母親の選択
***
国境から十キロは緩衝地帯になっている。国家間の取り決めで原則立ち入り禁止だ。緩衝地帯ぎりぎりの位置に軍の国境警備隊基地がある。最も近い町からは十数キロ離れており、この小さな町は都市部からもかなり離れていた。
颯が応援として着いたときには、基地は既に浮き足立っていた。
王宮直属の特権を濫用しても軍の魔術部隊に割り込むことはできなかったために、ここに来る羽目になったのだった。
王宮魔導師イオレ・ローレンツが軍の魔術部隊と近くの町を陣取っているらしい。なぜこんなところで実験なんか。そこかしこで囁かれる言葉には心から同意する。広い場所が必要だから、らしいが、だからといって緩衝地帯ぎりぎりは隣国を刺激する。馬鹿は王宮か、議会か、軍か、魔導師か。賭けの一番人気は魔導師だ。大穴は議会だった。
国境警備隊が浮き足だつにはそれで十分だった。加えて、颯という火種が来てぴりぴりしている。
東の国境は颯が大きな戦果を挙げた最初の戦場だった。当時激戦区と呼ばれたこの一帯の戦線維持を一人でしていたと言っても過言ではない。何人殺したか分からないくらいだった。だから、隣国の憎しみを一身に受けている。見つかったら小競り合いになりかねない。そんなつまらない事態を嫌って、軍も近づけたがらず、颯ももう来ないつもりだった。
だがイオレのためだ。あの子がここで何をさせられようとしているのか、確かめなければならない。娘の父親と探り突き合わせた情報によれば、軍はイオレの研究を軍事利用するためにピアの弟子を辞めさせ、名誉と研究設備・費用で操り、彼らが求める魔術を開発させた。
その最終実験をわざわざ、緩衝地帯ぎりぎりの、ここで行う。これまで近づけたがらなかった東の国境の英雄をみすみすここに遣った軍か、その後ろにいる議会かは戦火の再燃を企んでいるに違いない。そのきっかけを、娘にさせるつもりなのだ。
王宮魔導師でありながら、王宮と対立する軍とつるむあの子には味方がいない。唯一味方になり得るピアはあちら側だった。
あの子を利用などさせない。この命の危険など知った事か。娘の父親はそんなことを気にした風も無かった。今頃こちらを気にも掛けず、榊麻耶を締め上げているだろう。
がらがら、昼過ぎになって、二台の馬車が警備隊の検問を通った。馬車と言っても馬に引かれていない馬車だ。鮮やかな青色の馬車で、手続きに降りてきた男も同じ色の上着を着ている。遠目からでもすぐに分かった。早坂。
アレイシアを魔術師団とかいう、民間の魔術師組織に引き抜こうとしている男。あの荷台の中にピアがいる。アレイシアはどうしたのだろう。馬車がここを越えたら、いくら魔導師の助手でも後を追うことはできない。国際問題になる。
アレイシアのために足止めするべきか?
自分にならできる。しかし、その後は? ここで騒ぎを起こしたら国際問題になるのは自分も同じだ。そうしたら娘を陰謀の渦の中から救い出すことはできない。
選ぶべきはどっちだ。暮葉を救うのに必要なピアか、実の娘か。
ピアとの約束を思い出す。「大切にして。弟の彼女よりも」そう言ったピアの顔を。声を。あの悔しさを。
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