差異

***

 せんせい。イオレは口の中がからからで、喉が貼り付いていた。声も出ないし立ち上がることもできない。膝が笑っている。腰がすっぽ抜けて、力が入らない。下半身が自分のものではないみたいだ。

 紅い上着を脱ぎながら、ピアは青い上着の数人へ指示を出す。手早く、きびきびとした言動は、普段事務所にいるときとは違った。イオレは数回しか見たことが無い――仕事をするときの、どこか〝現場〟に行ったときの様子だ。アレイシアはピアのこの姿が好きなのに、ピアは滅多にこのスイッチを入れることがない。イオレだってそうだ。こんな師匠を尊敬している。

 だけど、これはなに? 青い上着は魔術師団の証だ。ピアが王宮と同じくらい毛嫌いしている、魔術師団の。なぜ。どうしてそんな連中と一緒に、しかも連中に翼と暮葉を引き立たせたりして。

「イオレ、」

 師の声にぞっとした。一瞬で背がぎとぎとにあつくなって、汗をかいて、冷えた。声の調子は変わらない。

「そんなに怯えなくてもだいじょうぶ。あなたは私の弟子でしょ。たったひとりの」

 ずかずか、ピアが近づいてくる。イオレは掌で床を搔いた。後ろへ。少しでも遠くへ。でも背中はドアにぴったり貼り付いていて、鍵は少し前にこの手でかけ直した。たとえ届いてもすぐには開かない。逃げられない。背に感じる硬さが冷たい。

「落ち着いて。よほど怖かったのね」

 もう大丈夫。ここは安全。ピアは猫なで声でささやく。手が伸びてくる。近づいてくる。避けたいのに、身体が強ばって、少し身をよじれただけだった。それでもピアの手から肩を避けることはできた。

「なんでも恐ろしく見えているだけ。ほら、だいじょうぶ」

 だいじょうぶ。言い聞かせる師の、少女のかたちをとった手が頬に触れる。さする。ゆっくり、親指が眼の下をなぞった。もしかして、泣いていたのか。そんなつもりはなかったのに。頬にじんわり熱が伝わってきて、固まっていた顔が溶けていくみたいだ。そうしてみると肩の力が抜けて、身体がずっしりと湿って重たいことに気がつく。

「もう大丈夫ね。良かった、みんな散り散りになっちゃったからあなただけでも確保できて」

 散り散り。確保。なぜだか言葉のひとつひとつが気になったが、急に頭まで重たく、思考にもやがかかったみたいだった。

国境には母がいた。ピアも国境に向かって行ったのを見た。そういえばなぜ、事務所にアレイシアの姿が見えないのだろう。東もいない。暮葉と翼はなぜ捕まっているみたいになっているのか。

「本当に大変だったわね。でも大変なのはこれからよ。ひとまず今は休んで、後で話をしましょ」

 状況はおかしい。この師が、なにかしている。

 それを自分は知らないでいる。どういったことなのか、意味は、良いことなのか悪いことなのか。目の敵にしていた魔術師団とつるんで、翼と暮葉を捕らえている様子からでは悪いことに思えるのに、ピアの表情はただ真剣なだけに見えた。心から心配してくれているみたいな眼に見えた。そのちぐはぐさが気持ち悪いのに、一睡もしていない頭が考えることを止めている。

「あ、でもこれだけ。颯、お母さんはね、残念だった。私も手を尽くしたんだけど、助けられなくて」

「ざんねん? それって」

 からからでぴったりくっついていた喉から声が出た。震えた、弱い声だ。

 ピアは答えない。手が更に頬をひと撫でして、あっけなく離れていく。背を向けてすたすた歩いて行く師匠からは、思いやりの欠片も感じられない。それは、つまり。

 つまり。頭の中にいくつもの可能性と仮説が並び立つ。その膨大さが自分を叱責してくれているような、今すべきことを示してくれているような気がした。身体は重いが、思考にかかったもやは晴れた。

 確かめなければならない。師は、母を見殺しにしたのか。

 そして、許すことはできない。母のためか、自分がただ知りたいがためか、どちらなのかは今どうでもいい。

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