第6話


「――ケドバ、もう入ってもいいぞ」

 夢うつつのあいだに周囲は慌ただしく動き始め、最後に耳に馴染みのある声と同時にアラヤの全身を包んでいた暖かいものが彼をふわりと抱き上げる。

 そして、石床の上へとアラヤの体をやさしく横たえた『それ』は槍の石突をコツンとひとつ鳴らし、足音も立てず彼の元を去っていった。

 安穏とした居場所を奪われたアラヤは、すでに眠りの淵から自身を引っ張りだそうとしていた。しかしその脱出の決定的後押しとなったのは

「みぃつけた」

 という、鼓膜をくすぐる若い女の声だった。

 四本ある足の半分をまどろみに突き入れていたアラヤは跳ねるように上体を起こし、急いでその意識を現実へとよみがえらせる。あのケドバが言葉を話すはずはないのだ。

 天からの光が射す広間へと侵入したはずのアラヤの身体は、いつの間にかその外となる回廊に寝かされていた。

「なんだ。けっきょく戦っているじゃありませんか」 

 広間へ通じる通路の脇には赤い髪をベールで覆った娘が壁に身を寄せていた。

 彼女は砂や埃、暗闇や死体などとは少しの縁もないような優雅さで両腕を腰のあたりで組んでいる。

 その整った顔立ちは間違いなくあの水読みの娘・ススリのものだ。光球を消し、走り去ったことでうまく撒いたものと思っていたが、彼女の到着はアラヤの予想より遥かに早いものだった。

「ずいぶんと無意味な行動をなさるんですね、あなたの飼い主は」

 そう言うと娘は細い首をかしげてアラヤを見下ろす。

「『飼い主』って言うな」

 ほとんど反射的に抗議の声を上げたアラヤだったが、彼はすぐに自分の浅はかさを悟った。

「……わたしの言葉が分かるんですね、すごい」

 ススリはまじまじとアラヤの小さな顔を見つめ、やがてその場に腰を下ろす。

 思わずアラヤは天を仰ぎたくなった。ススリの大きな瞳には隠す気すらない好奇心がきらめいている。

 このススリに対して魔術師のスキーグは常に警戒を払い、アラヤの実体を見せないように小細工すら仕掛けたたことは彼もよく理解していた――はずだった。

 魔術師ウィザードとは因縁深い関係にあるらしい水読みのススリが、水を身体に作り変え言葉までしゃべるこのカワウソに対し何を思い、何を考えるのか――。

 ひょっとして僕はマズいことをしたのだろうか。殺される? いや、そこまでは行かなくても捕まえられて実験とか……。

 ありとあらゆる悪い想像が彼の脳裏をぐるぐると巡ってゆく。

 ――だまってさえいれば大きなネズミとでも勘違いしたかもしれないのに。

 品位を解するカワウソである彼の矜持プライドを自ら傷つけかねない思考だったが、そんなことにまで冷静に考えるゆとりはアラヤにはなかった。

「そんなに警戒しないでください。取って食べたりしませんから」

 緊張を満面にみなぎらせていたアラヤに対し娘の言葉にはやわらかな笑いが含まれていた。

「ちょっと感動しただけです。水の痕跡を残しながら歩くあなたが普通の生き物じゃないことは分かっていましたが、まさか人語を解するほど高度な魔法生物だったなんて」

 ススリは熱を帯びた口調で語り続けていたが、アラヤの耳には彼女の言葉の半分ほども入っては来ない。

「……水の、痕跡?」

 威嚇するように足を広げつつも首をかしげたアラヤの反応がススリには滑稽こっけいに感じたのかもしれなかった。水読みの娘は半ばからかうように、しゃがんだままアラヤを真似て小首をかしげる。

「きっとあなたの体は、魔術師どのが撒いたあのときの水が素になっているんでしょう。あなたはその水を、ほんの微量ながら足跡に残していたんですよ。それを感知した私はあなたの痕跡を辿ることでここまで来れたのです」

