魔術概論


「魔術は命令式の集合によって成り立っています。ある物質を変化させようとするときに、物質に直接働きかける粒子に対してその命令を行う。命令を受けた粒子は命令の通りに物質に働きかけ、物質が変化を起こす」

 午後、アレイシアが時間を作ってくれて魔術の説明をしてくれることになった。

 だが翼にはアレイシアの言うことがさっぱり理解できない。隣で同じく聞いていた暮葉も頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいた。

 うーん、アレイシアが唸る。本当はイオレに講義を受けるつもりだったのだが、仕事の都合で急にしばらく来られなくなったと言うのだ。

 そのためアレイシアが無理矢理時間を作って、魔術について教えてくれることになったのだった。彼女はこんなことになるとは思ってもみなかったわけだから、話がうまく運ぶわけもない。

「ええと、そうね、私たちの眼には見えないけど、すごく小さな粒子が空気中にいるんです。これは魔術粒子というのだけど、この粒子は人間の意思や命令に従うことができます」

 魔術という割にはなんだか科学っぽい仕組みだ。通っていたうちに入らない高校の授業で聞いたような話に似ている。暮葉はわかっているのかいないのか、曖昧に頷いた。

 アレイシアは心配そうに話を続ける。

「例えばこの粒子に、ええと例えば――この、コップを持ち上げるように命令すると、よいしょ、と持ち上げてくれます」

 整頓された机の上にいたコップを一度手に取り、再び置く。アレイシアの「よいしょ」に合わせてコップが数センチ浮いた。

「すごーい!」

 暮葉が手を叩いて声を上げる。コップをまじまじと見て、机とコップの間に手を入れたりコップの上に手を行き来させたりするが、手になにも付かず、コップにも変化はない。仕掛けはなにもない。

「手品みたい!」

「今は持ち上げる、という単純な命令だけど、火をおこす、とか、ものを壊すといったことは命令がかなり複雑になります」

「え? どうしてですか?」

 アレイシアはその反応に気をよくしたらしい。ふふふ、笑って、

「ものが燃えるのはどんな原理だか知っていますよね。それを全て魔術粒子に命令して実行しなければいけないからです。実は持ち上げる、という命令にも、持ち上げるためのエネルギーをどう生み出すのか、といった細かな命令が必要になってきます」

 つまり粒子に酸素供給まで命令しなければならないということだろうか。

「じゃあ、魔術を使う人は皆そういう原理を覚えているってことですか」

「そうなるわね」

 翼は暮葉と顔を見合わせる。イオレは確か、十七歳だっただろうか。それなのに世の中のあらゆる現象の原理を知り尽くしているのか。

「そうはいっても、そうね、例えば魔術で料理をしようとしたら、材料を切ったり洗ったり、火を点けて炒めたり・・・・・・膨大な命令が必要になることは分かってもらえたと思うけど」

 なおも不安げなアレイシアに、それ位ならと暮葉が頷いてみせる。

「だから発火なんかはあらかじめ頭の外に作っておいたりするの。大規模な魔術を使うときは命令を分割して最後にまとめるのが普通ね」

「頭の外?」

「そう。ブロックごとにわけて、導火線で繋げる。最後に命令となる火を点けて爆発させる。つまり発動させる」

 急に魔法っぽくなってきた。その落差に暮葉はぽかんとしている。翼は早々に話に付いていくのを諦めることにした。人生諦めが肝心だ。自分に勉強が向いていないことはとっくに分かっている。

「魔術の難しいところは命令よ。魔術粒子に命令ができるかどうかは天性によるところが大きくて、感覚を掴むのはかなり難しいとされているわ」

 ええー。暮葉がげんなりした声を出す。

「だから、翼君が魔術を習得するのはかなり難しい。でも、その点暮葉さんは無自覚だけど召喚ができるから、努力次第で習得が可能よ」

 暮葉を生暖かく見守ることにしたのを察知したらしいアレイシアが、こちらにたしなめるような眼を向ける。

「召喚こそ特別な才能というか適正がないとできないの。逆に言えば、適正があれば知識が無くても感覚で召喚が出来る。暮葉さんは今この状態ね。だからまず、感覚的にしていることの仕組みを知るところから始めましょう」

 うちにある一番易しい本よ、と一冊の本が暮葉に渡されるものの、五センチの厚みは暮葉には十分厚すぎる。きっと捨てられた子犬みたいな眼をしているに違いない。彼女の後ろ姿だけでわかる。肩を落として見上げられたら、少なくとも翼はお手上げだ。

 アレイシアはそれを見て可哀想になったのか、大きく息を吐く。

 じゃあこれでいいから。言って出てきたのは一冊のよれたノートだった。

「伝説のノート?」

 ピアの茶化した声が物陰から飛んでくるが、アレイシアは鉄壁の笑顔でそれを黙殺した。

 ピアとアレイシアの間は朝からずっと冷戦状態だ。それでも二人はきちんと仕事をする。だが雑談はしないし、アレイシアは不味いお茶を出す。

 暮葉はそれを分かっていなくて、無邪気に感嘆の声をあげる。

「魔術学校を主席で卒業したイオレのノートよ。異人さんにも分かりやすくまとめてあると思う」

 主席卒業。これまでのアレイシアの話では、魔術で重要なのは適正だ。この世界の出身でもない翼にはない。暮葉にあるのはすごく特別なことだ。だがそんな中で、イオレは魔術学校を主席で卒業したというのか。そんなイオレのノートは確かに伝説だろう。

