1 尖塔の遺跡

第1話


 真の暗闇には果てというものがなかった。

 しかし、いま彼の目前にある闇は決してそうではない。

 そのことを思い出すと、窓についたつゆをぬぐうように不安が失せてゆくのを彼は感じる。

 空気はひび割れたように乾き、彼が深く呼吸すると喉の奥をかすかに辛くさせる。先ほどまで何度もくしゃみをしたせいで、鼻がすっかり利かなくなっている。

 目の前は尽きることのない闇ばかりで、彼の頭上を浮遊する光球の青白い灯がなければ足元もおぼつかない。

 しかし、模造された、と言ってよい、その闇について彼は恐怖を覚えたりしない。

 闇とは決して作られるものではないということを知っているからだ。


 ――アラヤ、という彼自身の名前に、彼はいつも自己を満足させる余韻よいんを感じられなかった。

 現在、彼がひたひたと歩いている石造りの床のように、表情というものがない名前だと感じる。

 友が彼を呼ぶ名もまた、どこかのっぺらぼうのようで、自分ではない幽霊を呼んでいるかのような錯覚を起こしかける。アラヤの名を知る友は彼の後ろを歩いている。

 彼の歩く世界もまた、彼を表情のないものとして扱っている。少なくとも、今は。

 アラヤが軽く踏みしめた砂は、地上に分厚く堆積していたものが地下深くこの場所まで溢れだしたものだ。

 塩の粒よりも細かな粒子の砂が、石材の上を波濤はとうのように覆いかぶさっている。その圧力に敗れたのか、所々で噛み合いのずれた大きな石材が突出し、彼ら一行の行く道を塞いでいる。

 ここを発見した者が崩落防止のためにと考えたのか、天井と床のあいだに木材を噛ませていったようだ。しかし、それもほんの入口近辺までのことだった。

 太陽の光は冷たい波際から足を引くように見えなくなり、崩落の危険にさらされながらも彼ら四人の歩みは止まらない。

 慎重な足取りで彼ら四人はるか昔に造られたという構造物の中を進んでいる。

 この場所へと潜り込んだ時はまだ朝日が登ったばかりだったが、既に外の世界は夜になっているだろう。

 入り口近くに設営されたキャンプでは、暇を持て余した商団付きの傭兵たちが塩漬け肉をさかなに酒をひっかけているに違いない。

 その光景を思い浮かべたアラヤは身勝手にいきどおった。

 ――どうして僕までこんな穴蔵に引っ張り込まれなきゃならないのだ。仲間たちの収穫をキャンプで待っている、それではいけなかったのか。

 それを考えても遅きに失したことだが、特に探索に力を発揮するわけでも、重要な戦力になるわけでもない彼にしてみれば、探索の一行に彼が連なっているのは不思議なことだった。

 アラヤの頭上に浮遊している青白い光球は、彼らの進むべき方向へ光を絞って道標としている。

 魔法で召喚されたこの光球のおかげで、炬火に手を塞がれることもなく、燃剤の交換や手入れに時間を割かれる心配もない。

 その光球の明かりが、天井の切れ目を照らし出していた。それは歩いてきた通路がそこで途切れ、四人が別の空間に出たことを意味していた。

 ぱらぱらと石造りの高い天井から砂粒がこぼれる。露出した石床へ落ちたひとすじの砂粒は、それまでに比べて辺りへずいぶんと大きな音を反響させた。

 ――チッチッ。

 短い間隔で二度。今いる場所に不似合いな、小鳥のさえずりのような高い音。それは先頭を行く、槍を小脇に抱えた長身の少女が舌を鳴らした音だった。

 この少女は音で合図を送ったのち、背中を丸め姿勢を低くして前方の広間を凝視している。光球の明かりが、むき出しの膝をほのかに照らし出す。

 後頭部で短く結わえられた沙色の髪は、アラヤの眼からは度々少年のもののような錯覚を起こしかける。細身の槍を抱えていながら、鎧や兜などといった身を鎧う装備は一切つけておらず、身軽な衣服から覗く褐色の肉体はしなやかで、露出した長い手足はいかにも少女の俊敏さをうかがわせた。

