第5話


 屍と化したコボルドの残骸が血の上に浮かんでいる。

 その死体の数をアラヤが数えてみると、およそ十五体ほどだった。これは先ほどの広間で遭遇したコボルドたちの一群の数に近い。そのうち、ケドバが五匹を槍にかけていることを思い出してみると、この死体は彼らの生き残りの成れの果てと見てよかった。

 しかしアラヤにとっては胸の悪くなるような惨状だった。

 通路を覆う血だまりはまだ鮮やかさを保ったままだ。その上にはえぐり出された眼球や、黒い肉のこびりついた何本かの歯などがアラヤの視界にちらほらと紛れ込んでいる。それらをいちいち直視してしまったことが呪わしいが、脳裏に焼き付いてから後悔しても遅い。

 アラヤは小さな体を撥条バネのようにしならせ、彼の前に立つスキーグのクロークを伝い上がり、その肩にまで飛び乗った。刺青の魔術師もこのときばかりは珍しく慌てた声を上げた。

「服に砂が入るだろうが! 降りろ、このタヌキ!」

 刺青の魔術師は全身をよじってアラヤを振るい落とそうとしたが、アラヤも簡単に落とされるわけにはいかない。

「僕にあの血だまりの上を歩けと言うのか? この人でなしめ!」

 それは品位を解するカワウソを自負するアラヤには耐えかねることだった。

「『人でなし』ってのはな、人間が口にするセリフだ」

 そう言ってスキーグが毒づいたものの、クロークの肩に爪まで立てて抵抗するアラヤの粘りに辟易したのか、やがて諦めたように丸めていた背筋を伸ばした。

 アラヤが魔術師の黒髪に足を突き、鼻息を荒くする。

「意外とだらしないな、お前」

 勝者の余裕を見せるアラヤを頭に乗せ

「そのうち鍋で煮込むぞ」

 と負け惜しみめいたことをひとつ言い、渋面のまま魔術師が歩き出した。

 スキーグがコボルドたちの作る血だまりを跳躍し避けて進むと、やがて長く続いた回廊にも別の空間へ続く入り口が見えてくる。

 血だまりを脱し、傾いた石の柱の列を抜けるころ、何かを察したスキーグがアラヤに声をかけた。アラヤが進行方向に視線を注ぐと、その左側に開いた通路からは炬火のものとしては強すぎる明かりが射している。

「あの光――」

 アラヤがそう言いかけたところで魔術師の手が伸び、彼の首をわしづかみにした。

 ものの見事に隙を付かれたアラヤは、もがく間もなくクロークから剥ぎ取られポイとその場に放り捨てられる。

 なんとか体をひねり、無事に石床へ着地したが、抗議しようとした相手は既に長身を小さく折りたたんで壁の影に潜んでいた。

 その手には彼の愛用のスキットルと同様の素材で製造されたと思しき小さな筒状の容器がある。

 自分が放り捨てられたことも忘れて何のための容器か尋ねようとしたアラヤだったが、スキーグの身振りはアラヤに注意を促しており、同時に物陰へ隠れるよう命じてもいた。

 回廊は遺跡構内の外周を巡るようにまだまだ先へと続いているが、左側の通路から溢れる出てくる光はアラヤにも異常なもののように感じられた。耳を澄ましてみるとその通路の先から様々な音が聴こえてくる。

 水のしたたる音、それだけではなく風のざわめきや鳥の鳴き声らしきものもアラヤの耳には入ってくる

 アラヤは壁ぎわに寄り添うと足音を殺し、その小さな体をさらに低くして石造りの通路の先を覗きこんだ。

 もはや炬火も、光球の明かりも不要なほど彼の視界は鮮明に開けていた。

「……空が見える」

 驚愕によってアラヤの黒い瞳が常より円くなる。

「空?」

 このスキーグの声はアラヤの耳へは入らなかった。

 アラヤの視界に広がるのは回廊の内側にあたる大きな広間だった。しかし広間の天井は丸く穿たれ、それによって出来た巨大な穴からはいくつもの層を越えて青みの帯びた光が射し込んでいる。

