滴下の城塞 シタタリノシタデル

雨之森散策

言祝の断章


 暗闇のなか、何かの滴る音が聴こえていた。


 少年の意識はすでに重たい覚醒を遂げており、彼は自分の身体が何かによって固く拘束されていることをおぼろげながら自覚していた。

 先ほどから、少年の鼻をかすかに刺激し続けている赤錆びたような匂い。

 雫の落ちる音。

 匂いの漂う、音の聴こえる、その出処でどころについて、少年が改めてぼんやり考えると、唐突に自分がひとつの大いなる恐怖と向かい合わせにいるのだということを少年は悟った。


 突如として少年の両脇からが重たい金属音が鳴った。

 なぜそんな音が?

 脳裏に疑問が湧いたが、それはすぐに氷解した。

 少年は彼の身体のためには太すぎる鎖によって手足を拘束されており、その鎖に繋げられた身体を少年は知らぬうちに激しく揺さぶっていたのだ。


「――ッ!」

 肺に蓄えられたありったけの空気を声にして彼が叫んだのは名前だった。

 名前はこの少年の最も大切な者を指し、彼の生きる意味そのものと言ってもよいほどに尊い存在だった。

 それが、命を終わらせようとしている。

 このとき、少年もまた同様のさだめを負わされていたが、少年から見れば自分の命さえ些末なことに過ぎなかった。

 かすむ眼をこらし、少年は前方を見つめる。

 鎖につながれた右手の指が、石造りの柱をなぞった。その柱はところどころにくぼみのあり、水に濡れているようだった。

 指先にぬめりを感じないため血ではないことは分かったが、これは少年の心の慰めにはならない。


「――――ッ!」

 さらに少年は叫んだ。

 肺が破れ、はらわたが潰れそうになるまで、彼にとっての貴い名を呼んだ。

 しかし返事はおろか、むなしい木霊こだまのひとつさえ少年の元には返って来ない。


 世界中の人間が、彼一人のみを残して死に絶えてしまったような静寂。


 どこかで滴り落ち続ける雫。


 ――そして濃密な血の匂い。


 それらが暗示する答えは、ずっと彼の眼前にぶら下がっていた。


 暗闇のなか、炬火きょかかれた中央には、一人の女が逆さまになって柱に吊るされている。

 女の左腰部には赤い血によって出来た濃い染みが衣を覆っている。

 両足首を縛り付けられた姿は決して少年の視界から遠くにあったわけではなかったが、少年の眼はその女の姿をとらえることはない。

 女は脱力しきったように二本の腕をだらりと真下に向かって垂らしていた。

 そして指先からは伝ってきた赤い一筋の血がしたたり落ち続けている。


 少年は、現在自分の身に起こっていることと目の前に吊り下げられた女の姿に、正しく思考を構築する力を奪われていた。

 一挙に押し寄せた恐怖と混乱は一時的に少年の眼を暗くし、その認識にさえ濃いかげを差したようだった

 やがて炬火の明かりが揺れ、吊るされた女の側に一人の男が立った。男は兵士と思しき数多くの者たちを引き連れていた。


「火を掲げよ」

 左右の者にそう命じると男はその場に腰を下ろし、上下逆さになった女の頬に手を伸ばした。


「あな、たは……」

 声にならない怨嗟えんさに似たうめきが女の喉から吐き出される。

 男は黙したままで暫く女の頬を愛しげに撫でていたが、唐突にその手を引き込めると女に背を向け立ち上がった。

 それとほぼ同時に、少年の視界を晦ませていた視界が一斉に開かれた。

 両脇に立った兵士が手にする炬火はそれまで暗闇だった空間を煌々と照らしている。彼らはみな同じように黒い頭巾によって顔を隠している。 


 少年はようやく自分が置かれた状況を理解するに到った。

 彼の左右には、彼と同様、鎖に手足を拘束され自由を奪われた夥しい数の少年少女たちが、柱に吊るされた逆さの女を中心に、ぐるりと真円を描くよう配置されていた。

 彼ら、彼女らの多くはまだ気を失っているのか、声を上げる者の数は少ない。

 少年は彼らの中から少年が求める物の姿を探しそうと向こう側へ目を凝らしたが、炬火の明かりは彼らの上半身までは鮮明にせず、顔をうかがい知ることができない。

 その間に『儀式』は次の段階を迎えていた。


「我が婦(つま)を迎えようぞ」

 男は身振りを交えて部下に命令を下す。静かな熱狂が男を高揚させているのか、男の声には先程よりも濃い喜悦の響きがあった。

 しわぶきのひとつもなく、男の命令に従う黒い頭巾の兵士たちが吊るされた女の周囲を取り巻く子どもたちの顔に、次々と何かを塗ってゆく。

