第2話

 先頭の五匹を倒され、さらに死体から発生した稲光によって混乱の極みに突き落とされたコボルドたちは、口々にうろたえた声を上げて広間から左右に続く細い通路の先へと這々の体で逃げてゆく。

 統率を失い、バラバラに逃げ散ってゆくコボルドたちの中には彼らの頭目と思しき巨体も混じっていた。

 嬉々とした笑みをあらわに、ケドバが構えた槍で逃げ惑う頭目の背を貫こうと追いすがる。

「逃げさせとけ」

 ケドバの動きを制止させたのはスキーグの声だった。

 声を発した刺青の魔術師は左手から革手袋を外し、クロークの裾についた埃を払っている。ケドバがうらめしそうにスキーグの顔をにらんだ。

 しかし、魔術師の気が変わらないと諦めたのか、唇を尖らせると鼻先まで落ちかかった自分の前髪に思い切り息を吹きかけた。

「ふてくされるなよ」

 男がそう言ったのと同時に、ふたたび光球が広間の中央に浮かび上がってくる。光球はさきほどより一回り身を縮ませ、青白い光を弱めている。

 アラヤは、五体のコボルドの死体が作り出した血だまりを避けるように転々と広間を移動し、やがて石造りの壁際に肩を貼り付けていた。

 ――『遊び』か。

 アラヤはさきほどのスキーグの言葉を思い出し、少し憮然ぶぜんとした。

 黒く凝固した古い血だまりの上を、新しい血が覆ってゆく。

 あのコボルドの群れのほとんどは逃げ散ったが、ケドバが槍にかけた敵は一匹の洩れもなく皆息絶えている。

 いびつな獣人たちの一群に大打撃を与えたのはスキーグの『痛覚共有』と呼ばれる術だ。

 最初に光球が破裂した際に撒き散らされた煙、あれを浴びたコボルドたちはみな痛覚共有の魔術に『感染』していた。そして、感染した個体の痛覚が少しの劣化もなく、瞬時に全体へとに共有された。

 最初に短剣で突きかかってきたニ匹の首が、ケドバの槍によってね飛ばされた際の感覚。あるいは立て続けに喉や背を穂先で刺し貫かれた際の感覚、それらすべてが瞬く間に彼ら全員の脳髄へ殺到ラッシュしたのだ。

 以前、アラヤがスキーグによって聞かされた解説によれば、この魔術は感染魔法コンテイジョンと呼ばれる属性のごく初歩的な術だという。コンテイジョンの魔法はおおむね術者への負担が少なく、扱いやすいらしい。