 光のあふれる淵からは、青々と葉を茂らせた蔓が長く垂れ下がっており、赤い飾り羽を生やした鳥が弧を描きながら天井の穴を舞い降りてくる。

 淵からしたたり落ちる水は、その真下にあたる広間の中央に小さな水たまりを作っていた。

 ――そして、その光射す広間にはいったん別れたケドバの姿があった。

 この褐色の肌をした沙色の髪の少女は、暇を持て余したように床に突き立てた細身の槍に寄りかかる形で佇立している。

「ケドバ!」

 少女の名を呼んだ時にはアラヤは走りだしていた。そして声を出したことで、彼は久しぶりにうつろな幽霊ではなく体をそなえて少女と再会することに気付いた。

 はたして沙色の髪の少女は自分に向かって疾駆するアラヤの姿を察知し、裸の膝を石床に落とす。

 やがて伸ばされた少女の長い腕が飛び込んできた小さな獣の背を撫でた。

 アラヤにとっては至福とも呼べる瞬間だった。

 ケドバは無言のまま、幼さの残る顔をくしゃくしゃに崩し、アラヤの首から長い尻尾までを絞るようになで上げる。全身を粟立てるような快感が繰り返し襲い、自分の置かれた状況も忘れアラヤはその感覚に溺れていった。

 そしてアラヤの傍らからは、彼を抱きとめ、いとしげに愛撫していたはずの少女の姿はなかった。


           *

 

 横たわった小さな獣の体の上に濃い影が浸潤した。

「……『これ』は、いったい何だ?」

 伸びている獣を見下ろすその男の声には若干の驚きがあった。

「鼠にしては大きすぎる」

 皮鎧に覆われた雄偉な体格に似つかわしくない整った口元をゆがめ、男はいぶかるように靴先で小さな動物の脇腹を繰り返し小突く。

 しかし、男の足下の奇妙な獣は気を失ったように何度か足を小さく震わせただけで、男に対して反応という反応も示さない。

「――『それ』はあまり気にかけるな。害はない」

 脇から突然かけられた声に男はぎくりとして腰に下げた反りのない身厚な長剣を手をかけ、抜き出した。しかし血走った眼をどれだけ忙しく動かして視界をまさぐろうと、広間の中にも回廊への通路にも人影らしきものは見当たらない。

