスキーグに走り寄るアラヤが発したものだったが、コンロイには声の主が人語を解する魔法生物であるなど知るよしもない。

「誰に言ってるんだか」

 バタバタと衣服を叩く音を発ててスキーグがアラヤの声に応えた。

 コンロイはゆっくりと重たい瞼をこじ開け、回想のなかに閉じ込めていた意識を外界へ解き放った。

 天井の破れ目から僅かに覗く空が嘘のように青くまばゆい。

 魔術師と槍使いの二人は石床の上に横たわるコンロイを見下ろしている。

 コンロイは咄嗟に剣の柄を探そうとしたが指の一本も動かせない。声も出せない。

 どうやら全身に残った爆発の衝撃が、神経という神経を打撃し一時的に麻痺させたようだ。

「それで、彼は死んだのか?」

「殺さないように手加減はしてる――ケドバ、お前さっきから何やってる?」

 魔術師がしかめ面で傍らの少女の顔を覗きこむ。

 魔法による防護の光を幾重にも帯びた少女は、細身の槍を片手に必死に両眼をこすっている。

「あ、これは僕にもわかる。『まぶしいから何とかして』だな」

 アラヤの説明が正しいと訴えたいのかケドバがスキーグの袖を引っ張った。

「悪いけど勝手に消えるまで待ってくれ。このとおりディスペルする余裕はないからな」

 魔術師が右手の酒瓶スキットルを振り、ぴちゃぴちゃと水の音をたてる。

 その音が、コンロイの意識を蹴り上げたように賦活ふかつさせた。

「そうだ――」

 思い出したように声をあげたのはアラヤだ。

「ススリが追いついて来てたんだ。でもお前たちの様子を見てるうちに姿を消しちゃった」

 その瞬間、スキーグの形相が変わる。

「タヌキ、それを先に言え」

 慌ててクロークを翻すと、魔術師は横たわるコンロイの足元へ歩み寄り膝を落とした。

「……たのむ」

 傭兵が発したうめき声に刺青の魔術師が頷いて応えた。

「俺にも話はあるが、後になりそうだ」

 それまで眩しげに眼をこすっていた槍使いの少女が疎漏そろうのない鋭い眼で傭兵をにらんでいた。

 二つの黒い瞳は『おかしな真似をしたら即座に殺す』とコンロイを威嚇している。

 だがコンロイにはすでに戦う術は残されていなかった。

 得たばかりの魔術は封じられ、爆発による熱と衝撃は充分に傭兵の体躯を傷めつけている。

 そして彼に残された思いは自分が生き延びることではない。

「たのむ、娘を……」

 しかしコンロイはその意思をすべて声に出すことはできなかった。

 彼の高い鼻腔へ甘い香りが忍びこみ、その直後に彼の理性は支柱を抜かれたように崩れ落ちた。その香りは体の奥、いや魂の深く、更に深くへと速やかに染み渡っていった。

「ぅあがががががあががっ!」

 コンロイは自分がなぜ絶叫を上げたのか、最後まで理解できなかった。

 身体の中で何かが暴れ始める。

 その脈動がひとつ起こるたびにコンロイの記憶は彼から剥離してゆく。

 涙が、目尻から伝い落ちる。

 その軌跡をたどるように傭兵の顔に亀裂が走り、激しい痛みが襲った。

「早すぎる!」

 スキーグが傭兵の身体から飛び退いた。

 亀裂はコンロイの全身に及び、開いた傷口からは血の代わりに黒い水が溢れていた。

 ――みず。

 強烈な衝動が彼の意識を振り回し、それまで複合された観念によって縛られていた彼を、より単純で簡素な存在へと搾り上げてゆく。

 コンロイは自分の身体が勝手に動きはじめていることに最後まで抗おうとしたが、その意識もじきに消し飛んだ。

「スウィッガーだ、そこから離れろアラヤ!」

 魔術師の叫び声。それがコンロイが最後に聴いた声だった。

 ゆっくりと立ち上がった『それ』はもはや娘の父親でも、経験豊かな傭兵でもなかった。

 体中に走った亀裂によって、体躯はそれまでの倍近くに膨らんでいる。

 見下ろした石床に小さな生き物の姿がある。

 そこからは甘い水の匂いを濃厚に感じる。

 ――みじゅ。

 渇き、というシンプルな欲求に従い『その化け物』――スウィッガーは動き始めた。

 永久の渇きの奴隷、スウィッガー。

 彼は自分が二度とは止まらないことを理解していた。



つづく

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る