 そして、それが初歩的の術であっても、統率が取れていないことに加えて人間よりも直接的な死の恐怖に弱い獣人たちには大いに効果的だったようだ。

 広間の中央では、自分が倒した獲物の死骸から槍先だけを器用に使い、ケドバが装備品を改めている。

 返り血で汚れることを全く気にも留めない少女の様子を見守りながら、アラヤは自分の足がコボルドの血を踏んでいないか確かめるため足裏を壁に擦りつける。

 しかし、自分の体に血など付く道理もないことを思い出し、少しだけ慄然とした。今のアラヤの姿を肉眼で捉えられるものはいないのだ。


「――今の術は、感染魔術コンテイジョンの一種でしょうか。少し驚きました」

 ススリの発した声にほぼ同じタイミングでアラヤとスキーグが振り返った。

 さきほどまで後方へ退いていたはずの水読みの娘は、既にコボルドとの戦いがあった広間のなかへ足を踏み入れている。

「魔術にまで造詣がお有りとは、畏れ入ったよ」

 スキーグの言葉には皮肉の針が込められていたが、それを受けた娘はまるで痛痒つうようを覚えていないように軽く頷く。

「私は水読みです。幼いころより母や祖母から水読みと魔術師ウィザードとは表裏一体のものと教えられてきました」

 常識です。

 そう言いたげなススリの弁を聞くうち、魔術師の瞳がじわりと細くなるのをアラヤは見た。

「……あんたたちに言わせれば、そうなるだろうね」

 どこか当てこすりめいたことを男が言うと、やわらかだった娘の目元がようやく険しさを見せた。

 二人による薄布で包んだ刃のような言葉の応酬は、当事者でもないアラヤまで動揺させた。

 ――ところが、二人のあいだに漲りを見せた緊迫は、四つんいで割り込んできたケドバによってあっけなく霧消した。

 ススリが「あっ」と小さな悲鳴を上げる。

「な、なんなのですか。これはいったい?」

 突如としての水読みの娘の慌てようからスキーグが足元に這いつくばったケドバに視線を下ろすと、この沙色の髪の少女は赤褐色の長い手でススリの細い足首をがっしりと掴んでいる。

「ちょっと、スキーグ殿。この子を、なんとか……」

 片足を取られ、姿勢を崩しかけながら水読みの娘はそれまでの険悪さも忘れたように魔術師に助けを求めた。

 スキーグはしばらく無表情のまま、心底困惑した様子のススリを見ていたが、やがて

「――『そこをどけ』と言ってるんだよ」

 素っ気なく言うと、脱力しきったようにクロークの両肩を落とし、首の捻って関節を鳴らした。

「え? 『どけ』とは?」

 ススリは体勢をぐらつかせながら怪訝な顔をしている。

 刺青の魔術師はやや間を空け、鼻息を吹かした。

「こいつは、あんたが踏んでるそのナイフが欲しいんだ。だから右足を上げてやってくれないか」

 今度は丁寧に説明するとススリも事態を把握したのか、びくりと跳びはねるようにその細い右足を上げた。

 ――確かにススリの足元にはコボルドの所有物だったと見られる一振りの刃渡りの短いナイフがあった。

「ご、ごめんなさい」

 ナイフの柄を両手でつかみとった少女に水読みの娘が詫びると、少女は二度小さく頷き、いそいそと腰に下げた小さな鞄に戦利品をしまい込む。

 嬉々とした少女の様子をぼんやりと見守るススリは安堵のため息をついた。

「……スキーグ殿は、よく大して言葉も使わず彼女の言いたいことが理解できますね」

「は?」

 きょとんとした顔を向けた魔術師をみて、呆れたように逸らしていた視線を向ける。

「彼女のことです。言葉を、喋れないのでしょう?」

 ためらいがちに訊いたススリの視線の先には四つん這いのままスキーグの傍らに座るケドバの姿がある。

「ふうん。理解、というかねえ……」

 曖昧な頷きかたをした男がほとんど無意識の手つきでケドバの沙色の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。