 そうされたことで彼らもようやく正気に返ったのか、すぐさま凄まじい音声が空間に響き渡った。


 悲鳴や怒号、あるいは男を呪う声。

 まだ十代もなかばの子どもたちはそれぞれありたけの声を振り絞って叫びを上げる。

 その悲痛な喧騒の最中、やがて少年の顔にも脇に立つ兵士の手がべったりと押し付けられた。

 どろりとした生臭い液体が口の中にまで侵入し、反射的にそれを吐き出す。

 ――血を、顔一面に塗りたくられたのだ。

 すぐさま少年はそれを理解し、彼もまた迷妄の淵からにわかに立ち返った。そしてすぐに彼の左脇に拘束された子どもの顔にも同様の血が塗りたくられた。

 拒もうとして暴れたのだろう、鎖の鳴る音が少年の聴覚を打った。

いやァッ!」

 少年の左側で起こった悲鳴は少女のものだった。それの声が彼の探し求める名の少女だとすぐに少年は悟った。

「無事か! ケガはないか?」

 少女の顔を確認しようと少年が身をよじるものの、石の柱と兵士に阻まれて姿を見ることはできない。

 少女の方は少年の声を聴いたことで少しだけ安心したのか、かすれかかった吐息をらした。


「大丈夫、すぐに助けるから」

 可能かどうかなどに関係なく、少年はただひたすら名前の少女を安心させるためだけにそう言った。

「……ここはいったいどこなの? それに私たちどうして鎖に繋がれているの?」

 少女が恐る恐る口にした疑問に少年はすぐに答えることができず、黙り込んだ。

 沈黙が、それだけでひとつと答えとなったのか、石柱の向こうで少女のすすり泣く声が聴こえ始めた。


「天蓋を開け」

 中央に立つ男が、子どもたちに血が塗られたことを確認し、手を挙げて次の命令を下した。

 そして、ようやく炬火の照らす中央から歩くと外周の壁に貼り付けられたように拘束されている少年たちへ歩み寄った。


「同じ年、同じ土、同じ水に生まれ育った我が国の子らよ――」

 男は喜びの籠もった力強い口調で続ける。

「とうとう今夜、我らが真の絆で結ばれる時がきた」

 熱狂を帯びてゆく声に反して顔に血を塗られた子どもたちの恐怖はせり上がってゆく。

 壁に貼り付けられた子どもらは口々にわめき、呪い、母の名を呼んだ。


「かならず、かならず助ける。かならず……」

 少年はうわごとのように名前の少女に向かって繰り返した。


 やがて、石造り天蓋が少しずつ横へずれるように外され、ぽっかりと開いた窓から月の光がさし込んで来る。それは炬火よりも遥かに明るく、男が光のなかへ消失したと錯覚するほどに眩いものだった。

 しかし男の声は光のなかでとどろきを増した。


「さあ、今こそ我が子らを父祖の元へとかえすとき」

 腰にいた剣を鞘から抜くと、その切先を吊るされた女に向ける。

 女はすでに意識を失ったのか、顔を蒼白にしたまま微動だにしない。


「……かならず、助ける。きみを絶対に守る」

 少年は同じ言葉を何度も何度も繰り返し呟いていた。兵士に押し付けられた血は額から滑り落ち、すでに少年の胸まで濡らしている。


 ――おかしい。

 混乱の際にある今、少年に新たな疑問が浮かんだ。

 顔に塗りつけられた血の量はわずかだったのに、なぜ胸まで濡らすほどに血があふれて来るのだろう?

 そして、少年はようやく流れ出てくる血が、少年自身のものであることに気づいた。それは少年の血が、塗りつけられた血によって体内より呼び出されたかのようにだった。


 彼の左側に捕らわれている少女はもう声さえしない。もう気を失ったのか、それとも血を流し尽くしたのか。

 それでも少年は繰り返しつぶやいた。

「かならず、かならず……守る」

 繰り返せば繰り返すほど、言葉に力が宿り、強くなる。

 そう盲信でもするように少年はつぶやき続けた。


 一方で血を塗られた他の子どもたちの悲鳴は最後の高まりを見せていた。男は月をいただくように抜き放った剣を頭上に掲げ、叫んだ。

「さあ我が婦(つま)とならん者よ、天より来よ。ここに肉を得よ!」

 言葉の終わりに、剣を女の首へと振り下ろした。

 血を流し果てた女の青白い首がごろりと石床を転がる。祈りを籠めた少年のつぶやきはそこでぷつりと途絶えた。

「母上」

 震えとともに搾り出されたその声とともに少年の視界は赤黒く染まっていった。


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