 この少女の名前をケドバという。アラヤは少し熱を籠めた視線で少女の背中を一撫ですると彼の背後へと首を巡らせる。

 後方を歩く二人はケドバの合図を受けて、その歩みを止めていた。

 一人はクロークを纏った長身の男であり、もう一人の娘はまるで探索に似つかわしくない薄手のチュニックを身に帯びている。

 娘の、くせのない長い赤毛は、そのほとんどが薄絹のベールで覆われており、一見して場違いと思われるほどの優雅さを周囲に漂わせていた。

「どうやら今よりも広い空間に出たようだ」

 男がそう言い、クロークの肩に落ちた砂粒を軽く手で払う。

「今の、あの舌打ちで分かったのですか?」

 怪訝な面持ちで男に尋ねた娘は、ケドバよりも幾つか年上に見える。

 男からの返事を期待していないのか、娘はふわりとその場に膝をつき、透けるような白い指を石の床に付けた。

 アラヤは、このベールの娘について多くのことを知らない。

 名前はススリ。水読みの巫女と呼ばれる異能をもつ民のひとりだというが、アラヤはその『水読み』でさえ、何を意味する異能なのかを知らなかった。

 彼はこの地において完全なる余所者であったから、未知の物事に対しては警戒心と同程度には好奇心を掻き立てられた。そしてその好奇心の一端は間違いなくこのススリという名の場違いな娘に向けられてもいた。

 しかし、アラヤには自己の好奇心を満足させるより優先しなければならない事柄がひとつあった。それはアラヤにとってこの上なく切実な問題で、こうして暗がりを歩いている間にも状況は刻一刻と悪化していたが、持ち前の陽性の気質からか、アラヤ自身には特別な恐怖や不安というものはそれほど多くはなかった。

 ススリは石の床に手を付けたまま、じっとその眼を閉ざしている。

 その仕草には冒険者気取りの流れ者などとは一線を画す、生まれついての優美さのようなものがあり、それを認めたアラヤは不覚にも娘の所作にうっとりとした。

 アラヤの含みのある視線に気づきもしない水読みの娘は、やがて大きな瞳を開き、しなやかな動きで立ち上がる。

 その視線はひとつ所へと注がれていた。

「……間違いありません。そう遠くない距離です」

 あそこにひとり。

 そう言うと真っ直ぐに細長い指を伸ばした。

 それは、先頭に立つケドバを越えた先の深い闇を指し示している。

「ひとり、というのは話に出た傭兵のことか?」

 クロークの男が問い質すと娘は小さく頷いた。

「そいつは水源と同じ場所にいるのか?」

 重ねて問い質した男が疑わしげに眼を細める。

「……間違いなく同じ場所にいます」

 水読みの娘が気だるげに答えると、男は思案でもするように顎先に指をあてた。

「だったら、目当ての水源までは楽に行けそうじゃないか」

「ですが障害となるものがないと決まったわけではありません」

 そう苦言を口にしたススリに、前方で哨戒に就いているケドバがついと横顔を向けた。クロークの男が口の端を少し上げて笑みを見せる。

「どうも、俺の連れは遊びたがっているみたいでね」

 この男の言葉を把握しかねたのか、娘の美しい眉がかすかにゆがんだ。

「いま何と?――」

「あんたの仕事の迷惑にはならないよ、水読みのススリさん」

 男が革手袋に覆われた左手で指を鳴らすと細身の槍を脇にした少女の影が嬉しそうに両肩を弾ませた。

 ススリの元を離れ細い通路の先まで歩み寄ると、男はケドバの左に立った。そして少女の髪を叩くように撫で、おもむろにクロークのフードを脱ぐ。

 緑がかった黒髪から覗く顔には、左右のこめかみを中心にそれぞれ意匠の異なる赤と青の刺青が入れられている。この男の異様な相貌は、ススリに一瞬だけ息を呑ませた。

「……世に魔術師(ウィザード)と呼ばれる人々は、貴方のような方ばかりなのでしょうか、スキーグ殿」

 ススリが漏らしたつぶやきには困惑と同時に刺青の男を軽侮する冷たさが含まれており、それまで沈黙を守ったまま二人のやりとりに耳を澄ませていたアラヤはにわかに棘を突き立てられた気分になった。

 スキーグと呼ばれた男の方はススリの声が耳に入らなかったのか、まるで小さな子どものままごとにでも付き合うように

「ちょっとだけ遊ぶぞ」

 とケドバに呼びかけ、自分は両手の革手袋をめ直し、確かめるように拳をつくる。そのあいだに彼の右側でケドバは槍の柄を短く持ち、穂先を通路の先の暗がりに突き出している。

 沙色の髪の少女に笑みを向けるとスキーグは左手の指を軽くパチンと鳴らした。その音と同時にそれまで彼らの頭上を照らしていた光球が動き出す。

 光球は青白い光を弱めながらゆっくりと広間と思われる方向へ進み、やがてケドバの肩を越え、通路の先へと進んで行った。光球の明かりによって前方の景色が鮮明になってゆく。