 ――こんな辺境の、しかも地下深くで貴重な水を点々と零しながら歩く人以外の生き物だなんて考えられません。きっと魔術師どのに関わりがあると思いました。

 ススリはそこまで言うと

「そんなことより」

 と形の良い唇を閉じて立ち上がった。

 そしていまだに不審を露わにするアラヤに対し、彼女の白い指は通路の先の広間を指し示している。

「面白くなりそうですよ」

 たのしげに笑った娘の頬は紅潮し、何かに興奮しているようだった。


『なぜだ!』

 アラヤの耳を叩いたのは聞き覚えのない、うろたえた男の声だった。

 回廊から覗く広間では、皮鎧を身につけた巨躯の男がスキーグとケドバの二人に挟み撃ちにあう形で追い詰められている。

 巨躯の男は手に身の厚い剣をぶら下げてはいるが、それを使おうという気配はない。

 きっとあの男がコンロイとかいう傭兵なのだとアラヤは察した。

 槍使いの少女は回廊の通路からまっすぐに進入して傭兵と正面に相対している。一方で刺青の魔術師は傭兵と一定の距離を置きつつ、もう一方へ通じる通路を塞ぐように回りこんでいた。

 懐から銀のスキットルを取り出したスキーグは、その中の水をちびりと喉に流し込み

「降参するか? 『参った』って言ったら種明かししてやってもいい」

 とコンロイを挑発するかのように子供じみたセリフを吐いた。

 不快によってか、眉間に縦皺たてじわの刻まれた傭兵の険しい顔には同時に隠しようのない焦りが浮かんでいる。

 それまでに傭兵の全身からは何度か光が起こっていたが、それが輪郭の外へと発現するより早く、周囲の空気に抑えこまれたように収縮して吹き消えてゆく。

「――あの男も魔術師なんだ」

 ひとりごとのようなアラヤの呟きにススリが頷いた。

「はい。同時にスウィッガーでもあります」

「スウィッガー? あれが?」

 娘の顔を見上げたアラヤに

「まだ明確な『発症』はしてはいないようですが、間違いありません」

 と付け加えた娘の口元には微妙な笑みが浮かんでいる。

 それは暗闇の中に置き去りにした時までのススリとは印象が異なり、アラヤには妖しいもののように見えた。

「その、なんだか嬉しそうなんだけど。ススリ……さん」

 困惑するアラヤがおずおずとそう言うと、ススリは依然として警戒したままの小さな魔法生物を見下ろし

「だって――」

 と上気した頬に白い手をあて言葉を濁した。

 そして熱のこもった息を落とし、とろりとした眼差しを広間へとかたむける。

「――だって、すごくいいがするんですもの」 

「は……? ?」

 思ってもみない奇怪な答えを返してき水読みの娘にアラヤは呆然としたが、娘からの再度の返答はなかった。


 ――一方、皮鎧の傭兵は息を荒らげそれまで右手にぶら下げていた剣を半身に構えてケドバを威嚇していた。

「そう易々と、降参などするか」

 誰に言うでもなくそう独語し、右腰へ斜め差しにしていた短剣を抜くとコンロイは背後に回り込んだスキーグにも切先を向ける。

「いったい何を頑張ってるんだ? あんた」

 赤と青の刺青の中、二つの眼がコンロイを覗きこんでいた。

「『発症者』になる危険を冒してまで、なぜ水源に接触した? 何か理由があるはずだ」

 傭兵が鋭い一瞥いちべつを配したが、異相の魔術師はそれに怖気づくことはない。

「最初にメレディスから聞いた話じゃ、あんたは正気を失ってることになってたが、どうやらそれも違う――」

 スキーグの言葉はそこで中断された。コンロイが野獣のような雄叫びをあげ、スキーグに向け突きかかったのだ。

 防護魔法による青い光の盾が凄まじい速さでスキーグの周囲を巡りコンロイの攻撃を防ぐ。

 だが、その攻撃はただの牽制に過ぎなかった。傭兵はすぐさま逆方向へ転身し今度はケドバに対し間合いを詰め、右手を揺らし刀身の腹で自分のふとももを叩く。しかし沙色の髪の少女はその威嚇に微塵もたじろぐことなく、槍の穂先を低くして身構えた姿には一分の隙もない。

 コンロイは探るような短い突きをケドバの右脇に入れたが、槍の穂先で軽くいなされ、逆に壮絶な突きを返された。なんとか仰け反ってそれをかわすと、歯噛みして二歩後退し自分の間合いを保つ。

