第3話

 遺跡は半月を背に抱え、一枚岩から掘り出したような高い尖塔が砂漠の上に濃い影を落としていた。


 見上げた夜空には一切の雲もなく、月を崇めるかのようにおびただしい数の星々がそれぞれの気の赴くままに輝きを放っている。

 その夜の風は常と同じで冷たく、そして優しげだった。

 風は本来ならばわずか数日で相貌を変えてしまう砂の世界を、彼が訪れた日とほとんど形を変えることなく留めている。その風は、短く切り揃えられた光沢のない男の金髪をやさしげに揺らした。


 その金髪の男――メレディスは、音もなくゆっくりと運行してゆく中天の星へしばらく視線を投げ上げながら、じきに来る朝の光を思った。

 朝になれば、今は押しとどめている砂も風に乗って踊り狂いはじめるだろう。

 貴公子然とした彼の顔はまだ壮年に差し掛かかったばかりという若々しいものだ。しかし、彼の青い両瞳には老成されたような沈毅さがあった。

 都市を結ぶ街道は、都市と同様に底に張り巡らされた『水』によって絶えず砂から護られている。しかし、いったん街道から外れてしまえば人が砂から身を守る手立てはない。

 なんと無力なものだろう。

 メレディスは人という生き物の脆弱ぜいじゃくさに虚しさを覚えたが、それは一時の感傷に過ぎない。

 砂に飲まれたこの世界の中で、人間が生活を営んでいる都市は大小あわせておよそ四十。それは長い長い歳月をかけた大事業であり、脆弱なる人間によって成せたわざだった。 

 そしてメレディスもまた人の活動領域を広げるべく、今こうして砂の上に立っていた。彼の背後には総員およそ三十人の武装商隊を収容した大小五棟の天幕が彼を鼓舞するかのように並んでいる。

 この砂漠の地に野営している彼らは、遥か西に位置する交易都市エルギンからやってきた商隊からの分遣隊だった。そして彼らは本来の商隊の任を越え、新たなる城塞シタデルの礎となる『水源』の獲得のため、この尖塔の遺跡へ訪れた勇気ある者達だった。

 しかし駐留を初めて早三日が過ぎ、当初一日と想定していた探索行は困難のただ中にある。

 その困難は、彼の部下であったある傭兵の裏切りによるものであり、すでに分遣隊の傭兵たちから七人の死者を出すという痛恨の事態に発展していた。

「――メレディス、中に入ったらいかがです? 外は冷えますよ」

 呼びかけられた声にメレディスが振り返った。

 そこはメレディスが仮住まいとしている天幕であり、その脇で淡褐色の髪の男が親しみをこめた視線をメレディスに投げかけている。

「ヘクターか。街道までのつかい、ご苦労だった」

 メレディスは幕舎の脇に立つ年少の友の名を呼び、労いの言葉をかけた。

「エルギンからの往路を思えばお安い御用でございます、商団長どの」

 ヘクターはおどけた仕草で一礼をすると腕を伸ばして織布で作られた天幕の入口を広げた。彼はエルギンから派遣された商団の長、つまりメレディスの個人的な秘書の一人であり、同時に信頼のおける友人でもある。

 天幕の幾重にも折り重なったその入口からは焼け石によってほのかに温められた空気が流れ出ている。メレディスはヘクターの腕の下をくぐるように身をかがめ、天幕のなかへその痩身を滑らせた。この小型の天幕の内部はメレディスの個室と呼べるもので、敷き詰められた毛皮の上には折りたたみ式の机、二脚の椅子に簡易の寝台が設けられている。

 メレディスが天幕に入ったあと、左右を見回し人気がいないか確認し、ヘクターは布製の入口を閉じた。椅子に座るようにメレディスが勧めたがこの忠実な部下は柔らかく固辞し、飲用水の入った革水筒だけを受け取った。

「それで、副団長たちの様子は?」

 メレディスの問いに、革水筒の水を喉に流し込み、ヘクターが答えた。

「……引き連れている商隊の手前もありますから、まだ余裕は見せておりますが、内心みな不安なのでしょう。なにせ当初の計画では一日だったはずの野営が今朝でもう三日目に入ります。そろそろシュピーサイドにも怪しまれる頃合いですので」

「うむ――」

 ヘクターの言うシュピーサイドとは、この尖塔の遺跡より少し北に位置する都市の名前を指している。活動領域内の地下に豊富な鉱床を持つシュピーサイドは、この時代では鉱山都市として世界中にその名を知られていた。

「……商荷護衛の傭兵たちは地下したで仲間を殺されていますから、怒りがあるぶん怖気付きはしないでしょう。でも、商団のお歴々の中には荷運び連中から抗議を受けた方がいたようで。僭越せんえつですがそろそろ引き上げ時と見てよろしいかと」

「そうか」

 ヘクターの報告に頷くと、メレディスは椅子の上に腰掛けて机の小さな抽斗から一枚の皮紙を取り出した。

「――しかし遺跡にもぐっている彼らを見捨てて逃げるわけにもいかん。私はここで待とうと思う」

「それは……」

 言いかけたヘクターを手を上げて制止し、メレディスはさらに続ける。

「明日――いや、もう今日か。もし彼らが夜までに戻ってこなければ、お前は街道まで行き商団と合流してシュピーサイドまでいったん商隊を引き上げてくれ。朝までに副団長に宛てて書簡をしたためておく、それを手渡すように」