 現在三人がいる細い通路を抜けた先には確かに広間があり、突き当りは壁となっている。石造りの床には砂に混じって、黒く凝固した血だまりの跡が見える。

 広間の左右には細い通路がニ本ずつ奥へと続いており、ススリの指し示した先へ向かうためにはどちらかの道を進まなければならないようだ。

 それまで後方で見守っていたススリの息をつく音が聴こえた。

「何の遊びかと思ったら、ずいぶん無茶をなさるものね――」

 水読みの娘の声はそこで途切れた。彼女の眼が脇の通路から躍り出てくる小さな影を捉えたのだ。先頭に立つケドバはすでに細身の槍の穂先が床に着くほど低く構えている。

「ここが『ペット可』だったなんて話は聞いてなかったが、やっぱり居る所には居るもんだな」

 スキーグの口調は、状況に不似合いなほど穏やかなものだった。

 ぞろぞろと広間へ集まってくるその影の群れは、どれも人間の子供ていどの大きさしかない。

 青白い光球によって照らし出された『彼ら』の姿は体毛のまったくない犬や狼に似ている。

 しかし、ふだん目にする犬や狼とは違い、そのいびつな生き物たちは二足で立ち、人間の着るようなぼろ切れを纏い、加えて人間が扱う短剣や弓まで身に帯びている。

 それは、一見すると軍隊ごっこに興じる子供の集団のようでもあった。

「……不意打ちを思いつくような手合いでなくて、本当に良かったですね」

 水読みの娘は男の後方から顔だけを覗かせ皮肉めいたことをつぶやく。

「暗がりを好むコボルドの一種のようですが、大丈夫ですか?」

 ススリの物腰もやけに緊張感のないものだったが、スキーグとは違い彼女のそれはあくまで傍観者の目線に立ったものでしかない。それを認めたのか、スキーグは初めて声を立てて笑った。

「大丈夫。どっちにしろあいつらは満足に弓矢をつがえることもできん連中さ」

 そう言って笑みを納めた直後、スキーグの足元に一本の矢が突き立った。

 その矢は気の早いコボルドの一匹が引き絞った短弓によるものだったが、それを見たススリは口元を白い手で隠しと笑った。

「弓、ちゃんと撃てるじゃないですか」

「――きっと、あれがコボルト界で一番の射手だ。なかなかやる」

 コボルドたちが喚く威嚇の声を背にスキーグが水読みの娘へと振り返ったが、娘の方は相手にしない。

「私の迷惑にはならないと仰られたからには、約束は守っていただきます」

 そう言うとススリはさらに二歩、後ろへ退がり、その細い両腕をゆるやかに組んだ。ケドバが娘の方へ顔だけを向け、キィ、と小さく唸り歯を見せる。

 アラヤはずっとススリの近くにうずくまっていたが、にわかに体を起こすとケドバの背へ向けて走りだした。ススリという娘の持つ性質にふとしたかたよりを感じたせいもあるが、同時にスキーグたちの行動を見守るためでもあった。

 アラヤは不思議なことにこのふたり対してどこか保護者めいた義務感を抱いており、彼自身でもそのことに歯がゆさを覚えるほどだった。

「――じゃあその約束、謹んで守らせてもらいましょうか」

 スキーグが正面へ向き直ると、やがて敵の群れが動き始めた。

 一際身体の大きい、彼らの頭目と思しきコボルドの一匹が前に出て、甲高いときの声を上げたのだ。

 それに合わせて二足歩行の犬の群れは口々に声を上げ突貫を始める。

 通路の出口に立つケドバが手にした槍を素早く横薙ぎにして牽制するが、コボルドたちの突撃は止まらない。

 短剣を腰だめに構えた四匹のコボルドが唸り声を上げて突出してくる。石床を叩く爪の音の重なりが殺到する。

「お前は先頭だけをやれ」

 刺青の男は彼の右に立つ沙色の髪の少女へ口早に伝えると、胸の前で左手の指を素早く左右へ交互へ動かし、最後に額の前に指先をかざし、指がつくる輪の中へ息を吹き込んだ。その動作と間を置かず、青白い光を放っていた光球がコボルドたちの頭上で大きく膨張し、破裂した。

 光球だったものは白い煙となってコボルドたちの一群を覆う。

 しかし煙幕としては薄過ぎるのか、獣たちの足を止めるまでには至らない。

 そこから飛び出して突き掛かってきた二匹のコボルドに向け、ケドバは大きく前へ踏み込んで逆薙ぎに槍を払う。

 細身に見えた槍は凄まじい風切り音を鳴らしコボルドの首を二つ、切り飛ばした。そしてすぐさま深く槍を構え直し、三匹目の喉を刺し貫く。

 異変は直後に起こった。

 三匹のコボルドが即座に倒されるとすぐさま稲妻のような閃光が起こり、瞬時に一群の各々へと伝い走っていったのだ。

 この閃光はコボルドたちに狂乱の声を上げさせ、彼らを総崩れにさせた。

 さらにケドバの槍は二匹のコボルドを穂先に掛けている。アラヤが一呼吸するわずかなあいだにコボルドの群れは半壊していた。


つづく


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