 右手にケドバ、左手にスキーグを相手取ったまま一向にらちの開かぬ状況はコンロイの頬に汗を伝わせていた。

 それを見たのか、刺青の魔術師が今までにない声を張って少女の名を呼んだ。

「ケドバ、散布した魔術抗体イミュニティの効果が切れるまえに片付けるぞ」

 コンロイへ正視していた少女の顔が上がる。

 それと同時に彼らに挟まれているコンロイの眉も動いた。

「――魔術抗体?」

 馴染みのない言葉にアラヤが首を捻ると、隣に立つススリが

「分かりやすく言えば魔法封じの一種です」

 そうアラヤに目もくれず、ざっくりと説明した。

 直後にスキーグの右腕が上がった。

 床をさしていた右手の人差し指が天井へと向けられるとクロークの懐から青白い光球が浮かび上がる。

 アラヤには見覚えのある光景だった。

 暗闇を照らしていたあの光球がただの魔法による照明ではないことは彼もよく知っている。

 淡い光を放つ魔法の珠は遊ぶように魔術師の右腕にまとわりつき、やがて彼の心臓の前あたりで静止した。

 そして左右の敵へとせわしなく視線を振るコンロイに向かって意味ありげな笑みを閃かせると胸の前の光球を破裂させた。

 弾けた魔法の珠は三つの白い光弾となって放物線を描きながら飛び、巨躯を小さくして身構える傭兵を次々通り過ぎてゆく。その三つの魔法弾の軌跡を追ったコンロイの眼は長身の少女の姿を捉えた。

 光弾は次々に少女の周囲を巡り、まず手にする槍に一つの光が宿る。

 それを契機に次々と白い光が少女の全身へと衝突し、周囲の黒い石床に光を放ちながら防護魔法を付与してゆく。

「あいつ、まだ別の魔法を隠してたのか」

 三つの魔法によって白い光を纏いながら強化されてゆくケドバの姿にアラヤが目を細める。

 スキーグが発動させたのはコボルドとの戦いで披露した魔術連続体スペルシーケンサに違いなかった。目に見えて明らかな強化が施されてゆく槍使いからコンロイが距離を取ろうと動いた。

「降参しろ。今ならまだ怪我をせずに済む」

 傭兵の退路を塞いだままのスキーグが再び降参を呼びかける。

 刺青の魔術師へ視線を傾けた傭兵の目元が輝いた。

 コンロイは再度槍の少女に向かって巨躯を振り向け、そのまま一回転し左手の短剣をひらめかせる。

 ――鋭い金属音が広間に木霊した。

 コンロイの長い腕から放たれた短剣は空を切ってスキーグを襲い、それを魔術師は右手にしたスキットルで払い落としていた。

 魔術師を護っていた光の盾はすでにない。

 傭兵の眼尻が上がる。脱出の糸口を掴んだ、という顔だった。

「小僧ッ! 死にたくなければそこをどけッ!」

 白い光を放つケドバに敢えて背を晒して走りだしたコンロイはいまだに彼の退路に立ちふさがる魔術師へ向け、一気に跳躍した。

 宙空からの強烈な斬撃が振り下ろされる。

 スキーグは纏ったクロークを翻し、向かって左側へ横っ飛びに跳んだ。コンロイの剣は空を切ったが、傭兵の顔には笑みがある。

 通路を支える太い石柱に手がかかった。

「これでひとまず水源まで下がれば……」

 そこで背後へ振り返ったコンロイの表情が凍りついた。

 魔法で強化されたはずの娘はそれまで構えていた槍を肩に担ぎ、眩しげに眼をこすっていた。

 ……そしてコンロイの斬り下ろしをまぬがれた刺青の魔術師は、めくれたクロークの裾をすっぽりと頭にかぶりながら、中指を石床に付けている。

「それは……」

 我が眼を疑う、といった顔でコンロイが呟く。

 魔術師の手元には赤い光を放つ小さな円が二つあり、そのうちのひとつに指が触れている。加えて光の円からは一本の線が石床を這うように伸びており、それはコンロイの足元にまで通じていたのだ。

 コンロイは青ざめた顔を刺青の魔術師に向ける。

 スキーグがそれに対して無言のまま頷くと、二つ目の赤い円に人差し指を付けた。

 その瞬間、轟音とともに石床から骸骨をかたどった爆炎が噴き上がり、コンロイの巨躯が上方に飛んだ。

「……あんたの後ろに回り込んだ時に仕掛けておいたんだ。必ずここを通って水源へ逃げると踏んでな」

 クロークの裾を頭にかぶったまま、魔術師がおもむろに立ち上がった。

 爆風に吹き飛ばされ、全身を石床へ打ち付けられたコンロイは気を失ったように動かない。


「やった……」

 回廊側の通路から一部始終を見ていたアラヤはようやく安堵の息をついた。そして隣に立っているはずの娘へと顔を向けたが、そこにススリの姿はなかった。

「ススリさん?」

 そう呼びかけたもののどこからも返事がない。

 アラヤは通路から回廊へと首だけ出して左右を見渡したが、水読みの娘の姿は忽然と回廊から消えていた。



つづく



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