 そこで言葉を切ったメレディスは机の上に皮紙を置き、椅子の背もたれに肘をかけ寄りかかった。

「……メレディス、無茶が過ぎますよ」

 ヘクターは少し苛立ったように髪と同じ色の瞳を織布の天井へ向ける。

「こう言うのは失礼ですが、あなたはスウィッガー、『あの化け物ども』に肩入れしすぎです」

 ヘクターの言葉には明らかなさげすみがある。それを認めたメレディスの片側の眉が不快げにゆがんだ。

「スキーグは私が招いた客人だ。そして地下にいるコンロイは傭兵だが、ほんの四日前までは商隊の一員としてずっと寝食を共にしてきた仲間だ。それを、お前は化け物と呼ぶのか」

 メレディスの口調は感情が抑えられてはいたがその眼差しには怒りがある。ヘクターは淡褐色の髪を揺らし、疲れた表情で彼の主人を見つめ返した。

「奴らのことに関してだけは、賛同できかねます。もし『発症』したスウィッガーが遺跡からい出てきたならどうします? 傭兵が何人いようとテーブルの上に果実を並べるのと同じです、商団長をここに残すなど危険過ぎます」

 そこでいったん言葉を切ると、ヘクターはこう言った。

「――どうかお忘れなく。俺は奴らの恐ろしさを身を身を以て知っているんです」

 忠実な部下の真摯しんしな眼差しは、皮肉なことにメレディスにとって冷えたため息の他に何も生みださなかった。

「……改めて忠告されずとも危険は充分に承知しているさ。そのためにお前の意見をれ、もう一人の客人にも探索同行を依頼したのだからな」

「あの水読みの巫女、ですか」

 これにゆるやかに頷くとメレディスは後ろ暗さをあらわにして言った。

「もし火急の事態が起こったならば、彼女がすべて始末をつける算段だ」

「それより、いっそのこと化け物同士で潰し合ってくれれば――」

「もうよせヘクター」

 しかしヘクターは、メレディスの制止の声も耳に入らないように続ける。

「そもそも、あのスキーグという男。どこの都市からの認可も受けていない管理外の魔術師だというじゃありませんか。あなたがそんな野獣よりタチが悪い化け物となぜ懇意こんいになさるのか――」

「いい加減にしろ!」

 激昂したメレディスが手の甲で机を叩き、その音に弾かれたようにしてヘクターは我に返った。

「……どうか無礼をお許しください、商団長どの」

 張り詰めた沈黙のあと声を絞り出したヘクターに、メレディスは内心のやりきれなさを隠して告げた。

「お前が何を言おうと決定は変わらない。私は彼らの生還を確認し次第、傭兵たちを連れシュピーサイドに向かう。もし、万が一に私が死ぬようなことがあれば、出発前の取り決めに従い副団長が代理として商隊をまとめて母都市エルギンに帰還する。その場合、お前は商団長代理付きとして以後は彼の命に従うように」

 一息にそこまで言うと、もう話すことはないとメレディスは手を払ってヘクターを下がらせた。

 忠実な部下であるヘクターはもはや抗議しても無駄と悟ったのか、手にしていた革水筒に栓をしメレディスに返すと一礼して天幕から去っていった。

 ――一人になった天幕の中でメレディスは彼の部下が残した水筒を見下ろしていた。

 水は普段誰もが口にする。それは飲用水として魔力を帯びた水源から抽出され、人体に無害なように精製されたものだ。水がなければ人も牛馬も生きてゆくことはできない。畑も果実も水あってこそ収穫物を実らせるものだ。

 しかし一方で人々は魔力を帯びた水源そのもの関しては徹底的に疎んじ、水源に接触する存在を一方的に卑下し蔑んでいる。

 メレディスにとってヘクターは頼れる部下であり善良な友人である。そんな彼でさえ水が関わると、途端にその瞳が曇る。そのことに若き商人はどうしようもない疲れを覚えていた。

『――どうかお忘れなく。俺は奴らの恐ろしさを身を持って知っているんです』

 ヘクターの言葉が脳裏によみがえる。

 彼の故郷は記憶の街と呼ばれたリヴェットという名の都市だった。しかし現在、リヴェットは砂に呑まれ、廃墟さえも残さず世界の表から消失してしまっている。

 ヘクターはその崩壊したリヴェットからエルギンに逃れてきた難民の子だった。

 リヴェットの崩壊の原因については情報が交錯し、確かなことは分かっていない。しかし風の噂によると、リヴェットはその中枢である城塞シタデルがスウィッガーたちの一斉蜂起によって陥落し、水源を失ったことによって砂に没したのだという。

 ヘクターの、スウィッガーに向けられる憎悪は並ならぬものだが、かといって彼の感情が特別だというわけではない。

 魔術師ウィザード、あるいは水に接触したもの一定の確率で『発症』し変化するというスウィッガーは常に忌避され、人より憎まれる存在だった。それは今も変わりなく、スウィッガーにならずとも誰の管理下にも置かれていない自由な魔術師には、一部の都市をのぞき一般的に認められている人としての権利さえ許されていない。

「……今頃コンロイはどうしているか」

 メレディスは声に出して彼の元部下だった傭兵の名を呼んだ。

 傭兵とはいえ、彼らはみな商団の専属として長く良好な契約関係にあった仲間だった。

 そしてその中でもコンロイは、経験ゆたかな年長者として最初にこの遺跡の探索行に派遣した信頼のおける傭兵のひとりだった。

 そのコンロイが裏切った。遺跡から命からがら生還した傭兵からもたらされた報告は、メレディスには受け入れがたいものだった。

 苦楽をともにした仲間を七人を殺し、水源を奪ったコンロイはすでに正気を失っていたという。

 彼は遺跡の底で死んだか。それとも魔術師として力を得、遺跡の外へと逃げおおせたか。……あるいは感情も理性も失い果てて、今も暗がりの中を這いずっているのか。

 何度か繰り返しとらわれた疑問にふたたび黙考し、やがて諦めたように机の上に取り出した皮紙の上へとメレディスは鵞ペンを走らせていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る