「俺はこいつの特殊なライフスタイルに無理矢理付き合わされてる、いわば被害者でね」

「……『被害者』?」

 男の口から奇妙な言葉が出たことに躓きを覚えたのか、水読みの娘は眉をひそめる。

「それからこいつのために訂正しておくが、こいつは喋れないんじゃくて、喋らない。自分の意思で喋らないことにしてるんだ」

 スキーグの話す内容に多少の興味をそそられたのか、はじめてススリの口元が緩んだ。

「何やら事情がお有りのようですね」

「それなりにね」

 別段面白くもなさそうに答えた刺青の魔術師をひと睨みし、やがて水読みの娘はため息をひとつ落として話題を切り替えた。

「……水源と人の気配ですが、あれからまったく移動していないようです」

「ほう。それは面倒がなくていいことだ」

「そうでしょうか」

 自分の考えが先に立っているのか、ススリの反駁は早い。ふたたびスキーグの眼が細くなる。

「では、『奴』はとっくの昔に俺たちの存在に気づいていて、待ち伏せをしているとでも? 仮にそうだとしたら――」

「そこまでのことは私には判断しかねます」

 言いかけた言葉を遮られた魔術師は軽く身動ぎし、緑がかった黒髪を振った。

「言いたいことがあるのならはっきり言ってみればいい」

「私たちの追っている者はすでに『私たち』の敵となった。私はそう考えています」

「……なるほどね」

 あっさりと頷いたスキーグだったが、赤と青の刺青に覆われた両眼には娘に対する敵意にも似た光が宿っている。

「だとしたら急いだ方がいい――おいケドバ、水源の位置は覚えてるな?」

  魔術師の呼び声で戦利品のナイフを手入れしていたケドバの顔が上がり、問われた言葉にコクコクと頷く。その黒い瞳はあふれんばかりの好奇心で輝いている。

「よし。おまえは左側の通路から先行してくれ、合図する」

 スキーグの口から伝えられた手短な命令を、ケドバは嬉しそうに頷くと床に転がしていた細身の槍を手に取る。

 そして彼女の長身はコボルドたちの死体を軽く飛び越え、獣のような俊敏さで広間の左に開いた通路へと駆け去っていった。

 ――広間を照らす光球が放つ明かりは『二人』の影を長く引いている。

「……あの子を一人で行かせて良かったのですか?」

 魔術師の方をちらりと見たススリは、先ほどと同じ仕草でその場にしゃがみこみ、右手を石床に付けている。

「あいつは夜目が利くし、大抵のことには俺以上に強い。心配は無用だ」

 自嘲まじりに言うと、男は指先で左右の刺青の境界となっている眉間を掻き、続けてクロークの懐に手を入れて銀色の酒瓶スキットルを取り出した。

「それに、俺の戦いには下準備が必要だからね」

 慣れた手付きで銀色で装飾された蓋を開けると、スキーグは容器を傾け中に満たされた無色透明の液体を石材の床に垂らす。

 その液体は小さな飛沫をあげ石床の上を広がってゆき、ところどころで床を覆う砂へと吸い込まれてゆく。

「これは……」

 腰を下ろしていたススリが素早く立ち上がった。

 驚愕によってか、液体を見下ろすその瞳は今までになく大きく見開かれている。

 広がった液体の一部はひとすじの道となりススリの足元近くまで伝わっていったが、この水読みの娘は慌てたように足を引いて液体の行進を避けた。

「すぐにこの水が何か気づくってことは、あんたが水読みの巫女というのは間違いないようだ」

「貴方は……」

 下を向いたまま、娘の形のよい唇がかすかに動く。

 ――スウィッガー。

 そう呟いた途端、ススリの全身から凄まじい敵意が噴出し始めた。先ほどまでたたえていた優美さや気品がものの見事に剥落し、娘の素地とでも呼ぶべき獣性は全身にとぐろを巻くようにみなぎってゆく。

 一方のスキーグは興味深げに自身への殺気を纏った娘の姿を見ていた。その態度が更に闘争心に火を付けたのか、ススリは無言のままゆらりと上体を起こし魔術師へ向き直る。

 ――しかし、彼女と相対するスキーグが発した声は状況に反して静かなものだった。

「水読みなら分かるだろう、俺はまだ『あんたたち』の敵じゃない」

 刺青に覆われた魔術師の眼には皮肉に満ちた笑いも敵意の険しさもなく穏やかだ。

 ススリは暫く棒きれのように佇立したままスキーグを睨んでいたが、やがて何かを悟ったのか、滾った頭を冷やすかのようにベールに覆われた赤い髪を振るった。

「確かに、あなたは敵ではない……」

 か細い声で呟き、

「今は、まだ――」

 そう付け加えると、ススリは深い吐息を落とす。

 このとき彼女の右前方、スキーグが最初にスキットルからに水をこぼした箇所が、なぜかまったく水に濡れていない。そのことに水読みの娘はまだ気づいていなかった。

 そして、それを悟らせぬかのようにスキーグは沈黙を妨げる。

「『毒を以って毒を制す』。これが俺たちの仕事なんだ、だから今は信頼して欲しいね」

 こんなことをしても――。

 男の最後の言葉にススリの美麗な眉が上がる。刺青の魔術師はスキットルを素早く懐に戻し、革手袋に包まれた指を鳴らした。

 その途端、広間をほのかに照らしていた光球が弾かれたように消滅した。

 ススリの身体を一息にして飲み込もうとするように押し寄せた闇があたりを覆い隠していった。



つづく


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