 そんな中、事務所に颯が顔を出した。連絡も指示も寄越さなくなったのは、二日前、兄に会ってからだ。

 暮葉がここぞとばかりにいそいそと本を置いて茶を淹れに行く。

「あれ、最近見なかったけど」

「たまたま会わなかっただけだろう」

 避けていたのを隠そうともしない。その態度に不信感が募る。

 ふうん。これ見よがしに苛立ちを込めて言うと、

「こっちはどうだ」

 そっちは。反抗心に火が点いて、つい突っかかってしまう。お茶を持ってきた暮葉がびっくりして固まる。颯は気にも止めずに、

「てんやわんやだ。王宮の警護ですら人数がぎりぎりなのに復旧工事の警備までやらされている」

 ため息をついて暮葉からカップを受け取り口を付けた。確かに颯はたったの二日で少しやつれた。顔色もよくない。仕事が忙しいのは嘘ではなさそうだ。

「それより、竜のことに集中してくれ。ピアと話はついているから、他のことは気にするな」

 予定はピアの独断だと思っていたら、ピアと颯の間で話が進んでいたのか。

 颯は座りもせず口を付けたカップをテーブルに置く。その手が、テーブルの上のノートに気付き、指が縁をなぞった。表紙には名前が書いてある。瑠璃環。

「イオレちゃんのノートだって。今、アレイシアさんに魔術を教わってて」

 すかさず暮葉が口を出す。翼にはとっさに出る言葉がなかった。颯と環は、生き別れた母と娘だ。颯が知らないイオレの痕跡が、アレイシアとピアの間には多い。このノートは、イオレが説明用に持ってきたものだったが。

「学校を主席で卒業したんだって。伝説なんだってさ」

 颯は表紙をなでるばかりでページをめくりも、持ちもしない。助け船、もしくは後押しのつもりで言った言葉にも、彼女はふうん、と答えるばかりだ。

 どうもー。間延びした男の声が事務所に間抜けに響く。朱伊だ。甘ったるいにおいが空気を塗りつぶす。彼が妹を眼で探しながら入ってくるのを、アレイシアは助かったと言わんばかりに迎え入れた。

 颯が殺意のこもった眼で睨んでくるのを無視して、翼は朱伊に手を振った。普段なら絶対にしないが、やむを得ない。確かめたいことがある。

 朱伊は取り繕っているが、一瞬で不機嫌になったみたいだった。こっちは良い気分だ。

「態度まで似てきたな。胸くそ悪い」

 イオレの気持ちが分かる。確かに、兄と同じ色で良かったと思ったのは初めてだ。

 颯は素知らぬ顔で距離をとる。今朝届いた大量の紙束の向こうで、ピアへ何か渡しているみたいだった。アレイシアがそれに引き寄せられていく。

 颯が朱伊を避ける意味が分からない。もしも、仮に、兄とよりを戻していても、平然と会うはずだ。避けるなんてそんな怪しまれるような行動はとらない。

「颯があいつと会ったの知ってる?」

「もう関係ない」

 爆弾を落としたつもりだったのに、拍子抜けした。不機嫌に輪がかかっただけだ。

「関係ない?」

「どこに行ってもあおい髪を探してる。どこでも、いつでも。俺でもうんざりする」

 妹が呼び止めるのも聞こえていない様子で、彼は表側のドアから出て行ってしまった。

 信じられない。朱伊が、颯に愛想を尽かした。朱伊が。あの朱伊が。そもそも颯だってあいつに惚れ込んでいた。やめろと言ったのにここまで連れてきておいて別れるとは。身勝手にも程がある。

 翌日、事務所からの荷物を届けた道すがら、王宮でイオレとばったり出くわした。

 詮索するなと釘を刺されると逆に気になって仕方が無い。最近颯を王宮で見るか尋ねる。

「母さん、こき使われてるみたい。新参者だし、王宮魔導師の母親だから仕方ないかもしれないけど」

 紅い上着を羽織ったイオレがやけに立派に見える。この幼い頭の中にどれだけの知識が詰まっているのだろう。

「夜勤が連続してるとか?」

「それはないと思うなあ。私ここ数日泊まり込んでるけど、夜は見かけなかったよ。どうして?」

 また急に怪しく思えてしまう。脳裏に兄の顔がちらつく。あの二人は何を取引したのか。

「最近事務所に来ないからさ、忙しいのかと思って」

「あれ、そっちに行ってるんじゃないの? 何日も寝てないみたいな顔してるからてっきりそっちで何かやってるんだと思ってた」

 あやしい。二人の意見は合致した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る