「……誰だ?」

 緊張によるものか、男から滑り出る声はほとんど掠れかけていた。

 返事がないことを知ると、男は横たわったままの獣の脇を離れ、慎重な足運びで広間の片隅へと退いてゆく。

「あんたがコンロイだな?」

 ふたたび虚空から声が響き、名を呼ばれた男は弾かれたように剣先を浮かした。だが武器を構えたはいいものの、切先を定める宛てがないためか男の挙動には落ち着きがない。

「何者だ? 姿を見せろ!」

 亡霊と対峙するようにコンロイは手にした剣を慌ただしく四方へ向ける。 

「……いや、どちらにせよ商団の誰かに雇われた魔術師ウィザードだろう」

 息を呑んだコンロイは声の返答を待たずに姿を現さない魔術師へ問い質す。

「私を殺すよう依頼されて来たのか?」

「そうだ」

 簡潔な返事のみを残し声は沈黙した。

 コンロイは両足の踵を浮かせて長剣を肩にかつぐような構えを取っている。

「……私は仲間を殺してなどいない。それに商隊を裏切ったわけでもない」

 呼吸を整えようとしてか、傭兵は何度か大きく息を吐いた。

「奴らは水源を奪おうと勝手に殺し合いを始めて死んだんだ。まるで狂ったようにな!」

 語気が荒れ、コンロイの声は広間に強く反響する。

「――それで、その仲間の死体はどこだ?」

 姿なき声の主は冷静なままだ。

 コンロイは構えた剣を動さず、削げ落ちた顔を少し上げると

「この奥だ。案内するから姿を現せ」

 と背後の通路に向け尖った顎先をしゃくった。

 しかし声は安易な同調を見せようとはしない。

「いや、その前に確かめなきゃならんことがある」

 そう言い、コンロイに向かって何かを投げて寄こした。

 鋭い音をたて、石床を激しく擦りつけながらコンロイの足下近くまで滑ってきたもの。それはコルクで栓をされた、小さな筒状の容器だった。

「――それを手にとって、栓を抜け」

 右手の剣を構えたまま、寄越された容器を見下ろしたコンロイに声が指示した。

「これは何だ? 中に何が入っている?」

 不審を満面にしたコンロイに対し、姿なき声は静かに言った。

「その中には未加工の水源の粒子が封じ込められている」

 水源、という語句によってコンロイの眉間に深い皺が刻まれる。

 声は更に続けた。

「水源といっても、微細に過ぎて肉眼に捉えられない程度の量だ。人体が直接取り込んでも害にならない」

 姿を見せない声の語る話に耳を傾けながら、コンロイは半信半疑の顔で片膝を崩すと足元の容器へ左手を伸ばす。

 しかし、次に発された声が傭兵の動きを止めた。

「――だが、あんたが『発症者』。スウィッガーなら話は別だ。この水源の粒子を取り込んだスウィッガーは『ある感覚』を強烈に刺激され、劇的に変化を進行させる」

 ゆるやかに元の姿勢に戻ったコンロイは左手の容器を弄びながら口端に笑いを作った。 

「つまり、この筒は『化物発見装置』というわけか」

 肯定を意味してのことか、声は直接その問いに答えない。

「俺が見たところ、あんたは既に魔術師ウィザードになっている。問題は、同時にスウィッガーに変化を始めているかどうかだが――さて、どうする? そいつを試してみるか?」

 声は語尾に笑みらしき響きを残した。

 傭兵はしばらく小さな筒状の容器を凝視していたが、やがてまなじりを決し

「私は人間だ。証明してやるさ」

 そう宣言して筒を左手に取り、栓をしているコルクに歯を立てた。

 そしてゆっくりと手を動かし栓を抜き取る――

 ――それは一瞬の擬態に過ぎなかった。

 コンロイの全身が光を帯びたかのようにゆらめき、突如としてその姿が霧のように拡散してゆく。そして間髪を入れず、肉体を薄められたような霧のなかから赤い槍状の光弾が立て続けにはしった。

 発射された光の槍は広間の隅から放射状に撒き散らすように飛び、そのうちのひとつは中央で失神している小さな獣を撃ち貫いた。

 しかし正確に獣の身体を捕えたはずの光弾は、獣の姿に何の傷も与えられない。

「そこか!」

 光る霧のような揺らめきを纏ったままコンロイが獣の横たわる中央へ駈け出す。そして絶叫にも似た気勢の声を上げ、彼の長剣が振り下ろされる。それと同時に、横たわった獣がつくる小さな影が膨張し、襲いかかるコンロイに向かって噴き上がった。

 長剣のぶつかる硬質な音が広間に響き渡る。

 しかし、コンロイの剣は獣の身体に切先すら触れることも叶わなかった。

 獣の脇から噴出した影は人の姿を形作っており、その影の中で左右意匠の異なる赤と青の刺青が施された顔が口端に笑みを浮かべていた。

「やはり幻惑魔術師イリュージョニストか」

 この影の声にコンロイは答えず、えぐり込むような突きを繰り出した。しかし影とコンロイの剣の間に青い光を集めたような盾が浮かび、彼の攻撃はまたも弾かれる。

 下方へと斬撃を受け流されたコンロイは更に剣を返し切り上げたが、光の盾は剣の切先を追尾するように縦横に動き、傭兵の攻撃を完全に防御している。

「くそッ!」

 攻めあぐねたコンロイがいったん剣を引いた。傭兵の動きにあわせ、光る霧もまたぼんやりと連動する。

 影の中から完全に脱した魔術師はクロークのフードを脱ぎ、獣の細い首を猫でもつかむように右手にぶら下げていた。その姿を改めて眺め見たコンロイは失笑したように髭に覆われた口元をゆがめた。

「私の仕掛けた罠を抜けたのは運が良かったな。その獣に感謝するがいい」

新米ノービスの罠にはタヌキがお似合いだ」

 魔術師はそう即答すると右手につかんだ獣を回廊へ抜ける通路まで放り投げる。放物線を描いて飛んだ獣の身体は、通路で待機していた褐色の肌をした長身の娘の懐へとすっぽり収まった。

 そしてコンロイの視線が通路の外へと向いたその一瞬、魔術師の全身に風が集まったかと思うと白い光が放たれ、影も焼けつくほどにその光は石造りの広間を覆い尽くした。

 光の波濤が広間の隅々へ行き渡るとやがてコンロイの喉から悲鳴が上がった。それまで傭兵の身体を包んでいた光を帯びた霧は烈風に吹き飛ばされたかのように文字通り霧散している。

「……貴様、私にいったい何をした?」

 両手で剣把を握り魔術師に切先を向ける。その両眼には隠しようのない恐怖が映っていた。

 ――どうやら効いたみたいだな。

 そう一言つぶやくと

「ケドバ、もう入ってもいいぞ」

 魔術師は背後で獣を抱いたまま待機している少女に向かってそう呼びかけた。



つづく

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